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主日共同の礼拝説教

キリストに結ばれた者

2018年7月29日
和田一郎副牧師
創世記1章26~31節
コロサイの信徒への手紙2章18~19節

はじめに

コロサイの信徒への手紙を書いたパウロは、今日の聖書箇所18節で「信仰生活において注意すべきこと」と、19節は「教会が信仰生活で大切である」ということを語っています。はじめに18節、当時のコロサイ教会のクリスチャンに向けて「注意しなさい、気を付けなさい」とパウロが勧告した、当時のユダヤ教的な間違った教えを見ていきたいと思います。

1、一体性を失ったユダヤ教

旧約聖書が最後に書かれてからキリストが現れるまでの期間を「中間時代」と呼びます。この期間は神様からの預言の言葉が聞かれなかった「空白の四百年」と呼ばれることもあります。この時代はユダヤ人にとって大混乱の時代でした。アレクサンドロス大王によって、ユダヤを含めた地中海周辺の諸国は征服されて、時代は一変していきます。続いてローマ帝国が地中海周辺国を制覇して、ユダヤはローマ帝国の属州となるのですが、ユダヤの社会は暴力と不安が支配していきます。この時代に、ユダヤ人の信仰は一体性を失っていました。ファリサイ派やサドカイ派といったさまざまな宗派が生れたのはこの混乱の時代でした。その中で勢力を二分して争っていたのが、ファリサイ派とサドカイ派でした。サドカイ派は、祭司やお金持ちの富裕層で構成された宗派で、神殿礼拝を信仰生活の中心として、保守的傾向が強かったのです。そして、彼らは死者の復活を信じない、天使の存在も、霊的な存在も否定し続けた宗派です。目に見えるものがすべてで、政治的なことに関心を寄せていました。
もう一つの、大きな勢力だったファリサイ派は祭司や、職人、商人、農民まで幅広い人たちで構成された宗派です。彼らはモーセ五書と合わせて、ラビと呼ばれる律法学者が、口伝えで教えてきた口伝律法も重要だとしていました。彼らは実生活とは遠い感じのあるモーセの律法より、口伝律法の言い伝えの方が、実生活の役に立つから重要だとしていました。福音書の多くの箇所では、ファリサイ派とサドカイ派の人達は並んで出てきます。しかし、ファリサイ派とサドカイ派の性質はまったく違ったものでした。イエス様やパウロが活躍した時代のユダヤ人の信仰は、統一性を失って、宗派ごとに対立した時代でした。彼らはサマリア人のような周辺の部族を蔑んでいただけではなく、内部でも対立していました。そうした激しい争いは、同じユダヤ民族同士で殺し合うということになりました。巨大な帝国に支配されている一方で、同じユダヤ民族同士でも殺し合い、庶民の生活は厳しいものでした。そうした中で、救い主であるメシアを待ち望む、メシア思想が高まっていきました。そこにイエス様が、お生まれになったのです。
コロサイの手紙2章18節で、パウロは「こういう人々は」と指しています。「こういう人々」というのは、ファリサイ派・サドカイ派、もしくはそれらの影響を受けた人達が、自分たち宗派の教えをコロサイ教会に吹き込んでいる。ユダヤ教的な思想を持ち込んでいる人に注意しなさいとパウロが注意を促しているのです。ファリサイ派のように口伝の伝承を重んじる人たちだったかも知れませんし、サドカイ派のように復活を信じない人達だったら、福音の真理を理解できなかったでしょう。ここには「天使礼拝にふける」とありますが、神様に近づくために、天使の力に頼って、天使そのものを礼拝するということがあったようです。イエスキリストの福音に何かを足したり、引いたりしていた人達がいたのです。時に彼らは、「幻で見た」といって、神秘的で特殊な自分の体験を誇りながら思い上がっていたのです。

2、偽りの謙遜

彼らはそういったことを、「偽りの謙遜」(18節)をもって、コロサイ教会に近づいてきたというのです。「謙遜」という人の在り方は、クリスチャンにとって重要な姿勢だと思いますが、パウロはここで、謙遜に見えても、それが本当の謙遜なのかを見極めなさいと注意しています。
「謙遜」という言葉を聞くと、イエス様が弟子の足を洗われた出来事を思い出します。イエス様は、人に仕える者になるという「謙遜」というものを、身をもって実践して見せたのです。「あなた達は、わたしの弟子になったのだから、キリスト者として、このような態度で、世の中で仕える者となりなさい。」と具体的な姿勢として見せて下さったのです。
聖書的に謙虚であるということは、自尊心を捨てるということではありません。イエス様が弟子に教えたかったことは、自己を卑下することではないのです。
「自分は受け入れられているのだ。自分はここにいていいのだ、愛されているのだ」と思える、「自己肯定感」や「自己受容」があると、人は心を安定させると言われています。自尊心と聞くと「うぬぼれ」ているようで誤解されるかも知れませんが、最近では「自尊感情」と表現するようです。「自尊感情」というのは聖書的な「謙遜」を考える上で重要だと思います。イエス様が教えようとした謙遜とは、自尊感情が前提にあると思います。旧約聖書の人物で「謙遜な人」といったらモーセです。民数記に「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。」(民12:3)とあります。
モーセは大きな挫折を経験します。エジプトで育ちましたが、同胞のヘブライ人に仲間として認められなかったことと、罪を犯したことで、エジプトから一人逃げ出しました。荒野で羊飼いとなって生活していました。しかし、モーセは子どもの頃、自分の母親から、自分がヘブライ人という神様に約束された部族の一人である、と教えられて育ちました。殺されることになっていた、生まれたばかりのモーセは、母親とお姉さんの知恵と愛情によって生き延びました。エジプトでは奴隷だったヘブライ人ですが、神はそのヘブライ人を自分の民として、エジプトから救い出して、約束の地へと連れて行く。あなたはその約束された民の一員として生まれたのだと、親から教わって育ちました。モーセは挫折感を持ちながら、荒野で40年ものあいだくじけなかった。イスラエルの民を導く偉大なリーダーとして、立ち直ることができたのは、子どもの頃に受けた愛情と「神に約束された民」としての「自尊感情」です。そのモーセが「この地上のだれにもまさって謙遜であった」。と言われた。そこに信仰者の、あるべき「謙遜」を見ることができるのではないでしょうか。
謙遜さの前提には、自分を否定するのではなく、自分が何者なのかを知って受け入れることがあります。神様に造られた自分が、この土地に住まわされたのは、あなたが必要な人で、有用な人で、大切な愛された者なのだと受け入れつつ、その神様に従っていくという生き方です。

3、頭(かしら)であるキリストの体

パウロは、そのように注意したうえで、信仰者が頭(かしら)であるキリストの教会に繋がる、ことの重要性を19節で教えます。
パウロは、いくつかの手紙の中で、教会を人の体にたとえています。そこで一番強調したい点は、教会には体のように、一致と多様性があるということです。私たち一人一人に多様な特徴が与えられています。この個性は、からだの腕や足、目や耳のように、多様な役割があります。しかし、多様性というのは、どこかで一致した方向に行くことで、はじめて調和がとれて、力となるはずです。一致がなければただの「烏合の衆」ですし、それどころか個性の違うものどうしが争うことになります。中間時代のユダヤ教の人々は、まさに、お互いに権力争いをして、いがみ合っていました。多様性はあっても、頭(かしら)がいなかったのです。わたしたちの教会の頭(かしら)は、イエス・キリストです。この頭に繋がっている限り、多様な個性が同じ方向に向いていくことができるはずです。パウロは、節(ふし)と節、筋(すじ)と筋といった、からだの器官を繋ぐ役割に注目しています。それは、人と人、賜物と賜物を繋ぎ合わせる、そういった賜物をもつ人が教会には必要だからです。教会の働きの中には、節(ふし)や、筋(すじ)になってくださった人が必ずいるはずです。それは役職としてではなく、すべての方がかかわれることです。たとえば、知らない人に、こちらから声をかけるといった事から、人をお誘いするといった身近なことが、教会を繋ぎ合わせて、建てあげていくことになるでしょう。

4、「神に育てられて、成長してゆく」

教会学校の奉仕なども、子ども達を教会に繋いでいく働きです。神様は種を撒いてくださって、その種に私たちは水をやりますが、育てて成長させてくださるのは神様です。パウロがここで、私たちに求めていることは、「繋がっていく」ということです。教会に集う兄弟姉妹が、互いに節(ふし)となり、筋(すじ)となって繋がっていくことで、一人一人が育てられ教会全体を成長させてくださいます。
イエス様も、「わたしにつながっていなさい…わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」(ヨハネ福音書 15:4-5節)と、おっしゃいました。この教えを守っていきましょう。 お祈りをします。

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キリストの自由

2018年7月22日
和田一郎副牧師
創世記2章1~3節
コロサイの信徒への手紙2章16~17節

1、影にすぎないもの

今日のコロサイの手紙の聖書箇所は「影」と「実体」に焦点を当てています。パウロは17節に書かれている「影」と「実体はキリスト」という二つの言葉を対比しています。実体と書かれた言葉は、人の体という意味で使われる言葉です。ですからキリストの体を「実体」と表現してキリストの体が映った影を、「それは実体ではなくて影に過ぎないのだよ」と、パウロは説明しています。ご存じのように、イエス様が2千年前に来られる前は旧約聖書にのっとった教えをユダヤ人達は守ろうとしていました。しかし、イエス様は旧約聖書の教えを守ろうとする律法学者たちを批判していましたし、パウロもこの手紙に書かれているように、ユダヤ人達が旧約聖書の律法を守ろうとする教えに気を付けなさいと注意しました。イエス様とパウロが「あれは違いますよ!」と警告していた「ユダヤ人達の教え」とは何でしょうか? それがパウロが「影」に過ぎないものだ、と言った16節にある「食べ物、飲み物、祭り、新月、安息日」といったユダヤ教で重んじていた生活様式や儀式的なものです。

2、ユダヤ教主義の始まり

旧約聖書の時代には、イスラエルの国はバビロン帝国に滅亡させられます。そして、住民が強制的に移動させられるという出来事がおこりました。これを「バビロン捕囚」と呼びます。この出来事は結果的に、イスラエル人の信仰が新たに変化するきっかけとなりました。イスラエルの12部族でバビロンに連れていかれたのはユダ族とベニヤミン族だけです。他の部族はすでに消滅してしまいましたので、他の国の捕虜と区別するために「ユダヤ人」と、この時に呼ばれました。そして彼らの信仰は自然と「ユダヤ教」と呼ばれたのです。ユダヤ人達はバビロンに住む捕虜生活の中で、次第に民族的な絆が深まっていきました。その後寛容な政策によって、エルサレムに戻ってきましたが、バビロンの捕虜生活の中で守っていた、ユダヤ人だけの純粋な信仰が壊れることを恐れました。周囲の民族と接触せず、結局ユダヤ教は民族主義的な性質が強くなっていきます。神様の御心を求めるという信仰共同体から、ユダヤ教は儀式や制度的なもの、そして閉鎖的な傾向が強くなっていったのです。それが宗教行事だけではなく、生活様式にも律法が反映されて、ユダヤの一般住民にとって、信仰生活というものが重苦しいものになっていました。
コロサイの2章16節にあるように、確かに、旧約聖書には「食べ物、飲み物、祭り、新月、安息日」の規定について書かれていました。食べ物の規定には、食べてもよい清い動物と、汚れているから食べてはいけない動物がありました。これは神様から選ばれた聖なる民である「しるし」として区別していましたが、いつのまにか異邦人とは一緒に食事をしないという習慣を作ってしまいました。祭りや、新月、安息日といったものは、神様との霊的関係を指し示す、そこに意味がありました。しかし、いつのまにかその儀式や生活様式を守ること、そのものに注意を向けるようになりました。
人間は不完全な存在ですから、今も、かつてのユダヤ人と同じような間違い、同じように周囲の人との争いを繰り返しています。
インドで起こったある出来事です。その頃、インドではヒンズー教とイスラム教が対立して各地で暴動が起こっていました。ある日、一人の男が血だらけになって倒れ込んでいました。その男はカデルという男で、少年に助けを求め、「突然、知らない人に刺された」と言って倒れました。傷を負ったカデルを病院に連れて行きましたが、しばらくしてカデルは死にました。カデルは日雇いの労働者でした。わずかな収入を得る為に仕事に出ていきました。カデルは一人の夫であり、父であり、日雇い労働者であり、インド人でありイスラム教徒でした。イスラム教徒であるがゆえに、ヒンズー教徒から狙われたのです。そして病院でもイスラム教徒への治療は後回しにされていました。
しばらく経って、ヒンズー教とイスラム教の争いはなくなっていきました。あの暴動は、つかのまの一時的な出来事となりました。どうしてあのカデルという人は、死ななければならなかったのだろう。おそらく殺した人は、カデルがどんな人なのかを知らなかったでしょう。殺害者はただ一つのアイデンティティ、イスラム教徒であるという、ただそれだけのことしか見なかったのです。たった一つのアイデンティティに対する暴力でした。
人間には多くの側面があります。この私も、大和市の市民であり、神奈川県に住む神奈川県民です。もし大和市と隣の座間市と利害問題ができたら、大和市民というアイデンティティが強調され、座間市を厳しく見ることになります。
同じような問題が、隣の東京都と利害問題が生れると、今度は、私は神奈川県民として東京都民を厳しい目で見ます。しかし同時に、私は一人の子どもの親という側面をもっています。子どもを守る親という共通した立場の人であれば、座間市の人とも東京都の人とも理解し合える可能性が生れます。しかし、人がもつ多様なアイデンティティから一つだけを取り上げて、その観点からのみ、その人を見ることは、ユダヤ人が民族主義に陥ったことと重なります。ユダヤ人同士の絆が深まることは良い事ですが、ユダヤ人だけが神の民で異邦人は汚れていると信じました。わたしたちもある日突然、一つのアイデンティティを取り上げて、人を攻撃することがあります。たとえば転校生がクラスに来てもなかなかなじめないと、「あいつはどこか違う」「言葉に訛りがある」と、自分たちと違うアイデンティティを取り上げます。それは閉鎖的なユダヤ人主義と同じです。イエス様もパウロも何度も繰り返して、そのユダヤ人たちの間違えを戒めました。それは旧約聖書の正しい教えではないと。

3、善きサマリア人のアイデンティティとユダヤ人

ルカの福音書に「善きサマリア人」はユダヤ人の閉鎖的な民族主義というアイデンティティを見ることができます。
イエス様は、永遠の命を得るためには、神を愛し隣人を愛しなさいと教えます。これに対し、ユダヤ人の律法学者は「隣人とは誰ですか?」と質問します。イエス様は、たとえ話でこの質問に答えます。
あるユダヤ人が旅の途中で強盗に襲われる。身ぐるみ剥がされ、瀕死の状態で道端に倒れている。あるユダヤ人祭司がそこを通りかかったが、見て見ぬふりをして立ち去ります。ユダヤ人やレビ人も同様に、助けず に通り過ぎる。しかし、ユダヤ人がとても軽蔑しているサマリア人が通りかかった時、そのサマリア人はこの人を助けた。けがの手当てをしてやった上、宿屋に連れていき、「費用は自分がもつから、この人を介抱してやってくれ」と頼む。
イエス様はこのたとえ話の中で「倒れていたこの人の、隣人になったのは誰か?」 と律法学者に質問します。律法学者は「助けてあげた人です」と答える。するとイエス様は、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました。この譬え話しを聞いたユダヤ人の律法学者にとって、そもそも「隣人を愛する」とは「同じユダヤ人を愛すること」でした。しかし、イエス様の譬え話を聞いて、「隣人になったのは誰ですか?」と聞かれて、「隣人になったのはサマリア人です」と律法学者は答えました。それは正解です。そして「あなたも同じようにしなさい」とイエス様は言った。でも実際の生活においては、彼らはそれをやっていなかったのです。異邦人であるサマリア人を、助けもしないし、助けられたくもないと思っていました。「行って、あなたも同じようにしなさい。でもあなた達は、それをしてないでしょ?それができないでしょ?とイエス様は皮肉を込めて指摘したのです。ユダヤ人が、サマリア人と同じように「隣人になる」ことが出来なかったのは、ユダヤ人という、一つのアイデンティティに偏ったからです。

4、わたしたちの「実体」

パウロが活躍した時代のユダヤ人は、イエス様を信じるだけでは不十分で、ユダヤ教の儀式や生活様式を守らなければならないと主張する人がいました。しかし、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たちはユダヤ教という人間の知恵に縛られない、キリストにある自由を与えられました。多様な賜物と自由な意思を与えられました。どんなアイデンティティの持ち主でも、キリストを通して神の国に入ることができるようになったのは、キリストによる自由を得たからです。
イエス様という方は神様であり、人間として地上で過ごされました。イエス様は100%神様というアイデンティティと、100%人間というアイデンティティを生きた方です。そして、私たちの信じる神様は、三位一体の複数性をもった一つの神様です。
そういった多様性をもつ神様を信頼する私たちが実践したいことは、まず第一に、私たちが選択するアイデンティティは、クリスチャンであるという霊的なアイデンティティです。しかし、クリスチャンだというアイデンティティだけを主張すれば、クリスチャンではない人と摩擦が生れ、その人達の隣人になることは難しくなるでしょう。私たちはクリスチャンであり、善き市民であり、善き国民であり、善き同僚であり、善き友であり、善き家族の一員であること、この自由を与えられています。この一週間、「神の国」という、多様で自由に満ちた国の民として歩んで行きたいと願います。お祈りをいたします。

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しつこいほどの恵み

2018年7月15日
松本雅弘牧師
エゼキエル書36章22~32節
マタイによる福音書16章1~12節

Ⅰ.分水嶺としてのマタイ福音書16章

今日お読みしたマタイの16章は、昔から「マタイ福音書の分水嶺」と呼ばれてきました。宣教活動の1つのクライマックスを迎えた主イエスが、この後、一気に十字架への道を進んで行かれる。その境目の出来事が起こるからです。
その1つが「あなたはメシア、生ける神の子です」(16節)というペトロの告白。もう1つが、21節にある、主イエスご自身による受難の予告でした。そのように緊迫した雰囲気の中で起こった出来事がファリサイ派、サドカイ派とのやりとりでした。

Ⅱ.ファリサイ派とサドカイ派の人が求めた「天からのしるし」

ファリサイ派とサドカイ派の人が主イエスのところにやって来ました。理由は、主イエスを試みるためです。
マタイ福音書の中で、この「試す」という単語はこれ以前に1度だけ使われています。それは悪魔が主イエスを誘惑した場面です。
宣教の初めに悪魔が主イエスにしたことを、何と今ユダヤ人の指導者たちが再び行っているのです。「天からのしるしを見せてほしい」と言って主イエスを試みたのです。
以前にもこれと似たような場面がありました。「先生、しるしを見せてください」(12:38)
この時は、律法学者とファリサイ派でしたが、今回はファリサイ派とサドカイ派のペアです。水と油のように、その考え方において対立している者たちが主イエスを試みることで一致団結してやって来たのです。それは、主イエスが共通の敵で邪魔な存在だったからです。
ところで、「天からのしるしを見せてほしいと願った」ことのどこが誘惑だったのでしょうか。
彼らはこう考えたのではないでしょうか。「イエスの奇跡は認めましょう。説教に力があるのも承知した。でも、私たちの生活を邪魔するような奇跡や説教ならば話は別。受け入れるわけにはいかない。」だから言ったのです、「天からのしるしを見せてほしい」と。
「神があなたを遣わしたのは、私たちの願っているような救いをもたらすためでなければならない。そのような意味での天からのしるし、その証拠を見せろ」と求めたのです。
つまり、ここで彼らが求めた「しるし」とは、自分たちの生き方を変えなくても済むような「しるし/保証」でした。「あなたは自分が救い主だと自称している。結構です。でもあなたがメシアかどうかは、この社会の権威である私たちが判断すること。勝手なことをされては困る。この国の責任者、この国のリーダーは私たち、ユダヤの救いのために労して来たのは私たちだ。そのためにこうして人生を捧げてやってきている。だから、あなたの言うところの救いが本物かどうか、私たちが決めるから、その『しるし』を見せて欲しい」。そうイエスに詰め寄ったのです。

Ⅲ.主イエスの存在こそが「しるし」

これに対して主イエスはおっしゃいました。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」(16:4)と。
この時、主は「ヨナのしるし」と言われました。これは十字架を指し示すものでしょう。ヨナは神の命令に背き大魚に呑み込まれ、その腹の中に3日3晩閉じ込められた預言者です。そのヨナと同様に、「人の子」も「3日3晩、大地の中にいることになる」というのです。
当然これは、「イエス・キリストが十字架で死に、3日間、陰府にくだる。」ということを指し示しているのでしょう。
ただこれは実に妙な「しるし」です。どうせ「しるし」を挙げるならば「ヨナが大魚から3日目に吐き出されたように、人の子も3日目に復活する」と言えばよいのに、主は、敢えてその手前、「十字架で死に、陰府にくだる」という出来事を「しるし」として語られたのです。
ところで彼らが求めた「しるしを見せてくれ」の「見せる」というギリシャ語は、「論証する」という意味の言葉です。主イエスがメシアであるということを論理的に証明して欲しいと彼らは願っているのです。でも主イエスはそうなさいません。
そう言えば、主イエスが十字架にかけられたその時も人々はからかい半分に言いました。「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」主イエスはそこでも、「しるし」を求めて叫ぶ人々にその「しるし」を見せませんでした。
十字架から降りてみせることによってではなく、むしろ降りず、そのまま陰府にまで落ちることによって、神の子であることを示されたのです。
ヨナは自分の罪のために閉じ込められましたが何と主イエスは、私たち人の罪のために「大地の中」、すなわち「陰府」にまで落とされました。それが「しるし」なのです。
ここで、結局ファリサイ派、サドカイ派の彼らは自分たちの納得のいくような「しるし」を得られず、主はその彼らを遺されたまま、そこを立ち去るのです。これは1つの裁きかもしれません。

Ⅳ.しつこいほどの恵み

後半には、イエス様と弟子たちのやり取りが出て来ます。「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と主は言われました。
パン種とはパンを膨らませるもので、ほんの少量でも全体に大きな影響を及ぼします。ファリサイ派、サドカイ派の教えには不純物が混ざっている。そうしたものがほんの少しでも混ざれば全体に蔓延し、良いものまでもが台無しになる。だから「よく注意しなさい」と主はおっしゃるのです。
ただ弟子たちは勘違いしました。主イエスがパンを持ってこなかったことを咎めたと思ったのです。それに対して主イエスは言われました。「まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。」(16:9,10)
そうです。「しるし」を要求しなくても、そうした人のところにはすでにちゃんと「しるし」は与えられていました。「まだ、分からないのか。覚えていないのか。しるしはすでに与えられていたではないか」と主はおっしゃったのです。
牧師の役割は「Naming grace/恵みに名を付けること/恵みに気づかせること」だと教えられたことがあります。確かに、私たちは気づかなくてよいものが気になってしょうがないのです。見ないでいいものが目に入って来る。逆に、恵みとなるとすぐに忘れてしまう。ですから感謝も喜びも心に湧いてこないのです。だからこそ主は何度も何度も恵みのしるしを与え、「まだ、分からないのか。覚えていないのか」と叱責されるのです。
『とりかえっこ』という絵本があります。ひよこが様々な動物と泣き声をとりかえっこするお話です。ひよこが散歩に出かけ、ねずみと出会う。そこでひよこが、「鳴き声をとりかえっこしよう」と言うとネズミが「ピヨピヨ」、ひよこが「チュウチュウ」、鳴き声が入れ替わるのです。そうした鳴き声をとりかえっこしながら散歩をするひよこですが、大きな猫に遭遇し「たべちゃうぞ~」と襲いかかられた時、何とひよこの口から「ワン、ワン」と犬の吠える声が聞こえたのです。実は直前に犬と声のとりかえっこをしていたからです。そして助かるというお話です。
「実に神さまは、私たちととりかえっこしてくださった」と、ある牧師が語っていました。キリストの義と私の罪をとりかえっこしてくださった恵みです。
主イエスはご自分のものであったものを私に与え、ご自分のものでなかったものをご自分の身に引き受けてくださいました。
悪魔のように主イエスを試し、いや殺す人間、何かと言えばすぐ神の支配が分からなくなり、不機嫌になり失望してしまうのが私たち人間です。神の愛はどこに行ったのか、神はどうして、こんなに私を苦しめるのかとつぶやく私、その私と主イエスとが場所を入れ替わってくださった。
マタイ16章は、まさに主イエスのそうした歩みが明確に見え始めてくる場面です。信仰は、そこに神の恵みを見ていくのです。
既に圧倒するほどに与えられている恵み、あのカナンの女のようにしつこいほどに追いかけてくる神の恵みとご支配に気づいていない。そのことが私たちの課題なのです。
創世記3章で、罪を犯した人に主なる神は「あなたはどこにいるのか」と声をかけられました。
『恵みの契約』を書いたマロウ先生は、聖書の歴史はまさに「あなたはどこにいるのか」という神の語りかけの歴史であり、しつこい程に追いかけてくるその招きの御声に気づき、振り返るとき、そこに恵みの神が、救いの神が待っておられる、と言われました。
そうした神の愛のしるし、それはやがてヨナのしるしとして十字架につながっていくものです。「まだ、分からないのか。覚えていないのか」と主イエスはおっしゃいます。それはもうすでに何度も何度も恵みのしるしを与えておられるからです。
あのカナンの女はしつこいほどの信仰をもって、主イエスを追いかけましたが、主イエスご自身も、しつこいほどの恵みをもって、私たちを追いかけてくださるのです。
すでに神の国、神のご支配が始っています。どうか私たちの心の目を、主によって開いていただき、そのしつこいほどの恵みに圧倒されたいと願います。お祈りします。

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神の愛によって輝く

2018年7月8日
松本雅弘牧師
イザヤ書43章1、4節
マルコによる福音書5章1~20節

Ⅰ.子どもが輝く10のメッセージ

クリスチャンの精神科医の佐々木正美先生がその著書『抱きしめよう、わが子のぜんぶ』の中で、「思春期の子が輝く10のメッセージ」を挙げておられます。それら一つひとつは子どもを愛することの具体的な表現です。
子どもたちは自分が大事にされることを通して、自分を大事にする子として成長し、そしてまた、自分を大事にする子は、必ず周りの人たちを大切にする人として生きることができる、というメッセージです。
佐々木先生の「10のメッセージ」は、親である私たちには、出来ることと出来ないことがあるのだから、あまり焦らないで、どうにもならないことについては、神さまに任せることが大事ですよ、と優しく諭しておられるように感じるのです。

Ⅱ.ゲラサの男の話

墓場を住処とする男がいました。鎖でつないでおいても引きちぎってしまうほどの怪力の持ち主で、彼は昼も夜も墓場や山で叫び、石で自分を打ちたたいたりしていたと、今日の聖書個所に出て来ます。
こうした絶望的な状況に置かれていた彼と、主イエスは出会われました。そして、彼に本当に大切な質問をしたのです。
それは、「名は何というのか」という質問でした。この質問に対して彼は「レギオン」、つまり「大勢」と答えました。言い換えれば、「多くの名がある」と答えたことになります。
この答えは、この時の彼自身の状況を表わしていたと思います。自分が一体、誰なのかが分からなくなってしまっていたのでしょう。自分の中に、色々な自分があって、いったいどれが本当の自分なのかが分からなくなり、混乱している状態です。
この個所を読むたびに、この男は、親や周囲から、色々な期待をかけられて大きくなった人物だったのではないかと、いつも思います。
「何々ちゃん、こうなるとイイネ」とか、「ママはあなたに、こうなって欲しいなぁ」とか、表現の仕方は色々でしょうが、親や周囲から色々な期待を受け、言葉かけを受け続けて来たのではないかと思うのです。そうした言葉の一つひとつが、ある意味で、ここで言うところの名前です。役割です。
基本的に子どもは素直です。お母さんやお父さんが好きですから、一生懸命、親や周りの人たちの期待に応えようとするでしょう。その結果、自分が誰なのか、つまり、「自分の本当の名」が分からなくなってしまっていたのではないかと思うのです。
よく考えてみると、「こうなるとイイネ」とか、「こうなって欲しいなぁ」という期待の言葉は、言われた側にとっては重たい言葉です。
佐々木先生の「子どもが輝く10のメッセージ」の中に、「『あなたはあなたのままでいい』これは子どもだけでなく、お父さんお母さんへのメッセージでもあります」と書かれていました。このゲラサの男の話は、まさに、その逆を行ってしまっているのです。
佐々木先生の「10のメッセージ」の根底に流れているのは、この「あなたはあなたのままでいい」というメッセージです。「何々ちゃん、こうなるとイイネ」、「こうなって欲しいなぁ」というのは、少し強い表現を使えば、「あなたはあなたのままではダメ。もっと、こうならなくっちゃ・・・」という、言わば、「現状の否定」の言葉なのです。まともに受けとめる方としては、本当に辛い言葉です。
大分前に話題になった本に、ロバート・フルガムという人が書いた、『人生で必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』という、少し長い題名の本がありました。その本の中に、このような話が紹介されています。
「南太平洋ソロモン諸島では、木を伐るのに不思議なやり方をする。もし、あまりにも太くて手におえない木があると、人々は怒鳴りつけてその木を倒してしまうのだ。特殊な能力をもった樵(きこり)たちが夜明けにそっと木にしのび寄って、いきなり、声の限りにわめきたてる。これを毎朝欠かさず30日間続けると、ついに、その木は衰えて倒れてしまう。人の怒鳴り声が木の精を殺してしまうからだそうだ。」
〈本当に、そうなのかなぁ〉と思うような話ですが、著者はこう結論を述べています。「もし、木でさえ倒れるのだったら、まして、感じる心を持った人間にはもっと恐ろしい効果があるだろう」と。

Ⅲ.「よい子」という名の病?

もう1冊、心に浮かぶ本がありました。春日耕夫著、『「よい子」という名の病』です。そこには、「よい子」という名の病にかかった子どもたちが出て来るのですが、どこか今日のゲラサの男と重なって考えさせられました。
「『よい子』という名の病」というのは、子どもが、親や周囲の人の願いや、「こうあって欲しい」という期待に、一生懸命答えようとしてきたあまり、自分を見失ってしまう。親が用意したシナリオの通りに生きようとしてきたが、でもどこかで行き詰まり、無理が生じ、結果として、もう力が入らなくなってしまった子どもたちです。
その1人がこんな詩を書いています。
「もう誰とも話したくない。/話しをすれば自分をよく見せようとして/自分をずたずたにしてしまうだろう/人魚姫のように魔法使いの所に行って/舌を抜いてもらいたい/そうすれば/話したくても話さないから/そんな失敗をしないですむ」
著者は、この詩について次のように解説しています。「誰か他の人と話すとき、私は自分が本当に言いたいこと、自分が本当に思うことを言うのではなく、まわりから承認され賞賛されるようなことを言ってしまう。なぜなら、私は他者の前では自分のままでいることができず、他者に承認され賞賛される存在にならなければならなくさせられた『よい子』だから。そうして私は自分を欺き、『本当の』自分と『偽りの』自分とに自分を引き裂き、自分をずたずたに傷つけてしまう。もうこれ以上そんなことはしたくない。そんなことをするくらいなら、むしろ一切の関係を断ち切って誰とも話さず、誰ともかかわりをもたぬままでいることを選びたい。」
ゲラサの男も、まさにそうだったのではないでしょうか。「あなたはあなたのままでいい」という言葉かけを受けることなく育ち、体だけが大きくなって行ってしまった男のように思います。

Ⅳ.あなたの名は何というか?

そうした彼を「レギオン」から解放し、本来の自分を取り戻させるために、イエスさまがなさったことに注目したいと思います。
それは、「あなたの名(本質的な「名」)は何ですか?」と問われたことです。この主イエスの問いかけをきっかけに、彼は、我に返る道へと導かれて行きました。
先ほどの春日さんの本の中に、もう1つ、次のような詩も紹介されていました。「私/欲しいものなんて/何もなかったんだ/八月は暑かったので/あ~ 私はどうしてそんなことに気づかなかったの/何かを欲しいなんて/他の誰かが/みんな私に吹き込んだだけよ」
春日さんの解説です。「私は、いままで、『私はこうありたい』という願いをもち、『そのようにあろう』として生きてきた。けれども、私はわけもなく(八月は暑かったということがきっかけで)気づいてしまった。それは『私の』望みではなかったのだ。ほかの『誰か』の望みにすぎなかったのだ。私がそれを望むようにとほかの『誰か』が私に望んだ、その『誰か』の望みでしかなかったのだ。私はそれを『私の』望みと思いこみ、その望みを実現するためにのみ生きてきた。そうして、私は、『自分が』望む『自分の』望みなどもてない存在になってしまっていたのだ。」
聖書は、私が誰なのかをはっきりと教えてくれています。それは「神に愛されている存在」ということ、「あなたは大切な人です」ということです。
私たちの過去がどのようであっても、また人と比べてどうであろうとも、私は、神が愛を込めてつくってくださった「神の作品/マスターピース」である。これが聖書の教える「私」です。
イエスさまは、「名は何というのか。」と質問しました。イザヤ書に「名」、「あなたの名」について書かれています。
「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。・・・わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛する。」(イザヤ書43章1、4節)
そうです。私の名を呼ばれるお方が神さま、そのお方は造り主であるが故に、私の本質、私が誰であるかをご存じなのです。
神さまは、こうした眼差しをもって、私たちの子どもたち一人ひとりの中に価値や可能性を見ていてくださいます。そして親であり、大人である私をも見ていてくださるのです。
この「あなたは大切な人です」という語りかけを心に受けとめる時、自分の尊さに気づき、自分を大切にし、そして人の尊さも分かる者として、人と接することができるのです。
「子どもが輝く10のメッセージ」の背後にも、このような眼差しをもって見ていてくださる神さまがおられるのです。
誰よりも、神さまこそが、「あなたは大切な人です」と語り続けてくださることを心に留めたいと思います。
お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

ただ憐れみのゆえに

2018年7月1日
松本雅弘牧師
詩編85編1~14節
マタイによる福音書15章29~39節

Ⅰ.繰り返しの出来事

主イエスは、カナンの女の娘をいやされた後、ガリラヤ湖のほとりに戻られました。山に登り、お座りになると、そこに大勢の群衆が次々と、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて会いにきました。そして、イエスさまは彼らを癒されたのです。
この個所を読む時、「結局、同じようなことが繰り返し起こっただけではないか」と判断し、サラッと先に進んでしまう人もいるかと思います。
注解者の多くも一般的な傾向として、さっと解説する程度で次に進んで行ってしまうようです。
神学校時代の卒論指導教官が、「聖書は寡黙である。その寡黙な聖書が口を開いた時には、私たちは真剣に耳を傾けなければならない。」と言われた言葉を、私は思い出しました。繰り返しのように見えるが、それが単なる繰り返しなのかどうか、そのことを一度、考えてみることが必要であるということです。
そう考えながら読み進めて行くと、16章に「まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン5つを5千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン7つを4千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。」という主の言葉が出て来ます。
主は、「あれは単なる繰り返しではなく、繰り返したことに意味があるのですよ」と、お話なさっているように聞こえるのです。
「パンの奇跡を2度も行ったではないか。そのことを忘れてしまったのか」と、主イエスが言われるその背景には、やはり「決して忘れてはならない」という、主の願いが隠されているのではないかと思います。

Ⅱ.異邦人を中心とした群衆

こうしたことを踏まえて、この箇所を読み直していきたいと思います。
ここで主イエスは山に登っておられます。「山上の説教」の時と同じです。すると、主の後を追いかけるようにしてやってきた人々が足もとに集まったのです。
ただ、この群衆はユダヤ人ではなく異邦人のようです。前回、主はファリサイ派の人々との激しい論争の結果、ユダヤの地を追われるようにしてティルスやシドンに出て行かれたことをお話しました。ティルスとシドンはユダヤ人があまり住んでいない地域です。同じ出来事を記録しているマルコの福音書には、主がティルスやシドンに行かれた後、デカポリスを経由してガリラヤ湖東岸に行かれたことが分かります。
主イエスの周囲に集まった人々は、ティルスとシドンの地方から共に3日の旅をしてきた群衆でした。その彼らが主の癒しの御業に触れて「イスラエルの神を賛美した」(31節)のです。聖書の専門家は、ユダヤ人だったら自分たちの神をほめたたえる時に、わざわざ「イスラエルの神」という言い方をしない。ここで賛美する彼らは異邦人だったろうと指摘しています。
前回は、カナンの女の信仰について考えました。異邦人の女性がイスラエルのメシアに対して食い下がる。娘の苦しみを取り去ってほしいという激しい求め、その信仰の大きさにメシア・キリストが圧倒されてしまった、という話でした。
そして今日の箇所でも、カナンの女に続くように、イスラエルの民でもない人々が、続々と主イエスの許に迫り、イスラエルの神をほめたたえているのです。そのような賛美に包まれている場面、男だけで4千人の人々が、主の御業を見て驚き、地鳴りのように賛美している場面なのです。そうした中で、主イエスは、御自分の弟子たちを呼び寄せられました。

Ⅲ.「5千人のパンの奇跡」と「4千人のパンの奇跡」

14章の「5千人のパンの奇跡」と、今日の箇所「4千人のパンの奇跡」は、単なる繰り返しではない、というお話をしました。ここを丁寧に読んでいくと、2つの出来事の違いに気づかされます。
「5千人のパンの奇跡」は、弟子たちが群衆のことを心配して始まった主イエスの奇跡です。これに対して「4千人のパンの奇跡」は、群衆の空腹に気づき、かわいそうだと最初に思ったのは主イエスの方で、弟子たちではないのです。
ここでは、むしろ弟子たちは知らん顔をしています。主イエスが一生懸命癒しをなさっている、その傍らに立って、弟子たちはその一部始終を目撃していました。そして今、癒された異邦人たちが、自分たち異邦人にとっては縁の無い「イスラエルの神を賛美している」のです。
その賛美の大声に包まれながら、弟子たちは、なぜ彼らの飢えに心を動かすことがなかったのでしょうか。それは、群衆が異邦人だったからです。
弟子たちはユダヤ人でした。一般にユダヤ人は自分たち以外の民族に対して、特別にネガティブな思いをもっていました。異邦人の悩みや痛みを、自分のこととして受けとめることができなかったのです。
こうしたことは私たちの内にもあるのではないでしょうか。特に日本人は内と外の意識が強く、身内の人には優しいが、身内以外の人に対しては冷たくなる傾向があります。この時の弟子たちの態度は、そうした私たちの限界を映し出しているように思います。
主イエスは、ここで「群衆がかわいそうだ」とおっしゃいました。「かわいそう」という言葉は、「憐れに思う」と訳せる言葉で「はらわたが痛む」、お腹が痛くなるほど他者の悩みに心が動くという意味です。
群衆は自分たちが住んでいたところから3日かかってやって来ました。再び、3日をかけてティルスやシドンの町々に帰っていくのです。その途中、空腹で倒れてしまうのではないだろうかと、その姿を想像して、ご自身のお腹に痛みを感じる程に彼らと一体化し、心配しておられるイエスさまです。
そこで、同労者である弟子たちに向かって、「あなたがたはその痛みが分かりませんか」と、弟子たちに言われたのです。さらに言うならば、あの「5千人のパンの奇跡」の時と同じ御業を、あの出来事をあなたがたと私とでもう一度行おうではないか、と主イエスは、弟子たちを招かれたのです。

Ⅳ.別れの食卓

「5千人のパンの奇跡」と「4千人のパンの奇跡」、この2つの出来事の間にはそれなりの時間的経過があることが分かります。
その証拠に「5千人のパンの奇跡」の時には、群衆は「草の上」に座るように命じられているのに対して、「4千人のパンの奇跡」では、草が生えていない「地面」です。
専門家によれば、この2つの出来事の間にはほぼ半年、もしくはそれ以上の時間的開きがあるだろうと判断しています。
主イエスの公生涯のうち、ガリラヤ湖周辺で大勢の群衆に囲まれながら宣教なさっていた時期を「ガリラヤの春」と呼びますが、その時期は「5千人のパンの奇跡」で区切りを迎えます。
その後、およそ半年の間、あるいはもう少しの期間、異邦人の地での宣教活動を行い、再びガリラヤ湖畔に戻って来たのではないかといわれています。
この時、「食べた人は、女と子どもを別にして、男が4千人」とありますから、4千人以上、場合によってはその倍くらいの人々のために、草が枯れた山の上で、食卓を調え、振る舞われました。この後、群衆を解散させ、自分たちの地に帰します。そしてイエスさまは、舟に乗ってマガダン地方に行かれました。(39節) マガダンという地域について正確な場所は不明ですが、一般にガリラヤ湖西岸の地域であると考えられています。
この後、主イエスは弟子たちと共に、エルサレムに向かっての旅を始められるのです。そして、いよいよ最後には、その弟子たちとも分かれることになるのです。その別れの時にも、主は「最後の晩餐」として食卓を調えてくださいました。(26章)
このように見て来ますと、主はガリラヤでの宣教の区切りに「5千人のパンの奇跡」を行い、異邦人宣教の区切りに、「4千人のパンの奇跡」を行い、そして、十字架におかかりになる前夜、御自分の弟子たちのために「最後の晩餐」を備えてくださったのです。
このように主イエスの公生涯における、主が調える食卓は1回1回が1つの大きな区切りを表わしています。1回1回が、感慨深い思いをもって調えられた食卓であったのではないかと思うのです。
歴史の教会は、「5千人のパンの奇跡」とこの「4千人のパンの奇跡」を、「最後の晩餐」同様、聖餐の原型であると考えて来ました。
今日この後、私たちは聖餐を祝うのですが、主イエスは、このように食卓を調える度ごとに、御自分の心や腹が痛くなるほどに、人々を深く憐れみ、愛しておられるお方だということです。ユダヤ人の群衆、異邦人の群衆、そして病や弱さの中で苦しんでいる一人ひとりを愛し、「私の恵みに満たされるがよい」と、招いてくださる、それが主イエスさまです。
そして、すでに主に従っている弟子たちに対しては、その恵みの業の同労者として、「パンは幾つあるのか」と問われ、持っているものを愛の業のために用いるようにとチャレンジしておられます。
この恵みの御業に参加したヨハネは、「ヨハネの手紙一」の中で告白しています。
「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったから」。(4:19)
主イエスに深く深く愛されていることを味わい知る中で、私たちも主の愛の業に参与する者として生かしていただきたいと願います。
お祈りします。