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主日共同の礼拝説教 合同礼拝

キリストにあって一つ

2018年8月26日
「合同礼拝」
松本雅弘牧師
フィリピの信徒への手紙2章1~4節

Ⅰ.一致を破壊する利己心と虚栄心

今日は年に一度の「合同礼拝」です。私たちは、普段は異なる言語で礼拝を捧げています。聖書によればクリスチャンは、福音という共通語を与えられている神の家族同士であり、4つの異なった言語で礼拝を捧げている私たちが、一緒に礼拝を捧げる「合同礼拝」は、私たちはまさにキリストにあって一つであることを経験する主の日の礼拝でもあるのです。
私たちの主イエスは十字架の直前に、「クリスチャンが一つとなるように」と真剣に祈りを捧げられました。これこそが主イエスの御心です。
この手紙を書いたパウロも福音にふさわしい生活の中身として、キリストにある一致ということを説いています。
今日の個所で第1に注目したい点、それは私たちの生まれながらの性質は、一致とは逆の方向に働くということです。ここでパウロは「何事も利己心や虚栄心からするのではなく」(2:3)と言って、一致を破壊する罪の問題、利己心と虚栄心に触れていきます。利己心とは、自分のこと、自分の利益だけを考える心のあり方です。そして虚栄心とは「高ぶり」とも訳せる言葉で、背伸びをして、自分を良く見せようとする心です。こうした利己心と虚栄心を抱く私たちが、一致を求めたとしても必ず行き詰まるのです。

Ⅱ.共にキリストを見上げる一致

ではどうしたらよいのでしょう。ここでパウロは、第2のポイントとして、福音にふさわしい生活の中身としての一致が、共にキリストを見上げることによって与えられると語ります。
私たちは、出身校や故郷が一緒であるということで、何か一致しているというような錯覚を持つことがあるでしょう。でもそれは、数10年前の出来事を共有するということであって、ここには、お互いを受け入れ合う一致という中身はありません。
しかし、2章1節を見ていくと、ここでパウロは、「キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり」という、中身の詰まった信仰による一致を求めていることが分かります。
主イエスを見上げ、礼拝し、神を神とする時、私たちは1つとなり、その結果としての祝福が約束されているのだとパウロは説いていきます。
キリストを見上げる時、私たちは励ましを受けるのです。傷ついた心をもって主の御前に跪いて祈る時、主イエスは、私を受け止めてくださいます。
私たちが経験する思い煩い、悩み、苦しみをすべて嘗め尽くして、人間の生を生き切ってくださったお方が主イエスさまだからです。そのお方との交わりをいただく時、私たちは心と心が深く触れ合い、何ともいえない慰めを経験いたします。キリストに向かう時に、聖書を通して、神がこの私をいかに愛し、慈しみ、憐れんでおられるのかを知らされます。
そして、この私の隣にキリストを見上げる信仰の友がいる。同じように躓きを覚え、キリストによる励まし、愛の慰め、霊の交わり、憐れみを必要としている友がいるのです。この友のためにも主イエスは死んでくださったのです。ですから、私たちはどちらが正しく、どちらが間違っているか、そんなことは問題ではなくなり、自分の意見が通る、通らないといった勝ち負けなどもなくなるのです。私たちのために、ご自分の命を捨てて愛して下さっているキリストがおられのですから、心を一つにして、私たちは共に御心を求めるのです。
神様の御心の実現には、幾つかのかたちがあるかもしれません。しかし目的は1つ、主の御心は宣教です。人間が、御心に適って本当の意味で人間になるためには、神との出会いがどうしても必要です。
先に救われた私たちには、御心を人々に伝える使命が与えられています。その働きに向かって、私たちは1つとなっていくのです。
キリストを見上げ、同じ方向に向かって歩むことにおいて一致するようにと、パウロはフィリピの兄弟姉妹に説いて行きます。「心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」と。

Ⅲ.具体例-初代教会の場合

聖書の中に、不一致から一致へと導かれていった具体例がありました。使徒言行録第6章を見ていきたいと思います。
初代教会の宣教の働きが祝された結果として、会員数が大幅に増えてきました。その中で、共にユダヤ人でありながら、ギリシャ語を話すユダヤ人と、ヘブル語を話すユダヤ人の2つのグループに不協和音が起こったのです。具体的な表れとして、やもめの人たちに対する給食サービスの不公平ということに発展していき、キリストにあって1つであるはずのエルサレム教会の一致が脅かされました。そこで、一致を回復するために、執事が立てられていったのです。
ここにまさに、フィリピの信徒への手紙の御言葉の具体的実践例を見ることができます。
彼らがしたことでまず注目したいことは、彼らは、一致を脅かす具体的な問題を、隠すのではなくありのままに差し出したという点です。
ギリシャ語を話すユダヤ人が、「私たちは」と言って、自分たちを主語にして苦情を述べたのです。その結果、苦情を伝えられた使徒の側の責任が明らかにされていきました。
私たちは、苦情を受けるとどう反応するでしょうか。聖書を見ていくと、このような状況の中で、私たちの一致を崩そうとサタンが働くということが分かります。
「問題はたいしたことはない」と、事柄を無視し、過小評価して、あたかも自分でやれるかのように思わせる。あるいは逆に、問題を過大評価し、手遅れであるかのように思い込ませるのです。サタンの働きによって心乱され、その結果として「信仰」ではなく「心配」が働いてしまいます。
このようにして、問題を投げかけられた側の課題、殊に教会の奉仕においては、問題を解決する能力がないということではなく、むしろ、神にゆだねる信頼が弱いということが問題となるのです。
サタンは問題を軽く見せたり、重く思わせたりすることで、問題解決から遠ざけようとします。つまり神に信頼することから引き離そうとするのです。
ここで聖書が教える原則は、問題を問題として認めた上で、神を見上げるということです。
問題があること自体が問題ではありません。その問題をもっていかに神に近づいていくか、そのことが何よりも大事なことなのです。
神さまが私たちに求めておられるのは、「神さま、これをあなたにお委ねします。あなたが最高責任者です」と祈っていくことです。
初代教会は、このようにして執事を立て、日々の配給を公平に行っていきました。その結果、神の言葉はますます広まり、弟子の数が増加していったのです。これがキリストを見上げ、一致して問題と取り組んだ結果、神からいただいた結論でした。つまり、宣教の前進です。
問題の根っこはどこにあったのでしょうか。それは「愛のほころび」でした。自分が正当に扱われていないという不満、教会からなおざりにされていると感じた人々が出てきたという問題です。
文化的な違いという壁を超えることが出来ないという問題。自分とは違う人々を受け入れて一致することができない頑なさ。そのような問題もありました。経済的不平等も現実的な課題でした。
ただ、いずれにしても教会内における愛のほころびが原因でした。ですから、12人の使徒では足りず、愛の網となるべき信徒リーダーとしての執事が立てられて、愛のほころびが癒されていきました。
こうして、初代教会は、問題解決者として執事を立て、キリストにある一致を目指していきました。
その結果として、使徒たちによって御言葉が説き明かされ、その語られた御言葉による励ましの中で立てられた執事たちによって、具体的な愛の牧会の業が展開されていったのです。
ここで聖書が語っていることは、執事を任命することによって教会のなかに分業が起こり、分業の結果、効率よく事が運んでいったということではありません。そうではなく、神さまの御言葉どおりに歩みを進めることによって教会が祝されたのです。
課題を持ちつつ、心を一つにしてキリストを見上げた時に、キリストにある一致が起こったのです。
御言葉がますます豊かに語られる環境、御言葉がまっすぐに聞かれる心の備え、そして、「ほころび」を繕う愛の奉仕が用いられていくとき、教会の宣教の働きが力強く前進していったのです。これが第2のポイントです。

Ⅳ.共に喜ぶために

パウロは、フィリピの信徒にあてて、「わたしの喜びを満たしてください。」(2:2)と語っています。キリストにある一致こそが、教会に連なる者にとっての深い喜びの原因となるということです。
「喜びを満たす」という言葉は、お月様に欠けのない満月の状態を表わす言葉です。キリストを見上げていくときに、必ず一致が起こります。赦し合いが起こり、和解が生まれます。
教会に一致が生まれること、その一致によってこそ、教会に連なる者が他では経験できない深い喜びを味わい、その喜びの源泉となるというのです。〈教会に来ていて良かったなあ〉としみじみ思う、というのです。
今日は4つの礼拝が一緒に礼拝を捧げる「合同礼拝」です。私たちは、いつも一緒の場所で礼拝を捧げてはいません。しかし、国籍を天に持つ神の民同士であり、私たちには福音という「共通言語」が与えられている神の家族です。これからも、共にキリストを見上げ、様々な課題をキリストに明け渡して生きていきたいと願います。お祈りしましょう。

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上にあるものを求めて

2018年8月26日
和田一郎副牧師
詩編33編12~22節
コロサイの信徒への手紙3章1~4節

1.コロサイの人びとが持っていた「希望」

パウロがこの手紙を書いたコロサイという町は、現在のトルコにあった小さな町です。
パウロはこの手紙を、そこの地域の教会に向けて書きました。コロサイの教会の人たちは、概ね正しい教えを忠実に守って信仰生活をしていたようです。そのことをパウロはことのほか喜んでいたことが、この手紙の1章4-5節に現わされています。
(私たちは感謝している…それは…)「あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくもの。」コロサイ1章4-5節
つまり、「あなたがたが…持っている「信仰」と…「愛」…それは…「希望」に基づくもの」だということです。
「希望」が信仰と愛の基だとは意外だと思いました。どちらかというと「信仰」があって「愛」があるから「希望」が生れるとも思えます。しかし、パウロがここで言っていることは、信仰と愛は希望に基づくということです。
パウロは手紙のはじめに、コロサイの人達は「希望」を持っていると言いました。その彼らのもっている希望には4つあることが、今日の聖書箇所から見ることができると思います。
3章の1節から4節には、キリストと共に「復活」させられた希望について、「キリストが、神の右の座にある」という希望。「死」の希望、それから「再臨」の希望についてです。私たちが信仰を持つことができる動機として、4つの希望があることをパウロは示しています。これらの希望について見ていきたいと思います。

2.「復活の希望」

コロサイ3章1節でパウロは「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから」と、わたしたち信仰者に、「あなたは復活させられたのですから」と、問いかけます。私たちは復活させられました。洗礼を受けた者は、キリストを復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。キリストを死者の中から復活させたのは、父なる神の力です。命を支配されている唯一の神がなされた大いなる業です。その神の力を信じることによって、洗礼を受けた時に、この私たちも、古い自分は死んで新しい命が復活させられたのです。イエス様を復活させた、同じ力が私たちの中にも生きているのです。古い私たちは死にましたが、新しい私たちが復活させられたのです。
パウロは他の箇所でも書いています。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(Ⅱコリント5:17)。
私たちは復活して、キリストが内住してくださっている、新しい人になったのです。
私たちは新しいアイデンティティーを持ちます。つまり、キリストが内住してくださり、喜んでくださっている自分です。それは自分の善い行いによるのではありません。
神の力によってであり、イエス様を復活されたのと同じ力なのです。私たちは毎日この力をもって、死んだけれどもまた復活した者として生活していきます。イエス様の復活は私の復活でもある。これが私たちの「希望」です。

3.神の右の御座 「上にあるものを求めなさい」

1節の後半に、「上にあるものを求めなさい」とあります。「上にあるもの」とは、物理的に空や宇宙の方向を指しているのではないのです。「天」のことを指しており、「天」とは神様のいる所を意味しており、主の祈りの中で「天におられるわたしたちの父よ」と祈る、その「天」のことです。「そこでは、キリストが、神の右の座に着いておられます。」と1節にあります。この場合の「右」とは、文字通り神様の「右側」ということではないのです。神様は、霊的で普遍的な存在ですから、右も左もないわけです。「右に座しておられる」とは、王様の代わりに全権を委任されて采配をふるう代理者となられたということです。天に昇るだけでしたら、旧約聖書のエリヤも天に昇りました。しかし、神の右に就かれたのはイエス様だけです。そして、私たちを愛してくださるイエス・キリストが、すべての最高の統治者として、王位に就いておられるのです。
私たちの心と思いとを「上にあるもの」に向けるとは、イエス様が預言を成就されて、死と復活の御業を完成され、さらに天の王座にいて、今の私たちの人生に関わって下さっていることに、心を向けるということです。過去の出来事ではなく、今も関わってくださっているということに「希望」があります。

4.死という希望

「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」(コロサイ3章3)とあります。死に関しては、20節でも「あなたがたは、キリストと共に死んでいる」と言っています。私たちは、イエス様の十字架の死が、自分の罪を赦すためであったことを「信じる」時に、イエス様の十字架に自分も加わります。つまり、洗礼においてキリストと一緒に、十字架の上につけられ、「罪ある古い自分に死ぬ」ことができるのです。
さらに、やがてこの世の肉体的な死を迎えるならば、「キリストと共に死ぬ」ことを完遂することになるのです。神様は、洗礼においても、人生の死においても、その死を通して、私たちをご自分のもとに呼び寄せられるので、パウロは「この世を去って、キリストと共にいたい」(フィリピ1:23)と、「死」を熱望したほどです。パウロのその思いはまさに、死を通して「希望」があるということです。死んで終わりではないのです。死んで新しい命へと変えさせられます。古い自分に死んで、キリストの復活と共に、新しい命を生きる「希望」があります。

5.「キリストが現れる時」

そして、最後に再臨の希望が語られます。「あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイ3章4)
先に述べた「死」と「復活」と「神の右に座す」ことは、すでに起こっている事実ですが、この「再臨」だけは、まだ起きていません。イエス様の再臨は究極的な回復の約束です。イエスが再臨されるとき、すべての悪は正され、すべての苦悩は終わり、私たちの喜びは完全なものにされるという希望があります。
今日、お話しをしている、聖書に記されているイエスから与えられた4つの希望は、私たちの信仰生活の中心をなすものです。洗礼と共に、罪にまみれた古い自分は、キリストと共に死んで葬られ、今も日々罪ある自分に死んでくれることです。そしてキリストと共に日々、新しく復活させられ、新しい命に生きられます。そのキリストは、神の右の座にあって見守ってくださっている、そして、いつか再臨の時にすべての苦しみから解放されるという希望があることです。
パウロが、信仰者すべてに投げかけているこのメッセージは、この希望が、しっかりと心の中に刻み込まれているから「信仰」と「愛」という実を結ぶのだというのです。この認識は、他のクリスチャンとの連帯感も強めてくれます。先週、私はジュニアチャーチのサマーキャンプで、群馬県の赤城山に行ってきました。キャンプ場を運営している方々は地元の教会の信徒さんや宣教師の先生たちご家族でした。はじめて会っても、同じ信仰をもつ兄弟姉妹が迎えてくださって、温かいものを感じました。クリスチャンという繋がりは、どこに行っても、キリストとともに死んで復活した者。新しい命を生きている兄弟姉妹と一緒にいるとい思いにさせてくれます。
教会では「キリストは死なれた。キリストは復活された。キリストは神の右の座におられ、キリストは再び来られる。」と説教します。パウロは、この4つのことを希望として、コロサイ教会の人々が持っていることを、喜びました。この4つの希望を持っているがゆえに、信仰を持ち続け、愛が現わされているのだと称賛していました。キリストにある「希望」は、クリスチャンの命を満たして生活においても、仕事においても意義と目的を与えてくださいます。キリストこそ私たちの喜びであり希望であり命です。
お祈りをいたします。

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主イエスに従う

2018年8月19日
松本雅弘牧師
イザヤ書65章1~9節
マタイによる福音書16章21~28節

Ⅰ.メシアであることの意味

フィリポ・カイサリアの地で、主イエスは弟子たちに向かって「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねました。するとペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰の告白をしたのです。
それを受けて、主は教会設立を宣言し、ご自身がメシアであることを明らかにされ、しかも「だれにも話さないように」とお命じになったのです。
とても緊迫した場面でした。何百年にもわたってイスラエルの民が待ち望んでいた真のメシアが、今、自分たちの目の前に立っておられる。このお方がメシアであるとは一体どういうことなのか、その秘密を弟子たちだけに明らかにされたのです。

Ⅱ.「このときから」

福音書を書いたマタイは「このときから」(16:21)と語ります。
マタイは、この言葉を主イエスの働きの特別な区切りの場面で使っています。4章17節では、「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」と記されています。
16章の後半から、主の御働きが新たな局面を迎えます。それは公生涯の始まりと同じくらい大事なことなのだと、マタイは私たちに語っているのです。
ここで、イエスからその話を聞かされた弟子たちは、そう言われても意味が分かりません。それ以上に、メシアが殺されるなんてあり得ないと思ったようです。ですから、ペトロは主イエスを脇へお連れして、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言って、いさめ始めたというのです。
「とんでもないことです」とは、直訳しますと、「あなたの憐れみがありますように」という意味です。ペトロには主イエスの言葉の意味が全く分かっていなかったのでしょう。〈主御自身が混乱しておられる。あれだけ集まった群衆も離れて行っている。もしかして宣教の行く末を悲観され、こうしたことを口走ってしまったのかもしれない〉と、ペトロは、このようなこととして考えたのかもしれません。そこで、主イエスを励ますつもりだったのでしょう。しかしあくまでも、それはペトロ個人の判断に過ぎなかったわけです。
学生の時、私はキリスト者学生会の活動に参加していました。私たち学生の信仰の成長のために、一生懸命に仕えてくださった主事たちから色々なことを教えていただきました。
その1つに「落ち込んでいる仲間を安易に励ますな」ということがありました。何故なら「神の御心に適った悲しみ」(コリントⅡ7:10)というものがあるからです。それを安易に取り去るなら、神の特別な取り扱いの邪魔となるというのです。私たちは善意で色々なことをするものです。でも結果として、神のご計画に水を差すようなことも起こるということです。
この時のペトロがそうでした。ですから主は「サタン、引き下がれ」と、ドキッとするほどに厳しい言葉をおかけになったのです。
ペトロはこの時、主に従い、そのお方の後ろから従っていくのではなく、そのお方を飛び越えてしまっていました。
主イエスが、「苦しみを受けて殺され」る、とおっしゃった途端、その言葉に躓き、その後に続く「復活の予告」、それも「3日目に復活することになっている」という、極めて具体的で、なおかつ大事な言葉を聞き逃してしまったのです。

Ⅲ.主イエスに従う―自分の命を救う道

私はこの時期になると33年前の日航機の墜落事故を思い出します。
評論家の小浜逸郎さんが事故に遭遇した方々に触れて語っていました。「…日航機事故がありました。有能なビジネスマンがたくさん乗っていたわけですけれども、死がほとんど確実になった15分か20分の間に、彼らが手帳に一所懸命、何を記したか、要するに、僕の人生はいい人生だった。妻と子どもにありがとうというような文句を書いた人が圧倒的に多かった。普段、家庭のことなんかあまり省みる余裕のない、おそらく猛烈な会社人間だった方たちだろうと思いますが、その人たちの中に自分の営業成績がこれぐらいだと書く人なんて一人もいなかった。僕はすごくああいうところに何かを発見できたような思いがしました。」と。
私はこの文章を読み〈本当にそうだよな〉と深く頷く経験をしました。
そしてもう1つ考えさせられたことありました。それは掛け替えのない人々の存在が、日常の生活において、別のものにとって替わられているという現実がいかに多いかということです。
突然、病の宣告を受けたり、大きな躓きを経験したり、また、大事故に遭遇するなど、自分のいのちに直面する時に、これまで、大事だと思っていた事柄が一瞬の内に色あせ、人生の終わりを意識し、一番大切なことに気づかされるのです。

主イエスが、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(16:26)と言われるのは、そういうことなのです。
ここで主がお使いになった「命」と訳されているギリシャ語は、生物学的意味での生命を指す言葉ではありません。魂とか心と訳すことの出来る言葉で、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と言われた、その「神の言葉」によって養われる命のことです。
この箇所の少し前、主イエスは弟子たちに「わたしを何者だというのか」(15節)と問いかけました。自分の考え、その考えに基づいてどう生きていくのか、どう生きて行きたいのかを、主は問われたのです。
そして、今日の箇所に至って「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」とおっしゃるのです。
主イエスはここで、敢えて「損得」の「得」という言葉、私たちクリスチャンが嫌う「御利益宗教」の「御利益」という言葉を使って問うておられるのです。
主がここで言われる御利益とは何でしょうか。それは自分の命を手に入れるということです。ほんとうの自分として生きる、ほんとうの自分を見つけて生きる命、という意味です。
「全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言われるほどに価値をもつ自分、そういう自分を、あなたは見つけていますか、という問いかけでもあるのです。
さらに主は続けて言われます。「自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」と。その命と取り替えのきくものなどないと主は言われるのです。それほどに大きな値打ちをもっているもの、それがあなたである。その値打ちに、あなたは気づいているか。そのような問いこそが、この時の主イエスの問いかけであり、主イエスの十字架の意味でもあるのです。
私たちはこの主の言葉の前に今一度、自らの命の重さと向き合うように導かれるのではないでしょうか。そして、この命の重さを贖うために、主がなさったことを今朝もう一度聞き取り、感謝したいと思います。そうした上で、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ10:23)と招かれる主に従いたいと願います。

Ⅳ.主イエスに従う

洗礼入会準備会の時、「主イエスは、あなたの心の扉を叩いておられる」とお話しします。
心の扉には、外側に取手が付いていません。強引に押し開けて中に入ろうとはなさらない。主イエスは、あくまでも私たちの主体性を尊重なさるのです。
主の、その声に私たちが気づき、心の扉を開けた時に、イエスさまは私の心に入って来てくださるのです。それが主イエスを受け入れること、主を信じることの始まりです。ここからクリスチャン生活が始まります。
戸を開けて、中に入っていただいたイエスさま、玄関にお招きした主イエスさまを、全てのお部屋、私の生活の全ての領域に、主として王としてお迎えする、すなわち明け渡すことが、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」との招きに応えることなのです。
イエスさまは、私たちそれぞれが負うべき十字架があることをご存知でした。誰もが重荷を背負っているものです。それは「自分の十字架」ですから責任をもって向き合わなければなりません。
ただ同時に聖書は、互いに重荷を負い合い、共に信仰を歩む友がいると語ります。いやそればかりではありません。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11:30)と言われ、「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われる主イエスさまがおられるのです。私の十字架、私の重荷を自らの重荷として引き受け、共に担って下さるお方、それが私たちの主イエス・キリストなのです。
主に従い、明け渡して生きる時、私たちが差し出した分だけ、その人生は祝福され、新しい命を得ることができるのです。
「主に従うことは なんとうれしいこと」、「主に従うことは なんと心づよい」(讃美歌507)と賛美した信仰の先輩と共に、その恵みを味わって歩んで行きたいと願います。
お祈りします。

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生活の中に「すき間」を

松本雅弘牧師
詩編23編1~6節
ルカによる福音書10章38~42節

Ⅰ.私たちの日常

今、S・フィリップスの『修養する生活』を読み始めました。その中に「私たちは、常に何かによって修養されています」と書かれていました。テレビやスマホ、様々なものによって、意識を超えた形で影響を受け、心が形成されていきます。今日、登場するマルタという女性も、何かに「修養され」つき動かされるように、ある種のドタバタを経験した女性です。

Ⅱ.マルタとマリア

ある日、マルタとマリア姉妹はイエスさまと弟子たちを招くことにしたのです。姉妹は協力して夕食の用意を始めます。その途中、マルタが忙しさのあまり余裕がなくなりイライラし始めます。
一方、妹マリアは、主イエスの説教が始まると、準備の手を休め、そのお話に聞き入るのです。マルタは、夕食作りの手伝いもしないでいる妹が許せなくなり、そうさせている主イエスにも腹が立ち、「主よ、わたしの姉妹は私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」と訴えました。
このマルタは2千年前の女性です。でも私たちと変わらない課題を抱えていました。その課題とは「忙しさ」です。忙しさの中で、最も大切なことを見失ってしまうという経験でした。
ところで私たちの日常生活の中では、今何をするかを選ぶ時、その選びとは、白黒はっきりしているようなものから物事を選択する、というような選び方ではありません。たくさんある良いものの中から「最も良いもの/今、一番大事なもの」を選ぶという選び方となり、それは結構たいへんなことです。特に、この時のマルタのように、余裕がなくなり始めますと、最も大切な事柄ではなく、むしろ別の何かに夢中になってしまう傾向があるように思います。
ある人が、「愛の綴りはT-I-M-Eと書くのだ」と語っていた言葉を思い出しました。「T-I-M-E」、そうです「時間」のことです。
聖書で最も大切なものと言われる「愛」は「T-I-M-Eと綴る」。これは裏を返せば、「愛」は決して急いで出来るものではない、時間を要するのだということでしょう。
確かに急ぎながら人を愛することなど出来ません。そして、考えたり、食べたり、笑ったり、礼拝を捧げることも急いで「する」ことではないのです。急いでいたら、心を込めることが出来ないわけですから・・・。子育てもそうです。急いではできません。
主イエスは、私たちの生活を支える土台が本当に大切であるとお話をされました。土台とは普段は土の下にあり、私たちの目からは隠されたところにあります。ただ、いざと言う時に、その価値が現れるものです。
私たちが生きて行く上で、普段は目に見えないが、いざと言う時にその価値が問われるものって何でしょうか。それは「関係」でしょう。夫と妻の関係、親子の関係、友達関係、クリスチャンでしたら神さまとの関係です。それらは普段は目に見えません。だから、何事もない時は特別問題になりません。ほったらかしにしてしまう場合もあるのではないでしょうか。
でも実際はどうかと言えば、「関係」、それは土台ですから、私たち自身はそうした「関係」によって支えら守られて過ごしているのです。時に、土台がしっかりしていないのに見える部分だけが大きくなると、必ずバランスを崩して倒れてしまいます。場合によって、その倒れ方はひどいのです。仕事においても、何年か経つと少しずつ色々なことが分かってきます。仕事が楽しくなる。当然、責任が増え忙しくなります。
主イエスは、私たちのそうした外側の営みを家にたとえておられます。その家を支えているのが土台、「関係」でしょう。
夫婦の関係を例に取って考えてみましょう。「夫」という言葉も「妻」と言う言葉も「関係を表わす言葉」です。夫は妻がいるから夫ですし、妻は夫がいるから妻です。
とすれば、妻が自分を妻であると意識することができるのは、夫の存在があるからで、その夫が疎遠になってしまったなら、妻はもう自分を妻として意識できなくなってしまいます。
そうなると妻はふと「私は何なのかしら」と考え、そして周りを見回すとそこに子どもが居る。「ああ、この子の母親なんだわ」と思う。
このようにして「母になった妻」は、子どもに全力投球し始めます。子どものためと言いながら、自分が良い母親であるという評価を得たいがための全力投球も起こります。これは子どもにとっては迷惑なことかも知れません。
夫はどうでしょう。会社で仕事の責任が大きくなると同時に、喜びや充実感を感じ始めます。仕事を第一にして物事が進み、ここで、夫が完全に会社員になってしまう。その結果として妻は、一層母になっていく。
目には見えません。でも明らかに関係に変化が起こってくるのです。見える部分では前と変わらず同じ家に住み同じように暮らします。でも中身は夫婦が一緒に生きているのではなくて、会社員と母が同居している状態です。
そして互いが「空気のような存在、空気のような関係」になる。この「関係」は土台に当たる部分ですから目に見えません。でも生活全体を支えるはずの夫婦という土台が、「空気のよう」ならば、何か起こった時に、簡単に崩れてしまうでしょう。2人の関係を育むために時間を投資することを怠った結果です。

Ⅲ.イエスさまの中にある〈ゆとり〉

ポール・トゥルニエが語っていました。「現代人には沈黙ということが欠けているのではないでしょうか。・・・毎日の生活の中が卵の中のように一杯につまっていたら、何の入る余地もないし、神ですらそこに何も入れることができないでしょう。ですから、生活の中にすき間をつくることが大切になるのです。」
「生活の中にすき間をつくること」、「生活の中のゆとり」が必要だとトゥルニエは語るのです。トゥルニエが勧めるような姿に近づきたいという祈りが私自身のなかにあります。
この時のマルタも、ゆとりを失った時イライラが始まりました。最も大切な事を見失って一杯一杯になってしまったのです。
では「ゆとりある生活」とは何でしょう。聖書によれば、主イエスこそが、この生活を実践していたことが分かります。それは分かりやすく言えば、「ひとりの時間を持つ/神さまの前に自分を振り返る時を持つ」ということです。
福音書には、弟子たちから離れ、よく独りになる時間をおとりになっていた主イエスの姿を発見します。イエスさまは意識して生活の中に「すき間」を作っておられたのです。やるべき多くの「良きこと」がある中で、イエスさまは、忙しい自分の日常を吟味するために、「すき間」を取っておられました。
「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ1:35)。そして、たくさんある「やるべき大切な事柄」の中から、「そのためにわたしは出て来たのである」(1:38)と言って、今、特に時間をかけて取り組むべき事柄、イエスさまにとって、「そのため」にという事柄を発見しながら生活することができました。
このようにしながら、ご自分の生活の土台となる神さまとの関係、弟子たちとの関係、また人々との関係を振り返る時をもっておられたのです。
実は、私たちに与えられている、こうした礼拝の時間も神さまから与えられた「すき間/ゆとり」のようなものです。そうした「ゆとり」の中で、日常の自分を振り返り、生き方を修正し、土台を点検し、ふさわしい土台を形作るようにと導かれていくのだと思うのです。

Ⅳ.イエスさまからのもてなしを受ける

今、高座教会で取り組んでいる3年コース「エクササイズ」の1年目の課題に、「生活の中に余白をもつことと生活のペースを落とす」というエクササイズがありました。まさに、「生活の中のゆとり/すき間」の問題と取り組むことです。
私たちは、日々、やるべき多くのことに囲まれています。それに加えて、やりたいことや、見たいテレビ、読みたい本、何しろたくさんあります。
そうした多忙な生活の中に「ゆとり」を確保すること、そのことが、実は、私たち自身の生活にリズムをもたらし余裕を与え、たくさんある大切な事柄の中から、いま、最も大切な事柄を選びとることができるようにと、私たちを導く秘訣なのです。
イエスさまご自身がその生活の中で、そして、また、マルタとマリアの物語をとおして、聖書は私たちに語っているのではないでしょうか。
実は、こうした礼拝の時も、生活の中に「ゆとり」を確保する大切な時間でもあり、私たちの人生を支える様々な関係を振り返り、また養う大切な時間でもあるのです。
主イエスは「人はパンだけで生きるものではない、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と教えられました。
礼拝は、神さまがこの「心の糧」をもって私たちをもてなしてくださる大切な機会です。日曜日は、動いている生活を一端ストップして、生活と生活の間に「礼拝」という「すき間の時間」を設け、自分が昇って行こうとする梯子が、正しい壁に掛けられているかどうか、間違った壁に立てかけた梯子を一生懸命昇ろうとしてはいないか、そうした私たち自身の生き方の方向性も含めて、思い巡らす大切な時とさせていただきたいと思います。お祈りいたします。

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主日共同の礼拝説教

「岩」の上にたてられた教会

2018年8月5日
松本雅弘牧師
列王記上8章41~45節
マタイによる福音書16章13~20節

Ⅰ.マタイ福音書の分水嶺

今日の聖書個所は、「マタイ福音書の分水嶺」と呼ばれます。
主イエスは、神の国の福音を語り、病を癒し、パンと魚の奇跡をもって多くの人々に仕えていかれました。当然ですが、イエスさまの評判は高まり、噂を聞いて集まる人の数も日ごとに増えていきました。「ガリラヤの春」と呼ばれる時期です。しかしこの後、主イエスの思いが十字架へと一気に集中していきます。
主イエスの一行は、この時ガリラヤよりもさらに北に40キロ行ったフィリポ・カイサリアを訪れていました。この地で、とても重要な意味をもつ3つの出来事が起こっています。
1つはペトロの信仰告白。そして2つ目に大事な出来事は、そうしたペトロの信仰告白を受けとめた主イエスが、その告白の上に「わたしの教会を建てる」と言われ、いわば教会設立の宣言をされたということです。
そして最後、3つ目は次回の聖書箇所に記される、主イエスによる十字架と復活の予告です。

Ⅱ.ナザレのイエスは何者なのか?

ここで、主イエスは弟子たちに向かって、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。
それに対して弟子たちは、「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の1人だ』と言う人もいます」(マタイ16:14、15)と答えました。ここに出て来る証言はどれも最高の評価でした。
私は高校2年生の時、初めて教会の礼拝に出席しました。そしてすぐ教会学校にも参加し始めました。その時に先生が話してくださったことを今も忘れずに覚えています。
世の中には、「偉人」と呼ばれる人はたくさんいる。そうした人たちは、「ここに道がある、これが真理だ」と、人としての道を指し示してくれる。でも「ナザレのイエス」だけは違う。イエスは、教師のように道や真理や命を指し示すのではなく、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)と語って、自分が道そのもの、真理そのもの、命そのものと言い切る。教会学校の先生はこのように教えてくれました。
このイエスの言葉、これはよく考えてみればとてつもない発言です。普通の人は決してこんなことは言えません。でも教会に導かれた者は、イエスのこの言葉が本当かどうか、人生のどこかの時点で一度は向き合うように招かれていると思うのです。言葉を換えて言えば、イエスは単なる大嘘つきか、あるいはその発言のままのお方かどうか…。もし大嘘つきだけの男であるならば、暑い中、礼拝に集うこと自体が無意味でしょう。気休めにしか過ぎないのですから。しかし、そうでないならば、主イエスのこの問いかけは、それを聞く1人ひとりに、ある種の態度決定を迫る発言となるのです。自分のことを指さし、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」、と言い切るわけですから。それも真顔でそうおっしゃるのです。
「人は聖書を読むようにしか生きることは出来ないし、生きるようにしか聖書を読むことが出来ない」と私の恩師は教えてくださいました。私たちは、この主イエスの問いかけ、その聖書の言葉の前に独り立たされる経験をするのです。そして態度決定を迫られる。
ここで主イエスが求めているのは周囲の者がどう言っているかではありません。自分の家がクリスチャンホーム、親がクリスチャンである、あるいはミッションスクールを卒業した、そんなことを聞いているのではないのです。勿論、そうした一つひとつのことは恵みですが…。
主イエスが聞きたいことは、「あなたはわたしを何者だと言うのか」ということです。それをあなたの口から聞きたい。あなたの考えを聞き、その考えに基づいてどう生きていくのか、どのように生きて行きたいのか、それを聞きたいのです。

Ⅲ.信仰告白によって神との生きた関係が始まる

旧約聖書を紐解きますと、出エジプトの出来事で解放された人々は、シナイ山において神と契約を結びます。この時から彼らは正式に神の民、主の花嫁イスラエルとなります。その結婚関係が守られ祝福されるようにと与えられたのが十戒を中心とする律法です。
結婚という契約関係に入ったのは律法を守った結果ではなく、あくまでも律法は「神の民/主の花嫁はいかにあるべきか」を示すものです。特にカンバーランド長老教会では、この関係を「恵み」と呼びます。この恵みの契約関係と対照的なのが一般的な契約関係です。
例えば就職で試用期間という時期を設ける場合があります。まずは試験的に採用してみる。そしてよく出来たら本採用となる。神の民の場合はそうではない。最初から本採用なのです。
その証拠に、律法は神の民として「本採用」された後に与えられています。
この順序が大事です。実は最初から本採用の神の民が「神の民たる者、主なる神の花嫁たる者はいかにあるべきか」を示す律法を早々と破るという大事件が出エジプト記32章に出て来ます。
アロンが民から集めた金で雄牛の像を造った。彼らは、「これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」(出エジプト32:4)と言い、アロンはその前に祭壇を築き、祭りを宣言し拝ませるのです。ホセアの言葉を使えば姦淫の罪です。結婚なら破談されて当然です。しかし破談にならなくて済んだのです。実はこの事件こそ、その後のイスラエルの歩みを象徴するような出来事でもありました。
神の民、花嫁イスラエルは繰り返し律法を破りますが、それにもかかわらず主なる神は彼らを赦します。神は、結婚関係、自らが結んだ恵みの契約に誠実を尽くされたのです。ただそのために、どれだけ犠牲が伴ったか。犠牲の贖いの血が流され、執り成しの祈りや労が捧げられたか。そうした一つひとつの労苦は、新約に至り、最終的には十字架の贖いにつながっていきました。
話が大分発展してしまいましたが、この時の主イエスの問いかけ、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタイ16:15)は、まさに「恵みの契約」への招きの言葉なのです。
それに対して私たちを代表したペトロが答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」。まさに信仰告白をしたのです。私たちで言うならば、そのように告白し、洗礼へと導かれ、神との生きた関係が始まるのです。

Ⅳ.「岩」の上に建てられた教会

このペトロの告白を、主は本当に喜ばれ「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。」とおっしゃいました。そして、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われたのです。
さらに続けて「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と語られました。
カトリック教会では、この鍵をもっているのがペトロ直系のローマ教皇であると理解しますが、私たちプロテスタント教会は、むしろこのペトロの信仰告白に重きがあると考えます。
今日はこの後、私たちは聖餐に与ります。その前に告白する「使徒信条」、この信仰告白こそが、時代を貫いて教会に継承されてきた教会の礎です。主は、その上に私たち教会を立ててくださるのです。
そしてもう1つ、この告白をした弟子ペトロに心を留めておきたいと思います。
「ペトロ」とは「岩」という意味のギリシャ語です。この告白をした人間ペトロに軸足を置いて考える時に、そのペトロは決して「岩」のように強いものではありませんでした。
次回の聖書箇所で、受難の予告をなさった主イエスを、このペトロが脇へお連れして、いさめ始めるのです(21節)。実に的外れな行動を取ってしまいました。それだけではありません。「あなたはメシア、生ける神の子です」と、告白した同じ口でもって、最後の最後には、主イエスを3度も「知らない」と裏切ってしまうペトロです。
つまり堅固な「岩」であるのはペトロ本人ではなく、むしろ「イエスはキリストであり、生ける神の子である」という告白そのもの、そして17節で主イエスが言われるように、そうした告白へと私たち一人ひとりを導いてくださる「天の父」なる神さま、そのお方なのです。
主イエスはその「岩」の上に「わたしの教会を建てる」とおっしゃるのです。そして、「天の国の鍵を授ける」とまで言われます。
そのことに、畏れと不思議さを覚えさせられるのです。今日は、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」、という主イエスの御言葉を何度か読ませていただきました。
主イエスが嘘つきではなく、本当に語られたようなお方であるならば、これからも真面目に宣教の業に励まなければならないと思わされるのです。愛する家族の者たちと一緒に、これから後も、神の国の恵みの中に歩んで行きたいと心から願うからです。お祈りします。