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主日共同の礼拝説教

愚直のすすめ

2018年9月30日
和田一郎副牧師
レビ記19章18節
コロサイの信徒への手紙3章12~14節

1、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

今日の聖書箇所は、パウロが、クリスチャンが生活の中で大切にすべきことを、教えている箇所です。クリスチャンの道徳観を表しています。聖書の中で、もっとも用いられた道徳基準は十戒であると思います。教会によっては毎週の礼拝の中で、この十戒を唱えてきた教会もあるようです。父と母を敬え、殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、嘘をついてはならない、隣人の家を欲しがってはならない。そして、何よりも唯一の神を信じなさい、というシンプルな教えです。
新約聖書の中で倫理基準として具体的に、憐れみ、慈愛、謙遜、柔和、寛容という美徳をパウロは教えました。しかし、パウロの教える美徳と十戒の教えとは、大きく違うところがあります。それは十戒が「してはいけない」「こうしなさい」と、直接行いについて戒めているのに対して、パウロは、その行いを教えているのではないのです 。「謙遜になりなさい」「寛容な態度をとりなさい」と言っているのではないのです。前の聖書箇所には、「古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を身につけなさい」という言葉があります。クリスチャンとなった「新しい人」というのは、内にあるキリストの性質に満たされて、溢れ出るように、憐れみ、慈愛、謙遜、柔和、寛容といったものを身につけていると言うのです。つまり、努力して寛容になりなさい。謙遜に振舞いなさいと、教えているのではなくて、しっかりと信仰生活を送ってキリストに結びついていれば、おのずとそのような性質が、内側から表れるということです。それが十戒とは、大きく違うところです。日々、聖書を通してキリストの性質で満たされれば、日々の生活の中に、おのずとキリストの性質である「美徳」が表れてきます。

2、赦したら、赦される?

13節では、人間の難しい課題を問われています。それは「赦し」です。美徳の中でも、もっとも難しい人間の課題です。怒りや憤りの対象となる人の姿が見えると、「赦す」などと思う気持ちは、あっという間に吹き飛んでしまいます。
しかし、世間一般に言われる「赦す」ことと、パウロが教えている「赦し」は、少し違うようです。
赦しについては、いつも礼拝で祈っている「主の祈り』にも赦しを乞う言葉があります。
「私たちの罪を赦してください。私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから…」と、わたしたちは祈っています。しかし、気をつけなければいけないのは、誰かを赦すことで、自分の赦しを求めているのではないということです。赦したのだから赦して下さいという、取引のような祈りではないのですね。カウンセリングなどで、ある人が人間関係で悩んでいるとします。「あなたは、憎らしい人のことで悩んでいますね。それを解決するには、相手を赦すしかありません。その人を赦せば、あなたの心は落ち着きますよ」とアドバイスするかも知れません。つまり、自分の意思の力で「赦す」ということを努力するのです。それはそれで安心するかも知れません。しかし、そのためには相当な忍耐と意志を必要とします。しかし、聖書の教える「赦し」は違います。わたしたちは、すでに赦されています。イエス様は十字架で「完了した」と口にされて、赦しはすでに成されました。わたしたち自身の中にある、人を赦せる力というのは、とても脆弱なものです。しかし、イエス様が赦してくださったので、赦す力を頂いたのです。
「『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた」のです。(ルカ5:20)自分の意思の力ではなくて、赦してくださった十字架の力で、人を赦せる力の源を得ることができたのです。
しかし、私たちはすでに赦されていますが、終末の終わりの日までは「罪の性質」が残っています。なおも今日犯してしまう罪について赦しを求める必要があって、「主の祈り」を祈るのです。「今日、犯してしまう、私たちの罪を赦してください。私たちも自分に負い目のある人を皆赦せますように…」と。自分がすでに多くの罪を赦されてきたことに感謝して、他人の理不尽や、過ちを赦すことができるようにと祈るのです。
今日の聖句13節後半の御言葉「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」。神に赦されたことを知るとき、私たちの心に癒しが起こります。そして、人を赦すことが可能になるのです。

3、愚直のすすめ

『ドン・キホーテ』の物語をご存じでしょうか。この17世紀の物語にはキリスト教の美徳を重んじる、庶民の様子がたくさん描かれています。ドン・キホーテは妄想にとらわれて、自分を悪に立ち向かう騎士だと信じ込んで、風車を巨人だと言って突進するような人物です。彼は気が狂っていると思われがちですが、しかし、普段は理性的で、理に適った発言をしては、周囲も頷きながら聞き入るという知的なカトリック教徒でもあります。この物語はドン・キホーテと、ちょっと間抜けな農民のサンチョとの二人の珍道中の旅が舞台です。ドン・キホーテはサンチョに対して、農民だからって卑しいことはないのだと励まします。そのような中で、美徳について触れていました。「美徳が備わっていれば、王侯貴族にだって何も気後れする必要はないぞ。なぜなら、血統は引き継がれるものだが、美徳はその人が身につけるもの、だから、ただ受け継がれるだけの血統にくらべれば、美徳はそれだけで価値があるということになる。」この美徳というのは、憐れみ、慈愛、謙遜、柔和、寛容といった振舞いでしょう。他にもドン・キホーテは「美徳の道は・・・終わりのない、永遠の命を得ることができるということだ」とも言うのです。「永遠の命」とは、クリスチャンとなった者の、新しい命のことです。ただ、カトリックの教理と、先ほど私が話したプロテスタントの教理である「永遠の命を得たから、キリストの性質を身につけて、美徳を表していく」という教理と、ちょっと違いがあるのですが、しかし、聖書から忠実に学んで、生活を豊かにしている様子が分かります。
周囲の人はドン・キホーテを狂人扱いしていましたが、農夫のサンチョは、主人を自慢していました。「うちの旦那は、ずるい心なんて、これっぽっちも持っちゃいない。下心のかけらもない。おいらはまるで自分の心臓みたいに好きになっちまった。」と愛情の念をもっています。二人の言葉を聞いていると、パウロが記した美徳、憐れみ、慈愛、謙遜、柔和、寛容を、身にまとった人、古い人を脱ぎ捨てた、新しい人に生きていると思えるのです。

4、「愛はすべてを完成させる きずなです。」

今、話しました「美徳」を、完全なものにするのが「愛」です。コロサイ14節に、「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」とパウロは結んでいます。他の聖書では「愛は結びの帯として完全です」と訳していました。つまり憐れみ、慈愛、謙遜、柔和、寛容といった美徳も、「愛」という帯で結ばれなければ、それらは完全ではないということです。ドン・キホーテがサンチョを諭す美徳の言葉は、「ごもっともです」といった、綺麗ごとには聞こえません。それは、サンチョに対する愛があるからです。純粋な美徳には「愛」であって「うちの旦那ずるい心なんて、これっぽっちも…」と、サンチョに言わしめる、そのような「愛」がなければ、美徳は完成しません。
先に、赦しの話しをしたところで、「赦したら、赦される」のか。いや、そうではなくて、すでに赦されているのだと話しをしました。神様の「愛」も、やはりこれと同じことが言えます。私たちは神様を愛したから、愛されたのか。隣人を愛してあげたから、愛してくれてもいいじゃないか、と求めるのか。いいえ、私たちが信じる神様は、私たちに先立って愛してくださる神様です。わたしたちの中にある、人を愛する力は、頼りないものです。
神様が愛してくださったので、愛の力を知りました。その力によって、人を愛することができるのです。愛の源流は常に神にあります。恋人同士の愛、夫婦の愛、親子の愛、人を慈しむ慈善の愛もみな、愛のみなもとは神にあるという前提があることを、心に留めていただきたいと思います。私たちが愛について行き詰まりを感じた時、立ち返るべきは、神の愛です。今日は、コロサイの手紙から憐れみ、慈愛、謙遜、柔和、寛容といった美徳は、心の中にキリストという性質があるからこそ、湧き出てくるものだと学びました。その美徳の中で、もっとも困難な、赦しというものを成すことができるのは、神様に赦されていることを知ることです。そして、愛されていることを知ることです。わたしたちが愛するのは、神がわたしたちを、愛してくださったからです。愛は、すべてを完成させる絆です。お祈りをしましょう。

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主日共同の礼拝説教

新しい人を着る

2018年9月23日
和田一郎副牧師
創世記1章26~27節
コロサイの信徒への手紙3章8~11節

1、古い人を脱ぎ捨てる

コロサイの信徒への手紙は、全4章のうち、前半の1章と2章だけで「キリスト」という単語がたくさん出てきます。キリストという方が、どのような性質の神であるのか、そのことを明らかにする言葉で満ちています。そのキリストの力によって、キリスト者は救われたのだから、救われる前の古い自分を捨てなさい。捨てて新しい生き方をしなさいと教えているのが今日の聖書箇所です。
そして、この手紙を読む時、一人の信仰者の生き方だけではなくて、「あなたがた」と言われているように、共同体全体について述べていることを心に留めておきたいと思います。教会という共同体の中で、一人一人がどのように教会を建て上げていくべきか。その指針が含まれています。
まず8節には、クリスチャンとなった「今は」という意味で、「今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。」と言うのです。はじめの「怒り、憤り、悪意」という言葉は心の中の思いです。その後の「そしり、恥ずべき言葉、うそ」というのは悪い言葉使いについて指摘しています。キリストによって生まれ変わった者は、今はもう、そうであってはいけないという具体的な教えです。人は「怒り、憤り、悪意」といった感情に支配されやすいものです。怒りや憤りや悪い言葉が、人を傷つけ争いを生んでいるにも関わらず、なかなか制御できません。

2、造り主の姿に倣う新しい人

その悪意の象徴として、創世記に記されているのがエデンの園でエバをそそのかしたヘビです。神様の言葉を捻じ曲げて、食べてはいけないと言われた木から、果実を食べさせ、人と神との関係を壊してしまいました。「悪い言葉」は、アダムとエバにもみられます。二人の口からは、神様への正直な言葉ではなく、「あの蛇がだましたので、食べてしまいました」。という責任を転嫁する言葉でした。神様との約束を破ったことから、人はエデンの園から追い出され、私たち人間に罪の性質が入ります。その罪の性質が「怒り、憤り、悪意」や、「嘘、偽り」を口にするといった行為で現われるのです。
しかし、この自分ではどうにも制御できなかった罪を、赦して下さったのは、イエス・キリストを信じる信仰があってこそです。キリストを「わたしの主です」と信じる信仰によって、エデンの園から追い出される以前と、同じ状態にもどることができたのです。
エデンの園にいた状態というのは、今日お読みした旧約聖書1章27節にあるように、人は「神にかたどって創造され」ました。「かたどって」というのは、型をとるように、神と似たかたちに造られたのです。ですから、わたしたちがクリスチャンとなって新しい人になるということは、まったく別の人間になるのではなくて、もともとあった姿、人間がエデンの園で、本来あるべき姿として、神と信頼し合う存在に戻ったということです。
そのように戻ったのであれば、という意味で、パウロは今日のコロサイ書の10節で「造り主の姿に倣う、新しい人を身に着け」なさいと言うのです。造り主の姿に倣う、神の御性質に倣って造られた状態に、戻らされたのだから、悪意をもったり、悪口を言うような、古い自分を捨てなさいとパウロは言うのです。
私たちは洗礼を受けて、神様の御性質に倣うクリスチャンになりましたが、それで完了というわけにはいきません。いつか来る終末の時までは、まだ私たちには罪の性質が残っていますから、毎日、聖書の御言葉から、新しい性質を身に着けなければなりません。
10節後半にあるように、御言葉を受け取って、日々新しくされていく。そうした人達が集まって、教会というものは立て上げられていきます。

3、多様性と統一性

しかし、教会というところは同じような教えに従っていても、同じような人ばかりではありません。他の教会から転入会されてきた方もいます。違う教派や教団の「教え」の中で信仰生活を守ってきた方と、一緒に教会を形成する時には、お互いに違和感を持つこともあるでしょう。しかし、11節に「ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません」とパウロが言っているとおり、教会というところは、どんなに文化や教派が違う人でも、イエス・キリストを主と信じる人であれば、誰でも教会に加わることができると言っているのです。
ところが、キリスト教会の実際の歴史はどうであったでしょう。パウロがこの手紙を書いた以降、教会は多くの派閥に分裂していきました。同じ神様、同じ聖書、同じ信仰を主張しているのに、私たちは一つの教会とならずに分裂を重ねてきました。
大きな動きとなったのは、16世紀の宗教改革です。当時のヨーロッパはカトリック教会が統一性を保っていましたが、宗教改革によってプロテスタント教会が生れました。
それでプロテスタント教会は一つとなって、まとまったかと思うとそうではありませんでした。プロテスタント教会の中では、聖餐式に関することが議論されました。聖餐式のパンとぶどう酒は、イエスキリストの肉と血を表しています。カトリック教会では聖餐式のパンとぶどう酒が、「キリストの体そのものと、なる」としています。しかしプロテスタントの教会では「キリストの体を象徴する」、つまり普通のパンとぶどう酒だけれども、キリストの体を象徴しているのだという解釈や、パンとぶどう酒に、「キリストが霊的に臨在する」と解釈したり、「共存する」と表現する教会があり、その解釈の違いだけで、ルーテル派、改革派、長老派、その他の教派へと分裂を繰り返していきました。パウロが、教会は一つだと言っていたのですが分裂していきました。
今でも、熱意のある人は熱意のある人と、静かに礼拝する人は静かな人と、裕福な人は裕福な人、貧しい人は貧しい人の教会を作り続けてきました。
しかし、イエス様もそのようなことを望んでいなかったでしょう。
「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」ヨハネ福音書10:16節。「一つの群れ」というのは教会は一つだということです。地域教会は沢山ありますが、すべてのキリスト教会は、「公同の教会」と呼んでいる通り、一つの群れです。
特にパウロは、文化の違う外国人の伝道に尽した人ですから、教会の多様性と統一性を、説き続けた人です。そもそも教会の多様性と統一性を重視するのは、私たちが信じる神様のご性質を考えると、多様性と統一性をもつ神様だと分かると思います。私たちの信じる神様は、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神からなる三位一体の神様です。三つの位格は性質は違っても、本質において同一で、唯一の神様です。三つの性質が交わった、交わりの神様です。神様の性質の中に多様性と統一性をもっているのです。それに倣って私たち人間も、一人一人豊かな別々の個性で造られました。強い人だけではなく弱い人も、大きい人だけではなく、小さい人も造られました。男の人は男のままであり続け、女の人は女の人であり続けるように、小さい人は小さいままで、弱い人は弱いままであり続けます。共同体が一つになると言った時、集う人達が同じような性質に変われと言っているのではないのです。それぞれが違うままで一つになれるのが、一つの群れなる教会です。11節後半で「キリストがすべてであり、すべての者の内におられる」。とありますように、私たちの内にキリストがいるという、本質的なアイデンティティが共通してあれば、一つとなれるのです。

4、キリストがすべて

では、具体的に個性の違うものが集まって、様々な問題が出てきた時、どうすれば一致することができるのでしょうか。アウグスティヌスは(古代キリスト教の神学者 354年~430年)次のような言葉を残しました。
「本質的なことでは一致を、はっきりしないことでは自由を、すべてのことで寛容をしめしなさい」。
問題に対処する時に、それが本質的なことか、本質的ではない問題なのかを識別する必要があります。本質的ではないところでは、寛容を示して違いを受け入れるべきでしょう。カトリック教会も、プロテスタントの各教派においても「キリストがすべてであり、キリストが、すべての者の 内におられる」ということは本質です。しかし、パンとぶどう酒の問題は本質であったのか、疑問が残るところです。
今日はパウロの手紙から、キリスト者になった私たちは、悪意や悪口など、古い自分を捨てて、造り主である神の姿に倣って、新しい人を身に着けて、聖書の言葉を日々受け取ることで、日々新たにされていく、それが真の知識に達するという教えをみてきました。日々御言葉を受け取り、日々御言葉を実践していく中で、わたしたちは体験的に神を知っていく、真の知識に達していくのではないでしょうか。お祈りをいたします。

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主日共同の礼拝説教 敬老感謝礼拝

主イエスはわたしの羊飼い

2018年9月16日
敬老感謝礼拝
松本雅弘牧師
イザヤ書46章3~4節
ヨハネによる福音書10章7~14節

Ⅰ.敬老感謝礼拝の意義

お母さんのマリアと兄弟たちが、イエスさまを呼びにやって来た時のことです。大勢の人にとり囲まれているので、そこに居た人に呼びに行ってもらいました。
「母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、それに対して主イエスはおっしゃったのです。「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか。・・見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マルコ3:32-34)
「神の御心」とは主イエスを信じ従うようになることです。そうした人こそが自分にとってお母さんであり兄弟・姉妹なのだと、イエスさまは大切な真理をお話しされました。
そのように考えると、今日、週報に名前が掲載されている方々は、私たちにとってのお父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃん、そしてまた、兄弟姉妹ということになるでしょう。こうしてお祝いできますことを、本当にうれしく思います。
今日は敬老感謝礼拝です。高座教会では、信仰の先輩、人生の先輩である75歳以上の方々を、守り、導き、祝してくださる神様を共に礼拝し、これからもお一人お一人に祝福があるようにと、このような特別礼拝を行なっています。

Ⅱ.過去・現在・未来の私を背負ってくださる神さま

イザヤは次のような神の言葉を取り次ぎました。「わたしに聞け、ヤコブの家よ。イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46:3,4)
これは老後について教えているというより、神がどのようなお方なのかについて語っています。「あなたたちの老いる日まで、白髪になるまで背負って行こう」と、神さまが約束しておられるということなのです。
ところで、ここに「負う」とか、「担う」とか「背負う」という言葉が繰り返し出てきます。一つひとつ異なる言葉ですが、同じような意味があります。
新約聖書にも、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。・・・わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(ヨハネ10:10-14)とあるように、主イエスが私たちの羊飼いとして羊を養ってくださる。迷子になったら肩に背負って連れ戻してくださることが約束されています。
私は、イザヤ書のこの聖句を読むたびに子どもの頃の感覚が甦ってきます。母親や父親の背におぶさった時の記憶です。本当に心地良い。信頼して委ねれば家まで連れて行ってくれる。目覚めると布団の上にいるのです。
神さまは私たちが小さいころに経験した、両親や大人の人に「抱かれ、おぶわれた」と同じように、私たち一人ひとりを背負ってくださるお方だ、と聖書は教えているのです。
たった2節の短い聖書個所で、3節と4節も同じ内容の繰り返しのように読めます。でも注意して読むと1つ大きく違う点があることに気づきます。
それは3節が「神が今までしてくださったこと」を語っているのに対し、4節は「神がこれからの私の人生においてなそうと約束してくださっていること」が語られているということです。3節は今までのこと。4節はこれからのことです。
神さまは今まで何をしてくださったのでしょうか。これを思い巡らしたいと思うのです。そして、こうした恵みを数えることは、私たちの信仰に確かさを与えるのです。
就職の時、病気の時、子育て真っ最中の時、また、75歳以上の方は、皆さん、戦前、戦中、そして戦後を生きてこられましたから、大変な時に、思いもしなかったような形で、神さまに「背負われる」経験をされたでしょう。3節にあるように、「生まれた時から私を背負い、お母さんの胎を出た時から、担ってきてくださった」ということです。
聖書を読んでいくと、《今までになしてくださった神さまの御業》が、あらゆるところに出てきます。聖書の中に満ち満ちています。神により頼む者に対して、神さまがどんなに慈しみに満ちたお方であるか、そのことが繰り返し、繰り返し語られていくのです。
旧約聖書に記される神の民の歴史、彼らが神さまに対してどれほど反発し、神を無視してきたか。そして、「神の民、イスラエル」と呼ばれるに全くふさわしくない不信仰な歩みをしてきたのです。でも神さまは、そのイスラエルを愛し通されました。新約の時代になれば、そのイスラエルに与えた約束を、御子イエスさまの誕生という形で実現してくださったのです
そして4節です。最初に「同じように」と語られます。これは、「今までそうだったように」ということです。今までもそうだったように、これからも「あなたが老いて、髪の毛が真っ白になるまで、おんぶし続けますよ」というのが、ここで言われていることです。

Ⅲ.「あしあと」

「神さまに背負われる」とは《神さまが最終的に責任をとってくださる》ということでしょう。「あしあと」という詩をご存知でしょうか。こんな詩です。
「ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に2人のあしあとが残されていた。1つはわたしのあしあと、もう1つは主のあしあと。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには1つのあしあとしかなかった。わたしの人生で一番辛く、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。『主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生の一番辛い時、1人のあしあとしかなかったのです。一番あなたを必要とした時に、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしには分りません。』
主は、ささやかれた。『わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとが1つだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた』」
今日の御言葉で預言者イザヤは言うのです。神さまが私を背負ってくださる。共にいてくださるだけではなく、歩けなくなる時、主が私たちを背負ってくださる。そして、私に代わって、しっかりと大地を踏みしめて歩んでくださるというのです。ですから、本当に安心です。

Ⅳ.主イエスはわたしの羊飼い

今日は、「主イエスはわたしの羊飼い」と説教題をつけました。でも後になって考えたのですが、主イエスは、「わたしは羊飼い」と言われただけでなく、「わたしは、…羊のために命を捨てる」とまでおっしゃったのです。
パウロは、そのお方のことを、こんな風に表現しました。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(コリントⅡ 8:9)
羊飼いなる神は、豊かに与えてくださる気前のよいお方です。ですから私たちにとって欠けはありませんし、むしろ豊かにされるのです。
そして、そのお方は私たちを憩いへと招き、そこで私たちは回復し、活力を取り戻します。痛みを伴うような、最も苦しい場面においてさえも、羊飼いなる神さまは、私たちを導き、逃れの道を用意してくださるのです。いつも、どんな時も私たちと共に居てくださるので、私たちは恐れることなく生きることができるのです。
「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。」(詩編23:5)
私たちに危害を加えようとする者たちの前にあったとしても、羊飼いなる神さまは、私たちのために、何と「食卓」さえも準備してくださるのです。私たちの必要を満たしてくださるだけではなく、必要以上に豊かに施してくださり、私たちの杯を溢れさせてくださるのです。さらに、「死の陰の谷を行くときも・・わたしは災いを恐れない」(4節)とあるように、私たちの羊飼いである神さまが共に歩んでくださる時、試練や苦しみに遭う、そのような時期をも含めて、人生全体が善いものであり、主の憐みそのものとして見ることができるというのです。
なぜなら、主イエスこそ、私の羊飼いなるお方だからです。その羊飼いに導かれ歩んで行きたいと心から願います。
「わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」
お祈りいたします。

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ファミリーチャペル 主日共同の礼拝説教

愛のつづりは―T-I-M-E

音声は11時礼拝の音声です。

2018年9月9日
ファミリーチャペル
松本雅弘牧師
コリントの信徒への手紙一 13章1~7節

Ⅰ.ある父親の体験

あるお父さんの話です。彼には大きな悩みがありました。子ども同士のけんかです。女の子同士のけんかです。取っ組み合いをしたり、叩いたりはしないのですが、3歳のお姉ちゃんが妹をいじめるのです。
あまりにも度が過ぎるので、お姉ちゃんを呼んで叱ったのです。「お姉ちゃんなのだから、弱い者いじめをしてはいけません」と。
そして最後に、「わかったか」とダメを押すと、しょんぼりしたお姉ちゃんは、こっくりと頷きます。ところが5分も経たないうちに、また「妹いじめ」が始まるのです。
お父さんは自分の無力さに途方に暮れ、そして、こう考えました。〈この子は私に似ないで悪い子になってしまったのだから仕方がない〉。
彼は、お姉ちゃんに「悪い子」というレッテルを貼り、納得しようとしたのです。レッテルを貼られた方は大変だったと思いますが、貼った方のお父さんも、それに縛られることとなっていきました。
しかしある時、ふと考えました。妹が生まれるまでは、自分ひとりで母親を独占していたのです。お膝もお乳も、全て自分一人のものでした。
母親と歩いているときに、知り合いのおばさんと出会えば、「かわいいお嬢ちゃんね」と、頭を撫でて貰っていたのです。でも下の子が生まれた途端に事態は一変しました。みんな妹に取られてしまいました。知り合いのおばさんに会っても、「ああ、何てかわいい赤ちゃんでしょう」と言う。乳母車のそばに立っている自分に向かって、「かわいいお姉ちゃんね」と言ってくれなくなった。妹が生まれてから、そうした経験をずっとしてきたのです。そのように考えてきたら、彼は、急にお姉ちゃんが不憫に思えてきました。しかも、「悪い子」などというレッテルまで貼って、半ば諦めてしまっていたのです。
お父さんは考えました。そして、「おいで、抱っこしてあげよう」と言ったのです。お姉ちゃんはびっくりした顔になって、でも恥ずかしそうに抱っこされにきました。
母親の柔らかい膝とは比べようもありません。けれど、この時は叱ったりせず、優しく話をし、お姉ちゃんの話を聞いてあげることができました。
その結果、あれほど父親をイライラさせたいじめは、その時からバッタリと止んだのです。奇跡のようだった、とその父親は証ししていました。

Ⅱ.「愛がなければ…」

「愛の賛歌」と呼ばれる御言葉があります。コリントの信徒への手紙第1の13章です。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。」(コリントⅠ 13:1)とパウロは言っています。たとえ、天使の言葉のような素晴らしい言葉を語ったとしても、そこに愛がなければ、どんな言葉も相手に通じません。
愛とは、ひと言で言えば相手を信じること。相手の可能性を、それが、今の時点では明らかになっていなくても、そのことを信じて待つこと。それが、聖書の教える愛です。
これは、私たちにとって、ほんとうに痛いところを突く言葉だと思います。お父さんは、「強い者が弱い者をいじめていいのか」と言ってお姉ちゃんに説教をしました。「強い者が弱い者をいじめてはならない」というのは正論です。正しいことを言っています。でもその正しい言葉は、その子に通じませんでした。5分も経たないうちにいじめは繰り返され、むしろ、もっと陰湿なかたちになっていきました。ですからお父さんは悩んだのです。
これは、私たちが日常よく経験することなのではないでしょうか。
自分の言っていることは絶対に筋が通っている。それなのに、相手がそれを聞こうとしない。相手に伝わらないのです。
ですから、先ほどのお父さんのように「それはその子が悪い子だから」とレッテルを貼り、自分を納得させようとします。場合によっては、相手がひねくれているからだ、とか、このことを理解する能力がないからだ、などと言って、相手のせいにしてしまうことがあるのではないでしょうか。
でも、言葉が伝わらない理由は、相手が、「私は愛されていないと思ってる」だけのことです。自分自身のことを振り返れば分かることですが、自分のことを愛し、受け入れてくれる人の言葉でなければ、それがどんなに素晴らしい言葉であっても、私たちは聞きたいと思わないし、耳を傾けようともしないものです。
この時の、このお父さんのように、お姉ちゃんの行動が理解できない時、私たちはどうするでしょうか。自分のこととして考えてみると、このお父さんは賢いな、と思わされます。
最初は、レッテルを貼り、納得しようとしましたが、ふと「何か理由があるかもしれない」と思ったのです。実はそれが、聖書の教える「信じる」ということです。
「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(7節)とあります。この主語は「愛」です。「相手を信じる」とは「愛」の1つの現れ方、愛情表現の仕方なのです。
「もしかしたら何か理由があるかもしれない」と思ったということは、言い換えれば、「私はこの子をもう一度信じてみよう」ということです。それは愛する心の姿勢でしょう。すると不思議なことに確かに理由が見えてきたのです。

Ⅲ.「レタスの話」を思い出す

以前、礼拝でお話した「レタスの話」を思い出しました。どうしても理解できない行動を取る人に出会ったら、その人のことをレタスに置き換えて考えてみなさい、というアドバイスです。
レタスを育てるために、一生懸命に世話をしましたが上手く育たなかった場合、私たちはレタスに「何でうまく育たなかったのか!」と責めたり叱ったりはしません。むしろ「何でそうなったのか?」と、レタスを理解しようとするのではないだろうか、という話です。
愛することが難しい相手である場合、あるいは好きになれる理由を見つけることが出来ないような場合、レタスを見るように、その人が育った背景、受けてきた教育、家庭環境などを理解しようとするのではないか、あるいは、今置かれている状況を見て行こうとするのではないか。すると、不思議なことに、その人に対する見方が変わり、少しずつ優しくすることが出来るようになるというのです。

Ⅳ.愛のコミュニケーション

ある方が、「子どもは親の愛を食べて育つ」と語っていました。「子どもは親の愛を食べて育つ。たびたび親の心の扉を叩いて、『ボクを愛してくれていますか』と確かめるのだ」と。確かに、そうかもしれません。
小さな子どもだけでなく、思春期を迎える若者も同じです。親や大人は、彼らの問いかけに答えてあげなければならないと思います。「私を愛してくれていますか」という問いかけにです。
問いかけの仕方は、年齢によって、また一人ひとり様々ですが、それをキャッチして、どうやってそれに応えていくか、どのように愛を伝えようかと、その方法を考え、苦心するということが多くなると思います。
愛を必要としているのは、子どもだけでなく、親も、また伴侶もそうでしょう。「私を愛してくれていますか」という思いは、人間、誰もが持っている根本的な問いでしょう。それに応えてもらいたいというニーズは誰にでもあるのです。それらにおいても、愛を伝える努力は必要なのです。
このことを考えるためにもう一度、今日の聖書の御言葉に戻りましょう。「愛は・・・、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(13:4-7)
ここで、「愛している」ということは、「相手を信じることだ」と教えています。そして、「すべてを望み」とありますから、まさに、その「信じる」ということは、「希望を失わないこと」でもあるのです。
「この子はもう、しょっちゅう妹をいじめているから、悪い子なんだ」と言ってレッテルを貼ったり、「悪い子なんだから、悪いことをやるのはしょうがない」と諦め、見切りを付けるのではなく、相手を信じ、待つことが、愛することです、と聖書は教えています。そして「すべてに耐える」と続きます。つまり、私たちが信じて、希望を失わないでいようと思ったら、その時必要なことは、忍耐だからです。ですから、聖書は、「愛はすべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」と語るのです。
「信じる」ことは盲信とは違う、という説明を聞いたことがあります。盲信は、相手の現実を見ていない、だから信じることと盲信ははっきりと違うのだ、と。現実は正しく見なければならない。そうした時に、そこに、足りないところが見えてくるかもしれない。勿論、悪いところも見えて来るでしょう。ずるいところさえも見えてくる。現実を正しく見るとは、そうしたことすべてを見た上で、その人を信じるということ。そして希望を失わない、だから忍耐する、これが愛だ、これが神の愛だ、というのです。
私たちは、このように愛の中で見ていただく時に、その相手の語る言葉が、その思いが必ず心に伝わってくるのです。言葉が通じていくのです。何故でしょうか。そこに愛があるから、です。
お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

山上の変貌

2018年9月2日
松本雅弘牧師
申命記34章1~12節
マタイによる福音書17章1~13節

Ⅰ.「6日の後」に起こった主イエスの変貌

フィリポ・カイサリアの地で、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と主イエスは弟子たちに向かって尋ねました。ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白をすると、それを受けた主は、「その岩、その告白の上に、わたしは教会を建てる」と宣言され、ご自身がメシアであり、十字架にかかり、復活することをお語りになったのです。(マタイ16:15~18)
それだけではありません。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(24節)と言われました。何故なら、そこにこそ真実の命に生きる道があるからだ、というのです。
こうした一連のやり取りがあった、その「6日の後」に起こった出来事、それが「イエスの変貌」でした。ある人の言葉を使えば、主イエスがご自身の正体をあらわにされたのです。それがイエスの変貌の出来事でした。

Ⅱ.「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」

主イエスの変貌を目撃したペトロは興奮しました。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」(17:4)と喜びに溢れて叫びました。すると、それに応えるようにして、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という神の声が聞こえたのです。
私はクリスチャンになって本当に良かったと思うことの1つが、ここにある「これに聞くがよい」という言葉です。「これに聞いていれば、間違いない」という神さまのお墨付きの言葉です。
「エクササイズ」のテキストの中にこんなことが語られています。
私たち人間は、物語によって生きている被造物だ。中でも、特に家庭で直接伝えられる家族の物語は強烈で、“私は誰”で、“何故ここにいるのか”、“私は価値ある存在なのか”といった、生きる上での重要な問いに対する答えを、人は人生の早い時期に家庭で語られる物語を通して獲得されていく、と。
ただここに大きな問題があるのです。このように、物語によって育てられる私たち人間は、自分の内側にある物語が受け入れられると、その正しさとか有用性にかかわりなく、それがその人の行動を決定づけていく、というのです。
物語られたものが、ひとたび心に根付くと、多くの場合、死ぬまでその人の内に留まります。そして、その物語がその人の人生を動かし続けるのです。
これまでの物語では通用しない人生のステージを迎え、行き詰まりを経験する時には、誰もが新しい物語を求めることでしょう。小説を読んだり、映画やドラマを見たり、音楽を聴いたりするのは、それを楽しむ一方で、無意識のうちに新しい物語を捜そうとする営みなのかもしれません。
ですから自分を動かす物語に気づいたら、スイッチを切り、イエスの物語に入れ替えて再びスイッチを押すのです。クリスチャンは幸いだ、何故なら入れ替えるべき物語が与えられているから、とある先生は言いました。
この時弟子たちは、雲の中からの声を聞きました。「これに聞くがよい」と。主イエスの言葉を聞け。信頼し切って、その言葉の通りに生きるがよい。誰の言葉も信じることができないとしても、あなたは、この子の言葉を聞いて生きていくことが出来るのだ、という御声でした。
あなたを造られた御子、主イエスが、あなたを生かす福音の物語を語ってくださる。だから、あなたは自分の命を見出し、生きていて本当に良かった、と言うことが出来る。ここで父なる神さまは、そう言ってくださっているのです。
これはとてつもなく大切なメッセージです。誰も主イエス以上に神さまのこと、そのお方のご性質について、また私たち人間に与えられている人生の意義について知ることなどできません。ですから、全ての「鍵」は主イエスの物語られたことを心に受け入れること、信じることにかかっているのではないでしょうか。
ここでペトロたちが経験した、主イエスの変貌に遭遇し、主イエスの正体を目撃した経験とは、まさに今、私たちが御言葉により主イエスを知る経験、掛け替えのない主イエスを見出す経験と、全く同じなのだと言ってよいでしょう。

Ⅲ.6日の日をおいて、7日目に

私はこの夏、朝のディボーションで、詩編と一緒に出エジプト記を読み進めてきました。
24章16節に次のような御言葉がありました。「主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。」
主なる神からその御声を聞くために、モーセは6日間待たなければならなかった、と語っているのです。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」という有名な御言葉があります。御言葉を受けとめる、また神さまの御業を神の語りかけとして受けとめる上で、この時モーセは、6日間待たなければならなかったのです。
主の十字架の3日後、弟子たちが集まっているところに主が来られました。ところがトマスはそこにいませんでした。「わたしたちは主を見た」と言って喜んでいる仲間たちの輪に入ることが出来ません。トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(ヨハネ21:25)、と意固地になるほかありませんでした。
ヨハネ福音書によれば、そのトマスのために主が現れたのは1週間後でした。1週間経った時、主は弟子たちと一緒にいたトマスに現れて、そしておっしゃいました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。
トマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と言って、神の人イエスと明確な出会いを経験しました。モーセが待ったように、トマスのためにも1週間の準備が必要だったのです。
今日の箇所で、主は「ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られ」ました。主イエスは、しばしばご自分だけで山に登り、父なる神と交わる時を持っておられました。父なる神と会話し、交わる時を楽しまれたのです。ところが、この時は御自分だけではなく3人の弟子たちを連れてその場に行かれました。人が踏み入ることのできない主イエスと父なる神さまとの交わりの中に、弟子たちを招き入れてくださったのです。そこで、父なる神は主の御姿に光を与え、御子の正体を明らかにされました。それが変貌の出来事でした。
これは私たちにとっての主の日の礼拝の場です。そして、この時こそ、主イエスが誰なのか、主イエスの御姿が明らかにされる恵みの場、驚きの時なのではないでしょうか。
3人の弟子たちが、主イエスの案内によって父なる神の御前に招かれたように、今朝、私たちも、「神からの招きの言葉」をもって御前に招かれています。するとそこには、もうすでに6日間かけて主が備えてくださった驚くべき恵みが用意されているのです。モーセやトマスのように、それを自分のものとするために、受ける私たちの側にも6日という備えの時、特別な恵みの時が与えられています。
「七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた」(出エジプト記24:16)。今日は聖餐の恵みまでもが、備えられているのです。

Ⅳ.「山の麓」に共に下りて生きてくださる主イエス

この時、ペトロは目撃しました。そこに、「モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合って」(マタイ16:3)いるのです。感激したペトロは何とかしてこの状態を長くとどめておきたいと考えました。でもペトロの申し出は早過ぎたようです。主にはなすべきことがまだたくさん残っていました。この同じ時、麓で主イエスの帰りを待っている人がいたからです。
「主よ、わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです。」と言って、ペトロが歓喜の声を上げ、「ここにとどまろう」と願っている時に、山の下では、残された弟子たちの不信仰のゆえに、病気ひとつ治せず、病気の子を抱えた父親の苦しみの現実が続いていました。主イエスは、その苦しく辛い現実の中に再び戻っていかねばならなかったのです。弟子たちを連れて戻らなければならなかった。そして、その先にあった最大の務め、それが十字架でした。
このことも、礼拝から始まる私たちの信仰生活と重なります。主によって招かれ、祝福された私たちは、同じお方によって再びこの世へと派遣されていくのです。この場に留まるのではありません。6日間の戦いの只中に、その現実に送り出されていくのです。
でも、主イエスは本当に優しいお方です。恐れのあまりしゃがみ込んでしまう私たちの手に触れ、「起きなさい。恐れることはない」(マタイ16:7)と言って、起こしてくださる主イエスと言うお方がいらっしゃるのです。このように、このお方は、私たちの「生活という山の麓」、職場や学校、生活の現場に私たちと共に下りて来てくださるのです。
ペトロたちに示されたように、時に主は、将来の栄光をほんの少し見せてくださいます。そして、完全に見せてくださるという約束の中にあるのです。このように私たちには素晴らしい喜びが待っています。その日を待ち望みながら、一人ひとりに与えられた「山の麓」で、共に歩まれる主に従っていきたいと願います。
お祈りいたします。