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しっかりとした土台のある人生

2018年10月28日 秋の歓迎礼拝
和田一郎副牧師
マルコによる福音書9章14~27節

1、信仰のない時代

今日は歓迎礼拝ですが、はじめて教会に来た方に、「信仰には力があるのだ」ということを知って頂きたいと思いました。信仰というのは、何か神聖なものを信じることを言います。つまり、自力本願か他力本願かといえば、他の力を頼って生きる他力本願に力があるのだという話しになります。日本の中では他力本願という言葉は、ネガティブな意味で使われると思います。「他人に迷惑をかけてはいけない」という価値観が大きいと思います。他人の力に頼らないで、自立することを重んじる価値観があると思います。ですから、それと「信仰には力があるのだ」という価値観は正反対のように聞こえますが、今日はこの「信仰の力」について、そして、その信仰がしっかりとした人生の土台になっていく、ということを考えていきたいと思います。
イエス様の弟子達が群衆に取り囲まれて、なにかを議論している様子でした。そこでイエス様が、「何を議論しているのか?」と聞かれました。すると答えたのは群衆の中にいた人でした。「先生、うちの子どもが霊に取りつかれております。取りつかれると、地面に引き倒して、口から泡を出し、体をこわばらせてしまうのです。そこで、この霊を追い出してくださるように、あなたの、お弟子たちに申しましたが、できませんでした。」と言うのです。弟子達には、悪霊を追い出す権能を、イエス様から与えられていたのですが、それをできずにいたのです。ここでは「霊にとりつかれた」とありますが、マタイの福音書の同じ箇所では「てんかん」という病気で苦しんでいると書かれています。当時の病気は悪霊によるものだと信じられていたようですが、この父親のように、病気の家族や友人をもつ人達が、イエス様の所に押し寄せて癒してもらいたいと思ってやって来ました。勿論、イエス・キリストという方は病気を治すだけの方ではありません。悪と罪が広がるこの世の中に、愛をもって救いと希望を与えるために来られた方です。世界を変える力と、人の命を取り扱う力をもったかたでしたから、病気を治すことも当然できたのです。
ところで、日本の国に住んでいると、病気を治してくれる神様とか、交通安全の神様、商売の神様など、いろいろな神様があります。とても分かりやすい神様です。人間の願いごとの数だけ神様がありそうです。ある意識調査がありました。
「あなたは何か信仰を持っていますか?」という意識調査です。信仰を持っているという人は30%位で、同じ調査を昭和20年代に行った時は、60~70%の人が、何等かの信仰を持っていると答えたそうです。この70年で日本人の信仰心が半分以下になった一方で、日本は豊かになりました。食べ物やモノが不足している社会ではなくなりましたが、70年前には無かった、新しいカタチでの「孤独」という問題があると思います。しかし、その救いを「信仰」に頼る人は少ないと言えます。
今日の聖書箇所で、病気を治せなかった弟子の話しを聞いたイエス様は「なんと信仰のない時代なのか」と憤りましたが、わたしたちも信仰の無い時代、信仰の無い地域に住んでいるといえます。22節で「おできになるなら、私どもを憐れんで助けてください」と、この病気の子の父親は言いますが、大多数の日本人にとっては、聖書の言葉も「おできになるなら」と言った程度にしか関心がないでしょう。

2、悪霊を追い出す神様

その後、イエス様は、その子の病を癒されました。病気の息子の父親が「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」といった、イエス様への願いが、病を癒すことにつながったので、この父親の祈りが聞かれた、「御利益があった」ようにも聞こえます。先ほども話しました、商売の神様、健康祈願の神様といった、具体的に何かを目に見える形で叶えてくれるものを「ご利益信仰」と言います。「ご利益信仰」には、宝くじや賭け事などの当たりを期待するような、危うさがあります。また、お守りを買うから、これこれを叶えてくださいと、神様と取引をするようにも感じます。しかし、この時のイエス様は、そのようなご利益を叶えたのではありません。イエス様はそういう方ではないのです。

3、病者の祈り

あるクリスチャンの病気を治して欲しいという、願いをこめた祈りの詩があります。
「病者の祈り」
大事を成そうとして、力を与えてほしいと神に求めたのに、慎み深く従順であるようにと、弱さを授かった。
より偉大なことができるように、健康を求めたのに、よりよきことができるようにと、病弱を与えられた。
幸せになろうとして、富を求めたのに、賢明であるようにと、貧困を授かった。
世の人々の賞賛を得ようとして、権力を求めたのに、神の前にひざまずくようにと、弱さを授かった。
人生を享楽しようと、あらゆるものを求めたのに、あらゆるものを喜べるようにと、生命を授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りは、すべてかなえられた、私はあらゆる人々の中で、最も豊かに祝福されたのだ。
(ニューヨークのある病院の壁に書かれた詩)

この詩に書かれた、私たちが信じる神様は、力を与えてほしいと神に求めたのに、弱さを授ける方です。富を求めたのに、貧困を与える方です。何のご利益もありません。神様は私たちの、願いどおりに答えられるわけではありません。もし私たちが、自分では良いものだと思っていても、本当は良くないものであれば、神様はそれを与えません。自分の思いとは違う、本当に必要なものを与えてくださいます。詩の最後にあるように「求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた」とありますように、願いが聞かれないことで、願いが叶うということに、私達クリスチャンがもつ信仰があります。

4、心の中の言い表せない祈り

私達の信じる真の神様は、神様と出会うには、必要な時があるのだと言われます。恵みに与るためには、必要な時があるのです。命とは何か。病に罹った意味とは何か。病を通して神様と出会わせ、神の恵みに与らせることがあります。病を通して、その人の心の中にある、言い表せない祈りを聞くと言うのです。それは、その人がこの世に、命を受けて生まれてきた理由と重なります。神様はこの世に命を受けてきた人々に、それぞれの価値を与え、最善な人生を用意されました。しかし、人の性質には、生まれながらの罪があるので、人生を通してどこかで神と出会う必要があります。神様に罪を赦し助けてもらう必要が、人生のどこかで必要です。喜びの中で神と出会う人もいれば、悲しみの代償を払って神様と出会う人もいます。そうして神様と出会って、神に近づくことでその人の歩みが永遠に祝福されるという、恵みに与ることができます。この詩を書いた人は、病を治して欲しいと祈りながら、その一方で、神様と近づいていく恵みに感謝したと思うのです。
わたしがこの詩を知ったのは、母の日記に書かれていたからです。母は私が26歳の時に、病気で天に召されましたが、母の1年間の癌との闘病生活は、私にとって信仰を知るきっかけとなって、現在の私があります。母がその闘病生活の中で書いた日記の中に、この詩が書かれていました。この詩は、病気と闘った母が遺してくれた詩でもあります。母は私が信仰をもつことを願っていました。母が天に召された後になって、私はやっと信仰を持つことができました。神様は、本当に無駄なことはなさらないのです。ちっぽけな人間の願い事でも、大きく豊かな恵みをもって応えてくださるのです。
今日のイエス様の話しの中で、父親には「信仰のないわたしを、お助けください」という信仰がありました。しかし、それはとっても小さな信仰でした。けれども、それが信仰である限り、神は力を現わされるのです。信仰の力とは、信仰をもっている人の力ではないのです。神様が持っておられる力です。信仰を通して、神の力が私たちに届くのです。信仰が小さいかどうかは真の問題ではありません。問題は信仰が有るか無いか、その有無の問題です。信仰さえあればそれがどんなに小さくても、神の大きな力が働かれるのです。「からし種一粒ほどの信仰があれば…あなたがたに、できないことは何もない。」とイエス様はおっしゃいました。救い主イエス・キリストは、この後、苦しみを受けて十字架で死なれました。弟子達とはいつまでも、一緒にいられませんでした。しかし、復活をされて、天に戻られ、そこで私たちを見守っておられます。わたしたちは、この方が救い主であるという信仰をもっています。この「信仰には力があるのだ」ということを、今日は知っていただきたいと思います。お祈りをいたします。

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信頼から生み出される愛の恵み

2018年10月21日 秋の歓迎礼拝
宮城献伝道師
ルカ19章1~10節

Ⅰ.ザアカイの物語について

今回の説教で与えられました新約聖書のみ言葉は、ザアカイの物語です。教会で、とても良く聞く聖書のお話の一つです。高座教会の教会学校でも、何度もなんども、語られてきました。その分だけ、教会が、そしてイエス様を信じる私たちが、とても大切にしている聖書の物語です。
イエス様と出会い、変えられていったザアカイを通して、子どもの時であろうと大人になったとしても、いつであっても変われるのだ、と気づかされるのです。あのザアカイだって、イエス様と出会い、心から人を愛することが出来るようになった。そうして、その愛を形にするために、貧しい人に施しを、そして今までの過ちを取り返す働きをしよう。このように、あのザアカイだって変われたのだから、自分だって変わることが出来るのだと、励まされ勇気づけられるのです。
では、ザアカイは、なぜそのように変えられていったのでしょうか。

Ⅱ.徴税人で金持ちのザアカイ

ザアカイは、徴税人という仕事をしていました。それは、イスラエルを支配していたローマへの税金を集める仕事です。その仕事は、異国のために、同胞からお金を取り上げることで、卑しいものだと考えられていました。そうして、ザアカイを始め、その仕事に従事している人たちは、罪人だと言われ、同胞の人たちから、つまはじきにされていました。
けれど、そうやって仲間外れにされることで、彼らは自分たちが価値の無い者なのだ、と思わされていました。そのために、彼らは自分たちの価値を見出せるものを探さなければならなかったのです。それが、結局は自分たちの力で手に入れることの出来たお金だったのです。そうして彼らは、必要以上に税金を取り上げたのです。もちろん、その様にしていれば、また一層、仲間たちから嫌われてしまいます。
聖書でザアカイは、その「徴税人の頭」であり、そして、「金持ちであった」と紹介されています。徴税人の頭ですので、嫌われ者の中の嫌われる者であったこと。そして、みんなから嫌われてしまうことへの反動から、より多くの税金を取り、そのために金持ちであったこと。これらのことを聖書は示しているのです。

Ⅲ.ザアカイの友にならなければならない

そんなザアカイが住む町に、イエス様がやってこられるのです。イエス様は、その町に来る前にも徴税人たちの家に行かれ、食事もしていました。今でもそうですか、人のお家に上がり、食事をすることは、親しい友人関係でないとなされません。ですのでイエス様は、嫌われ者とも友になり、食事をともにされていました。このことは当時のイスラエルでは、衝撃的な出来事です。徴税人は罪人とされていたので、一緒に食事をした人も同じ罪人とみなされてしまうからです。けれどイエス様は、彼らの誘いに応えて彼らの家に出向き、食事をともにされていました。そうして、その出来事のインパクトゆえに、徴税人の一人であるザアカイのもとにもイエス様のことが耳に入っていたのでしょう。そして、ザアカイはそんなイエス様を一目でも見たい、と思い行動を起こすのです。
けれどザアカイの前には、大勢の群衆です。小柄なザアカイは、イエス様を見たくても見ることが出来ません。そして、この場面は、よく教会学校の絵本などでも登場しますが、ザアカイと、彼を取り巻く人たちの関係をうまく表現しています。その絵本では、小柄のザアカイの前に、群衆が壁のように立ちはだかっている様子が描かれています。彼らは、イエス様の方を見つめているので、誰もザアカイを見ていません。そうして、ザアカイが、仲間たちから、つまはじきにされているイメージが強く喚起されます。群衆が、ザアカイにそっぽを向いていることで、ザアカイはまるで存在してないかのように扱われていることが分かります。また、群衆という壁の外にザアカイが立たされることで、彼が仲間たちの中に入れていないことも明らかにされます。
そうしてザアカイは、その壁の前で誰にも構ってもらえず、行ったり来たり、うろうろと困っていたのでしょう。けれど、彼は、諦めの悪い人でした。いちじく桑の木にひょいと登って、イエス様を見ようとします。
こういったザアカイの必死な様子から、彼がぐっと身近な存在のように感じられてきます。私たちも何かに必死になっている時に、後から振り返るとそこまでするか、と思うことがありますが、そんな時の自分たちの姿は何かと滑稽ですが、その分だけ愛おしく思われることがあるのではないでしょうか。
そして、そんなザアカイに、イエス様は暖かな眼差しを送られるのです。イエス様は木の上にいるザアカイに近づき、こうおっしゃられました。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。家に出向き、食事をともにすることは友人の証です。しかも、ここでイエス様は自らザアカイの家に泊まるとおっしゃっています。普通は、家の主人が食事に招きます。けれど、イエス様から、ザアカイの家に出向くとおっしゃられています。厚かましいようにも思えますが、イエス様は、自分自身から、ザアカイの友になろうとされたのです。
それだけではありません。私たちの聖書では、「あなたの家に泊りたい」という訳になっています。ですが、聖書のもともとの言葉を見てみますと、ここでは、「あなたの家に泊まらなければならない」という意味のほうが、より相応しいものになります。そのために、英語の聖書では、「泊まらなければならない」という所には、mustという言葉が用いられています。そうしますと、ここで、イエス様は、「ザアカイの家に泊まらなければならない」とまで、おっしゃられていたのです。
ザアカイは罪人でみんなの嫌われる者です。だけどどうした。そんなこと関係ない。私は、「ザアカイの友にならなければならないのだ」と、イエス様はおっしゃられていたのです。

Ⅳ.変わることが出来る:友が与えられたので

この時、ザアカイは、始めて本当の友が与えられたのです。本当の友とは、その人が金持ちであるとかそうではないとか、周りの人に好かれているとか、そうではないとか、関係ありません。それはイエス様が生きておられた時代から、私たちが生きる今の時代まで変わらないことです。ただただ、その友が友であるがゆえに愛し、愛されるのです。
そうしてザアカイは、もう大丈夫だ。自分の価値をお金なんかから見出さなくていいのだ。イエス様が、自分の友になってくれたのだから。もう何も不安に思うこともない。ザアカイには、イエス様という心から信頼出来る友が与えられたのです。
そうして、彼に勇気が与えられたのです。今まで自分を支えてきた、そのお金を投げ捨てでも、困っている人を助けていく。それだけではありません。多くの人から必要以上に税金を取ってしまった自分の過ち。そのせいで、生活に困ってしまう人がいるかもしれない。だから、そういった人にはしっかりとお金を返していかなければならない。
そして私たちも、このザアカイのように、変われるのではないでしょうか。まっすぐに人を愛し、過去の過ちを悔い改め、そしてその愛を具体的な形にしていくことが出来るようになるのです。
もちろん、そうはいってもそんな簡単に人は変われないよ、と思うかもしれません。けれど、どうでしょう。人は変わることが出来ない、と誰よりも思い込んでいたのは、ザアカイ本人ではないでしょうか。彼は誰からも愛されていなかったので、自分には価値がないと思っていました。だから、そんな自分が変わっていくことなど、無理だと思い込んでいたはずです。
けれど、そんなザアカイにイエス様は「あなたの友にならければならない」とおっしゃられたのです。なぜでしょうか。その理由が10節にあります。イエス様は「失われたもの」を探して救い出すために、この世界に来られたというのです。仲間たちから罪人だとみなされ、仲間外れにされてしまい、神様から見放されてしまったと思われていたザアカイ。そのような「失われたもの」のために、イエス様は、この世界に来られたのです。
そうだとしましたら、私は変わることなんて無理だと、ザアカイと同じように思ってしまう。「失われた」ザアカイと私たちをも、探して、救い出すために、イエス様はこの世界に来て下さったのです。
そしてイエス様は、今、私たちにも「あなたの友にならなければならない」と語りかけて下さるのです。そうして私たちには、本当に信頼できる友がいるのだ、と気づくことが出来たなら、ザアカイのように今までの生き方を変えていく勇気が与えられるのではないでしょうか。そしてそれが、イエス様を信頼し、歩んでいく幸いです。

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神さまがおられるから、大丈夫ですよ

2018年10月14日
秋の歓迎礼拝
松本雅弘牧師
マタイによる福音書6章25~34節

Ⅰ.はじめに

 

今日から秋の歓迎礼拝が始まりました。今日初めて教会の礼拝に出席された方々もいらっしゃることでしょう。ほんとうにようこそお越しくださいました。心から歓迎いたします。
今日、お読みした「聖書」ですが、これはたいへん不思議な書物なのですね。
歴史上、最も迫害を受けた書物ですが、消滅せずに生き延びています。そして、今日に至るまで、多くの人に親しまれてきています。世界で一番多くの言語に翻訳されているのがこの「聖書」です。クリスチャンではない方のご家庭にも、必ず1冊はあると思います。読まれているか、読まれていないかは別として・・・。
「不思議な書物」である、とお話しましたが、この「聖書」の不思議さの1つは、その言葉に力があること、読む者に「心の糧」を与える、ということです。

Ⅱ.思い悩む私たち

今日の聖書の言葉は、マタイによる福音書6章25節から34節の御言葉です。ここで、イエスさまは、私たち、人はいかに思い悩む存在であるかを語っておられます。
この短い個所、数えるとちょうど10節ですが、ここに、「思い悩む」という言葉が、25節、27節、31節、そして、34節に2回と、合計5回出て来ます。つまり繰り返し語られているのです。
私もお話の原稿を作る時に、この「繰り返し」という手法を使います。ただこれは、度を越すと、聞く側からすれば、しつこい印象を与えかねません。まして、こんな短い箇所に5回も「思い悩む」という言葉が使われているのです。
たとえしつこいと思われたとしても、敢えて繰り返し、「思い悩むな」ということをお語りになりたかったイエスさまの思いが、ここに表されていると思います。主イエスの目に映る私たち人間は、それほどに思い悩むことの多い存在である、そのことに気づかせたかったのだと思います。
社会を見渡しますと、子どもたちの将来、日本の将来について、そして、私たちの目に飛び込む一つひとつのことを取り上げて考え始めると、時として物凄い不安に襲われることがあるのではないでしょうか。私たちを思い悩ませる材料が次々と出て来くるのです。

Ⅲ.思い悩みから離れ、切り替えていく

ここでイエスさまは、そうした「思い悩み」との「付き合い方」を説いているように思います。いや、単にどのように付き合うかということだけでなく、そこから解放されるためにはどうしたらよいのか、そのことを教えておられます。
それが、「空の鳥をよく見、野の花を注意して見る」という生き方です。思い悩むことの代わりに、空の鳥をよく見、また野の花がどのように育つのかを注意深く観察しなさい、とイエスさまは教えてくださっています。
空の鳥、そして野の花を注意深く観察する時に、何が見えてくるでしょうか。空の鳥が、種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない中で、健やかに生きている現実です。また野の花がどのように育つのかをも注意深く見てみると、そこに見えて来るのは「栄華を極めたソロモン王をしのぐほどに美しく飾られている様子」です。
さらに、このイエスさまの教えに耳を傾けていくと、空でさえずる小鳥、野原で美しく咲いている花に注がれている神さまの眼差しに私たちの心が向かいます。鳥を養い、花を装う神さまの優しい御手の動きが見えてくるのではないでしょうか。
空の鳥と野の花を観察したそのあなたの目をもって、あなた自身に注がれる神さまの眼差しを、そして、あなた自身の命を支えておられる神さまの御手の業を、注目して御覧なさいと主イエスは、教えるのです。「だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」、「今日生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」と。
空の鳥、野の花が健やかに生きている、それ以上に、私たちに生きるべき命を与え、健やかに生きるようにと支えておられる神さまです。
使徒パウロは「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」と語りました。確かに見える物は年を追うごとに変化していきます。
パウロの言葉を使えば、「見えるものは過ぎさ」るのです。そして、それが真理であるように、実は、「見えないものは永遠に存続する」のだと聖書は語るのです。
そうです。空の鳥、野の花、そしてイエスさまがおっしゃったように、私たちの上に注がれている神さまの愛の眼差し、神さまの温かな御手の働きは、すぐには目に見えません。心の目をもってよく観察してみないと見えてこないものですが、そうした「見えないもの」は決して過ぎ去ることがないというのです。そこにフォーカスし、そこに焦点を合わせる作業が、聖書を読んだり、賛美歌を歌うこと、日曜日ごとの礼拝の時なのです。
以前、鎌倉黙想の家に行った時に、祈りの指導をしてくださった先生が、こんな話をされました。ちょうど震災のあった2011年の頃でしたが、その先生が震災後、50日くらいして、被災地にボランティアに行ったそうです。そこは津波で流されたところですから当然、人は住んでいません。住めない状況でした。でも、そこに小さな花が咲いていたそうです。そして、空を見上げると、普段と同じように鳥がさえずり、舞っていたというのです。
その先生は、地震の4日後の3月15日に、同じ場所を訪れていました。その時には勿論、花は咲いておらず、空には鳥の姿すらみえなかったそうです。鳥のさえずりが途絶え、花は姿を消していました。
その状況は、今日のイエスさまの教えからすれば、ある種の危機的な状況です。なぜなら鳥がさえずり、花が咲いているということは、神さまがそれらを養い、装ってくださっていることの証拠、神さまが生きて働いておられることの動かぬ証拠だからです。鳥がさえずり、花が咲いていたら、そこに希望がある、ということだからです。
ここで主イエスは、「明日のことは思い悩むな」と言われ、「空の鳥、野の花をよく観察するように」と言われた後、34節で、「その日1日の苦労で十分である」とおっしゃいました。決して、「苦労などない」などと、非現実的なことを言われているのではありません。はっきりと、「その日1日の苦労はある」とおっしゃるのです。
確かに、毎日、苦労が絶えませんね。生きていく上では、様々な責任がつきものですから。家庭での責任は勿論、幼稚園や学校でのお役もあるかもしれません。お仕事をしている人でしたら職場での責任もあるでしょう。誰にでも「その日1日の苦労」は必ずあるものでしょう。
今日、取り上げた、このイエスさまの教えは、マタイ福音書5章から始まる、「山上の説教」と呼ばれている一連の教えの一部なのです。
この説教は、こういうイエスさまの言葉で始まっています。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。・・・」と、「8つの幸い」を説かれるところから始まっている教えです。
これは、主イエスの励ましの言葉なのです。この説教が誰に向かって話されたのか。それは、病人や貧しい人、様々な重荷を抱えていた人たち、勿論、そこには弟子たちもいました。そのように弱い立場の人たち、イエスさまに助けを求めて集まってきた多くの人々に向かって語られた説教でした。イエスさまの言葉を使うならば、思い悩みや思い煩いで心が一杯一杯の人たちです。その人たちを前に、主は、この「8つの幸い」を説かれたのです。
たくさんの苦労で一杯になっている人に向かって、「あなたたちは、幸いですよ」とおっしゃったのです。少し堅い表現ですが、これは、「大丈夫!」という意味です。
「天の国はみんなのものなのだから、大丈夫!」。重荷を負って悲しんでいる人も幸いですよ、とイエスさまは言われます。「今、悲しんでいるけど、あなたを慰める神さまがおられ、必ず涙をぬぐってくださるから、大丈夫!」と言ってくださっているのです。
あなたは独りぼっちだと思っているかもしれないけれど、神さまの温かい優しい眼差しがあなたに注がれている。その眼差しを感じながらやっていきましょう! と、主イエスさまは言われるのです。

Ⅳ.明日を主に委ねて生きる

何か壁にぶち当たるような時、今日のイエスさまの御言葉を思い出しましょう。
イエスさまが言われるように、顔を上げ、空を見上げ、空を飛ぶ小鳥たちを見つけましょう。また、道端に咲いている花を見つけましょう。
神さまがおられるから、そうした鳥は養われ、小さな草も花でもって装われていることでしょう。その神さまが、私を養い、装ってくださるのです。私や、私の家族を守ってくださる。だから「大丈夫です!」。
その主イエスさまの御声に心の耳を澄ませていきたいと思います。
お祈りします。

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わたしのところに連れて来なさい

2018年10月7日
松本雅弘牧師
列王記下4章1~7節
マタイによる福音書17章14~20節

Ⅰ.主イエスの存在を認める

変貌山の出来事の興奮も冷めやらぬ3人の弟子たちと主イエスの一行が麓に降りると、そこで、目に飛び込んできたのは群衆に取り囲まれた、憐れな仲間たちの姿でした。
弟子たちが群衆に囲まれ、窮地に立たされていました。数時間前の、山の上での恵みの体験も吹き飛んでしまうような重たい空気感がありました。
原因は、と言えば、霊に取りつかれ発作を起こす男の子を癒すことに失敗した弟子たちの無力さにありました。
そのような中で、「ある人」が群衆の中から飛び出してきました。彼は主に近づき、ひざまずいて、事の次第を報告したのです。「主よ、息子を憐れんでください。・・・お弟子たちのところに連れてきましたが、治すことができませんでした。」
これを聞いた主イエスは嘆かれました。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」と。

Ⅱ.「わたしのところに連れて来なさい」

ところで主は誰に向かって嘆いておられるのでしょうか。それは、他でもない弟子たちであり、彼らを取り囲んだ群衆、そして父親をも含めていたと思います。もしそうだとすれば、主イエスがご覧になっている〈もう1つの現実〉に、私たちは気づかされるのではないでしょうか。主は「その子をここに、わたしのところに連れて来なさい」と、言われたのです。問題に直面して何の可能性も見えない弟子たちに、また、何もできない弟子たちに失望する息子の父親、そして群衆に向かって、「ここに私がいるではないか」と言わんばかりに、です。
このことこそ基本的な信仰の姿勢ではないでしょうか。喜びも悲しみも、悩みも問題も、「ここに持ってきなさい。私のところに携えてきなさい」と、主は招かれるのです。
私たちが問題にぶつかると、よくしてしまうのは、そこにおられる主イエスをそっちのけにして、「ああでもない、こうでもない」と思い煩うことでしょう。スマホで検索したり、友人に相談したりするものの、主イエスに尋ねることはないのです。そうした私たちをハッとさせるように、「その子をわたしのところに連れてきなさい」と主はおっしゃるのです。
父親はどうしたでしょう。彼は、主イエスの招きに従い、息子を主の許に連れていきました。その結果、事が動き始めたのです。「そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子どもはいやされた」(18節)と。
ここに悪霊のことが出て来ます。主の招きに従った時に、悪霊も活発に動き始めるのです。
同じ出来事を記したルカ福音書には、その子を「悪霊は投げ倒し、引きつけさせた」(9:42)とありますし、マルコ福音書には「霊は息子を殺そうとして」(9:22)と記録されています。
そうです。悪霊とは人を色々な意味で殺そうとする力です。破壊することで自らの力を示そうとするのが悪霊の手口であることを聖書は教えます。

Ⅲ.弟子たちの不信仰

主イエスの招きに従って連れて来られたその子を、主イエスは、悪霊を叱ることで追い出し、癒されました。
その結末をマタイは伝えています。
「弟子たちはひそかにイエスのところにやって来」た。そして、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」(19節)と尋ねたのです。
「ひそかに」という言葉は、この時の彼ら弟子たちの気持ちをよく表わしていて興味深い表現です。弟子たちにとっては、面目丸つぶれの失敗体験でした。イエスと自分たちの格の違いを見せつけられたような感じでしょう。その理由について主は、「信仰が薄いからだ」とおっしゃったのです。
いかがでしょう。「信仰が薄い」とは「修業が足りない」ということではありません。信仰の訓練を重ねればいつか一人前になり、主イエスと同じようになれる、ということではないのです。
何故なら、仮にこの「信仰」が「修業」のようなものであれば、この後に主イエスが言われた、「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。」(20節)という言葉と、その意味が矛盾するからです。
今日の聖書箇所の最後を見ていただきたいのです。20節の後に十字架のマークがあります。以前用いていた「口語訳聖書」には、20節の後に21節がありました。「新共同訳聖書」にはそれがありません。何故でしょう。
「口語訳聖書」にあった21節は「後代の付加」で、元々のオリジナルのマタイ福音書にはなかった言葉である可能性が高いとして省かれました。
「マタイによる福音書」ですが、マタイが書いたオリジナルの福音書は失われています。残っている物は、「写本」と呼ばれるオリジナル福音書のコピーです。複数の「写本」が残っています。学者たちは、それらを照らし合わせ、書かれたパピルスの質や、書かれた内容から年代を割り出し、オリジナルの復元作業をしているのです。それは現在進行形の働きです。そして何年かに1度、復元作業によって出来上がった「底本」と呼ばれる、オリジナルに限りなく近い文書をそれぞれの国に持ち帰って翻訳をします。
「口語訳」から「新共同訳」に変わったことも、その時、新しい底本がまとまったことによってであり、また現在においても、今年度末には「新共同訳」に代わる新しい「日本語訳聖書」が刊行される準備がなされています。
マタイ福音書に戻ります。「新共同訳」で省かれた21節は、「しかし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行かない。」(P60)という文章でした。
聖書の写しを作る写字生が、「信仰が薄いからだ」では物足りなく感じて、「祈りと断食」ということを書き加えたのではないか、と考えられています。このように「祈りと断食」ということを書き加えたのであれば、やはり「修業が足りない」ということに近くなってしまうことでしょう。
この時、なぜ弟子たちはこの子を治せなかったのか。「自分たちは信仰をもっているのだから、これくらいのことはできる」、「イエスさまの手を煩わせなくても、自分たちだけでどうにかなる」。
ここにはそういった、ある人の言葉を使うならば「弟子たちならではの落とし穴」があったのではないだろうか。「自分たちで何とかできる」、「何とかできるはずだ」という思いです。
主イエスはそれを「不信仰」と呼びます。いかがでしょう。そうした思いの背景には、必ず神以外のものが、「信仰に+α」としてくっついてくるのです。
「神さま+お金」だったら安心。「神さま+健康」だったらやっていけるかも。でも「神さま+0(ゼロ)、つまり信仰だけ」だったらどうでしょう。自分なりに「+α」を用意して、神から自立する。神に頼らずにやっていける自分になることではないのです。
信仰の訓練を積み重ねた結果、魔法使いのように山を動かす術を習得する。これも、聖書の教える信仰とは違います。ある人の言葉を使うならば、信仰とは、その山を造ったお方の力を信じ切ることです。「山を造ったお方であれば、山を動かすことだってできる」、そう信じること、それこそが、「からし種一粒ほどの信仰」だと主が言われることの意味です。
ここで弟子たちは無力さを経験しました。でも弟子たちの偉かったところはそれで終わらなかったことです。恥ずかしい思いを抱え無力感に打ちひしがれながら、「ひそかに」(19節)であっても、無力な思いを主イエスのもとに携えていったのです。
そして、どうでしょう。主イエスは素晴らしいお方です。本当に優しいお方です。弟子たちがお願いする前に、失敗の「償い」をしてくださるのです。
そして信仰の原点を示し、「自分のことは自分でちゃんとやっていける」という方向ではなく、「その子をわたしのところに連れて来なさい」との招きの言葉をもって、主イエスとつながる本来の生き方へと導かれるのです。

Ⅳ.耐え忍ぶ主イエスに支えられ

17節で主イエスはこう語っておられます。「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」。
イエスさまが言われた、「我慢する」という言葉に注目したいと思います。これは、「上げた手を支え続ける」という表現の言葉です。
この「上げた手を支え続ける」という動作を思う時に、あの出エジプト記17章に出て来る、モーセの両腕をアロンとフルが支え続けた光景を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。
そう言えば、主イエスも十字架の上で両手を上げ、死ぬまでそれを下ろさずに支え続けられました。
主の両腕を支えたのはアロンとフルではありません。もちろん、ペトロとヨハネでもなかったのです。手に打ち込まれた釘が支えたのでした。
十字架の場面で、実に、主イエスは死に至るまで、上げた手を下ろさなかったのです。あの釘の力を借りて最後まで、耐え続けてくださったのです。
「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」。イエスさまのこの言葉からすれば、この時からすでに主の手は上げられていたことになります。
ある牧師曰く、「主の一つひとつの御業、主が語られる一つひとつの言葉には、まさに、このお方の命がかかっている」と。お祈りします。