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主日共同の礼拝説教

キリストの言葉

2018年11月25日
和田一郎副牧師
申命記1章9-18節
コロサイ3章16節

1、キリストの言葉

今日のコロサイ3章16節にある「キリストの言葉」と言った時に、二つの意味があると思います。一つは、イエス様が話された言葉、もう一つは、イエス様についての言葉 という意味です。聖書の中では、キリストご自身の言葉より、圧倒的にキリストについての言葉の方が多く書かれています。旧約聖書全体は、救い主イエス・キリストを通して、救いのみ業が実現することが預言されていますし、新約聖書では、イエス・キリストについての証しと、やがてくるキリストの再臨の希望が書かれています。つまり、旧約と新約聖書の全体をとおして「キリストの言葉」が記されています。
キリスト教というのは「言葉の宗教」だとも言われます。ヨハネの福音書には、「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。」とあります。この世のはじまりに、まず言葉がありました。そして創世記の天地創造のはじめに、「神は言われた。『光あれ』」こうして、光があった。」(創世記1:3)とあります。「光あれ」と言われ「光があった」、これは言葉の成就です。聖書はこのことの繰り返しです。神の言葉には力があって、言葉が成就していく出来事を聖書は記しています。そのような、「言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」。というのです。これは、昔からある「ことわざ」のような言葉などではありません。神の御心によって発せられた言葉が、そのように「なる」という、生きた言葉です。

2、互いに教え、諭し合い

ところが、この言葉に抵抗して、神の言葉よりも、自分の知恵で生きることを選んでしまうのが人間の性質です。そのようにならないように、パウロは16節のところで、教会生活をしっかり守るように励ましています。「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い」とあるのは、クリスチャン個人にではなくて、教会全体への提言として、言われていることです。つまり、クリスチャンが、正しく霊的に成長させられていくには、共同体との交わりを通して整えられていく必要があります。パウロは教会生活で「互いに教え、諭し合い」なさいと言ってますが。「諭す」というのは、間違っていることは、はっきりと正すという意味です。そうして互いに教え合って成長していくように勧めています。
今日、読みました旧約聖書の箇所は、申命記の1章ですが、ここにも共同体の中で「教え、諭し合う」という在り方を見ることができます。出エジプトの出来事の中で、イスラエルの民のリーダーであるモーセが、何をするにも一人で仕事をこなしていたのを、しゅうとのエトロが見ていて諭したのです。「このやり方はどうしたことか?」と正したのです。エトロの助言は、責任の分担、役割分担が必要だから、「千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい」。問題をさばくことができる人々を選んで、その人たちにも責任を担ってもらうという方法です。
モーセは聖書の中で「誰にもまさって謙遜であった」と言われるように、エトロという年長者の助言を聞く耳をもっていました。しかし、このエトロの助言を聞いてから、実行するまでにはある出来事がありました。助言を聞いてすぐに命令をくだしたのではないのです。
そして 1:14節「 あなたたちがわたしに答えて、「提案されたことは結構なことです」と、モーセが提案したことを、民衆も「結構なことです」と同意したと記されています。
モーセはエトロの助言を聞いて、それは神の御心に適うことだと、祈ることで確信をもちました。ですがまだモーセだけの確信でした。自分の確信を関わる人々にも提案して、確信を共有する時間をもったのです。
また、申命記1章の16―17節では次のような言葉が続きます。「同胞の間に立って言い分をよく聞き」、「等しく事情を聞く」、「わたしが聞くであろう」と、「聞く」という言葉が繰り返されています。
このように、イスラエルの共同体の営みをとおして、私たちの教会生活においても、「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い」という在り方を見ることができます。自分と教会との関わりの大切さを顧みることなしに、人として正しく成長することはかないません。

3、一人よがりの罠

ソロモン王は、ダビデが築いた王国を引き継いで、神を畏れる者として良い政治をするように尽くしました。しかし、豪華な宮廷生活をするなかで王国分裂の要素を作っていきました。ソロモンはかつて知恵を求めました。自分は知恵のない者だと自覚して、ないものを素直に求めました。しかし、権力であったり、多くの物を所有する中で失ってしまったものがあったのです。それは「神の前で自分がどう在るべきか」というものです。私たちは教会に繋がる事によって、教え合い、諭し合いながら「何を成すか?」ではなく「自分がどう在るべきか?」を考えさせられます。
そのように、コロサイの教会の人々にもなって欲しいと願ったのです。「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い」自分がどのような者で在るか?を、キリストの言葉の中で見出してもらいたい。そのような教会で在って欲しいというのがパウロの願いでありました。
4、礼拝を豊かに
それに加えて、パウロは「詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」と、コロサイの教会に向けて、さまざまな賛美のスタイルによって、礼拝を豊かなものにするように勧めています。礼拝の形式というものは、決して正しい一つの形式があるわけではありません。時代や地域、そこに集まる人の個性によって変化していくものです。なんでも好きに礼拝して良いということではありません。大切なのは、礼拝において、神様が臨在されるという「リアリティ」と「秩序」です。このバランスが大事です。形骸化した礼拝をイエス様は厳しく批判されました。生ける神様に対して、生きた礼拝をすることができているのか。これは、いつの時代教会に求められます。
ある礼拝学の学者は、「礼拝は教会の血液だ」と言いました。血液が生き生きしていないと、礼拝ばかりか、教会全体が不健康になってしまいます。「生ける神様に、生きた礼拝を」わたしたちは、問い続けていきたいと思います。
今日は、コロサイ3章16節から、教会生活の在り方について考えてきました。その中心にあるのは「キリストの言葉」を、心に留めておくことです。わたしにも大切にしている聖書の御言葉があります。ルカによる福音書22章32節です。
「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
私が25歳の時に、母が1年間の闘病生活で天に召されたことが、信仰を持つきっかけだという話しは何度かしました。その母の葬儀の時、高座教会のある姉妹が来て下さっていたそうですが、わたしは、そのことに気づきませんでした。葬儀の数日後、その姉妹から手紙をもらったのです。そこにはこうありました。「小さい頃の一郎ちゃん、しか知らない私は、葬儀の時立派に成長された姿を見ました。お母さまと最後に病院で会った時に、家族に遺言書を書いたと聞いております。その中に是非、信仰をもってもらいたいということも書かれていたのではないかと思います。是非、お母さまからの信仰を受け継いで欲しいと心から希望しております。そのように祈らずにはおられません。説教がましいと思うかも知れませんが、これはお母さまとの友情を思う時、書かずにはおられないのです。」
これが私が25歳の時に受け取った手紙です。それから10年以上もたって、遠回りをして、わたしはようやく高座教会で信仰を持つことができました。しかし、その手紙を送ってくださった姉妹が高座教会にいるとは知りませんでした。私の母は、ここの教会員ではなかったからです。その姉妹から「あなたはもしかして、和田頼子さんの息子さんではありませんか?」と言われました。そこで、もしかして、あの手紙をくれた母の友人かな?と思い起こし、この教会で会う事ができたのです。洗礼を受けた時、あの手紙を頂いてから15年が経っていました。私は、そこで祈られていたことを知りました。私は子どもの頃から、母の信仰をとおして、信仰の種を撒かれていたと思います。でもずっとその種から芽がでませんでした。しかし、母やその手紙をくださった姉妹や、多くの方々から、そして何よりも、イエス様に、信仰の種が芽を出して、実りがあるように祈られていたのだと思います。信仰を持つまでの長いあいだ。教会とは遠いところにいて、信仰の種が枯れてなくなりそうな時がいつもありました。今、このようにあるのが不思議です。
「わたしは あなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
私の信仰がなくならないように祈っていた人がいました。
だから立ち直ることができました。そうして今、ささやかですが、兄弟たちを力づける働きの、一端に置かれていることに感謝しています。
「キリストの言葉が、あなた方の内に豊かに宿るようにしなさい」
みなさんにも、大切なキリストの言葉があるかと思います。この言葉は命の水です。キリストの言葉を飲む者は決して渇かない、永遠の命に至る水です。「キリストの言葉」を、共に豊かに受け取って、歩んでいきたいと思います。お祈りをしましょう。

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つまずかせないために ―自由な決断

2018年11月18日
松本雅弘牧師
出エジプト記30章11~16節
マタイによる福音書17章22~27節

Ⅰ.出来事の背景

前回までの出来事は、ガリラヤ地方での話ではありません。もっと北にある高い山で起こった変貌山の出来事、それに続く、無力さに打ちのめされる弟子たちの物語でした。
主イエスの一行は、再びガリラヤに戻ってきました。この時、領主ヘロデの迫害を逃れ、ガリラヤ湖をひと回りぐるりと巡って、主イエスの一行は、再び、このガリラヤに戻ってきたのです。主イエスの命を狙うヘロデは健在で、殺意も消えていません。この時もなお、主の命は狙われていたのです。
そのような状況の中で、一行は再びガリラヤに集結し、この後ヨルダン川沿いに南下して、いよいよ、主イエスはエルサレムにお入りになるのです。
そんな彼らに向かって主は、「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」(22節)と言って2回目の受難予告をなさったのです。これを聞いた弟子たちは非常に悲しみました。その後、24節からの神殿税にまつわる話が続くのです。

Ⅱ.神殿税とは

場面はカファルナウムです。カファルナウムはガリラヤ湖畔の大きな町で、主イエスはここを拠点としておられました。そこにはペトロの家があり、その家をご自分の家のようにしておられたことが、福音書の記述から明らかです。
ところで、24節から出て来る神殿税にまつわるやり取りは、実は、主イエスとペトロの2人だけの場面で起こったと考えられます。
主はペトロに家の中にいたのでしょう。そしてペトロは外にいました。そこに「神殿税を集める者たち」がやって来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と訊いてきたのです。それに対してペトロは「納めます」と答えました。
そのやり取りを家の中で聴いていた主が、ペトロに対して神殿税にまつわる話をし、そして湖に行って釣りをし、釣った魚の口から見つかる銀貨をもって納税しなさいと語られたという話です。
原文では、「神殿税」という言葉は「2ドラクマ」と、お金の単位だけが出て来ます。ですから、ここを直訳すれば、「神殿の税金として2ドラクマを集める人たち」となります。
1ドラクマは、労働者1日分の賃金ですから、2ドラクマとは2日分の労賃に相当します。
当時、ユダヤでは20歳から、年1回の神殿税を納めることが義務付けられていました。納期が来ると、村の世話役が税を集めて回ります。集められたお金は、神殿の修復に使われ、他の用途のために用いることは固く禁じられていました。
神殿のためだけに使われる、ということになると、金持ちなどは、もっと多く献金したいと考えたかもしれませんが、神殿税は、金持ちも貧しい者も同じ額だけ納めることになっていたのです。その理由は、この捧げ物が、命の贖いのため、また禍を招かないために神殿を修復するという、最も大事な支出を、みなが平等に負うことで人々が祝福のうちに生きるしるしとなるとされていたそうです。ですから逆に、納めることをしなければ、その年、その人にどんな災難が降りかかるか分からないということになります。
納めない者は当然、不安を抱えて生活したでしょうし、集金する者も「あなたの罪は赦されないし、その罰がくだるのを覚悟しなさい」と脅していたかもしれません。

Ⅲ.ガリラヤでの最後の奇跡

そうした集金係の者たちがやって来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」とペトロに尋ねたのです。問いかけられたペトロは慌てたと思います。カファルナウムはペトロの地元です。隣近所といざこざを起こしたくない。ですから、とっさに「納めます」と返事しました。原文は単純で、「はい」となっているだけです。
そう答えて家の中に入っていくと、主イエスがおられ、今度は、主がペトロに対して「地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子どもたちからか、それともほかの人々からか。」と尋ねられたのです。
ペトロは「ほかの人々からです」と答えます。すると、主イエスは「では、子どもたちは納めなくてよいわけだ」とおっしゃいました。
ここで主は、「子は納めなくてよいわけだ」とは言わず「子どもたちは…」と複数形でお語りになっています。それは、主イエスのことだけではなく、そこに居たペトロも含めて「子どもたち」と語っておられるのです。
その証拠に、湖で取れた魚の口からは銀貨1枚が出て来ると予告しておられます。銀貨1枚とは4ドラクマに相当します。神殿税は2ドラクマですから、自分とペトロの2人分の神殿税を意味したのです。
主は微笑みを浮かべ、喜んで、ペトロの分までもお金を用意しながら、「シモン、あなたもわたしと同じ神の子なのだよ」と言ってくださっているのです。
当時人々は、聖書の教えがどのようであったにせよ、できれば納めたくない。でも仮に納めなければ禍を招く、世間から何を言われるか分からない。そうした恐れの動機で納めていたのがこの神殿税だった思われます。
しかも2ドラクマ、2日分の労賃です。安くはない金額です。でも仮にそのお金を惜しんだら神との間にいざこざが起こるかもしれない。ひどい目に遭わせられたら困るので仕方ないから出しておこう。このように、自由な信仰心からではなく恐れや捕われが動機となっていたのです。
私たちの日常でも、おかしなことですけれども、息子に悪いモノがとりついているのでお祓いが必要だ、とか。そこまではいかなくても、テレビでたまたま流れた星占いが今日の運勢と知って、その日一日、心が捕われてしまう。また、人の噂や人の目が気になる。そのようなことがあるのではないでしょうか。
考えてみると、私たち自身がどれほど何かに捕われ、不自由の中にあるか、と思うことがあります。
主からの受難の予告を耳にした弟子たちは「非常に悲しんだ」と福音書は伝えています。原文を忠実に訳せば、「悲しまされた」と言う表現の言葉です。「彼らの心は悲しまされた」のです。私たちの先生も、結局は、自分たちの力を越えて働く運命のようなものに捕えられてしまっている。そのように考えたからなのではないでしょうか。
主イエスに、ここまで付いて来たけど、結局、これでおしまいらしい。主と言えども禍には勝てないらしい。
そうした悲しみに打ちひしがれていたペトロのところに人々がやって来て、「あなたの先生も私たちと同じように、この1年の無事と祝福を保証するための神殿税を納めないのか」と質問したのです。ですから、「はい」と答えるしかなかったのかもしれません。そうした場面なのです。
そのペトロに対して主イエスがおっしゃいました。「子どもたちは納めなくてよいわけだ」。「あなたやわたしは、神の子たちなんだから、無病息災や家内安全のために納めるものなら納めなくてよい。あなたたちはすでに神によって守られている。」と言われたのです。
あなたを捕えて離さないのは禍でも運命でもない。悲しみの霊でも死の霊でもない。慈しみ深い父なる神に守られているのだから、とおっしゃったのです。だから、あなたは恐れることはない、恐れから自由にされている。
ペトロにとって、これは大きな慰めの言葉だったと思います。そうした上で、イエスは「湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい」(27節)と言われました。ある人の表現を借りれば、何か楽しい手品を見せていただくようなユーモアたっぷりの仕方で、主は銀貨をご用意くださったのです。

Ⅳ.つまずかせないために

この時ペトロは本当に安心したと思いますし、心から励まされたことではないでしょうか。そして、そうした上で、主はペトロに大切な生き方を教えたのです。それは「彼らをつまずかせないために」という生き方です。宗教改革者の言葉を使うならば「キリスト者の自由」ということです。
自由に任せて、勝手なことをしてはいけない。躓く人がいるならば、その人を躓かせることをしてはいけない。何を食べてもかまわないというような時にも、食べたら人が躓いて、神を知ることの妨げになるかもしれない。もしそうならば、それを食べるのをやめよう。
物分かりが悪いから彼らは躓いている。頭が固いから、本当の自由を知らないから、彼らは躓いているのだ。彼らは古臭い人間だなどと言って、馬鹿にするようなことがあってはならない。私たちに与えられている自由は、人を躓かせないための自由だからです。人の足元から、できるだけ躓きの石を取り除き、彼らが立つことができ、歩くことが出来るようにすることを、主はペトロに求めたのです。
主イエスは、広い心を、それも一対一の場面で、親しく優しくペトロに教えてくださいました。今日、私たちが遣わされているこの世界は、違う立場の人に対して不寛容である傾向をいよいよ強めているように思われます。
主イエスは、原理原則を主張するのではなく、相手を立て、ユーモアとゆとりをもって対応するように、私たちを、礼拝をとおして導いてくださいます。
これからも、私たちはこの主の許に結集し、このお方らかもっと学ばせていただきたいと願います。お祈りします。

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ファミリーチャペル 主日共同の礼拝説教

愛されて愛する

音声は11時礼拝の説教です。

2018年11月11日
成長感謝礼拝  ファミリーチャペル
松本雅弘牧師
ヨハネの手紙一 4章7~12節、19節

Ⅰ.されたようにする

教会と牧師館を行き来する時に幼稚園の中を通ります。私を見つけると、子どもたちは手を振ったり、また、声をかけて来ます。もちろん、一生懸命、もう夢中になって遊んでいる子どももあります。そんな子どもたちの姿を見るのが楽しみです。
子どもたちが大人に向かって話しかけてくる。子どもたち同士が挨拶しあう。それは、そうする子どもが誰かから話しかけられて育っているからです。お父さんやお母さんから「おはよう」、幼稚園の先生から「おはよう」と、語りかけられて一日を始めたからだと思うのです。
今日ここに私の宝物を1つ持ってきました。息子が幼稚園の時、私に贈ってくれた誕生日プレゼントです。私の似顔絵と「40さいになって、よかったね」と、可愛い字でメッセージが添えられています。
この贈り物を眺めながら〈40歳になって良かったことって何だったろう〉と考えてみました。20年も前のことですから思い出すことはできないのですが、ただ〈30代から40代になってしまった〉と思わされた誕生日にちがいなかったでしょう。でも息子からこう言われますと、「ああ、息子がそう言うんだから、40歳になってよかったね」と思えたのだと思います。
実はこの「40歳になって、よかったね」という表現は、お誕生日になった時に、幼稚園で子どもたちを祝福する時の言葉です。息子も幼稚園の先生からそう言われて嬉しかったんだと思います。その嬉しかった言葉を私にも伝えたかった。そのメッセージが「40歳になって、よかったね」という言葉です。私たちはされたようにする、育てられたように育てる、そのことの良い例です。

Ⅱ.「わたしってだれ?」の問い

青山学院大学の先生で、精神科医師の古荘純一先生が、日本の子どもたちの自尊感情が他の国の子どものそれに比べ、とても低いことの原因を究明する本を書いています。幾つかの国の子どもたちを対象に調査したところ、日本の子どもの幸福度は世界最低レベルだったという結果を、衝撃をもって伝えていました。
そうした子どもたちが生活をする家庭や社会を作っているのは私たち大人です。先ほど、「私たちはされたようにする」、「育てられたように育てる」ということをお話しましたが、そうした連鎖、循環のメカニズムからすれば、この結果は、まさに私たち大人自身の自尊感情が乏しく、幸福感を感じられないで生きていることの現れなのかもしれません。
人はあるがままの自分を肯定できない時に、何かが出来る人になれるように、何かを持っている人になれるように、という思いが強くなると言われます。その結果、子どもに対してもそう求めてしまいます。当たり前のことですが、私たちが生きる上で、この自己肯定感は不可欠です。
そこで人は「自分が自分のままであってよいか?」を自問します。そのことに確かな答えや確信が得られない時に不安を感じると言われます。時には、「自分になんか、何の価値もない」と思って、自暴自棄になることさえあります。実は、この「自分が自分のままであってよいか?」という問いに、最初に出会うのが幼稚園の時代なのだそうです。
一般に、3歳の子たちは天真爛漫と言われます。何をするにしても、ちょっとくらい友だちのように出来なくても気にしません。逆にできたら得意顔です。でも、こうした天真爛漫さが4歳頃には消える。何故か? その頃から周囲が見え始めるからだそうです。世界の中心は自分でないと気づく。自分も、大勢いるみんなの中の1人に過ぎないと分かって来る。そしてこの頃から、先ほどの問い、「自分が自分のままであってよいか?」という問いが始まるのだそうです。
つまり、この時期あたりから、人間は「自分は自分でいい」という「自己肯定感」を得たいと求めるようになるというのです。
私たちが「自分は自分のままでいいのか?」という問いを持ち、心配になった時に、一番して欲しいことは「大丈夫、あなたを愛しているよ」という家族や周囲からの肯定的なメッセージです。
「いいんだよ、あなたはあなたで」という《受容》のメッセージを、子どもたちは求めています。そのメッセージで子どもは安心します。これが幼児期の自己肯定の確認方法です。
周囲の人、特にお母さん、あるいはお母さんに代わる人からの自己肯定の保証が、その子の一生の生きる力として人格の中に深く蓄えられると言われます。ただ、現実はどうかと振り返る時「それじゃだめ」とか、「もっとこうでなくちゃ」とか、場合によっては、「なんであなたは、誰々ちゃんのように出来ないの」と、お友達との比較の言葉でダメだしされることもあるでしょう。これでは子どもは救われません。自己肯定が必要な子どもに自己否定を強いてしまうのです。

Ⅲ.子育ての難しさ?

ある時、主イエスは、「パンを求める子に石を与える親はいない」と教えてくださいました。子どもたちがパンを求めるように、「自己肯定して欲しい」と求めたら、私たちは素直に、「大丈夫、あなたを愛しているよ」とか、「いいんだよ、あなたはあなたのままで」と言ってあげたいし、言ってあげることが大事です。
しかし、現実はどうかと言えば、子育てに大切なことは分かっていても、それを実行することはなかなか難しく、そのようにできない自分との闘いです。
では、こうした心の内側にある闘いとどう向き合ったらよいのか、最後に、そのことに触れてお話の締めくくりとしたいと思います。

Ⅳ.愛のメカニズム―愛されて愛する

幼稚園が認定こども園になった時に、福島から講師を迎え講演会を開きました。冒頭、講師の先生が、アメリカで子どもを持つお父さんを対象に行われたアンケート調査のお話をされました。
それは「もう一度、父親をやり直せたら」というアンケートです。結果としてダントツに多かった答え、それは「妻をもっと愛することをすればよかった」、「家族をもっと大切にすればよかった」でした。
それを聞いて、私は深くうなずかされました。「妻をもっと愛する」、「家族をもっと大切にする」、それはまさに「大丈夫、あなたを愛しているよ」、「いいんだよ、あなたはあなたのままで」と語りかけるのと同じこと、「愛する」ということでしょう。
意識的にこうした会話をすると、家庭に温かな空気が流れてくるでしょう。それがいつの間にか、その家庭の文化になっていくのです。そうした家庭の空気を吸って生活する子どもは、自分に対しても温かな目で見ることが出来るでしょうし、友だちに対してもそう接するに違いありません。
私たちは人にほめてもらうから、人をほめることができるようになります。自分が受け入れられているという実感ができてくると、人を受け入れることができるようになってくる。自分の良さを見つけてもらって育つから、人の良さも見つけることができるのです。
ですから、まず子どもたちをたくさん愛してあげて欲しいと思います。そうしたら必ず子どもは人を愛することができる人になります。すると、不思議なことにお母さんやお父さん自身も、我が子から愛をもらっていることに気づくようになるでしょう。愛は決して一方通行のものでなく、キャッチボールのように返って来るものだからです。
そしてもう1つ、私たち人間は、されたようにする存在です。愛される経験があるから愛する力が生まれます。これが愛のメカニズムです。そしてこのメカニズムを働かせるには、まず自分が愛されている存在だと実感できることがとても大事です。それが人を愛する力になるからです。
ただ1つ問題があります。正しい知識を持っていることと、その知識に従って行動できるかどうかは別問題だということです。
「愛のメカニズム」によれば、自分の中にあるものしか相手に提供できません。私たちの「心のタンク」が満たされていなければ肯定的なアプローチを与えることは難しいのです。素直に「大丈夫、あなたはあなたのままで」と言ってあげたいのにそうできないのです。どうしたらよいのでしょう?
その秘訣がヨハネの手紙1の4章19節にあります。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」
聖書は、誰よりも先にまず神が、ありのままのあなたを愛してくださっていると教えます。神があなたをご覧になり、「大丈夫、あなたを愛しているよ」、「いいんだよ、あなたはあなたのままで」と肯定しておられます。それが分かって来ると子どもたちや他の人に対してそうできるようになるのです。素晴らしいことだと思います。
そして、こうした神さまからの愛を確認する場、それがこの礼拝の時なのです。聖書を通して語りかけてくださる神さまの愛の言葉に耳を傾け、心のタンクを満たしていただきましょう。そのようにして、子どもたちや周りの人たちと接していきたいと願います。お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

私たち、集い喜び分かち合う―使徒言行録2章の教会をめざして

2018年11月4日
松本雅弘牧師
使徒言行録 2章14~21節

Ⅰ.はじめに

今日は来年度の「活動方針」をお配りしました。私たちは、2004年から「信仰生活の基本」の1つひとつを、毎年の活動テーマにしながら歩んできました。
従来のやり方からすれば来年は、「信仰生活の5つの基本①」の「キリストを知り、キリストを伝える」、つまり「宣教」というテーマに戻るはずでしたが、長老たちと共に祈り取り組む中で、2019年からの5年は、今まで通りのやり方を繰り返すのではなく、今、高座教会にとって大切なこと、今、手をつけるべきことを集中的に神さまに尋ね、それを1つひとつ取り上げて進んで行きましょうという結論になりました。
そして、来年度の活動方針のテーマは、「私たち、集い喜び分かち合う―使徒言行録2章の教会をめざして」です。
主題聖句は、「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒言行録2:17)と決まりました。

Ⅱ.使徒言行録2章の教会をめざして

はじめに、副題にある「―使徒言行録2章の教会をめざして」の「使徒言行録2章の教会」についてお話したいと思います。
これは2千年前のペンテコステの日に聖霊が降ったことで、エルサレムに誕生した初代教会のことを指しています。その時の様子が使徒言行録2章に書かれていることから「使徒言行録2章の教会」と呼ぶようになりました。その誕生の背景を見てみましょう。
使徒言行録第1章には、十字架にかかり3日目に復活された主イエスさまが40日間、弟子たちにその姿を現わされたことが記されています。その時に、主が伝えたメッセージの中心は「神の国が現れたのだ」、という「神の国の到来」でした。
さらに、そこには「神の国の到来」という福音を伝える者に用意された特別な恵みの約束がありました。「聖霊を与える」という恵みです。その恵みを受けるために、主は、エルサレムを離れずに約束の実現を祈り求めなさいと、弟子たちに言って昇天して行かれたのです。
その命令をしっかりと守り、エルサレムを離れないで、心をひとつにして祈り待ち望んでいた弟子たちの様子が、使徒言行録1章には記されています。
父なる神さまの約束を信じて待ち望んだ結果、主が昇天された10日の後に、この約束が実現します。
聖霊が降臨したのです。
その時の様子を、著者のルカは次のように伝えています。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒2:1-4)
それだけではありません。出来事を目撃した人々はあっけにとられ、その中のある者たちは、彼らは酒に酔っているのだ、と考えていたことをルカは、伝えています。
このような出来事に続いて、今日お読みした2章14節からの「ペトロの説教」が始まるのです。ペトロは立ち上がり、この現象は、酒に酔っているからではなく、旧約聖書のヨエル書の預言の成就である聖霊降臨によって生じたのだと説明します。
彼が引用したヨエル書によれば、聖霊が降ると「あなたたち」を基点に「あなたたちの息子と娘」、「若者」、そして「老人」と、4世代の者たちが聖霊によって熱心に主を証しする共同体になるというのです。

Ⅲ.ナウエンの言葉

先日、黙想会に行かせていただきました。黙想会の半分ほどが過ぎた時、指導する先生との面談の時がありました。参加した理由、そして半分過ぎた時点での神さまの導きや気づきについてお話しし、後半に向けての祈りの方向性を示していただきました。面談の最後のところで、先生がこんな話をしてくださいました。
ヘンリ・ナウエンが、あるキリスト教雑誌のインタビューを受けた時の話です。インタビューが終了すると質問を受けていた側のナウエンが雑誌の記者に向かって次のように投げかけました。
ナウエンの目に映った記者の姿、彼の背後にある、教会の信仰的文化について、こんなコメントをしたというのです。
あなたは一生懸命になって「神のため」に頑張っておられる。それは素晴らしいことだ。でも信仰生活にはもう1つ大切な側面がある。それは「神と共に」という側面だ。神と共に生活する。何故なら、教会の働きは本来、神の働きなのだから。人間はそれに参与させていただいている。だから、「神のために」というところから、「神と共に」、いや「私が何かをするのではなく、神が私を通して何かをなさる」。そうした視点が大切なのだと思う。ナウエンは、インタビューをした記者にそのように語ったというのです。
このエピソードを、黙想会の先生は面談の最後に分かち合ってくださいました。終わって部屋に戻りましたが、このお話が私の心を捕えました。
私たちは教会の計画を立てます。当然、その計画は神のための計画でしょう。でも時として私たちは、神に尋ねることなく、私たちがしたいこと、私たち自身の夢や願いを実現しようと計画を立てるのではないでしょうか。
「神のために」と言いながら、実はやりたいことをしているに過ぎない。そうしたことも起こり得るのです。でも御前に心を静めて祈る時、私たちの心の深いところに、神が与えてくださっている願いがあることに気づくのです。
来年の主題聖句に「わたしの霊をすべての人に注ぐ」と、あるように、聖霊によって与えられる本来的な望みです。そのために、まず「主の祈り」にあらわされた「御心がなりますように」という祈り、「御心がおこなわれますように」と祈る祈りが、私たちにとってなにより大切になるのです。御心こそが最善だからです。

Ⅳ.「私たち、集い喜び分かち合う」を合言葉に

使徒言行録を記した著者のルカは、聖霊降臨によって誕生した「使徒言行録2章の教会」と呼ばれる教会に集うクリスチャンの様子を、「教会はこうあるべきだ、クリスチャンはこうでなければならない」ということで示してはいません。むしろ、聖霊が働いた時の結果を淡々と報告しているのです。
高座教会が使徒言行録2章の教会のように聖霊が力強く働く教会として形成され、「集い喜び分かち合う」教会であるようにと願います。
しかし、それはあくまでも聖霊の働きの実であり、神さまの恵みによるのです。そうした中で、私たちの側で出来ること、それが説教の冒頭でお話しした「ぶどうの木であるキリストにつながる」ということです。
聖書には聖霊の実を実らせるためのプロセスが示されています。それをイエスさまは「ぶどうに木であるキリストにつながる」と教えてくださったのです。分かり易い表現を使うならば、「主イエスとの関係を大事にすることからスタートする」ということです。
聖書の最初から終わりまで、神さまは私たちを招かれるお方としてご自身を現されました。アダムもエバも、アブラハムも、モーセも、ダビデも、イザヤも、エレミヤも、ペトロも、パウロも、彼らから神さまを求めたのではなく、神さまの方が彼らを招かれたのです。
神さまが私たちを恵みの中で回復させ、恵みの中で成長へと導かれるのです。あくまでも、始まり、入り口は、私たちをまず神さまとの生きた関係に招くということです。ぶどうの木であるイエスさまにつながるようにと、まず主イエス・キリストの神との愛の関係に招いてくださるのです。
先ほどのナウエンの言葉ではありませんが「神さまのために何かしてやろう」とか、「人のために何かしよう」というところからも始めません。
仮にそこから始めようとすると必ず息が切れてしまいます。あの「マルタとマリア」のマルタのような状態になるでしょう。ですから、まず主イエスとの関係から入ります。
キリストが「ぶどうの木」で、私たちは「その枝」です。主イエスは「良い枝になってからつながりなさい」と言われてはいません。「疲れている者、重荷を負って苦労している者は私のところに来なさい。私が休ませてあげよう」と言われたのであって、「元気になって、出直して来なさい」ではないのです。主は、あるがままの枝の状態で私のところに来てつながりなさいと言われるのです。そうすれば「癒しという実」、「安らぎという実」をいただけるというのです。枯れたように見える枝でもちゃんとぶどうの木につながれば聖霊の「樹液」が流れ、やがて命がみなぎり実を結ぶのです。つながればそうした結果になるのです。
使徒言行録2章の教会は生き生きしていました。まさに「集い喜び分かち合う」教会でした。何故そうなったのでしょうか。それは、彼らがぶどうの木につながったからです。
来年度、私たちが追い求める教会の姿、「私たち、集い喜び分かち合う」とは、まさに集い、喜び、分かち合うことで「ぶどうの木であるキリストにつながろう」という合言葉であると共に、そのようにして、いよいよ「集い喜び分かち合う」使徒言行録2章の教会のような高座教会へと導かれていきたいと願うのです。そのためにもまず「ぶどうの木であるキリストにつながる」。キリストとの関係を大切にしていく。この信仰の原点を常に大切に歩んでいきたいと願います。
お祈りします。