カテゴリー
主日共同の礼拝説教

仕える者として ― クリスチャン・スチュワードシップに生きる

2018年12月30日
和田一郎副牧師
出エジプト記16章12~29節
ペトロの手紙一 4章10節

1、はじめに

明日で2018年が終わろうとしています。今年の高座教会は、信仰生活の5つの基本の1つ、「クリスチャン・スチュワードシップに生きる」ことを大切にしてきました。
クリスチャン・スチュワードシップとは、「キリスト者の管理の務め」と訳されています。私たちの命、この世で生きる時間、そして物質的なものも、すべては神様によって造られ、与えられたものです。いわば預かりものですから、それら与えられたものを、責任をもって守り、用いることを「クリスチャン・スチュワードシップ」といいます。
今年は、ペトロの手紙一4章10節を主題聖句として歩んできました。
この手紙が書かれた時代に12人の使徒たちは、エルサレムを離れて世界へと出ていき、迫害に遭遇します。ペトロ自身も迫害を受けていましたが、各地の教会の信仰者たちを慰め、励ますためにこの手紙を書きました。
世の中の移り変わりが厳しくとも、いつも自分を引き締め、身を慎んでいなさい。そして、世の中の変化が激しければ激しいほど、信仰生活をしっかり守ること、それが、世の中に翻弄されずに生きることなのだと、ペトロはそのようにこの手紙で励ましています。

2、賜物を生かす

特に今日の聖書箇所では、「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、その賜物を生かして互いに仕えなさい」と言われています。「賜物」とは「神様からのギフト」と言ってよいかと思います。
私たちには、神様から一人一人に違った形で与えられている個性があります。自分が築き上げた個性だと思いがちですが、そのための努力や鍛錬できるということさえも、すべて神様からのギフトだということです。
はじめて教会に来られた方は、「私は神様からギフトなどもらっていない」と思うかも知れません。しかし、聖書は、人はみな例外なく神様からギフトを与えられていると記しています。それは、私たちの時間や財産、また、この身体の内に与えられているものです。
しかし、「自分のこういう所が嫌いだ」という事もあります。ところが、神様はその弱みさえも、賜物として与えていてくださると言っています。欠けだらけのように思える自分でも、その欠けたところを通して、世の中で役立っていくという、不思議なことを神様はされるのです。
自分に与えられているギフトを知ることは大切なことです。教会学校では、たくさんの子どもたちに聖書のことを教えています。子どもたちに、それぞれの賜物を気づかせてあげるお手伝いをしていると言えるかも知れません。賜物を引き出して、伸ばしてあげるお手伝いです。
皆、同じ人間です。でも「神様はあなたにこんな賜物をくださっているんだよね」、「その賜物は素晴らしいよ」と、自分の賜物に気づき、伸す手伝いをしています。
この子どもたちが将来、人生に喜びを感じるとするならば、神様から与えられている賜物を見いだして、それを最大限に生かすことができる。そのような日々を送ることだと思うのです。
「クリスチャン・スチュワードシップ」とは、この『賜物』の管理者の務めのことです。つまり、神様に与えられた賜物に気づき、成長させて生かす務めです。
そして、大事なことは私たちは賜物の「所有者」ではなく、「管理する者」であるということです。私たちがもっている賜物の所有者は、あくまでも神様です。私たちは、それを神様からお預かりしているのです。神様が「これをあなたに預けるから、地上の人生で生かしなさい」と言われるものを、教会や世の中で生かしていかなければならないのです。

3、互いに仕える

今日の御言葉は、賜物を生かすこと、そして、互いに仕えることを求めています。神様は最初の人アダムを創られた時に「人が独りでいるのは良くない」(創世記2:18)と言われました。そこでパートナーとして、女のエバを創られたのです。
人は一人で生きるように造られてはいないのです。私たちは、誰かのために生きることによって、そこに生きがいと喜びを見出すことができるように造られています。ですから、人間本来の生き方に従って、自分の賜物を互いのために役立てるのです。
そして、「仕えなさい」とあります。イエス様は、仕えられるためではなく、仕えるために来たのだと、ご自分のことをおっしゃいました(マタイ20章28)。
イエス様のような仕えるリーダーを、サーバントリーダーと呼んでいます。リーダーというと、部下に強く指示・命令して動かすような支配型リーダーが典型的だったと思いますが、今は仕える精神をもって、リーダー中心ではなく、チームの賜物を引き出して生かすリーダーとして、「仕えるリーダー」が注目されるようになりました。
今年はスポーツの指導者を通して、リーダーの在り方を問われた年でもあるのではないでしょうか。相撲界、ボクシング界、アメリカンフットボールの大学などなど、支配的な指導者の在り方が話題になりました。その中で、女子テニスの大坂なおみ選手の才能を伸ばしたコーチの存在も今年話題になりました。
大坂なおみ選手は、才能はあるけれど成績が伸びない選手でしたが、指導者が変わって大きく飛躍しました。大坂選手の個性をよく見て、励ましているコーチの姿が話題になりました。日本の漫画が大好きな大坂選手、それに合わせて、コーチもその漫画を相当な時間をかけて読んだそうです。信頼関係を作るために自分の時間を捧げて、そうして大坂選手の賜物を引き出していったのです。大坂選手はとてもユニークで繊細なキャラクターですね。支配的なコーチだったら潰れてしまったのではないでしょうか。仕えるリーダーは、彼女にぴったりの「仕え方」で賜物を伸ばしていったのです。
究極のリーダーの在り方として、聖書は、その生涯をとおして仕える者であったイエス様の姿を示しています。
イエス・キリストは、神であるにもかかわらず、十字架の上で死なれました。それは、自分自身を犠牲にして他者に仕えるためです。他者に仕えるために、十字架に架かって下さいました。それが神の愛です。私たちのために仕えてくださったのです。
キリストが人に仕えた生涯と、十字架の出来事を知れば知るほど、また、その方に似せて造られた、わたしたちの本来の性質を理解すればするほど「仕える」ということが、より私たちの在り方として、ふさわしいと分かっていくのではないでしょうか。
一年の終わりを迎え、この年、大切な人を天国に見送ったという方も多いと思います。わたしも今年、叔父を天国に見送りました。横浜の教会で長らく牧師を務めて、もう90歳を越えて引退していましたが、生涯を通して教会に仕える人でした。厳しい人でしたが、わたしにとっては、クリスチャン・スチュワードシップに生きた人だったなと思います。
わたしが神学校に行くと伝えた時、その叔父が、榎本保郎牧師が書いた『一日一章』という本をくれました。その本の中には、鉛筆で線が引いてありました。叔父が大切だと思ったところに線を引いたようです。本をくれた時に、一緒に消しゴムもくれたのです。わたしは「消しゴムは持っているから大丈夫です」と言ったのですが、「いや、これも一緒に」といって渡してくれました。
叔父が亡くなってから思ったのですが、あの消しゴムは、自分が本に書いた線を、消しなさいという意味だったのかな? と気づかされました。自分が引いた線は消して、あらたに自分の線を引くようにという意味が込められていたのかな? いやそうに違いないと、今は思っています。
私たちの歩む道には、誰かがつけた道筋があります。気づかないうちに、実は大切な人のたどった道筋を、自分が歩いているのではないかと思います。大切な人を天国に見送ったあと、少しずつ時間が経つとともに、その人が残した道筋が「ああ、ここにもあったな」と、気づくことがあります。
わたしは、叔父からもらった本の線を消さないことにしました。厳しかった叔父から「お前は甘い、人の引いた線を消して、自分の線を引くんだよ」と叱られるかも知れません。
確かにわたしには、人の情に流され易い甘さがあります。しかし、その「甘さ」さえも、神様から与えられた、この自分の賜物です。道筋をつけてくれた先人から、学ぶことを大切にして、仕える者でありたいと思っています。
今年の主題聖句「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの、善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」。
この御言葉を心に刻んで、年の終わりを過ごしましょう。お祈りをします。

カテゴリー
クリスマス礼拝 主日共同の礼拝説教

悲しみの中でのクリスマス

 

2018年12月23日
クリスマス礼拝
松本雅弘牧師
エレミヤ書31章15~21節
マタイによる福音書2章13~23節

Ⅰ.クリスマスの恵みのなか1年を締めくくる

クリスマスおめでとうございます。毎年のことですが、1年の終わり近くにクリスマスを迎え共に礼拝を捧げます。改めて、そのことは深い恵みだと思うのです。なぜなら、御子のご降誕の出来事を覚えながら、その光の中で1年の歩みを振り返ることができるからです。福音書の記者ヨハネは、クリスマスの出来事を「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)と表現しました。
1年を振り返る時、ある人にとっては苦しいこと、悲しいことが多く、まさに深い闇を行くような日々だったかもしれません。
私にとっては、共に信仰生活を、また教会の奉仕を担って来た信仰の友を、次々と天に送ったのが今年である、というのが実感です。
一方で、手ごたえを感じ、将来の見通しに明るさを覚える、そんな年として2018年を振り返っている方もおありかも知れません。
ただ、私たちの心の中にある一人ひとりの思いを超えて共通するのは、主イエスの光、恵みと憐みの中で1年間を生かされてきたという実感なのではないでしょうか。
クリスマスの主イエス・キリストは「インマヌエル(神は我々と共におられる)」という名で呼ばれるお方なので、生活の全ての領域に、実は主が共にいてくださったのです。
信仰の目をもって見る時、そこにインマヌエルの主がおられた。そこに、光なる神を見出すことができる。そのことを今朝も感謝したいと思います。

Ⅱ.悲しみの中でのクリスマス

さて、私たちは今年、マタイ福音書を中心に、アドベントの季節を過ごしてまいりました。
先週の第3アドベントでは、主イエスの誕生に際して、喜んでいいはずのユダヤの人々は無関心、無感動であったのに対し、救いの枠外と考えられていた東方からやって来た異邦人、しかも星占いを職業とする者たちだけが、大きな喜びに満たされ、御子を礼拝したことを学びました。
その礼拝の翌日の月曜日、「心揺さぶられました」という件名で一通のメールが届きました。教会員の方からのメールです。
その方は、数年前、自分は大きな病を患った。病院の無菌室棟で、体力がゼロ、全く何も出来ない状態の中で、その時はじめて、神さまはこのままの私を愛してくださっている、ということを知らされ、それが実感として迫ってくる経験をしたのだそうです。そして、神さまの恵みの中、病が癒され、体力も少しずつ回復していった。ところが、時の経過と共に、その時、自分の心の中にあった神さまへの感謝の思い、感動が少しずつ薄らいで、こうして信仰が与えられていることが何か当たり前のようになっている自分を突きつけられ、気づかされた、と綴られていました。
説教の中で私は、ヘブライ人への手紙4章の御言葉を引用しました。
「その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。」(ヘブライ4:2)
預言者が遣わされ、神の言葉を与えられる、という特権に与っていたユダヤの人々の現実です。
聖書に関する質問をされれば、たちどころに正解を述べることの出来る、律法学者、祭司長たちが、ヘロデ王の「メシアはどこに生まれることになっているのか」という質問に対して、即座に「ユダヤのベツレヘムです」と答え、しかも預言者ミカの言葉を正確に引用しながら丁寧に説明できたのです。ところが、それで御終いです。
彼ら律法学者たちは、〈これは一大事! 私たちの救いの問題だから、東の国からやって来た、それも占いの教師たちなどに任せておくことなどできない。さあ、すぐに行きましょう〉と言って立ち上がってもよかったのです。
ところが、立ち上がることも動くこともしませんでした。聞いた言葉が役に立たなかった典型的な例です。そうした彼らの姿を通して私たちは、もう一度、自らの信仰の自己吟味を迫られたことです。
ところで、ルカ福音書のクリスマスストーリーは、数々の賛美の歌や喜びの場面が繰り広げられ、喜びという色彩が強いように思います。それに対して、マタイが記した福音書は、ルカ福音書とは対照的に、喜んだのは東からやって来た星占いの先生たちだけでした。「イエス・キリストの系図」、「ヨセフの葛藤」、そして、占星術の学者たちから得た情報によって、ヘロデ王の心に不安がよぎる、と続きます。
そうした中で誕生されたイエスさまたちはどうしたかと言えば、ヘロデ王の幼児虐殺を免れ、エジプトへと避難します。そこでの難民生活も大変だったと思います。そして、再びガリラヤのナザレへの引っ越しです。次から次へと困難と危険に襲われます。しかも、どの出来事1つを取っても、幼子の成長にとってネガティブなものばかりです。
このように、クリスマスの出来事とは、喜びや明るさというよりも、悲しみや暗さに覆われているということを、改めて知らされます。このことを考える時、私は、その中に私たち人間の、イエスに対する拒絶というものがあるからなのではないかと思うのです。
それは、自分が自分の王様、自分が自分の主人として生きている、それが私たちだからです。ですから王の王、主の主として来られた御子を受け入れることに対して、私たちは当然、物凄い抵抗感を覚えるのです。
「拒絶」という視点でクリスマスにまつわる聖書の記述を見ていくと、一つの流れとして読めて行けるのではないかと思います。
生まれた時から、いやマリアの胎の中に宿る時から拒絶がありました。誕生してからは本当に激しい拒絶の連続です。エルサレムの人々をはじめ律法学者や祭司長たちの無関心、ヘロデに至っては、拒絶の究極である殺意を抱き、幼子の命を抹殺しようと実行に移すのです。
そしてもう1つ、聖書全体の視点から御子の誕生を見る時に、飼い葉桶の時から主イエスの歩みは苦難の僕としての歩みでありました。まさに飼い葉桶と十字架は初めから1つだったのです。
教会学校で、生徒たちが聖誕劇をやる場合、誰が何の役をするかでもめるということをよく聞きます。なかでも最後までの決まらないのがヘロデ王役だと言われます。ではヘロデは一体何をした人なのでしょう。
学者たちにだまされたことを知って、ヘロデ王は幼児虐殺というほんとうに残忍な行為に出たのです。実は、ヘロデは身内の者、我が子をも殺した人物として有名です。ヘロデに目をつけられたら殺されるのです。
ところが聖書は、これほどまでに残忍なヘロデの手から、幼子イエスは逃れることができたと伝えます。

Ⅲ.ヨセフを支えた神の御手の確かさ

勿論、そのために大切な役割を果たしたのがヨセフであったことを忘れてはなりません。幼子の命が守られるために、ヨセフは立派に父親としての召しに生きたからです。躊躇なく神に従い、愚直なまでに御言葉に従う、このヨセフの姿に、同じ信仰者として学ぶところが大きいと思うのです。
ただ、ここで決して忘れてはならないことがあります。それは、こうしたヨセフを超えて、彼をしっかりと導いた神がおられたこと。その導きの確かさがあったのだ、ということです。

Ⅳ.インマヌエルと呼ばれる主が共におられる

イザヤ書にこのような御言葉があります。「わたしの手は短すぎて贖うことができず、わたしには救い出す力がないというのか」(イザヤ50:2)
そんなことはない、と神は言われるのです。神の確かな御手、力強い確かな御腕が歴史を導き、私たち一人ひとりの上にも伸ばされている。その御手の導きの中で、ヨセフもマリアも、そして幼子イエスさまも守られたのだ。
そして私たち一人ひとりも例外ではない。この2018年を振り返ってみる時に、いや、今までの人生の歩みを顧みる時、そこには、神の力強く、そして優しい御手の導きがあったのです。
そのことを、信仰者である私たちは感謝をもって告白することが許されているのです。
マタイはそのことを私たちに伝ています。御子イエスの名が、「その名はインマヌエルと呼ばれる」/「神は我々と共におられる」(1:23)と記すのです。
神がインマヌエル、神は我々と共におられるお方ならば、私たちの人生における全ての出来事、私たちの生活の全ての領域、そこにも主イエスが共にいてくださるということです。
不意を突くような場面でも、実は神さまが共におられた。そのことを私たちは信じ、期待して生きることが許されている。いやもっと言えば、主イエスが共にいてくださるから、大丈夫だ、と私たちは聖書を通して、神から、そのようなメッセージをいただいているのです。
私たちは、その御言葉の約束を、信仰によって自分自身に結び付けるようにして聴かせていただきたいのです。
どのように激しい苦痛があっても、悲痛なことがあっても、神が、主イエスにおいて私たちと共にいてくださる。だとすれば、すべてのことを神さまがご存じであり、万事が相働いて益となるように導いておられる。(ローマ8:28)そう確信してよいということです。
インマヌエルと呼ばれる主イエス・キリストによって、そのような神との確かな結びつきが始まっています。
来る2019年も、都エルサレムから主イエスを締めだしたユダヤ人のようにではなく、自分の心の王座に、主イエス・キリストを唯一の主としてお迎えして、主が始められた、闇に光を灯す働きのために、それぞれの賜物に応じて用いられるものでありたいと願います。お祈りします。

カテゴリー
アドベント 主日共同の礼拝説教

救い主への捧げもの

2018年12月16日
第3アドベント
松本雅弘牧師
イザヤ書63章15節~64章8節
マタイによる福音書2章1~12節

Ⅰ.クリスマスに喜び?

街のあちこちでクリスマスが語られる時、それは喜びを映し出しています。テレビのどのチャンネルを観ても、そこにあるのは「喜び一杯のクリスマス」です。でも、今日お読みしたマタイによる福音書2章1節から12節では、喜びと正反対の出来事や言葉が溢れています。
ヘロデ王の心に不安がよぎり、それが殺意に発展し、その結果さらなる不安、恐れ、悲しみが拡がっていきました。そうした暗闇のような空気が満ち満ちているのが、今日の聖書箇所です。しかし、その中でかろうじて1カ所だけ、「喜び」という言葉を見つけることができました。「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(10節)。
単なる「喜び」ではありません。「溢れるような喜び」がここに語られているのです。これはどういうことでしょう。

Ⅱ.占星術の学者たちと、溢れる喜び

ここに1つ、決して見落としてはならないポイントがあります。それは喜んだのが「東の方から…来た」占星術の学者たちだったということです。(1節)
「東の方」と書かれています。具体的な国名は出て来ません。この時代、ユダヤの人々が「東」という言葉を聞くとどんなことをイメージしたのでしょう。歴史を知るユダヤ人であれば即座にアッシリア、バビロン、ペルシャと、自分たちイスラエルを脅かしてきた国々を思い浮かべたに違いありません。
預言者ヨナに、「アッシリアの首都ニネベに行って神の言葉を伝えるように」と、主の言葉が与えられた時、ヨナは「神さま、それだけは勘弁してください」と、主なる神に仕える預言者であったにもかかわらずに、東方のアッシリアとは正反対の、西の方角へと逃亡を企てた出来事がありました。それほどまでに、東の国アッシリアは、イスラエルにとって憎むべき敵国だったのです。
歴史を紐解けば、北イスラエル王国はアッシリアによって滅ぼされ、男たちはアッシリアが征服した別の地域に連行されます。すると、他の被征服地からも他民族の男たちが連れて来られます。そのようにして民族混交政策をとったのがアッシリアでした。
その後、同じ東方の国バビロンが、南ユダ王国を滅ぼします。この時、捕囚とされたのは男性だけではありません。男性も女性も、イスラエルの多くの民が東の国バビロンに連行されました。このように「東の方」とは、自分たちを捕え滅茶苦茶にした国々なのです。まことの神である主を信じない異教徒の国々、それがこの時、彼ら学者たちがやってきた東の国でした。
さらに悪いイメージは続きます。ユダヤ人にとって「東」とは、アラビアの砂漠がどこまでも続く所で、暑さと乾燥のために植物が全く育たない不毛の地です。「東から風」が吹くと草木は一斉に枯れ、泉は干上がり、イナゴの大群を運んで来るのが「東風」と言われ、人々は本当に恐れていました。それが「東」です。「東の方からきた占星術の学者たち」とは、まさに、その「東」からやって来たのだとマタイは伝えるのです。
ところで、1節の「占星術の学者たち」という言葉をギリシャ語原文で見ますと、「マゴスたち」が来たと書かれていました。これは英語の「マジック(魔法)」の語源となった言葉だと言われます。言ってみれば魔術師、「星占いの先生」といったところでしょう。
ただ、この占い自体は、旧約聖書の時代から神によって厳しく禁じられた行為でした。ここでマタイが伝えていること、それは父なる神が、御子の礼拝者として最初に招いたのが、ユダヤ人が忌み嫌っていた東方から、しかも旧約の時代から禁じられていた占いの先生たちだった、ということです。
この時、占いの先生たちだけが、御子イエスに会うことが出来たのです。当時のユダヤ人たちが、救われるはずがないと考えていた異邦人、救いの枠外に居た異邦人、しかも星占いを仕事とする人々が誰よりも先に、救い主イエスの礼拝者として招かれたのです。そして彼らこそ、主イエスの誕生を知って、喜びにあふれたのだ、と伝えているのです。

Ⅲ.御子の礼拝に最初に招かれた人々

もう少し、この時の学者たちのことを考えてみましょう。彼らはユダヤまでやって来ましたが、救い主がお生まれになった場所が分からず、方々探しまわりました。でも見つかりません。
ユダヤ人の王としてお生まれになったのだから、当然、宮廷に居るだろうと考え、ヘロデのところを訪問したのです。
実は、その時はじめてヘロデは事実を知らされました。そして急に不安になったのです。すぐさま祭司長たち、律法学者たちを招集し、「メシアはどこに生まれることになっているのか」と問いただしたところ、彼らは「ユダヤのベツレヘムです」と即座に答えました。それも預言者ミカの言葉を引用しながら。しかし、自由自在に聖書を引用し、すぐに答えを出せた彼らですが、そこで動こうとしないのです。あの羊飼いたちが、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(ルカ2:15)と言ったように、急いで出て行こうとしないのです。本当に不思議としか言いようがありません。
私は次のような言葉を思い出しました。「というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです」(へブライ4:2)。
聞いた言葉が役に立たなかった。その言葉が、それを聞いた人々と信仰によって結びつかなかったからだというのです。あくまでも他人事、自分のこととして受けとめていません。受けとめられないでいたのです。
彼ら祭司長、律法学者たちとはユダヤの信仰、伝統を守る人たちです。「これは一大事、すぐに行きましょう」と行動に出てもよかったはずです。でも誰一人動かない。立ち上がろうともしていません。
そして、皮肉にも行動に出たのがヘロデなのです。「わたしも行って拝もう」と言っていますが、その逆で、実は殺そうと考えていました。地位を脅かす原因となるイエスを、赤ん坊の内に殺してしまおうと考えていたのです。
ヘロデが一番熱心に聖書を調べさせ、メシア誕生に関心を示した。ところが、そうした熱心なヘロデとは全く対照的に、ユダヤの指導者たちは全く無関心だったのです。福音書を書いたマタイは、クリスマスの出来事をこのように見ているのです。

Ⅳ.だれのためのクリスマス?

先日、銀座の教文館に行ってきました。銀座はクリスマス一色でした。でも、そうしたクリスマスを見ながら、心のどこかで私は、〈彼らははしゃいでいるけど、本当のクリスマスを知らない。本当のクリスマスは教会にあるのに・・・〉と、ふと、そんなことを思いました。
高校生の時はじめて教会のクリスマス会に出たあと、〈これが本当のクリスマスだ。本当の意味でお祝いできるのは信仰を持っている、この人たちだよなぁ〉と考えたことを思い出します。
でも、果たしてそうなのだろうかと思います。ここに登場する祭司長たち、律法学者たちのように、聖書の知識があっても、それによって、信仰者たちは動きだしたり立ち上がったりしているだろうか。また逆に、聖書を読みながら、聖書が教えることと正反対のことを平気で考えるヘロデのようになっていないだろうか。
占星術の学者たちが味わった大きな喜び、マタイをして、「大きな喜びを、この上もなく喜んだ」、「非常な喜びにあふれた」と表現させるほどの喜びが、クリスマスの意味を知っていると告白してはばからない、私たちの心の中に、また教会の中に、果たしてあるのだろうかと思わされるのです。
喜びは自分で作れるものではなく、神が与えてくださるものなのだと、ある人が語っていましたが、占星術の学者たちは、神から喜びをいただいた、受け取ったのです。救い主と本当に出会ったからです。
救い主と出会った彼らはその後、どうしたでしょう。黄金、乳香、没薬を主に捧げました。これらは占星術をする時の商売道具だと言われています。それを入れてあった「宝の箱」とはリュックのような袋を意味する言葉だそうです。リュックのような袋に商売道具の黄金、乳香、没薬を入れて持ち歩き、旅をし、仕事をしていたのです。その生活の手立てを、リュックごとみんな幼子イエスの前に差し出してしまったのです。言い換えれば、〈もう役に立たない、必要ない〉と、彼らは思ったのです。
ある人の言葉を使えば、自分たちの間違いを認めた。星占いから足を洗ったのです。
ちょうど歴史がキリストの誕生を境に紀元前と紀元後に分かれるように、救い主イエスとの出会いが、彼らのその後の人生を方向づけて行ったのです。その証拠に、神さまは彼らのために、「別の道」(12節)を備えてくださいました。
アドベントは、講壇に、悔い改めを表す紫の布を掛け、もう一度、私たち自身の信仰生活を吟味する季節です。私たちは来週、いよいよクリスマス礼拝を迎えます。今朝もう一度、神さまからいただいている恵み、いただいている救いを覚えて感謝したいと思います。もう一度、私たちの心の飼い葉桶に、救い主イエス・キリストをしっかりとお迎えしたいと願います。
お祈りします。

カテゴリー
アドベント 主日共同の礼拝説教

困惑の中に

先週講壇

2018年12月9日
第2アドベント
松本雅弘牧師
イザヤ書9章2~7節
マタイによる福音書1章18~25節

Ⅰ.夢-困惑の中に

日曜日の前日に、私はよく夢を見ます。心理学によれば、夢は、人に隠しているもの、心の奥深くにしまい込んである願い、心配、課題が表れてくるものだと言われます。
ここに登場するヨセフも夢を見ました。彼は、それほどまでに大きな悩みを抱え、追い詰められていたからです。

Ⅱ.ヨセフが直面した危機

誰にも相談できず悩みを抱えていたヨセフでした。その悩みとは、婚約中のマリアが、ヨセフにとっては身に覚えのない子を身ごもっていたことです。
この時のヨセフとマリアとは婚約期間中でした。ユダヤの習慣によれば、この婚約期間中は、性的な関係以外は、ほとんど夫婦と同じような生活が許されていました。ですから、この期間に他の男性や女性と性的な関わりを持ったとすれば、結婚後の姦淫の罪と同じような重罪と見なされました。
そうした中で、マリアが妊娠していることが発覚したのですから、ヨセフはどれだけ傷ついたことでしょう。
彼は「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心」(マタイ1:19)しました。ただヨセフの身になって考えるならば、理屈で整理できても、心が付いて行かなかったことだと思います。
マリアは愛する人です。彼女の存在は大きな喜び、生きがいになっていたことでしょう。そのマリアを失う。彼女のお腹に身に覚えのない命が宿ったのです。ですからヨセフにしてみれば彼女を失うだけでなく、彼女との間に今までのような愛を見出すことが出来なくなっていた。もう一緒に生きることができないのだという思いを抱かざるを得なかったのです。
そうした深い悩み、しかも、このことを誰にも話すことが出来ないという苦しみの中に置かれたのです。クリスマスとは、そうした人間の本当に深い魂の悩みの中で起こった出来事なのです。

Ⅲ.ヨセフへの召し

そのようなヨセフに、神は夢の中で御使いを通してお語りになったのです。「あなたは、この娘と離縁してはならない。きちんと自分の妻として迎えなさい」と。
言わば、その子を自分の子として引き受けるように。つまり身に覚えのないその子の父親になってくれるかと、神さまが天使を通して頼んでおられるのです。
ヨセフはどうしたでしょうか。彼はそれを引き受けていきました。この後、ヨセフの歩みを見ていく時に、神からの依頼、イエスの父親としての召命に一生懸命に生きていくヨセフの姿を、私たちは見るのです。
ヨセフからすれば、イエスの父親になることは神さまからの召命に応えることでした。そして、それは見方を変えると、神の協力者、神の同労者として生きることの決断でもありました。
福音書の記者マタイは、神は他でもないこのヨセフに、御子の父親としての大切な働きを委ねたと伝えます。ヨセフの側からすれば、思いもよらない深い悩みでした。しかし、苦悩という魂の一番深いところで、神はヨセフに語りかけられたのです。その一番深いところで神の御言葉を聞くことから、ヨセフの新しい歩みは始まりました。
そしてどうでしょう。これは私たちの人生にも当てはまるのではないだろうか。一人ひとりに与えられた人間関係、責任や役割、今一度、神からの召しとして受け取り直すようにと促されているのではないだろうかと思うのです。

Ⅳ.神さまの招きに応答する

聖書を通してヨセフの人物像に迫る時、ヨセフが登場する場面はごく僅かであることに気づきます。しかも、クリスマスに関連した場面以降、彼は福音書から姿を消していくのです。
多分、ヨセフは若くして召された人だったのでしょう。しかし、ヨセフは自分に託されたイエスの父親として、マリアの夫としての大切な召しを、不平も言わずに引き受けていった、そうした姿に私たちは感銘を受けるのです。
羊飼いや博士たちが押しかけて来ても、ヨセフは決して迷惑がりはしませんでした。むしろ、待ち望んできた救い主である息子イエスの誕生を、みんなと一緒に喜んでいる姿を私たちは見るのです。
そしてまた敬虔な信仰者として、息子イエスに対して、旧約聖書で決められている通りに割礼を受けさせ、神殿参りをしています。そのように親として、神に対し、また息子に対する務めをしっかりと果たしています。
エジプトへ避難し、再びパレスチナに戻ってくる、あの大変な砂漠の旅にしても、聖書を読む限り、大きな問題があったという記録を見つけることはできません。つまり、ヨセフは、家族を不自由や危険な目に合わせないように父親としての務めを立派に果たしたのではないかと思います。こうした父親ヨセフの姿が、何よりも、息子イエスさまに大きな影響を与えていきました。
あるとき主イエスは「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」(マタイ7:9-10)と語っています。
主のこの言葉は、主から見てヨセフがどんな父親であったかを雄弁に語っています。父親ヨセフは、パンを欲しがる自分の子どもに石を与え、魚を欲しがる子どもに蛇を与えるような父親ではなかったのです。
主イエスが父なる神を語る時、地上の父親の存在をもって紹介されたのは、それは取りも直さず、ヨセフが天の父なる神の義と愛を体現する者として幼いイエスさまの目に映っていたからでしょう。
ルカによる福音書に記されている受胎告知の出来事の数か月前、洗礼者ヨハネの誕生が、祭司ザカリアに伝えられた時、天使が語った言葉の中に、主イエスの先駆けとして誕生する、後の洗礼者ヨハネがいったいどのような人物で、どういう働きをするのかが告げられています。その中に、「父の心を子に向けさせ」(ルカ1:16)る、という恵みが起こると語られます。
そう言えば、旧約聖書は最初の人の堕落後の罪の姿を、カインがアベルを殺害するという「兄弟殺し」で始めます。つまり、人間の罪の姿を「家庭の崩壊」の中に見ているのが聖書です。
その聖書は、旧約聖書の最後の書「マラキ書」において、エリヤが再び来る時、「彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる」(マラキ3:24)ことで、家庭に平和と喜びが回復すると預言するのです。
私もヨセフのように父親としての召しをいただいている者ですが、これは結構、父親にとって大きなチャレンジなのではないでしょうか。ともすると私たちは、「子どもの心が父親である私の方に向かう」ことばかりを考えてしまうからです。
しかし聖書はまず、親の心が子どもに向かい、次に、初めて子どもの心が親に対して開かれていく。そのようにして本来の人間の姿が回復されていくと伝えています。つまり、神の働きは、まず私から始まる、ということです。父親ヨセフから始まったのです。
私たちは、子どもが変るのが先だと考えます。相手の人が変ってその後に私が変わると考えます。でも神のお働きは、まず私から始まるのです。
逆に、神を知っているはずのこの私が、神を知らない者のように生きていることが実は、家族にとって、また周囲の人々にとっての一番の躓きとなっているのです。
神さまの救いはまず私から始まる。この地域社会の回復は、まず神の民である私たち自身が取り扱わ
れるところから始まる、というのが福音のメッセージです。
ヨセフは立身出世をした人物ではありませんでした。英雄的存在でもない。ごく普通の大工さん、私たちと同じです。でもそのごく普通のヨセフが、神の御心を選択したが故に、主はヨセフを祝福し、ヨセフを通して大切な御業をなさったのです。
「選択」ということを考える時、人生は日々小さな「選択」の連続、言いかえれば「小さな決心」の連続だということに気づきます。
1つの選択によって、その後の人生が定まっていくだけでなく、家族や周囲の人々の人生にも大きな影響を与えることがあります。
今日の聖書箇所には、ヨセフにとっての大きな決心、イエスの父としての自分、マリアの夫としての自分を受け取る、あるいは受け取り直すという決心が記されています。
そして、ここにもう1つの選択、もう1つの決心があったことを、私たちは忘れてはなりません。それは「神さまの選択」、「神さまの決心」です。
その神の決心、神の決意についてカール・バルトは、「神はイエス・キリストにおいて、永遠に罪人とともにあることを決意された」と語りました。
今日ご一緒に見てきたヨセフの決心も、この神さまの選択、神の決意を知り、その愛に圧倒されて、マリアと共に生きることを選んだゆえの決心だったのです。
23節を見ますと、男の子の名はインマヌエルと呼ばれる、この名は「神は我々とともにおられる」という意味だと書かれています。
クリスマスとは、神が私たちと共に生き、私たちを生かして用いようとされる神の愛の選択、「インマヌエルの決心」の出来事だったのです。
神の側で手を差し伸べてくださっている。そして私の手を取って、神の同労者として招いてくださっている。私たちはその招きに応答するのです。
お祈りします。

カテゴリー
アドベント 主日共同の礼拝説教

救い主の系図

2018年12月2日
第1アドベント
松本雅弘牧師
創世記11章31節~12章9節
マタイによる福音書1章1~17節

Ⅰ.待降節(アドベント)と紫の布

今日からアドベント、キリストの御降誕を待ち望む待降節の季節に入り、緑から紫に典礼色が変わりました。
教会の暦でこの紫の布が、再び講壇に掛けられるのは、主の御苦しみを覚える受難節ですが、今は、クリスマスを待ち望む、ある意味で楽しい季節です。けれども教会は、悔い改めを促す紫の布を礼拝堂に掲げながら、この季節を過ごしていきます。

Ⅱ.救い主の系図

「社会鍋」で有名な救世軍の創始者山室軍平が、若い時、聖書に出会い、感動してクリスチャンになりました。この感動を、独り占めしては申し訳ないと思って、聖書を1頁々々バラバラにし「是非、読んで欲しい」と一枚ずつ友人に配ったそうです。後日、ある学生が、その話を聞いて、「その第1頁をもらった人は、全く興味がわかなかっただろうに」と呆れ顔で言ったそうです。
「その第1頁」が今日のマタイ福音書1章1節から始まる系図です。最近、NHKの番組で「ファミリー・ヒストリー」というものがあります。自分たちのルーツ、自分って一体どういう者なのかを探る中で、いつの間にか、どこに足場を定め、どう生きていかねばならないのかを考えさせられるように思いました。
そのような役割を担ってきたのが、ここにある系図です。日本においても同様の時代がありましたが、イスラエルにおいては、特に大事にされてきました。
旧約聖書のバビロン捕囚後に書かれたものには系図が多く出てきます。歴代誌の初めなどを見ますと、そこに出てくるのは、名前の羅列や系図です。
このように大事なリストに自分の名前が出てくるかどうかは大きな問題でした。そうした歴史的、文化的背景のなかで、福音書記者マタイは、ここで真面目に系図を語っているのです。そして、そうした思いをもって、この系図と向き合う時、改めて様々なことを教えられます。

Ⅲ.系図の中の特別な人々

まず、第1に注目したいことは、この系図に4人の女性の名前が出て来ることです。
3節の「タマル」、5節の「ラハブ」、同じく5節に「ルツ」、そして4人目は、6節にある「ウリヤの妻」、名前は「バテシェバ」です。
実は、系図の中に女性が登場すること自体が当時のユダヤ人にとって驚きでした。何故なら、ユダヤ人が血筋を語る時、それは男が作るもので、女性が作るものではないと考えていたからです。系図は男性の血が絶えないように、それがどう続いているか、そのことを明らかにするためのものでした。ですから長男が生まれそうもない場合、男性には2人でも3人でも妻をめとる権利が与えられた時代がありました。
何故なら長男が生まれることが一番大事なことだったからです。ですから、当時のユダヤ人にとっての妻、また女性は、嫌な言い方になりますが、自分たちの血筋を作っていくために必要な存在でしかなかったのです。
だとすれば、マタイが記した系図に女性の名前が入っていること自体が異例中の異例です。4人も入っているのです。しかも彼女たち4人は悪い意味で特別な女性ばかりでした。
3節のタマル、「ユダはタマルによって、ペレズとゼラを」とありますが、ユダとはタマルの舅です。夫との間に子がなく、今後も期待できませんでしたので、タマルは遊女に扮して、通りかかった舅のユダを誘惑して子をもうけたのです。
2人目のラハブは正真正銘の遊女です。そして3人目はルツ。彼女は素晴らしい信仰の女性でしたが異邦人なのです。それも、ユダヤ人が結婚を禁じられていたモアブ民族の女性です。
この後に、マタイ福音書に記されている、御子を拝むために東方からやって来た博士たちが訪れたユダヤの領主ヘロデ大王、彼は、救い主の誕生の知らせを聞いた時、ベツレヘム付近の2歳以下の幼子を虐殺する命令を出した人でした。
彼は、自分の血筋に異邦人の血が流れていることをひた隠しに隠して来ました。そのために、証拠隠滅を図り、役人を殺したり、他人の系図まで抹殺しようとして権力を振るったと言われます。この時代は、それほどまでに純血性が問題とされたのです。
そうした視点で主イエスの系図を見る時、系図に女性が含まれていることだけでも異様であるのに、それに加えて異邦人、しかも、最も忌み嫌うモアブ人の血が流れていたのだと、マタイはこの系図を綴っていくのです。
そして、6節の「ウリヤの妻」、バテシェバ。バテシェバは、ウリヤと夫婦関係にありながら夫ウリヤを裏切った女性です。夫を裏切った上に、ダビデとの間に罪を犯し、子をもうけた女性です。
説教の準備をする中で、あるドイツの注解者のコメントを知りました。
「ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父」とマタイ福音書に書いている。ここにはバテシェバという名前は出てこない。なぜそうなのか。このウリヤが異邦人であったことを伝える意図もマタイにあったのではないか、というのです。
そしてダビデが、「ウリヤの妻」であって、ダビデの妻ではなかった女性によって、子をもうけたことも併せて伝えている。
とすれば、この系図は女性の罪の物語ではなく、男性も罪を犯している、そのことを示しているのです。そして、ダビデ以降、この系図はイスラエルの王家の系図となるのです。
この系図に登場する名前の人物を旧約聖書で調べてみると、主なる神さまの国イスラエルの王たる者が、どうして、と呆れてしまうような出来事の連続です。
預言者ホセアは、主なる神を捨てて、別の神々に走る人々の姿を、自分の妻の不貞と重ね合わせ、姦淫の罪として糾弾しましたが、イスラエルの歴代の王たちは、女性関係で節操を欠いただけではなく、神との関係において、著しく節操を欠く歴史でした。
ある人の言葉を使えば、「信仰についても浮気の歴史」がここに出て来るのです。その行きつく果てが、バビロン捕囚でした。
ですからそれ以降、系図に出て来る名前を旧約聖書の中で見つけ出すのは難しくなります。何故なら、ダビデ王家の血筋が言わば無名の人々へと落ち込んで行くからです。
そして、やがてその血筋に生まれたヨセフはナザレの大工だったとマタイは語ります。大工が王様に出世していく成功物語ではなく、王の末裔が没落して大工となったファミリー・ヒストリーがここにあるのです。
大工仕事は王さまの血筋を誇る者が喜んでするような仕事ではなかったでしょう。そうした没落の道筋がこの系図によって明らかにされていきます。その大工ヨセフの子として、イエスさまが誕生したのだ、とマタイは伝えるのです。
素晴らしい王家の血筋を引いていると思っていた者でも、「叩けば埃が出る」と言われますが、重なれば重なるほど、次第に見えて来るものがあります。ごまかしもあるでしょう。
私たちの救い主イエスは、そうした私たちの営み、歩みの只中に入り込んで来てくださったのです。そして、どこまで入り込んで来られたか、と言えば、あの十字架の死に至るまで入り込んでくださったのです。
ですから、これから始まるマタイ福音書は、この王家没落の系図が、大工の子で終わるのではなく、その大工の子が十字架で犯罪者として処刑されていく、そうしたスト―リーなのです。
当時のユダヤの人の物の考え方からすれば、後に、この系図の16節と17節の間に、「ヨセフからイエスが生まれた、このイエスは死刑になった」と書き続けられてもおかしくないでしょう。
もしそうだとすれば、人目から一番隠しておきたい名前が、ここに出てきてしまった状態の系図だと言えるのです。でもこれが私たち人間の現実ではないでしょうか。

Ⅳ.系図と私たち

この後マタイは、その先駆けとして洗礼者ヨハネの登場を伝えます。ヨハネは、自分たちがアブラハムの血を受け継ぐ正当な民族で、「生まれながらのアブラハムの子孫で、他の民族とはわけが違う」と誇るユダヤ人に向かって、「よく聴くように! 神は石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことがおできになる!」 と断言したのです。
今日はキリストの系図を見て来ましたが、この系図はヨハネの言葉を使えば石ころだらけの系図でしょう。
「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」と立派なタイトルが付いていますが、蓋を開ければ、人間の罪、弱さや悲しみ、傲慢や妬み、そうした罪がドロドロ流れているような系図です。
でも、マタイは言うのです。神には力があります!と。この石ころがゴロゴロ転がる系図の中から、神が約束された通りに、アブラハムの子ダビデの子、イエスを救い主メシアとして起こしてくださったではありませんか。そして、その同じ御力をもって、あなたたちにも神は必ず御力を表わしてくださいます、と。
たとえ私のファミリー・ヒストリーがどれほど貧しく、汚されたものであっても、またファミリーだけではない、自分自身の歩みにどれほどの暗い現実や経歴があったとしても、その私を救い出すために、御子は飼い葉桶に降りてくださった。しかも、私の罪を贖うために、十字架の死にまで至る道を歩んでくださったのです。
私たちの喜びの源は、主イエスに愛されていることです。飼い葉桶に生まれ、十字架に命を捨てるほどに愛してくださっている、その愛によってです。そして、その愛とは赦しの愛です。
アドベントは、飼い葉桶の主を待ち望む時。このお方を私たちの心の、人生の、一番の中心にお迎えしたいと願います。お祈りします。