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主日共同の礼拝説教

先手必勝はよい夫婦

2019年1月27日
和田一郎副牧師
ネヘミヤ記9章7~21節
コロサイの信徒への手紙3章18~19節

1、「主を信じる者にふさわしく」

コロサイの信徒への手紙の3章には、コロサイ教会の人々に向けて、使徒パウロのとても具体的な生活のすすめが書かれています。
今日の箇所は夫婦の問題です。ここに「主を信じる者にふさわしく」(18節)という言葉が置かれてあるとおり、信仰者としての夫婦の在り方をパウロはすすめているのです。

2、妻と夫

神様は結婚という不思議なものを人に与えられました。キリスト教会において、結婚は特別なものです。
今の世の中の価値観では、結婚は二人の問題とされます。結婚は二人が考え、二人が決め、二人の責任で営んでいくという価値観です。
しかし、聖書の価値観は、結婚は神様によって定められた関係だということです。神様がつくられた制度であり契約です。この結婚というのは、他人である二人が神様によって定められたものであるが故に、特別に強い関係となります。
イエス様は「神が結び合わせてくださったものを人は離してはならない」(マルコ福音書10章9節)と言われ、結婚は「神が結び合わせてくださったもの」だと言われました。ですから、結婚の相手ということ、結婚生活というもの、それらは自分の知恵を越えた、神様の意志に沿って営まれていくという不思議さがあります。
旧約聖書の中の創世記には、結婚のことを「一体となる」という言葉で表現しています。「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(創世記2章24節)。
神様が造られたアダムという男は孤独だったので、「主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。(創世記2章18節)と言われたのです。
神様はアダムを深い眠りにつかせて、寝ている間にアダムのあばら骨を一つとって、その骨でエバという女性を造られました。目を覚ましたアダムは、そこで、エバを見て「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女と呼ぼう、まさに男から取られたものだから」と、自分の分身であると気づくわけです。アダムは喜んでエバと結婚しました。
「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2章24節)。つまり、神様は「一体」の男性をもとに男と女を造られ、男と女は結婚して、再びもとの「一体」になるとする、神様の業が結婚というものです。
結婚は神様からの祝福です。二人が一体となって成長する過程で、それぞれの人格が整えられていきます。ですから、結婚は二人の意志や二人の責任で完結するようなことではない、神の摂理なのです。
そうすると、夫婦はあらゆる人間関係の中で最も親密であり、そして夫婦以上に親密な関係があってはならないのです。
日本の男性は、社会との関係を重視する文化の中にあります。ですから、夫婦より仕事や世間との関係を優先する傾向があります。しかし、聖書に記されている価値観では、人間関係の中心はあくまでも夫婦です。家庭の中心も夫婦です。
子どもを中心とした親子関係が中心になってしまう家庭があるかも知れません。子育て中の家庭では、物理的にそうなってしまうことはあるでしょう。しかし、家庭の根幹をなすものは、神が「一体となる」とされた関係です。それは夫婦だけです。
これは、人とイエス様との関係とも重なります。人はイエス様を主と信じた時から「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2章20節)と、パウロが言ったように、キリストと一体となって生きることになります。しかし、その時点で一体性が完成するのではないのです。「成長していく」ということがあって、キリストとの関係が強められていく成長過程で人格も成長していくのです。
同じように、結婚も二人が一体性を深めていく中で、夫も妻もそれぞれが成長させられていくのです。
結婚生活を通して夫婦の一体性と、キリストとの一体性の両方が平行して成長していく、これこそ「主を信じる者にふさわしい」夫婦の在り方です。
コロサイ3章18節では「妻たちよ・・・夫に仕えなさい」と、妻は夫に仕えるように勧められています。この言葉にひっかかる女性もいるかと思います。しかし、それは夫が妻を思うように扱ってよいという意味ではありません。
聖書の中では、女性は大切に扱われています。十戒には「あなたの父を敬え」ではなく、「あなたの父と母を敬え」と、男女を平等に扱っています。
「妻たちよ、夫に仕えなさい」ということと、「夫たちよ、妻を愛しなさい」(19節)というように、一方だけではなくて相互に求められていることです。イエス様が仕えてくださったように、イエス様が愛してくださったように、私たちもそれに倣って互いに仕え、愛するように教えているのです。
その愛を具体的なかたちで、相手に伝えるコミュニケーションは大切です。夫婦のコミュニケーションだったら毎日やっているし、「あうん」で分かるという御夫婦や、言葉にしなくても十分に通じている、と思っている方もいるかも知れません。しかし、神様は愛を具体的に示してくださいました。神様は「言わなくても、私の愛は分かっているだろう」とか、「何もしないが、あなたのことは愛している」という愛の示し方をされませんでした。
旧約聖書には、アブラハムに対して、神様の方から先行して具体的に愛を示した出来事が書かれています。神様はアブラハムに「わたしはあなたを大いなる国民にする」(創世記12:2)、そして「あなたの子孫に豊かな土地を与える」(7節)と言ったのですが、アブラハムにはいっこうに、子どもが与えられませんでした。
そこで「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」(創世記15:3)と言っています。アブラハムは、自分に子どもが与えられるとは信じられませんでした。
そこで、神様はアブラハムを外に連れ出し、アブラハムに空の星を見させるのです。そこには満天の星が輝いていました。神さまは「あなたの子孫はこのようになる。」と言われました。
神様は、アブラハムに子が与えられ、その子孫が増えるようになるという、神様の約束を信じることができないアブラハムに、具体的に空の星を見せて、わたしを信頼しなさいと、慈愛に満ちた言葉をかけるのです。
そこで、アブラハムは、自分がこの神様の愛の御手の中にあることを知り、「あなたの子孫はこのようになる」という神様の言葉を信じたのです。こうして、神様はそれを義と認められたのです。
アブラハムは、一所懸命に努力して、信仰を手に入れたのではなかったのです。神様がアブラハムを選び、召し出し、声をかけ、神様の言葉を信じることが出来ないアブラハムを、信じる者へと変えて下さった。それはすべて神様が先行して愛を示してくださったから変わったのです。
神様を信じられない、愛することができないアブラハムを、信じる者、神を愛する者へと変えてくださったのは、まず神様が愛を示してくださったからです。
この神様の愛は「恵み」だと思うのです。宗教改革者のマルチン・ルターは「恵みのみ」という言葉を残しました。
「恵みのみ」というのは、人間が良い行いをしたとか、人が神様を選んだのではない。むしろ、愛を受けるに値しない、ほんとうに罪深い存在であるにもかかわらず、神様の側から先行して救いの手を伸ばしてくださった。その神の「恵みのみ」とルターは言ったのです。
そして、先行する神の愛の中心にあるのがキリストの十字架の死です。
「わたしたちが、まだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ書5章8節)
まだ罪人であったのに、先行して愛を示してくださった。この十字架の愛に、私たちは倣う者でありたいのです。
今日はコロサイの信徒への手紙から、夫婦の関係を中心に考えてきましたが、聖書は、ギブアンドテイクのような、愛の示し方は教えていないのです。与えて、与えて、与え続けなさい、と言われるのです。
相手にしてもらうことを期待するのではなく、自分が相手のために与え続けるところに、真実な愛があります。夫婦の愛の示し方もこれに倣って、自分が犠牲を負うことがあっても、見返りがなくても、それでも妻に対して、夫に対して、先行して愛を示し続けるところに、夫婦の輝かしい神の祝福があることを覚えましょう。お祈りをします。

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主日共同の礼拝説教

復活の主の証人

2019年1月20日
松本雅弘牧師
エゼキエル書37章4~10節
使徒言行録1章12~26節

Ⅰ.聖霊の力を受けると

新年礼拝の時、主イエスとヘロデ大王を比較しながらお話しました。ヘロデは神との縦の関係を持たない、それゆえ横との競争において自分のアイデンティティを確認せざるを得ない生き方をしていた人です。言わば「何をしたか/何ができるか」によってその人の価値は決まるのだという物語を生きていた人でした。ヘロデは才能にも恵まれていたので、結果的に、今でも聖地旅行者が訪れる様々遺跡を残しています。
それに対して、主イエスは当時の人々が目を見張るような建造物を建てたのでも、巨万の富を築いたのでもありません。
教会の働きを評価する時に、よく「ABC の物差し」で評価されます。Aは礼拝出席、英語で「attendance(アテンダンス)」の頭文字のAです。Bは建物、「building(ビルディング)」の頭文字のB、そしてCはお金、「cash(キャッシュ)」の頭文字のCです。
毎週どれだけ礼拝出席がある教会なのか、礼拝堂を含め、どれだけの施設を有しているのか、そして財政規模はどのくらいなのか、といった「ABCの物差し」です。
この物差しからしたら、ヘロデは成功者ですが、主イエスは成功者とは認めがたいのです。でも専門家は、主イエスが大切にしていた物差し自体が違うことを指摘します。主イエスの関心事はABCにあったのではなくてDにあった、Dとは弟子、英語の「disciple(ディサイプル)」のDです。ある学者は、公生涯の90%の時間や労力を12弟子に惜しげもなく投資した。それが、主イエスがなさったことだというのです。
ただ忘れてならないのは、ご自分のエネルギーや時間の殆どを12弟子育成につぎ込んだ結果、12人が本当に素晴らしい弟子になったかと言えば、残念ながらそうではなかったという事実です。
逆に90%の労力を注いだ結果は、惨憺たるものでした。あの十字架の場面、主イエスに愛し抜かれたはずの弟子たちは、一人残らず主イエスを捨てて逃げてしまったのです。
これこそが3年にわたって主イエスと共に生活をし、主から特別訓練を受けた彼らの現実だったということです。それが、使徒言行録の前編にあたるルカ福音書の結末です。でも、幸いなことにそれで終わりませんでした。
福音書の続編、使徒言行録を読むと、そのことが分かります。主イエスは続きを用意しておられたのです。
それが、使徒言行録1章4節に出て来る、復活の後、イエスが弟子たちに告げた約束と命令です。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」。
そうです。聖霊です。公生涯の全てをかけて弟子たちを愛し、全てを与え尽くした主イエスが最終的になさったこと。それはご自分の霊をもって弟子たちを満たすことでした。
このことこそが、昇天していく主イエスが最後になされた、そして最高のプレゼントだったのです。
そして、この聖霊というプレゼントが最高なのは、2千年後に生きている私たちにも全く同じ聖霊が与えられ、私たち1人ひとりの心に宿っておられる。高座教会という、この主にある交わりの只中に臨在しておられる。生活の全ての領域で、今もまた、御子の霊である聖霊なる神さまが生きて働いておられるということです。
前置きが長くなりましたが、今日の聖書の箇所を見る時、主イエスの昇天から聖霊降臨までの期間、弟子たちがなした、注目すべき1つの出来事があったことが分かります。
それは離脱したイスカリオテのユダに代わる使徒を選び出したということです。今日は、この点について御言葉から学んでいきたいと思います。

Ⅱ.欠員に至った原因としてのユダの裏切り

12弟子から離脱してしまったユダのことを少し思い起こしてみると、聖書を読む限り、ユダは始めから裏切ろうとしていたのではないように思います。
彼もまた他の弟子同様に、主イエスの徹夜の祈りによって選ばれた使徒でした。ペトロも「ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました」(使徒1:17)と語っています。
主イエスは、ユダを「裏切り者」となるように選び育てたのではなく、使徒の務めを果たせるようにと、徹夜の祈りによって選ばれたのです。その証拠に、主イエスは最後の最後までユダを愛しておられたことがわかります。
では、何故、ユダは主イエスを裏切ったのでしょう。この点についてペトロは「自分の行くべき所に行くために離れてしまった」(25節)と語っています。あくまでも自分の意思で「そちらの道」を選んでしまったのです。主の御心ではなく「自分のしたいこと」を選び続けてしまった。ペトロはそう説明しているのです。

Ⅲ.欠員を補充する理由-a.交わりの成長への備え b.神の言葉による命令

その結果、ユダの離脱によって12使徒に欠員が生じました。欠員を補充する理由が述べられていきます。
理由の1つは、近い将来起こるであろう成長への備えということです。
主イエスの約束によりますと、今後、多くの者たちが洗礼へと導かれていくことになる。この時すでに、エルサレムの信仰共同体に変化が起こり始めていることが分かります。「百二十人ほどの人々が一つになっていた」(15節)とあります。
最初はせいぜい2、30名の交わりだったでしょう。でも15節の時点で120名の群れへと変化しているのです。
主イエスは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と話され、信仰の成長に欠かせないのが御言葉の糧だと教えられました。この時、群れが豊かな愛の共同体へと育まれていくためには御言葉の糧が必要となる。その務めを担うのが使徒でした。
今後、エルサレムの群れの人数が増えるために、群れを、御言葉をもって牧会するために召された使徒の欠員を補充しようと考えたのです。
ある村で、雨乞いを祈る祈祷会が行われた時に、集まった人のほとんどが傘を持って来なかったという話があります。つまり祈るには祈るが、最初から雨が降るはずがないと思っている。そうした村人の姿は、何か私たちの姿と似ているように思います。村人にとっては傘を持ってくることが恵みの雨に対する備え、信仰の行為でした。
エルサレムの兄弟姉妹にとっては、まさにユダの欠員を補充することこそが、この時、彼らが示された、恵みの雨に対する備えの行為だった、ということなのです。

Ⅳ.欠員補充の過程に見られる弟子たちの信仰

では具体的にどのようにしてユダに代わる使徒を選んでいったのでしょうか。
まず、ペトロが使徒の条件を2つ提示しているのが分かります。1つは、主イエスの公生涯の間、直接、生活や行動をともに経験した者であること、そして2つ目は実際に復活の主イエスとの出会いを経験した者であることという条件です。
その結果、該当者が2人いることが分かりました。バルサバとマティアです。次に、この2人から1人を選ぶ時、一致した信仰が働いた。それは、祈ってくじを引くという行動として現れたのだとルカは伝えるのです。
注意しておきたいのですが、この時、ペトロをはじめ他の弟子たちは2人のうちどちらを選ぶかを決めかねてくじを引いたのではありません。
箴言に、「人はくじをひく、しかし事を定めるのは全く主のことである」(16:33口語訳)とあるように、ふさわしい人物を決定するのはあくまでも神であると彼らは信じていたのです。ですから彼らは主に祈り、主がすべての人の心をご存知であることを告白し、主ご自身がこの2人のどちらをお選びになったかを、お示しくださいと祈ったのです。このようにして弟子たちは、1つの思いになって、祈りつつ主が選んでくださったマティアを受け入れていったのです。
主イエスが昇天し、聖霊降臨が起こったペンテコステまでの期間、計算しますと10日間ですが、その間、弟子たちは心を合わせて祈りに専念しました。そして、主はその祈りに応え、主にある交わりの輪を拡げてくださった。そして心を一つに祈りに専念するなか、近い将来、聖霊が降り、エルサレム教会の中に新しい兄弟姉妹が加えられることを見越して、群れを御言葉によって牧会する務めを担う使徒を、主ご自身が立ててくださったのです。
わずか10日間に彼らは、いくつもの変化に対応してきました。そうした彼らの背後には一致した信仰がありました。
私たちも主の日の礼拝を大切にし、日々聖書の言葉に親しみ、そもそも、なぜ神の独り子が飼い葉桶にお生まれになったのか。なぜ十字架で命を落とさねばならなかったのか。なぜ復活があり、聖霊降臨があったのか。
そして、なぜ、ここに高座教会が誕生し、その肢として私たちが繋がれているのか。そこには神さまの深い意図があることを覚えたいと思うのです。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(8節)
お祈りいたします。

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成長させてくださる神 ―成人のお祝い

2019年1月13日
松本雅弘牧師
詩編84編1~13節
ルカによる福音書2章41~52節

Ⅰ.ユダヤ社会における成人のお祝い

今日は11時礼拝において成人のお祝いをいたします。ところでイスラエルにも成人式があり、男性の場合は13歳でした。
今日の聖書箇所には、イエスさまが成人式を迎える前年に過越祭に行き、その帰りに起こったエピソードが紹介されています。

Ⅱ.成人式をひかえた人の子イエスの心の中の葛藤?

心理学者エリクソンは、人間の成長を8つのライフサイクルに分けて考えます。
成人する、すなわち大人になるのは、ライフサイクルの第5段階で「アイデンティティーの確立」、つまり自分が何者で、何をしたいのかが分かることなのだと説明しています。
私たちは、イエスさまの神性を強調するあまり、そのお方の人性を軽視することがあります。しかしイエスさまはスーパーマンでなく私たちと同じように、マリアに乳を飲ませてもらい、ヨセフの庇護のもとでしか生きていけない限界を持つ人間として成長されました。
ですから、成人する者として誰もが経験する、自分は誰で、どのような存在で何をしたいのかという問いの答えを求めながら歩んでいたのが、この時期のイエスさまだったと考えられます。
この時期の若者にとっては、子どもの頃の絶対的なモデルであった両親の姿の中に弱さや欠点を見出し、大人であるはずの両親の言動に、子どもじみたものを感じて失望感を味わう経験をするものです。
さらには、社会との接点も拡がり始め、親や親戚以外の大人との出会いも増えるので、その結果、今までの大人像自体が崩れていきます。そうしたプロセスを経て次第に人間として自立していくわけです。
それが成人式をひかえた人間イエスさまの心の葛藤であり課題だったのではないかと思います。そのイエスさまが自分を探し、見出した両親に対して、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」(ルカ2:49)と答えたことが記されています。
ここで、イエスさまは神殿を指して「自分の父の家」と呼んでいます。この時イエスさまが両親に訴えたかったのは、「神殿こそが自分の父の家なのだ」ということ。「自分の父は神であり、自分は父の子なのだ」ということなのではないでしょうか。
「青年期の課題」という切り口で言い直せば、このイエスさまの発言は、神殿で神に礼拝を捧げ、祈るなか、1年後に成人式を迎える若者として、「自分はいったい何者なのか」という「青年期の課題」に対する答えを発見した時の発言のように聞こえて来るわけなのです。
アドベントの季節に共に見てきました。ヨセフも、最初はマリアの妊娠の事実を受け入れられずに苦悩した様子を聖書は伝えています。人口調査のため、ベツレヘムにやってきましたが、そこはヨセフの故郷であったにもかかわらず、人々はヨセフに対し物凄く冷淡でした。
ある聖書学者は、「こうした人々の冷たさの原因は、すでにベツレヘムにまで届いていた、マリアの妊娠をめぐる噂のせいだったかもしれない」と解釈します。
160キロ離れたベツレヘムにおいてそうだとしたら、実際に生活をしていたナザレではどんなだったのでしょうか。
ヨセフですら最初は受け入れられなかったほどですから、近所の人たちがイエスの出生の真実を理解したかどうかは怪しいものです。誤解した人も多かったと思います。ナザレ村では、マリアの妊娠はスキャンダルとして受けとめられたのではないかと言う学者もあります。
そんな噂を、仮に少年イエスさまが知ったとしたら、イエスさまの心にどんな動揺が生じただろうかと想像してしまいます。
私たちの中にも、複雑な子ども時代を過ごしてきた人もいることでしょう。生みの親と、育ての親が違ったり、実の親でもその人から十分な愛情を注いでもらえなかった。場合によっては虐待を受けた経験も、あるかもしれません。
ヨセフは愛情深い父親でした。彼ら親子の関係は良好だったでしょう。ただ、そのヨセフが実の父親ではないと知った後、大工仕事に精を出すヨセフを見た時に、ふと「いったい誰が本当のお父さんなのか」と、心の中に問うことはなかったでしょうか。
成人式を1年後にひかえたイエスさまにとって、この問いこそが、切実な問い、場合によってはかなり深刻な問いだったのではないでしょうか。

Ⅲ.父なる神との関係の中に自分を位置づける

この時イエスさまは両親の元から失踪するように神殿にこもり、御前に心を注ぎ出したと思います。
その結果、「自分の本当の父親は神さまなのだ」と深い意味を悟ることができた。それがこの「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」という発言となって表れたのではないでしょうか。
そして、この経験が青年期の課題をクリアする出来事として、私たちに伝えられているのではないでしょうか。
私たちも完璧な親によって育てられたわけではありません。実の父親や母親から、良いもの、また場合によっては悪いものも全て引き継いで今の自分になっている。しかも親との関係において、様々な葛藤やトラブルも経験します。そのため「あんな親に育てられたからこんな自分になってしまった」という思いが心を支配することもある。その結果、なかなか親離れできず自立できないという現実があるのではないでしょうか。
どうしたらよいのでしょう。答えはイエスさまに倣うことです。この時イエスさまは神殿で父なる神に心を向け礼拝なさったのです。
同じように、私たちも礼拝を捧げ、語られる御言葉の前に、肉親を超える神という存在との関係から、今の自分を受け取り直し、神との関係において私自身を位置づけることしかないのです。
神が私をどのように見、受けとめておられるのかを求めて行く時に、イエスさまにとって、それが大人になる上での決定的な経験となったように、私にとっても青年期の課題をクリアし、本当の意味での成人式となるからです。

Ⅳ.「子どもは贈り物」

ところで、今日は、親御さんも大勢見えておられます。おめでとうございます。
今日は、成人のお祝いということで、子どもの側から成人式のことを考えて来ましたが、最後に親の側からの受けとめ方について少しだけお話して終わりにしたいと思います。ヘンリ・ナウエンの「子どもは贈り物」という言葉を贈らせていただきたいのです。次のような文章です。
“親であるとは、見知らぬ旅人を気前よくもてなすようなものです。自分の子どもが親の私たちに似ていると感じる一方、あまりにも違っていることにいつも驚かされます。彼らの知的能力、芸術的才能、運動能力に喜ぶこともあれば、学ぶのに遅く、協調性に欠け、奇妙なものに興味を持つことに悲しんだりします。さまざまな面で、私たちは子どものことを知りません。
私たちは、自分の子どもを創造したのでもなければ、所有しているのでもありません。このことは、私たちにとって福音です。すなわち、子どもの問題すべてに責任があると、自分を責める必要はないし、子どもの成功を自分たちの力だと誇るべきでもありません。子どもたちは神からの贈り物です。
私たちが彼らのために、心の自由と体の自由を得て成長するための、安全で愛に満ちた場所を提供するようにと神から与えられたのです。子どもたちは見知らぬ客人のようなものです。もてなしを求め、よき友となり、その後、再び彼ら自身の旅を続けるために去っていきます。まさに贈り物であるがゆえに、計り知れない喜びと、限りない悲しみももたらします。
よい贈り物とは、諺にあるとおり、「二度与えられる」ものです。私たちは、受けた贈り物をふたたび与えなければなりません。子どもたちが勉学のために、あるいは仕事を探したり、結婚したり、どこかの団体に所属したり、あるいはただ独立しようとして家を離れるとき、悲しみと喜びが共に訪れます。「私たちの」子どもは、本当は「私たちのもの」ではなく、他の人への真の贈り物とするために「私たちに与えられた」ということを深く悟らされます。
子どもたちに自由を与えるのは―とくに暴力的で、獲物を探し求めているようなこの世では―とてもむずかしいことです。考え得るあらゆる危険から子どもを守りたいと切に願います。しかし、それは不可能です。彼らは私たちに属しているのではなく、神に属するものだからです。ですから、神への信頼を表わすもっとも偉大な行為の1つは、彼らを自分の選択にまかせ、自分で道を見つけ出させることです。”
私は、この文章を読みながら、子を持つ親として、神が願う子どもとの関係、距離感を正されたように思います。
神からの贈り物として、それもしばらくの間、旅を共にする者同士である。この距離感は、聖書が私たちに与えている知恵なのではないでしょうか。お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

イエスの昇天

2019年1月6日
松本雅弘牧師
詩編110編1~3節
使徒言行録1章1~11節

Ⅰ.「使徒言行録2章の教会」の誕生

新年、あけましておめでとうございます。今年の主題聖句は、使徒言行録2章17節、「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」。そして、主題は、「私たち、集い喜び分かち合う―使徒言行録2章の教会をめざして」です。
今年のテーマの副題に「使徒言行録2章の教会をめざして」とありますが、そのめざすべき「使徒言行録2章の教会」とは、そもそもどのような教会なのか、年の初めにご一緒に考えてみたいと思います。
4節に「父の約束されたもの」という言葉が出てきます。これはイエスをキリストと信じる者、そしてその共同体に与えられる聖霊です。
聖霊降臨という、ペンテコステの恵みにあずかったクリスチャンや、信仰共同体の様子について、使徒言行録は2章42節以下に紹介しています。そして、その恵みは、2千年前のペンテコステの日に誕生したエルサレム教会ばかりではなく、同じ聖霊なる神さまを内側に宿す私たち高座教会にも現れる恵みであることを覚えたいと思うのです。いや覚えるだけではなく、これからも、そうした恵みにあふれた教会として歩んでいきたい。そのような意味で、ぜひ、「使徒言行録2章の教会」をめざしていきたいと願うのです。
さて、主イエスは罪の赦しのために十字架の死を遂げてくださり、その3日後に、いのちを与えるために復活してくださったのです。
その後40日間にわたって「父の約束したもの」を待つようにと弟子たちに告げられ、そして昇天されました。
弟子たちは、復活の主の証人となるため、キリストに倣い、キリストに似たそれぞれとして生きるために、主の約束、聖霊降臨を待ち望んだのです。

Ⅱ.父の約束の目的

「主よ、イスラエルの国を立て直してくださるのは、この時ですか」(1:6)。この時の弟子たちの関心事が明らかです。それはイスラエ
ル国家復興ということでした。
しかし、これに対して、主は、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(7、8節)と言われ、弟子たちが知っておくべきことを語られたのです。それが復活の主の証人となるということです。つまり、クリスチャンとは復活の主イエス・キリストの証人となるようにと生かされているということです。そして、このために父の約束の聖霊降臨が起こるのだ、とおっしゃったのです。

Ⅲ.復活の主の証人となるために

確かに物事には順序があります。弟子たちは、「いま、この時」、イスラエル王国の復興を願いましたが、主イエスはまず「あなたがたが、わたしの証人として、神の国、神の恵みの支配を、あなたがた自身とその周囲に拡げていく。それによって神の国は前進し、実現していくのですよ」と教えられました。そのために聖霊を遣わすと言われたのです。
ここで心に留めるべきことがあります。それは、証しの生活をするとは、聖霊の力によるのだ、ということです。
今年も、まだ5日しか経っていないにもかかわらず、すでに真っ白なキャンバスに落書きをしてしまったような、ああ、またやってしまった、とか、また言ってしまった、とか、そうした後悔すべき言動が、自分の中にもうすでに起こっているのではないかと思わされます。
聖書は、私たちが召されたのは一方的な恵みの故なのだと断言します。例えば、私たちが受洗してクリスチャンになったのは、洗礼を受ける前から、ある種の「クリスチャンらしさ」、とか「何らかのふさわしさ」があったので、神さまはそれをご覧になって、「よし」と認め、クリスチャンになることを承認してくださったのでしょうか。そうではありません。
主が十字架にかかり、私たちの過去、現在、そして、将来、犯すであろう罪を贖ってくださったキリストの救いの御業によって、罪赦され、義と認められたのです。一方的な、神の恵みと憐れみによって、クリスチャンとされた。神の子、主の弟子とされたのです。ですから、クリスチャンでありながら情けない自分自身を発見するときに、そうした私たちであるからこそ、キリストの十字架があった。それだからこそ、キリストが代価を支払ってくださった。そして、もはや私たちは神の子、主の弟子にされたのだ、と覚えたいのです。
そして大切なのは、その次です。そこまでして、神が私たちを愛してくださったのは、神さまの私たちに対する願いがあるということです。その願いとは、いただいている、その素晴らしい神の恵みを独り占めするのではなく、そのことを知らない家族や友人、そしてまた地域の方たちと分かち合って生きていく、ということです。
8節には、「力」という言葉が出てきます。原文を見ると、英語の「ダイナマイト」の語源となる「デュナミス」というギリシャ語が使われています。あらゆるものをつくりかえる、そのような物凄い力を、主は約束されているというのです。
この時の弟子たちは、こうした力をいただくために、具体的にすべきことを主から示されていました。それが4節、5節にある主イエスの命令の言葉、「エルサレムを離れないで、父の約束された聖霊の賜物を待ち望む」ということです。
12節を見ると「使徒たちは、『オリーブ畑』と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た」とあります。つまり、弟子たちは「エルサレムを離れないように」という主の御言葉に従って、「エルサレムに戻って来た」と、使徒言行録を書いたルカが伝えているのです。
この時の弟子たちからすれば、エルサレムはイエスを殺した張本人たちが大勢いたところです。自分の身の安全だけを考えたなら、一刻も早く逃げ出してしまいたい場所です。でも主の約束がありましたので、また「エルサレムを離れないで」という主のご命令でしたので、「エルサレムに戻って来た」のです。
「あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。・・・また地の果てに至るまであなたがたは力を受ける。」(8節)
7節と8節の御言葉を語り終えた主は、その後、弟子たちが見ている中、天に昇られて行ったのです。9節から11節にそのことが出てきます。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」(9節)

Ⅳ.むすび-約束にとどまることの大切さ

主イエスさまは、復活の主の証人として弟子たちを召されました。
「証人」という言葉は、この後、教会の歴史において「殉教」をさす言葉として使われていきました。確かに、この後の教会の歴史を見るならば、それは「殉教の歴史」でした。そして、そうした信仰の先輩が命をかけ、生活をかけて次世代に信仰のバトンを手渡していきました。
今、こうして、エルサレムから見れば地の果てに住んでいる私たちが、信仰を持って生きることができるのも、私たちを愛し、私たちのことを大事に思ってくださった誰かが、イエスさまのこと、聖書の福音を伝えてくれたからでしょう。誰かが私たちのために、主の証人に徹してくれたからです。
もう一度、8節をご覧ください。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力(デュナミス)を受ける」と、主は約束してくださいました。「そして、エルサレムばかりではく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」とおっしゃっています。
この「使徒言行録」の記録は、聖霊を受けた弟子たちが、エルサレムから始まって地の果てであるローマにまで福音を伝えていった。まさに「聖霊行伝」と呼ばれる所以です。
今日、この御言葉を読む私たちが心に留めなければならないこと、それは、彼らを聖なる力、宣教の力で満たした同じ聖霊なる神さまが、あなたの心に宿っておられること、この高座教会の交わりの中にも臨在してくださっているという現実です。
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(1コリント6:19-20)
私たちは、この聖霊の働きのリアリティーを感じたいのです。本当に、この「聖霊の命」がすみずみまで息づく教会へと造り変えられたいのです。
主は、ダイナマイトのような聖霊の力を約束してくださっていますから、この御力を経験させていただきたい。その御力とは聖霊の力ですから、あの聖霊の実を実らす愛の力であり、謙遜の力であり、忍耐の力であり、節制の力、平和の力なのです。
そのような力を常にいただくために、ぶどうの木であるキリストにつながる1年の歩み、そして、この週の歩みでありたいと願います。
お祈りします。