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主日共同の礼拝説教

主にあって従う

 

2019年2月24日
和田一郎副牧師

申命記6章4~15節 コロサイの信徒への手紙3章22節~4章1節

 

Ⅰ.「奴隷」と「主人」

コロサイの信徒への手紙の3章の後半では、家族関係について具体的な教えを述べています。18節では夫婦の関係、20節では親子の関係です。そして続く今日の22節以降の箇所では主人と奴隷の関係について述べられています。パウロがこの聖書を書いた時代は、家の中に奴隷と呼ばれる人が住んでいたので、主人と奴隷との主従関係も家庭の問題でした。しかし、今日では社会における人間関係と言った方がいいでしょう。
「奴隷たち・・・主人に従いなさい」とありますから、キリスト教は奴隷制度を肯定していると勘違いされるかも知れません。しかし、旧約聖書でも律法の中では奴隷を虐げたり、残酷に扱うことは許されていませんでした。新約聖書の中でも、パウロはキリストの前では奴隷も主人も平等であると教えています (ガラテヤ4:28)。ですから、奴隷制度はキリストの教えからすれば良くない制度です。そうではありますが、当時の世界では奴隷制は定着していました。ですから、今日の箇所で教えているのは、制度に反対することではなくて、自分の今置かれている制度の中で、どう生きるべきなのかが勧められているのです。現在の社会制度の中でも、職場における経営者と従業員のように、上司と部下の関係というものがあります。職場というのは、複数の人がある目標に向かって働いています。同じ方向に向かっていくための秩序として、上司と部下といった順列が必要となります。
学校という場所も、先生と生徒という関係があります。ここにも従うべき順列があります。そのような、自分の今置かれている役割の中で、どう生きるべきかをパウロは教えているわけです。
22節ではまず、「奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えず、主を畏れつつ真心を込めて従いなさい。」と教えています。肉による主人とあります。霊的な主人は神様ですが、肉の主人は実生活の中で上の立場にある人です。その人に対して「うわべだけで仕えるのではなく・・・真心をこめて従いなさい」と言っています。そうは言われても、なかなか難しいことだと感じられる方も多いと思います。わたしがこの説教の準備をしていた1週間の中でも、「バイトテロ」のニュースが何度も流れていました。アルバイトをしている職場で会社の評判が下がるような悪ふざけをして、その動画を配信して楽しんでいる若者がいるそうです。職場に対して真心をもったり、上の立場の人に誠実に仕える事とは、正反対の実態があると感じさせられます。
昔の日本はどうだったでしょうか。日本には武家社会が長くありましたから、武士道という価値観があって、上の者に対して忠義を大切にする文化がありました。聖書でも妻が夫に従うこととか、奴隷が主人に従うように書かれているので、日本の武家社会と重なるころも感じます。
昔、菅原道真という人がいました。道真は都を追われて逃げていた時がありました。敵は道真の一族すべてを滅ぼそうとして、道真のまだ幼い息子のゆくえも追及していました。そこである寺小屋にその息子がいることを突き止めた敵は、道真の以前の家臣に「その息子の首をもってまいれ」と残酷な命令をだすのです。しかし、道真の息子とよく似た子どもがいて、そのよく似た子ども自身と親は、自ら道真の息子の身代わりになったというのです。我が子を差し出した父親は妻に言いました、「喜べ、我が子は立派に道真様のお役に立ったぞ」というものでした。忠義を果たす武士道精神を表す典型的な話しです。
この話を大切にする人は、武士道の忠義とは、決してやみくもに主君に服従するだけではなくて、命を投げ出しても惜しくない主君を持つ事の素晴らしさを説明します。明治を代表するある学者は、菅原道真の息子の話を、これはアブラハムが我が子イサクを捧げたことと同じだと言いました(『武士道9章「忠節」』より)。どちらもその義務に応じて、上からくる声の命じるままに従ったのであって、それは素晴らしいと解釈する学者がいました。
しかし、武士道の忠義とアブラハムの信仰は根本的に違いがあります。アブラハムが息子イサクを祭壇に捧げた時、そして刃物を振り下ろすその時も、アブラハムは決して息子のイサクの命を捧げようと思ったのではないです。神様は「息子イサクから子孫が生れる」と約束をされていました。そう約束された以上、神様はイサクを死なせるはずはないと信じていました。それがアブラハムの信仰です。アブラハムはイサクを捧げることを通して、神様の約束に対する信頼を現わしました。そして、神様はその約束を忠実に守られました。イサクに子孫を与え、その子孫を祝福し繁栄されました。
武士道の忠義というものは、下の者が上の者に対して義務を負うことを強調した、偏った要素があるように思います。主君や国家が正しいとは限らないのです。正しくない主君や国家のために、尊い命を差し出すということが起ってしまいます。

Ⅱ.「人に対してではなく、主に対してするように」(23節)

しかし、今日の聖書箇所には「奴隷たち・・・主人に従いなさい」という言葉に続いて、23節「人に対してではなく、主にたいしてするように」とある通りです。上司に対してするようで、神を畏れつつ、神に対するように真心を込めて主人に従うのです。
なぜなら、「あなたがたは、御国を受け継ぐという、報いを主から受けることを、知って」(24節)いるからです。ただ上司が言うからとか、ただ会社のためという次元で働くのではなくて、神様から与えられた仕事を、神様に対して責任を負うという目線で従うというものです。そこには、神の御国を受け継ぐという報いがあります。
奴隷と主人の関係と同じように、夫婦の関係も、親子の関係も、上下の人間関係の要素があります。バークレーという神学者はキリスト教において人間関係の倫理とは、相互義務の倫理だと言っています。だから「他人はわたしに何をしてくれるか」ではなくて、「わたしは他人に何ができるか」を問われていると説明していました。主人であっても、部下であっても相互に義務があるわけです。妻と夫もそうですし、親子の関係においても相互に義務があります。

Ⅲ.「主人たち」

ところで、パウロは奴隷の関係について少し長く説明しています。コロサイの教会にフィレモンという人が関わっていたと言われています。フィレモンは奴隷の主人でした。それだけフィレモンは裕福だったようです。そのフィレモンに書いたパウロの手紙が、新約聖書の『フィレモンの手紙』です。1ページ半で終わってしまう短い手紙が、聖書に収められているのですが、パウロの慈愛に満ちた手紙です。
パウロはこの手紙で、フィレモンに、一つのことをお願いしているのです。それは、オネシモという一人の奴隷についてのことです。オネシモはかつてフィレモンの奴隷でしたが、主人のもとを逃げ出して、パウロのもとに身を寄せているのです。主人のもとを逃げ出したオネシモは、キリストを信じる信仰者となり、今はパウロの世話をしているのですが、そのオネシモをパウロは今、フィレモンのもとに送り帰そうとしているのです。そして、お願いというのは、オネシモを信仰の仲間として温かく迎え入れて欲しいと、頼むためにパウロは『フィレモンへの手紙』を書いたのです。
「かつての奴隷オネシモは、あなたにとっては、一人の奴隷にすぎないが、主を信じる者としても、愛する兄弟となった。あなたとオネシモの関係は、信仰によって神の家族、愛する兄弟になったのだから、そのことを受け止めてほしい。」とパウロは願ったのです。パウロは奴隷に対しても、主人に対しても、神の前では公平であると諭しています。この世の制度の中では、上に立つ者としての役割と、従う者の役割がありますが、神様の前では信仰の仲間として温かく迎え入れて欲しいと願ったのです。
与えられた場所で、自分がそこで何ができるのか。この一週間、そのことを心に留めて歩みたいと思うのです。今日の聖句23節の言葉で説教を終わりたいと思います。
「何をするにも人に対してではなく、主に対してするように心から行いなさい。」
お祈りをします。

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ペンテコステの恵みにあずかって -4世代が喜び集う教会

2019年2月17日
松本雅弘牧師

使徒言行録2章14~21節 エフェソの信徒への手紙4章14~16節

Ⅰ.「4世代が喜び集う教会」を求めて

前回、私たちがいただいている聖霊が、私たちの内で、また私たちの交わりの中で生き生きと働いていただくために、「祭司」として祈りを大切にし、「預言者」として御言葉に聴き、そして「王」として自分の人生を主体的に受け取っていくことの大切さについて学んだことです。
今日はエフェソの信徒への手紙から、自分の人生を、「王」として主体的に受け取っていくことについて、もう少し突っ込んで考えてみたいと思います。

Ⅱ.成長へのスタートを切り、歩み続ける

エフェソ書4章でパウロは、神の私たちに対する願いを説いています。それはクリスチャンとして成長するということです。
以前、高座教会の牧師をされていた生島陸伸先生は、「神さまは私たちをあるがまま、そのままの姿で愛してくださっている」と、本当に私たちの信仰にとっての基本中の基本を、繰り返し、繰り返し教えてくださいました。
そうした無条件の愛で愛されていることを実感すると、本当に不思議なのですが、私の心が喜びと感謝に満たされてくる。無条件の愛をもって、この私を大切にしてくださる神さまの愛に応えて生きていきたい、と思わされていきます。
それが、クリスチャンとして成長していくということです。誕生したばかりの赤ちゃんでも百パーセント人間ですが、同時に未成熟な人間として成長が期待されている存在でもあります。このことは、クリスチャンの生活にも当てはまる真理です。
ベトザタの池にいた人は38年もの間、ある意味「自らの病の犠牲者」として生きていました。主イエスは彼を知った上で「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(ヨハネ5:8)と言われました。そして彼は起き上がり、歩き出します。実は、そこで初めて、彼は自分の人生という長いマラソンレースのスタートラインに立ったのです。
以前の彼は「良くなりたいか」と訊かれても、周囲の人々の愛の無さを訴えるだけでした(ヨハネ5:6-7)。
主イエスにあって自分自身を引き受けて生きていない時、私たちは無い物ねだりをしがちになります。そして次第に人の欠点ばかりが気になり始めるのです。不思議です。何故そうなるのでしょうか。それは自分の人生に取り組んでいないからです。自分のことなのに、いつの間にか他人事のようになっているからです。
大リーグのイチロー選手が毎年2百本安打を記録していた頃、彼がそのために、普段からどれだけ真剣に取り組んでいるかを知り心打たれました。「2百本安打を打とう」としたら、そのことに集中します。他人をとやかく言う暇などないのです。
暇があると、わたしたちは無い物ねだりが始まり、自分のことを棚に上げ、周囲の欠点が気になり始めます。聖霊をいただき「王」として召されていることを忘れているからです。自分の人生を生きていないからです。
主にあって、私たちは世界で私にしか与えられていない固有の人生を生きるように召されています。与えられたいのちをキリストにあって生きていきます。ですからパウロは、「成長へのスタートを切ったら、それを歩み続ける」ようにと、「頭であるキリストに向かって成長していきます」(エフェソ4:15b)と教えています。
生命は条件さえ整えば自然に成長します。逆に成長が止まるということは滅びに一歩近づくことでもありますが、ここでパウロはクリスチャンがキリストに向かって成長していくために必要な2つの条件を語っています。
1つは14節。「もはや未熟な者ではなくなり」ということ。直訳すれば、「子どもであることを辞める」ということ。もう1つは15節、「あらゆる面で成長すること」です。
クリスチャンとして、キリストに似た愛の人として成長し続けるために必要なこと、その第1は「子どもであることを辞める」ことだ、とパウロは教えます。そして続けて「人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく」(14節)と説いていきます。
つまり子どもであった時とはクリスチャンになる以前ということですから、パウロが「子どもであることを辞める」とは、言い換えれば「後ろを振り向かない。子ども時代を懐かしがらない」ということでしょう。
「出エジプト」を経験したイスラエルの民も、辛い経験をするたびにエジプトを懐かしがったことが出て来ます。「子どもであることを辞めて大人になる」とは、もう出エジプトをしたのだから、エジプトに逆戻りするのではなく、約束の地の方向に向かって旅を続けるということ。キリストを知らなかった頃の生活に別れを告げるということです。

Ⅲ.万事を益とする神に取り扱われて成長する

2つ目には、「あらゆる面において成長する」ことをパウロは説いていますが、言い換えれば、「バランスをもって成長する」ということです。
信仰の幼子の時、人のことを考えずただ自分の願いを祈ります。しかし大人になるに従って〈神の御心が一番よいのだ〉と分かって来て、心から「御心が成りますように」と祈ることが出来るようになるのです。
子どもが成長するためにはお菓子だけでは困ります。一般に苦手な食べ物と言われるピーマンやニンジンや玉ねぎを食べる必要があるでしょう。バランスよく成長していくためです。
ここでパウロは、「あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長するために」人生に起こる出来事も皆そうだと言うのです。ピーマンやニンジンや玉ねぎが必要なように、私たちの成長にとっても、1つひとつの出来事が必要となるというのです。
私たちは、一生懸命に祈ります。その結果、祈りが聞かれないことを経験します。自分の願い通りにならない経験をするのです。でもそうした経験を通し、神の御心を待ち望んで忍耐することを学び、御心こそが最善であることを知るのです。また、ある時は、そりの合わない人や苦手な人と一緒に仕事をします。「この人は要らない、と言ってはならない」と、私たちは聖書で教えられていますが、人との出会いの中で、〈この人は要らない〉と思ってしまう自分自身とも出会い、悔い改めさせられるのです。
そして、共に十字架についていた強盗のためにも死なれた主イエスの愛を知るのです。また、3度も主イエスを裏切り、自己嫌悪し、どん底まで落ち込んでいたペトロに対して、ヨハネ福音書21章で、「わたしはお前を愛している。お前は、わたしを愛するか。わたしの羊を飼いなさい」と言って、本当に愛された神の子どもたちを、ペトロに託していかれた主イエスの懐の広さ、寛容さを知っていくのです。
このようにして、神さまは、日常に起こり来る様々な出来事、それら全ての出来事を通して、本当のキリストの愛、広く、長く、深く、高い愛を体験させ、私たちをキリストに似た者へと成長させたいと願っておられるのです。
最後のポイントは16節です。「イエスさまはすべてを結び合わせ、組み合わせ、成長のために用いる方である」ということです。
祈りが聴かれないことがあります。また嫌な、辛い出来事も起こります。でもそれ自体がクリスチャンとしての成長を阻害する要因とはならない。むしろ、全てのことが、相働いて益となるのです。
「主よ、私を池の中に入れてくれる人がいない。私が行こうとすると、他の人が先に降りて行ってしまう!」、そう言わない限り、つまり他人のせいにしない限り、クリスチャンとして私自身の成長が止まることは一切ないのです。
パウロは、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」(ローマ8:28)と語りますが、それは1人ひとりが成長し、キリストに似た愛の人になるためです。
私が裕福になるためではありません。思い通りに事が進んで行くことでもない。ライバルを押しのけて、自分だけが競争に勝利するためでもありません。そうではなく、私が愛の人になるため、イエスさまに似た者になっていくために、神さまは全てのことを相働かせて益としてくださるというのです。

Ⅳ.キリストにあって可能です

私たちクリスチャンは自分の人生の責任を任されています。それを受け止め始めた時に、信仰生活にギアが入るのです。聖霊の後押しによって動き始めることを経験します。
私たちの生活において信仰のギアが入る時に、つまり「王」として、責任者として「主よ、私を成長させてください。成熟へと導いてください」と自らを受け止める時に初めて、聖霊の息吹を体一杯に受け始めます。
聖霊が起こされる波に乗り始めるのです。誰でもキリストにあって、自分の人生の主役です。キリストにあって、私たちは変わることが可能なのです。
自分の弱さや欠点も、また長所も賜物も、全てを主にあって受け止めることができる。またどんな人ともキリストの愛で結び合って生きる力が与えられていくのです。
勿論、私にはできません。しかし、キリストにあってそれは可能なのです。このことを覚えて、私たち、集い喜び分かち合う歩みを進めていきたいと願います。
お祈りします。

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愛することは信じること

2019年2月10日
松本雅弘牧師
ホセア書11章1~9節 ヨハネの手紙一 4章7~10節

Ⅰ.はじめに

ある会社の部長さんの話です。毎日仕事が終わると、部下を連れて飲み歩き、家には「今日は仕事で遅くなるから」と言っておく。そうやって遊んでいた部長さんが、次第に元気がなくなってきました。理由を訊くと、奥さんのことでした。
彼女は、旦那の「今日は仕事で遅くなる」という言葉を決して疑わず、信じ切っていました。そのことによって、彼は、とうとう夜遊びを辞めたのだそうです。「愛するとは信じること」と言われますが、今日は改めて「愛する」ということについて考えてみましょう。

Ⅱ.聖書が教える3つの「愛」とは

私たちは「愛する」という言葉を当たり前のように使います。音楽でも映画でも愛をテーマとしている曲や作品がとても多くありますが、「ふたりは愛し合っている」という場合の「愛」が、何を意味するかと言えば、「お互いのことが好き」ということでしょう。
しかし聖書が教える「愛する」にはもっと違ったニュアンスがあります。新約聖書では日本語で「愛」と翻訳される言葉は、実際には3種類の意味の言葉が使われています。「エロス」、「フィリア」、そして「アガペ」です。
「エロス」とは、私のニーズを満たしてくれる相手に対する愛。「フィリア」は、友達に抱く友情のようなものです。そして「アガペ」は、よく「神の愛」と言われますが、相手の出方やあり方に関わりなく、いつも相手を大切にする愛です。
今日の聖書箇所に出て来る「愛」という言葉は「アガペ」の愛です。主イエスは「敵を好きになりなさい」と言わずに、「敵を愛しなさい」と言われます。
「自分とそりの合わない人や、場合によっては、あなたを憎むような人に対しても、あなたがすることは、アガペの愛をもって接していくことですよ」と、主イエスは教えられたのです。
では「愛する」とはどういうことなのでしょう。「愛の賛歌」と呼ばれる、コリントの信徒への手紙一の13章には、「愛」が様々な言葉に言い換えられています。
例えば、4節から7節には、愛するということを「忍耐強い」と言い換えたり、「情け深く、ねたまない」ことが愛することであり、「自慢せず、高ぶらない」こと、「礼儀をわきまえる」ことも相手を愛する事であり、さらには、「自分の利益を求めず、いらだたないこと、恨みを抱いたりしないこと」が愛することなのだと言われています。そして、最後のところに「すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」とまとめられていきます。
これが「愛」だ、と聖書は教えているのです。相手を信じること。今の時点では実際に明らかになっていないことでも、相手の可能性を信じて待つこと、これが聖書の教える愛です。

Ⅲ.愛は信じること

さて、私たちは人間関係で難しさを経験しない日はありません。〈なんであんな言い方をするのだろう…〉、〈なんであんな行動に出たのだろう…〉など、そのように考え始めたら、きりがないほどでしょう。
愛を働かせる以前に、まず自分が躓いてしまうのです。そんなことを考えながらイソップ物語の「北風と太陽」の話を思い出しました。北風と太陽がマントを羽織って歩いている男のマントを脱がせる競争をするお話です。
先ずは北風がトライします。マントを羽織って歩いている男に向かい冷たい北風を吹きつけます。すると寒いものですから、男はしっかりマントにしがみつき、決して脱ごうとしません。それに対して、太陽はどうしたかと言えば、温かな日差しをその男に送るのです。すると体の冷え切っていた男はいつの間にかマントを脱いでしまうという話です。
私たちは相手の羽織っているマントが気になります。その場合、マントは何かを象徴しています。例えば、その人の行動や考え方、態度だったり、勿論、服装やしぐさ等々です。そうした気になるマントを脱がせようとする試みとは、相手を変えようとする私の側からの働きかけと考えることが出来ます。
そして、私たちはともすると北風のように冷たい風を送り、強引にマントを脱がそうとするのです。しかし多くの場合失敗します。
相手は必死になってマントにしがみ付く。何故なら寒いからです。そうした事情で、彼はマントを羽織っているのです。
ですから周囲の人が寄ってたかって「おかしいから脱ぎなさい」と言っても、本人は寒いから着ているわけですから、寒さが改善されなければ、マントがいかに変でみすぼらしく見え、彼の取る行動がおかしく見えたとしても、本人は決して脱ごうとはしないでしょう。逆に、周囲が脱がそうとすればするほど、意固地になってマントにしがみ付くに違いない。そうせざるを得ない事情があるからです。
愛することが難しい相手である場合、つまり好きになれる理由を見つけることが難しいような場合、私から見て好ましくない物を取り除こうと、相手の言動を指摘したとしても、本人からすればそれは北風のやり方に過ぎないのです。かえって寒さを感じるだけでしょう。
ですから少し引いて、その人の事情を分かろうと努力をする。脱がそうとする努力ではなく、理解しようと努力をする。その背景や家庭環境などを理解しようとするのです。
すると不思議なことですが、その人に対しての、これまでの見方が少しずつ変わってくるでしょう。そしてもっと不思議なことに、その人に対して優しい気持ちになってくるのです。
礼拝で何度かお話しておりますが、変えることの出来ないものが2つある、と言われます。1つは、私たちが向き合っている相手、そしてもう1つは過去です。
でも、変えることの出来るものがある。それは相手に対する私の関わり方です。それを選び直すことは出来ます。寒いからマントを着ているのだ、と事情が分かれば、みすぼらしいマントに代わる何かを提供することが出来るかもしれません。あるいは太陽のように、全く違った方法で、その人の体を温めたり、心を温めることを一緒になって考えることもできるでしょう。
悲しいことですが、私たちの心は、相手を信じることよりも疑うことの方が得意なように思います。良い面を見つけるよりも欠点を探し出すことに長けています。ちょっとした噂がきっかけで、人間関係に亀裂が生じ、ほんの僅かな疑いが関係修復を不可能なまでにこじらせてしまうことも稀ではありません。

Ⅳ.それでもなお(Do it anyway)

この説教の準備をしながら、私の心に1つの詩が思い浮かびました。それはマザー・テレサの「それでもなお(Do it anyway)」という詩です。
人間はえてして、理不尽なことや訳のわからないことをし、自己中心的です。/それでもなお、赦しましょう。/あなたが親切にしても、下心があるからだと人はあなたを非難するかもしれません。それでもなお、親切にしましょう。/あなたが何かを立派に成し遂げると、偽りの友と本物の敵を得るでしょう。/それでもなお、しっかりと成し遂げましょう。/あなたが正直で裏表がないと、人はあなたを騙すでしょう。/それでもなお、正直で表裏なくあり続けましょう。/あなたが何年もかけて築いたものでも誰かが一晩のうちに壊すことができるでしょう。/それでもなお、築き続けましょう。/あなたが安らかな心と幸せを見つけると、人はあなたをねたむかもしれません。/それでもなお、幸せを手放さないように。/あなたが人のために今日したことを、明日になると人は忘れてしまうものです。/それでもなお、人のために尽くしましょう。/あなたが持っている最良のものを世界のために捧げましょう。/しかし、それはその必要を決して満たすことはできないでしょう。/それでもなお、あなたが得た最良のものを世界のために捧げましょう。/いいですか。つまるところはあなたと神さまの間の事柄なのです。決してあなたと人々との間のことではありません。
私たちが愛について考え、愛する人になることを祈り求める時に、私の側で出来ること、神さまを信じる者として、私の側で祈り求める恵みは何か、と言えば、まさに、この詩の最後でマザー・テレサが、私たちに言い聞かすようにして語る言葉、「いいですか。つまるところはあなたと神さまの間のことがらなのです。決してあなたと人々との間のことではありません」。
神さまの間の事柄として、私の周囲の人々とどう関わるか、それは、その人と私との間の事柄ではなく、マザー・テレサに言わせると、私と神さまの間の事柄なのだ、というのです。
聖書は「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」(一ヨハネ4:19)と語り、神さまが私たちを愛し、私を信じてくれていると教えます。そのことを実感し、経験する時に、必ず私たちは人を愛する人、人を信じる人へと導かれて行くのです。それを、神と私の間の事柄として行っていく。ぜひ、そのことを心に留め、求め続けて行きたいと願います。
お祈りします。

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ペンテコステの出来事の意味

2019年2月3日

松本雅弘牧師
イザヤ書32章15~17節
使徒言行録2章1~13節

Ⅰ.世界に拡がる教会の初穂としての使徒言行録2章の教会

二千年前の五旬祭の日に、約束の聖霊が降り、世界に拡がる教会の初穂として使徒言行録2章の教会が誕生した。花嫁なる教会が主に捧げられたのです。それがペンテコステの出来事でした。

Ⅱ.ペンテコステの日に与えられた聖霊とは

この時、弟子たちはエルサレムに集まっていました。「聖霊を与える」という約束の実現を待ち望んでいたからです。すると、主イエスが復活した日から数えて50日目、その日はちょうど五旬祭の当日、今日と同じ日曜日でしたが、一同の上に聖霊が降り、一同は聖霊に満たされたのです。弟子たちの内に聖霊が宿り、彼ら自身が神殿となり、復活の主の証人になった瞬間です。
さて、「聖霊が与えられると、復活の主の証人となる」と聞きますと、「いや、ちょっと、待ってください。証しは牧師さんや熱心な人たちに任せて・・・」といった思いを抱く方もおありでしょう。でも二千年前のこの日以来、その人が認めようが認めまいがクリスチャンであれば誰もが聖霊を宿す神殿となり、復活の主の証人として召されたのだと聖書は語るのです。
主イエスは、公生涯の90%の時間や労力を12弟子に惜しげもなく投資しました。その結果、彼らが素晴らしい弟子として育ったかと言えば、残念ながらそうではなかった。十字架の場面で一人残らず主を捨てて逃げてしまいました。それが現実でした。
でもそれで終わらなかった。主イエスは続きを用意しておられました。それが聖霊なのです。公生涯の全てをかけて弟子たちを愛し、全てを与え尽くした主イエスが、最終的になさったこと、それが、ご自分の霊である聖霊をもって弟子たちを満たすことでした。

Ⅲ.聖霊に満たされるために―祭司・預言者・王として生きていく

ここで、次に問題になることがあります。それでは、聖霊に働いていただくためにはどうしたらよいのかという問題です。
聖書から聖霊について学ぶ時、一つの大切な真理に出会います。それは、このペンテコステ以前、聖霊は3種類の特別な人たちのみに注がれる霊だったという事実です。その3種類の特別な人とは、祭司、預言者、そして王です。ある方は早合点して反論するかもしれません。「今日の個所には全ての弟子に聖霊が注がれているではないか!」と。そうなのです。二千年前のペンテコステ以降、歴史が変わりました。旧約の神の民と、新約の神の民の決定的なちがいが起こったのです。
それが、今年の高座教会の主題聖句です。「神は言われる。終わりの時に、私の霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」(使徒言行録2:17)
イエスを救い主として告白する人々に分け隔てなく聖霊が注がれる。それが預言者ヨエルの預言であり、それが成就したのです。正確な言い方をすれば、聖霊は祭司、預言者、王に注がれることは昔から変わっていません。ただ、ペンテコステ以降、全ての人に聖霊が注がれた。それは、クリスチャンになった人が一人残らず、この時代にあって、祭司、預言者、王になったということ。祭司、預言者、王として生かされているということなのです。
そうした上で、「聖霊に満たされるには、聖霊に働いていただくにはどうしたらよいのか」という、先ほどの問いに戻ります。
結論から言えば、聖霊は祭司、預言者、王に注がれる霊ですから、私たちが生涯かけて祭司として、預言者として、王として生きていく、それに徹して生きる時に聖霊は私たちの上に豊かに注がれていくということなのです。このことこそが、宗教改革者が「万人祭司・預言者・王の原則」と呼んだものです。
では、第1に生涯かけて祭司として生きるとは何を大切にする生き方でしょうか。
祭司とは、神と民の間に入って執り成す人、まさに祈る人です。ですから私に聖霊が注がれたということは、生涯かけて祈りに取り組む、祈りの人として育てられていくということです。
第2に、私たちが預言者として生きるとは、どのようなことなのでしょうか。聖書によれば預言者とは神の言葉を預かり語る人です。ですから、預言者の一番中心的な役割は、神に、御言葉に聴くことです。
ペンテコステの日に登場するペトロが、後に書いた手紙の中で、預言者として御言葉を聴く時の姿勢について、「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」(ペトロの手紙一2:2)と勧めています。生まれたばかりの赤ちゃんのお乳の吸い方は全力の吸い方です。
そしてペトロは、吸うだけでなく、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去りなさい」(2:1)と勧めています。栄養に成る物と一緒に栄養にならない物、いや魂の成長に害を及ぼすもので内側を満たしていないだろうかと問いかけているのです。これらは、聖霊に満たされる方向とは逆のものです。
以前、教育講演会でお招きした玉川聖学院の水口洋先生が、私たち親は常日頃子どもに対してネガティブな言葉を発し続けているが故に、一般的に80%の子どもが「自分は駄目だ」と思っていると話されました。
子どもからすれば、否定的な言葉を浴び過ぎていますから、「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し」(イザヤ43:4)ているという、神の瞳に映る本当の姿ではなく、周囲のそれも身近な親からの否定的な言葉によって、そうした駄目な姿が自分の姿だと心に刷り込まれて来ました。
『エクササイズ』の本に「Hurt people hurts.-傷ついている人は人を傷つける」という言葉が出て来ますが、子どもや身近な人についついダメ出しをしてしまうのは、私自身が実は深く傷ついているからです。
「Hurt people hurts.-傷ついている人は人を傷つける。」この言葉は真実です。パウロは、「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」(エフェソ4:29)と言っています。
私たちは、否定的な言葉かけは止めにして、神が私にしてくださっているように、意識して肯定的な言葉だけを、それも必要がある時に語るように努めていきたい。高座教会においても、ぜひこの信仰の文化を作り上げていきたいと願います。
祭司、預言者として生きるとはそういうことでしょう。そうした生き方に徹する時に、聖霊は力強く働かれ、後押ししてくださるのです。
最後の3番目、聖霊は王に注がれます。この場合、王とは責任者のことです。クリスチャンは王です。私に与えられた掛け替えのない命を生きるようにと人生の責任者として立たされているのです。
自分の人生と向き合い、「主よ、良くなりたいです」、「主イエスさま、成長させてください」、「主よ、祝福してください」と祈り、訴えて行く時初めて、そこでぶどうの木である主イエスに繋がることができるのです。
私の心を本当の意味で満たすのは聖霊なる神さまです。誤解を恐れずに言えば、夫でも妻でもありません。子どもでもない。仕事でも奉仕でもありません。
自分を本当に満足させるのは、「主よ、どうぞ心に入ってください。聖霊なる神さま、この私を満たしてください」と、心を開いて、自分の人生の王になっていくことを通してです。
その時、聖霊はしっかりと臨み、祝福の道へと導いてくださるのです。ですから、聖霊に満たされるということは、自分が自分となっていくことです。人間が人間となっていくことです。聖霊に満たされるとは、主イエスが私を神の子として本来の私の姿にさせるために用意された恵みです。パウロになる必要もない、ペトロになる必要もないのです。マザー・テレサにならなくていいのです。私が私であるために聖霊が注がれるからです。
確かに素晴らしい信仰の友や先輩が大勢います。でも、誰も私に代わって家庭の中で、会社のなかで、教会において、神さまに用意された「私という指定席」に座って、私の人生の責任者として生きてはくれません。まず私が、神さまの用意された指定席に座り、その責任をしっかりと引き受けていく。その時、聖霊は始めて、私を助け励ますことがおできになるのです。何故なら、聖霊は私たちを王とするために注がれたからです。

Ⅳ.使徒言行録2章の教会の姿

まとめに入ります。私たちは、たくさんの弱さや欠けを覚えます。聖霊を受けた初代教会の弟子たちもそうでした。
彼らは、「エルサレムを離れないで、父が約束した聖霊を待ち望むように」(使徒1:4)と言われ、最後の晩餐を共にし、「決してイエスさまを裏切ることはありません」と偉そうに言った、虚しい言葉がこだまする、あのエルサレムの二階座敷、イエスさまのことを最後まで理解できずに、見捨てて逃げてしまった、恥ずかしい思い出に満ちたエルサレム、そこに留まり、1つになって祈っていた、その場所に、王として責任を持って居続けたとき、聖霊が降ったのです。
高座教会もたくさんの弱さや足りなさを覚えます。でも、それでいいのです。神さまに祈っていくならば、必要は必ず満たされます。なぜなら弱い時にこそ、本当の力のある神さまにより頼むからです。
ですから、聖霊の息吹を体一杯に受け止めるために、私たちが生涯かけて、祭司として、預言者として、そして王として生きていくことに徹していくことです。そのようにして、「信仰の帆」を高く、広く掲げていきましょう。
私たちはペンテコステの祝福に今もなお、あずかり続けている教会です。復活の主の証人として、「私がやった」ではなく、「神さまがしてくださった」と、神さまの素晴らしさ、神さまの偉大さを、身をもって証しする者へと、導いていただきたい。
それこそが、ペンテコステの日に誕生した「使徒言行録2章の教会」の姿です。お祈りします。