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主日共同の礼拝説教

愛する兄弟たち

2019年3月31日
和田一郎副牧師
詩編5編1-13節  コロサイの信徒への手紙4章7-9節

1、ティキコ

金曜日からアジアの各国で宣教をされているカンバーランドの教会の牧師が日本に集まって、アジア宣教フォーラムという宣教会議をしています。11時の礼拝では、フィリピンのカンバーランド教会から来られたダニエル・ジャン宣教師が説教をしてくださいますが、フィリピンの宣教から学ぶことは多いと思います。
話はかわりますが、やはり同じカンバーランド教会である、アメリカのルイビル日本語教会の佐藤岩雄先生から手紙を頂きました。ケンタッキー州で現地の日本人のために牧師として働きをしています。手紙をいただいて佐藤先生ご家族の近況や、ルイビル教会の様子が手紙に書かれていてとても励まされました。手紙ですと、ルイビルの郵便局から人づてに飛行機にのって、まさに海を越えて人の手を介して私の手もとに届くわけです。一瞬で届くメールとは随分重みが違うと思いました。
使徒パウロは多くの手紙を書き、人の手を介して届けられました。新約聖書の時代には、ローマ帝国などが統治の手段として郵便を整備してはいましたが、一般の庶民が自由に利用できるものではなかったそうです。信用できる人を探す必要があったのです。パウロの手紙の特徴は、ただ情報を送ることだけではありません。手紙に書かれていることが、届いた先の教会の皆さんに正しく理解されることを目的としていました。パウロの手紙から、教会の運営のことや、一人ひとりの信仰生活について教えられたのです。
パウロは、信頼できる人を弟子の中から選んで手紙を託しました。たとえば、ローマ書を送る時は、フェベという女性の執事に託しました。第一コリントはテモテ、フィリピの手紙はエパフロディト、そして、エフェソへの手紙と今日の聖書箇所のコロサイ人の信徒への手紙を運んだのはティキコという人でした。
7節に書かれている言葉によると、このティキコという人は「愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕(しもべ)」とあります。「愛する兄弟」といっても、パウロのお気に入りの人だという意味ではありません。共に神の子である仲間という意味です。パウロはこのティキコに手紙を託しました。手紙を届けるだけなら他にも人がいたのだと思いますが、どうしてこのティキコを選んだのでしょうか。
フィリピンのカンバーランド教会もアメリカのルイビル教会も、この高座教会も、一つのキリストの体である信仰共同体です。ですから、お互いのことを知る必要があります。知ることによって物質的な支援や祈りの支援をするのが教会です。ティキコはその支援をするうえで、励ます賜物があった人であったようです。パウロが、経済的に困っているエルサレム教会のために、宣教旅行で集めた献金を届ける時に一緒にエルサレム教会に行った人がティキコです。そのように、励ましが必要なところに用いられた人でした。
パウロの手紙の内容は、叱咤激励をするような厳しいところもありますが、すべての手紙はパウロの励ましの思いで満ちています。当時の人々にとっても、今を生きる私たちにとっても、パウロから励ましを受けることができるでしょう。そしてパウロはこの手紙をティキコに託したのは、「彼によって心が励まされるため」だと言ってるのです。

2、オネシモ

そしてもう一人、ティキコと一緒にコロサイに派遣される人がいます。それが、奴隷の身分だったオネシモという人です。このオネシモという人は、コロサイ教会の信徒フィレモンのもとから逃亡した奴隷でした。新約聖書にはこのフィレモンへの手紙があります。たった1ページ半の短い手紙ですが、パウロの愛情に満ちた手紙です。オネシモという人は奴隷という身分でしたが、フィレモンの家から逃げていった奴隷でした。逃亡先のローマでパウロと出会い、パウロから福音を聞いて生き方が変わったのです。ですからパウロは、奴隷とは言わずに「忠実な愛する兄弟」つまり、同じ信仰をもつ主にある兄弟をそちらに行かせます、と書き添えているのです。さらに、フィレモンに対してオネシモを「奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟として」受け入れてくれるようにと、フィレモンの手紙の中で願っています。恐らくコロサイの手紙とフィレモンへの手紙は、一緒に届けられたのだろうと言われています。この二つの手紙を一緒に読むと、パウロの意図がより一層よく分かると思います。
私は、パウロが奴隷であったオネシモを、手紙と一緒に送って、それによって願った意図が2つあったのではないかと思います。一つは、かつて役立たずの奴隷であったオネシモが、イエスキリストを救い主として信じたという、生きた救いの証しを、コロサイ教会の人たちが見ることになるからです。人は誰かの「変えられた人生」を見ることで希望を感じます。以前は役に立たない奴隷とされたオネシモです。失敗をしでかして逃亡してしまったような者でした。それが、今やクリスチャンとなって生き方が変わったのです。しかもパウロから信頼を得る頼もしい信仰者となったのです。コロサイの人々はこれを見て、大いに希望を抱いて宣教の働きが励まされるでしょう。人一人の命が救われる、これは神の大いなる御業、奇跡です。
もう一つのパウロの意図は、奴隷であったオネシモを、主人のフィレモンが受け入れた時、かつては奴隷と主人という主従関係にしかなかった両者が、愛する兄弟となる。コロサイの教会の人々の目の前で、和解が成されるという恵みを見ることになるのです。
まさしくパウロがコロサイ3章11節で語ったように、「・・・もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです」。といった言葉がコロサイ教会において、実現されようとしています。これはコロサイの教会の人たちにとって大きな励ましとなるでしょう。
わたしたちは、教会に繋がることによって霊的な兄弟姉妹、霊的な神の家族を得ました。それぞれの生い立ちや、賜物、価値観の違いはあっても、礼拝する場所はそれぞれ違っていても、神様との関係がしっかりとしているならば、仲間との繋がりがぶれることはありません。上との関係があって、横の繋がりがしっかりします。
私たち信仰者の繋がりは、好きな者同士だから、気の合った人だから付き合えるというものではありません。キリストの愛は、好きだから愛するとか、気が合ったから愛する愛ではなくて、罪にまみれて背中を向けていた私たちでさえ、神様の方から一方的に愛してくださった、片思いでもあきらめずに愛してくださった、その愛で仲間を愛するということです。そこへの信頼、その信仰が強ければ強いほど、私たち主にある兄弟姉妹、神の家族の関係もしっかりしてくるのです。信仰によって結ばれているからこそ、フィリピンの教会の人たちとも、アメリカの佐藤先生の教会の人たちとも一つになれる。これは神様の大いなる業です。
私も励ましがあって、教会に繋がることができたことを思い出します。わたしは大学時代のアルバイトの仲間が結婚することになったので、結婚式の幹事をすることになりました。二人は礼拝に行ったことのない人でしたが、地元の教会で結婚式をあげたいと思っていたそうです。それが高座教会でした。打合せのために、わたしはお二人と礼拝に行きました。そして、二人の結婚式の世話役をされていた長老ご夫妻が「お昼でも食べに行きませんか?」と言ってくださったのです。
結婚式の後、わたしは時々教会に顔を出すようになりました。礼拝にだけ出て、礼拝が終わるとさっさと帰るということが続きました。しかし、礼拝の受付でいつも声をかけてくださる、結婚式でお世話をされたご夫妻がいました。ほんの短い挨拶でしたが、自分の名前を知っていて声を懸けてくださる人がいる、というのは励ましになりました。
そして、洗礼を受けて信仰をもった時、信仰によって、神の家族という「仲間の力」を知りました。私にもティキコやオネシモのような人がいたのです。
みなさんにも誰かがいたと思いますし、誰かのためにみなさんの励ましが必要です。神様は、その人によって心が励まされるために、誰かを送ってくださいます。
イエス様は私たちの罪のために、犠牲を払ってくださいました。イエス様の死と復活は私たちの希望です。そのイエス様は、今も、わたしたちのために祈り励ましてくださっています。このことを心に留めて遣わされていきましょう。お祈りします。

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キリストの塩味

 

2019年3月24日
和田一郎副牧師
コロサイの信徒への手紙4章5~6節

1、「時をよく用いる」・・・・機会を大切にする

今日は「伝道のあり方」をテーマに、コロサイの手紙から学びたいと思います。パウロは「時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい」(5節)と勧めています。大事な機会を教会の外の人達に伝道するために賢く用いなさい。それが信仰生活の過ごし方として、パウロが勧めていることです。
イエス様も、このような話をされました。12人の弟子を選んでから、彼らに向かって「伝道するために、町に出て行きなさい、困っている人を癒しなさい」と言って送り出したのです。そして、伝道をする時にはコツがあると言ったのです。それが次の言葉です。「わたしは、あなたがたを遣わす。それは、狼の群れに、羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(マタイによる福音書10章16節)。あなたたちは、羊のようにまだ弱い伝道者だが、「蛇のように賢く、鳩のように素直に」それが伝道するコツだと教えたのです。ヘビが獲物を素早く追いかける姿を見た事はあるでしょうか。ヘビは追いかけません。ヘビの知恵は、自分のところへ来るまで待っていることです。その機会を待っていて逃さないことです。時を用いて、機会を活かすという知恵です。もう一つ「鳩のように素直に」とイエス様はおっしゃいました。鳩は穏やかで人が手づかみで捕まえられるほど、大人しい素直な鳥です。蛇の賢さと鳩の素直さ、この両方を身につけるのが、伝道をする時のコツだと言われたのです。逆に言えば、押しつけがましく聖書のことを話しては、相手に届かないのです。相手が「信じられない」という思いがあるならば「そうですよね」という素直に共感することも必要なのです。
アメリカでは「あなたは、ある人々にとって唯一の聖書だ」といった言葉を耳にするそうです。あなたは、ある人々にとって唯一の聖書、つまり人生で一度も聖書を開かない人は山ほどいます。日本ではなおさらです。聖書どころか人生でクリスチャンと知り合うことなく、生涯を終える人は沢山いると思います。ですからそういった人々にとって、クリスチャンと接点をもつのは、あなたが唯一かも知れない。そうだとしたら、その人にとって、あなたは唯一の聖書だと言えます。つまりイエス・キリストの真理に触れる唯一の接点かも知れないのです。ですから、その出会いを通して、あなたの言葉や様子や、あなたの生き様から、証しとして何かが伝わる機会となります。

2、「親がクリスチャンだから・・・」

みなさんは信仰をもったきっかけを話す機会があるでしょうか? わたしは、成人して社会人になってから洗礼を受けました。ですから、それまで付き合いがあった人たちは、わたしが教会に行っている、クリスチャンなのだと分かると、よく質問をされました。「どうしてクリスチャンになったの?」というものです。そこで一番無難で、相手が納得する答えがあります。それは「親がクリスチャンだから」という答えです。たいていの人はそれで「なるほど」と言って納得します。まるで親の職業の後を継いだような感覚なのだと思います。親が大工だから大工になった、親が教師だから教師になった。みたいな感じで、「親がクリスチャンだから」と言えば、自分も相手も納得してしまうところがあります。
しかし、信仰は一人ひとりの問題です。神様との関係の中で、自分の命、自分という存在を神様から与えられた、上からの力で預かっているのだと、そのように受け取るのかどうか、という自分一人の問題です。しかし、わたしが信仰をもった時は、そんな説明はできませんでした。親がクリスチャンで、大切な何かがそこにあると感じた。ただそれだけだったと思います。
他にも、私がクリスチャンだと知ると、質問されることがあります。「クリスチャンは愛っていう言葉を使うけど、嫌な人もいるじゃないか」とか、「復活とかいうけど、本当に死んだ人間が生き返るのか?」と言ったことです。それぞれキリスト教に疑問をもつことは沢山あります。
しかし、その人達が本当に知りたいことというのは、字義道理の意味だけではなくて、もっと率直な問いがあるのではないでしょうか?それは、「あなたが信じているものは本当ですか?」おとぎ話ではなくて「本物ですか?」といった関心ではないかと思います。「それを、あなたはどうして信じたのですか?」というものです。では、それに対してどう答えるべきでしょうか?パウロの言葉を借りれば、「塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」(6節)ということです。

3、「塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」

イエス様はおっしゃいました。「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい」(マルコによる福音書9章50節)。塩は良いものである。つまり、キリスト教の信仰は、この世の腐敗を防止する働きがあるのです。「だが、塩に塩気がなくなれば」と言われるように、塩に塩気がなくなるということがあるのです。塩は雨や太陽に当たって塩気をなくすということがあるそうです。もし腐敗を防止する効力がなくなれば価値がありません。「何によって塩に味を付けるのか」といえば、キリストの塩味になるように、聖書の御言葉によって日々養われなければ、塩気がなくなってしまうわけです。
もう一つ、塩には「食べ物に味つけをする薬味」としての役割があります。日本には、いい塩梅(あんばい)という言葉があります。いい塩加減という意味です。いい塩梅の食べ物は美味しいですが、その美味しさは塩の味でしょうか?それなら塩っ辛いはずですが、そうではなく、塩はその素材の本来の美味しさを引き出す力をもっています。
イエス様は塩のような力をもっています。イエス様は、人々を癒し神様との関係を修復してくださいました。人々に変化を与えたのです。変えたといっても、その人の人格を上書きするように、別人になってしまうように変わったのではないのです。私たちが、本来もっている自分らしさを、回復させてくださったのです。本来の自分らしさというのは、創世記にあるように、神に似た性質をもって、神と信頼関係にあるのが本来の姿です。一人ひとりに個性をもった本来の姿があります。素材がもっている本来の味を塩が引き出すように、キリストの塩味はわたしたちの本来の味を引き出して変えさせる力です。
パウロは、教会の外にいる人達に伝道する時、その「塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」。と私たちに教えています。わたしが以前に答えていた、「親がクリスチャンだから」とう言葉は、あきらかに塩味が効いていません。

4、希望を与える

パウロが言う「塩で味付けされた快い言葉」というのは、具体的には福音の「希望」について話すことだと思うのです。というのも、パウロはこのコロサイの手紙1章で、コロサイ教会の人達が、希望に基づいて素晴らしい信仰生活を送っていることを聞いて喜んでいるからです。
「あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。
それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。」 コロサイの手紙1章4―5節
パウロはコロサイ教会の人々に、「あなたたちの信仰と愛について聞きました。それは希望に基づくものですね」。と書いてます。信仰と愛はクリスチャンにとって大事なものですが、それは希望に基づくもの、希望があるからこそ信仰と愛があると言っているのです。希望があるからこそ、人は聞く耳を持ちます。希望があるからこそ、福音は世界中に広がっていきました。さて、人々に影響を与えてきた希望とは何か。それは、私たちの変えられた人生です。信仰をもったことによって変えられた生き様が、人々に希望を抱かせます。
わたしたちの、生まれ持った「持ち味」は、苦いものであっても、塩によって旨味がでてきます。本来の味を引き出して、素晴らしい味に変えられました。塩には以前のものを変えさせる力がありますが、キリストの塩味はその人の人生を変えるものです。その変えられた人生を伝えることが、何より塩味の聞いた言葉です。信仰をもった自分が、以前と違った生き方をしている、そのことを伝える言葉を持ちたいと思うのです。
イエス・キリストの、死と復活は希望です。古い自分が死んで、復活とともに新しい命が与えられる、その命には永遠の希望があります。
この一週間、地の塩となって歩んでいきたいと願います。お祈りしましょう。

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使徒言行録2章の教会をめざして

2019年3月17日
松本雅弘牧師
使徒言行録2章42~47節

Ⅰ.はじめに

「主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる」。(歴代誌下16:9)という聖句があります。
主なる神が、ある種の人々を世界中いたるところをくまなく見渡して探しておられる。それは御自分と心を一つにする人です。主はそのような人を見つけたら力づけるというのです。
今月、アジア・ミッション・フォーラムが渋沢教会で開催されます。アジアの諸地域のカンバーランド長老教会を代表する方たちが集い、祈り合い、話し合いの時を持ちます。まさに主の御心を求め、御心と思いを一つするための集いです。
ところで、カンバーランド長老教会が誕生したのも、主の御心と一つになることを願い求めていったからです。
当時の長老教会は『ウェストミンスター信仰告白』にある「二重予定の教理」ゆえに、次第に証しの生活に力が入らなくなっていました。
そうした中で、カンバーランド地方の長老教会の人々は違っていました。「この人は洗礼なんか受けやしない。この人は『信仰告白』で言うところのクリスチャンにならないようにと予め定められている人なのだから…」、そのように思われていた人たちの中から、次々と回心者があらわれ、礼拝に通い始め、聖書を読み祈る生活へと変化していったのです。聖霊の息吹がもたらしたその働きに身を置くことによって、彼らは神から力づけをいただくことになります。そして次第に「二重予定の教理」を全面的に受け入れることができなくなっていったのです。
当時の記録では、教会は信者で溢れていく反面、聖礼典を執行する牧師が不足していたというのです。そうした緊急性の中で、カンバーランド中会は正規の神学校を卒業していなくても、ふさわしい人材には按手を授けたのです。これが、当時の長老教会に受け入れられず、カンバーランド中会は、1810年2月4日、長老教会から離れ、新たにカンバーランド長老教会を創設していくのです。ですから「カンバーランド」という名称を見る時、私たちは「伝道熱心の故に始められた教会」であることを思い起こし、そしてこの宣教のスピリットを失ったらいけないと思うのです。この宣教のスピリットこそ遡っていけば、使徒言行録2章の教会につながっていくのではないかと思うのです。

Ⅱ.使徒行録2章の教会をめざして

さて、6回にわたって、「使徒言行録2章の教会」の姿に学んできました。弟子たちが一つになってひたすら御心を求めて祈っていく中、約束の聖霊が彼らに降り、1人ひとりが復活の主の証人、祭司・預言者・王として立たされていく。そのようにして「使徒言行録2章の教会」は誕生していきました。
その日常的な姿が使徒言行録2章42節以下に出ています。そしてその姿はまさに、私たちが「信仰生活の5つの基本」と呼び、加えて教会の使命として受けとめている「3つのめざすもの」を大切にする教会の姿と重なるのです。
あの2千年前のペンテコステの日に誕生した「使徒言行録2章の教会」と同様に、実は今、私たち高座教会にも聖霊が宿るがゆえに現れる恵みであることを、もう一度、覚えたいと思うのです。いや、覚えるだけではなく、そうした教会を祈り求めて行きたいと願うのです。

Ⅲ.ぶどうの木につながれば実を結ぶ

ルカは「使徒言行録2章の教会」と呼ばれるエルサレムの教会の姿を記しながら、「教会はこうあるべきだ、クリスチャンはこうでなければならない」という仕方を示しているのではありません。むしろ聖霊が働いたときの結果を淡々と報告しているのです。
つまり「使徒言行録2章の教会」とはあくまでも聖霊の働きの結果であり、その果実だからです。ではそうした実を結ぶためにはどうしたらよいのでしょうか。
それが私たちの今年の主題の前半に出て来る、「私たち、集い喜び分かち合う」ことです。これまでも分かち合ってきた表現を用いるならば、共に教会に集い、そして喜び分かち合うことで、ぶどうの木であるキリストにつながり続けるということです。何故なら、聖書の大原則は、「ぶどうの木であるキリストにつながって実を結ぶ」ということだからです。

Ⅳ.関係から入り、存在が扱われ、実を結ぶ

私たちが神にあって聖霊の実を実らせるために聖書が示すプロセスがあります。それはキリストとの生きた関係を築くことから始めることです。
まずぶどうの木であるキリストとの関係を大切にし、次に私たちの存在が、主に取り扱われ、実を結ぶ。その順序こそ聖書が教えるプロセスです。ところが、往々にして逆を行ってしまうのです。例えば洗礼を受けた後も、まずは変化とか成長といった果実自体を追求し、それがなかなか起こらずに苦しくなる経験をよくします。それは聖書が教える逆を行ってしまっているからです。
自身の変化は、ぶどうの木であるキリストにつながり、そのお方との親しい関係を持って初めて起こってくる恵みの出来事なのです。ですから自分を自分の力で変えるのではなく、ぶどうの木であるキリストにつながり、キリストとの親しい関係の中で聖霊がそのぶどうの木であるキリストを通してつながる枝である私に働きかけてくださる。その結果、私の存在自体が取り扱われ、少しずつ変えられていく。その共同体である、高座教会が変えられていくのです。ですから、聖書が私たちに語る神さまが最初になさること、それは私たちをご自身との関係の中に招かれるということです。
聖書の最初から終わりに至るまで、神さまは私たちを招かれるお方、呼ばれるお方なのです。最近、聖書を読みながらつくづく思わされるのですが、神さまは主導権を執って招くお方です。
ある牧師はこう語っています。「金持ちで自分の生活に満足していた砂漠の族長アブラハムが神さまに招かれたのは、ある夜、星を見つめていた時でした。モーセの場合は殺人犯として荒れ野に隠れていた時です。イザヤは神殿で祈りを捧げていた時、ペトロは漁をしている時でした。ザアカイは好奇心いっぱいで、いい歳をしながら木登りしていた最中です。マタイは収税所でお金を数えている時、パウロは信仰者への迫害に燃えて走り回っている時でした」と。
クリスチャンにふさわしくなってから招かれるのではなく、そのままでまず招いてくださる。ですから主イエスは、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。(それは)あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」(ヨハネ15:16)と選んだとおっしゃるのです。神の招きが先行する。ぶどうの木であるイエスさまにつながるようにと、まず主イエスとの愛の関係に招いてくださるのです。ですから祝福された信仰生活の大原則は「木につながれば実を結ぶ」ということです。「神さまのために何かしてやろう」というところから信仰生活は始まりません。「人のために何かしよう」というところからもスタートしません。神に愛されるために「良いクリスチャンにならなければ」という放蕩息子のお兄さんのようなところから始めないのです。仮に良い行いから信仰生活を始めるならば必ず息切れするでしょう。例えば神のために人のためにと思って始めたことでも相手が感謝してくれないことにカチンと来て、「この人はひどい人だ。全く感謝がない」と相手に不満を持つでしょう。そればかりか、その人間関係を放置している神に対して不満を持ち不機嫌になって周囲を責めることでしょう。ですから、まず神さまとの関係から始めます。
キリストが「ぶどうの木」で私たちは「その枝」です。「良い枝になってからつながりなさい」と主は一言も言われず、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と言ってくださったのです。弱っている枝も、ちゃんとぶどうの木につながれば、樹液が流れて、やがて強められ、そして実を結ぶのです。つながれば、そうした結果になるのです。
そのつながり方を、「信仰告白」では「恵みの手段」と呼びますが、それをまとめたものが「信仰生活の5つの基本」です。この5つはクリスチャンになるための条件ではなく、ぶどうの木への具体的なつながり方をまとめたものです。
使徒言行録2章の教会は生き生きしていました。でも最初からそうだったのではありません。どのようにしてそうなったかと言えば、彼らが共に主イエスを中心とする交わりに集ったから、ぶどうの木につながったからです。
その結果、聖霊の実として、喜ぶ彼らに変えられていった。その喜びを分かち合う彼らに変えられていったのです。そうした恵みの循環が、主イエスを中心とする交わりに集うこと、つまりぶどうの木であるキリストにつながることから始まって行ったのです。
それが今年の高座教会の活動のテーマ、「私たち、集い喜び分かち合う―使徒言行録2章の教会をめざして」の意味なのです。お祈りします。

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ファミリーチャペル 主日共同の礼拝説教

「何をしてほしいのか」と問われたら

2019年3月10日
松本雅弘牧師

マタイによる福音書20章29~34節

Ⅰ.2人の盲人

この時、主イエスは十字架で贖いの死を遂げるためにエルサレムに向かっていくところでした。そのエルサレムに向かう最後の宿場町がエリコだといわれています。
そこに2人の盲人が「道端」に座って物乞いをしていたのです。目の見える人にとって、「目が見える」ということは「普通のこと」と考えます。でも「普通でない」2人の盲人のために、当時のユダヤ社会が提供した居場所が、普通、人は通らない「道端」でした。
ところが突然、彼らは「道端」から街道のど真ん中に立ち、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫び始めたのです。
その途端に周囲の人々は盲人たちを叱りつけ、黙らせようとしました。このように当時のユダヤ社会には「道端」にいる人間は、そこに居続けるようにと仕向けるシステムやルールがあったのです。
実は、似たようなことが、今を生きる私たちの周囲にもたくさんあります。その社会を作りだし、容認しているのが私たちですから、知らず知らずの内に、そのようなシステムを維持し強化する一端を、担っているかもしれません。
明日は3月11日です。私はこの説教の準備をしながら福島の原発のこと、そしてまた、先日、県民投票が行われましたが、あの沖縄の基地のことなどを思い出しました。それらのことも、今日の聖書の出来事と相通じるところがあるのではないかと思います。そうした中で、「道端」を居場所としてあてがわれた少数の弱い立場の人々が、とても辛く、さびしい思いをしてしまう。ここに登場する2人の盲人は、そうした辛さや悲しさ、生きづらさを感じている人々の代表のような人たちだったわけです。

Ⅱ.主イエスとの出会い

ある日、急に大勢の人の足音と話し声が近づいて来たのでしょう。
ルカによる福音書には「これは、いったい何事ですか」と、行き交う人に訊ねたことが出てきます。すると、いつもは道端に座っている人など相手にしないはずなのに、その質問に、「ナザレのイエスのお通りだ」と答えてくれる人がいました。
この時に初めて主イエスが来られることを彼らは知りました。たぶん彼ら盲人は、人通りの一番多い場所を見計らって座っていましたから、目が見えない分、通りを行き来する人々の話し声、また、さまざまな話が、耳を通してたくさん届いて来ます。そうした情報の中に、病を癒し、盲人の眼を開く奇跡をなさってこられた、イエスという男の噂話も聞いたことでしょう。
その主イエスが自分たちの前を通り過ぎる群衆の中におられるということを知った途端に、居ても立ってもいられなくなって道端から立ち上がり、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだのです。
人々はその彼らを叱りつけ黙らせようとします。本来の居場所である「道端」に引きずり戻そうとします。でも「勇気を出すとするならば、今、この時しかない」と彼らは思ったのでしょう。体の中のありったけの勇気と力を振り絞り、どこにいるとも分からない主イエスというお方めがけて「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫び続けながら歩き始めたのです。そして、とうとうその求め、訴えが主イエスに届きました。
「イエスは立ち止まり、二人を呼んで、『何をしてほしいのか。』と言われた」と聖書に書かれています。

Ⅲ.何をしてほしいのか?

私は、この「何をして欲しいのか」という主イエスの問いかけは本当に大事だと思います。もし主イエスからそう問われたとしたらどう答えるでしょう。考えてみたいと思うのです。
彼らにとっての、叫び訴えることは、私たちにとっては、祈り求めることと同じです。私たちは祈りの中で何を求めているのでしょうか。本音の部分の祈りって何でしょう。
この出来事の前、主イエスは弟子たちを呼び集め十字架での贖いの死についてお話しなさいました。その受難の予告と、この盲人の癒しの間に挟まれるように紹介されている出来事があります。それはヤコブとヨハネが母親と共に密かに主イエスにお願いにやってきたことです。
その彼らに向かって主が語った言葉と、必死になって「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫び求めた盲人たちに対して投げかけた問いが全く同じ「何が望みか/何をして欲しいのか」(21節/32節)という言葉なのです。
その時、母親が求めたことは息子たちが「偉くなること」、「出世すること」でした。それも他の10人の弟子たちを差し置いて息子たちだけが偉くなることです。これに対して主イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」とお答えになりました。
そして「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」と語られたのです。
私たちは、「何をしてほしいのか」と主イエスから訊かれたら何と答えるでしょう。「偉くなることです」と出世を求めるでしょうか。あるいはお金が儲かるとか、私たちの全ての願いが叶って幸せになるとか。問題は、そうしたことに主イエスが答えてくださるかどうか、ということです。
ヤコブとヨハネの母親が「主イエスが王さまになられる時に、右に左においてください」ということをずっと祈ったとしてもそれは叶わないことでした。でも、その後、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」(マタイ20:26-28)という、主イエスの御心に触れ、その御心の中で願う時に、主は私たちの祈りに応えてくださるのです。
もう一度、今日の聖書の箇所に戻りたいと思います。この盲人たちは主イエスの「何をしてほしいのか」という問いかけに対して「主よ、目を開けていただきたいのです」とはっきりと答えました。それに対して主イエスはどうなさったのでしょうか。「イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。」とあります。その結果、「盲人たちはすぐに見えるようになり、イエスに従」いました。
ルカ福音書では、「これを見た民衆は、こぞって神を賛美した」(ルカ18:43)と、その時の周囲の様子も記録に残されています。
ここで注意したいのですが、道端に居た彼らが、見えるようになった結果、道路の真ん中に出て行った。つまり、この時代のいわゆる「普通の人」の生活が出来るようになった、ということではなく、また喜び躍り上がって家に帰り元の生活に戻ったというのでもありません。そうではなく、「イエスに従った」のです。ともすると 私たちは、救いによって、道端から道のど真ん中を、それも胸を張って歩くような人生が得られることを思い描くかもしれません。でも神さまの救いとは、道の中心、中央に向かって豊かになり偉くなっていくのではなく、あくまでも主イエスに従う歩みなのです。

Ⅳ.解放としての救い

ある時、主イエスは、「メシアのしるし」について次のように御語りになりました。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」(マタイ11:5)
見えなかった者が見えるようになる。立てなかった者が立って歩み、貧しい者が福音を聞かせられる、というのです。「見えなかった人が見える」というのは、それは「覚醒」と言い換えても良いかもしれません。また、「立てなかった人が立って歩く」というのは「自立、主体性の回復」ということでしょう。
そして「貧しい人は・・・」とは、奴隷、抑圧されている者たちに福音が聞かされる。すなわち「解放が宣言される」ということです。
つまり、2人の盲人の「見えるようになることです」という願いは、まさに主の御心通り、聖書でいうところの「人間の回復/神の像の回復」ということでしょう。
マルコ福音書10章を見ますと、この2人の内の1人はバルティマイという名の人でした。それまでの彼は、他人に手を引かれて歩き、頭を下げて物乞いをし、それこそ道端に押しやられていた厄介者や無資格者のように扱われていましたが、今や自分からイエスに従っていく、実に堂々とした人物へと解放されて行ったのです。
主体的な自由人、それも「自分だけ、私だけ」という世界ではない、主イエスの福音に応答したバルティマイも、そしてもう1人の盲人も、「わたしたちを憐れんでください」(31節)と、「自分1人ではない、私たちも共に」という連帯の祈り、「主の祈り」の世界です。そのような意味で、人間らしく、バルティマイらしく、本当の自分へと解放されていったのです。そのようにして自分たちが変えられていった。いや、本来の自分たちを回復していただいた。それがイエスというお方との出会いにおいてなされた奇跡なのです。
主イエスはそのようなお方として、私たちと出会ってくださるのです。それが今日のメッセージです。お祈りしましょう。

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主日共同の礼拝説教

聖霊の息吹を受けて

 

2019年3月3日
松本雅弘牧師

使徒言行録2章22~41節・エフェソの信徒への手紙1章3~14節

Ⅰ.ペトロの説教

ペンテコステの日に説教した後、ペトロは聴衆に向かって悔い改めを迫りました。悔い改めとは神に向かって生き方の向きを変えることです。主イエスに倣うことです。そしてもう1つのこと、それは、悔い改めのしるしとして洗礼を受けた者に与えられる聖霊についてです。
今日はエフェソ書1章から、聖霊が与えられたことの恵みについて御言葉に聴いていきたいと思います。

Ⅱ.三位一体の神の働きにおける聖霊の働き

エフェソの信徒への手紙の1章3節から14節は、元々のギリシャ語では、ひとつながりの長い文で綴られているのです。
そして、その中心となる言葉が、「ほめたたえられますように」という言葉です。
つまり、日本語で11節にわたる、長い一文全体が「ほめたたえられますように」という三位一体の神への賛美の言葉なのです。
あの2千年前のペンテコステ以降、「クリスチャン1人ひとりが、そして私たち教会が、聖霊を宿す神殿となった」、このことは、これまでに何度も何度もお話してきました。
パウロは、この恵みの現実の中にあなたたちは置かれているのですよ、とエフェソの兄弟姉妹の心に、そして私たちの心に訴え、思い起こさせ、「ほめたたえられますように」と、神を賛美しているのです。

Ⅲ.神との交わりに生きる人間

考えてみれば聖霊が与えられているということは大変な現実なのではないでしょうか。
この点についてパウロは、「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」(エフェソ1:13)と語り、聖霊と御言葉の関係について説明しています。
ペンテコステ当日、ペトロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(使徒2:38)と語りましたが、そう語った約束が、今、「あなたがたの上にもまた」実現しているのですよ、と言う意味を込めて、パウロは「あなたがたもまた」と記すわけです。13節ではさらに、私たちがクリスチャンとなったのは、まず「真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じた結果なのだ」と語られています。
その結果、聖霊の証印を押された私たちは、さらに真理の言葉である御言葉、私たちに当てはめるならば、聖書の御言葉に親しみながら、クリスチャンとして成長させられていくのだというのです。
創世記を見ますと、本来、人間は神と交わる者として造られました。神との交わりに生きる時、はじめて人間らしく生きることができる者として造られたのが人間だと教えられています。
しかし人間は罪により、神との関係が断絶してしまったがために神と交わる能力が眠った状態のままであるわけなのです。では眠った状態の霊を覚ますには何が必要なのでしょうか。それが、パウロが言う「真理の言葉」、すなわち「救いをもたらす福音」(13節)を聴くということ。神の語りかけを聞き続けることなのです。
私の名前は、「雅弘」と申しますが、小さい頃から「雅弘、雅弘」と呼ばれて育ってきました。そう呼ばれ続ける中で、〈太郎でも、一郎でもない、雅弘である〉という風に人格が形成されていきました。マルコによる福音書5章に、レギオンを宿し、墓場を住処としていた男とイエスさまとの出会いの話が出てきます。
主イエスは、墓場を住処とし自分で自分を傷つけ血だらけになっている男と出会われた時、彼に向かって「名は何というのか」(9節)と尋ねられたのです。
ところが彼は、それに応えることが出来ませんでした。「名はレギオン。大勢だからです」と言ったのです。「レギオン」というのは「ローマ軍の五千人規模の軍団」を指す言葉で、「たくさん」「大勢」という意味です。
彼は自分にしか与えられていない《固有の名/本当の名》、言い換えれば《自分が一体誰なのか》がわからなくなっていたのです。主イエスに「あなたの本当の名前は何ですか」と問われて初めて、自分を取り戻すスタート地点に立つことが出来ました。
マルコ福音書5章を見ていくと、あれだけ村の人々に手を焼かせ、恐怖に陥れた、その彼が、主イエスと出会ったその結果について、「レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座ってい」(15節)た、そして主イエスにお供したい、と申し出たと伝えています。
元々のギリシャ語の言葉は違っていますが、あの放蕩息子が本心に立ち返って、父の家に帰って行った時の魂の状態、心の状態がここにあるのです。
黙示録2章17節に、「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている。」とありますが、私自身の本当の姿、私の本当の名、恵みの名前をご存じの方は、この私をこのようにお造りになった神さまです。
私自身が統合され、〈ああ、自分は自分でよかったんだ〉と思えるのは、私を造られた神を知り、そのお方との親しい交わりを通してでしかないのです。神がこの者にお与えになっている恵みの名で、この私を呼んでくださる。聖書を通し語りかけてくださる、その御声を聞き続けて行く時にはじめて、私たちは自分というものをはっきりと掴むことができるのです。私にしか与えられていない、その恵みの名前を喜びの内に生きていく。そのようにして、今まで眠っていたものが甦り、次第に神さまへの信頼と愛の中に私たちは生き返っていくのです。

Ⅳ.約束の聖霊が与えられていることの尊さ

エフェソ書に戻ります。13節の後半に「約束された聖霊で証印を押されたのです。」と書かれています。
第1に「証印」とは英語の聖書では「ブランド」と訳される言葉ですが、家畜の持ち主をあらわす焼印、しるしのことです。
ある時、主イエスは、「皇帝に、税金を納めるべきでしょうか。納めてはならないのでしょうか」(マルコ12:14)と質問を受けたことがありました。そうしますと、そこにあった銀貨にカイザル/皇帝の銘が刻まれていることを確認した後、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(17節)とおっしゃったのです。
随分前ですが、田川健三という聖書学者が『イエスという男』という衝撃的な書物を書き、とても話題になりました。そのなかで田川はこの箇所を解説しているのですが、それを読んだ時、心の中でストンと落ちる経験をしたことを思い出します。
田川曰く、私たち人間は、神のかたちに似せて造られている存在である。であるから「神のかたち」、それは「神の銘」が刻まれているということだ。それが人間だ。だから、あなたは、既に神の銘が刻まれているのだから、もはや自分自身のものではなく神のものなのだから、神に自らを返すように、捧げるようにと語っていると解釈していました。
なるほど、と思わされたことです。パウロはここで、私たちは「聖霊のブランド」が押され、実質的にも神のものだと語るのです。
主イエスが洗礼を受けられた後に、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」と天から声がしましたが、私たちは安心して、私は神さまのものとされた、と告白してよいのです。
生存競争を勝ち抜くようにして生きていくのではありません。むしろ、神さまによって生かされていくのです。神さまの、「生きよ! 聖霊を受けよ!」という御言葉に励まされて、生きることが許されているのです。
このことの関連で、14節に「御国を受け継ぐための保証」という言葉がでてきます。
「保証」という言葉、これはギリシャ語で、「アラボーン」という当時の法律用語です。意味は「手付金」ということです。
ご存知のように、「手付金」を払ったら、契約が成立し、その全てが自分のものとなる。従って、「手付金を支払う」ということはとっても重要な行為なのです。
私たちは聖霊をいただいている。それは御国を受け継ぐ「保証/手付け」であり、その手付が払われたわけですから、その結果、私たちは御国、神の国を受け継ぐ者とされた、言い換えれば、聖霊の働きの中で神の国にふさわしい者とされたという保証です。このような素晴らしい聖霊が私たちに与えられているのです。
最後に、もう一度、ペトロの招きの言葉に耳を傾けたいと思います。「ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもにも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。』」(使徒2:38)
聖霊をいただいていることがいかに恵みなのか、その聖霊の息吹を一杯に受け、感謝しながら歩む1週間でありたいと願います。
お祈りします。