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主日共同の礼拝説教

大切なあなたへー水より大切なもの

和田一郎副牧師
2019年4月28日
ヨハネ福音書4章1-30節

1、来る日も来る日も

4月の最後の日曜日、新年度になってやっと新しい生活に慣れてきたと思っている人も、今度はゴールデンウィークです。今年は10連休という人もいるそうですね。そのような中で、今日みなさんは「命の水」を汲みに来たのではないでしょうか。世の中の人は、楽しい所に行くようです、そういう人がほとんどです。その一方で、あえてこの礼拝に来たというのは、意味があるのではないでしょうか。
昔、ユダヤにサマリアという地域がありました。ユダヤとサマリアは隣り合っていましたが、とても仲の悪い関係でした。ユダヤ人は、サマリア人を嫌っていたのです。しかし、この日ユダヤ人のイエス様は、あえてサマリアの町を通って旅をされました。正午ごろのことです。ユダヤの正午ごろは日差しが強くてとても暑い時間です。イエス様はそのサマリアの町はずれにある、井戸に座っていました。
そこへサマリアの女がやって来たのです。女はこんな暑い時間に水を汲みに来ました。実はこの女は、来る日も来る日も、このような時間に水を汲みに来ていました。それは人に会いたくなかったからです。もっと涼しい朝の時間は、他の人も水を汲みに来ますから井戸端で会話も生まれます。しかし、人には会いたくなかった。人目をはばかるような生き方をしてきたのです。このサマリアの女は5人の男の人と結婚していましたが、長続きせず、今一緒にいる男性も夫ではない、同棲しているだけでした。
「友達もいない」いや「友達はいらない」、自分には人付き合いなど必要ない。そうしている方が楽だと、そのような思いで生きていました。

2、出会い

水を汲みに来たその井戸に、ユダヤ人の男が座っていました。「自分たちを嫌っているユダヤ人、自分には関係ない」と、女が井戸の水を汲もうとしていると、なんとその男が話しかけてきました「水を飲ませてください」。あり得ないことでした。ユダヤ人がサマリア人に頼み事をするなんて。それに、男が女に、道端で声をかけるなんて、とんでもないという価値観が当時はあったのです。女は「どうして、ユダヤ人のあなたが、頼むのですか」と言いました。イエス様は「あなたが、私を何者なのか分かっていたら、あなたの方から私に頼み、私はあなたに、生きた水を与えたことであろう」と、不思議なことを言いました。「私に水を飲ませて欲しいと言ったのに、この人は水を与えるだって?」女には意味が分りません。しかし、イエス様は汲んでは無くなる水ではない、永遠の命に至る生きた水があると言ったのです。女は何かを感じました。さっきは「ユダヤ人のあなた」と言っていたのに、今度は「主よ」と呼びかけます。「主よ、その水をください」と。するとイエス様は水の話から話題を変えました。この女が人目をはばかって生きていること、結婚と離婚を繰り返してきた生活を見事に言い当てました。驚いたこの女は、今度は「あなたは預言者ですね」と目を見張って言います。預言者というのは将来を予告する人ではなくて、神様の言葉を語り神様に仕える人のことです。
女は、来る日も来る日も、ただ水を汲みに来ていました。人付き合いなどいらないから、生きていくために必要な物だけあればいい。信仰なんて、もうとっくに忘れてしまっていました。その忘れてしまっていた信仰が、イエス様とのやり取りの中で少しずつ湧き起こってきたのです。この人は神様の御言葉を語る人なのだろうか。女は「礼拝」という、忘れかけていた言葉が口からでました。「わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしていました」。そこでイエス様は、礼拝について語ります。本当の礼拝、真の礼拝をする時が来た。霊なる神様、真理の神様は人が作った神殿の中にだけいるのではないと言われました。そうです、霊と真理をもって礼拝する人を求めている神様は、ユダヤ人もサマリア人も、すべての人が真の礼拝ができるように、一人の人をこの地上に遣わしたのです。この女は「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが、いつかこの地上に来ることを知っています。その方は、わたしの一切のことを知らせてくれる」と言いました。つまり、自分は人目をはばかるような生き方をしてきたが、新しい命を生きるために必要な一切のことを教えてくれる、メシアと呼ばれる人が来られることを知っていますと、女は言ったのです。イエス様は「それは、あなたと話をしている、このわたしである」と言われました。
この女性は、水がめをそこに置いたまま町に戻って、人々に救い主であるメシアかもしれない人と出会ったと伝えたのです。驚くべきことです。人目をはばかって生きていた人が、人々に自分の言葉を信じてもらうために、必死になって伝えたのでしょう。町の人々は女の言葉を信じました。そして、イエス様のもとに来て、その言葉を聞き、サマリアの町に救いが広がりました。
そもそもこの女は水を汲みにきていました。しかし、もうそんなことはどうでもよくなったのです。水より大切な、信じるものが見つかった。イエス様との出会いがこの人の人生を変えたのです。イエス様の言葉がこの人を変えました。「ユダヤ人のあなた」と言っていた女が、「先生」「預言者」最後は「キリスト メシア」と呼び方が変わっていったように、イエス様の言葉は人の人生を変える力があります。イエス様の言葉が命の水です。イエス様の御言葉こそ、渇くことのない永遠の命の水です。

3、誰だって何かを崇拝している

私たちは、いつも井戸端にいるのかも知れません。井戸端で、永遠の命の水を求めるのか、それとも目先の飲み水だけを求めるのか。人はそれを選ぶことができます。人生においても、どちらかを選ぶことができます。いや、どちらかを選ぶことになります。
イエス様はおっしゃいました。「だれも、二人の主人に仕えることはできない」(マタイ福音書6章24節)。
日本人は神様の存在を信じない、無神論者がほとんどだと言われています。仏教を伝統として関わりを持っているが、実は無神論で神などいない、崇拝するものなどないと言われています。しかし、それは本当でしょうか。イエス様がおっしゃった「だれも、二人の主人に仕えることはできない」という言葉の真意は、逆に言えば、人は何かに仕えているということではないでしょうか。かならず何かを崇拝している、という事です。誰だって何かを崇拝しています。お金、名誉、美しさ、仕事であったり、恋愛、そして何よりも「自分」というものを崇拝しています。自分というものを第一にしています。普通に生きてきた人はそうです。生まれたままで、人に揉まれて、ただ自然に生きてきた人は自分が中心です。自分ファーストで生きています。
誰だって何かを崇拝している。なぜかというと、神様がそのように、人間を創造されたからです。なにかを崇拝する者として人を造られたからです。ですから問題は「何を崇拝すべきか」ということです。みなさんは、何をファーストにしているでしょうか。
私たち人間の性質で油断ならないのは、自分の中の「邪悪」といったものではありません。無意識というものが崇拝しているから厄介なのです。無意識のうちにお金や、名誉や自分がファーストになっています。来る日も来る日も水を汲むように、少しずつ何かへのファーストが心に深く沁み込んでいきます。それを守るために恐怖や屈辱、競争に勝たなければなりません。それらに勝つことができなかった人は、人目をはばかって生きるしか自分を守る術がありません。これは本当のことです。あのサマリアの女のように生きている人が、今の世の中にどれだけ沢山いるでしょうか。
「だれも、二人の主人に仕えることはできない」と、井戸端で私たちは考えるのです。どちらの生き方を選ぶのか。あの井戸端で話しかけるイエス様の言葉を信じるか、聞き流して帰っていくのか。

4、神ファーストの日々

サマリアの女は、水おけを置いて、自分の生きる道を選びました。そして生きる目的が変わりました。この女の人は、翌日、水を汲みに来たでしょうか。もちろん汲みに来たでしょう。来る日も来る日も日常は続いていきます。しかし、まったくその生き方は変わりました。この町の人々と、第一のものを第一として、生活の中心に礼拝を置く生き方を見つけることができたのです。
平凡な日々の中で、何をファーストに生きるのか、人の人生はそれで決まるのです。
このサマリアでの出来事の最後に町の人たちが言います。
「わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に、世の救い主であると分かったからです」
(ヨハネ福音書4章42節)。
聖書の御言葉を聞いて、本当の救い主を礼拝していきましょう。お祈りをしましょう。

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イースター礼拝 主日共同の礼拝説教

復活の祝福―エマオのキリスト

 

松本雅弘牧師
2019年4月21日
イースター礼拝
列王記上19章1~13節 ルカによる福音書24章13~32節

Ⅰ.「エマオへの道」

“エマオに向かう/足の重い二人の弟子に/復活のイエスは加わった/それとは知れず/互いに/話はアネモネの花のように心にはずみ/虫ばまれた丸木橋の上では/イエスが一番先に渡り/また三人で並んで旅をいった”
(島崎光正作 「エマオ途上」)
高座教会にも来られたことのあるクリスチャン詩人、島崎光正の「エマオ途上」と題する詩です。アネモネは復活の命の象徴であると言われています。そのアネモネと対照的に「虫ばまれた丸木橋」が「死の象徴」として出て来ます。その橋を主イエスが先頭に行かれる。だから続く者たちは丸木橋から落ちることはありません。
島崎はイエスに続く者たちを、冒頭で「足の重い二人の弟子」と表現しています。そう言えば教会に来られた島崎先生は、足に障がいを抱えていて、講壇にのぼる時、重そうに足を引きずっておられたことを思い出します。島崎光正は死を超えるいのちの旅を、なお主と共に歩む復活の信仰の喜びとうたいました。詩ばかりではありません。多くの画家がこの場面を描いています。

Ⅱ.暗い顔をした2人の弟子たち

さて物語の語り出しに注目しましょう。「ふたりの弟子」が登場します。「弟子」と聞けばペトロ、ヨハネ、ヤコブといった12弟子を思い浮かべます。でも福音書記者のルカは、ちがった見方をしているようです。続編の使徒言行録で、ルカは弟子たちを一般的なクリスチャンを指す言葉として使っているからです。
弟子とは受洗し教会員となった者。特別な人たちではなく私たちのことです。そう考えるとこの「ふたり」も私たちと同じ普通のクリスチャンでしょう。そのうちの1人がクレオパという名の弟子でした。クレオパの名が出て来るのは聖書でここだけです。どんな人だったのか、昔から様々に想像されてきました。その1つに、クレオパともう1人の弟子は夫婦だったのではないか、との解釈があります。
ヨハネ福音書に、十字架の傍にいた人々の名前が出て来ますが、そこに「クロパの妻マリア」とあります。この「クロパ」と「クレオパ」が同一人物だったのではないかと昔から言われてきました。
エルサレムからエマオに向けて歩いている。エマオの村に着くとこの2人は同じ家に入り、主イエスに、お泊りになるようにと願っています。同じ家に住んでいる男女と言えば夫婦である可能性は高いのです。ただ、2人の弟子を男女として描いた絵など見たことはありません。
以前、ある長老が、「自分たち夫婦は、よく夫婦喧嘩をする。口論をする。それは決まって教会のこと。どちらか一方がクリスチャンでも教会員でもなければ、こんなに喧嘩することはなかったと思うことがよくあるんです」と嬉しそうに話してくださったことを思い出します。
教会のことを真剣に考えると、やはり熱くなります。イエスさまのことを熱心に思うあまり議論にもなる。そばにいる者からしたら夫婦喧嘩のように見えるかもしれない。でもご安心ください。そうではないのです。
2人の弟子たちもそうでした。エマオに住んでいた彼らは、不思議な導きで主イエスを知った。主イエスの言葉に心惹かれるようになった。そして今年の過越祭、主イエスにお目にかかるために都に行ったのです。
ところが思いがけない出来事に遭遇します。十字架です。ただそれで終わりません。3日後の早朝、仲間の婦人から「主は生きておられる」という知らせを聞かされた。何が何だか訳が分からない。そうした混乱の中、エマオに戻る途中だったのです。「二人は暗い顔」(17節)をしています。顔の表情は心のバロメーターです。
4月になって始めた新生活も、3週間が経過した今、〈こんなはずでは…〉と立ち尽くす時があるかもしれません。顔は暗くなります。
先週の月曜日、ノートルダム大聖堂が火事になり、何度も流されたニュースの映像を見ながら不思議な失望感を味わい暗い心で過ごしました。また、親しいはずの友からがっかりするような言葉を聞かされたりすれば、私たちの顔は暗くなるのです。
この時の2人もそうでした。主イエスが十字架で殺されたからでしょうか。いや理由はもっと複雑です。彼らの顔を暗くさせる直接の理由はもっと別のところにありました。仲間の婦人たちが持ち帰って語った言葉、「イエスは生きておられる」(23節)という言葉を聞いたからなのです。
不思議です。そして何と皮肉なことでしょう。彼らは主の弟子です。その彼らが主イエスの甦りの知らせ、「イエスは生きておられる」と聞いて喜び溢れたのではなく、逆に暗い顔になったのです。こんなことって、あるのでしょうか。でも私は思いました。これが現実なのではないだろうかと。私たちも主イエスの復活を聞いています。そう信じているはず、いや信じています。しかしそれが喜びに繋がっていない現実がある。知っていても表情は暗い。
さらに滑稽なことが起こります。暗い顔をして立ち止まったクレオパが、「あなただけは、ご存知なかったのですか」と、なかば呆れ顔になり、主に向かって尋ねるのです。
確かに誰もが知っていたことです。過越祭には数えきれない人々がエルサレムに来ていました。今の時代とは違いますから、巡礼者が出来事の一部始終把握するのは不可能です。
そうだとしても、この時だけは違うのです。それは祭の最中、それも都のど真ん中で起こった出来事なのですから。イエスの死、その3日後、墓が空っぽになったという事件。そこに居た誰もが聞かされたことです。目撃者もいました。そうしたことを何も知らない、この人は!
ですから呆れて、「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」(17節)と、言ったのです。
でも、どうでしょう。このやり取りの中で気づかされることがあるのです。それは、私が知っていることを主イエスが知らない訳がないということ。本当の意味で知っているのは私の方ではなく、主なのです。

Ⅲ.真実をご存じの主イエス・キリスト

いよいよここから幸いな時間がやって来ます。「聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(27節)のです。2人の弟子、あるいは夫婦だったかもしれない。都からエマオに行く途中話し続け、夫婦で議論していました。2人の心は、主イエスの死、主イエスの甦りの話題で占領されてはいたのでしょうが、皮肉なことに彼らの心には、生ける主ご自身、その復活の命はなかったのです。
私たちも知恵に基づいて聖書を論じることがあります。しかし、それがどんなに熱心で興味深い話であっても喜びが起こらないことがあるのです。それは、その議論の中に主イエスがおられないからです。
私たちは知らされます。ルカが伝えようとした復活とは、主が現れてくださるということ。主が生きて、今も私たちを訪れ続けてくださることです。時には叱り、御言葉を悟らせてくださる主イエスさまです。

Ⅳ.復活の祝福

こうしてエマオにやって来ました。そこで2人は主イエスを引き止め、一緒に食事をすることを願いました。それに応えてくださり、主イエスはパンを取り賛美の祈りを唱え、それを分け始めます。食卓での一連のこの行為は当時、その家の主人、本来クレオパがすべきことでした。でも、どういうわけか主がすべてしてしまわれたのです。
もう1人の弟子がクレオパの妻であったなら、彼女が大急ぎで用意した食卓でしたが、主は彼女に対しても、「ここに座りなさい。この食卓は私があなたがたをもてなすのだから」とおっしゃるのです。「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(31節)のです。そうです。主イエスの姿が見えなくなった。でもそれだけです。主イエスは彼らと共におられたのです。
主イエスが彼らに現われてくださった、その証拠に2人の弟子、この夫婦はすぐに立ちあがり、12キロの道のりを引き返しています。すでに夜なのに、疲れていたのに。休むこともせずエルサレムに戻って行きます。光の中を、暗い顔をして帰って来た彼らが、今度は真っ暗な夜道を喜びに溢れ、光り輝く顔をしながら急いでいるのです。
2014年に礼拝堂をリニューアルした時、「エマオへの道」という名の廊下を作りました。この日、弟子たちは「エマオの道」を歩き、食卓でパンが裂かれた時に主イエスだと分かった。ですから私たちも毎週、「エマオへの道」を通り、復活の主にお会いする思いで礼拝堂に入り、主が備えてくださる食卓を囲む交わりに導かれていくのです。
歴史の教会は聖餐を祝うごとに、この時の出来事を思い起こしてきました。目で見ることは出来ません。でも「イエスは生きておられる」のです! だからこそ彼らは明るく輝く顔で暗い夜道を引き返せたのです。
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽せないすばらしい喜びに満ちあふれています。」 (Ⅰペトロ1:8)
お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

あなたは大切な人です―貝を分かつ(貧しい)人は幸い

2019年4月14日
松本雅弘牧師
イザヤ書43章4節 マタイによる福音書5章1~12節

Ⅰ.エビと日本人

子どもの頃、「大好物は何?」と訊かれると、決まって「エビです」と答えました。でも、食べ過ぎてしまって、エビ・アレルギーになり、しばらく食べることが出来ない時期もありました。
実は、世界で一番たくさんのエビを食べているのは、日本だそうです。かつては、アジアの人々は小さな船で、小さな網で自分たちの食べる量だけのエビを獲っていましたが、いつか、日本のトロール船がやってきて大きな船から、巨大で頑丈な網を海の底に垂らして根こそぎ獲っていくようになったそうです。
量が少なく値段が高くなったエビは、アジアの人々の食卓にはのらなくなってしまいました。最近では、海のエビが取れなくなったのでお金持ちがマングローブの林を切り倒し、池を作り大量のエビを養殖しているそうです。
育ったところで、日本の人間用に、また小さく不ぞろいなものは日本のペット用に缶詰にされてみんな日本に売られていくのだそうです。
ですから、アジアの人々の食卓に、エビがのることはなく、そればかりか、洪水や高波を防いでくれたマングローブの林を切り倒してしまったために、そこに住む人々は洪水の多発によって大変な被害を受けているのだそうです。

Ⅱ.イエスさまの価値基準

今日の聖書は有名な箇所です。ここに「幸いである」という言い回しが何度も出て来ますが、その1つひとつの状態は必ずしも幸いとは思えません。むしろ、私たちの価値基準からしたら不幸な状態です。ですから、「心の貧しい人々、悲しむ人々が幸いである」ではなく、「豊かな人々、喜んでいる人々が幸いである」と言い換えた方がしっくりと来るのではないでしょうか。
私たち自身もそのような基準のなかに生きているのだと思います。そうした私たちって、幸せなのでしょうか?
ある青年が、友人20人に「おまえ、幸せ?」と訊いたところ、18人が「幸せ」って答えたそうです。この若者は「嬉しかった」と言っています。
ただ、「幸せじゃない」と答えた2人に理由を尋ねると、1人はバイクで事故を起こし、自分も怪我をしたからと答え、もう1人は、3カ月の内に2度も女の子に振られた、だから「幸せじゃない」と答えたそうです。私たちはどんな時に幸せって感じるでしょう?
今日の聖書個所、新共同訳聖書では小見出しに「幸い」とのタイトルが付いています。
ある人が、この「幸い」という文字をよく見ると「土」という漢字と通貨の「Yen」をあらわす記号「\」が重なり合っているように見えると言った言葉を思い出しました。
「土」とは土地のことです。「\」は勿論お金のこと。確かに一般の価値観では、どれだけ多くの土地(不動産)を持ち、どれだけ多くの\(お金)を稼げるかで、その値打ちが決まるということがあります。

Ⅲ.「キミが幸せになると、ボクも嬉しい」

転職情報誌のテレビコマーシャルに「キミが幸せになっても、だれも困らない」というキャッチコピーがありました。確かにそうです。
でも「キミが幸せになると、みんな嬉しい」という言葉だったとしたら、どうだろうかと思います。少し嘘っぽい感じがするでしょうか? というのは、他人の幸せを皆で喜ぶことの難しさを誰もが知っているからです。勿論、「キミが不幸になると、私は幸せだ」などと言われると、身もふたもありませんので、そんなことは誰も言いません。
このように、なかなか誰も他人のことにかまっていられないという状況があるのです。ですから、「キミが幸せになっても、だれも困らない」というのが、正に現実なのかもしれません。

Ⅳ.貝を分かつ人は幸い

イエスさまが言っている幸せ、今日の聖書に出てくる「幸い」というのは、少し様子が違います。
イエスさまは、「・・・人々は、幸いである」と繰り返し言われます。その「・・・という人々」とは「心の貧しい人」であり「悲しむ人」であり、「柔和な人」であり「義に飢え渇く人」であり、「憐れみ深い人」であり、「心の清い人」であり、「平和を実現する人」です。
もしかしたら、一般の基準からしたら、とくに幸せでも何でもない人たちかもしれません。あるいは私たちが考える幸せの条件とは違うものでしょう。でも、主イエスは、そういう人々が幸いだ、と言われるのです。
これら1つひとつを見ていくと、たとえば「心の貧しい人」とは、心の中に足りないものがあると感じている人という意味です。そして、それが何で幸せかと言えば、神さまが満たしてくださる、ということだからです。
「心の貧しい」とは、言い換えれば、「悲しむ人」であり、自分に力などないことを自覚しているが故に威張らない「柔和な人」であったりします。
そして、そういう人が何故幸せかと言えば、「そうした貧しさや、悲しみなどを通して、神さまにしていただける、神さまに触れていただける状態になるから幸せだ」と聖書は教えているのです。
私は、ニューヨークのリハビリテーション研究所の壁に書かれた、1人の患者さんが創った「病者の祈り」の詩を思い出しました。
大事を成そうとして、力を与えてほしいと神に求めたのに、
慎み深く従順であるようにと弱さを授かった
より偉大なことができるように、健康を求めたのに、
よりよきことができるようにと病弱を与えられた
幸せになろうとして富を求めたのに、
賢明であるようにと貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに、
神の前にひざまずくようにと弱さを授かった
人生を享楽しようと、あらゆるものを求めたのに、
あらゆるものを喜べるようにと生命をさずかった

求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、
心の中に言い表せない祈りはすべてかなえられた
私はあらゆる人々の中で、
最も豊かに祝福されたのだ

人生には四季があると言った人がいました。若い方たちは、春や、夏真っさかりで、ピンと来ないかもしれません。少し前の私もそうでした。でも先月還暦を迎えた途端に、目の前の景色が違って見え始めたのです。この詩に歌われている世界が現実味を帯びてくるように思います。
つまり本当の豊かさとは、1つひとつの出来事の中に、神さまの御手の働きを感じ取ることの出来る感性を持たせていただくことだと思うのです。
今日は「貝を分かつ人は幸い」という題にしました。「貝」は昔、お金として使われていました。
「貧しい」という漢字は、何か「貝を分かち合う」という風に書いた字のように読めます。主イエスは、持っている物を分かち合う時に、実は本当の幸せがやってくると教えておられるように読めるのです。
そのようにして、「豊か」という漢字を見ると、「まがった豆」と読めます。
いかがでしょう。八百屋さんに行って、曲がった形をした豆や大根と、真っ直ぐな豆や大根があればどちらを選びますか。普通は真っ直ぐの方を選ぶでしょう。
でも現実は、そう真っ直ぐなものばかりではないでしょう。ほとんどは曲がった物ばかり。でも、そこに本当の豊かさが隠されているのです。そこに豊かさや恵みを見つけることが出来るのは、本当の意味で心が豊かにされている時です。
CDを何枚も出しているミュージシャンの若者が、ある牧師と話しました。若者は涙を流し、「疲れた」とボソッと言ったそうです。フェースブックにちょっと写真やコメントを載せると、「いいね」が、50も60もあっという間につくほどの人気者です。そんな彼が、「自分は、うまく歌えていない、コンサートで成功しないと、自分が駄目なように思ってしまう」と話したのです。
その話を聞いた牧師は、主イエスの受洗の場面を彼にお話ししました。
ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた時、主が、そのお働きをする前に、すでに父なる神さまは、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたのことを喜んでいる」と言ってくださった。この出来事は、彼にも当てはまること。あなたは、神さまにとって大切な人なのだと、牧師は、彼に伝えたのです。
これは私たちにも当てはまります。神さまの瞳に映る私の姿を確認する時に、たとえ曲がった豆のように見えたとしても、神さまの瞳には、尊い豊かな者として映っているのです。
「あなたは大切な人です」。そこに本当の幸せ、本当の豊かさがあることを覚えましょう。
お祈りします

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主日共同の礼拝説教

子どもを模範として

 

2019年4月7日
松本雅弘牧師
イザヤ書11章1~9節 マタイによる福音書18章1~10節

Ⅰ.「だれがいちばん偉いのか?」

職場や学び舎で新しい出会いを経験する季節が来ました。この時期になるとほろ苦い経験を思い出します。それは受験に失敗したことです。
6年生の頃、急きょ中学受験をすることになり進学塾に通い始めました。進学塾では、しばしば「いい学校」の話を聞かされました。
聖書を読む者にとって「いい学校」は、神さまがその子のために備えられた、その子に適した学校のことですが、進学塾の基準は、他と比べ、偏差値が高い学校が「いい学校」です。偏差値によって全てが決まってしまうのです。おおげさな言い方ですが、偏差値で人間のランク付けがなされたような妙な感覚を持ち始めました。
私なりに勉強し、年が改まり試験当日を迎えました。試験会場に行きますと、誰もがみな賢そうに見え圧倒されました。すると、その中に同じ制服を着て輪になっている子どもたちがいました。金ボタンの紺の詰襟に半ズボン姿で学生帽。これまた、いかにも頭がよさそうな子どもたちばかりです。
そして、ふと校章を見ると「国立(コクリツ)」と書いてある。私は目を疑いましたが、確かに小学生でも読める「国立」の文字です。国立校は偏差値が高くて難しいと、進学塾に行くたびに叩きこまれていましたから「国立」の二文字を見た途端、〈国立校の子どもたちが受験するような学校に僕が入れるわけがない〉。
受検する前から敗北宣言です。結果は見事に不合格でした。
ただ後で分かったのですが、それは「国立」と書いて「クニタチ」と読むのだと知りました。でも後の祭りです。「あれ松本? お前、私立に行くんじゃなかったの?」と近所の友だちにからかわれながら、みんなと一緒に地元の中学校に進むことになりました。生まれて初めて、社会で味わう競争をほんの少し経験したように思います。
この世界、何事にも競争、競争で明け暮れています。会社の中に競争があります。営業成績を比較される。他の会社との競争があります。そうした競争社会の中で生き残っていかなければならない。そうした競争に明け暮れし、気がついたら定年退職、映画にもなりました『終わった人』の原作者、内館牧子さんは、その続編『すぐ死ぬんだから』という題名の小説を書いて話題になっています。
「終わった人」とか「すぐ死ぬんだから」という言葉やフレーズは競争を軸とする現代社会の価値観を言い当てた言葉です。その中で内館牧子さんはそうした価値観ではやっていけない人生の現実を乗り越える新しい物語を一生懸命に紡ごうとしていました。
実は聖書も、いや聖書こそ、「終わった人」とか「すぐ死ぬんだから」に、不思議と納得させられる、すでに私たちの心に刷り込まれている物語に代わる、本来的な希望の物語を説いています。
その物語によれば人間の価値はその人がやってきたこと、持ち物、経歴、あるいはどこまで到達したかによって決まるのではなく、すでに神が私たちをご覧になって微笑んでおられる。「あなたは価高く貴く/わたしはあなたを愛し」ている(イザヤ43:4)という揺るがない愛の神さまに支えられて生きることができる。そこにこそ生きる意味や喜びを見いだすことができる、という物語です.
今日の聖書の箇所をご覧ください。私は読んで驚きました。信仰を持って生きていたはずの弟子たち、神の大いなる救いの物語に生きていたはずのキリストの弟子たちの口から、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と飛び出しました。競争に勝利した者が幸いという、この世の物語に基づいて質問しているのです。正直だなと思いました。
こうした質問の背景には、弟子たちの間に順位争いがあったということでしょう。だからこそ飛び出した質問でしょう。
弟子たちは主イエスのお話を毎日聞いていたはずです。仮に、何が大事かをわきまえて生きていたならば、競争など関係ないように思われます。でも「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と質問したのです。そして、これは今の時代に生きる私たち信仰者の内にも同じような現実があることを認めざるを得ないように思うのです。

Ⅱ.子どものようになる?

このあからさまな質問に対して主イエスは、ひとりの子どもを呼び寄せ、真ん中に立たせ、「子どもを模範としなさい」とおっしゃったのです。主が言われたことは単純です。でもよく考えると意味が難解です。
実際に子どもの世界はそう純真とも言えないように思います。時に子どもの世界はとても残酷な面があり、「いじめ」事件が後を絶ちません。場合によっては、大人以上に露骨になることがあります。
「だれがいちばん偉いの、お父さん?」という質問こそ、実は子どもたちがよくする質問でしょう。そう考えると「だれがいちばん偉いのか」という問い自体が、実はとても子どもっぽい。その子どもっぽい質問に主イエスは、「子どもを模範にしなさい」とおっしゃっている。何か不思議な問答のように感じるのです。

Ⅲ.神により頼む、子どもの姿

では、子どもの何を模範にし、何を学ぶのでしょうか。ここで主イエスは子どもという存在をどのように見ておられたのでしょうか。
教会の庭を歩いていますと、保育が終わり、お家に帰る前に、しばらく園庭で遊んでいる子どもたちを見かけます。いまは桜が満開で、穏やかな季節になっていますので、お母さんたちは「虹のへや」や、あるいは外の椅子に腰かけ、おしゃべりを楽しむ一方、子どもたちは一生懸命遊んでいます。時にひとりで遊んでいるように見える子であっても、親の姿をいつも確認しているのが子どもです。親に見守られていることを知っている時にこそ、子どもは遊びに集中できる。自由でいることができる。それが子どもです。
自分を守ってくれる存在、そのままで受けとめてくれている存在がいるということ、大人の私たちが言葉で説明する前から、子どもはそのことをわきまえているのです。
ある牧師は「子どもは親の存在の向こうに、自然に神さまを見ているのではないでしょうか」と語っていました。

Ⅳ.強烈な神の愛

もう一度、聖書に戻りますが、主イエスは続けて語られます。「自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」ここで主イエスは、「この子どものようになる」の前に「自分を低くして」とお語りになっています。
私たち日本人は「自分を低くする」のが得意だと言われます。それも必ずしも謙遜から出た態度ではない。心の中で、本当は自分の方が上だと思っていても「たいしたことはないです」とつい言ってしまいます。自慢したりすれば反感を買うので「謙遜に」振る舞う。すると周りの人が持ち上げてくれる。そうした処世術を主イエスはおっしゃっているのでしょうか。
聖書が教える謙遜とは、自分を大きく見せたり、逆に自分を卑下したりするのではなく、等身大の自分として生きる姿勢を意味します。私たちが謙遜になれるのは、あるがままの姿で神に愛されていることを実感できるときです。そのとき初めて心の自由を経験することができるのです。
聖書はそれを謙遜と呼びます。ここで主イエスが「自分を低くして子どものようになる」とは、まさに競争によって自分を証明する、その人生ゲームから「一抜けた」と宣言し、神の前に生きる者の姿でしょう。
私たちの目はいつも「大きな者」に向いてしまいます。逆に価値がないように見える「小さな存在」はなかなか視野に入って来ません。知らず知らずのうちに軽んじ、躓かせていることも多いかもしれません。
ですから、主イエスは強烈な言葉で警告を発せられます。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。…もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になって命にあずかる方がよい。」
でもある牧師は語っていました。こうした激しい言葉は裏を返せば、それほどまでに「小さな者」を愛されるという主の愛情表現なのではないか。同様に父なる神さまもそのような愛に満ちたお方であることを示しているのではないか、と。
「小さな者」1人ひとりに天使がついている。「小さな者」を守るようにして、天の父の御顔を仰いでいる。いわゆる「守護天使」ですが、新約聖書には、こうした守護天使が登場するのは稀です。主イエスこそが、そのように1人ひとりと共にいて守っておられるのです。
「はっきり言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」お祈りいたします。