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主日共同の礼拝説教

牧会マインド

和田一郎副牧師
2019年5月26日
出エジプト記3章11-12節/コロサイ4章15-17節

1、3つの町の教会

この手紙が送られたコロサイという町は、現在のトルコ共和国の南西部にあります。そこにはリュコス川という川が流れていて、その流域にヒエラポリスと、ラオディキア、コロサイという町が三角地帯のようになって点在していました。そこにあった教会というのは、いずれも自分の家を開放して、礼拝をしている教会であったようです。コロサイ教会も立派な建物があるわけではなくて、フィレモンという人の家で礼拝していましたし、ラオディキアの教会は今日の聖書箇所にあるようにニンファという人の家で行われていました。教会が会堂のようなものをもつのは3世紀に入ってからのことです。この手紙が書かれた紀元1世紀では、信徒が自分の家を開放して、そこで集まり、礼拝や祈祷会をもっていました。
たとえば、パウロと一緒にテント作りをしながら宣教の働きをしたアキラとプリスカの夫婦も、ローマやエフェソの町で、自分たちの家を開放して集会をもっていました。さらにフィリピの町はリディア、コリント教会はガイオという人の家で集会をもち、それを教会と呼んでいました。ですから、とても家族的な家の教会が地中海周辺に点在していて、パウロはその家の教会に手紙を書き送っていたのです。

2、牧会者パウロ

この手紙はパウロの晩年の手紙ですが、当時はまだ、新約聖書が存在していませんでした。当時は聖書といえば旧約聖書です。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書が書かれるのはパウロの手紙の後ですから、紀元1世紀のクリスチャンにとって、正しい福音を理解するためにパウロの書いた手紙や、パウロという存在はとても大きかったでしょう。それは知識だけではなくて、キリスト教会として、まとめる人が必要だったのです。旅をしながら福音を宣べ伝える伝道者であり、諸国に散らばるさまざまな教会の牧会者でもありました。
牧会というのは一般的には使わない言葉だと思います。羊や山羊を飼う「羊飼い」のイメージです。教会がリーダーを「羊飼い」と言い表すのは,アブラハムやモーセが羊を飼っていた経験の中からでてきたことからだと思います。そして,詩篇23編の「主は羊飼い,わたしには何も欠けることがない」という詩も、羊飼いを指導者のイメージにしています。牧会という言葉は『広辞苑』を開くと、「魂の配慮をし,信仰と生活を導くこと」と説明されていました。まさしくパウロという人は、羊飼いが、羊一匹いっぴきを見守るように、教会の人々の魂の配慮をし,信仰と生活を導く牧会者でした。
たとえば、パウロは町から町へと移動しながら宣教していたのですが、エフェソという町では、長く滞在することがありました。それだけ時間をかけて丁寧な「牧会」が必要であったのでしょう。また、問題のあったコリント教会でもしばらくの間滞在しています。さらにコリント教会を牧会しながら、パウロはまだ伝道していないローマの信徒に向けて、手紙を書いているのです。まさに伝道者でありながら、牧会者としてのパウロの姿を見ることができます。

3、牧会者としてのモーセ

同じ牧会者として、モーセに注目したいと思います。先ほど、モーセも羊飼いだったと話しました。百万人を超えるイスラエルの民をエジプトから救い出したモーセは、偉大な強いリーダーというイメージがありますが、イスラエルの民の、忠実な牧会者だったといえます。
もともとモーセはエジプトの王宮でエリート教育を受けていました。しかし、自分の立場を悪くしてしまって、エジプトから逃げて40年間、羊の世話をする羊飼いの生活をすることになります。王宮生活から、羊飼いへの転身でした。人生の谷間だったとも言えるでしょう。モーセは、そんな人生の谷間で、家畜を飼育する羊飼たちを見て学んだのです。「牧会する」ということです。荒野では熊や猛獣が、羊を狙っているので、外からの攻撃にも配慮しなければなりません、時として戦う力も必要でした。毎日毎日、羊の数を数えるのです。みんな揃っているだろうか、一匹いっぴきを触りながら傷はないか、弱っていないか、と小さなことにも目を配ったのです。明日食べる草はあるだろうか、牧草のありそうな土地はどこだろうか。小さな事に配慮し、広い視野で力強く導くのです。何十、何百もいる羊たちを力ずくで動かすことはできません。牧会者の心得(牧会マインド)の神髄が、羊飼いの働きの中にあったのです。
その後、モーセは、イスラエルの民が不平不満ばかりを言って、神様に滅ぼされそうになった時も、執り成しの祈りをしました。神様だけではなく、民衆の魂にも耳を傾ける人でした。「モーセという人は、地上のだれにもまさって謙遜であった」(民数記第12章3節)それが、神様から見たモーセの牧会者としての賜物だったのです。

4、牧会者の心

わたしが、牧会者の心というものを感じたのは、神学校に行った時でした。入学した神学校は東京基督教大学(TCU)です。TCUは全寮制の大学なのですが、問題を起こす生徒も中にはいて、途中で退学する学生もいたのです。普通の学校でしたら退学したら、そこで学校の対応は終わりです。しかし、TCUの先生は退学した学生の地元へ飛行機で行って相談にのっていると聞いて驚きました。退学した学生が所属する教会の牧師とも相談して、新しい進路を模索する道筋を相談してきたというのです。別の一件では、問題を起こした学生が、退学した後も傷ついて家に籠っているということでしたが。退学した後も2年程、先生たちはフォローしている話を聞きました。そうした状況を、寮にいる学生を集めて、退学した学生のその後の事を、報告してくださいました。そして、「どうしてこういうことをしているのかを、考えて欲しい」と先生は言われました。TCUは、教会の働きを担う人が学びにきています。わたしは、「TCUという学校は教会のような所だな、教会と同じような所だな、教会と同じように牧会しているのだな」と思いました。そこで牧会の意味が少し分ったように思いました。
問題を起こした学生は罰として退学させたのではないのです。彼の回復を願ってそうしたのです。表向きは退学は退学です。しかし、辞めさせて終わりではない。その人が正しい道へ回復することを本気で願っている。それが牧会マインドだと思いました。
その時に話をしてくださった先生が、自宅に招いてくださって食事を頂いた思い出があります。大学でありながら、教会的であり家族的でした。先生は退学した生徒の報告をしながら、わたしたちに「牧会者の心」を教えようとしたのだと思います。
コロサイの手紙に戻りますが、今日の聖書箇所では、パウロの牧会者としての配慮を見ることができます。この手紙は、コロサイ教会の課題についても書かれています。この手紙をラオディキアの教会でも読んで欲しい、そしてラオディキア教会に送った手紙も、コロサイの人達で読んで欲しいというのです。ヒエラポリスの教会も同じでしょう。近隣の教会が、お互いの課題を知り、相互に牧会ができるように、そこにもパウロの牧会マインドを見ることができます。

今の世界は、強いリーダーを求める傾向があります。イエス様の時代もそうでした。民衆は強い指導者を求め、強いリーダーに惹かれます。しかし、聖書が示す指導者のイメージは「羊飼い」です。ですから、牧会マインドをもって、持ち場持ち場に遣わされて行きたいと思うのです。モーセは100万人を超えるイスラエルの民のリーダーとなることを躊躇していました。「どうしてわたしがリーダーなのですか?わたしには無理です」と拒みました。しかし、神様が「わたしは必ずあなたと共にいる・・・わたしがあなたを遣わす」(出エジプト3章11-12)、という言葉に励まされて、数百万人に寄り添う牧会者となったのです。モーセは数百万の牧会者ですが、ちなみに、我が家は妻と息子の3人家族です。私はこの家族に牧会マインドをもって仕えたいと思います。皆さんの牧会マインドは、どこに向けられるでしょうか。
わたしたちを、いつも牧会してくださる、永遠の牧会者はイエス・キリストです。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは 羊のために命を捨てる。」ヨハネ福音書10章11節。
イエス様は、この言葉の通りに生きて、この言葉の通りに死ぬことで、羊飼いとしての使命をまっとうしてくださいました。この羊飼いに、私たちは生かされています。
そして、このよい羊飼いの大きな腕の中で、私たち自身も、イエス・キリストを鏡として、小さな羊飼いとして、続くようにと招かれています。この招きに応えていきましょう。お祈りをいたしましょう。

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命の道を歩む

松本雅弘牧師
2019年5月19日
詩編16編8~11節、コロサイ3章1~3節

Ⅰ.永遠の命とは何かと問われたら

毎年、高座教会ではイースターからペンテコステの間、すなわちキリストの復活を覚える復活節の間に「召天者記念礼拝」をささげ、召された方々のことを偲び、生と死ということを聖書からご一緒に考えながら、ご遺族をはじめ、私ども一人一人が神からまことの希望をいただき直す時を過ごしています。先ほども、昨年の召天者記念礼拝から、今年の召天者記念礼拝までに召された方たちのお名前を読み上げさせていただいたことです。Kさんのお名前が出ています。Kさんは奥様を2月に送られてその3カ月後にご自分も82歳で天に引っ越しをされました。Kさんは2004年、67歳の時に洗礼をお受けになっていますが、その時の思いを綴ったお証しに次のように書かれていました。「『牛にひかれて善光寺参り』ではありませんが、妻にひかれて教会へと昨年10月の特別歓迎礼拝に出席したのが教会との関わり合いのはじめでした。その後、主日礼拝を重ねるうちに、毎日の生活に安心感のような何か安らぎを覚えるようになってきました。…」礼拝に集うKさんの心に与えられた不思議な安らぎ。それを実感されました。そのKさんの一番好きな聖書の言葉がヨハネ3章16節、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ここに永遠の命という言葉があります。主イエスを信じる時に永遠の命を得ると約束する御言葉です。ただここで永遠の命とは何のことですかと問われると意外に分かっているようで分かっていないことに気づくかもしれません今日はこの永遠の命の恵みについてご一緒に考えてみたいと思います。
ところで「永遠の命を信じます」と告白する聖書が教える信仰とは、誰もが死を経験するわけですが、しかし私たち人間存在は死んでお終いのものではないのだという告白でもあります。ただ1つ注意しなければならないことがあります。それは元々私たちに不死の性質や力があるから死でお終いでないというのではなく永遠の命とは神がお与えになったもの。神が永遠の命を与えてくださるから死でお終いではないのです。さらにそのためにこそ神はキリストの十字架と復活という出来事を起こされたのだと教えています。つまりキリストが死にキリストが復活させられたことによって初めて永遠の命に生きることが可能となった。キリストの十字架と復活なしには永遠の命はありえなかったというのが聖書の教えです。ただここでもう1つ重大な問題が生じます。それは永遠の命が与えられているのになぜ人は死ぬのかということです。

Ⅱ.永遠の命が与えられているのに、なぜ「死」があるのか

聖書はこの点について何を教えているのでしょうか。結論から言いますと、聖書が教えていることは人間が死ぬことによって自分が神に造られた被造物に過ぎないことを証しするということ。神によって始められた命だからこそ神による終わりもある。神は人間をあくまでも一時的なものとして、ほんの束の間のものとして造られたということです。ある神学者がこんなことを語っていました。私たちが「死にたくない死にたくない」と思い、そして「死後も存続するのだ、亡霊となってこの地上に影響を及ぼすのだ」、あるいはまた、「死んでも再び何かに生まれ変わって来るのだ」と死に対してうらみを持ちつつ死ぬとすれば、それは死ぬというよりは殺されるのと同じなのではないか、と。これを読んで、私は思わずうなずいてしまいました。もちろん、信仰を持っていれば死に直面しても取り乱すことはないとは言えないでしょう。誰もが生身の体を持つ者として不安を抱くのは当然です。ただそれでも私たちは聖書を通して、神がこの私を「限りある者」として造られたことを認め、その儚い私に永遠の命を与えてくださったことをも知る時、そこで初めてそのお方の御手に私自身を委ねることが出来る。それが信じる者に与えられている恵みだと思うのです。

Ⅲ.聖書から永遠の命について考える

こうした死の現実を踏まえた上で、次に聖書が約束する永遠の命について考えたいのです。それを示すのが今日の詩編16編にある御言葉です。詩人は「わたしは絶えず主に相対しています」とあります。心の目を開き神がこの私の人生の同伴者である、そうした意識をもって生きる詩人の姿が出ています。すると次に不思議な経験に出くわす。神を意識して歩む時に、その神が私を守るために、なんと私の「右に」いてくださるという経験です。この「右に」とは保護者を表わす言葉です。一般に右手は利き手ですから敵が来た時に向かってくる敵に対して剣を取る手が右手です。その右に立たれたら私はそれを動かせない。ですから右に立っているお方が決して害を加えないと信じていることの表れでもあります。それどころかその方は御自分の左手に盾をもって保護し右手に剣をもって敵から私を守る。神をこのような保護者として信じることは一番の力となるのです。そして私たちの生活に襲いかかる困難、あるいは敵のなかでも、たぶん一番の敵は「死」でしょう。詩人は最大の敵である死に対しても神は保護者として私の右に立ってくださり勝利してくださるのだと告白します。ただその勝利とは次々と奇跡を起こし死を遠ざけてくださるのではなく死に直面しても心を乱されず静かに忍耐強く対処できる心をお与えくださるということでしょう。そして正に死が襲いかかろうとするその時が来たとしても命を始められたお方は命に終止符を打たれる方でもありますからそれが御心であるならば私はそれに従いますという姿勢をも与えてくださる。「わたしは揺らぐことがありません」とはそのような意味の言葉です。さらに「わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います」とありますが、これは笑いが止まらない愉快でたまらないという喜びではなく内面が強められた者の静かで落ち着きのある平安を表わす言葉です。神によるこうした平安を土台に詩編記者は永遠の命を与えられている幸いを歌い上げているのです。「わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」
神を自分の前に置きその方が右にいて保護してくださる。そうした経験を日常生活において重ねているので、その方から私たちを引き離し陰府や墓に放っておくことなどなさるはずがない、だからこそ自分は心安んじていられるのだと告白しています。つまり日常こうした神との交わりを経験する者は肉体の死によってその方との交わりが断たれてしまうとはどうしても思えない。たとえ永遠の命について詳しいことが分からなかったとしても、神は私を裏切ったりするお方ではないという確信を持つことが出来る、そうした確信です。「陰府」とは、ふつう死者がくだる暗い空しいところで、そこでは神との交わりが断たれると考えられていました。「墓」もまた「陰府」とほとんど同じ意味に用いられています。「あなたの慈しみに生きる者」に神は肉体的な死を経験させないということを言っているのではなく、例え死を経験したとしても神から引き離された暗い空しい状態の中に放っておくことはなさらないという告白です。言葉を変えれば「命の道を教えてくださいます」という確信へと引き上げられていく。以前使っていた聖書では「命の道を示される」と訳されていますが、まさにこういう状態こそが実は聖書の教える永遠の命に与っている状態。とこしえの神と共にある永遠の命の道を教えられ、歩むことにほかならないのです。ですから、このような人こそ、肉体的に死に行く時でも、「命の道」を歩んでいるのであり、そこには満足、祝福、喜びがある。9節で触れましたように静かな落ち着きがあるのです。

Ⅳ.「命への道」をゆく者となりなさい

聖書は永遠の命とは何かを知るために死後の状態を色々と詮索することを勧めていません。むしろ永遠の命とは何かを知りたい人は生きている時から、すなわち、今、この時から、神を自分の前に置いて生きるように、と勧める。神が、自分の右に居ます保護者であることを覚えるように、と説くのです。そのようにして、神を自分の前に置いて生き、神の保護を経験させられるたびに、この地上に居ながら、永遠の命の約束を確かなものとされていく。そういう人は、たとえ死にゆくときでも安らかに満たされるのだ、そういう「命への道」を行く者であれ、それこそがまことの「終就」となると聖書は告げているのです。お祈りします。

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ありのままの姿で生きる-存在の喜び

 

松本雅弘牧師

2019年5月12日

ヨハネによる福音書12章1~11節

Ⅰ.主イエスの眼差し

私たちは、多くの人に囲まれて生活していますから、時々、疲れを覚えることがありますね。
〈人は、私のことをどう思うだろうか〉などと考えると本当に窮屈な思いになるのではないでしょうか。そんな時に、自分自身に言い聞かせることがあります。それは、イエスさまは、私をどう見てくださるかということです。
何度か高座教会の礼拝に出席したことのある神学者の蓮見和男先生が、「悪魔の働き」についてこんなことを書いておられました。
「悪魔はいつも2つのレンズを持っているのです。1つは凸レンズ、もう1つは凹レンズです。凸レンズをあてると、ものが大きく見えます。反対に凹レンズをあてると、ものが小さく見えるのです。悪魔は、神さまの方に凹レンズをあて、神さまを小さく見せます。そして、現実の苦しみに凸レンズをあて、それを実際よりも大きく見せます。そしてささやくのです。『お前が信じている神は小さいぞ。今直面している困難はこんなに大きいぞ』と言い、わたしたちの勇気も信仰も砕いてしまいます。悪魔はこうして、ほえたける獅子のように食い尽くすべきものを求めています。」
本当にそうだ、と思います。私は、これを読みながらイエスの母マリアのことを思い出しました。彼女は、悪魔のレンズの代わりに神さまのレンズ(視点)をいただいていました。イエスを宿したマリアは「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます!」と高らかに賛美しました。
マリアの口から出た「あがめる」とはギリシャ語で「メガルノー」という語で、「メガホン(拡声器)」の語源となった言葉です。マリアは賛美を通して神さまを大きくしたのです。神さまがくださった恵みのレンズをもって一つひとつの出来事の中に、神さまの御手の働きを見ていたからです。
今日の聖書の箇所には、そうした主イエスの視点、主イエスの眼差しについて、とても大切なことが教えられています。それは「存在の喜び」ということです。ここに「ラザロ」という名前の1人の男の人が出てきます。彼はマリアとマルタという姉妹の弟で、ベタニアという村に住んでいました。
主イエスは彼らを愛し、よくその家庭を訪問したようです。今日の箇所の前の11章には、ラザロの病気が悪化して、心配したマリアとマルタが、主イエスに連絡を取ったことが記されています。しかし、主イエスが到着した時には、ラザロはすでに死んでしまっていたのです。墓まで来られた主イエスは「ラザロ、出て来なさい」と大きなで声で呼びかけられました。すると、手と足を布で巻かれたままの状態でラザロが墓から出てきたのです。
聖書によれば、ラザロという人物はある意味で「何もしない人」として伝えられています。「何もできない人」と言ってもよいかもしれません。とにかく彼は病人で、周りの世話を受けながら生きていた人だったようです。ラザロが語った言葉は、ひと言も聖書に記録されていません。ただ弱々しく死に、主イエスによって生き返されたものの、その後、何かをなしたという記録もないのです。

Ⅱ.あらすじ

この日、主イエスを自分の家に迎え入れたお姉さんのマルタは、せっせと食事作りに励んでいました。妹のマリアは高価で純粋な香油を持ってきて、主イエスの足に塗り、自分の髪の毛でぬぐっています。そうした中で、ラザロはただ主イエスと共に食事の席に着いた人々の中にじっと座っているだけでした。
当時のユダヤの習慣では、同じ食卓について一緒に食事をすることは、最も親しい間柄を示すことでした。相手を受け入れ、良い関係を築いていこうとするのが共同の食事の目的です。
でも、ラザロが積極的に主イエスとの関係を築く努力をしたかと言えば、そうではありません。ただじっと座っているだけ。そして、主イエスもそんなラザロに対して何もおっしゃいません。これまた興味深いことです。
私はこのところに、主イエスの眼差しを、主は私たちをどう見ておられるのか、ということを教えられるように思いました。主イエスは、ラザロを、ありのままに受け入れておられたということなのではないでしょうか。主は、ラザロの存在自体を喜んでおられたのです。

Ⅲ.聖書の価値観―存在しているから価値がある

ある時、主イエスはユダヤ人たちに向かって「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。(ヨハネ5:39)」と言われました。
主イエスは、聖書をご自身がキリストであることを証言する書物として理解しておられたのです。そうだとしたら、今日の聖書の言葉を通して、私たちは、どのようなイエスさまと出会うのでしょう。
それは、人間は価値があるから存在しているのではなくて、存在しているから価値があるのだと、存在そのものを通して示されるイエスさまに出会うのではないでしょうか。
ここでイエスさまを歓迎するためにマルタは忙しく給仕しました。妹のマリアもナルドの香油をイエスの足に塗り、主に対する愛と感謝を表しています。マルタもマリアもそれぞれに「何か」をしています。ところがラザロは全くの脇役でした。接待で忙しくもしていませんし献身的に自らをささげてもいない。ただその場にいるだけです。
でも不思議なことに気づきました。「イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。」(9節)と書かれているのです。
イエスがおられるのを知って人々がやって来ますが、彼らが見ようとしたのは、給仕に忙しいマルタでも、献身的な行為を捧げたマリアでもなく、主イエスと同じ食卓にただ座っているだけのラザロだったのです。その存在そのものの内に、実は驚くべきこと、真実なこと、主の御業の証しを見ていたからなのだと気づかされ、ハッとしたのです。私たちは出来ること、何かすることに思いを集中します。でも本当の意味で人々に影響をもたらし、インパクトを与えるのは、その人自身、その人の存在そのものだということです。今日の御言葉、ヨハネ福音書12章の主イエスの言動によって、私たちは価値があるから存在しているというよりも、存在しているから価値がある、意味があるから存在している。そうした神さまの深い御心を知らされるのではないでしょうか。

Ⅳ.ありのままの姿で生きる―存在の喜び

日々の生活の中で無力さを感じることがあります。宮沢賢治の『雨にも負けず、風にも負けず』ではありませんが、牧師として一生懸命お仕えしようと思いつつ、現実にはたくさんの足りなさや限界を覚えます。もっとこうしなければ、と焦ったりもします。でも、今日の聖書箇所を通して教えられるのは、イエスさまというお方は、何よりも私たちの存在を喜んでおられる、ということなのです。何かをしなくても、何かを語らなくても、ラザロのようにそこにいること、イエスさまによって死から命によみがえらされた自分の姿をそこに現すだけで、誰よりも復活の主の証人として生かされていることの事実を心に留めたいと思うのです。
ラザロ、マルタ、そしてマリアも、イエスさまの目に映った自らを大切にしました。神さまから愛されている自分、神さまから赦されている自分を受け止めていく時に、喜びが心の内側からフツフツと沸きあがってきたのです。
最後に、この「ラザロ」という名前ですが、その意味は、「神は助けたもう」という意味です。神さまは私たちを裁くお方ではなく、助ける神である。常に助けたいと願っておられる。そして助ける力をお持ちの神さまなのです。
自らの無力さを認め、助けを請う時に、そうした弱い存在である私を通し、神さまは豊かな力を証しされていく。
聖書は「光の子として歩きなさい」と教えます。聖書が語る「光の子」と言う時、その前提に主イエスこそがまことの光、ということがあります。つまり主イエスが太陽で、「光の子」である私たちは、言わば、その光を反射する月のような存在です。
その月のような存在である私たちが、「光の子」として生きるために必要なこと、それは光なるイエスさまの方を向いていること。私を喜んでおられる、楽しんでおられる、私を見て微笑んでおられる、そうした、主イエスさまの喜びに触れる時に、不思議と私の顔に輝きが生まれ、喜びの光を反射することができるのです。
ラザロって、そういう存在だった。光なる主イエスの前にじっとしていたからこそ、イエスさまの喜び、イエスさまの微笑みをラザロは感じ取ることが出来たのです。その結果、彼はその光を反射する存在として、大勢のユダヤ人たちが不思議がって見に来る存在として、イエスさまの素晴らしさを輝かせることができたのです。
ですからラザロのように、まずはイエスさまの愛と恵みの光を体いっぱいに受けるのです。何か出来る、何かすることだけを追い求める前に、できないことをも大事にしてくださる主イエスの愛、喜びに触れる。そして、それによって励ましを受けること。そうしたことを大切にしながら、この1週間を歩んで行きたいと願います。お祈りしましょう。

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人間を探し求める神

 

2019年5月5日
松本雅弘牧師
創世記3章20~24節 マタイによる福音書18章12~1414節

Ⅰ.小さなものを愛する主イエス

主イエスは「誰が一番偉いのか」と議論していた弟子たちの真ん中に、一人の子どもを立たせて、「わたしの名のためにこのような一人の子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(マタイ18:5)とお教えになりました。
主イエスの目は子どもから始まり、ともすると軽んじられがちな「小さな存在」に向けられます。だからこそ「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」(6節)と語り、「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。」(8節)と、非常に強い言葉で警告されるのです。それほどまでに主イエスは、「小さな者」を愛しておられたのです。

Ⅱ.見失った一匹の羊を捜し求める羊飼いのたとえ

そして、続く話が「迷い出た羊」のたとえです。ある人が羊を百匹もっていて一匹がいなくなった。そこで羊飼いは、九十九匹を山に残し、迷い出た羊を捜しに行ったというのです。
洗礼を受けて間もない頃の私は、このたとえ話がピンと来ませんでした。この時の羊飼いの判断は、必ずしも適切でないように思ったからです。
捜しに行っている間に、他の羊たちに別の問題が起こる可能性だってあります。この一匹が、問題を起こして迷子になったのなら自業自得でしょう。このように、次々と意見や批判が出てきますが、羊飼いは、それでも、いなくなってしまった羊を必死になって捜しまわるのです。
イスラエルの羊飼いは、一匹一匹に名前をつけ、その名前を呼びながら世話するのだそうです。羊飼いと羊は家族のような関係です。そうだとすれば、一匹の羊がいなくなれば、見つけるまで捜すのは当然です。この話を聞いていた人々は、うんうんとうなずいたと思うのです。

Ⅲ.見失われたものの大切さ

中高校生の頃、友達と比較して「自分なんて居ても居なくてもいいのではないか」と、思い悩んだことがあります。
しかし主イエスさまは、私たちのそうした心の叫びに、「そうではない! そんなことあり得ない!」、「あなたは、神さまから捜されているのだから。居ても居なくてもいいわけがない! あなたは居なければならない!」と訴えているのです。
「自分なんて…」と思う時、「価値のない私が何故生きなければならないのか」と悩む時、聖書は、あなたに答えます。「あなたは神さまに捜されているのだから、生きていなければならない」と。これがイエスさまの答えです。
これは本当に大事なことです。聖書の教える神への信仰とは何でしょう? ある人がこう言いました。「信仰とは、この自分も捜されている、主イエス・キリストによって神の愛のうちに捜されているのだということを認めること、受け容れること」だと。
自らを顧みて、自分は何て神さまから離れた生活をしているのだろうと思う方、自分が身を置いている所まで神さまが来てくれるはずもない、と考える方。あるいは、洗礼を受けてクリスチャンなのに、何度も何度も神さまが分らなくなると言う方もあるでしょう。
でも、そんな時に、今日の主イエスの物語、たとえ話を思い出していただきたいと思います。あなたを捜し続けておられる神さまがおられるのです。

Ⅳ.人間を探し求める神

今日の旧約聖書の朗読箇所に創世記第3章を選びました。ここにも、人間を探し求める神の姿が記されています。
エデンにおいてアダムとエバは神の言いつけに背きます。「絶対に食べてはいけない」と言われていた木の実を食べてしまったのです。アダムとエバは、取り返しのつかないことをしてしまったことに気づきました。
ところが創世記は、その彼らに神の方から近づいて行かれたことを伝えています。彼らに向かって「どこにいるのか」と呼びかけられるのです。さらに、神さまは、彼らが自分たちで用意したいちじくの葉よりもはるかに丈夫な皮の衣を作って着せたのです。
この時点で、人間の食物は野菜や果物、木の実です。とすれば皮の衣が作られたということは馴染みのない出来事です。たぶん自分たちの目の前で獣が屠られ、血が流される。その一部始終を見たのではないでしょうか。そのようにして取られた皮で、裸を覆う衣が作られ、着せられていく。そしてエデンの園から追放されるのです。
この時、主なる神は、「ああ、せいせいした。これでエデンの園も平和になった」と、思われたでしょうか。そうではないでしょう。心配で心配でしょうがなかったに違いありません。その証拠に、創世記を見ますと、エデンの園から彼らを追放した後、主なる神は自らのエデンの園を後に、人間をずっと追いかけたことが伝えられています。
それが創世記3章24節の言葉です。「こうしてアダムを追放し、命の木を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」
創世記3章24節は、人がエデンの園を出て後ろを振り返った時、エデンの東にケルビムときらめく剣の炎が見えた、と伝えていますが、ケルビムと炎とは、旧約聖書では主の臨在を示すものです。それによって人は主がそこにおられることを知るのです。
出エジプト記33章20節には、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」とありますが、これはモーセに語られた言葉です。
罪を犯しエデンの園を追われた人間は、この言葉の通りに、もはや、直接神を見ることができなくなっていたのです。
ケルビムと炎の存在を通して、かろうじて、人は神さまの臨在を知ることが出来るのです。
アダムを追放し、ケルビムときらめく剣の炎がエデンの園の外、東の方に見えたということは、人をエデンの園から追放された時、神さまもまた園の外に出られたことを示しているのです。神自らも、楽園を出て、人を追い求められたのです。
この礼拝で、何度かご紹介した神学者の小山晃佑先生が、こんなことを言っておられます。「だから聖書は、こんなに分厚いのです。もしもエデンの園で、神さまと人間の関係が終わっていたならば、聖書は最初の5ページで終わっていたでしょう。むしろ、そこから始まっていくのです。人間を探し求める神の物語が」と。
新約聖書のマタイ福音書に戻ります。今日、朗読した聖書の中で、マタイ福音書18章11節が抜けているのです。12節の上に十字架のマークがあるだけで、ここにあったはずの11節がありません。
18章11節の言葉は、「元々、マタイ福音書のオリジナル、原典には含まれている言葉ではなく、後代の人が何らかの理由で書き加えた可能性が高い」と専門家たちが判断して、ここから除いてしまったのです。
同じく、十字架のマークで示されている17章21節の時にお話ししましたが、現在、マタイが書いたマタイによる福音書のオリジナルは残っていません。「写本」と呼ばれる幾つものコピーが残っているのです。そして今でも、幾つもの「写本」を比較しながら、マタイ福音書の復元作業が行われています。その復元作業によって出来上がった原稿を「底本」と呼び、それが新しく出来上がると、それぞれの国に持ち帰り、新しい翻訳聖書が誕生します。
明日、明後日の2日間、中会牧師会の修養会が行われます。そこでのテーマの一つとして昨年末に刊行された、新しい翻訳聖書についての勉強会が持たれます。この新しい翻訳聖書でも、この18章11節は抜いてありました。
以前の文語訳聖書や口語訳聖書には含まれていた、この11節は、「マタイによる福音書」の最終頁に、付録として記されています。次のような言葉です。「人の子は、失われたものを救うために来た」。
マタイ福音書を書き写す作業に従事していた人(写字生)が、「『人の子は、失われたものを救うために来た』という一文を加えれば、もっと分かり易くなる」、そう考えて付け加えてしまったのではないかと言われています。
確かに、自分が九十九匹の中に居ると思っている時には、主イエスの、この話は心に響かないかもしれない。でも自分がこの迷子の羊と一緒だと思うと、心の奥まで届くのではないでしょうか。
神から離れた者、誰もが抱く問いかけ、「自分なんか、いてもいなくてもよい」という、心の奥底にある問いかけに対して、主イエスははっきりと「そうではない!」と断言されます。創世記の時から、そうです。初めからそうだった。
「あなたがいなくなったら、あなたを捜す方がいる。いや、あなたは今、すでに捜されている」。
私たちは、主イエス・キリストの、この神に捜され、見出された者である恵みを今朝、もう一度覚え、感謝したいと願います。お祈りします。