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主日共同の礼拝説教

幼子をキリストへ


松本雅弘牧師
2019年6月30日
認定こども園 高座みどり幼稚園 創立70周年記念礼拝  
マルコによる福音書10章13~16節

今日は、お忙しい中、認定こども園高座みどり幼稚園の創立70周年記念礼拝にご出席くださり、心より感謝申し上げます。ありがとうございます。
5年前、私ども高座みどり幼稚園は、創立65周年を迎え、その記念事業として、認定こども園という新しい形態の働きに移行することを決断し、新しい園舎に建て替えて、その働きを進めてきました。
あれから5年の月日を過ごし、今日、多くのお客様と共に、ここに、70周年記念礼拝の時を迎えることができました。ほんとうに感謝です!

今日皆様にお配りしたプログラムにも、私ども高座みどり幼稚園の「ミッションステートメント」が印刷されています。次のような文章です。
「高座みどり幼稚園は、キリスト教の人間観に基づき、子どもたちの全人的な成長を祈り求め、総合的な幼児教育を展開するコミュニティー幼稚園をめざします。」
 
近年、私たちの社会は大きく変わってきました。先週だけでも、子どもに関わる悲しい事件や話題が幾つもありました。ここ大和市も例外ではないでしょう。そうした中で、私どもに与えられている、このミッションを果たし、地域の子どもたちやご家庭に仕えていくには、今後、どのようにしていったらよいだろうか、ということを真剣に考え、祈り求めてまいりました。
 実は、キリスト教会には、「ニーバーの祈り」と呼ばれている、たいへん有名な祈りがございま す。
「変わることのないものを守る力と/変わるべきものを変える勇気と/この二つのものを識別する知恵をお与え下さい」
 刻一刻と変化するこの時代にあって、この祈りの言葉、神様への願い、それは、まさに私たちの思いをよく表現したものであると思います。少なくとも、私にとってはそうでした。
そして、この祈りを祈る中で、私たちに与えられた神さまからの御答が、0歳からのお子さんも、
 
 そして長時間の保育を必要とする子どもさんも、責任をもってお預かりしながら、地域のご家庭に仕えていくことでした。
このことが、今、この大和市のご家庭にとって、とても必要とされていることなのではないだろうかという思いに導かれていきました。
そして今、振り返って考えます時に、本当に不思議な形で新園舎建設が行われ、認定こども園としてスタートし、この5年の間、今日、このお祝いの礼拝に駆けつけて来てくださった来賓の皆さま方には、それぞれの御立場から数多くのご支援を賜ったことを、この場をお借りして、心から感謝申し上げます。ありがとうございました。

 今日お読みしました。聖書に出て来るイエスさまの言葉、これは高座みどり幼稚園が、大和市最初の幼稚園としてスタートした時から、今日に至るまで、子どもたちに接していく時に、いつも心に留めるようにと導かれている、聖書の言葉です。
「子どもたちをわたしのところに来させなさい」(14節) 一言で言えば、「幼子をキリストに」ということです。
先ほど読んでいただきました聖書の箇所をもう一度見ていただきたいと思います。
「イエスに触れていただくために、人々は子どもたちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。』」
ある時、大人に連れられてやってきた。子どもたちが、イエスさまを見つけると、イエスさまめがけて走っていきました。子どもは、自分のことを大事に思ってくれる人を知っていますから、そのお方を見つけるやいなや、走って行きたかったのでしょう。
ところが、そこに居合わせた主イエスの弟子たちが、子どもを邪魔者扱いしたのです。具体的に
は主イエス目がけて走っていく子どもたちを制
したのです。
その場面でイエスさまが語られた言葉が、この「子どもたちをわたしのところに来させなさい」という言葉でした。
そのお言葉に励まされて、親たちが、子どもを連れて行くと、主イエスは、子どもたち一人ひとりを「抱き上げ、手を置いて祝福された」のです。
子どもたちへの、このイエスさまの関わりが、彼らの心の深くにあるニーズを満たしたのです。
子どもたちは、自分が愛されていることを実感しました。
この場面を想像してみたいのです。走って来る子どもたちを、イエスさまは一人ひとり抱き上げ、手を置いて祝福しておられます。
どのくらいの人数の子どもたちがいたかは分かりません。でも一人ひとり、抱き上げられ、手を置いて、祝福の祈りをしていただきました。
そうされた子どもの顔に、笑顔がこぼれたことでしょう。順番を待つ子どもたちも期待で胸が膨らんでいたのではないでしょうか。

そうした子どもたちの表情や姿、喜びの声を聞きながら、当然、親たちも嬉しかったに違いない。周囲の大人たちも安心したことでしょう。
子どもたちが満足する姿を見て、お母さん、お父さんは幸せになります。お母さんやお父さんの心の中にある安心した心を、子どもたちは敏感にキャッチし、そして自分たちも安心する。嬉しくなるのです。
この認定こども園高座みどり幼稚園の働きが、こうした愛を発信し、愛の連鎖をご家庭や地域に広げて行きたいと、私たちは願っています。
園や教会の中で、よくお話することがあります。それは、ここでイエスさまが示してくださった3つの行為は、子どもたちが成長していく上での大切な心の糧となるもの、大切な「子育ての基本」を教えていることだと思います。
その3つとは、抱き上げること、手を置くこと、そして祝福することです。
「抱き上げる」、これはスキンシップです。そのままで受けとめる行為です。駄々をこねる子どもも、お母さんにギュッと抱きしめてもらうと、不思議と落ち着くものです。 
「手を置く」とは、キリスト教の伝統では「祈る」ことです。
子どもとの関わりの中で出来ることがあります。でも私たちの力の範囲を超えた、どうしてよいかわからないような出来事に遭遇することもあるでしょう。そのような時、私たちは神に祈り、この子を慈しみ深い神さまの御手に委ねる。それが祈るということです。
そして3つ目、「祝福する」。分かり易く言えば、褒めるということです。相手をそのままの姿で尊重し、認めるということです。
そして、この3つの動作・行為を通して、いったい子どもたちに何が伝わるかと言えば、それは「あなたは大切な人です」という愛のメッセージが伝わっていくのです。
これは子どもに限らず、私たち大人にとっても、日々、生きていく上で本当に必要としているものではないでしょうか。

聖書に戻りますが、この日、子どもたちは、そうしたイエスさまと接することで、自分が尊い存在であることを実感する経験をしたのです。
そしてこれこそ、高座みどり幼稚園が70年間にわたって大事にして来た、そしてこれからも大切にしていく保育の基本なのです。
これからも、神さまと、そして、今日共に礼拝を捧げている私たちが祈りと力を合わせ、「幼子をキリストへ」という尊い働きを担わせていただきたいと覆います。
そして、キリストへと導かれた子どもたち一人ひとりが、主イエスに抱かれ、祈られ、祝福されることで、「あなたは大切な人です」。「本当に自分は大切な存在なのだ。そして同じようにお友だちも、お家の人たちも、みんな大切な一人ひとりなんだ」。そう肌で味わい、その恵みを周囲に広げる人の輪を、高座みどり幼稚園から発信してゆきたいと願います。
お祈りいたします。

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キリストがすべて

和田一郎副牧師
2019年6月23日

マラキ書1章9-12節  コロサイ4章18節

1、キリストの神性

『コロサイの信徒への手紙』を2年前から続けて説教をしてきましたが、今日はその最後の箇所です。4章にわたって書かれた手紙の最後の1節は、何の変哲もないような挨拶で締めくくっているようにみえますが、パウロがこの手紙を書いた思いが込められていると思います。
パウロの手紙のほとんどは、パウロが話したことを、横で聞いている誰かが書いたものです。この手紙も誰かに書かせた手紙ですが、最後の挨拶の文章だけはパウロの自筆で書いているというのです。パウロは目が悪かったとも言われていますし、この時ローマの牢獄に入れられていましたから、鎖に繋がれていたのかも知れません。そのような状況で口述筆記で手紙が書かれていたのですが、最後の文章だけは自筆で書きたいと思ったようです。そこには「わたしが捕らわれの身であることを、心に留めてください」と書いています。捕らわれの身であってでも、伝えたいことがこの4章にわたる手紙に記されているのです。パウロはこの手紙で何を伝えたかったのでしょうか。
コロサイ書1章には、「万物は御子によって、御子のために造られました」とあって、キリストによる天地創造が書かれています。つまりキリストが神であることが書かれています。あるわたしの友人は、キリストが偉大な存在だとは分かるが、神であるとは思えないと言う人がいました。それと同じことを感じていた人が、コロサイにもいたのです。コロサイだけではなくてエルサレムやローマや地中海周辺には、「一体そのイエス・キリストという人は何者なのだ?」という、核心のところで、あいまいになる人がいたのです。今もいますし、いつの時代でもいるのです。
それに対してパウロは言いたかったのです。イエス・キリストは、天地が創造される前からおられた神だということです。キリストは、父なる神と同じ神の性質をもっています、聖霊も同じ神の性質をもっています。それが三位一体の真理です。三位一体説ではなくて三位一体は真理です。
ちなみに、わたしの友人は、このことを説明しましたがキリストが神であることや、三位一体の神のことを「分かった」とは言いませんでした。依然として疑問が残っているようでした。しかし、それでいいと思いましたし、そのように言いました。神様の存在とか性質というのは、人間の知恵や理屈で説明して分かるというものではありません。信じる時が与えられるのを待つしかないでしょう。

2、キリストによる一致

もう一つ、パウロがこの手紙で強調したかったことは、イエス・キリストを神として信じた者同士は一つになれるということです。地中海周辺諸国には、文化の違いがありましたが、神の救いはユダヤ人だけではなく、キリストの十字架によって、すべての人のものになり、すべての人が一つになれるという御業です。これはコロサイ書の3章で強調されていることです。「そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。」(コロサイ3:11)
イエス・キリストを信じることによって、身分や民族に関係なく、神の家族という温かい関係になれるのです。
しかし、人が一つになることの難しさは現在も課題です。わたしは今月、アメリカのアラバマ州で行われたカンバーランド長老教会の、GAと呼ばれる総会に行ってきました。わたしたちカンバーランド長老教会という教団はCPC (カンバーランド・プレスビテリアン・チャーチ)と呼んでいますが、それとは別の組織でCPCA(カンバーランド・プレスビテリアン・チャーチ・イン・アメリカ)という黒人教会があるのです。この二つの組織はもともとは一つのカンバーランド教会でした。しかし、アメリカには人種差別の問題もあって黒人教会とは別になっていました。それを合同する為に2021年に向けて合同しようという議案がありました。これまでも合同するという話は何度かもたれていたのですが、なかなか話はまとまりませんでした。それは人種差別と同時に、黒人教会の方が圧倒的に数が少ないので、その人達が自分たちの大切にしてきた伝統が合同によってのみ込まれてしまうのではないか?自分たちの良さが失われてしまうのではないか?という恐れがあると聞きました。逆に言えば、こちらの側が安心して合同できるアプローチが足りなかったのかも知れません。
GA総会があった地域は、アメリカ南東部のいわゆる「バイブルベルト」とよばれる地域です。そこでは18世紀から19世紀にかけて、キリスト教信仰が熱心に広がったリバイバル運動がありました。カンバーランド長老教会も、その中で生まれました。また、この地域は黒人にも白人にも「反知性主義」という傾向があるという話を聞きました。かつて、リバイバル運動が起こる前の教会は「ハーバードかイエール大学を卒業した者でなければ、教会では説教できない」と定められていたそうです。しかし、リバイバル運動では野外で説教をするなどして、資格も問われずに自由でした。彼らは聖書に「神様は福音の真理を『知恵ある者や賢い者』ではなくて、『幼ない子どものような人』にあらわされると書いてある。「学歴や知性を振りかざす、あなた方は、イエス様が批判した律法学者やパリサイ派の類いではないか」。これが反知性主義と呼ばれる人々の思いだと言うのです。信仰を持つ人の中には「人工的に築き上げられた高慢な知性よりも、素朴で謙虚な無知の方が尊い」という基本的な感覚があるのではないでしょうか。インテリだけが分かる真理ではなく、誰にでも分かる真理でなければならない。とりわけバイブルベルトの地域は、ヨーロッパと比較して、自分たちを考えるといいます。「ヨーロッパは知的で文化的だが、堕落した罪の世界である。自分たちはそこを脱して新しい世界を作ったのだ」という主張です。そこには、律法学者やパリサイ人を、正面から批判したイエス様の言葉に、原点があるように感じました。
アラバマ州の総会が終わって、ケンタッキー州のルイビルに移動しました。ルイビルの中心地には大きな川が流れていて、向こう岸まで何百メートルもあります。濁った水の大きな川の名前はオハイオ川で、少し下流にいけばミシシッピー川に合流して、そこはトムソーヤの冒険の舞台となった所です。川岸の公園にリンカーン大統領の銅像があったのです。案内板を見ると、かつて奴隷を解放させたリンカーンが活躍した時代に、この川を越えると奴隷たちは自由を得ることができる、その境界線となっていたそうです。自由を求めて、この川を命がけで越えたそうです。そこにも黒人と白人、奴隷と主人という身分の違いがあった歴史を見ました。今もその傷跡は残っているといえます。

3、キリストがすべて

リンカーン大統領の銅像がある隣の公園では、賑やかなパレードが行われていました。みんな派手な服装とペインティングをして賑やかでしたが、それは同性愛者のパレード、LGBTを讃えるパレードだったのです。かつては黒人が自分たちの自由を、今はセクシャリティの自由を求める人がいる。実はGA総会でもう一つ、熱く議論されたのが、教会におけるセクシャリティの問題でした。同性愛者の牧師や長老を認めるかどうか? これは採決されずに今後の課題となっていますが、今、アメリカの教会で分裂を招く恐れのある一番大きな要因とされています。かつて、白人と黒人の分裂があったように、今、セクシャリティの問題が教会を分裂させるかも知れません。対立や分裂する要素が今の時代もあります。一致する難しさがあります。一人一人違っていいという価値観の中で、心を一つにすることが難しい時代のように思いました。
しかし、パウロがそのようなわたしたちにも語りかけるのです、「キリストがすべて」だと。人間の知恵ではなく、キリストによる神の知恵、上からの知恵を信じることで人は一つになれます。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、奴隷と自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべての者のうちにキリストがおられる。
分断したものを一つに結びつけるのはキリストです。キリストを信じる信仰によって、人は一つになれる。この確信に立って、この一週間を歩んでいきたいと思います。
お祈りいたします。

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兄弟の回復のために

松本雅弘牧師
2019年6月16日
詩編32編1~11節 マタイによる福音書18章15~20節

Ⅰ.「教会憲章」としてのマタイ福音書18章

マタイ18章は、昔から「教会憲章」と呼ばれ、主イエスが教会について語った数少ない箇所の1つです。主イエスが「教会」という言葉を使ったのはこの箇所とマタイ福音書16章だけです。
「教会憲章」と呼ばれるマタイ福音書18章の最大のポイントは、15節からの「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、」という語り出しで始まる今日の箇所、主イエスのみ言葉です。ここで、主イエスが取り上げた話題は、罪の問題でした。宣教のあり方でも、礼拝についてでもありません。教会に罪を犯した人がいたら、その罪をどのように扱うのか、そのことを主イエスは語るのです。
神学生の時、授業でこんな話を聞きました。あるアメリカの教会で、罪を犯した教会員に対して小会が訓練を執行し、そして、それを週報で報告しました。すると、その教会員は名誉を著しく毀損されたとの理由から、教会を相手取り裁判を起こしたという話です。
裁判所がどのような判決を下したかについては覚えておりませんが、その話をしてくださった先生の論点は、同じ土俵にあったとしても、同じ価値基準を共有していない人に対して、訓練を執行しても、された方は痛くもかゆくもないのだということでした。
そのような現実がある中で、それでもなお歴史の教会は、中でもカンバーランド長老教会のような改革派長老派の教会は、「教会訓練」を重んじてきたのです。なぜでしょうか。それは、今日の箇所に出て来る主イエスの言葉を重んじ、それに従って罪の問題を重視したからです。

Ⅱ.兄弟があなたに対して罪を犯したならば

主イエスは言われます。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。」
分かり易く言うならば、「あなたがしていることは罪です」と伝え、そのことを明らかにして、何が正しく、どうすることが正しいのかを伝えてあげるように、と主イエスはおっしゃるのです。
いかがでしょう。罪の話題はともすると避けてしまいたいものです。実際、この問題の取り扱いはとてもやっかいで、時には「牧会的配慮」という言葉で丸く収めてしまうことがあります。「時が解決する」という言い方でそのまま放置することもあるでしょう。ただ聖書と真剣に向き合う時、このことはキリスト教の核心と深く関係しているのです。何故なら、このために主イエスが十字架におかかりになったからです。
イザヤは礼拝の中で主なる神を仰ぎました。そして、神の光の中に自らの罪深さを照らしだされる経験をしました。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。…国は国に向かって剣を挙げず/もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」(イザヤ2:4-5)
自分自身の罪とどれだけ真摯に向き合っているか。聖なる神の前に立つ経験をどれだけしてきたか、姿勢を問われる信仰者としての体験かも知れません。
主イエスは、今日の個所で「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、」と語っています。「兄弟」とありますから、信仰の仲間、教会の仲間でしょう。その仲間が「あなたに対して」ですから、この私に対して罪を犯した場合、あなたはどうするのかと、イエスさまは言われるのです。
たとえば、教会の仲間によって傷つけられた場合を考えてみましょう。自分は被害者ですから、私の側に相手を糾弾する権利があると考えることがあります。あるいはまた、私が我慢すればそれで済むことだから我慢しましょうと考える場合もあるでしょう。でも、主イエスが言われるのはそういうことではないのです。
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。」と言われたのです。これはどういうことでしょうか。

Ⅲ.神の赦しの中に生きる

この時点で、忘れてはならないことがあります。それは主イエスの眼差しがどこに注がれているかということです。主の眼差しは害を被った私に注がれるのは勿論ですが、それ以上に罪を犯したその人に向けられるのではないでしょうか。
この箇所で、罪という言葉が出て来ます。この罪が何であるかは分かりません。直前の14節に大切な主イエスのお言葉があります。「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
この御言葉によれば、ここでは滅びが問題にされているのです。このみ言葉に続いて15節が語られています。つまり、この罪はその人を滅ぼす、人を滅ぼすような罪がここでは問題にされているのです。その人が滅ぶことを主は願っておられないのです。
今日の箇所に続く18章21節以下には、“「仲間を赦さない家来」のたとえ”が語られます。今日の主イエスの言葉を聞いたペトロが、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と質問したのです。それに対して主は、「七回どころか、七の七十倍まで赦しなさい」とお答えになりました。
さらに続けて、一万タラントンもの巨額な借金を帳消しにしてもらった僕の話をなさったのです。14節の「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」という主イエスのお言葉と、21節から始まる“「仲間を赦さない家来」のたとえ”に、挟まれるようにして語られたのが、今日の15節からの主イエスの教えです。
迷い出た羊を追い続ける主の忍耐強い愛、そして私たちの負債をすべて帳消しにするほどの犠牲的愛、その愛が、滅びに値するような罪を犯した、取るに足りない小さな者に向けられているのです。
今年の活動の主題は「私たち、集い喜び分かち合う」です。ある牧師がこんなことを語っていました。「そもそも私たちがキリストの体なる教会に加えられ、このように集まることが出来るのは、お互いに信頼し合っているからでもなくお互いをよく知り合っているからでもなく、お互いが善人だからでもなく、ただ主が私たち1人ひとりを赦してくださっているからという1点にかかっている。みんな一人ひとりを赦してくださるからです。だから聖餐にあずかるより他ない。だから十字架を掲げ、それを仰ぎ見るより他ない。他に掲げるべきしるしを教会は持たないのです。」
本当にそうだなと思いました。私たち教会がこうした主イエスの赦しの愛に支えられ生かされているのであれば、その主イエスの赦しに背く罪を無関心のままに放置しておくことはできません。その人の救いがかかっているからです。

Ⅳ.兄弟の回復は神にとっての喜びの出来事

15節に戻り、「二人だけのところで忠告しなさい」とおっしゃるのは何故か、この意味について考えてみたいと思います。主は「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(20節)とお語りになりました。主が共にいてくださるために2人になるということです。信仰者と信仰者ふたりがこうべを垂れ、そこにおられる主イエスに向かって願う。自分たちの罪について嘆き、罪を告白する。そのところに、十字架の贖いをしてくださる主がいて、祈りに答えてくださるというのです。仲間の告白を私が聞くのではありません。主イエスさまが聞き、赦しを宣言される。主イエスの十字架の他に罪の赦しはないからです。
カトリック教会には「赦しの秘跡」といわれる聖礼典があります。告解と言って、定期的に司祭に罪を告白し、聞いていただき司祭に赦しを宣言してもらうことで、罪が赦されるという聖礼典です。これはまさに、今日のこの箇所の実践です。
では私たちのプロテスタント教会はこの恵みにどのように与るのでしょう。実は、それが礼拝の前半のプログラム、罪の告白の祈り、黙祷、そして赦しの宣言です。礼拝こそが「二人または三人がわたしの名によって集まるところ」、「わたしもその中にいる」と約束された時と場です。その礼拝に招かれ、「罪の告白の祈り」に導かれ、各自が主に罪の告白をする。そして牧師が「赦しの確証」、つまり赦しの宣言をするのです。そのように、私たちは罪の赦しの恵みをいただくのです。
主イエスは言われます。「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカ15:7)
兄弟を回復すること。私自身も罪と向き合い、罪の赦しをいただく時に、私たちは回復されるのです。そしてそのことが神の心に大きな喜びをもたらすものとなる。その時の神さまの御顔はどのようでしょうか? 私たちをご覧になって怒っておられるのではないのです。困ったなぁと、悲しい顔で見ておられるのでもありません。微笑み喜んで私を見ておられる。その喜びに溢れる神さまの御顔を仰ぐ時、私たちの心にも喜びがもたらされる。一人の罪人が回復されるということは、そうした喜びの出来事なのです。
お祈りいたします。

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ペンテコステ礼拝 主日共同の礼拝説教

使徒言行録2章の教会と私たち

松本雅弘牧師
2019年6月9日
ペンテコステ礼拝

エゼキエル書37章1~10節 使徒言行録2章42~47節

Ⅰ.ペンテコステの恵みにあずかるために

ペンテコステ、おめでとうございます。2千年前のこの日にキリストを信じる弟子たちに聖霊が降り、私たち教会が神殿となった出来事がペンテコステの出来事です。主のご臨在なさる場がエルサレムの誇る神殿ではなく、キリストを主と信じる教会という共同体、教会に繋がる私たち一人ひとりが、主が共におられる神殿となったのです。

Ⅱ.聖霊を宿す神殿となった私たち

イエス・キリストを信じ、私たちは洗礼を受けました。それは私たちの内側に聖霊なる神さまが住んでくださる神殿となったということです。そのように私たち自身が聖霊を宿す神殿になったという事実を今朝もう一度覚え、味わいたいと思います。
パウロは、聖霊を与えられている現実を、その手紙の中で繰り返し説いています。
エフェソの信徒への手紙の1章にこういう御言葉があります。「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」(エフェソ1:13-14)
これがペンテコステ以降の私たちの現実、聖霊が宿っている、ということです。ところが、私たちの内に、すでに聖霊をいただいているにもかかわらず、そのことに心の目が開かれていない状況があります。パウロは、そのことについてこんなことを語っています。
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント6:19-20)
パウロは、第1に、私たちが真に救われクリスチャンとなっているのなら、聖霊が宿ってくださっているという霊的現実があることを教えます。第2に、そのような現実があるにもかかわらず、聖霊を宿す神の宮になったという霊的な現実に、私たちの心の目が開かれていないということを語るのです。
数年前のクリスチャン新聞の統計によれば、日本のクリスチャンの平均寿命は3年弱だと言うのです。大変ショッキングな事実です。洗礼を受けて3年経つと色々な理由で教会を離れてしまう。「卒業クリスチャン」という言葉が日本のキリスト教界にはあるほどです。
それほどに、サタンの誘惑は強く巧みであるということ。サタンは神さまから私たちを引き離そうと躍起である、ということでしょう。
イエスさまも、洗礼を受け、聖霊が降り、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3:7)という天からの声を聞くという大きな経験をされた直後、サタンの誘惑を受けました。イエスさまさえもサタンの誘惑にあったのです。
では、どうしたらよいのでしょうか。それは、「ぶどうの木につながり続ける」という大原則にいつも立ち帰ることです。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ15:5)と主が言われているからです。
聖霊をお与えになった後、神さまが私たちに願っておられることは、聖霊の命が私の内側に生活の様々な場面で大きくなるような方向を歩み続けていくということです。
では、そのためにはどうしたらよいでしょうか。ペトロはこの点について次のように語っています。「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」(Ⅰペトロ2:2)混じりけのない霊の乳で、空っぽの心を満たすということでしょう。その直前の1節に、「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、」とあるのです。「みな捨て去って」心の中にスペースを作るということ。そして聖霊にとって代わっていただくためです。
そのために私たちは、今のありのままの姿で主の御前に出て、祈ることから始めること。そして、祈りつつ御言葉の水を注ぐことです。
「主よ、私の中にこのような問題があります。私の中にこのような欲深さもあります。私の中にこのような怒りもあります。私の中にこのような傷もあります。聖霊なる神さま、どうぞ働いてください。そして、私の中の空間を聖霊で満たしてください。私の持っている偽りと罪を全て追い出してください。」と祈っていくのです。

Ⅲ.ぶどうの木につながれば実を結ぶ

ペンテコステの出来事の中で、聖霊が臨んだ彼らの様子を、何か奇妙なものでも見るかのように、少し距離を置いて観察していたエルサレムのユダヤ人に向かって、この時ペトロは説教しました。
その中で、この出来事は、旧約聖書のヨエル書の預言の成就であることを人々に伝えました。
「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子や娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」(ヨエル2:17)
聖霊が降ると、「あなたたち」を基点に、「あなたたちの息子と娘」、「若者」、そして「老人」と4世代の者たちが聖霊によって熱心に主を証しする共同体になるとの約束が語られています。聖霊が降ると、「4世代からなる教会」が形成される、というのです。さらに、その「4世代からなる教会」の日常生活の姿が使徒言行録2章40節以下に出てきます。
聖霊降臨によって誕生したキリストの教会は、まさに「信仰生活の5つの基本」を土台に「高座教会の3つのめざすもの」に現された、主からの使命に生かされた延長線上にある教会の姿であることを改めて教えられます。この恵みは、あの2千年前のペンテコステの日に誕生したエルサレム教会ばかりではなく、同じ聖霊なる神さまを内側に宿す私たち「高座教会」にも現れる恵みであることを、今朝、もう一度、覚えたいと思うのです。
ここで注意したいことがあります。使徒言行録の著者ルカは、ペンテコステの日に聖霊を宿した群れの様子をレポートして、「教会はこうあるべきだ、クリスチャンはこうでなければならない」と主張しているのではありません。聖霊降臨の結果を淡々と報告しているのです。
神さまは、私たちがイエスさまの弟子として生かされるために、聖霊をくださっているのです。聖霊に導かれ、「もしイエスさまが私だったら、きっとこのように私の人生を生きるだろう」という日常的な生き方を、聖書を通して学ぶのです。弟子にとっての日常的な生き方こそ「信仰生活の基本」なのです。そして、「信仰生活の基本」を通して、ぶどうの木であるキリストに繋がり続けるということです。

Ⅳ.使徒言行録2章の教会と私たち

ぶどうの木であるキリストにつながり、キリストとの関係が回復し、親しい交わりの中で聖霊の満たしを受ける。このことこそ、神さまが私たちを導く導き方です。入り口は、私たちをまず、神さまとの生きた関係に招くということです。断絶していた関係をキリストの十字架によって回復し、神様につながれていくのです。
祝福された信仰生活の大原則は「神さまのために何かしてやろう」とか「立派なクリスチャンにならなければ」というようなところから出発しません。まずイエスさまと親しい交わりに入るところがスタートです。
ある時、仮庵の祭に集まっていた人々に対して、「イエスは立ち上がって大声で言われた」とヨハネ福音書に出てきます。
祭が盛り上がり、みんな興奮していたのでしょう。祭りやイベントで盛り上がりますが、その後、どっと疲れが押し寄せることがあります。主はそれをご存知でした。そうした彼らに聞こえるように、主イエスは、「『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」(ヨハネ7:37-39)と言われたのです。
ですから私たちは、このお方の招きに応えることです。使徒言行録2章に紹介されているエルサレム教会は生き生きしていましたが最初からそうだったのではありません。いただいた聖霊に満たされるためにぶどうの木であるイエスさまにつながっていったのです。そのようにして「恵みの循環」が始まっていきました。
私たちも同じ聖霊をいただいている教会です。この聖霊の命がいよいよ成長し、この地域の人々に福音をもって仕え、キリストの福音で満たすために、私たち一人ひとりが「信仰生活の5つの基本」を通してキリストに結ばれて生きていきたいと願います。お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

イエスはここにおられる

松本雅弘牧師
2019年6月2日
詩編94編1~19節、 マタイによる福音書18章15~20節

Ⅰ.主イエスはほんとうに生きておられる?

高校2年生の11月、生まれて初めて礼拝というものに参加した時のこと、同世代の高校生がギターを弾きながら、「豊かな人生の条件」というゴスペルを賛美したのです。その歌詞に私の心が捕えられたことを今でも鮮明に思い出します。
そして、翌日の月曜日の朝、学校に向かって歩きながら、一緒にいたクラスメートに「イエスが、枕もとに現れたら、信じられるかもしれない」と話したら、「松本、お前、それじゃ幽霊と一緒じゃん」と言って大笑いしたことを覚えています。
でも、翌週から、欠かさず礼拝に通い始めましたので、あの日、礼拝に出席したことが、私の中で強烈な経験であったことは確かでした。
しかしもう一方で、私にはどうしても確かめたいことがあったのです。それは、主イエスがほんとうに生きておられるのか、ということでした。歴史の教科書で、イエス・キリストは確かに歴史上の人物であったことは知っていました。2千年前に、現在のパレスチナの地に実在し、最後には裁判にかけられ、十字架で処刑されて終わった人間であるということも知識として持っていました。
ただ誤解を恐れずに言えば、そうした知識だけでは、私たちの救いに対して何の関係も起こらないのです。私たちにとって本当に大切なこと、ひと言で言うならば、それは主イエスが今も生きておられるという確信なのではないでしょうか。

Ⅱ.イエスがここにおられることを求めて

礼拝に通い始めた私たちが直面する問題はイエス・キリストが実在の人物かどうかとかといったことではありません。私たちにとっていちばん大切なことは、その主イエスが今も生きておられ私たちを愛していてくださり、そのお方の愛を実感できるということなのです。ところが、洗礼を受けてしばらくすると、その恵みの現実が当たり前になってしまうことがあるように思います。
この礼拝堂をリニューアルするにあたって、牧師として心の中にあった願いの1つは、「イエスがここにおられる」、主の臨在を覚える礼拝空間ということでした。
そのために色々な工夫をしました。そうした中で「エマオへの道」という廊下を作ることになりました。
イースターの礼拝で、エマオへの道を歩く2人の弟子たち、クレオパとその妻のお話をしました。あの日、エマオへの道を歩く2人に、復活の主が御言葉を説き明かし、食卓でパンを裂いて、ご自身を現わしてくださったのです。私たちも、それと同様の恵みを求めて、毎週主日に、ここにおられる主イエスにお会いするために、「エマオへの道」を通りながら礼拝堂に進むのです。
でも主が臨在される、主が生きておられるということは、どんなに工夫し、神秘的な空間を作ったとしても、それだけで、主イエスが今ここにおられることを証明するのは難しいのです。
日曜日の朝、礼拝堂に来ますと結構なにぎやかさです。ここにおられる主イエスをそっちのけで、礼拝開始10分前になってもザワザワ感があります。1週間ぶりに再会できた嬉しさもあります。時折、私も前奏が鳴る直前まで奉仕の連絡などをしてしまいます。
せっかく「エマオへの道」を通って礼拝堂に入って来たにもかかわらず、今、ここに主イエスがおられることへ私たちを導き、今、ここに主がおられることの証明にはなっていないのです。

Ⅲ.主イエスの約束の言葉を信じる

こんな経験をしたことがあります。クリスチャンになった後、一生懸命に聖書を読み、祈りを捧げ、信仰書を読み、教会の奉仕に参加する。ところが、ある時、ふと虚しい思いになったのです。
こんなことをしていて意味があるのだろうか、と思ったからです。礼拝の時間に遅れないようにと、汗をかきかきやって来る。でも、いったい、これはなんのためだろうかと思って、立ちどまってしまうような経験です。
そのような時、何とかしてその虚しさ、その心の空洞を、何かで埋めようとする誘惑に襲われてしまいます。そしてその結果、信仰生活に刺激を求めようと、教会の中に刺激的な集会が増えて来ることもあるのです。何か新しいものを捜そうとする。そうした誘惑はないでしょうか?
今日の聖書の箇所はまさに、そうした私たちに、とても大切な導きを指し示す御言葉です。主イエスにいたる道がある、非常に確かな道があるのだということを、私たちに指し示しているのです。
主イエスの約束の言葉を信じる、ということを、
今日与えられた聖書個所、マタイ福音書18章から見ていきたいと思います。
この18章は昔から「教会憲章」と呼ばれ、教会に関するとても大切な主イエスの教えがまとめて出て来る箇所です。
今日は、その中の20節に注目したいと思います。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」ここに重要な1つの約束が出て来ます。主イエスは、そのように約束してくださっているのです。
ここに、「その中にいる」と訳されている言葉が出て来ますが、原文のギリシャ語では、「真ん中にいる」という意味の言葉です。
「わたしはその真ん中にいる」。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその真ん中にいるのである」と主イエスはおっしゃったのです。
「真ん中」とは、そこにいる誰からも等距離、誰に対しても一番近く、まさに、真ん中にイエスはいてくださるという約束なのです。

Ⅳ.イエスはここにおられる

ど真ん中に「わたしもいる」と言って、イエスさまがここにいてくださるのです。「わたしは、あなたがたのど真ん中にいる」。この恵みの現実は、私にとって、私たちにとって、どれだけ力となるのでしょうか?!
この恵みの現実を心の目、信仰の目をもってしっかりと見て行く時に、私たちの礼拝、私たちの信仰生活は、どのように変化してくるでしょう?
窓の外を眺めると、木の枝に風があたって揺れているのを見ることが出来ます。私たちが信仰の目をもって周囲を見て行く時に、これと同じような経験をいたします。
キリストの霊である聖霊の風が吹き、その風にあたってその人の内に変化が起こるのです。
今日はこの後、洗礼式が行われますが、8回の勉強会をご一緒しますと、参加者の中に確実に聖霊の風があたっている様子を目の当たりにする恵みをいただきます。配布された「証し集」もそうした聖霊の働きの生きた証言でしょう。
勉強会の最初には教会の聖書を持って参加していた人が、ある時点で新品の聖書をもって勉強会に来るのです。しばらくして聖書にカバーがかけられていく。それは窓から木の枝に風があたって揺れているのを見るような経験です。
私が教会に行き始めた時の教会学校の先生は両親にも良い感化を与えてくださいました。私の家はクリスチャンホームではありませんでしたので両親は私の受洗を大反対しました。キリスト教のことなど全く分からず心配したからだと思います。
しかし息子がお世話になっている。親として感謝を表したいと思ったのでしょう。高等科の仲間と先生方を、家にお呼びして共に食事をしたいと言い出したのです。夏休みのある日、教会のあった小金井から、実家のある押上までわざわざ来てくれたことがありました。その日、仕事のある先生は参加できません。ところが食事を始めてしばらくすると、ひょっこりと現れ、お菓子の包みを置くとすぐに戻っていかれたのです。当時、お勤め先は新宿で、昼休みを利用して、わざわざ押上までやって来られたのです。両親はとても感激していました。キリスト教は分からないけれど、教会の人はどこか違う。両親の心がイエスさまに開かれていくきっかけとなった出来事でした。
キリストの霊である聖霊の風が吹き、風にあたったその方を神さまが用いられたのだと思います。その25年後、両親はそろって主イエスを受け入れ、洗礼へと導かれました。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」2人でも3人でもよいのです。「わたしの名によって集まるところに、わたしもその真ん中にいる」。
これは主イエスの言葉、主イエスの約束です。この約束を信じて、今日も礼拝を捧げているのです。今年私たちは、「私たち、集い喜び分かち合う」というテーマを掲げて歩んでいます。今、このように集う私たちの真ん中、只中に、主が共におられるのです。
その揺るがぬ現実、ここに生きて働いておられる主イエスを目の当たりにしながら歩んでいきたいと願います。主イエスは今、ここにおられます! お祈りいたします。