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主日共同の礼拝説教

御言葉は響き渡る

和田一郎副牧師
2019年7月28日
詩編19編1~15節  1テサロニケ1章5~8節

1、苦しみの中で

テサロニという町は、聖書に出てくる名前として親しみがありますが、現在もテッサロニキと呼ばれるギリシャではアテネに次ぐ大都市だそうです。パウロはその後、コリントの町にも向かいましたが。コリントとい町も、現在のギリシャの南部の都市です。テサロニケとコリントは、今は同じギリシャという国ですが、新約聖書の時代はマケドニア州とアカイア州とに分かれていました。もっと歴史を遡ると二つの地域は別々の独立国でした。人は国境を巡って権利を主張したり、争ったりします。しかし、信仰は国境を越えていくものです。今日はテサロニケの町をきっかけに、州や国境を越えて御言葉が響き渡った、というテサロニケの教会の様子を見ていきたいと思います。
パウロたちは3週間ほど、テサロニケの町で伝道を続けましたが、それを妬んだユダヤ人が暴動を起こして、パウロたちはテサロニケの町から去らねばならなくなりました。当然、テサロニケの町に残った人々も、大変な嫌がらせや迫害を受けたようです。
今日の聖書箇所、1章6節に「そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ・・」とあります。テサロニケの人々は、苦しみの中で、御言葉を受け入れたのですね。嫌がらせや、迫害を受けたにも関わらず、しっかりとした信仰を持っていました。いや、迫害があったからこそと言ってもいいかも知れません。パウロが称賛するほど、信仰が根付いていたのです。
先週、高座教会では、「セレブレーション・フォー・ザ・ネーションズ」という賛美集会がこの礼拝堂を会場として行われました。外国からも多くの人達が集まり、中国の人達も参加していました。中国本土では政府の圧力が教会にも及んでいることが問題になっています。教会の閉鎖や、聖書が焼き捨てられるといった取り締まりがあると言われています。しかし、今アジアの中でキリスト教が伸びているのは、取り締まりが厳しい中国だとも言われます。迫害という苦しみの中で福音を受け取る人がいて、迫害があるからこそ、信仰が強いものとされていくということがテサロニケの教会と同じようにあるのです。
パウロたちも伝道した先で、次から次へと妨害、迫害を受け続けました。しかし、逃げていった次の町で、また福音は広がっていきました。それぞれの町の人たちが、迫害があっても信仰を失わなかったのはなぜでしょう。それは苦しみ以上に、福音には平安があったからです。真の神様の救いとは「分け隔てなく、すべての人に救いがある」というものです。当時は身分や民族、それこそ男女という性別においても、大きな分け隔てがありました。それが取り除かれるというキリストの福音には、救われる思いがあったのです。それは北朝鮮でも、中国でも起こっていますし、テサロニケの町でもそのことが起こったのです。
そして、6節では、「わたしたちに倣う者、そして主に倣う者になりなさい」とあります。つまり、パウロ自身を見習い、キリストを見習いなさいということです。パウロの生き様というのは、キリストに倣う者となることです。キリストの生き様というのは、当時、世の中から疎外されていた人に寄り添ったということです、そして神様の願っている生き方を教えてくださいました。パウロはそのキリストの生き様に倣って生きていましたし、テサロニケの人々もそれに倣ったのです。

2、主の言葉が・・・響き渡った

7節で、「マケドニア州とアカイア州に主の言葉が響き渡った」とあります。それぞれの地域で、同じ福音、同じ御言葉が響き渡ったというのです。それは、苦しみの中で御言葉を受け取ったテサロニケの教会の人たちが、キリストの生き方に倣って信仰生活をおくっていたことによって、テサロニケという小さな教会から波紋が広がって、マケドニア州、アカイア州にも、そして至る所に伝えられるようになったのです。池の水の波紋が広がっていくように広がっていったのです。御言葉の力は、人間が引いた境界線を飛び越えていく力があります。それが福音の力です。
福音というのは「善い知らせ」という意味ですが、それは「和解された」という知らせです。別々だったものが和解される。神と人とは、人間の罪によって隔たりがあったのですが、それが和解されて、一つの家族の関係になれるという「善い知らせ」福音です。
イエス様が十字架で息を引き取った時、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けました。神殿の中には「これから先は神様の領域、その先には入ってはならない」という、神と人とを区別する垂れ幕があったのです。それがイエス様の死の瞬間、真っ二つに裂けて、隔たりのあったものが取り払われたのです。一つに包み込まれたのです。区別されていたものを包み込んだのが神の愛、キリストの福音です。
ユダヤ人とサマリア人は、いがみ合っていました。区別していたものを包み込んで、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てまでも包み込んでいったのが福音です。
当時「お前達に救いはない」、と言われていた病気の人、貧しい羊飼い、罪人と呼ばれた人たちは区別されていました。ユダヤ人とギリシャ人、奴隷とその主人は区別されていましたが、もう分け隔てはなく、神の前に等しく子としてくださった。神の家族として包み込んでくださったことが、善い知らせ「福音」です。その御言葉がテサロニケの教会をきっかけに、マケドニアにもアカイアにも響き渡ったのです。

日本と韓国にも同じ福音、同じ御言葉が届いてから400年ほどの年月が過ぎました。
今、日本と韓国は関係が悪いですね。テレビや新聞には毎日、二つの国の関係が悪くなっていることを伝えています。
今回、賛美集会に参加するために来日した韓国人の青年が話をしてくれました。日本人も韓国人も、互いを愛するということが、簡単なもんだいじゃないと日本に来て感じたと話してくれました。韓国から来る時も、「何で日本に行くのだ?」という空気があったそうです。ですから、彼らが日本に来て礼拝することにはチャレンジもあったのだと感じました。
ある韓国人の先生がメッセージをしてくださいました。あなたは何者ですか? と聞かれたら、私は「礼拝者です」と答える、と話してくれました。何故かと言うと、「神様が私に、一番求めていることは、神を礼拝することだ」と言うのです。だから、今回日本で賛美集会が行われると聞いて、日本で礼拝をしたいと思って来たというのです。私は思いました。私たちが、一礼拝者となった時、韓国人も日本人もないと思いました。一緒に賛美している時に、心からそう思わされました。人は心から神を礼拝する時に、神様が造られた人間本来の姿にもどります。ただ礼拝者となる時に、人の知恵の足りなさや、エゴや、人を裁く心を、そのまま包み込んで、神の前に一つになれるのではないかと思いました。ただ礼拝することで、キリストに近づいていきたい。それこそが信仰ではないでしょうか。神様は、それを「あなたの信仰が、あなた方を救った」と言ってくださいます。
国が違えば文化が違います。民族が違えば習慣が違います。それぞれの違いを包み込んで福音は広がっていきました。天地万物を造られた神様の救いには、すべてのものを包み込んで、違いを尊重しながらも、一つになれる力があります。
私は賛美集会で祈り、賛美する中で「礼拝する者」という自分の生活の在り方を見つめ直したいと思いました。日々の中で礼拝する者として、どう在るべきかを考えさせられました。
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる、聖なる生ける生け贄として献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマの信徒への手紙12章1節)
自分の体をもって、礼拝する者で在りたいと思います。この一週間、すべてをキリストの大きな愛で包み込んでくださる、神様を礼拝する者として歩みましょう。
お祈りをします。

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共に生きる者として

松本雅弘牧師
2019年7月21日
創世記2章18―25節、マタイによる福音書19章1―12節

Ⅰ.主イエスを試すことで、神に試される私たち

マタイ福音書19章から、主イエスはいよいよ都エルサレムを目指して出発します。
その途上、様々な人々が主イエスに近づき試そうとするのですが、実は、逆に主イエスによって試されていくのです。そうした人々の最初に登場するのがファリサイ派の人々でした。

Ⅱ.離婚できる条件は?

ファリサイ派の人々は主イエスに尋ねました。「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と。
彼らが問題としたのは「夫側の離婚の権利」でした。当時、ユダヤ教では離婚に関して様々な見解がありました。元となる聖句は、申命記24章1節以下の御言葉で、「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」とあり、この「恥ずべきこと、気に入らないこと」とは、一体何かが議論の的となっていました。
実はその見解はそれぞれの派によって異なっていました。こうした背景の中、主イエスはどうされたかと言えば、創世記を引用しながら、「創造主は初めから人を男と女とにお造りになった」と答えられました。
神ご自身は完結されているが、人間は男性だけで、あるいは女性だけで完結して生き得るのではなく、互いに相手を必要とし、他者と共に生きる存在として造られているのだ、と語られたのです。
こうした主イエスの理解は、現代の私たちにとっては当然のことでしょう。カンバーランド長老教会の信仰告白にも、男女は対等で相補的で、共に生きる者として造られていると告白しています。ですから主イエスの教えには違和感はありません。しかし、当時のユダヤ人にとってはそうではなく、主イエスが示した理解は,ものすごく画期的で、ファリサイ派の人々からしたら全く想定外の答えを聞かされたようなのです。
ファリサイ派の人々が主イエスから引き出したかった答えは何かと言えば、男性の離婚の権利が、どれほどの幅をもって許されるものなのか、ということでした。
しかも、彼らがその質問をする前提には、女性には離婚に関わる権利が与えられていないという考え方がありました。実はこの後、主イエスが問題にされたのは、まさにその前提そのものだったのです。
ここで主イエスは、創世記2章24節を引用し、女性の立場を擁護されます。女性が一方的に離婚されない権利を、御言葉は保証しているのだと発言されたのです。この発言は、女性には離婚に関わる権利はないと考えていたファリサイ派の人々にとっては挑発的な投げかけでした。
ですから当然、反発が起こり、彼らは「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」と反論してきたのです。当時、ファリサイ派の人々にとり、モーセは絶対的な存在で、彼の言葉は絶対的な権威だったからです。
ところが、これに対して主イエスは「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない」とお答えになりました。
つまりモーセが語った真意は、離縁された女性がそのまま放置されたら生きていくこともできないので、彼女たちの再婚の権利を保障するために、「離縁するならば、きちんと離縁状を渡してからするように」と、モーセは言いたかったのだと答えられたのです。
さらに、主イエスは女性の権利を徹底して守ろうとして、「言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」(9節)とお語りになったのです。

Ⅲ.弟子たちの驚き

こうした主イエスの厳粛な教えを聞いた人々の中に弟子たちも居ました。そして、彼らは驚いて「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言って、思わず議論に口を挟んでしまうのです。弟子たちも時代の子、ファリサイ派の人々とそれほど変わらない女性観、結婚観を持っていたのでしょう。
弟子たちの反応をご覧になった主イエスは、今度は一転して別の話を始められました。それは独身についてでした。「イエスは言われた。『だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。』」(11節)
この時代のユダヤ社会において、結婚は何かと言えば、「産めよ、増えよ」という神の命令に対する応答で、ある人は、それを義務とさえ考えていました。
しかし、ここで主イエスはさらに踏み込んだ発言をされました。つまり結婚しない生き方について触れたのです。それも、そうした生き方を認め、積極的に評価までしておられます。
これは画期的なことでしたし、結婚したくても出来ない人も当然いたことでしょう。「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受けいれなさい。」(12節)
この、「結婚できないように」という言葉を、以前に使っていた口語訳聖書、そして、最新の聖書協会共同訳でも「独身者」と訳されていますが、ギリシャ語では「去勢された者」という語が使われています。
ここに3種類の結婚しない人々が挙げられています。まず第2の「人から結婚できないようにされた者」というのは、戦争(捕虜)、奴隷制、性的搾取などのゆえに去勢された人々、事故などでそのような身体的状況になった人々を指すと言われます。
そして3つ目、「天の国のために結婚しない者」というのは、宣教活動など信仰的・宗教的理由で、まるで「去勢された者」であるかのように結婚せずに独身生活をする人々のことでしょう。また「天の国のため」でないかもしれませんが、宮廷の高官職に就くために、自ら去勢した人もあったようです。
では、最初に挙げられている「結婚できないように生れついた者」とはどういう人々のことを指しているのでしょうか。それは、「去勢」という行為をしなくても、「結婚できない人」と見られた人々のことを指すのではないか、と考えられます。

Ⅳ.共に生きる者として

ところで、先月、GA(カンバーランド長老教会総会)に出席された直後の説教で、和田先生がLGBT、セクシュアル・マイノリティーの人々について触れられました。同性愛の教職を認めるか、というのが論点だそうです。カンバーランド長老教会も、いよいよ、その話題と向き合う時が来たかと思わされました。今の時代、様々な理由で結婚しない人が増えていますし、同性愛者のカップルで生きる人々もいます。その他のセクシュアル・マイノリティーの人々もいます。
カンバーランド長老教会の指定神学校の1つで、荒瀬先生も教えておられる日本聖書神学校に山口里子という聖書学の先生がおられます。山口先生が『虹は私たちの間に~性と生の正義に向けて』(新教出版)という書物を書いておられます。
その本の中で山口先生は、この12節に出てくる、「結婚できないように生れついた者」に触れ、こうした人々の中には、今日でいう同性愛者他さまざまなセクシャル・マイノリティーの人々や、当時の「男らしさ」という文化的規範に適合できない人々・しない人々も含まれていたのではないか、と語っておられました。この件については、今後時間をかけ、慎重に議論していく必要がありますが、少なくとも、主イエスは、結婚という男女の交わりを中心に置きながらも、それを絶対化することなく、むしろ、さまざまな生き方があることを認めておられたのかもしれない。
だからこそ、その主イエスと直接やりとりをした、ファリサイ派の人々、その時代の子であったご自分の弟子たちも、イエスさまのお考えがあまりにも斬新であり、画期的であったが故に、ついて行けなかったのでしょう。イエスさまは、そうしたことを、公けに語られただけでなく、むしろ、教えるようにして生きられました。ゆえに、その主イエスに対して我慢ならない。結果として、十字架があったことを思わされるのです。
使徒パウロは次のように語りました。「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。」(Ⅰコリント7:7)
そう語ったパウロも独身を貫き、洗礼者ヨハネも、そして、他でもない主イエスご自身も結婚しない生き方をした御方です。
このように見てくると、本当に大切なことは、ありのままの自分が神さまからの賜物であることを受け入れ、それ故、そのことが私にとって祝福された状態なのだということを信仰をもって受けとめることなのではないでしょうか。主イエスの、命を賭けた後ろ盾があるわけですから。
お祈りします。

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決断した者の強さ―2つの言葉の間を生きたマリア

松本雅弘牧師
2019年7月14日
ルカによる福音書1章26~38節

Ⅰ.出会いを選び取り直す

「人生は出会いで決まる」、という言葉を聞いたことがあります。確かに、ある出会いを通して、それまでの歩みとは180度違った方向に導かれることがあるでしょう。友だちとの出会い、恩師との出会い、伴侶との出会い、子どもとの出会い、また映画や歌、書物との出会い、場合によっては病との出会いもあると思います。そのような意味で、出会いというものは本当に不思議です。
私が高座教会という教会と出会ったのは大学4年生の時でした。当時は学生会と青年会の2つに分かれて活動していましたが、その学生会の集会に来たのが最初でした。それから6年を経て、高座教会で伝道者として働くことなんて考えてもいませんでした。
当時、墨田区の押上にあった教会に通っていましたが、最終学年になり「牧師になりたい」という強い思いが与えられ、そうした方向を模索していました。ただ、そこには幾つかハードルがあり、中でも一番高いハードルが父親の存在でした。
私が「牧師になりたい」と父に話した時のことを今でも覚えています。父は本当に戸惑っていました。そして興奮した声になり、「何を考えているんだ! お前を牧師にするために、学校に行かせたのではない!」と、とても強い調子で怒りました。しかし、私の方は私の方で、ここで妥協したら、一生後悔するという思いがありました。父親は、とても頑固な親父でしたが、その後、父の葬儀の時に読まれた証しを聴きながら、「私も頑固だったなぁ」と思わされました。
私たちの人生の出会いについて、自分の責任の中で選び取る場合、ある程度の責任は私の側にあるわけですから、多少、辛くても文句は言えません。でも、選び取るというよりも、逆に神さまにあてがわれた環境、神さまに選ばれ、置かれた状況だと強く感じることもあるように思います。そのひとつは、家族との出会いです。それは両親との出会い、兄弟との出会いであったり、また子どもとの出会いであったりします。

Ⅱ.神からの選び

今日の聖書には、イエスさまの母親として神に選ばれたマリアの姿が出て来ます。ここには「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言って、はっきり「はい」と答えるマリアの姿が出て来ます。ただ、何のためらいもなく、「はい、分かりました」と即答したのではなく、戸惑い恐れ、迷う中での決断でした。そのようにして神の選び、ある人にとって、それを運命と呼ぶかもしれませんが、マリアはそれを引き受けていったのです。

Ⅲ.2つの言葉を繰り返したマリアの生涯

この後、聖書はマリアがどのような歩みをしたのか伝えています。ある人は、「どうして、そんなことが」という言葉と、「この身に成りますように」という、2つの言葉の間を、マリアは行ったり来たりする歩みだったのではないかと語っています。
結婚前の妊娠、離縁騒動、家畜小屋での出産、神殿でのシメオンの不気味な預言、イエスという御子の誕生、直後のエジプトへの避難、そして外国での難民としての生活、12歳になったイエスがとった神殿での奇妙な言動、そして息子がメシアとして活動を始めたこと。しかも最後の最後で、愛する我が子の死がありました。それも犯罪人の一人として十字架で処刑される我が子を見なければならなかったこと等です。
一つひとつの出来事と遭遇する度に、「神さま、どうしてですか」、「どうしてこんなことが」と戸惑い、訴えたい思いになったことでしょう。でもしばらくして気を取り直し、「お言葉どおり、この身に成りますように」と委ねていく。これがマリアの姿です。
私たちも生活をしていく上で、マリアと同じような経験をするのではないでしょうか。信じられないことが起こります。勿論、とっても幸せな瞬間が、突然訪れて来ることもあるでしょう。でも多くは信じがたい出来事が起こるものです。
特に家族に関係すること、その中でも子どもに関することでは、親として本当にどうしていいか分からないような辛い出来事を経験することもあるのではないでしょうか。そして思わず、「どうしてこんなことが起こるのか」と嘆き、怒り、最後は失望し、疲れてしまいます。
でもマリアの生涯を思いめぐらす時、日々の生活の中での浮き沈みは、生きるうえで当然のこと、取り乱したり、怒ったり、落ち込んだりする反応は、人として当然の反応だということを、改めて知らされるように思うのです。
マリアも私たちと同じように何度もそうした経験をしました。そうした中で、「どうして、そんなことが」という最初のつぶやきに留まるのではなく、「お言葉どおり、この身に成りますように」というところに導かれたのだと思うのです。

Ⅳ.神の選びを引き受ける

王からの借金を帳消しにしてもらった家来のたとえ話を、先週の礼拝でご一緒に学びました。最後のところで、その膨大な借金を帳消しにしてもらった家来が、50万円のお金を貸している仲間に向かって、執拗に借金の返済を求めたことについて、私たちはその人の行為にどこか違和感を覚えるのだ、というお話をさせていただきました。
私たちには神さまとの関係という縦軸があります。健康であることは素晴らしいことです。でも、その健康な状況、その日々を、どのように生きるか、そのことが問われているのです。神さまとの縦軸を覚えた時に、その人が健康という恵みの機会を、神さまの御旨にそぐわない生活でもって消費していたとするならば、その健康な状態に意味があるのでしょうか。
聖書が教える「良さの基準」とは、結論から言うならば、神に造られた目的に沿って生きるかどうか、ということです。
日々の生活の中で、私たちは様々な出来事に遭遇します。そうした出来事一つひとつの中で、「どうしてこんなことが起こったのか」とがっかりし、嘆き、怒る、ということがあるでしょう。
しかし聖書は、そのような一つひとつの出来事を通して、神は作品である私たち一人ひとりを形づくられると語ります。そして、この世界に一つしかない、マスターピース、最高傑作として、「私」という作品を形成しておられると言うのです。
聖書は、それを神のご計画と呼びます。その計画は、固定され、動かしようのない計画ではなく、むしろ、その働きに私も参加するようにと招いておられるご計画です。
それは、英語で言えば「プラン」と呼ぶよりは「プロジェクト」と訳されるべき言葉です。そのプロジェクトに加わるように、そして、一緒に形づくっていくようにと神さまは、私たちを招いてくださっているのです。
高座教会の形成についても同様です。キリスト教哲学者のガブリエル・マルセルは、人生のすべての出来事は、「問題」か「神秘」かだ、と語ります。仮に1つの出来事が「問題」ならば、問題ですから、それは必ず解決されなければなりません。でも、「神秘」であるならば、それは味わうべきだ、というのです。
ちょうど、今日の聖書に出てくるマリアのように、そのままを身に納めて、時にそれを角度を変えて眺め、飴を舌の上に載せて味わうように、その出来事を心の中で思いめぐらすのです。
時間をかけて、ゆっくりと咀嚼していく。そのプロセスにおいて神さまは、私たちを祝福してくださるのです。
波乱万丈の人生を送ったパウロは人生を振り返り「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」(Ⅰコリント15:10)と証ししました。
別の訳の聖書では、「神の恵みによって、今の私になりました」とありました。神さまの恵みによって、この私を仕上げるために、様々な出来事が起こって来るのです。しかし、万事が益とされていくのです。今日の、グローリー☆エンジェルズの特別賛美、「クレド(弱いものの信仰宣言)」の詩そのものです。
先ほど、父との葛藤の証しをしましたが、私の献身の思いを父に伝えた時に、私は父に思いっきりぶつかることができました。父は父で、私が思いっきりぶつかったことによって、それがきっかけとなり、父も自分のこととして信仰を捉えることができたのではないか、と思います。
親として、子どもたちとの出会いもそうかもしれません。自分の子どもの気持ちをなかなか受け入れられない経験もするでしょう。何故、うちの子に限って、「どうして、そんなことが…」と、切ない思いに襲われる時もあるでしょう。でも、「お言葉どおり、この身に成りますように」と、その出会いを引き受けていく時に、そうした一つひとつの出会いを通して、私たちの人生が豊かにされていくことを覚えたいと思うのです。
お祈りします。

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赦しとは私たちが変えられること

松本雅弘牧師
2019年7月7日
申命記24章17~22節 マタイによる福音書18章21~35節

Ⅰ.たとえが語られた背景

マタイ福音書17章では、主イエスとペトロが仲よく話をしています。それを知った他の弟子たちは、ペトロが主イエスから特別視されていると思い、そこで、「『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』」(18:1)と聞いています。それに対して主イエスは小さい者の大切さ、その小さい者を躓かせる人の罪についてお語りになりました。これが18章の始まりです。

Ⅱ.何回赦すべきでしょうか?

罪に対する主イエスの赦しの教えを聞いたペトロは、3度までは赦すようにという、当時のラビたちの教えを上回るように、7度まで赦せばいいですかと、主に尋ねます。しかし、意外な答えが返ってきました。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(22節)。
この7の70倍を計算しますと490回となります。ここで主イエスが言わんとしていることは、どこまで我慢すればよいかではありませんでした。主イエスは、それをペトロに悟らせようと、ひとつのたとえをお話になりました。「仲間を赦さない家来のたとえ話」でした。

Ⅲ.仲間を赦さない家来のたとえ話

主君が家来に1万タラントンのお金を貸していました。これは想像を超えるような額です。
次に百デナリオンの借金が出て来ますが、こちらは想像がつきます。1デナリオンは当時の労働者1日分の賃金に相当します。1日分の賃金を5千円と計算すれば百デナリオンは50万円の借金です。では最初に出てくる1万タラントンの借金とはどのくらいの額なのでしょうか。
計算してみると3千億円になりました。1人の人間が働いて返せる額ではありません。ちなみに当時のガリラヤの領主ヘロデの年収が5百タラントンと言われます。この時、家来が王さまにしていた1万タラントンと言う借金の額がどれだけ膨大なものなのか、よく分かるように思います。それに対して、百デナリオンは60万分の1です。
イエスさまが語るたとえ話に出てくる「主君」とは、神さまをたとえているのでしょう。そのお方に対する人間の罪、負い目は、私たちが一生か
かって努力し、つぐなおうと頑張ったとしてもつぐない切れないほどのものです。にもかかわらず、神さまは私たちを赦してくださっているのです。このたとえ話をお語りになりながら、イエスさまはそうした私たちと神さまとの不釣り合いな関係を思い起こさせています。
では、このたとえ話の筋を追ってみたいと思います。まず、最初の場面は1万タラントンの借金をしている家来が、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」としきりに頼む処から始まります。主君はその家来を憐れに思い、彼を赦し、借金を帳消しにしてやったというのです。赦された家来は心の中で「やったー」と両腕を突き上げたことでしょう。彼は喜び踊るような心を抑えながら、主君の前から退席し、街に出たのです。するとそこで、自分がお金を貸している仲間に出会います。貸している金額は百デナリオン。先ほどの計算によれば50万円です。今、赦されてきたこの家来がどうしたかというと、主イエスは次のようにお語りになりました。
「ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。」
確かに50万円も結構な額です。でも一生懸命働けば返せない額ではありません。このように私たち人間同士の負い目は、神さまに対する負い目に比べたら、その程度のものであるということを、ここでは暗に示しているのでしょう。
そして最後の場面に移ります。牢屋に入れられた人の友人が主君に全てを打ち明け「何とかしてください」と直訴したのです。すると主君は再びその家来を呼びつけて、「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」(32-33)と怒って、その家来を牢屋に投げ入れたという話です。
このたとえにはどんな意味が込められているのでしょうか。単純に、この家来のしたことの良し悪しを問いかけておられるのではないことは明らかだと思います。たとえ話を聞いているペトロや他の弟子たちが、この物語を聴くことで、これこそがあなたがたのこと、常日頃、あなたがたの心の中に動いている物語なのですよ、とおっしゃりたかったのではないではないかと思います。
『エクササイズ』の言葉を使うならば、イエスさまは、私たちの心の中にある「偽りの物語」に気づかせようとなさったのです。赦されている実感がないのです。だから他人を赦すことができない。そうした悲しい現実が、私たちの現実ではないでしょうか。
今日も礼拝の中で「主の祈り」を祈ります。そこには「私たちの罪を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を赦しますから」という祈りの言葉があります。
この願いのベースにあることは、神さまが私たちを赦してくださることと、私たちが誰かを赦すということは、切っても切り離せない関係にある、セットであるということでしょう。私たちが心に留めるべきこと、それは、神の愛は無条件の愛だということ。たとえ話の主君が、この家来を赦してやった時、何の条件も制限もつけなかったという事実です。そして、想像を超えた神の愛を思い巡らす中に、私たちの心に変化が起こる。私自身が赦せる心、愛する心を持つ者へと変えられていくということです。
今日の旧約の朗読箇所、申命記によれば、ぶどうの実の収穫の時、残っている房を全部集めるとか、麦の穂を刈り取った後に、残っている穂を全部拾い集め「これはみな、私の物、誰にも上げない」と言うのではなく、落ちたままにしなさい、残ったら残ったままでよい、いやむしろ敢えて残すようにしなさい、と命じているのです。
何故なら、収穫する物も持たないやもめたちや、身寄りのない子ども、寄留者たちのために、「さあ、どうぞいらっしゃい、あなたがたの取り分はここにありますよ」と言ってあげるためなのだ、と教えているのです。
その理由は、申命記24章18節にあります。「あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。」
そして、こうした生き方ができるには、あの出エジプトの出来事があり、そこには、何千、何万匹もの小羊によって、エジプト隷属からの解放があった事実がありました。そして、私たちにとっての出エジプト、罪の隷属からの解放、救いをもたらしたのは、世の罪を取り除く神の小羊の命へ、キリストの十字架だということです。
「あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい」(申命記24:18)とは、十字架の贖いを思い起こすことです。
このあと十字架の道を行かれる主イエスは、私たちの負い目を追求されるのではなく、その罪が赦されていることを、十字架において明らかにされるのです。そういう神さまの御心に気づく時に、赦された者、負債を免除にされた者、つまり神に愛されている者としての感謝という変化が、私たちの心の内側に必ず起こって来るのです。その恵みに浸る時に、私たちは感謝と喜びに満たされるのではないでしょうか。

Ⅳ.赦しとは変えられること

赦しとは、単に我慢を強いることではなく赦しの愛に触れた私たち自身が変えられることです。今日も「派遣の言葉」、「平和のうちに世界へと出て行きなさい。」をもって派遣されます。神の平和で心満たされて出て行きます。
ガリラヤ湖にヘルモン山の雪解け水が流れ入るように、私たちの心に神の恵みと平和が注入されている。力強い神が共におられ守って下さるのだから、私たちは勇気を持つことが出来る。その平和を携え世界へと出て行きなさい。
神ご自身が、全ての善悪の決定的な基準です。そのお方の前に生きている者として、「いつも善を行うように努め」る者として生かされています。最終的に悪に報いられるのはそのお方です。私たちが自らの手で悪に報いる必要などありません。
むしろ、相手の益を求め、「気落ちしている者たちを励まし」、弱さを抱えている人たちの支えとなり、困難の中にある人を助け、すでに神さまから最大のリスペクトをいただいている私ですから、すべての人を尊重するように。そのようにして、主を愛し、主に仕え、聖霊の力によって喜ぶように、と召されています。
私たちが辛くなる時、もう一度、赦しの愛、一方的な愛のシャワーを浴びましょう。「あなたはわたしの愛する子。あなたはわたしの喜び」。その御声が聞こえる場所に身を置きましょう。
その恵みに満たされ、今度は神の愛を届けさせていただきましょう。何故? 「神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」
お祈りいたします。