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主日共同の礼拝説教

人ではなく神に喜んでいただくために

和田一郎副牧師
マラキ書1章11-14節 テサロニケ一2章1-4節
2019年8月25日

はじめに

 

パウロがこの手紙を書いた頃、現在のギリシャにあったテサロニケの教会は模範的な教会でした。偶像とされるギリシャの神々から離れて、イエス・キリストこそ主であるという信仰を忠実に守っていました。周囲のクリスチャンの模範となっていたのです。このテサロニケの教会が模範的であったことは、世界中にキリストの福音を広める、大きな転換点となったと言われます。パウロは第1回伝道旅行では、アジアの各都市への宣教旅行でした。現在のトルコ共和国です。しかし、第2回伝道旅行ではアジアを通り抜けて、エーゲ海を越えて、ついにヨーロッパ宣教に入ったのです。パウロは、エーゲ海の手前のトロアスという町で幻を見ました。「マケドニア州に渡って来て、私たちを助けてください」、というマケドニア人の幻を見て、ヨーロッパに渡る決意をしたわけです(使徒言行録16章)。 タルソスという小アジアで生まれたパウロにとって、それまでは、自分の陣地といっていい地域での宣教旅行でしたが、ヨーロッパに足を踏み入れたのです。そこで訪れたフィリピ、テサロニケにキリストの福音が伝わり、当時ローマ帝国が整備していたイグナチオ街道にのってキリストの福音が広がるという転機となりました。パウロが建てたテサロニケ教会が模範となって、この街道にのって福音が広がっていったのです。
さてパウロたちはヨーロッパに足を踏み入れたのですが、まずフィリピの町で迫害を受けて追い出され、次のテサロニケの町でも迫害を受けて追い出されました。そうして数ケ月経ったころでしょうか、残されたテサロニケ教会の人々が心配になって書いた手紙が、今お読みしている手紙です。

Ⅰ、無駄ではなかった

 

今日の聖書箇所テサロニケの手紙2章1節から、パウロはテサロニケに行った時のことを振り返っています。「テサロニケの兄弟たち、私がそちらに、つまりテサロニケへ行ったことは無駄ではなかった」というのです。「無駄ではなかった」というからには、どこかで「自分のしていることは、無駄なんじゃないか?」という思いがあったのかも知れません。しかし、そんなことはない。テサロニケに行ったことは、無駄ではなかった、無駄どころか、結果的にはパウロたちがテサロニケに入っていったことで、テサロニケに教会が生まれました。そして、パウロたちが去った後も、しっかりとパウロの教えが守られている知らせを聞いたのです。

Ⅱ.「迷い、不純、ごまかし」によるもの

パウロの激しい苦闘の中には、自分に対する悪い評判に対するものもあったようです。
3節に「わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません」また、5節には「わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。」という言葉使いから、パウロに対する悪い噂や評判に対して、自己弁護している様子を感じます。パウロという者は、不純な動機がある、つまり真理に基づくものではなくて、人に気に入られるような教えや、他宗教の人々をかすめ取ろうと企んでいる者だと、噂を流している人たちがいたようです。恐らくテサロニケを去ったパウロの悪口を言い、パウロの評判を落とすことで、彼の伝えた福音というものは真理などではない、偽りの話だと否定したかったのでしょう。そうしたことを言い広める者たちとの戦いもあったのです。

これほど次々と妨害が続いて、普通の人でしたら「これはやっぱり宣教旅行に行くのは神様の御心ではない」とか、「ヨーロッパに宣教に行くのは諦めるしかないんじゃないか?」と思うのではないでしょうか。先のこと、先のことを思い描いていたら、進めなかったでしょう。普通の人はそう思うものですし、信仰というものがない人は、無理だと考えます。しかしパウロは諦めなかったのです。事を実現してくださるのは神様だからです。自分にこれからどういうような事態が起ってくるのか分からないけれど、目の前の町で宣教することは、神様が成してくださることだと確信していたのです。
私たちに求められるのはこの確信ではないでしょうか。先々のことを考えなくえいいとか、計画を立てなくていいというのではありません。しかし、まだ何も分からない先のことに思いがいってしまう。そして確信が持てない。これがいつも私たちを立ち止まらせる原因です。わたしたちの住む日本は、戦後の高度成長期に、右肩上がりの成長路線に乗って、将来の青写真を描きながら歩んできました。その成長路線一辺倒の将来像には無理があるのではないか。長期的な計画を描くことが難しい時代に、私たちは今生きています。それでは私たちは、どこに向かっていけばいいのでしょうか。

先週の祈祷会で、ある長老が箴言20章24節から奨励をしてくださいました。
「人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか。」
神様が私たちに定めてくださる「先」というのは、一歩一歩だというのです。日々新たにされて、その日その日の歩みを、しっかりと踏み続けることが出来るように定めてくださいます。人が自らの道について理解していなくても、神様はその日の一歩を示してくださるのです。
「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」(詩編119編105節)
「灯(ともしび)」は英語ではランプとなっていました。足元を照らすぐらいの小さな光です。神様は、私たちの先の先まで大きな光を照らして、将来を示されるのではなく、一歩一歩の足元を照らしてくださる方です。最終的な未来には大きな希望を与えてくださっています。しかし、昼は雲の柱で、夜は火の柱で、一歩一歩の行く先を導いてくださいます。神様は、わたしたちにその一歩先を、確信をもって踏み出せるように、明かりを灯(とも)してくださいます。
そして、パウロはいつもその一歩一歩をしっかり踏みしめて歩んだのです。恐らくパウロ自身も不安で揺れることもあったと思います。テサロニケに来てはみたけれども、自分の想像した以上に厳しい状況に、「これはひょっとしたら神様の御心ではないかもしれない。」という思いがあったかもしれません。しかし、「神様に勇気づけられた」と2節にあるように、次の一歩を踏み出したのです。この町で証しをし、この町で福音を伝える。「わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているのだ」。神様はその思いを与え、灯をともして、次の一歩を踏み出せるように、パウロの背中を押してくださいました。パウロは、もう人の評判や、次に来るかもしれない迫害や妨害を気にするのではなく、そのようなことがあったとしても、人の評判ではなく神様に喜んでもらうことを選んだのです。
自分が犠牲になることを、惜しむのではなく、イエス・キリストが自分のために犠牲になられた恵みを、心の支えとして歩んだのです。

Ⅳ. まとめ

今日の聖書箇所は、パウロがテサロニケでの出来事を振り返って、テサロニケを追い出されて、その時は落胆したけれど、「無駄ではなかった」と振り返っている箇所でした。
みなさんには、「あれは無駄だった」と落胆するような思いではあるでしょうか。
「あの時、ああだっタラ」「あの時、こうすレバ」というタラレバをわたしたちは思い起こします。しかし、パウロは自分の生き方に自信をもって生きていると感じられます。鞭を打たれ、投獄され、船が難破し、人に罵られ、悪い噂をたてられて、迫害にあって命を脅かすようなことの繰り返しでした。大宣教者として讃えられるような輝かしい場面などはありませんでした。しかし、すべて「無駄ではなかった」。神によろこばれる道を歩んだパウロは、一切無駄のない神様に信頼していました。
「神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。」
1テモテ4章4-5節
人のすることには、無駄がありますが、神様は無駄のない方です。「これでよし」、「全てよし」とされる方です。神様に委ねて歩む時、無駄に思えることも、感謝して受けるならば、そこに無駄など見当たらない。「見よ、それはきわめてよかった」とされるのです。
その日、その日に灯(とも)される灯に従って、一歩一歩の歩みを確かにして、わたしたちの心を吟味して下さる神様に従って、この一週間歩んでいきましょう。
お祈りします。

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神の可能性を信じて

松本雅弘牧師
ヨナ書2章1~10節  マタイによる福音書19章16~30節
2019年8月18日

Ⅰ.金持ちが天の国に入るのは難しい

今日、お読みしました聖書の箇所は、主イエスがエルサエムに向かって最後の歩みをしているその途上での出来事です。
一人の若い青年が、永遠の命を手に入れたいという願いをもって、主イエスに近づきました。昔から「富める青年」と呼ばれていたこの青年は、永遠の命を得る道について、主イエスと語り合う特権に与ったのです。
しかし、対話の結末はどうだったかと言いますと、「青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」(22節)と出てきます。
前回、この青年を、「弟子になりそこなった青年」と呼ぶ人があることを紹介しました。この時の青年、彼は「悲しみながら」立ち去るのですが、この「悲しみながら」という言葉は、とても深い、心痛む悲しみを伝える言葉が使われていると言われます。
弟子になりそこなった悲しみ。主イエスに心惹かれながらも、永遠の命の約束をいただけなかった悲しみでしょう。
その理由についてマタイは、彼が「たくさんの財産を持っていたから」と述べています。彼にとってのそうした財産、「これさえあれば、人生、やっていける」という財産、彼にとっての、ある種の人生の拠り所であった財産が、実は主イエスとの間を隔てる大きな壁になっていたのです。
ですから、主は、ご自身との間を隔てる財産という壁を取り払い、まさに幼子のように、主イエスのふところ目がけて飛び込んでくることを彼に求めたのです。
このやりとりの一部始終を見ていた弟子たちに向かって、主は語られました。「金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(23、24)と。
これは当時の常識を覆すものでした。何故なら富は神さまの祝福と考えられていたからです。これを聞いた弟子たちは非常に驚き「それでは、だれが救われるのだろうか」(25)と言ったと出て来ます。これに対して主イエスは、「らくだが針の穴を通る」というたとえをお語りになりました。

Ⅱ.神は何でもできる

さて、こうした弟子たちの反応に対して主イエスは「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」(26)と言われたのです。
主イエスが言わんとしているのは、「だから金持ちは救われない」ということではありません。むしろ全く別の角度、全く新たな可能性を示しているように思うのです。
つまり、「人間にできることではないが、神は何でもできる」ということです。考えてみれば確かに「人間にできることではないが、神は何でもできる」という使信は、聖書全体を貫く基本的なもの、この言葉は聖書全体に響いているメッセージでしょう。

Ⅲ.主に従うことから来る報い

富める青年は、心を痛め、深く悲しむのですが、主イエスに従うことなく立ち去っていきました。その直後、そこに居合わせたペトロが、その青年と自分たちを比較して、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(27)と主張しました。
このペトロの言葉の冒頭にある「すると」と訳された言葉を、口語訳聖書では「そのとき」と訳していました。
「そのとき」とは、まさに26節で主イエスが弟子たちを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」とおっしゃった「そのとき」のことです。
そのときに、ペトロが「主よ、私たちはそれをやったのです」と答えたというのです。考えてみれば、これは本当にちぐはぐです。「神にしかできないこと」と言われた主の言葉を遮り「主よ、違います。人間にもできる。実際、私たちはそれを成し遂げたのです」と応答したのです。
しかもこの会話の前には「金持ちが天の国に入るのはらくだが針の穴を通るよりも難しいことだ」との主の言葉に「それでは誰が一体救われるのですか」と問い返した弟子たちの言葉に対し「いや、神に不可能なことは何もない。神にはそれがおできになる」と言われた、その主の言葉を否定する発言です。
このように読んでいくと「それでは誰が一体救われるのですか」という問いかけは、ペトロ以外の弟子たちがしたのかもしれません。何故ならペトロ自身は、自信満々「私たちはしっかりとあなたに従ってきました」と告白しているのですから。
ペトロは主イエスの言葉を理解していなかったのではないかと思います。しかしそれでも主はそうしたペトロを受容しておられます。
こうしたことを踏まえて、もう一度、26節に戻ります。
この「神には何でもできる」という個所をギリシャ語で見ると、「どんなことでも神には可能だが、しかし人間においては不可能だ」とはっきりと語っておられるのです。
しかも、主はこの言葉を、弟子たちをちらっとご覧になって語られたのではなく、じっと見つめ、心の中まで見通す、という見方で、「それでは、だれが救われるのだろうか」と戸惑い驚き語った弟子たちの心をじっと見通した上で、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」、「神には何でもできる」とおっしゃったのです。
そして、らくだの比喩を使い、どのような工夫をしても、金持ちが神の国にそのまま入るのは難しいと断言されたのです。
その言葉を聞いた時、「ああ、それならば、それは金持ちだけの問題ではないのではないか」と、弟子たちが気づいたのです。
何故なら富は祝福の象徴です。そうした祝福に与る者ならば、永遠の命も当然、彼らのものであるはずなのに、その考え方をひっくり返されたのです。
イエス様は、金持ちこそ天の国に入るのは難しい、永遠の命を得ることは困難だ、とおっしゃったのです。それに対して弟子たちが「それでは、だれが救われるのだろうか」と応答した。
私はこのやりとりを読みながら心に思い浮かんだことがあります。この出来事の何週間後か分かりませんが、主イエスが十字架に向かう時、かつて「富を捨てて従って来た」と告白したペトロが、「命を捨ててでも、あなたに従います」と豪語する場面が出てくるのです。
19章に戻ります。26節に「イエスは彼らを見つめて」とあります。この時の主イエスの瞳には、そうしたペトロの弱さ、愚かさ、空しさのすべてが映っていたことでしょう。しかしそのペトロに対して敢えて、「あなたの言うように、わたしに付いてきた者には、こういう永遠の命が与えられる」とおっしゃるのです。
そこまでを見据えたその上で、主イエスは「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言ってくださるのです。本当に感謝なこと、ありがたいことだと思います。

Ⅳ.神の可能性を信じて

自分自身を見る時に、私たちは、時として主イエスの弟子として、一生涯、主に従うこと自体がとても不可能に思えることがあるかもしれません。学生の間は時間があるから礼拝に集えたけれども、就職して仕事が忙しくなったら、果たして続けて礼拝に来ることができるだろうか…と自分の自信のなさに気づくことがあるかもしれません。
しかし、私たちはそこでこそ主イエスが示された神の可能性に心を留めたいのです。
「人間にできることではないが、神は何でもできる」のです。
ヨハネ福音書に、聖書の中の聖書と呼ばれる聖句があります。3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
これが神さまの御心、このために主イエスが生きられ、教えられ、十字架への道行きを歩まれたのです。そうであれば、全ての人が招かれているのです。お金のない人も、お金のある人も、それぞれの仕方で主イエスに従う道が示されていくということです。
使徒パウロは言いました。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(フィリピ4:13)。
この神の可能性を信じて、私たちも歩んでいきたいのです。もう一度、今日の30節をご覧ください。「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」。
そして、その言葉に続いて20章から「ぶどう園の労働者のたとえ」が続きます。
「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(20:16)。つまり、今日の19章30節の御言葉がぶどう園の労働者のたとえ話の結論部分を結ぶ言葉となっているのです。「後の者」って誰でしょう。富める青年かも知れません。彼がこの後どうなったか分かりません。でも、夕刻になって、ようやくぶどう園に辿り着いたかも知れないのです。そして弟子たちと同じ恵みに与ること出来た。
何故。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」からです。お祈りします。

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育ちを振り返る

松本雅弘牧師
ヨハネによる福音書4章1~15節
2019年8月11日

Ⅰ.はじめに

数年前、岩波ジュニア新書から『「育ち」をふりかえる』という本が出ました。渡井さゆりさんの著作ですが、自らの生い立ちを振り返り、実の親から愛された記憶を持たずに、孤独と疎外感、深い絶望の中を歩んできた、ほんとうに正直な証しの本です。
彼女は心の中にあった、「自分は一体、何のために生きているのか」という問いの答えを求めながら大人になった方です。困難と向き合い、生きる意味を探し、やがて「生きていてもいいんだ」という思いにたどり着いて行く。そうした本です。
この本を手にして読み進めながら、家庭の中で、さまざまな形で負の連鎖を受けながら、今の自分があることを改めて知らされると同時に、私たちの言葉を使うならば、神さまが用意してくださっている恵み、神さまの備えが必ずあることに、心の目が開かれていく、そのことが、いかに大切なことであるかを考えさせられたのです。

Ⅱ.サマリアの女とイエスさまとの出会い

今日の聖書個所ヨハネ福音書4章は、イエスさまとサマリアの女性の出会いを伝えています。
ある日、主イエスはサマリアと言う場所を通過しようとしていました。時刻はちょうど正午ごろ、大変暑い時間帯です。そこには井戸があり、水を汲みに来ていた女性が居ました。喉が渇いたイエスさまは、彼女に「水を飲ませてください」と願います。
実は当時の常識からすれば、公けの場で男性が女性にお願いすることはタブーで、しかも本来ユダヤ人がサマリア人に声をかけることなどもありえない話だったようです。しかし、いくつかの壁を越え、上下関係で言えば、上の立場にあったユダヤ人男性の主イエスの方からゆずって、このサマリア人女性に「水を飲ませて欲しい」とお願いしたことがきっかけとなりました。
このお話を読み進めてくと、最初は喉の渇きを癒す水の話が、いつの間にか、水という物質的な物を求めてやってきたサマリアの女性自身の、言葉にならない、胸の奥底にしまいこんでいた「心の渇き」を目覚めさせるような会話へと発展するのです。
主は言われます。「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」(4:16)。実は、この女性の心はカラカラに渇いていました。彼女の過去には、5人の夫がいて、現在同居している男性は本当の夫ではありません。そうした彼女の生活ぶりは周囲から厳しい目をもって見られていたのではないかと思います。
夫を5人も持ったということは、共に暮らす人との関係の中で、当然、得られるはずの理解や喜び、深い充足や安心感を得ることが出来てこなかったという「渇き」があったのでしょう。

Ⅲ.心の渇きを経験する少年

以前、この教会に来られた先生が、ある少年のことを話してくださいました。
Ⅰ君は小学校2年生になった時から両親の希望で塾に通い始めました。でもそれはⅠ君にとって苦痛なことでした。I君はその苦痛を紛らわすために塾の合間にコンビニをうろつき、ゲームセンターを覗き、清涼飲料水や栄養ドリンクを飲み始めたそうです。家庭は比較的裕福でしたので小遣いを求めれば母親は求められただけを与えました。
学校から戻るとすぐに塾に行く。両親と一緒に食事をする事も会話することも稀です。大人しくしていれば、すべての要求に応えて貰えたので、親の前ではずっと「良い子」を装っていました。
そんなI君が、たばこを覚えたのが小学校5年生の時。母親に見つかったことがありますが、「いらいらするので、ごめんなさい」と謝ると、その後は注意もありませんでした。「眠れない」と訴えると親が睡眠薬をもらってきてくれて、それを飲み始めたそうです。
このようにして希望の中学に合格しました。父親は大喜びで、I君は父親に「お祝いにライターが欲しい」とねだると、「まだ使うなよ」と言って高価なライターをプレゼントされました。
ところが、これが切っ掛けとなって、ライターのガスを吸い始めました。「何度もやめよう」と思いつつ睡眠薬、たばこ、シンナー、ガスパン遊びの習慣から抜け出せずに苦しみ始めます。そして高校1年生の時に、中学時代の友人に覚せい剤を勧められ、それに手を出していくことになりました。自分の淋しさや、心の渇きを癒すものを、彼は見出すことができませんでした。
今日の聖書箇所のキーワードは「渇き」だと思います。この「渇き」という言葉が、ヨハネ福音書の中で、特別な場面でもう1回出てきます。それは十字架の場面です。
福音書が示す十字架の場面には様々な人が登場します。そこでは人間のドロドロした感情や怒りが、無抵抗なイエスさまに対してぶつけられていきます。
本当に憐れな人間の姿が出てきます。心が満たされていない者として、怒りや悲しみやイライラを抱えた者として、一人ひとりが登場するのです。つまり皆が心渇き、満たされない思いで、その怒りをイエスさまにぶつけていたのです。皆が人生に怒りを覚えていた。I君もそうですし、サマリアの女性もそうでした。
ヨハネ福音書19章28節以下に、次のように書かれています。
「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたことを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。…イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」。
十字架の上での、この「渇く!」という主イエスの叫びは、実は、私たち1人残らず、全ての人の渇きを身に受けてくださった瞬間の叫びだとヨハネは伝えたかったのではないでしょうか。
イエス・キリストは十字架に死なれるために生まれてこられた。それは、「渇き」を覚えるすべての者に「終わり」を告げるためです。私たちが経験する「渇き」を、主は十字架において渇き切ってくださった。それによって、私たちの渇きを癒してくださったのです。

Ⅳ.本当の癒し

私たちは生活の上で様々な「渇き」を経験します。そうした根源的な渇きは、造り主であるお方と出会うまでは、決して癒されない。
言い方を変えるならば、本当にイエスさまがこの私を愛してくださっているんだ、という確信に行きつくまでは、何の解決も起こらないのです。
そのため、そうした心に溜まった「怒り」や、「渇きが癒されないイライラ」はいろんなところに向かって行って、見当違いの戦いをし、周囲の人を傷つけてしまう。家族のことひとつ取ってもそうでしょう。一番大切にすべき人を、私たちは大切にできないのです。私たちは的を外して生きています。
もう一度、冒頭のヨハネ福音書4章に戻りましょう。このサマリアの女性は、イエスさまと出会いました。出会った後の姿が、4章28節以下のところに出て来ます。
「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。『さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。』人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。」
彼女が一日の内で一番暑い正午にここにやってきたのは、水を手に入れることが目的でした。ところが、その一番大切な水の入った水がめをほっぽり出してしまっている。しかも、正午にやって来た理由は、人目を避けるためだったのに、彼女の方から人々のところに出て行っているのです。
つまり、一番大切なお方と出会い、一番大切なものを手に入れた彼女にとって、もはや、水がめは二の次、三の次になっているのです。
そして、イエスさまとの出会いによって心の渇きが癒された彼女は、彼女自身が変えられ、今度は、彼女の方から、人々のところに行って、イエスさまのことを証しする人へと変えられているのです。
イエス・キリストは、私たちの心の渇きを癒すと共に、私自身を新しい人に造り変える力をお持ちの方であることを心に留めたいと思います。
「渇いている人は、誰でもわたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ17:37)。
神さまが願っておられることは、ここにいるお一人ひとりと出会いたいということであります。あなたの心は乾いていませんか? その渇きを癒していただくために、イエスのもとにあゆみ行こうではありませんか。お祈りします。

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人生の拠り所をどこに置きますか

松本雅弘牧師
2019年8月4日
マタイによる福音書19章13~22節   詩編19編1~5節

Ⅰ.主イエスの弟子になりそこなった人

今日の個所は、クリチャンでない人もご存知の有名な話です。ある人はこの青年を「主イエスの弟子になりそこなった人」と呼んでいました。
彼は、永遠の命を求めて主イエスのところにやってきたのですが、主イエスは、全ての財産を貧しい人々に施し、その上で従いなさいと言われ、彼はそれに応えることができませんでした。

Ⅱ.青年の抱える切実な悩み

今日の箇所には子どもについての主イエスの御言葉が紹介されています。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」(14節)。素晴らしい教えです。この教えに続くのが、富める青年の話で、こちらはどこか違和感を覚えるような話なのです。
主イエスは、何も持っていない子どもたちに手を置いて祝福し、「天の国はこのような者たちのものである」とまで言って、天国を約束しておられますが、青年に対しては、「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と、さらなる要求をされたのです。
ですから戸惑ったのは青年だけではなく、やり取りの一部始終を目撃していた弟子たちも、つい本音が口から飛び出しました。「それでは、だれが救われるのだろうか」と。
結局、青年はどうしたでしょう。「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。…それから、わたしに従いなさい」。主イエスのこの言葉を聞き「悲しみながら立ち去った」のです。その理由についてマタイは、この青年が「たくさんの財産を持っていたから」だと伝えています。
この「財産」という言葉を調べますと、土地のような不動産も含まれることが分かりました。ですから、彼の生活は安定していたのでしょう。いや今の生活だけではなく、将来にあっても安心だったに違いない。何事につけ本当に恵まれた青年です。
そうした彼が思い悩んでいました。何か足りないのではないか。神の教えはどれもこれも守っている。この私に、あと何が足りないのだろう。何も足りないものはないと思えるのだけれども、でも「永遠の命」を手にしていないようにしか思えない。それは何故なのか。そうした心の中の思いを、彼は主イエスに向けたのです。
彼が登場する直前、主イエスは子どもたちに手を置いて祝福されました。しかも「天の国はこのような者たちのものである」という言葉までも飛び出しました。主イエスが幼子たちに天の国を約束されているのです。すでに神の国に生きているかのように、一人ひとりを抱き上げ、手を置いて祝福しておられるのです。
悩むこの青年が、そこに居合わせていたかどうかは分かりませんが、子どもたちの話を耳にしたのかもしれません。そしてずっと心に引っかかっていた神の国の祝福を、この時すでに手にしているたくさんの財産と共に、自分のものとしなければならない、そう思ったのでしょうか。
ここで言われる「たくさんの財産」の具体的な額は分かりません。たぶん彼一人では使いきれない程「たくさん」という意味でしょう。
説教の準備で読んだ本の中に、当時の平均寿命は30歳だったと書かれていました。彼がこの時、何歳だったか分かりませんが、人生のはかなさの感覚はあったのではないか。だからこそ、「まだ何か欠けているではないか」という、心の中にあるはっきりとした不安、そうした永遠の命に関する真剣な問いを、この時、主イエスにぶつけたのではないかと思うのです。

Ⅲ.主イエスの導き―「足りない一つの善いこと」ではなく「唯一の善い方」

そうした彼の問いかけに対して主イエスは、「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」とお答えになりました。
ここで、主イエスは彼が尋ねた「足りない一つの善いこと」に対して「ただお一人の善い方」、すなわち神さまに心を向かわせています。
これは大切なポイントだと思うのです。彼は「足りないこと」を聞いているのに、主イエスは神を示されたのです。しかし残念なことに彼は理解できなかったようです。ですから彼の質問が続くのです。「掟を守れと言われますが、具体的にはどんな掟なのですか」と。これに対して主イエスは十戒を伝え、さらに「隣人を自分のように愛しなさい」と説明します。すると青年は、「そういうことはみな守ってきました」と応じます。そうした上で一番知りたい質問をするのです。「まだ何か欠けているでしょうか。」
主はどうお答えになったのでしょうか。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」とお答えになりました。ここで主は、「あなたには完全さが足りない」とおっしゃったのです。
ある人の表現によれば、百の石を積んで初めて、その人間の人生が全うするのに、99まで積んだにとどまり、最後の1つの石が足りないならば完全とは言えない。
主イエスはそういうことを語っておられるのでしょうか。主が言われる、最後に積み上げる石とは、何と全財産を貧しい人々に施すことです。この最後の石、それこそ超人的な、高すぎるハードルではないでしょうか。
僅かな財産しかなければ、つまり持っていない者にとって、それを投げ出して主イエスに従うのは、ある意味、簡単なことかもしれない。でもこの青年にとって、財産全てを貧しい人々に施すということは並大抵のことではないでしょう。でもそうしなければ、永遠の命にあずかることができないと主はそう言われているのだろうか。
ここまで来ると、弟子たち同様、「それでは、だれが救われるのだろうか」と、つい言いたくなってしまいます。21節で主は「もし完全になりたいのなら」と語られました。つまり、この青年が抱える問題点は「完全さ」と関係していることを指摘しておられるのです。
この「完全という言葉は福音書には2か所にしか出て来ません。この箇所と、山上の説教の場面の5章48節、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」です。そして大変興味深いのですが、そう語られた後、山上の説教を読み進めて行きますと、続く第6章に入り、20節で天に富みを積むようにと教えます。
ここに、今日の19章21節に出てくる、「天に富を積む」と同じ表現が、山上の説教にも出てくるのです。つまり神の完全さとは、悪人にも善人にも等しく太陽を昇らせ、雨を降らせてくださる、そうした神さまの恵みの完全さ、愛の完全さです。だからこそ主は、「善いお方はお一人。神が唯一善いお方である」とおっしゃるのです。
そして信仰の恵みは何かと言えば、このただ一人の善いお方に繋がることで、私たち自身が不思議と善い者へと造り変えられていく。憐れみ深いお方の憐れみを受けることで、いつの間にか憐れみ深い者へと少しずつ変えられていく。それが神との関係を結んだ者の内に起こる恵みの変化です。
この青年の問題点は何だったのか。それは彼の信仰生活に、神さまとの生きた交わりがなかったこと、宗教行事/宗教的行為はしていました。でも、その動機は、不安や恐れ、天国行の切符を手にするだけが目的の生命保険のようなものに過ぎなかったのです。

Ⅳ.イエス・キリストを知ることで永遠の命にあずかる

この青年にはたくさんの財産がありました。でも、そうした財産が神さまに向かうこと、神さまに頼ること、神に繋がることを妨げていました。財産さえあれば、どうにかやっていける。そうした財産の上に築き上げられていた生活は、神さまを求めずとも、しっかりと自分を支えてくれる。そのように錯覚させていたのでしょう。
それゆえに、彼にとって財産そのものが、神さまと彼を引き離す隔ての壁になっていたのです。それはあたかも、主イエスの許に走って来る子どもたちを妨げ、主イエスと子どもたちの間に立ちふさがる壁のようになり、それ故に、主イエスから叱られた弟子たちのような存在です。
彼は本当に真面目な青年で、永遠の命を切に求めていたでしょう。しかし青年は勘違いし、永遠の命を財産目録の中に、1項目書き加えるようなもののように考えていたのでしょう。
永遠の命とは神さまの命に与かること、神さまとの生きた関係の中で、その命の恵みに与って生きることです。
マルコによる福音書を見ますと、この、全てを売り払って貧しい人々に施すようにとおっしゃった主イエスの言葉の前に、「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。…」(10:21)とあります。彼に必要なもの、いや彼に必要なお方は、彼を見つめ、慈しまれる主イエスご自身です。そのお方を知ること、いやそのお方に知られ、愛されていること。それ故に、朽ちる物を人生の土台とするのではなく、このお方との生きた親しい交わりに生きることです。何故なら、そこから全てが始まるからです。お祈りします。