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主日共同の礼拝説教

信仰の友

和田一郎副牧師
詩編124編1-8節  テサロニケの信徒への手紙一2章17-20節
2019年9月29日

1.「兄弟たち」

今日の説教は「信仰の友」がテーマとなっています。パウロとテサロニケ教会の人々との、信仰で繋がれた友という関係です。私たちは、神様のなさる、救いの御業を奇跡といいます。私たち人間は、神様に背を向けていた罪人です。罪人である人間が救われる、これこそ神の御業、奇跡です。
テサロニケの人々は、パウロを通して、キリストを知り、キリストの奇跡にあずかって救われました。パウロは、町を離れた後も、テサロニケ教会のために祈り続けていたのです。
「ちょうど母親がその子どもを大事に育てるように、わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです」
(1テサロニケ2章7-8節)。
パウロは、テサロニケの人々がしっかりとした信仰を保てるように、自分の命を与えたいと願うほど、この教会を愛していたのです。まさしく身を差し出して献身的にキリストを伝えたのです。そして、父親のような力強さで伝道を続けました。
パウロは、伝道に専念するために、テサロニケの教会から、生活の面において、支えてもらうこともできたと思います。しかし、パウロはそうはしませんでした。パウロは天幕造りという職業をもちながら伝道をしたのです。
それは、パウロが信仰の面だけではなくて、日常生活においても模範となるように考えたからです。「働かざる者、食うべからず」という言葉があります。自分で働いて自立しなさいという意味で使われますが、この言葉はパウロが言ったテサロニケの手紙二3章10節の言葉がもととなった諺です。
それと合わせて、テサロニケの人たちに負担をかけまいという思いもありました。これをクリスチャンの模範として欲しいという思いです。パウロがテサロニケに滞在していた時、教会全体と信徒一人ひとりに対して、身を挺して献身的な態度で接しました。

2.テサロニケ再訪の願い

そうであるがゆえに、テサロニケでの伝道を妨害されて、命からがら逃げてきたパウロにとって、テサロニケの人々と、引き離されているような状態を嘆いているのが、今日の聖書箇所17節の言葉です。
「引き離されていた」という、原語は「引き離されて孤児の状態になる」という意味の言葉です。引き離されて、自分は孤児になってしまったかのようだ、という意味の言葉を使っています。
パウロは、新約聖書で多くの手紙を書いていますが、ここの「孤児になる」という言葉や、他の箇所で「養子になる」というギリシャ語の言葉を使っています。
ローマ帝国には、孤児を保護したり、救済する制度がありました。逆に言えば孤児となる子どもが多くいたようです。その孤児たちを救済する制度として、養子縁組という制度が当時からありました。
戦争や紛争また感染症などが流行するところで孤児が生れますが、日本も戦争によって、多くの戦災孤児が生れたと聞いています。テレビドラマで、戦災孤児を扱った話がありました。終戦直後、両親を亡くした3人の兄弟たちがいました。当時、孤児となった子どもたちは、物乞いや、盗みをしないと生きていけなかった。ドラマの主人公は靴磨きで、その日その日をしのいでいました。ドラマの中で、警察による「刈り込み」というシーンがありました。
これは実際にあったことで、浮浪児を一掃するようにという進駐軍からの命令があり、強制的に保護をして孤児院に強制収容していたのです。子どもたちを「一匹、二匹」と呼ぶような、人間扱いをしない行為があったのです。戦災孤児は差別されましたから、自分が孤児であったことを、多くの人は口にしません。
ドラマでは、その孤児となった主人公が北海道の農家の家族に迎えられて、成長していく姿が描かれています。人間扱いされなかった孤児が、その家族の子とされた。家族となっていった人生は、孤児であった境遇から比べると、劇的に温かな環境です。
戦中、戦後に中国から引き上げてきた人の中で、孤児になるのか、ならないか。家族の中にいるのか、いないのか。その違いは、言葉では言い尽くせないと聞きました。
パウロは、新約聖書の中で、天地を創造された神様を知らない人は孤児のようだ。その孤児が、イエス・キリストを主と信じることによって「子とされた」、「神の家族」とされたのだと説いています。
今日の聖書箇所17節で、テサロニケの人々と会うことができない自分を、「引き離されて孤児」のようだと表現しているのは、そのような悲惨な立場にある孤児のような心境だという含みがあります。
引き離されたのは、パウロだけではなく、相手のテサロニケの人々も同じ思いがあったと思います。福音の真理についても、クリスチャンとしての生活の在り方についても、身をもって教えてくれていたパウロと引き離されるというのは、放り出されて孤児になったような思いです。まだ、できたばかりのキリスト教会にあって、パウロと引き離されたことは、父と子が引き離されたような嘆きが、お互いにあったのです。

3.サタンによって妨げられる

そのような思いがあって、18節にあるように、パウロはテサロニケに行こうと、一度ならず計画を立てたようです。しかし、それを果たせずにいました。
パウロがテサロニケに行こうとして、行けない理由は分かりません。しかし、「サタンによって妨げられた」とあります。あの町での伝道をさらに強めたい、というパウロの願いが実現していないのは、サタンの妨げによることと理解しているのです。
わたしたちは、どういうことがサタンの働きなのだろうか、と考えることがあります。神様の働きを妨げるのがサタンの働きです。今もその力は、わたしたちの周りに見られます。時には、明確な迫害のようなかたちで、時には神様の働きであるかのように見せかけて、間違った方向に仕向けるということもあるのです。
しかし、そのようなことがあっても、パウロは落胆して、その働きを止めようとしませんでした。それは、真の神様へ心を向けていたので、主の助けを得ることができたからです。
今日お読みした旧約聖書の詩編の言葉も、サタンのような敵を前にしても、神様が味方にいて、主の御名をたたえるところに、逃れの道があることを唄った詩です。
「主をたたえよ。主はわたしたちを敵の餌食(えじき)になさらなかった。仕掛けられた網から逃れる鳥のように わたしたちの魂は逃れ出た。網は破られ、わたしたちは逃れ出た。わたしたちの助けは 天地を造られた主の御名にある」
(詩編124編6-8節)。
「サタンの餌食にならなかった、その助けは主の御名にあった」という、その確信があります。
思い通りにならず、サタンの妨げを感じていた時も、パウロは、この働きが神様の御心だと信じていました。
行けないなら手紙を送る、自分は行けないけれど別の人に行ってもらう。この時はテモテという信頼できる人を派遣しました。
自分が行けないことで、塞ぎ込んでしまうのではなく、神様の助けを信じていたのです。それは、パウロの目線が終末の希望にあったからです。19節以降から、パウロは終末において神様が完成して下さる救いを見つめているのです。

4.主イエスが来るとき

「わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前で、いったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠(かんむり)でしょうか」。(19節)
イエス様が再び来られる時、テサロニケの人々こそが、パウロの希望であり、喜びであり、誇るべき冠であると、これ以上ない表現で信仰の友について喜びを表しています。
讃美歌580番の「新しい天と地を見たとき」は、再臨の時を唄った讃美歌です。そこには、私たち神の民は、この地上では不完全ですが、生まれ変わって神の民として、神と共にいるようになる。互いに愛し合うということが、完成された様子を唄っています。
まとめ
現在に目を移しますと、どこの教会でも、テサロニケ教会のように素晴らしいことばかりではありません。伝道者にも人間的な欠けや弱さや罪があります。また、兄弟姉妹の中にも同じように弱さがあります。
しかし、そのようなわたしたちの不完全さも、イエス・キリストが来られる再臨の時に、キリストの愛で完全なものとされるように、今もイエス・キリストの愛で愛することができるのです。
不完全な私たちの愛を完全なものにしてくださるのは、イエス様の愛です。このイエス様の愛に委ね、信頼して歩んでいきましょう。お祈りいたします。

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主日共同の礼拝説教

あなたのうちに働く御言葉

和田一郎副牧師
申命記6章4-15章 テサロニケの信徒への手紙一2章13-16節
2019年9月22日

はじめに

先日、スチュワードシップバザーの時に、気仙沼から嶺岸浩牧師が来てくださり説教をしてくださいました。嶺岸先生の教会と自宅は、東日本大震災の時に津波で流されましたが、先生ご夫妻は日本中の教会から来たボランティアと一緒に被災者を支援をしていました。ご自分も被災者でしたが、いつも笑顔で「感謝です」と言いながら支援活動をされていました。嶺岸先生というと「感謝」という言葉が浮かんできます。津波であらゆるものを失ったにもかかわらず、感謝している先生の姿を見て、今あるものに感謝して、明日に希望をもつこと、これこそ信仰だなと、学ばされた思い出があります。その嶺岸先生がよく口にする聖句がテサロニケの信徒への手紙一 5章16-18節です。「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
そして、今日与えられているテサロニケの手紙の箇所も、パウロが感謝を伝える思いがベースとなっています。13節「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。」

1、神の言葉(聖書)

パウロの言葉を、神の言葉として受け入れるとは、どういうことでしょうか。16世紀のヨーロッパで作られた、『第二スイス信仰告白』という告白文があり、そのはじめに「神の言葉の説教が、神の言葉である」と書かれています。最初の「神の言葉」というのは、聖書を指しています。つまり、聖書から説き明かされる説教は神の言葉だということです。聖書は神の言葉であり、説教も神の言葉とされています。聖書を実際に書いたのは人間ですが、人の知恵だけで書かれたものではないのです。パウロも聖書を書いた人の一人ですが、テモテへの手紙二3章16節で、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」た、と語っています。聖書の著者は、それぞれの書ごとにいるのですが、その人の思いや知識だけで書かれたのではなく、その人の賜物を用いた神様の霊の導きによって書かれたものです。神の霊によって神の言葉が記された、それが聖書です。
もちろん、私たちが手にしている聖書は、著者が神様の霊によって書いた原典の写本を翻訳して印刷したものですが、記されている言葉は神の言葉そのものです。ですから私たちは聖書の言葉を、単なる文章とは扱わないで「御言葉」と呼ぶわけです。
キリスト教は迫害を受けてきた歴史があり、今も弾圧があります。中国では聖書を没収してしまうということが行われているそうです。そのようなことがあっても、世界中の人々に聖書が今も求められているのはなぜでしょうか。それは、多くの人が、聖書を「神の言葉」として、信じているからではないでしょうか。聖書には、人知を超えた真理があり、力があるからこそ、求めているのでしょう。聖書は神の言葉として力がある。その力を信じて、いつの時代も人は聖書を求めるのです。

2、神の言葉(説教)

もう一つの神の言葉、説教について考えてみます。パウロは伝道のために、行く町々で説教をしました。それは旧約聖書に基づいて説教をしたのです。そのパウロの説教を、パウロの言葉としてではなく「神の言葉」として受け入れてくれたことに、パウロは神に感謝しているのです。パウロは、自分は神の言葉を語っているという確信がありました。
「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです」(コリントの信徒への手紙一の2章12節)。
パウロは、ダマスコという町に行く途上でイエス様に出会いました。光に照らされて、イエスは「わたしはイエスである」と語りかけました。イエス・キリストは十字架で死んだはずだと思っていたパウロにとって、復活されたイエス様に「語りかけられる」という出来事は、衝撃的な出来事でした。生ける真の神様は語りかける神です。今日の旧約の聖書箇所では「聞け、イスラエルよ」と力強く語られました。語ることで御自身の御心を明らかにされ、神の民は「お語りください、僕は聞いております」という思いで聞くのです。パウロはキリストと出会いましたが、テサロニケや他の教会の信徒は違います。イエス様と直接出会っていない人に、パウロはイエス様を、生ける真の神であると説教をしたのです。
説教はその意味では、目には見えない霊的な存在を現実として説き明かすということです。すなわち、神は生きておられる。この世界の中心は、目に見える私たち人ではなく、目には見えない生ける神にあるということを告げる。そして、そのことを信仰をもって聞くところに、私たちの信仰生活の中心である説教があります。
数千年前に書かれた過去の文章を聞くのではないのです。時間という枠を超えて、今を生きる神様が私たちに語りかけてくる言葉を聞くのです。今、ここにおいて、イエス・キリストや弟子たちの出来事を、聖書から聞き、現代に生きる人々に証しするのが説教です。
13 節には、「事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」とあります。神の言葉は、その人の中で生きて働きます。パウロの言葉は、テサロニケの人々が神の言葉として受け入れた時、生きて働いたのです。語る者も、聞く者も「神の言葉」として信じる時、生きた神の力が働きます。

3、ユダヤ人とクリスチャン

パウロは14節以降で、自分の宣教の働きを妨害し続けた、ユダヤ人のことを批判しています。もともとキリスト教はユダヤ人の民族宗教であるユダヤ教から生まれました。十二人の弟子やパウロもユダヤ人でした。何よりもイエス様はアブラハムの子孫、ユダヤ人としてこの地上に生まれました。パウロの伝道活動によって、多くの異邦人クリスチャンが起こされましたが、一方でペトロが担っていたユダヤ人への伝道は困難を極めたようです。
その後、ローマ帝国がキリスト教を国の宗教として認めていくなど、ますます異邦人クリスチャンの数がユダヤ人クリスチャンを上回っていきます。そして、15節にあるように「主イエスを殺したユダヤ人」として、クリスチャンがユダヤ人を迫害するという悲劇の歴史が続いていきます。そして、その頂点は第二次世界大戦のナチスドイツによるホロコーストへと繋がっていきます。
しかし、このホロコーストという大悲劇の後、その反動もあってユダヤ人への理解が深まっていきました。キリスト教会もユダヤ教の背景を正しく研究することが進められ歩み寄っています。そして、ユダヤ人の中からクリスチャンに回心する人が増えているということが近年起こっています。

4、あなたのうちに働く御言葉

クリスチャンとして救われた者も、罪の性質は残っています。キリスト教会も、その歴史においてユダヤ人を迫害するという過ちを続けてきました。こういった過ちは、どうして起こり、また繰り返さないためには何が必要でしょうか。それこそ、聖書の御言葉を神の言葉として、扱うことにあるのです。パウロはユダヤ人を批判することもありましたが、ローマの信徒への手紙の中ではユダヤ人の救いを信じて疑いませんでした。ですから聖書を神の言葉として、忠実に聞くことです。聖書の言葉を、人の知恵で、足したり引いたり、すり替えた所に過ちがありました。今でもそれは起こり得ます。聖書の言葉が正しく語られ、信仰をもって聞かれた時、罪を遠ざける力が働きます。
今日ははじめに、テサロニケの手紙から、「感謝する心」について話をしました。「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」。
わたし達が、神の言葉を神の言葉として受け入れた時、喜びと祈りと、感謝の心が湧いてきます。どんなことにも感謝して、神様の言葉が働かれる一週間でありますように、祈り求めていきましょう。お祈りをします。

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主日共同の礼拝説教 敬老感謝礼拝

主にあって集い喜び分かち合う交わりの中で

松本雅弘牧師
ゼカリヤ書8章3~4節  使徒言行録2章14~21節
2019年9月15日

Ⅰ.敬老感謝礼拝とは

今日は敬老感謝礼拝です。今年の週報を見ますと、75歳以上の方たちのお名前がぐっと増えたように感じるのは私だけでしょうか。
テレビのコマーシャルを見ると世界には若者しかいないかのような錯覚に襲われます。でも、そうではありません。4世代が共に集い礼拝する教会では普通は経験できない、世代を超えた交わりがあります。そうした交わりのことを、「主を囲む交わり」、今年の主題である「主にあって集い喜び分かち合う交わり」と呼んでもよいのではないかと思います。
これからも信仰の先輩、人生の先輩が、主イエスの恵みと平安の内、健やかに信仰の旅路をまっとうされますようにと、感謝と祈りを捧げるのが、この敬老感謝礼拝の時です。今日は、そのようなことを覚えながら、御言葉を学んでいきたいと思います。

Ⅱ.預言者ゼカリヤの遣わされた時代

今日のために選んだ御言葉はゼカリヤ書です。この預言をしたゼカリヤは、今から2500年程前に活躍をしていた預言者でした。
ゼカリヤの活躍した時代は、ちょうど、世界を治めたペルシャのキュロス王の時代でした。彼は諸国の栄枯盛衰の歴史に学び、1つの結論に到達しました。それは、国が滅びるには理由があるということ。その理由とは、征服した国の人々が拝んでいた神を大事にしなかったからだ。故に、〈ペルシャの国が今後安泰であるためには、諸国の神々を怒らせ、敵に回してはならない〉ということでした。
そこでキュロスは、ユダヤ人達をバビロン捕囚から解放し、祖国に戻し、神殿を再建させ、そこでペルシャ帝国の繁栄と安寧を祈るようにと命令を出したのです。
ところがエルサレムに帰還したユダヤ人を待ち受けていたのは荒廃した都エルサレムと再建不可能なほどメチャメチャに破壊された神殿でした。ですから、再び絶望の底に落とされるような経験をしたのです。そうした時に、エルサレムの町の復興と再建を預言したのが、今日、取り上げたゼカリヤという預言者だったのです。
さて、ここでゼカリヤは、「エルサレムの広場には、再び、老爺、老婆が座するようになる」(ゼカリヤ8:4)と預言しています。
考えてみるとこれはたいへん不思議な内容です。今日はお歳を召した方々も大勢いらっしゃいますので多少失礼にあたるかもしれませんが、聞いていただきたいのです。普通、国や町の復興のために力となるのは老人パワーというよりも若い人の力でしょう。ところがゼカリヤは長寿のゆえに手に杖を持つ老人や老女たちが、道端に座っている姿を預言しているのです。
問題は、神さまの御心はどこにあったのかということですが、その手がかりとして、アモス書の次の言葉を思い出しました。「それゆえ、知恵ある者はこの時代に沈黙する。まことに、悪い時代だ」(アモス5:13)
「知恵ある人々が、黙り込んでしまう」というのです。理由は、「悪い時代だからだ」というのです。聖書は終始一貫して、老人は知恵ある者の代表として描かれています。お年寄りは家族や部族の中で、人生経験豊かであるがゆえに尊敬され、尊ばれてきました。ところが、その知恵ある年長者が沈黙する。
何故でしょう。「沈黙する」とは言い換えれば、知恵を語る場がなくなること。その時代の人々が聞く耳を持たなくなる、ということでしょうか。確かに、知恵者の知恵が時代の流れについていけなくなる、時代遅れとなるということも理由の1つかも知れません。
同時に、若者の側に、へりくだった思いが薄れ、知恵者に耳を傾けなくなって来る、と言った理由もあるかもしれません。どちらが先か分かりませんが、いずれにしても、老人が沈黙してしまう。年寄りの声が聞えなくなってくる。聖書によれば、「それは悪い時代の特徴だ」と教えるのです。
こうしたことを踏まえた上で、今日のゼカリヤ書の御言葉にもう一度注目したいのです。ゼカリヤは言います。「エルサレムの広場には、再び、老爺、老婆が座するようになる」と。神さまの恵みが行き届き、神さまの赦しの恵みが支配し、神さまの平安が覆っている世界にあって、まず老人が生き生きとして、広場に居場所が確保されているのです。
ここに「座する」という言葉が出て来ますが、もう若い人と同じように立っていなくてもいいのです。しゃがんでいてもよい。ゆっくりとした時間の流れの中で座る場所がある。そして皆で集まって語る。
そこの交わりの中に若い人が入って来て、何かを得ていくかどうかは、それは若い人の問題です。しかし、たとえそうでなくても、「エルサレムの広場には、再び、老爺、老婆が座するようになる。」つまり、そこに「オアシス」があったということです。

Ⅲ.オアシスとしての教会

ここでゼカリヤは、青年たちや元気な人々、軍人たちの姿にエルサレム再建の希望を見たのではありません。むしろ、道端に座りこみ、その日、その時を、何もしないで過ごしているように見える「老人や老女たち」の中に、再建されるエルサレムの姿を見ていたのです。
何故なら私たち人間はそのままで受け入れられる時に、不思議な力を経験する。喜びが湧いてくるからです。子どもたちやお年寄りが、神さまからすっぽりと受け入れられ、温かく大きな御手に守られて生きている姿を通し、周囲の人々は自分のことのように安心するからなのです。
会社で現役の人、子育て真っ最中のお母さん、お父さんは、今、まさに忙しく動きまわらなければならない年齢かもしれません。そして毎日、やることが一杯ある、若者たちは、一線を退かれた人生の先輩、信仰の先輩の方々が、最後の最後まで喜んで生きる姿を通して、その背後におられる神さまの恵みに触れて、自分の心も癒され、潤いをいただいていくのです。

Ⅳ.主にあって集い喜び分かち合う交わりの中で

ポール・トルニエは、『老いの意味』という本、その他たくさんの本を書いています。その中に『人生の四季』という本があります。
トルニエによれば、人生にも、この自然界同様に、春夏秋冬という四季がある、と言います。
「春」は「種まきの季節」です。「春」の時期に生きる人は、「種まきという生き方」が求められる。そして、その「春」に蒔いた種が育つのが「夏」です。夏は「収穫の秋」に向けて一生懸命、汗を流す季節です。そして「実りの秋」を迎えて、「冬」へと移行していきます。
そのように、「私たちの人生には四季があり、その時期にふさわしい生き方がある」と、トルニエは聖書から説いていました。4世代が集う教会の交わりに居ますと、その4つのシーズンを同時並行して見ることができる幸いに与れます。
子育て最中の人は、思春期の子どもたちを抱えている兄弟姉妹の姿を見て学ぶことができます。「今が一番よ」という先輩の言葉を、ちょうどその先輩が語ってくださった年齢に自分もなった時に、初めてその意味の深さを噛みしめるものでしょう。そして、先輩たちがどのように締めくくっていかれるのかを、年若い者たちが見せていただけるのも、教会の交わりの中にいることの特権だと思います。
先ほど「人生の諸段階」、そしてその「季節」にあった生き方があるのだ、と聖書は教えている、とお話ししましたが、現実の自分自身の歩みを振り返ってみる時、必ずしも、自分は「春」になすべきことが出来ていなかった。その「しわ寄せ」が「夏」に持ち越され、そして「秋」へと引き継がれ、正に今の自分がここにいる。まさに「蒔いた負の種の刈り入れ」をすることもたくさんあるように思います。
でも、どうでしょう。私たちの神さまは信仰の創始者であると共に、完成者でもあると聖書は教えています。つまり、私たちの人生で始めてくださったことを、必ず完成へと導いてくださるご意思と御力をお持ちのお方が神さまだ、というのです。
自分自身を振り返りますと、実に中途半端で、種蒔きも、働きも、その人生の諸段階で十分には出来ていないような負い目を感じることがあります。でも、そうした私に対して聖書は次のように語ります。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(フィリピ1:6)
神さまは、私の中に始めてくださった善き業を、必ず完成させてくださるお方であることを、このみ言葉は思い起こさせているのです。
今日は、「主にあって集い喜び分かち合う交わりの中で」というタイトルを付けさせていただきましたが、私たちの交わりの中に、私たちの人生の中に、主イエスがいてくださる時、そのお方は、その交わりの中で、またその交わりに与る私たちの中に、善き業を始め、それを必ず完成へと導いて下さる。そのお方が、高座教会の交わりのただ中に、そしてご高齢の方々、とくに人生の一区切りとして75歳を迎えられた方々の生活の中に居てくださるのです。
その恵みを、心から味わい、感謝したいと願います。お祈りします。

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ファミリーチャペル 主日共同の礼拝説教

心のパン

 

松本雅弘牧師
マタイによる福音書4章1~4節
2019年9月8日

Ⅰ.子どもの話は面白い

今日の箇所は聖書の中でも最も有名な言葉の1つではないでしょうか。主イエスの言葉です。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」
この言葉を子どもたちと読むと面白い反応が返ってきます。「そうだね、ハンバーグも食べるし。ご飯も食べるし」と、いやに納得してしまう子どもがいるものです。しかし、そういう意味ではありません。人はパンなしで生きることは勿論不可能ですが、同時にまたパンだけで生きるものでもないわけです。
ここで主イエスは、「心のパン」である聖書の言葉によって心が養われ、支えられ、生かされるのが、人にとって大切なことなのだと語られたわけです。

Ⅱ.生きる「マニュアル」としての聖書

第1に、なぜ、人はパンだけで生きるものではないのかということについて考えてみたいと思います。最近は、生き方について説く様々な本があります。
イリノイ大学で哲学を教えていたモアヘッドという名の先生が『生きる意味とは』という書物を書きました。現代を代表する著名な哲学者、科学者、作家100人を選び「あなたは、人生に意味があると思うか。あるとしたら、それは何か」と、彼は質問したのです。戻ってきた答えをまとめて完成したのがこの本でした。結果は大きく3つに分かれました。1つは「正しいかどうか分からないが、私はこう考える」と、した上で「人生には意味がある」と答えたグループ。2つ目は「自分にとって人生の意味を、自分自身でこのように決めて、そして生きている」という人々。そして3つ目は「人生に意味などない」とはっきり答えた人々です。
せっかちな私は、パソコンが作動しなくなると、色々なキーを押したり、様々な事を試みます。本来でしたら「取扱説明書」を手に操作すべきでしょう。パソコンでも電子レンジでも新しい機械や家電を買えば、「必ずお読みください」という「取扱説明書」がついてきます。そこにはその機械が何のために作られ、どう動くのか、注意点はどこにあるのかが書かれています。
例えば映画に登場する発明家の実験室に置かれている機械などは説明を聞かなければ分からないような姿、形をしています。いくら機械とにらめっこしても、機械独自の目的や意味は分からないものです。どうしてもそれを発明した人に尋ねなければ分かりません。
同様に、私が生きているのは、実は生かされているのであり、その背景には、愛の神さまのお働きがあったというのが聖書の根本的なメッセージなのです。
主イエスが「人は……、神の口から出る一つひとつの言葉によって生きる」と言われる、それは、私自身を知る上で、私が生き生きと生きる上で、「必ずお読みください」という「マニュアル」のようなもの、それが聖書なのです。その言葉によって、そこに私の存在意義を見出すのです。

Ⅲ.本当の幸せを約束するいのちのパン

2つ目に、神の言葉である聖書を読むと何が起こるのかについて考えてみましょう。結論から言えば、本当の幸せを手にすることができるということです。
以前、ある教会員が私に「もっと礼拝で十戒を繰り返し説くべきなのではないでしょうか」と助言くださったことがありました。確かに長老派の伝統の1つに、礼拝の中で十戒を唱えることもあります。
十戒とはイスラエルの民がエジプトから脱出した後、モーセを介して神から与えられた10の戒めのことを指します(エジプト記20章)。
この十戒の目的は何かと言えば、「~してはならない」という、行動を禁止し束縛することにあるのでなく、逆に本当の幸せを授けるために与えられているものです。
そして「十戒」を初めとする聖書に出て来る掟の意味を説き明かしたのが、主イエスによって語られた「山上の説教」でした。ですからこうした箇所を深く学び直すことは本当に大切なことだと思います。
ただ牧師をしていて、また信仰生活をしていて感じることは、それだけでは足りないということなのです。
何故、子どもたちが非行に走り、簡単に自分を安売りするのかという問題を考える時、それは、盗んだり、姦淫したり、嘘をつくことが悪いことであると知らないからということもあるでしょうが、それに加えて、もっと深いところに原因があるのではないかと思われるのです。
それは、私たちの心の内に自分が価値ある存在なのだという実感に乏しいということにあるように思うのです。自分の価値に気づいていなければ、「それを大事しなさい」と言ったところで不可能なのではないでしょうか。
何か難しいことが起これば投げやりになる。元々生きる「かい」がないわけですから、好き嫌い、損得、快不快が行動基準となる。今後、この傾向が加速されていくように感じます。
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つひとつの言葉によって生きる」と語る聖書は、私の「製作者」である神だけが、私を造られた目的を持っておられ、知っておられる。その御心を言葉にした聖書を読むことで、創られた存在である私自身が、〈ああ、そうか。こういう目的をもって生かされているのだ。このように生きることで、私の心は満たされる。元々、そのように造られている。しかも、そのように造られている私は、造り主である神さまから見て、どれだけ大切な存在なのか。〉
聖書にはこうしたことが繰り返し、しかも「これでもか、これでもか」という感じで説かれていくのです。
先週から洗礼入会準備会が始まりました。1回目はベトザタの池にいた、38年間病で苦んでいる人と主イエスとの出会いについて学びました。
重い病に苦しむ、その人に向かって、主イエスは「良くなりたいか」と尋ねました。ところが、その人から素直な答えは返って来ませんでした。返ってきた答えは、いかに周囲の人たちが不親切なのか、自己中心なのかを主イエスに向かって訴えたのです。あなたは、病気が治りたかったから、ここに来たのではないのですか、と聞かれるまで、彼自身が、そこにいた理由が、自分自身でも分からなくなってしまったのです。
その説明をするために、私は「ウサギとカメ」のイソップの話をしました。元々、ゴールを目指して歩き始めたウサギとカメでしたが、次第にウサギにとって歩く目的が曖昧になってしまった。ウサギにとって歩く目的はカメに負けないことが目的になったからです。これに対してカメはゴールを目指すことが目的でしたからウサギよりも前にいるか後ろに居るかは大きな問題とはなりませんでした。
隅谷三喜男先生を招きした時、「人生の座標軸」という講演をされました。私たちは横との比較で、本当の意味での自分の位置を見出すことができないのです。他者と自分を比べ、どこかで劣等感や優劣感と結びつくからです。では、どうしたらよいのでしょうか。隅谷先生は、人生に神との関係、すなわち縦軸が必要だと言われました。
人生に縦軸が入った時に初めて、この世界で、この歴史において、私しか立つことのできない1点を見つけることができる。それが生きて行く上で何よりも大切なのだ、と語られたことを思い出します。カメにあって、ウサギになかったもの、それがこの縦軸、神さまとの関係でした。
「心のパン」である聖書を読み、親しんで行く時に、「私は本当にユニークで掛け替えのない存在なのだ」ということを知らされます。十戒の1つひとつによって、その都度、自分に問い、自分を責め、あるいは、自らを安売りする、そんな必要がなくなるのです。何故なら、自分自身であることに満足を覚えるからです。
世の中を見回す時、友人や周囲を見る時に、羨ましいと思える人が沢山存在します。でも、神さまが私たち一人ひとりに願っている生き方、幸いを手にする生き方は、羨ましいと思える人に近づくように生きなさい、というのではなく、あなたはあなたとして生きること、「松本雅弘」として完全燃焼して生きることです。その時に、本当の意味で充足を経験するのだと、心の糧なる聖書は教えているのです。

Ⅳ.御言葉を聞きつづける

最後の3番目、どのように「心のパン」である聖書を、そして説教を聞けばよいのかということです。結論から言えば自分のこととして読む/聞くということです。礼拝の後、「今日のお話は、私に語られた言葉として聞えました」という感想を話して出て行かれる方があります。その時、私は、「あなたが働いてくださいました」と天を指さしたくなります。説教の準備をする際に、その人を想定して準備したわけではないことを、私は知っているからです。でも、神さまがその人に語りかけてくださったから、心に響く言葉となったのだと思います。ある時、主イエスは「聞く耳のあるものは聞きなさい」といわれました。これは、《聞く耳を持つ者と聞く耳を持たない者がいる》ということでしょう。ですから、大事なことは、《聞く耳をもって聞く》、分かり易く言えば、《自分に当てはめて聞く》ということです。そうすると、今日の御言葉、「人はパンだけで生きるのではなく。神の口から出る1つひとつの言葉によって生きる」ということが、その人の人生において現実のものとなっていくことです。そして、私たちを《生かす力》となるのです。お祈りします。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

気前のよい神

 

松本雅弘牧師
イザヤ書56章1~8節  マタイによる福音書20章1~16節
2019年9月1日

Ⅰ.「ぶどう園のたとえ」を読んでの感想

有名なたとえ話です。ただ多くの反応は、内容は分かり易いが、どうしても腑に落ちない、というものです。
ある人はこんな感想を持ちます。このたとえ話のようなことは日常生活では決して起こらないだろう。何故なら主人は、少し常識外れの感がある。いやあまりにも無計画すぎる。
こんな感想もあります。朝から仕事をした労働者の文句に対して、主人は「友よ、あなたに不当なことはしていない」と答えてはいるが、果たしてそうだろうか。文句を言った人の言い分は、「働いた分に応じて報いがあるべきだ」ということであり、「一日中働いた人間が、半日しか働かなかった人、いやたった1、2時間しか働かなかった人よりも多く報酬を得るのは当然でしょう」、そう訴えている。だからどうしても理解できないと思ってしまうのです。
ここで主イエスがお語りになったたとえ話はこの世の成果主義という常識をひっくり返すような結末です。常識からしても、朝から働いてきた人が不平を言いたくなるのがよく分かります。でも主イエスは、そうした反応も見越した上で語っておられるのではないだろうかと思うのです。

Ⅱ.ねたむ=目が悪い

あらためて1節を見と、「天の国は次のようにたとえられる。」と始まり、伝えようとしていること、それは、「天の国/神の国」なのです。
主イエスの神がご支配される、神の国の価値観が、いかに世間の価値観、この世の常識と異なるものなのかということを語ろうとしていることに、私たちは心に留めたいと思うのです。
このたとえ話という「鏡」の前に立ち、その「鏡」に映る自らの姿を見る。すると最初はぼんやりですが、次第にくっきりと見えてくる姿があります。
それは15節にある、「ねたむ」心の姿、その在りようなのではないでしょうか。一日中働いた人が妬んでいる。しかも妬む心を浮き彫りにするように、主人は最後に来た人から支払いを始めているのです。その結果、最後に支払ってもらった、一日中一生懸命はたらいた人の心に妬みが起こった。嫌な思いが起こり、嫌な気分が生じたのです。こういうことって、現実に起こり得ることでしょう。
私たちも経験することですが「妬み」というのは本当に厄介です。何かを見たり聞いたり、ちょっとしたことで、妬みの思いが湧くことがあります。教会の人間関係においてさえも、色々な場面で妬む心が動いてきます。妬む心を探る時、私の内で起こっているのは他者との比較です。〈ああ、あの人はうまくやっている。私の方が評価されていいはずなのに…。〉
一方で、人が低く扱われているのを見て私の心は穏やかになる。本当に、貧しく卑しい心の現実があるのです。
この時、朝から働いていた労働者の心の中に動いたことは、そうした感情だったのではないかと思うのです。

Ⅲ.気前のよい神

今日の説教題は15節から、「気前のよい神」と付けました。
この言葉は「アガソス」というギリシャ語で「善い」という意味です。そして「完全」という意味もあります。ここで神さまがぶどう園の主人にたとえられていますから、その神さまは完全なるお方として、全き善いお方として完全な振る舞いをしておられる。あなたは、その全き、完全さが見えないのか、と主はお語りになっているのではないでしょうか。
もしそうだとすれば15節の前半の主人の言葉はとても大切なことを私たちに伝えていることでしょう。「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。」(15節)「わたしが自由に、自らの物を、自らの思い通りに用い、振る舞うことが、なぜ悪いのか。」と、主人は言っているのです。
ある説教者が語っていました。神の気前よさは、その人にとって最も大切なものを、その人の思いに勝って与える気前よさだ、と。
何にも束縛されず全く自由に、私たち人間の知恵が心得る「平等の原則」にも束縛されず、全く自由に「この人には何が必要か」という事だけを考え、そのことだけを願い、施す神の善意、それが神の気前よさだと。
ですからどれほど働いたかという事は、問題にならないのです。丸一日働いた労働者が1デナリオンを得るのは当然のことです。でも広場には職にありつけない別の労働者がいたのです。だから主人は彼らのところに行き、そして
彼らを雇い入れ、ぶどう園に送ったのです。
賢い主人のすることですから、朝一番、すでに収穫に十分な労働者を雇い入れることだってできたかもしれない。
でも主人の心にどうしても引っかる事がありました。それは広場に立ち尽くしていた者たちです。ですから何度も広場に見に行くのです。そして自由に、そこから何度でも、労働者をぶどう園へと連れて行く。
そうする理由は多くの労働力を確保し、収穫量を増やすためではありません。利益を上げるためでもないのです。そのような事より、ずっと引っかかっていた事、それは職にありつけず、収入を得る当てもなく突っ立っている、そのため家族を養うことが出来ない人々、そうした彼らが広場に居たという事、その事が主人の心を捕えて離さなかったのです。
一般常識からすれば、全く無計画な経営ぶりでしょう。でも主人の気前良さ、完全さに思いを馳せれば馳せる程、これは決して無計画でもなんでもない、むしろ、そこにこそ主人の計画があった。神さまの御心があり、それが神さまの物事の進め方だったのではないでしょうか。
だからこそ主イエスは、「天の国はこのようにたとえられる」のだ、と念を押し、この分かりにくいたとえを語り出しておられるのです。
考えてみたいのですが、朝一番、広場にみんなが集まった時、一人ひとりの置かれている状況は同じでした。雇ってくれることを誰もが願い集まっていたのです。逆の言い方をすれば雇われなければ家に何も持って帰れません。そうした状況に誰もが置かれていたのです。
そうした中、幸いなことに、あるいは、どういう訳かたまたま、自分は朝一番に雇ってもらえた。ですから、ぶどう園に着いてからは一生懸命働いたのです。自分が働き、そして働いて得た報酬で家族も食べ物にありつける。もうそれだけでも大満足のはずでした。ところが他人との比較が始まるのです。
仮に愛の心のかけらでもあれば、自分は職にありつけたが、あの時、一緒に広場に居た連中は仕事を貰えただろうか、と考えたかもしれない。
一方、そうではなく〈もしかしたら自分も彼らと同じような目に遭っていたかもしれなかったのに、本当に幸いにも、この私は、仕事をもらえた…。〉と考える。
自分が満たされると同じ立場にいた仲間のことをすっかり忘れてしまう。いや覚えて居るかもしれませんが、その覚え方は、彼らと比較し、いかに自分は恵まれているかが問題となる。〈何て恵まれているんだ〉と自己満足するだけになってしまうのです。
この時、主人は不平を言った者に、「お前たちは、不公平だと言うかもしれない。でも本当に公平さを問題にするならば、早朝、広場で会った男が、日没の1時間前にやって来て1時間だけ働けた。その彼が、お前たちよりも先に同じ賃金を得たのを喜んでいる姿を見て、『ああ、ほんとうに良かった』と、何で一緒に喜べないのか。共に喜び合うことができないのか」そう訴えようとされているのではないでしょうか。
そして仮に、そうした喜びの目で仲間の姿を見ることが出来たならば、「あなたの目は澄んでいる。善い目だ、善い目だ」と、主人に言っていただけたに違いない。
そうした心の在り方こそが、実は私たちが魂の奥底から憧れている生き方、私たちが求めるべき本来の姿なのではないか、と訴えているように思うのです。

Ⅳ.神さまの招きに応える

洗礼入会準備会で、この箇所を読む時に、参加者の方たちに問いかける質問があります。皆さんは、ご自分をどの時間の労働者と重ね合わせて考えることが出来ますか、考えますか、という問いです。その時、ぶどう園は教会に、あるいは神さまを信じる人生に置き換えて考えてもいいかもしれません。
ここに出てくるそれぞれの「時間」が「人生の時期」を表わすとすれば、私たちは、どこに自分を見いだすでしょうか。主イエスを信じて生きることの報いというのは死んでから与えられるというものではなく、今、この瞬間にすでに与えられている、と主イエスは語るのです。
永遠の命というものは、やがて与えられるというよりは、ぶどうの木である主イエスに繋がっていること、そのものだからです。ですから、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(16節)ことがあっても、それでよいと喜んで思えるのではないでしょうか。
こうした人生、こうした「ぶどう園」に主イエスは招いておられるのです。
まだ招きに応えておられない方があるならば、ぜひ、今日、その招きに応えてみたらいかがでしょうか。お祈りします。