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主日共同の礼拝説教

わたしはどこで生きるのか

和田一郎副牧師
創世記3章1~9節
2019年10月27日

1、自分の立つところ

先週、香港で行われたカンバーランド長老教会のアジア教職者修養会に出席してきました。香港では政府への抗議活動が続いていて、毎週若い世代の人達を中心にデモが行われています。香港の教会の中でも抗議活動に対する意見は複雑なようでした。中国本土からの締め付けが強まっていて、信仰の自由や礼拝の自由も本土のように厳しいものになってしまうのではないか、という不安があります。香港中会の議長でもあるウィリアム牧師は、抗議デモに参加している時の事を話してくださいました。デモを見守っていた時に雨が降ってきたそうです。傘を差したウィリアム先生の近くに一人の警官が立っていたので、そっと近寄って傘に入れてあげたのだそうです。警備中の警官は「ありがとう」という目線を送ってきたそうです。中国と香港との、一国二制度という捻じれの中で葛藤している人々と接した中で、ウィリアム先生の話が心に残りました。
ウィリアム牧師も警官も、二人とも香港で生活をする香港人です。しかし、二人は立場が違いました。抗議する側と取り締まる側。それぞれ、家族の中の父であったり、夫であったり、一人の男であり、アジア人です。いろいろなアイデンティティの中でその日、その時の、二人の立ち位置は抗議する側と取り締まる側という立ち場の違いがありました。わたしたちは、自分の生きる立ち位置を、どこに置くかによって人生は変わります。
いま皆さんは教会で礼拝していますが、ここで今携帯電話にメールが入ってきて「今どこにいるの?」と聞かれたら、どう答えるでしょうか。もし、答えるとしたら、「今わたしは教会にいます、礼拝に出ています」と答えるでしょう。いま皆さんは、休みの日の日曜日に、ショッピングモールに行ったり、仕事に行くのではなくて、礼拝に来ています。自分で立つべき場所を選んでここに居るわけです。今日初めてこの教会に来られた方も、誰かの誘いや、ご自分の思いがあって来られたと思います。礼拝というのは、神の前に立つということです。今日は私たちはどこに立つ者なのか、どこに立ちながら生きていくのか。人生の立ち位置を、聖書から考えていきたいと思います。

2、「どこにいるのか?」

今日の聖書箇所は創世記のアダムとエバの話です。アダムは神様が造られた最初の人間です。神様が人間を造った時、神様はご自身に似た性質を、人の身体の中に吹き込んで下さったのです。ですから他の生き物と比べて人間は、どこか特別に感じると思うのですが、それは、私たち人間が神様に似た性質として造られたからです。
その神に似た性質というのは、まず愛し愛されるという性質です。そして善を行うこと、悪を良しとしないこと、そして自由な意志も神様と似た性質として人に与えられました。自分で選ぶことができるという自由が人間にはあります。
そして、人間を造られた時、それには目的がありました。人間を造る理由と目的があったのです。旧約聖書の詩編に「主を賛美するために民は創造された」(詩編102編19節)とあります。つまり「神様を敬うように人間は造られた」ということです。もっとくだけた言い方をしますと、神様は、ご自分と親しく信頼し合う相手として人間を造ったということです。
かつて、エデンの園というところで、アダムとエバは、まさしく神様と親しい関係にありました。おそらく神様と顔と顔を合わせるように、身近な存在として生きていたのです。その時の立ち位置は、神の前にいた。神様の前に立つ者でした。ところが、二人は神様との約束に背いて、禁じられていた木の実を食べてしまったのです。自分で選べるという、自由意志を間違った使い方をしてしまい、神に背いてしまいました。これが最初の罪、原罪という罪です。罪を犯した二人は、恥ずかしくなって木々の間に隠れました。この時、立ち位置が変わってしまったのです。ふたりはコソコソと隠れなければなりませんでした。その隠れている彼らに、神様は「どこにいるのか?」と尋ねたのです。神様は、二人が約束を破ったということは分かっていながら、あえて「どこにいるのか」と尋ねたのです。「あなたはそこで何をやっているのか」という、二人が立っている位置を問いただしたのです。「いつも私と向き合っていたではないか、あなたは、いったいそこで何をしているのか?」・・・。
みなさんは、今日、アダムとエバのように隠れるのではなくて、神様の前で礼拝をしています。しかし、礼拝が終わってからの一週間はどこにいるでしょうか。家にいても、学校にいても、職場や遊びに行っている時も、自分の立ち位置は自分で選べます。神様から与えられた自由な意志で立ち位置を決められます。神様と共にいることもできますし、神様に背中を向けることもできます。あなたはどこに立って生きるでしょうか。

3、ふさわしい場所

先日、映画を見ました。「イエスタディ」というロックバンドのビートルズを扱った映画です。シンガーソングライターの主人公の青年は、売れなくて、もうミュージシャンを辞めようと思っていました。
ところがある日、世界中で謎の大停電が起こって、以前とは少し違う世界に代わってしまったのです。それはビートルズというロックバンドがいなかったという世界です。ですからビートルズの名曲も存在しない世界です。主人公が、ビートルズの曲を歌うと、周りの人は「素晴らしい」と言って驚き、曲は大ヒットして、彼は大スターになっていくのです。しかし、彼には不安が湧き起こってきます。自分が作った曲ではないのに自分が作ったかのように振る舞う日々です。この主人公の偽りの生き方がいつまで続くのだろうと、見ている方も不安になってきました。主人公はとても優しくて、ビートルズの曲を心から愛する純粋な青年です。しかし、本来の自分ではない、偽りの自分が評価されて成功をおさめていく。しかし、そこで彼の生き方を変えたのが、ある人との出会いでした。その人と出会ってから、彼は真実を告白します。「これは自分で作った曲ではありません。みんなが知らないビートルズというグループの曲です。今日から無料でネット配信します。もう自分のことを天才のように誉めないでください」。と言うのです。その日から、彼はビートルズを愛する一人のファンという立場になりました。ファンとしてビートルズの素晴らしい曲を伝える者という、彼にとって相応しい立ち位置を見つけたわけです。彼は見違えるように、生き生きと人生を歩み始めました。彼を変えたのは、ひとつの出会いです。私たちの人生においても出会いは大切です。
今日、はじめて教会に来られた方も、いま神さまに出会っていると言うことができます。もし、皆さんが神さまのことに、興味をもたずにこの時間を過ごしてしまうなら、それは、大切な出会いのチャンスに気付かずに、通り過ぎてしまうことになります。しかし、神様は話しかけておられます。 私の前に立ちますか、それとも隠れていますか。
「あたなは、どこにいるのか」。

4、求めよ、そして生きよ

先ほど、N神学生がご自分の証しを話してくれました。神様は、彼にいつも語りかけていることを知りました。「求めよ、そして生きよ」(アモス書5章4節)という言葉です。それはわたしたちにも同じように語りかけています。神様は、この自分を求めなさい、そして生きなさいと言われます。愛をもって私たちを造り、私たちに、この人生を与えてくださった真理である神を求めなさいと言うのです。この語りかけ、この出会いを大切に受け止めて頂きたいと思うのです。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(ルカ福音書11章9節)。
与えられるのは、永遠の命です。聖書で語られる永遠の命とは、この世の寿命のことではありません。神の教えに従い、この世の中で自分に与えられた役割を生きるという命です。自分や周りの目を気にして、勝手に作りあげた偽りの生き方ではなく、神様から与えられた自分らしい生き方を歩むことです。その生き方には平安と希望があります。
「求めよ、そして生きよ」と語られた、生きるという意味を、自分の知恵ではなく神に求める。
そこに救いがあります。永遠の命を、いま生きる。そこに立つのです。
人生の困難や災いは、残念ながら防ぐことができません。しかし、わたしたちは自分の立ち位置を選ぶことができます。そこでは癒しと安らぎを得ることができます。生きるべき場所があり、生きる目的があります。それが永遠の命です。この一週間、神に求めていきましょう。そして、与えられた命を、生きていきましょう。お祈りをしましょう。

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主日共同の礼拝説教

人のことをとやかく言う前に―聖書が教える豊かな人間関係

松本雅弘牧師
マタイによる福音書7章1節―7節
2019年10月20日

Ⅰ.裁いてはならない?

今日の聖書の箇所は、主イエスの教えの中でも大変有名な「山上の説教」と呼ばれる、一連のお話の中に含まれています。
主イエスは「人を裁いてはいけません。あなたがたも裁かれないようにするためです」と語りますが、主イエスは、「相手の過ちや罪を大目に見て、いざという時のためにその人に貸しを作っておくことが賢い人間関係の秘訣ですよ」と教えておられるのでしょうか。
今日はここから聖書の教える豊かな人間関係について考えてみましょう。

Ⅱ.「裁くな」と教えられた背景

ここで「人を裁くな」と語られた言葉は、ファリサイ派や律法学者と呼ばれる、当時の指導者層の人々に向けて語られたものだと言われています。
実は、彼らは聖書の律法や規則に精通し、それに反しない生活を心がけていました。ただ問題は自分に厳しいだけではなく、他の人々にも、とても厳しい人たちだったのです。ちょうど、自分が一生懸命やっているのに、他の人がのんびりしていると、赦せず腹が立ってくるということがありますが、まさにそうした心を持つ人たちでした。
彼らは、自分たちが一生懸命やっている分、周囲の人たちにもそれを要求していた。いい加減でのんきに見える人を許せない。こうしたことは日常生活でよく起こることだと思います。
「自分はこんな大変な思いをしているのに」、「これだけ頑張っているのに」、「あの人にあれだけ親切にしてあげたのに、お礼のひと言もない」とか…。
良い動機で始めたのです。自分で決めて始めたことなのに、困難に直面すると次第に余裕もなくなり、周囲を責め始めるのです。
「人を裁くな」という教えには、実は、こうした当時の背景があったことを心に留めたいと思います。

Ⅲ.大きな落とし穴

人を裁き、弱点を指摘する時、私たちは「あなたの目からおが屑を取らせてください」と言っているようなものだ、主は言われるのです。つまり他人のことをとやかく言うということです。
しかも「このおが屑さえなければ、この人は幸せになれるのだから」と、あくまでも善意で、相手を思いやる気持ちから「取らせてください」と真面目に言っている。しかし、そこに落とし穴があると主は言われるのです。
考えてみれば、「おが屑」とは本当に小さな物です。前に使っていた聖書では「ちり」と訳していました。そして仮に、どんなに小さくても、そうした「おが屑」が目の中に入ったら、ゴロゴロして目が痛みます。涙も止まらない。鏡の前に近づいて見るのですが、ゴロゴロする違和感はあっても、どこに「ちり」があるのか、本人でも見つけられない。それが「おが屑」であり「ちり」です。
そうした、本人も分からない。あるのか、ないのかも分からないような「おが屑」を「あなたの目から取らせてください」と言ってのけてしまうというのです。
主イエスは、このように言ってのける人に対して「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け」と言われるのです。ひと言で言えば、人のことをとやかく言う前に、自分の課題と取り組むようにということです。
カウンセリングでは、「変えることのできないものが2つある」と言われます。1つは「他人」、そしてもう1つは「自分の過去」。また、同じくカウンセリングの場面で「変えることのできるものも2つある」というのです。それは「自分」と、「過去の意味」の2つです。
ここで主イエスは、まず自分自身を理解するように。自分の「丸太」に気づくように。そして、先ずはその丸太を取り除くように、と勧めます。
カウンセリングの言葉を使うならば、自分の課題に気づき、それと取り組み始めなさいということです。すると不思議なことに、相手が変わってくる。その結果、両者が変わってくる、ということを約束してくださっているのです。
ある夫婦が問題を抱えています。お話を聞くと、結局、互いを責め合っている。でも第三者から見た時、それぞれに課題があることが分かります。そしてもう1つ確かなことは、互いの欠点を責め合っている間は、2人の間に何も起こらないということです。多くの場合、私たちは、自分の課題を自分の責任として受けとめず、環境を責め、特に他人を責めます。ある時は親を責めたり、子どもを責めたり、職場の同僚や上司を責めたり、部下を責めたりしてしまいます。
誰もが経験することですが、このような場合、事柄は一向に良い方向には動きません。「子どもが変わらなくて困る」と言われている。そこで、息子さん本人に話を聞いたら、「母親が頑固だから、俺は決して譲らないんだ」と答えるかもしれません。でも、ほんとうに不思議なのですが、片方が自分の丸太に気づき始める、自分の問題と取り組み始めるとそこに変化が起こってくるのです。
いつも責めて来る、その人の態度や出方が変わったことで、会話のパターンや喧嘩のパターンが崩れ、そこに必ず変化が起こるのです。
もう1つお話ししたいこと、例えば、明らかに相手に問題がある、そのような場合があります。確かに、主イエスは、ここで他人を裁く前に自分自身を振り返るように教えています。でも明らかに難しい相手である場合もあります。場合によっては、「敵」のようにしか思えない人もいるかもしれません。
同じ山上の説教の中で、主イエスは「敵を愛しなさい」と教えています。私たちにとっての、本当に難しい人、「敵」のように思えるような人と出会ったらどうするのか。
ある方がこんなことを語っていました。人間をレタスに置き換えて考えなさい、というのです。例えば、レタス栽培をして、一生懸命に肥料をやって、雑草を抜き、そして水をやって育てるのですが、なかなかうまく育たなかった。収穫はしたが、あまり出来の良いレタスではなかった時に、あなたはどうするか考えて御覧なさいというのです。そのような時、そのレタスに向かって「何でうまく育たなかったのか!」と言って責めるでしょうか? あるいは「何でお前は出来そこないなの?」と言って裁くでしょうか。
そういうことはしないでしょう。むしろ、「なぜ、こうなったのだろうか」と理解しようとするのではないでしょうか。そして次に、「私に出来ることは何だろうか?」と、レタスを問題視する代わりに、その為に、私自身が出来ることを見つけようとするでしょう、と。
課題のある人と対した時に、その課題を指摘するのではなく、理解しようとする。ちょうどレタスを見る時のように、相手を責めても仕方がないので、その人が育った背景、受けてきた教育、家庭環境などを理解しようとする。すると不思議なのですが、今まで難しいと思ったその人に対する、私の見方が変わって来る。その結果、その人に対して優しくなれるのです。

Ⅳ.十字架の赦しの前に生かされる

さて、今日は、「他人のことをとやかく言う前に―聖書が教える豊かな人間関係」という題でお話をさせていただいていますが、まとめますと、まず、私たちがすべきことは、自分を知る、ということ。そして次に相手を知る、相手を理解する、ということを考えてきました。
神さまの前に、まず、自分の丸太に気づかせていただくのです。そして、私が相手を変えることはできません。自分の過去も動かないかもしれない。でも自分を理解し、自分の目にある丸太を取り除けることから取り組み始めると、日常の人間関係のパターンに変化が起こってきます。すると不思議と相手の出方も変わってくるのです。
そして何よりも大切なこと、それは神さまがこの私をどのように見ていてくださるのか。そしてまた、神さまが、その人をどのように思っていてくださるのかを知る、とうことです。
教会に来ると必ず目にするものがあります。それは十字架です。今では、ネックレスやペンダントになって、十字架はクリスチャンでない方もアクセサリーとして身につけています。でも、元々は人を処刑する時の道具です。
その十字架を、教会は2千年の間、キリスト教のシンボルとして大切にしてきました。このことを表わした有名な言葉があります。それは「聖書の聖書」と呼ばれるヨハネ福音書3章16節です。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
つまり、私たちは赦され、生かされている者同士。神さまからそれ程までに愛され、赦されていることを知ると、周囲を見る私の見方が変わってくるのです。赦され、愛されている者として、私も生かされている。それだから、という優しい見方が与えられてきます。そうした中で、本当の意味での豊かな人間関係が与えられていくのです。お祈りいたします。

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ほんとうに求めていた生き方

松本雅弘牧師
マタイによる福音書6章19~24節
2019年10月13日

Ⅰ.人生を動かすこころの物語

『きっと、うまくいく』を観ました。インド屈指の難解工科大学に通う学生たちの生活を描いた作品です。入学式で学長がカッコー鳥のはく製を、巣の上に乗せて、新入生たちの前に立って演説するシーンが出て来ます。
「諸君、この鳥は何か分かるかね? カッコーだ。カッコーは巣を決して巣を作らない。他の鳥の巣に卵を忍ばせるんだ。ヒナが生まれる時に、彼らが始めてやることが分かるか?」と言って、巣にあった本物の卵を地面に落とすのです。
当たり前のこと、落ちた卵はグチャグチャに割れてしまいます。それを見て驚いている新入生に向かって間髪入れずに、「いいか。こうして他の鳥の卵を蹴落とすんだ。それで競争は終わり。カッコーの人生は殺しで始まる。戦うか、死ぬか。それが自然の法則だ」と語り、「人生は競走なのだ」と。
こんなシーンもありました。学長が学生に「月面に初めて立った人物は誰かね」と質問します。学生の1人が「ニール・アームストロングです」と答えます。それを受けて「紛れもなくアームストロングだ。これは誰もが知っていることだ。でも2番目に月面に立った人物を君たち覚えているかね。2番目の人物なんて誰も覚えてやしないものだ」と語るのです。
このように「人生は競争」、そして「競争するからには1番にならなければ意味がない」という物語を学生たちの心に植え付けていくのです。その映画を観ながら、日本の私たちにとって、私たちを動かしている物語・価値観って何だろうか、と考えさせられました。日本人と共通する「物語」があったからだと思うのです。

Ⅱ.平安の根拠は?

今日の聖書の箇所には、ダヤ社会にはびこっていた「お金がすべて、蓄えさえあれば安心」という物の考え方に対して主イエスがチャレンジしています。ここで主イエスは「あなたがたは地上に富を積んではならない。むしろ、その富は天に積みなさい。…あなたの富のあるところに、あなたの心もある」と言われました。
別訳聖書では「富」が「宝」と訳され、「あなたの宝物があるところに、あなたの心があるものだ」とおっしゃったのです。
ところで、ここにある「富」とは元々は「宝箱」を意味する言葉が使われていて、使い古した思い出の万年筆や、ましてや息子が作った土団子のようなものではなく、実際にお店に並べたら、しっかりと高値がつくような、貨幣価値がある財産を意味するものです。
しかも、元々のギリシャ語では、わざわざ複数形で書かれていますので、価値あるものがたくさん詰まっている宝箱、たいへんな財産、という意味でしょう。ここで主イエスは、そうした富や宝を、「地上に富を積んではならない」と教えています。理由は、「そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」から。つまり、どんなに価値ある物も、ずっとそのままの価値を保つことなどありえない。富みには限界があり、最終的に頼りになるものではないのだ、と主イエスは教えるのです。

Ⅲ.富に関わる「新しい物語」

富に関して主イエスが話された次のたとえ話を思い出します。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(ルカ12:16-21)
ここで主イエスは富に頼ることの愚かさに加え、「神の前に豊かになる生き方」を説いています。先週、「油」の話をしました。本当の意味で大事なもの、「神の前に豊かになる生き方」とは、「本当に大事なことを大事にする生き方」と言い換えてもよいかと思うのです。
私たちの周りには様々な良き物で溢れています。聖書は、それら1つひとつは、神からの贈り物であると教えます。
この美しい自然、豊かな食物、家族や友、私たちの手元にある様々な品物も全てが神さまからの贈物です。
ある男女が婚約したとします。婚約のしるしに男性はダイヤの婚約指輪を贈り、女性は高価な時計をプレゼントします。大切な相手から贈られた記念の品です。ところが、男性が婚約者の女性以上に時計を大事にしたとすればどうでしょう?本末転倒になります。時計、あるいは指輪も、婚約者に対する愛を表わすシンボルであって、いくら高価な品物であっても婚約者にとって代わるものでは決してないからです。
以前、『人生の四季を生きる―教会のおとなたちに贈る34のワーク集』というテキストを読んでいましたら、そこにこんなワークシートがありました。「あなたは、持ち物を全部船に乗せ、『人生洋』という大海原を航海しています。『春の海』を出帆して、楽しい海の旅が続きました。ところが、予想もしなかった大嵐に遭遇! あなたの船は、大波にもまれて今にも沈みそうです。あなたの生命を守るために、船を軽くすることが必要です。あなたが大切にしている積み荷を、どれから順に海に投げ捨てるか決めてください。捨てた荷物は、二度とあなたのものにはなりません。」
そして「積み荷のコンテナは、10あります」とあって、その10が、「①健康、②生きがい、③若さ、④魅力、⑤家族、⑥名誉、⑦仕事、⑧能力、⑨快適な生活、そして⑩財産。」これは究極の選択だと思いました。
みなさんは、どうお応えになりますか?
ここに挙げられた10項目はどれも大切です。しかも、これらには共通点がある。それはこのいずれも神からの贈物、そしていつか神にお返しする時が必ずやって来るということです。ですから、ある種の距離感を持って生きる。握りしめずに、いつでも手放すことができるような距離感が必要だということでしょう。
何故なら本当の意味で私を支えてくれるのは、ここにある10の事柄ではなく、それを与えて下さる神ご自身だからです。ですから「距離感を持って生きる」という生き方は主イエスの賢い生き方であり、正に贈り物の与え主である、神さまのことを覚える生き方だ、と主イエスは説いておられます。

Ⅳ.新しい福音の物語

『きっと、うまくいく』に、印象的なシーンがあります。自殺した学生を葬る場面です。死んだ学生は「競争に勝つ、それも1番になる」という「物語」で救われませんでした。当然ですが、学生が100人居たら救われるのはその内の1人だからです。他の99人は救われない。その証拠に、映画には学生が自ら命を絶とうとする場面が2回もあり、「90人に1人が自殺する」というような、現代インドの学生事情を表わすセリフもありました。明らかに学生はその物語に縛られ苦しんでいる。その苦しみとは救われない苦しみもさることながら、本当に心の底から求めている人間らしく生きることの出来ない苦しみでしょう。ただ埋葬シーンで、ハッとしたのですが、十字架の刺繍のあるストールを掛けた牧師の姿が出て来るのです。古くからのカースト制、他人よりも多くモノを獲得しお金を稼ぎ出世することが幸せと考える物語に代わる新しい物語を求めている、現代インドの若者を描くこの映画の中で、今までの延長線上ではない何か新しい物の見方、価値観を伝える場面のように見えました。
確かにお金は必要です。仕事も大切です。でも「死の床で、どれだけの人が『人生をもっと職場で過ごしたかった』と思うだろうか。『もっとお金を貯めたかった』と考えるだろか」という言葉を読んだことがあります。
聖書は、私たち人は、神のかたちに造られ、神にしか満たすことの出来ない隙間、神にしか癒すことの出来ない渇きがある、と教えます。そのような意味で、私自身が深いところで憧れる生き方、私を生かす新しい物語を必要としている。今、これまで自分を動かしてきた物語に代わる、新しい物語を聞くことを私の心は切に求めているのではないだろうか。聖書はその物語のことを「福音の物語」と呼びます。福音の物語とは人の価値はその人が成したことによらない。神は私という存在をそのあるがままの私を愛しておられるというメッセージです。
ぜひ歓迎礼拝に来られたことを機会に、この新しい福音の物語を心にいただき、それを心の内に響かせながら歩んでいけたらと願います。
お祈りします。

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大切な問題を後回しにしていませんか?

松本雅弘牧師
マタイによる福音書25章1~13節
2019年10月6日

Ⅰ.「天の国」とは?

「天国」という言葉を見たり聞いたりすると何を思い浮かべるでしょうか。「死んだ後、行くところ」とか「空の遥かむこうの世界」ということを想像することが多いように思います。
それに対して、聖書が教える「天の国」、別の言い方をすると「神の国」は、天地万物をお造りになった神が王として支配されている領域、世界を意味しています。
神さまの愛の御心、その愛の御心は聖書の中に示されていますので、言い方を変えるならば、聖書の価値観が基準となっている世界を「天国」と呼びます。聖書は、神さまが教える価値、聖書の価値観が基準となっている世界のことを、「天国」と呼んでいます。
今日の箇所を読みますと、主イエスは、天の国の価値観、天国の価値基準はこのようなものですよ、と言って、今日の箇所の小見出しにありますように、「十人のおとめのたとえ話」をお語りになったわけです。

Ⅱ.「十人のおとめ」のたとえ

このたとえ話は婚宴の始まりの場面から語り出されていきます。婚宴の始まりにともし火を持って花婿を迎えに行くとは大変美しく喜ばしい光景です。
選ばれた十人のおとめたちは、結婚式の中でもとても大切な務めを果たす役割が与えられています。ところが十人のおとめたちには2種類の人たちがいました。それは愚かなおとめと、賢いおとめでした。愚かな5人のおとめたちの「愚かさ」がどこにあったかと言えば、「備えが出来ていなかった」ということです。
花婿が到着するのが遅れたために、到着した時には、愚かなおとめたちのともし火は消えてしまいました。そのため賢いおとめたちに油を分けてくれるように頼んだのですが、彼女らは「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」と、見方によっては冷たくあしらったのです。
結婚式とは本当に幸いな時、2人の新しい門出を祝福し喜びを共にする時です。この十人はそうした結婚式の中で大切な役目を担わされていました。その役目とは「ともし火を灯し、花婿を迎える」ということです。ですから、仲間のおとめが油を切らしたなら、余分に持っている者たちが協力し、この場を乗り切ることはできなかったのかと思います。でも、そうしませんでした。
こうして油を分けてもらえなかった愚かなおとめたちは、賢いおとめたちのアドバイスに従い、町に油を買いに出かけます。幸い、店で手に入れることができました。そして急いで祝宴会場に戻ります。ところが主人は扉を開けてくれないのです。「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」と言って締め出されてしまいます。
主イエスは、そういうたとえ話をここで語っておられます。このたとえ話を繰り返し読んでみると、一つのことに気づかされます。それはイエスさま御自身が、この時の賢いおとめたちの言動を否定せず、むしろ肯定している点です。ここに、たとえ話を説き明かすヒントが隠されているように思うのです。

Ⅲ.大切なことを大切にする生き方

数年前、興味深い本が出版されました。『聖書に学ぶ子育てコーチング』という本です。内容は、ひと言で表現するならば、「子離れ・親離れ」の本です。
子どもが生まれて間もない時は、食事から始まり、排せつ、服の着せ替え、一から十まで親がかりです。でも成長するに従い、自分で食べるようになり、トイレに行くようになり、服も着たり脱いだりするようになります。
でもよくよく考えてみますと、実はそれは錯覚で、ミルクを作り子どもの口元まで持っていくのを、飲むかどうかは子ども自身がすることで、誰であっても子どもに代わってやって上げることのできない領域です。その1つに排せつもあります。排せつし易いようにオムツを替えることがあっても、実際に排せつできるのは本人だけで、親が代わることはできないのです。つまり、親子であっても夫婦であっても、お互いは、代わることのできない存在だからです。
ここでイエスさまは、この十人のおとめに与えられた責任や役割は、本当に晴れがましく、しかも大切なものであることを確認する一方で、他の人が代わり得ない重要な役割なのだということを教えているのです。
賢いおとめが余分な油を持っていたなら分けてあげてもよかったのではないかと思う、と申しましたが、でも現実は、初めから余分なものなどないのです。人から譲り受けてどうにかなるのではなく、自分で準備しなければならない「油」というものが、私たちの人生にはある、ということを教えているように思うのです。
例えば会社や家庭、地域社会の中で、他の人が代わることのできない役割をそれぞれがお持ちなのではないでしょうか。その務めに精一杯生きることが求められ、しかもそうした務めに生きるということは、ある意味で婚宴の喜びを共にするように、人生で1回限りの掛け替えのない時でもあります。
私たちは、実はそうした時を、日々生きているのだと思うのです。ここで主イエスは、私たち一人ひとりが、このような大切な時を逃してしまうことほど、愚かしいことはないのだと教えているのです。言い換えれば、本当に大切なことを大切にする生き方をするようにと説いておられるのです。

Ⅳ.後回しにしてはならない大切な課題

ともし火は目立つものです。それに対し油は周りからは見えません。でも見えない油がなくなると途端に灯りは消えてしまう。油がなければ灯も、いざという時に役に立たないのです。まさに「油断大敵」です。
私たちは人々の目に映るところで日常生活を営みます。会社で一生懸命働き、子どもを育て、あるいは地域社会において活動をします。
それは、ともし火のように、周囲から見える部分でしょう。でも、その見える部分を支えているのが、実は外からは見えない油の存在。しかも見えないだけでなく、今日のたとえ話が教えるように、他の人が私に代わって用意できないものです。
私たちに当てはめるならば、そうした油とは何に相当するのでしょう? その一つは、「関係」だと思います。具体的には夫婦の関係、親子の関係、家族の関係、そして職場や学校での人間関係です。場合によっては「自分自身との関係」ということもあるでしょう。自分の心や体をどうメンテナンスしているか。自分が抱える心配事や悩みとどう向き合っているか、そうした意味での「自分自身との関係」があります。そして、さらに聖書は、大切な油の1つとして、「神さまとの関係」についても教えています。
こうした「油」は周囲からは見えません。でも私たちの働きや活動、日常の営みという、「ともし火」を灯し続ける大切な油なのです。そうした油があるからこそやって行けるわけです。
以前、あるアメリカの牧師夫人がバプテスト教会の牧師の家族向けの講演会で語ったテープを聴いたことがあります。
その教派はとても大きな団体です。そこには何千、何万と言う教会があることでしょう。そこで働く牧師やスタッフの数もたいへんなものです。ところが毎年、何十人、いやそれ以上の数の牧師や教会スタッフがその働きから離れていく。今日のたとえ話のように、「油」を切らしたように一線を退いていく。その第1の理由が夫婦関係だそうです。
もっと正確な言い方をするならば、色々な意味でストレスの大きい働きに、連れ合いがギブアップしてしまう、というのです。外から見ていると牧師もしっかりやっている。言わば彼のともし火はしっかりと灯されている。でも、周囲から見えないところにおいて、実は少しずつ「油」が切れ出しているというのです。
いや、これは牧師だけではありません。子育て中の人も、また会社で働いていてもそうだと思います。ちょうど背広でも裏地があるので、この表の生地(きじ)がしっかりするのです。油というエネルギーがあるので、ともし火を灯すことができるのです。
でも油の備えがない時に、必ず行き詰る。場合によっては、大事な関係までも犠牲にし、見える世界での成功を求め、一生懸命にともし火を灯そうとしている。こうしたことってないでしょうか。
このたとえ話を通して、イエスさまは、そうした「油」、つまり夫婦や親子の関係、他の人が私に代わって準備することのできないもの、そうした部分で、自分の人生をどう生きるのか、これは後回しにしてはならない人生の課題であると、私たちに伝えていることを覚えたいと思うのです。
イエスさまは「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と教えてくださいました。
今日、礼拝に出席したことを機会に、私たちの心の糧、今日のたとえで言うならば、私たちがそれぞれに準備しておく油としてのエネルギーを、神さまからいただき続けていきたいと願います。お祈りいたします。