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主日共同の礼拝説教

聖なる生活

和田一郎副牧師
出エジプト記3章1-5節、Ⅰテサロニケ4章1-8節
2019年11月24日

Ⅰ.イスラエルの民と聖であること

この手紙の4章に入り、「神に喜ばれる生活」という具体的な信仰生活がテーマとなっていきます。3節に「聖なる者となるため」と、7節には「聖なる生活をさせるためです」とあるように、神に喜ばれる生活とは「聖なる生活をする」ことと重なっています。
「聖」という文字は、英語では「ホーリー」、ヘブライ語では「コデッシュ」という言葉です。モーセは、この時、ミディアンの荒れ野で羊飼いとして生活していました。ある日、羊たちを追いかけて、ホレブの山に登ってきた時に、燃える柴を見つけました。いつまでも燃え尽きない不思議な光景を見ていると、神様がモーセに語りかけます。「あなたの立っている場所は聖なる土地だ、履物を脱ぎなさい」。ここで「聖」という言葉が使われます。モーセが生活していた荒れ野は人間の住む領域ですが、モーセが立っている場所は神の領域です。それを区別して「聖なる土地」と呼びました。「聖」という言葉の本来の意味は、「分離する」とか「切り離す」という意味があります。荒れ野のような世俗的なもの、神様の性質とはかけ離れたものと、切り離して聖なる神の領域の中にある。そのような概念を「聖」という言葉で表しています。「聖」という言葉は、創世記では1箇所(2章3節)にしか書かれていませんが、出エジプトの出来事を記した書の中で多く記されています。その意味は次のように考えられます。出エジプトの出来事から、神様はイスラエルの民を神の民としてくださいました。教会のような一つの信仰共同体として、十戒を授けて神の民となる契約をしてくださいました。そうして罪に溢れる世俗の土地カナンに入って行こうとしています。その世俗の世界に入って行っても、汚されることなく聖なる神の民として生きなさい、というメッセージが、イスラエルという共同体に与えられたのです。神の民として、聖なる神様との関係の中に入れられたのだから、あなた達も聖なる者となりなさいという教えです。それを象徴している御言葉がレビ記11章45節です。
「わたしは、あなたたちの神になるために、エジプトの国から、あなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」。
カナンという約束の地に行くと、偽りの神々を崇めたり、人間の作った偶像を信じる人々で溢れている、でもそれらに取り込まれるのではなくて、それらと自分達を切り離して、神の民となりなさい。それが聖なる生活だと言われるのです。

Ⅱ.性の営みについて

イスラエルの民が、行こうとしているカナンという土地には、性的に乱れた土地でもあったと言われています。同じように、それはパウロがこの手紙を書いた時代、教会を取り巻く環境の中にも、性的に乱れた文化がありましたし、現代社会も同じです。
テサロニケの信徒に向けて、パウロは聖なる生活について、具体的なこととして3節以降に「みだらな行いを避け…尊敬の念をもって妻と生活するように…異邦人のように情欲におぼれてはならない」と、性的に乱れた生活を戒めています。しかし、だからといって、男女の性的な関係そのものが、みだらな行いであったり、情欲におぼれている、ということではありません。もし誰かが「男女の性的な関係は、汚らわしくていやらしいものだ」と言ったら、それに真っ先に反対するのがクリスチャンだ、とCSルイス(神学者)が言いました。つまり、聖書に書かれていることは、男女の性的な関係は、いやらしいものではないというわけです。そもそも男女が結婚するということは、人間に与えられた神様からの特別な祝福です。夫婦が男と女に造られているというのは、お互いに補い合う関係にあることを意味していて、父母を離れて男女は一体となれる、それは特別な恵みです。神様は性的な喜びを、夫婦の祝福のために与えてくださいました、それは良いものです。神様の恵みであり祝福であるものを、いやらしいものにしているのは人間です。結婚して夫婦のために与えられたものを、結婚生活とは関係なく、好奇心や自分の楽しみにしていれば、汚らわしいものです。
今日の聖書箇所の4節には「おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって、妻と生活するように学ばねばなら」ないとあります。パウロは、他の手紙の中で、自分の体を自分の意のままにすることはできない。結婚したら、自分の体はもう自分だけのものではないとも言っています(1コリント7章4)。8節では、神様は「御自分の聖霊をあなたがたの内に与えて」くださっているとしています。夫婦互いの体には、聖霊が与えられているのですから、相手の体を自分の体のように労わって、手を添えたり、ハグをしたりするスキンシップをとることも大切なことです。神様から夫婦に与えられた恵みを、汚らわしいものにしないで、恵みを恵みとして受け取ること。これが夫婦に与えられた「聖なる生活」の秘訣といえるのです。

Ⅲ.聖なる生活

「聖なる生活」をすると聞くと、どこか、立派な生活をするかのように聞こえてきます。しかし、出エジプトの出来事では、イスラエルの民は、周りの民族とくらべて道徳的に立派だったわけではありません。特に優れたものを持っていたのでもありません。ただ神様の恵みによって、エジプトから救われて神の民とされたのです。それからエジプトを旅立ち、シナイ山で神の民となるために「聖なる生活」の戒めを与えられたのです。姦淫をしてはならない、偽りを言ってはいけない、あなたの父と母を敬いなさい、殺してはならない、盗んではならない、隣人のものを欲しがってはならない。そうした十戒の戒めを受け取り、その戒めに応えて生きるところに「聖なる生活」がありました。
それと同じ恵みが、イエス・キリストによって、私たちに与えられています。聖なる方はイエス・キリストです。聖なるものはイエス・キリストからきます。キリストの苦しみ、痛み、流された血、それらの御業がキリストの聖さです。「聖なる生活」は、自分の力で頑張って、道徳的に立派な生活をすることとは違います。私たちの聖なる生活の土台は、キリストの十字架の犠牲によって与えられたものです。その恵みを恵みとして受け取って、恵みに応えて生きることが、「聖なる生活」なのです。立派である必要はありません。這いつくばるように十字架を背負ったキリストを見上げて、自分らしくキリストに応えていく、そんな私たちを聖なる者としてくださいます。「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」この言葉に応えていきたいと思うのです。

パウロが手紙に書いた「聖なる生活」の勧めは、イエス・キリストが、やがていつか、この地上に再び来られますが、その再臨の時までのあいだ、聖なる生活をして準備をしていなさい、という文脈の中で話されています。聖なる生活は、再臨の準備だと教えられています。
アメリカのボブ・ディランというミュージシャンがいます。ノーベル文学賞を受賞して話題になりましたが、彼はキリストの再臨について「アーユーレディ」という曲を作りました。(以下、歌詞から抜粋) 「Are You Ready」
「準備はできてるかい? イエスに会う準備はできてるかい? イエスに会う時、君を知り合いだと認めるだろうか?それとも君に「離れなさい」というのだろうか? 神の意思に委ねられてるかい?それとも、まだ自分がボスのように振舞ってるかい? 破壊がいっきにやってきた時、別れの言葉を言う間もない時、君はその時、天に行くか、地獄に行くかもう決めたのか? 自分で考えて行動しているかい? それとも群れに従っているだけかい? 主の日を迎える準備はできているかい? 僕はそう願うよ。」
この歌詞は、今日のパウロの手紙のメッセージと重なるのです。パウロはわたしたちに準備はできているか?と問うています。わたし達に、聖なる生活を求めて、再臨の時に備えるように勧めているのです。
教会ではこの数週間、葬儀が続きました。さまざまな悲しい別れがありました。しかし、天国に帰っていった人達は、やがて再臨の時にイエス・キリストと共に地上に来られます。天にある者と地上にある者との再会があります。やがて来る、再臨の時がいつになるのかは分かりません。しかし、再臨の時までの間、つまり今、この時、イエス様が来られ、裁きを受ける準備をするようにパウロは教えているのです。聖なる生活に生きる、それが再臨の時を迎えるまでの準備です。イエス様に会う準備はできていますか。テサロニケの人たち、あなた方は今のところ、それが上手くできています、それを続けてください。今日礼拝に集ったみなさん、準備はできていますか。それが、パウロのメッセージです。この一週間、聖なる生活を歩めますように。お祈りをしましょう。

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仕える者となる

松本雅弘牧師
マタイによる福音書20章17節―28節
2019年11月17日

Ⅰ.復活の勝利の予告

今日の箇所には、主イエスの3回目の受難の予告が出てまいります。前の2回と比べると、この予告には特徴があります。これまではただ「殺される」と言っていたのに対し、今回は、はっきりと、十字架につけられ、神に呪われた罪人として殺されることが明言されています。そして、最後に主は「人の子は3日目に復活する」と復活の予告を続けてお語りになりました。

Ⅱ.厚かましい願い

さてそこに、復活、勝利の予告をしっかり聞き取った人々がいました。ゼベダイの2人の息子ヤコブとヨハネ、そして母親です。その3人が主イエスのところに願いをもってやって来ました。ただ最初はなかなか言い出せません。あまりにも厚かましく、恥ずかしく感じていたからでしょう。すると主の方から「何が望みか」と尋ねてくださったのです。
そこで初めて母親が口を開きます。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」。主イエスの両側に座ることができるように「子どものためならば…」といった、そうした母親の姿です。
ひとつ確認しておきたいのですが、この後「偉い」という言葉が出て来ます。原語では「大きい」という意味です。この時、母親と2人の息子が願ったことは神の国で大きい存在になりたいということで、少なくとも主イエスはそうした願いを退けず、むしろ肯定的に受けとめておられるようなのです。
当時ユダヤ人たちは会堂に集まって真剣に議論するテーマがありました。それが神の国で大きくなるのにはどうしたらよいか、ということだったそうです。ただ誤解してはいけないのは、それは世間の基準で大きくなることではなく、神の眼差しが注がれているところで大きくなるということです。
そう考えれば母親の願いは当たり前の願いであったかもしれない。しかし、そこにも彼女たちが気づいていない落とし穴がありました。主は、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」(22節)と言っておられます。
主イエスは、あなたの願いは聞き入れた。でもあなたは自分が願っていること、つまり私の傍らにいて最も大きな存在になるということの意味が分かっていない。それは私の杯を飲むことなのだ、とそうおっしゃったのです。
ところで主の言われる「杯」とは何しょう。それは苦い杯です。これから受けようとしておられる十字架の苦しみです。「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」という、主の問いかけは、「神の怒りに触れることができるか/神の怒りを身に受けて苦しむことができるか」という意味の問いかけでした。
神の怒りに触れたら人間はひとたまりもなく吹き飛んでしまう。そのような私たちのために、主ご自身がしなければならないこと。そうです、ご自分の十字架の死を語っておられるのです。「あなたがたは本当に、この私と支配を共にしたいと願うのか。それは素晴らしいことだ。でもその事が一体何を意味しているのかを分かっているのか。私と同じように死ねるのか」とおっしゃったのです。
主イエスの問いかけに2人は「はい、できます」と答えました。この言葉に彼らなりの覚悟があったでしょう。でもその意味するところを理解していなかった。その証拠に主イエスが実際に杯をお飲みになった時、彼らは仲間の弟子たちと一緒に一目散に逃げてしまったからです。そして、皮肉にも。最後の時、主イエスの十字架の右側と左側にいたのは、彼らゼベダイの子たちではなく、2人の強盗でした。
誰ひとり、主イエスの「杯」を飲むことはできなかったのです。ですからある神学者はこのことを解説して次のように述べています。「ゼベダイの子らの母は、知らずして自分の子たちの死を願っている。それを主は受け入れられた」と。
使徒言行録、そして黙示録を読みますと、確かに、ヤコブもヨハネも殉教の死を遂げていくことが分かります。

Ⅲ.仕える者となる

さて、他の10人の弟子たちが登場します。彼らは一連の出来事を聞いて、「俺たちを差し置いて、いったい何を言うのだ」と腹を立てました。彼らも同じことを考えていたのかもしれない。
そうした弟子たちに向かって主イエスはこうおっしゃったのです。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力をふるっている。しかし、あなた方の間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(25b-27)
ここで一般社会の価値観と神の国の価値観が対比されるのです。世間は「力のある人が上から支配し、偉そうな人が威張っている世界」です。
これに対し「私の弟子になったら、反対のことをしなさい」とおっしゃるのです。この時、主イエスが言わんとしているのは、それ以上のことでしょう。下から仕える究極の姿、それが主イエス・キリストの十字架へ至る歩みだということです。
ここではっきりと主イエスは言われます。「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」。そして、その主イエスの弟子である私たちは、そのお方に従うこと、そのお方に倣う者として召されているのです。

Ⅳ.神がまず愛してくださったから

ただ、このイエスの言葉は、そのまま、殉教を意味するのでしょうか。確かに、26節、27節を見ますと、「皆に仕える者になり、…皆の僕になりなさい」とお語りになりました。
勿論、主イエスの十字架と同じことを私たちがするのではないことは確かでしょう。ではどのように、主イエスに倣う者として生きるのか。最後にその点に触れて終わりにしたいと思います。
そのヒントが28節にあります。ここで主イエスは、私が多くの人の贖いとして「自分の命を献げる」のと、ちょうど「同じように」と語っておられます。
それと「そっくり同じような奉仕」をあなたがたはする、「そっくり同じ奉仕」があなたがたにはできる、と言われるのです。
いかがでしょう。これは恐れ多いこと、「そんなことはとんでもない」と思ってしまいます。しかし主イエスは、そうした私たちの言葉を跳ね返すように、「あなたがたにはできる。私とそっくり同じことをする」と約束しておられることを心に留めたいと思うのです。
今日は「2020年の活動方針」を配布しました。主題聖句は、ヨハネの手紙一 4章19節、「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」という御言葉です。
私たちが奉仕する、仕える。聖書の言葉に言い直すならば「愛する」ということでしょう。
私たちが愛する、愛せるのは神がまず愛してくださったから。ですから、大切なことはこの愛に触れること。そしてこの愛を実感したなら、それと同じ愛に、必ず生かされることになる。
主イエスは「多くの人の身代金として自分の命を献げる」と言われました。この「多くの人」の中に私たちが入っています。私たちが贖われるのです。ここにいる私たち自身が、怒りの杯を飲まなくても済むのです。それは、主イエス・キリストが十字架上で贖いの死という杯を飲み干してくださったから。そしてそのことを通して、主イエスは、私たちに仕えてくださったのだ、というのです。
「仕える」ということを考える時、私たちの最大、最高の奉仕は、今日ここでささげている礼拝です。ご存知のように礼拝のことを英語で「サーヴィス」と言います。私たちが仕える者として、サーヴィスに生きる者として、まず心から主を礼拝する。そして礼拝で示された御心に生きるようにと、それぞれの隣人に仕える者として派遣されていくのです。
今日の主イエスの教えに先だって、私たちはぶどう園の労働者のたとえ話を聞いてきました。後から来て、ほんのちょっとしか働かなかった人も、最初から、一日中働いた人も、みんな神さまの御前に大きな者として、大きな報いをいただくことができる。キリストの支配するところにおいては、右も左も、上も下もありません。みんな大きい。みんな尊い存在として御前に生かされ、主イエスの交わりの中に生きることが許されているのです。
そのようにして主からいただく愛によって、今度は私たちが、身近なところで、主イエスがしてくださったように生きることができるのです。
勿論、生きることは時には辛いことでもあります。愛することも骨の折れることです。でも不思議と、私たちも、主に倣って、仕えるようにされていくのです。なぜなら、神が、まず私たちを愛してくださったから。主が私たちに仕えてくださったからです。お祈りします。

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子どもの成長のためにできること―待つこと

松本雅弘牧師
ルカによる福音書13章6節―9節
2019年11月10日

Ⅰ.ぶどう畑の中のいちじくの木

今日は、成長感謝礼拝です。先ほどお読みしました聖書個所から、御言葉に耳を傾けていきたいと思います。これは主イエスがお語りくださったたとえ話です。
神さまは私たちを、また子どもたちをどのように見ておられるのか、という大切な視点を教えられます。ここに「ある人」が登場します。ぶどう園の主人でしょう。彼は、ぶどう園の中に1本のいちじくの木を植え、実を探しに来ました。それがこのたとえ話の始まりです。
ここで主イエスは「いちじく」を「人」にたとえています。ぶどう畑の中に自分だけがいちじくの木なのです。どちらを向いても自分と同じものは誰1人いない。いちじくですから、当然ぶどうを実らせることは出来ません。
教育ということを考える時、ある時は、「人と同じにする」ことが求められ、また一方では、「人よりも出来る」ことが重視される場合があります。
しばしば、「人と同じでいること」と、「人よりも出来ること」は、相矛盾するのですが、この2つが、教育現場で同時に求められるでしょう。その結果、ここで、いちじくへの風当たりは強くなるのです。

Ⅱ.切り倒される可能性のあったいちじく

この時、いちじくの木は切り倒されそうになっていました。みんなと同じでないからです。いちじくも毎日、居心地が悪かったかもしれません。居心地が悪いだけではなく、実際に「切り倒せ」とか「場所ふさぎ!」なんて言われるわけですから、自分の存在自体がいつも否定されるような経験をしていました。
実は、こうしたことは私たちが日ごろ、子どもたちに対し、また周囲の人に対してしていることかもしれないと思うのです。
私たちは、みんなと一緒に生活する中で、「みんなの中のひとり」である自分に気づきます。そして、「自分と違うみんな」に出会い、「みんなと違う自分」に気づく経験をするでしょう。
ちょうどぶどう畑の中のたった1本のいちじくの木のようである自分に気づく。そして、不安になることもあります。
聖書は、人間のことを「アンセロポス」というギリシャ語で言い表していますが、この「人間」と訳される「アンセロポス」という言葉の意味は、「上を向く者」、「天を仰ぐ者」、もっと言えば、「神に祈り、神を礼拝する者」という意味がある言葉なのです。
ところが「上を向く者」であることを忘れる時に、必ず「下を向いて」しまう。そして下を向いて何をするか、と言えば、横との比べ合いをするのです。そして、必ず、不安になります。自分がぶどうではなく、いちじくであることに不満になるのです。自分をそのままで受けとめてくれる拠り所が欲しい。「お前はお前でいい!」と言って欲しい。
それを言ってあげられる人は、その子の近くにいる私たち大人でしょう。でも実際は逆を言ってしまうことが多いのではないでしょうか。
「あんたのそこが駄目」とか、「どうして誰々ちゃんのようにできないの!」とか。このたとえばなしの言葉を使うならば、いちじくの木を切り倒したくなる思いに駆られるのです。
何故か、「上を向く者」であることを忘れてしまっているから、というのが聖書の答えです。

Ⅲ.園丁はいちじくの実りを期待していた

ここで「園丁」というのは、畑のお世話をする農夫のことですが、この園丁に例えられているイエスさまご自身は、私たちをどのように見ていてくださるのか。実は、それが今日のポイント、大切なことです。
「上を向く者」として生きる、ということは、イエスさまがどのように見ていてくださるか、思っていてくださるか、を求めて生きるということです。
8節をご覧ください。ここでぶどう園の世話をしていた園丁は、突然やって来たぶどう園の主人の「切り倒せ」という意見に反対しました。そして、「もう一年待ちましょう」と言ったのです。「待ってやってください」と頼んだのです。「待つ」、言い換えれば、「時間をかける」ということでしょう。
ある人が、「LOVE(愛)の綴りを知っていますか?」と問われたそうです。質問の意味が分からなかったので、変な顔をして答えずにいるとその人は、「LOVE(愛)とはT-I-M-Eと書くんですよ」と話されたそうです。
つまり本当に大切なものは時間がかかる。決して急いで出来るものではないということでしょう。確かに急ぎながら愛することはできません。考えたり、食べたり、笑ったり、こうして礼拝を捧げることも急いですることなどできない。子育てもそうです。夫婦や親子の関係、人間関係、神さまとの関係も手間暇かかるわけです。
たとえ話に戻りますが、ここで園丁は、あくまでも、いちじくが実をつけることを期待していたのです。いや、期待していたというより、実をつけることを確信していたのです。
だから「待ちましょう。時間を掛けましょう」と言ったのだと思います。大人たちが子どもたちの成長を願うということは、まだ起こっていない出来事を信じること、見えていない出来事を期待して待つことです。もう1つ、とても大切なことを教えられます。それは、この場面で園丁が期待していたのは切り倒されそうになっていたいちじくの木が、他の木と同じような実を結ぶことではありませんでした。
この木は、ぶどうの木ではないのですから。そうではなくて、あくまでもいちじくの木ですからいちじくの実を期待して待っていたのです。
「いちじくとぶどうを比べて、どっちが凄い?」と質問されたら、皆さんは、どうお答えになるでしょう? 答えに困ってしまいます。「いちじくの実とぶどうの実、どちらが好き?」と聞かれれば答えられます。
神さまは、いちじくがぶどうの実を実らせることを期待してはおられません。でも意外に、いちじく、が周りの木と同じように、ぶどうの実を結ぶことを一生懸命期待し、不安になり、イライラする、などということもあるのではないでしょうか?!
いちじくはいちじくの実を豊かに結ぶことが神さまの願いです。ぶどうはぶどうの実を実らせることが神さまの意図されたことです。
ですから、この子には、この子としての良さがある。だから「誰々ちゃんのように」ではなく、「この子そのもの」であればよい。
園丁は、「神さまの御心がなるのを待ちましょう」と言ったのです。これがイエスさまの御心、イエスさまが私たちをご覧になる眼差しなのです。
では待つだけで、何もしなかったのでしょうか? 決してそうではありません。一年間手入れをしました。信じて待つことは、何もしないことではありません。
木の周りを掘って、そして肥料を撒きます。さらに根っこの周りを掘り、必要な栄養が必要なところに行き届くようにと努めているのです。色々と工夫をしています。
先日の幼稚園の親子礼拝で、妻が「ハグハグすることの大切さ」を証ししました。子どもたちはしっかりと抱かれることによって、愛情を確認します。自分は自分で良い、と自己肯定感を持ちます。以前、タウン誌のタウンニュースを見ましたら、大和に「ハグ・リーダー」という資格を認定するNPOの働きが始まったとありました。とても大切なことですね。こうしたことも、木の周りを掘ったり、肥料をやったりする、大切な務めであり、工夫だと思います。

Ⅵ.私たちもいちじくの木

よくよく考えて見ますと、子どもも大人も、私たち誰もが、ある意味でいちじくの木のようではないでしょうか。
身の置き所のないような自分を抱えて苦闘することがあるでしょう。個性といえばかっこいいですが、でも、本当はやっかいな自分を抱えている、ということもあるのではないでしょうか。
実は、私たち一人ひとりが、イエスさまと言う園丁に待ってもらい、世話してもらっている、いちじくの木であることを受け止めることを、イエスさまはまず求めておられるのです。
このたとえ話は、そのことを私たちに伝えているように思います。ぶどうの木と比較して、落ち込む必要はない。ぶどうの木になれない自分であってよいわけです。いちじくの木なのですから。
そのことをしっかりと受け止めさせてくださるお方こそ、私をいちじくとしてお造り下さった神さまであることを覚えたいと思います。
私たちをぶどうではなく、いちじくの木としてお育てくださるお方は神さまですから、まず「上を向く者」として、私たちが問題にぶつかり、分からなくなる時に、私を私として生かし、その子をその子として生かしておられる、神さまに、その御心を求めるために、常に上を向き、祈り、求める者として歩みたいと願います。お祈りします

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神の愛を実感する交わりづくり

松本雅弘牧師
ヨハネの手紙一 1章1節―4節、4章19節
2019年11月3日

Ⅰ.主題聖句と主題

本日、来年度の活動方針の総論部分を配布しました。来年の主題聖句は、ヨハネの手紙第1の4章19節、「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」という御言葉です。そして、主題は、「神の愛を実感する交わりづくり」としました。

Ⅱ.ほんとうに知るとは知っていることによって人間が変わること

聖書は、私たち教会、そして教会を形成する私たち一人ひとりが目指すべき方向性が、神の愛に生きることだと教えます。
そのために神がまずどれだけ私たちを愛してくださっているのかを実感することがスタートですよ、と語るのが、来年の主題聖句なのです。
そしてその愛とは、好きだと感じてくださっている以上のことで、神は御意志をもって私たちを愛すると決断しておられるということなのです。
「神を知ること」と「神について/関して知る」ことの間には大きな開きがあります。よく紹介する言葉ですが、デ・メロというクリスチャンは、「ほんとうに知ることは、知っていることによって人間が変わることです。」と語っていますが、まさにそういうことです。
来年度の主題、「神の愛を実感する」は、そのことを祈り求めていくことを願っているのです。

Ⅲ.「仲間を赦さない家来のたとえ」から

私は説教の準備をしながらマタイによる福音書18章にある「仲間を赦さない家来のたとえ」を思い出しました。そのたとえ話にはこのようなことが語られています。
主君が家来に1万タラントンのお金を貸していました。これは想像を超えるような額です。次に百デナリオンの借金が出て来ますが、こちらは想像がつきます。1デナリオンは当時の労働者1日分の賃金に相当します。仮に1日分の賃金を5千円と計算すれば、百デナリオンは五十万円の借金です。
では最初に出てくる1万タラントンの借金はどのくらいの額なのでしょうか。計算してみると三千億円です。1人の人間が働いて返せる額ではありません。どんなことをしても不可能な額です。
このたとえ話に出てくる主君は神さまをたとえているのでしょう。そのお方に対する人間の罪、負い目は私たちが一生かかって努力し、償おうと頑張ったとしても償い切れないほどのものです。にもかかわらず、神さまは私たちを赦してくださった。このたとえ話を聞く時に、そうした私たちと神さまとの不釣り合いな関係を思い起こさせられます。
一度、たとえ話の筋を追ってみましょう。話は1万タラントンの借金をしている家来が、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」としきりに頼むところから始まります。主君はその家来を憐れに思い、彼を赦し、借金を帳消しにしてやったというのです。
赦された家来は心の中で「やったー」と両腕を突き上げたことでしょう。心から感謝し、主君の前を離れ街に出ますと、そこで、自分がお金を貸している仲間に出会うのです。
その額は百デナリオン。先ほどの計算によれば五十万円ほどです。家来はどうしたかというと、その友人を捕まえ、首を絞め、「借金を返せ」と言った、というのです。
その友人は「どうか待ってくれ。返すから」としきりに頼むのですが、大きな借金を赦されたはずの、その家来は友人を赦さず、借金を返すまでと、牢に入れてしまいます。
こうしてたとえ話は最後の場面に移ります。牢屋に入れられた人の知り合いが主君に直訴します。すると主君は再びその家来を捕まえ、「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と、今度はその家来を牢屋に投げ入れたという結末です。
主イエスは、このたとえ話を、そこにいたペトロや弟子たちに語り聞かせながら、「これこそがあなたがたが常日頃、行っていることですよ」。そして、その根本原因は何かと言えば、「赦されている実感がない。だから他人を赦すことができない。そうした残念な現実があるのですよ」と語っておられるように思うのです。
今日も、礼拝の中で「主の祈り」を祈ります。「私たちの罪を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を赦しますから」と祈ります。この祈りのベースにあることは何かと言えば、神さまが私たちを赦してくださることと、私たちが誰かを赦すということは切っても切り離せない関係にある。セットであるということです。
クリスチャンとなった私たちが、常に心に留めるべき恵み、それは無条件の神の愛なのです。主君がこの家来を赦してやった時、何の条件もつけなかった、その事実です。想像もつかないほどの、この神の愛を思い巡らす中で、私たちの心に必ず変化が起こります。私自身が赦せる心、愛する心を持つ者へと変えられていくのです。
旧約聖書のレビ記には、ぶどうの実の収穫の時、残っている房を全部集めるとか、麦の穂を刈り取った後に、取り残した穂を全部拾い集め、「これは皆、私の物、誰にもあげない」と言うのではなく、落ちたままにしなさい、残ったら残ったままでよい、いや、むしろ敢えて残すように、と語られています。
何故かというと、収穫する当てもない、やもめたちや身寄りのない子ども、寄留者たちのために「さあ、どうぞいらっしゃい、あなたがたの取り分はここにありますよ」と言ってあげるためなのです、と教えるのです。その理由は、申命記24章18節にあります。「あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。」
そうです。あの出エジプトの出来事の背景に何千何万匹もの小羊によってエジプトの隷属からの解放がありました。そして、私たちにとっての出エジプト、罪の隷属からの解放、罪からの救いをもたらしたのは、世の罪を取り除く神の小羊である、主イエス・キリストの十字架です。申命記で言われる「あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい」とは、十字架の贖いを思い起こすことなのです。
今日、お話しした「仲間を赦さない家来のたとえ」のあるマタイによる福音書18章以降で、主イエスは十字架に向かって歩まれるわけですが、受難の道を歩まれる主イエスは、私たちの負い目を追求されるのではなく、その罪が赦されることを十字架において明らかにされるのです。
そういう神さまの慈しみ深い御心に気づく時、その温かな愛の心に触れる時、私たちは赦された者、負債を免除にされた者、つまり神に愛されている者として、心の内側に必ず変化が起こって来ます。その恵みに浸る時に、感謝と喜びが起こってくるのです。ですから赦しとは何かと言えば、それは単に我慢を強いることではなく、赦しの愛に触れた私たち自身が変えられることです。
私たちは毎週、「派遣の言葉」をもって派遣されて行きます。「平和のうちに世界へと出て行きなさい。」私たちが神の平和で心満たされて出て行く、ちょうど、ガリラヤ湖にヘルモン山の雪解け水が流れ入るように、私たちの心に神の恵みと平和が注入されている状態で、その平和を携えて世界へと出て行きなさいという派遣の言葉です。
力強い神が共におられ守って下さるのだから、私たちは勇気を持つことが出来るのです。そして神ご自身が全ての善悪の決定的な基準ですから、そのお方の前に生きている者として、私たちは、「いつも善を行うように努め」る者として生かされています。
そのお方が、最終的に悪に報いられるわけですから、私たちが自らの手で悪に報いる必要はありません。むしろ相手の益を求め、「気落ちしている者たちを励まし」、弱さを抱えている人たちの支えとなり、困難の中にある人を助け、すでに神さまから最大のリスペクト、尊厳ある者とされているわけですから、すべての人を尊重するように。そのようにして、主を愛し、主に仕え、聖霊の力によって喜ぶように、と召されています。
辛くなる時、もう一度、神さまの愛のシャワーを浴びましょう。「あなたは私の愛する子。あなたは私の喜び/あなたは高価で尊い、私はあなたを愛している」。この御声が聞こえる場所に逃げて行きましょう。そこに身を置きましょう。その愛に心満たされ、再び立ち上がり、そしてその愛を届けさせていただきましょう。
2020年の主題聖句「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」は、そのようなことです。

Ⅳ.2020年活動方針「総論」から

私たち高座教会は、「4世代が喜び集う教会」を、教会のあるべき姿として掲げています。
そうした中で、来年は「神の愛を実感する交わりづくり」を主題として、子どもたち、若者たちの成長に思いを寄せて、心をひとつにして過ごしていきたいと願っています。