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主日共同の礼拝説教

私たち、集い喜び分かち合う~使徒言行録2章の教会をめざして~

使徒言行録2章 43-47節
和田一郎副牧師
2019年12月29日

1、使徒言行録2章の出来事

2章に書かれている出来事というのは、弟子達にとって、あの十字架の悲しい出来事から50日が経った日のことです。弟子達が心から慕っていたイエス様が、罪もないのに裁判にかけられ、十字架で処刑されるということは理不尽な出来事です。弟子達は無力で何もできませんでした。
2019年というこの年にも、そのような出来事がありました。たび重なる自然災害が、日本各地を被災地にしてしまいまいた。悲しい事件も沢山ありました。経済が豊かになっても、素晴らしい憲法が成立したとしても、やはり理不尽な出来事はなくなりません。イエス様の十字架の出来事もそうでした。強大なローマ帝国からすれば、イエス・キリストという人に罪があろうと無かろうと、小さな属国に起こった些細な出来事に過ぎません。理不尽はいつの時代もなくなりません、その現実は変わりません。しかし、心の状態は変えられます。
その様子が、イエス様が十字架に架かられてから50日の出来事の中で見ることができます。使徒たちの心に変化が起こっていきます。あれほどまでにイエス様から教えられてきたことを、十分に信じきれず「信仰の薄い者たち」と、何度も言われた弟子達が、見違えるように偉大な使徒とされていく、その変化がこの50日で成されていきます。まず、十字架の出来事から3日目にイエス様が復活され、使徒たちに現れました。そして40日間、その姿を現されてご自身が生きていることを、お示しになりました。そして、使徒たちの目の前で、天に上げられ、さらに10日が過ぎて、弟子達は「エルサレムを離れず、約束されたものを待ちなさい」という、イエス様の言葉を信じて、一同が一つになって集まっていると、50日目に起こったことが、イエス様が約束された、あなた方の上に聖霊が降る、というペンテコステの出来事です。そうして弟子達は変わりました。
何が彼らを変えたのでしょうか。それは、人間の業や力によることではありません。聖霊の力です。イエス・キリストが、ご自分の地上での役割を終えられて、続いて聖霊をこの地上に送ってくださり、弟子達に働きかけました。そうして、弟子達は変えられたのです。以前のように失敗が多く、自分の地位にこだわっていた弟子たちを、聖霊によって頼りになる成長した伝道者とされました。イエス様を失った現実は変わりません。しかし、それは意味のあることなです。イエス様が目の前に見えなくても、聖霊の力を受けて、聖霊の働きを、この心と身体で現わしていくことが示されたのだと確信したのです。弟子達一人ひとりに注がれた聖霊の力は、彼らを新しい命に生きさせました。新しい命は、人々に好感をもたせ、神に対する畏れを起こし、洗礼を授けて、教会に加えられるようにして下さるという現実も変わっていったのです。

2、語る者にも、聞く者にも働く聖霊

聖霊によって変えられた弟子達は、50日前とは別人のようです。その彼らが聖霊に満たされて最初に行ったことは何でしょうか。彼らは「語り始めた」のです。4節「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」とあります。聖霊によってまず最初に「語り始めた」のです。それも、メソポタミアやアジア、エジプトなどなど、それぞれ外国の言葉で、バラバラにしゃべり出したのです。しかし、言語は違っても、話している内容は同じで「神の偉大な業」について話しだしたのです。
今年の主題聖句、使徒2章17節は、ここと連動しているのです。
「終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る」。
終わりの時とは、聖霊の降る時、つまりこの時です。息子、娘、若者や老人は、老若男女だけではなく国籍や人種を越えてすべての人ということです。幻と夢、預言は同義語で神の言葉という意味です。つまり聖霊が与えられた時、神様の言葉を、民族を超えてすべての人が語ることができる、という旧約聖書ヨエル書の預言の言葉です。旧約の時代には、ある限られた預言者たちにしか許されていなかった、神様の言葉を自由に語るということが、イエス様の十字架とイエス様が聖霊を送ってくださったことによって始まったのです。この後、ペトロが語る説教を語り始めますが、神の言葉の説教は、この時から始まり、今も語り継がれるイエス・キリストについての証しです。2千年ものあいだ、教会では毎週毎週、語られています。今日も世界中の教会で同じことが語られているのがイエス・キリストの証しです。旧約聖書で預言されたメシアである、イエス様が何をされたのか、どんな方なのか、その証しを語り始めたのが、この使徒言行録2章の時です。
聖霊は、私たちをイエス様の証人とします。神の言葉を語るのは、牧師や宣教師だけではありません。「息子、娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」というように、すべての人が、神様から与えられた恵みを語る者とします。

また、もう一つ大事なことが書かれていますが、聖霊は語る者と同時に、聞く側にも聖霊は働きます。言葉を人々に理解させ、人間の自分勝手な知恵ではなく、これは「神の偉大な業」が語られているのだと分からせて下さるのも聖霊の働きです。しかし、聖霊が降って、聖霊が与えられていても、聖霊が働かないということがあるのです。そのことが、ペンテコステの日にも起こっていたのです。13節に示されているのですが、「しかし、『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた」というのです。同じように弟子たちの言葉を聞いた人の中に、「神の偉大な業が語られている」と思った人もいれば、「あの人たちは酔っぱらっているのだ」と思った人もいたのです。同じことは今も起こります。どのような説教、どのような証し、どのような言葉を聞いても、聖霊の働きによって「神の偉大な業が語られている」と、信じて聞かなければ受け取れないのです。
聖霊が働いて下さるなら、どんな違いも問題ではありません。言葉や文化や生活習慣が違っていても、その違いが乗り越えられて、神の偉大な業が伝わっていきます。私たちを一つとして下さる。聖霊によって、教会が一つとなっていくのです。

3、一つになって

2章の43節以降は、そうしてできた最初の教会の様子が書かれていますが、「信者たちが一つになって」とか「一つにされた」という言葉が目立ちます。教会が一つのチームのように書かれています。
「One team」という言葉が、今年の流行語にもなりましたが、今年のラグビーワールドカップ日本代表の活躍で、大切なものを学ばされました。その象徴が「One team」という言葉に現されています。ある選手のノートには、「繋がる」という文字が書いてありました。「良い準備を一緒にしていこう」「自分から良い準備をしよう」「準備の仕事、自分の仕事を確認する」などと書いてありました。その選手はポジションのリーダーです。他のポジションにもリーダーがいますし、チーム全体にはキャプテンがいて、さらにそれを統率する監督がいるわけです。その一人ひとりが、それぞれ「繋がる」ということを積み重ねていく先に「One team」になるということが成されるのだと思いました。ただのスローガンではなくて、何をしてワンチームになっていくのかが大事なことだと思います。
12人の弟子達も最初は、漁師や取税人などの寄せ集めでした。彼らが何によって一つになっていったのか、何を共にしていくかが問題です。最初の教会の人々は、42節以降に書かれているように、み言葉を聞き、聖餐にあずかり、祈りを共にするという分かち合いがありました。つまり、毎週の礼拝に集うということや、奉仕であったり小グループに加わって、教会員との繋がりを持つことです。信仰的な基盤の積み重ねの上にワンチームになる、そこにおいて、教会は人間の好き嫌いから解放されて、聖霊によって一つとされるのです。
「霊による一致を保つように努めなさい。 体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。
主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」
エフェソ4章4-6
今年、わたしたちのワンチーム、わたしたちの教会は使徒言行録2章の教会に近づくことはできたでしょうか。み言葉を聞き、聖餐にあずかり、祈りを共にするという営みがこの一年、守られたことに感謝いたします。お祈りをいたします。

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クリスマス礼拝 主日共同の礼拝説教

真のいのちをもたらすために

松本雅弘牧師
イザヤ書62章6-12節、ルカによる福音書2章1-20節
2019年12月22日

Ⅰ.あらすじ

ルカ福音書2章1節以下には、イエスの誕生について、2つの場面設定の中で記録されています。
第1の場面は1節から7節で、ルカはイエスの母マリアと父ヨセフがナザレに住んでいたのに、何故イエスがベツレヘムで誕生したのかの理由を説明しています。それは住民登録のためでした。ヨセフの家系はダビデ王の子孫でしたのでベツレヘムへ帰省しなければならなかったわけです。その距離、約120キロ、クネクネ道を計算に入れると160キロと言われます。マリアは住民登録で訪れたベツレヘムでイエスを出産しました。第2の場面は8節からです。イエスさま誕生の知らせがどのようにして伝えられていったのかが出て来ます。
天使たちは、この幼子誕生の興奮を抑えることができなかったのでしょう。天使たちに天の大軍が加わり、神を賛美して歌い出しました。さらに話は続きます。羊飼いたちは天使の知らせを信じ、確かめるためにベツレヘムへと向かったのです。そしてイエスを見つけ、天使たちが語ったこと全てをマリアとヨセフに伝えました。
このように彼ら羊飼いたちこそが、イエスが長く待ち望まれた救い主であると告げ知らせる最初の人々となったのです。

Ⅱ.羊飼いのクリスマス

実は、羊飼いたちは人口調査の対象外の人々です。ですから人口調査で世の中がごった返している最中、いつもと同じように、野で羊の番をしていたのです。
ルカ福音書によれば、神が最初に御子の誕生の喜びを伝えたいと思ったのは、他でもない、人口調査対象外の羊飼いたちだったのです。それは、他の誰よりも、彼らこそがイエスを必要とする人たちだったからなのではないでしょうか。神は、羊飼いたちこそクリスマスの良き知らせを誰よりも必要としているとお思いになられたのです。
このような中で誕生された御子が、成人した時に語られた「ぶどう園と労働者のたとえ」を思い出しました。朝からずっと待って午後5時になって、やっと雇われた労働者がいました。彼らはぶどう園に呼ばれてやって来たものの、働き始めてすぐに外は暗くなり作業は終了です。
さっきまで「今日、仕事を貰えなかったらどうしよう」と心配して広場に居たのですが、やっと与えられた仕事も1時間も経たない内に切り上げなければならない。「1時間しか働かせて貰えなかった。賃金はもらえるのだろうか」と別の心配で心が一杯になったのです。
ぶどう園の主人にたとえられている神は、最後に雇われた労働者をまずご自分の前に立たせ「ご苦労様。これが約束の賃金、1デナリオン。あなたと家族に祝福があるように」と、みんなと同じように祝福してくださったのです。
これがイエス・キリストの神であり、そうした神だからこそ、クリスマスの喜びの知らせを、この時代、一番必要としていた羊飼いたちに伝えてくださったのです。それは、彼らが神に愛されている尊い者として胸を張って生きて行って欲しかったからです。
そのために、イエス様は羊飼いたちが一番近づき易い家畜小屋に誕生されたのです。きっと動物臭かったと思います。使用中の飼い葉桶に寝かされたわけですから。でも考えてみればその「香り」こそが、羊飼いが身にまとっていた「香水」です。彼らにとって馴染みの匂い。ホッとできるような香りです。
この時、ベツレヘムの羊飼いたちが育てていた羊は、エルサレム神殿で奉納物として捧げられる羊であったと言われていますから、よくよく考えてみるならば、羊飼いたちは人間扱いせず嫌がっていた人々のために汗を流し、野宿をし、大事に育てていたのだから、本来ならば感謝されてもおかしくないはずなのに、嫌がられ、排斥されていたのです。
恐れを感じている羊飼いたちが、そして、私たちも恐れることなく近寄ることができるように、御子イエス・キリストは、このように赤ん坊として生まれてきてくださったのです。羊飼いがやって来た時に、「場違いなところに来たなあ…」と感じないように、しっかりと「田舎の香水」「野原の香水」をたっぷり浴びるようにして、家畜小屋の飼い葉桶に誕生されたのです。何と優しい神さまなのでしょう!
人は、優しくされ、大事にされていることを実感すると、初めて自分と向き合う力が与えられ、自分を大事にすることが出来ます。
たびたびお話しすることですが、子どもたちが人生の土台を据える大切な時期に、一人ひとりが、自分は神さまから愛されている存在なのだ。友達も、みんな神さまから大事にされているお友達なのだ。そのことを、家族の触れ合いの中で。教師との触れ合いなどを通して実感して欲しいのです。そうすれば決して自分を粗末にしませんし、お友達を大切にする人になります。そして、自分を心から愛してくださる神さまを愛する子どもとして成長するのです。そのことを聖書から教えられるからです。
本当に不思議ですが、私たちは愛されていることを知ると人に優しくなれます。逆に冷たくされると相手を恨み、叩かれたら叩き返したくなる。殴られたら〈いつか見ていろよ!〉と復讐心に燃え、そこから悪の連鎖が始まり闇は深まるのです。民族や国家のレベルでも同じです。

Ⅲ.闇の中に飛び込んで来られたイエス・キリスト

「クリスマス」と言うと、何か牧歌的なイメージがあります。でも「現実は?」と言えば、イエスさまの時代も、正に激動の時代だったと思います。冷静になって考えてみればすぐ分かります。皇帝の勅令で、身重の女性も有無も言わせず長旅を強いられる時代です。旅先で生まれた嬰児が飼い葉桶に寝かされるような時代です。
マタイ福音書では、時の為政者ヘロデの心に生じたちっぽけな「不安」のために幼児大虐殺が行われ、イエスさまの家族も「政治難民」としてエジプトに避難しなければならない時代でした。そのような意味で闇の深い時代だったのです。
その深い闇の只中に御子は誕生されました。このことをヨハネは彼の福音書の冒頭で、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ1:5)と書いています。「闇は光に打ち勝たなかった」のです。
クリスマスの時期になると、時々、思い出すお話があります。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』です。芥川は、地獄の底で多くの罪人がうごめいている中にカンダタという男がいたと語り始めます。彼は人殺しや放火をした大罪人でしたが、一度だけ蜘蛛を殺さずに助けたことがあったので、お釈迦様がこのことを思い出し、彼を救うために地獄の底に蜘蛛の糸を垂らしたというのです。
でも真の神は、糸だけ垂らし、それで善しとする方ではなく、神自らが赤ん坊の姿をして闇の中に飛び込まれたのです! カンダタのような私たちを救い、共に生きることを決意し、地獄のようなこの闇深き世界に飛び込み、喜びと悲しみを分かち合い、十字架の死と復活をもって救いの道を拓いてくださったのです! その始まりの祝いがクリスマスです。

Ⅳ.真のいのちをもたらすために

十字架の出来事の前日、主イエスは弟子たちの足を洗い、過ぎ越しの食卓を囲み、一連の説教を語った最後に、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)と勝利宣言をされました。
私たちは、イエスさまの弟子として、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈り、そのように生活するようにと励まされている者たちです。確かに、この社会の現実、私たちの生活には、神さまの御心とは程遠い現実があります。様々な苦闘があり、苦戦を強いられます。でも、そうしたことを含め全てをご存じのイエスさまが、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と勝利宣言をしてくださっているのです。
あの預言者イザヤが、預言者エレミヤが、そして預言者ミカが預言したとおりに、2千年前のクリスマスに、ベツレヘムに、ヨセフの家系に、マリアの胎を通し、イエスという名のメシアをお送り下さった。聖書の預言、聖書の約束が実現したのです。そして、これからも、主御自身が聖書に記されている一つひとつの約束を必ず実現してくださる。そのことが必ず起こっていくのです。私たちは、2019年を後にし、2020年に向かって行きますが、神の御心が少しでも私たちの周りや家庭に、私たち自身のうちに実現する方向に選び取る生き方を求めて行きたいと願います。
来週が今年最後の礼拝となります。その三日後から新しい年が始まります。
新しい年、何が起こるか予測不可能かもしれません。でも、最終的に歴史を支配されているお方は、私たちの天のお父さんです。そのことを心に留め、安心して新しい年をそのお方の御手から恵みとして受け取らせていただきたいと願います。
お祈りいたします。

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主日共同の礼拝説教

救い主イエス誕生の予告

松本雅弘牧師
詩編89編2-5節、20―27節、ルカによる福音書1章26-38節
2019年12月15日

Ⅰ.「神にできないことは何一つない」

先週、アフガニスタンで殺害された中村哲さんの遺体が日本に到着、葬儀がもたれました。クリスチャン医師として、アフガニスタンで医療に従事していましたが、それだけでは対応できないということで、灌漑用水を確保するための工事にも着手し、本当に素晴らしいお働きをしていたことです。そして世界中から、その死を悼む声が寄せられました。
そんな中、今日の聖書箇所は「神にできないことは何一つない」(ルカ1:37)という御言葉です。
ふと思ったのですが、遺族、関係者の方々、アフガニスタンの現地の方たち、そして私たちにとって、この天使の言葉は何を意味することなのか。この御言葉は、時に苦痛を伴うものなのではないかと思いました。
私たちは神が全能のお方であると信じています。逆に全能でないなら神の名に値しないと考えるでしょう。だからこそ、神が全能であるならば、何でこんな酷いことがこの世界に、私や私の家族、子どもたちの上に起こるのか、と複雑な思いにさせられるのです。
天使はマリアに現れ、「神にできないことは何一つない」と語るわけですが、そのメッセージを通して、神は何をなさろうとしていたのだろうかと思います。
ただ、ここを丁寧に読むとき、神の全能性に必ずしも強調点が置かれていないことに気づかされるのです。この「神にできないことは何一つない」を私なりに訳してみますと、「神にとっては、その語られた全ての言葉は不可能ではない、不可能になるようなことは決してない」という意味だと思います。
天使の言葉は「神の語られた言葉は不可能ではない」という意味なのです。そのようにしてもう一度読み返すと、この時、必ず実現する言葉として天使が語ったのは、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」という言葉で、これは言うまでもありません「神のご計画/神の約束」です。
これに対してマリアはどう応答したのでしょう。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えました。
この時、マリアが使った「お言葉どおり」と言った、この「お言葉」とは、具体的には「神にとっては、その語られた全ての言葉は不可能ではない」という天使からの言葉です。ただ、打ち明けられたほうのマリアは大変でした。
しかし、それでも彼女は受け入れていくのです。ある注解者はマリアのこの言葉こそ、「信仰と献身の崇高な表現であり、彼女はそれの意味する犠牲をも甘受した」と解説します。私たちは、天使とマリアのやり取りから2つのことを考えてみたいと思うのです。

Ⅱ.マリアが示した信仰者としての模範―主のはしためとして生きる

まず第1は、マリアは自らを「主のはしため」と呼んだ点です。今日の箇所から改めて教えられたことは神のご計画は必ず、私たち、すなわち主の僕やはしためたちの参加を必要としているということです。
「あなたのご計画通り私をお用い下さい。私たちを通して御心が実現しますように」という祈りに導かれて初めて、神のご計画が実現する道が拓かれていくのです。
12月第1主日に洗礼式がありました。その時の問いの一つが「あなたは、罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主、主と信じ、洗礼を受けることを心から願いますか」という問いです。
何かくどい言い回しです。わざわざイエス・キリストを「救い主」そして「主」と信じるか、と問うのです。実は、元々この式文は英語であり、「救い主」とは「ザ・セイビヤー」、「主」は「ザ・ロード」という言葉です。イエスさまを、罪から私たちを救い出してくださるお方としてだけではなく、その救い出された後、「人生の導き手」、つまり「主人なるお方」として従いますか、という問いかけなのです。
ですから、イエスを「主」と信じることは、そのお方に対して私は「主の僕、はしため」であることを意味します。もっと言えば、「主よ、あなたの言葉の通りになりますように」と祈り始める生き方をスタートしたということなのです。ここにマリアが示してくれた信仰者としての模範があるように思います。

Ⅲ.冒険としてのマリアの決断

2つ目のポイントは「お言葉どおり、この身に成りますように」という祈りが、大きな決断を前提とした祈りだった点です。私たちの毎日は決断と計画の連続です。
毎年12月の「みことばメール」では、「神の冒険」というメッセージを配信します。以前、高座教会に来られた東京神学大学の近藤勝彦先生が「神の冒険としてのアドベント」という言葉を使われたのです。「危険を冒して何かをすること」を「アドベンチャー/冒険」と呼びますが、それは「アドベント」から来ています。
「飼い葉桶と十字架は初めから1つである」と言われますが、神の冒険の結果が飼い葉桶であり十字架だった。とすると、私たちが従う神は、アドベントの神でもあられるので、私たちも冒険を迫られることがありうるということです。
ここに登場するマリアも冒険の神に従った結果、信仰の冒険を迫られました。マリアはこの時、十代だったといわれます。結婚しようとするヨセフに頼り、彼に全てを任せて生きていくことだけを考えていたでしょう。そうした彼女がヨセフも知らないのに子どもを授かってしまう。それは想像もつかないような世界に足を踏み入れる「信仰の冒険」でした。
私がこの時のマリアだったら…、と思います。まずヨセフが理解してくれるかかどうか。家族が受け入れてくれるだろうか。ナザレの村の会堂の親しい仲間、そして村人達から何と言われるか分からない。そうしたことを考え始めたら怖くなったのではないでしょうか。でもルカ福音書を見ます時、マリアは実に自由に神に対して心を開いて決断しています。
それは1つの冒険でした。そしてこの時のマリアの決断があったからこそ、人類の、私たち一人ひとりの救いのためのご計画が、実際に大きく動き出して行ったのです。
このところで、天使が「おめでとう。恵まれた方」と、マリアに向かって呼びかけています。これは「既に恵みを受けた方」という意味です。
ある人は、天使のこの呼びかけはマリアの決断に先立って、すでに神の決断があったことを示す言葉なのだと語っていました。神がマリアを、すでに慈しみをもって、いとおしいと感じながら見ていてくださっている。マリアはこのように神が慈しみをもって選び、めでられた女性でした。
ただ、先ほども触れましたが、一般常識からすれば、御子を宿すということが、この時のマリアにとっては必ずしも喜びであったとは言えないのでしょう。
加えて、この後ルカ福音書を読み進めていくと、2章で、シメオンという老人が登場しますが、彼はマリアに向かって、「苦しみと悲しみの預言の言葉」を告げるのです。
そうした預言を聞かされ、マリアは複雑な気持ちにさせられたことでしょう。この預言の言葉が常に頭の隅にありながら、大変な子育てを始めなければならなかったわけですから。
しかし、そうしたことをよく知った上で、福音書記者ルカは、マリアが「神の愛の中に選ばれている者」であること、だから、「マリア、神の愛の中に選ばれている者よ、おめでとう。あなたも喜びなさい」と言って、今日のところで、その天使の「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(1:28)という言葉を、それだけの思いを込めて、このところに記録しているのでしょう。
神の恵みの決断、喜びを知らせる決断が、まず先です。そして次に、それを受けとるように、私たち信仰者が、神の恵みに応答していく。それが「信仰の冒険」です。
そして、私たちがどのような決断をする時にも、マリアの「お言葉どおり、この身に成りますように。」(38節)の表現を使うとするならば、まずは「神の言葉」が先だって在るのです。その「お言葉」を心の耳を澄せて聞いた者が、「あなたのお言葉どおり、この身に成りますように。」という祈りをもって応答していくのだと思うのです。

Ⅳ.神の決断に支えられ

皆さんのために、神は、どのような決断をしておられるのでしょうか? 私たちは、心の耳を澄ませ、その神のみ言葉を受け止めていきたいと思います。聖書は神がはじめ、働きは必ず実現すると語ります。パレスチナの片隅で始まった小さな幼子の物語、これが世の終わりまで揺らぐことなく続いて行く。救いの完成にまで至る。その最初の1頁がおとめマリアの決断をもって始められたのです。
いかがでしょう。神がマリアを見るように私たちをご覧になっている。すでに慈しみをもって見ていてくだる。そして私たちのために御言葉を用意し、私たちも家庭や学校、職場、地域で神の救いのご計画の一端に参加するように召されています。
私たちも「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」とマリアのように、神の召しに心から応答する者として生かされて行きたいと願います。お祈りします。

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洗礼者ヨハネの証し

松本雅弘牧師
イザヤ書61章1-4節,8-11節、ヨハネによる福音書1章6-8節、19-28節
2019年12月8日

Ⅰ.ヨハネ福音書の降誕記事

ヨハネによる福音書は、4つある福音書の中で最後に書かれたものであると言われます。
ヨハネが福音書を書いた頃、イエスをキリストと告白する者がいれば、公式に会堂から追放することをユダヤ教側の人々が決めていた。そのようにクリスチャンたちにとって厳しい状況の中で、この福音書は書かれたものでした。そのように考えて今日の聖書の箇所を見ると、主イエスこそ救い主であること、主イエスが神の独り子であること、神さまによる恵みと真理が主イエスによって現されたことなどが強調されていることに、改めて気づかされるのです。

Ⅱ.証言者としてのヨハネ

「光」なる「言」のことを証言する人物として洗礼者ヨハネの名前が示されています。福音書記者ヨハネは、あくまでも主イエスこそがメシアであり、ヨハネ自身はメシアではないことを主張しました。
ところが、人々の中にはヨハネがメシアではないかと考える者もあったのです。これに対して、イザヤ書40章3節を引用し、ヨハネは自分の役割は主の道を整えることだと説明したのです。このように洗礼者ヨハネは主イエスについて「語る」ために神さまから遣わされました。
ギリシャ語で「語る」という言葉は、「見たことを証言する」と言う意味があります。ですからヨハネは証言者でした。

Ⅲ.人生に縦軸(神との関係)のある人ヨハネ

ある時、主イエスはヨハネを指して、「女の産んだ者の中で、最大の人物」と称賛されたことがあります。そのヨハネは理不尽極まりない仕方で殉教の死を遂げるのです。
時のユダヤの権力者ヘロデが、自分の兄弟から妻ヘロディアを奪い、彼女と結婚するという事件が起こりました。それを知ったヨハネが「その結婚は律法で許されていない」と主張し、ヘロデ王の罪を糾弾したからです。
しばらくしたある日、その日はヘロデの誕生日で妻となったヘロディアの連れ子、サロメが父親となったヘロデに誕生日のプレゼントということで踊りを披露します。
ヘロデは大いに喜び「欲しいものがあれば、何でも言いなさい。お前にやろう」と言ったのに対して、サロメが、母親ヘロディアに相談し、「洗礼者ヨハネの首」を求めたことでヨハネは殺されていきました。
福音書には、その後日談が出て来ます。主イエスの活躍の様子がヘロデの耳にも聞こえて来たとき、どういうわけか、主イエスのことを「自分が殺したヨハネの生まれ変わりだ」と勘違いし、物凄く不安になったというのです。
さてヨハネは主イエスの先駆けとして活動を始めて行くなか、ある程度、自分の死を予測できたのではないかと思います。ところが、福音書を読む限り、死と隣り合わせのところに置かれていたはずのヨハネが、恐怖に怯え、何かを後悔している形跡が全くないのです。むしろ、とても小気味の良い! 信じる道をまっすぐ歩き、びくともしないのです。
聖書が伝える洗礼者ヨハネの生涯を見るとき、本当に彼は自分自身に満足しています。自分を取り巻く状況は大変厳しいのですが、心は穏やかなのです。確信に満ち、恐れや不安から解放されていたのです。何故ならヨハネは、真に恐るべきお方である神さまを知っていたからです。正しくないことがあれば、ヘロデであろうが誰であろうが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とはっきり言うことが出来たのです。常に霊に燃え輝いていました。それに対し、権力を持つ側のヘロデは恐怖におののいていました。主客転倒が起こっているのです。
権力、地位、財産、支配の力は、表面的には強く見えても実質は無に等しい。しかも死と隣り合わせです。これに対して、優しさ、愛、良心、信じること、望みを抱くこと等は確かに弱く見えても、実は権力も太刀打ちできない強さがあるのです。
まさに福音書記者ヨハネが「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」(Ⅰヨハネの手紙4:18)とその手紙に記した通りです。
洗礼者ヨハネとヘロデの姿は好対照なものとして、この違いを、実に鮮やかに示しているように思います。洗礼者ヨハネの生き方、それをひと言で表現するならば、「人生に縦軸を持つ生き方」でしょう。
聖書は、私たち人間が的外れな生き方をしている場合、その生活の中に必ず「自己中心」と「虚栄心」として現れてくることを教えています。「自己中心」とは「自分が、自分が」という思いです。自分の願いを叶え、自分の欲望を満たすために人を利用するような思いです。
「虚栄心」とは「等身大の自分」を受け入れることが出来ないために、背伸びをして生きる心です。神しか満たすことの出来ない隙間がぽっかりと空いていて、それが大きいが故に必死になって「神の愛」以外の何かをもって満たそうとする。また心の深いところで「自分はダメな人間だ」と思っているので、背伸びし、自分をよく見せるようにして虚栄を張るのです。繰りかえしますが、本来、神に造られ愛されているはずの私たちが、造り主から離れて生きようとするとき、必ず自己中心となり、虚栄を張って生きるしかなくなると聖書は教えています。
それに対して、洗礼者ヨハネはそうした生き方から解放されていました。自分に満足できない人は決して他人にも満足できません。それがヘロデの問題であり私たちの問題でもあります。
これに対して、神の恵みと愛とを十分に実感するとき、自分自身に満足してくるのです。神から、このままの姿で受け入れられていますから、背伸びをする必要もない。人と比べることからも解放されていきます。「私は私でいい」と心の深いところに満足を覚えるようになります。
私たちに必要なのはこの恵みです。神さまに出会い、御言葉をいただき、心に栄養をいただくことが本当に必要なのです。
このようにして洗礼者ヨハネと王ヘロデを比較するときに、人生に縦軸を持っているかどうか、神さまを知っているかどうかが本当に問われてくるのです。

Ⅳ.「現代のヨハネ」として召されている私たち

ヨハネ福音書1章、6節以下に「証し」という語が3回も出て来ます。つまり洗礼者ヨハネは、まさに「光について証しをするために来た」証人なのだと福音書は伝えています。そしてもうひとつ、私たちが光である主イエスを証ししようとするときに、洗礼者ヨハネ同様に、光なる主イエスと向き合う必要があるということです。
パウロはコリントの信徒に宛てて、「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(Ⅱコリント4:5-6)と語りました。
私たちがキリストと向き合うときに、ちょうど月が太陽の光を身に受けて輝くように、光なる主イエスの素晴らしさを反映し、私たち自身が、洗礼者ヨハネのように証し人として輝かせていただけるのです。
ある意味、洗礼者ヨハネも困ったようです。人々に洗礼を授け、悔い改めを勧めていたのですが、多くの人が、洗礼者ヨハネが救い主ではないかと言い出したからです。ですからヨハネは、「そうではないのです。救い主について証しをするために来たのです」と、自分の役割をそのように受けとめているのですが、周囲の人々は身勝手なことを言いました。
それだけヨハネが光り輝いていたからだと思うのですが、そうした人々に対してヨハネが「声を張り上げて」主イエスを証しする姿が紹介されています。何故そこまでしたかと言えば、他の誰でもなく主イエスを見つめることが大切だから、これこそが、私たちが輝く唯一の道だから。それは洗礼者ヨハネ自身が経験したことであり、それを伝えたかったのです。
主イエスを見つめると、私たちは自らの罪に、闇に気づかされる。でも罪や闇に気づくことは、私たちにとって本当に必要な第一歩でしょう。何故なら、そのことを知った者は光を求めるからです。罪からの救い主、主イエスを求め始めるからです。闇の中に光が灯されるとき、その光の周りからスーッと闇が消えて行きます。私たちの心の中に暗闇があることに気づき、その闇を追い出そうとしても出来ない。どうすればよいか? そこに光を招き入れるときに初めて、そこから闇が消滅するのです。私たちの人生に主イエスをお迎えするということはそういうことです。
「まことの光」として「すべての人を照らす」お方として、キリストはおいで下さいました。光なるお方と向き合って生きるときに、キリストは、罪深い私たちをも、その光を反射させる者、光の証し人としてくださるのです。お祈りします。

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アドベント 主日共同の礼拝説教

主の道を備えるために

松本雅弘牧師
イザヤ書40章1-11節、マルコによる福音書1章1-8節
2019年12月1日

Ⅰ.主の再臨を待ち望むために

今年も待降節がやって来ました。待降節はキリストの降臨であるクリスマスの恵みを思い巡らすと共に、そのキリストの「再降臨」、約して「再臨」を待ち望む季節でもあります。

Ⅱ.あらすじ

福音書記者マルコは、前置きに時間を費やすことをせずに「神の子イエス・キリストの福音の初め」と切り出します。
マルコは、イエス・キリストの到来こそ、その方の存在こそが、「福音」、「良き音信そのもの」なのだと大胆に宣言するのです。そして預言者たちの言葉を引用しながら、荒れ野に出現し「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えるヨハネこそが、メシアの先駆けとして遣わされた者であることを明らかにし、彼の宣教活動の様子を報告するのです。
ヨハネは、自分の後に本当に「優れた方」が来られると伝えます。そして自分がしていることはそのお方のために道を備えることなのだというのです。その具体的な道備え、それこそが、主イエスに洗礼を授けることであったのだ、と福音書記者マルコは語っているのです。

Ⅲ.「あなたはわたしの愛する子、心に適う者」という御声を祈り求める

今日は洗礼式が行われます。洗礼者ヨハネが、主イエスの道備えの最初の務めとして洗礼を授けたように、今日の方たちも洗礼を受け、新しい歩みをスタートするわけです。
では受洗するとは一体どのような意味があるのでしょう。ここで洗礼者ヨハネは、「その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と言いました。
ヨハネから洗礼を受けた主イエスの上に、聖霊が鳩のように降って来られ、天から次のような声がありました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1:11)。
これはどういうことでしょうか。受洗は、主イエスの命である聖霊をいただくことの目に見える印ですが、同時に私たちの心の深いところで「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神さまの御声をしっかりと聞きとることでもあるのです。
ところが現実には、受洗後も神の愛を実感できないでいることがあります。その理由は、私たちの中にある「偽りの物語」が原因しているからだと言えるでしょう。
一般に私たちは、人間の価値はその人が成し遂げたことによって決まるという物語を信じているようです。先日、テレビを見ていましたら「ハイスペック男子」とか、「スペックの高い人」という言葉が使われていました。本来の「スペック」とはパソコンや機械などの客観的に判定、評価できる構造や性能を意味する言葉ですが、それが人に転じて「能力が高い」という意味で使われるようになったようです。ですからスペックの高さとは、その人の価値に比例するという風潮があるようです。これは主イエスの時代の「律法主義」です。神さまに愛され、喜ばれるためには、愛されるに値する、喜ばれるに値する理由を私の側にたくさん積み上げる必要があると言う考え方です。
同じ出来事を記したルカ福音書では、主イエスが「洗礼を受けて祈っておられると」という表現があることに心が留まりました。「洗礼を受けて祈っておられると」、父なる神がその祈りに応えるようにして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という御声をかけてくださったとあるのです。
これは本当に大事なことを教えているように思わされます。つまり私たちが神さまに愛されていることを実感する恵みは、ちょうどこの時の主イエスがそうなさったように、私たち一人ひとりも、神に祈り求めるべき恵みであるということです。
私は自分の今までの歩みを振り返る時に、本当にマイナスの言葉を浴びるようにして大人になって来たなとつくづく思うことがあります。我が子に対してもそのようにしてしまっている自分を情けなく思うことがよくあります。
その結果、特に自分の中のマイナスの面、弱いところと上手く向き合うことができない。例えば弱さや足りなさを見せつけられるような場面に出くわすとどうするか、見て見ぬ振りをし、場合によっては競争や競い合いを始めるのです。いちじくの葉っぱ」を貼って、他人よりも自分を大きく見せようとします。でも、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。あなたは大切な人です」という言葉に触れると、不思議と「自分は自分でよい/私は私」という思いにさせられるのです。
あるクリスチャンは、こう語っていました。
「私たちは愛されている者です。両親や教師、結婚相手や子どもや友人が、私たちを愛したり、傷つけたりする、そのはるか以前から、私たちは深く愛されています。これが私たちの人生の真理です。その真理を、あなたも受け取っていただきたい。それは『あなたはわたしの愛する子』という言い方で語りかけてくれる真理です。
しっかりと心の耳を澄ませてその声に聴き入ると、私の存在の中心から、こう語りかける声が聞こえてきます。『私は、はるか以前からあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの、私はあなたのもの。あなたは私の愛する者、私はあなたを喜ぶ。私はあなたを地の深いところで仕組み、母の胎の内で組み立てた。私は手のひらであなたを形造り、私の懐に抱いた。私はあなたを限りない優しさで見つめ、母がその子を慈しむ以上に親しくあなたを慈しむ。私はあなたの頭の毛をすべて数え、あなたの歩みを導く。あなたがどこに行こうと、私はあなたと共に歩み、あなたがどこで休息しようと、あなたを見守り続ける。…』」と。
一日が終わって、床に就く時、その日一日を振り返って後悔することがあります。〈何故、あんなこと言ってしまったのだろう。あのような事をしなければよかったな。〉〈あの時、ああ言えばよかった。〉
結構、幾つも幾つも心に浮かんできます。でも、そうした時に、主の御前に静まり、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、主のこの語りかけに耳を澄まします。すると不思議な力や慰めをいただく。どんな失敗をしたとしても神の子としての私の価値に傷がつくことなどない、ということを知らされるからです。
洗礼を受けたということは、そのことをはっきりと自分のこととして聞くことであり、神さまを信じて歩み始めるということは、常にそのように語りかけてくださるお方の前に立ち返っていくことなのです。

Ⅳ.ぶどうの木であるキリストにつながり続ける

主イエスは十字架につかれる直前に、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネ15:5)。
そうお語りになった後「父のところから助け主なる聖霊を遣わすのだ」と約束されました。
受洗し、神の愛の語りかけを聞き続け、本当の意味で喜びに満ちた信仰生活を送ることを願うならば、ぶどうの木であるキリストに繋がることが大切です。たとえ洗礼を受けても主イエスから離れるならば、聖書で約束されている様々な恵みは絵に描いた餅です。何故なら「私を離れてはあなたがたは何もできないからだ」と言われるからです。
真の意味で私たちの信仰生活を恵みで満たし、教会を豊かにするものは何かと言うならば、それはキリスト教的活動が活発になることではなく、主イエスとの生きた関係がそれだけ太くなるか、親しくなるかにかかっている、ということなのです。
洗礼を受けるということは、主イエスの命である聖霊が、私たちの心に宿られることを表わしていることを、覚えたい。この「宿る」ということは、単に「お客さまとして滞在する」のではなく、「住みつづけ、生活を共にする」という意味の言葉です。
結婚して感じたことですが、他人同士が生活を共にすることによって何が起こるでしょうか。似てくるのです。場合によっては顔つきまで似てきます。それはともかくとして、主イエスの霊である聖霊が宿って下さり、聖霊と共に暮らすならば、次第にキリストに似てくるのです。
私たちには幾つもの生活の場があります。〈この顔は見せたくないので、イエスさま、ちょっと向こうをむいていてください〉と言いたくなることもあるかもしれない。
でも信仰生活はこの逆なのです。ぶどうの木に繋がったり離れたりしていては、実を結ぶ暇もありません。聖霊は私たちの内側に宿られるお方ですから御言葉を通し、心の扉を開くようにと語り続けて下さる。生活の全領域で、聖霊なる神さまと共に生きることを願っておられる。
私たちは、そのようにして聖霊に満たされていくのです。置かれている状況が厳しくても、そこに主イエスが共におられる時、本当の平安が心を包み込むように、どんな環境にあっても聖霊が共におられるので、本当に心強い。
「キリストにつながる」とは、そういうことです。そのように、主が私にとっての道となってくださるように祈り求めていきたいと願います。
お祈りします。