カテゴリー
主日共同の礼拝説教

また会う日まで

和田一郎副牧師
イザヤ書7章13-14節、テサロニケ一5章1-11節
2020年2月23日

Ⅰ.「わたしは必ず戻る」

となり町の相模原には、宇宙科学研究所(JAXA)があります。惑星探査機「はやぶさ」が地球に戻って来た時は感動しました。地球に帰って来る時に、故障して交信が途絶えてしまいましたが知恵と技術の結集があって戻ってきました。その探査機にちなんで相模原市の特別レスキュー隊は「スーパーレスキューはやぶさ」というそうです。レスキュー隊員が危険な任務を全うして、1人でも多くの人を助けて「必ず戻る」という願いが込められているそうです。助けるだけではなくて、必ず戻って来ることが任務ということです。
テサロニケの信徒への手紙一 4章、5章の中で、パウロが強調していることは、「イエス・キリストは必ず戻って来る」ということです。復活したイエス様が、弟子達が見ている前で天に上げられて、雲の彼方に離れ去って行かれた時、天使が言ったのです。「天に上げられたイエスは・・・あなたがたが、今見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒言行録1章9-11)また、戻って来ると言われました。
イエス様がもう一度来られることを「再臨」と言います。ちなみに再臨に対して最初に来られたことは「初臨」と言います。家畜小屋でお生まれになった、クリスマスの出来事は、最初にイエス様が来られた時なので「初臨」です。そしてもう一度、来られる時が「再臨」です。私たちは今、「初臨」と「再臨」の間に生きています。
ところが、「初臨」の話しはよく聞くので分かるが、「再臨」と言われてもピンとこない、「本当に来るのだろうか」と漠然としている人も多いのではないでしょうか。しかし、パウロはこの手紙の中で、キリストは「必ず戻って来る」と言っています。例えば「妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません」と、妊婦が出産する時に、苦しみが当たり前にやって来るように、必ずキリストは戻って来ると言うのです。今は無痛分娩などもありますが、それでも出産までには、いろいろと大変な苦しみがあります。それと同じようにキリストの再臨は必ず来る、確実なものだというのです。
では、確実ならば再臨はいつ来るのですか、と聞きたくなります。しかし、パウロは「その時とその時期について、あなたがたには書き記す必要はない」と、ちょっと意地悪な答え方をしています。ですが、「いつ」という質問に答える必要はない。なぜなら、4節にあるように、泥棒は夜、人々が安心して寝静まっている時を狙ってやって来ます。大丈夫だろうと高をくくっている、そんな時に来るのです。キリストの再臨の日も、そのようにして来からです。イエスの再臨などありはしない、あるとしてもずっと先のことで自分には関係ないと思っていると、そこに、突然、イエス様が来られるのです。パウロは、あなたがたは、イエス様がそのように来られることを既に私から聞いて知っている、そのことさえ知っていればそれで十分なのだ、それ以上のことは、知ることが許されていないし、知る必要もないのだとパウロは教えています。
初臨と再臨の間の時代に私たちは生きていますから、再臨はこれからです。初臨と再臨を意識することがクリスチャン生活の大事なポイントです。

Ⅱ.その時

再臨の時には、何が起こるのでしょうか。今日の聖書箇所の前には、再臨の出来事が書かれていますが、4章16節からの言葉によれば、再臨の時、「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、イエス・キリストが天から下って来られる」とあります。それに対して、まず先に天に召されてしまった人々が復活します。その次に生きている人々が引き上げられて、天に召された人々と一緒に、イエス・キリストに出会うことになります。つまり、生きていようが、死んでいようがキリストを信じる者は、やがて一つにされるのです。

Ⅲ.「目を覚ましていなさい」

4節以降は、再臨の時までの、クリスチャンの生き方についてです。ここでパウロは、わたしたちは暗闇の中に生きているのではありません。わたしたちは光の子、昼の子、昼に属している者なのだと言うのです。暗闇や夜に属する人たちは、イエス・キリストを救い主として信じていない人たちです。彼らはキリストの復活も再臨も信じていないわけですから、人間はすべて死んだらおしまい、人生の終わりのあとは闇のようなものだとみています。しかし、キリスト者は昼の光に属する、光の子です。かつて、羊飼いたちが、野宿をして闇の中を夜通しの羊の番をするという、辛い仕事をしていました。その時、大きな光が周りを照らし、光の源の言葉によって「さあベツレヘムへ行こう。主を見に行こう」と励まし合って力を得たように、キリストの救いに与った光の子は、希望の中で生きる力を与えられています。
ですからパウロは、8節で「しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。」と言うのです。つまり、信仰、希望、愛、この三つをいつも身につけた信仰生活を送りなさい。それが、キリストの再臨の時を待つに相応しい、生き方なのだと教えています。
これはパウロの思い付きのようなものではありません。イエス様も、マルコによる福音書13章で、弟子達に向かって、再臨の時までの信仰生活について教えました。
ある所に、主人と僕(しもべ)たちが住んでいました。主人の家の生活は、愛と恵みに満ちた生活でした。僕たちが恵み深い主人を信頼していたからです。ある日、主人は旅に出る事になりました。主人は、留守を守る僕たち一人一人に仕事を与えました。一人一人の持っている賜物に合わせて仕事と責任を持たせて、入り口で門番をする者には、「いつも目を覚まして、しっかり門番の務めを守りなさい」と言いました。なぜなら、周りには悪い者が沢山いるからです。主人が留守にしている間も、愛に満ちた生活を守るために、それぞれ役割と仕事を守っていなさい。次に主人が戻って来た時、これまでとはくらべものにならないくらい、さらに豊かな生活になります。それが永遠に続くのです。でも主人が戻って来た時に、あなた達が与えられた仕事と責任を果たしていなかったら、主人はがっかりするでしょう。だから、いつ主人が戻って来ても、悲しませることがないように、与えられた役割を果たすように留守番をしていなさい。
イエス様は、そのように再臨までの生活の在り方を教えてくださいました。旅に出た主人と同じように、イエス様の姿は、今は見えませんが必ず戻って来られます。

Ⅳ.主とともに生きるようになるため

テサロニケの手紙、10節にもどります。
「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」とあります。「目覚めていても眠っていても」と言うのは、生きている者も、死んでしまった者も、という意味です。生きていようが、死んでしまっていようが、イエス様が死なれたのは「イエス様と共に生きるようになるため」です。
私たちの救い主であるイエス様が、神々しく遠くから、見守ってくださるだけではなくて、身近なところで生きる方として、私たち人間の社会、職場、家庭や私たちの心の中に働いておられます。今日お読みした、イザヤ書の預言の言葉にも書かれています。
「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ」
イザヤ書7章14節
インマヌエルというのは「神が共にいてくださる」という意味です。イエス・キリストは、そういうお方として地上に来られたと、言いあらわしています。
インマヌエルと呼ばれるイエス様が地上に来られたことは、神様が私達と近くにいて下さる証拠です。神様を見た人はいません。しかし、神の独り子、イエス・キリストの存在そのものが「神が共にいてくださる」という預言を成就された証しです。
イエス様は、遥か遠くにいるお方ではなく、私たちの内にすみ、生きていてくださったのです。それは、私達人間の苦しみや悩みを理解して下さる方となるためです。その意味において、イエス・キリストはインマヌエルです。
イエス・キリストは、必ず戻って来られることを心に留めて、それまでのあいだ、それぞれの持ち場持ち場で、与えられた役割を果たしていきましょう。お祈りをいたします。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

神殿きよめ

マタイによる福音書21章12―17節
松本雅弘牧師
2020年2月16日

Ⅰ.憤る主イエス

十字架に付けられる数日前、主イエスは覚悟をもって、エルサレムにお入りになり神殿に直行し、その直後に「神殿きよめ」が起こりました。「売り買いをしていた人々を皆追い出した」とマタイは伝えています。そしてイザヤ書を引用して『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている」とおっしゃったのです。

Ⅱ.弱い立場の人々への主イエスの優しさ

さらに主イエスはこんなことをなさいました。「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた」。旧約聖書のサムエル記下5章にこの背景となる歴史的出来事が伝えられています。そこにはダビデ王がエルサレムを占拠した時にエルサレムにいたエブス人がダビデをからかい挑発するのです。お前は自分のことを王だと言うが、目の見えない者や足の不自由な者であっても、お前なんかに負けやしない」とからかいます。ところが、そのエブス人に勝利したダビデが、「ダビデの命を憎むという足の不自由な者、目の見えない者を討て」と宣言し、それがきっかけとなり目や足の不自由な者は神殿に入ることが出来なくなった。それが主イエスの時代に至るまでずっと続いていた。加えてのユダヤ教ではそのような不自由さを強いられている人々は神の祝福外の人々であるという教えもあり当然のように神殿から遠ざけられていたのです。ところがこの日、主イエスの「神殿きよめ」の大混乱の中、神殿の境内に入ることが許されなかった目の見えない人、足の不自由な人がこぞって押し入り境内に立たれた主イエスの足元にうずくまったのです。それは、千年の期間、誰も見たことのない光景でした。

Ⅲ. 驚く心

この「不思議」な出来事を見た祭司長、律法学者たちは腹を立てています。ところで「不思議」という言葉は「驚き」「驚くべき事」という意味がある言葉です。その御業を見て腹を立てたのが祭司長、律法学者たちでしたが、まさに驚くべき
こととして受けとめた者たちもいたことをマタイは伝えています。それは子どもたちでした。彼らはろばに乗って入城なさった主イエスを迎えた大人たち、自分たちのお父さんやお母さんたちが大声で賛美した、「ダビデの子にホサナ」という歌を、この時、心から賛美したのです。それは彼らが驚いたからだ、とマタイは伝えるのです。皮肉なことに子どもたちは神賛美に導かれている一方で、祭司長、律法学者たちは、驚かない。腹を立てることがあっても、何の感動もないのです。賛美へと導く、その驚くべき不思議な出来事に、心の目が開かれていない人々がそこにいた。主イエスの愛の業、その愛の業をなさる主イエスご自身に心動かされず、賛美する理由を見つけることなく、全く驚くことがなかった律法学者、祭司長がそこにいた。このこと自体の中に、彼らに対する審きが、マタイによって語られているように感じました。祭司長たち、律法学者たちは、腹を立て、イエスに向かって「子どもたちが何と言っているか、聞こえるか」と訴えます。それに対して、主イエスは詩篇8編の御言葉を引用しながらお答えになっています。
旧約聖書の詩篇8編を見ますと、2節、3節で「天に輝くあなたの威光をたたえます。幼子、乳飲み子の口によって」と書かれていました。さらに5節から7節には、「そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ 御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。」とあります。
この詩篇8編は、人の子、つまり神が与えてくださる救い主が、必ず万物を支配するときが来る、と語っている。イエスさまの時代、詩篇8編は、そう解釈され、そのように信じられて歌われていた詩篇だったようです。神が与えてくださる救い主、メシア、王が来られる。その時、その御方を心からほめたたえるのは幼子であり、乳飲み子なのだと詩篇が語っている。こんな難しい、当時の詩篇の解釈なんか、子どもたちは何も知らなかったでしょう。でも、正にこの時、主イエスのリアルな様子を見ていた子どもたちは驚き、感動している。そのお姿に、神を見、「ダビデの子にホサナ」と、主イエスをほめたたえたのです。
主イエスは、そうした子どもたちを弁護した。詩篇の言葉を引きながら、明らかに、ご自身こそ王であることを宣言し、ご自分を迎える者は、この子どもたちだけなのか、ここにいる障碍で苦しみ、弱さを抱える者たちだけなのか、と祭司長たち、律法学者たち、そして神殿境内にいた人々に向かってチャレンジされたのではないでしょうか。

Ⅳ.どこで主イエスと出会うのか

17節には、興味深い続きが記されていきます。「それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。」何気ない言葉ですが、「イエスは彼らと別れ」た、とマタイは伝えています。この「別れる」という言葉ですが、口語訳聖書では「彼らを残して」と訳し、新改訳聖書も「彼らをあとに残して」とありました。つまり「人々をそこに立たせたまま、置きざりにする」という意味です。もっとはっきりした言い方を使うならば、「彼らを捨てて」というニュアンスのある言葉です。彼らをエルサレム神殿に置き去りにしたまま、ベタニアに行かれた、のです。なぜ、そうなさったのでしょう。エルサレムには滞在する場所がなかったからでしょう。ある牧師は、この時の出来事を、クリスマスの、あのベツレヘムで起こった出来事と重ね合わせて語っています。主イエスを宿したマリアとヨセフは、ナザレからの長旅で疲れていました。身重のマリアも大変な思いをして、ここまでやって来た。やっとの思いでやって来た目的地ベツレヘムにおいて、彼らを泊める場所がなかった。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」。居場所がなかったのです。ですから貧しい家畜小屋でお生まれになり、飼い葉桶に寝かされたのです。この後、マタイ福音書を読み進めていきますと、マタイ福音書26章の6節に、「さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき」とあって、この数日後に、ここベタニアにおいて、起こったことをマタイは紹介しています。つまりベタニアの村で主イエスを迎えた家は重い皮膚病のシモンたちのいる家だった。
マタイ福音書26章を見ますと、この数日後、主イエスがシモンの家に滞在していた時に、一人の女性が現れて、主イエスの体に香油を注ぎます。すると主イエスは、「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(マタイ26:12-13)とおっしゃったのです。つまり、このベタニアこそ、主イエスが十字架に歩み進められていく時の最後の砦、十字架に向かうためにご自身の心と体とを休ませ、癒す場所だった。今日の17節、「それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。」そここそ、その重い皮膚病で苦しむシモンの家こそが、主イエスを喜んで迎え入れ、十字架に臨む主イエスが、心と体を整えることの出来た居場所だったのです。
本当に皮肉なことにエルサレムでも、そのど真ん中に建つ神殿でもなく、そこから離れたところにある、重い皮膚病のシモンの、ある牧師の言葉を使うならば、もしかしたら、つい先日まで、物乞いをしていたかもしれない、男の家こそが、主イエスのくつろげる、大切な最後の1週間を過ごす居場所だったのです。本当に驚くべきことに驚くことのできなかった大人たちがいました。賛美することが出来なかった。何という皮肉かと思います。私たちは、どうだろうか、と問われます。主は飼い葉桶にお生まれになった。神殿でも王宮でもありません。飼い葉桶です。でも、だからこそ、人口調査の対象外の羊飼いが御子を拝みに来ることが出来、神の祝福の外に置かれていたはずの異邦人の占星術の博士たちが、ユダヤ人を差し置いて礼拝者として招かれたのです。
聖書の聖書と呼ばれる、御言葉を思い出します。「神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された」。主は神殿でも王宮でもない、この世、私たちの生活の只中に生まれてこられた。「神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された」。ある牧師が語っていました、聞き慣れた言葉だ、と。でも驚くべき出来事を伝える言葉なのです。この驚きからこみ上げてくる喜びが、私たちの賛美となりますように。     お祈りいたします。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

“変わることのないもの”と“変わるべきもの”を識別する知恵

ヨハネによる福音書15章1―10節
松本雅弘牧師
2020年2月9日

Ⅰ.はじめに

教会に伝わる有名な祈りがあります。「変わることのないものを守る力と/変わるべきものを変える勇気と/この二つのものを識別する知恵をお与え下さい。」
一般に「ニーバーの祈り」と呼ばれているものです。まさに日々直面する現実の中で、私たちの心の中にある願いや不安をそのまま言葉にしてくれた祈りのように思います。
変わることのない大切なことを大切にしていく力、そして変えてよいものを思い切って変えようとする勇気、そして、変わることのないものと、変わるべきものを区別する知恵、これは生きていくうえで本当に大切な祈りの言葉、また生きる姿勢なのではないかと思います。

Ⅱ.「わたしはまことのぶどうの木」

本日の聖書の言葉は、主イエスの有名な言葉です。ここで「わたしにつながっていなさい」、と言われます。しかもわざわざ「まことのぶどうの木」とおっしゃっています。当時は偽りの木があったからでしょう。知り合いの先生が、こんな話をしておられました。
昔々、あるところに、貧しい人々が住む村がありました。村人たちはいつも喧嘩をしていましたので、誰もが皆不幸だったそうです。
そこに、ある「旅のお坊さん」がやってきたのです。さっそく村人は、お坊さんに自分たちがあまりにも不幸なので「お祈りできるものをください」、とお願いしたそうです。するとお坊さんは2つのお地蔵さんを作り、片方は村の東の端に、片方は西の端に置き、東の地蔵を「聞かぬ地蔵」、西の地蔵を「聞く地蔵」と名付けて、「両方のお地蔵さんに祈れば幸せになれる」とだけ伝えて村を後にしたそうです。
村人たちは大喜びで、最初、東の地蔵のところに行って祈りますが、何も願いを聞いてもらえないということで、西の地蔵のところに行き祈ります。するとどんな祈りも応えられました。
その結果、次第に東の地蔵ではなく西の地蔵ばかりに「病気を治してください/食べ物をください/商売を繁盛させてください」と祈りに行ったのです。するとあっと言う間に村人たち皆豊かになりました。しかし不思議なことに願ったものを手に入れたはずなのに、気持ちが晴れないのです。
お隣さんの方が自分よりも良い物をいっぱい手に入れているのではないかと思い始めたからです。
そこで再び西の地蔵のところに行き、「近所の人に不幸を与えてください/病気にしてやってください」と不幸を祈りました。その結果、元のように喧嘩の絶えない貧しく不幸な村になってしまったのだそうです。 私はこの話を聴いて大切なことを教えていると思いました。物やお金を手に入れて幸せだと思っても、それは束の間、すぐに心にある欲望が膨らむ。結局、私自身の内面に変化が起こらなければ、私を取り巻く状況がどのように変化したとしても、本当の幸せをつかむことは出来ないのではないか、と感じるのです。

Ⅲ.つながること

聖書に戻りましょう。主イエスは私たちを枝にたとえています。
枝である私たちに向かい、「まことのぶどうの木であるわたしにつながっていなさい」と呼びかけられたのです。確かに最初はどんなに元気のない貧弱な枝であっても、しっかりと木につながっていれば、必ず水分や栄養が幹を伝って枝に流れ、枝は元気になる。春が来れば花が咲き、必ず実をならすはずです。
ある時、イエスさまはおっしゃいました。「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚す」と(マタイ15:11)。その意味が分からずにいた弟子が、「具体的に説明してください」と願うと、こうおっしゃいました。
「あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」(16-20)。
私たちを汚すのは、外側からではなく、私たちの内側にある様々な思いが、私たちを内側から汚す。ダメにするというのです。
ですから、そうしたことをお考えになって、内側に、確かな栄養を、しっかりと得ることが大事だ、と言っておられるのです。
それが、今日の聖書の言葉、まことのぶどうの木であるイエスさまにしっかりとつながり、まことのぶどうの木であるイエスさまから直接、いのちをいただき、内側から綺麗にしていただくことが大切なのだ、ということです。
では、ぶどうの木である主イエスにつながるとはどういうことでしょう?
7節と8節をご覧ください。
「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」
つまり、「主イエスの言葉、聖書の言葉が常に心の中にある状態を保つ」ということ、すなわち、聖書の言葉によって養われる環境に身を置き続ける、ということです。

Ⅳ.神さまの口から出る言葉によって生きる人間

イエスさまは、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と教えてくださいました。私たち体のために栄養豊かな食物が必要なように、どうしても心に栄養が必要です。
いかがでしょう。健康上問題が無くても、心に悩みや不安を抱えていたら、体力があり能力があっても、それを発揮することができません。逆に、暗い思いで1日を始めたとしても、家族や友人のちょっとした言葉で息を吹き返すこともあるのです。
私たちの体に栄養が必要なように、心にも栄養が必要である。それが主イエスの言葉、聖書の言葉なのです。
そして、その聖書の言葉にとどまる時に、ちょうど、枝がぶどうの木につながって実を結ぶように、必ず実を結ぶ。つまり私たちの内側から少しずつ変化が起こるというのです。
ところで、先ほどお話ししました昔話には続きがあるのです。
元のように喧嘩の絶えない貧しく不幸な村人たちのところに、再びお坊さんがやって来たそうです。そして、「どうしたのか。どういう風に祈っていたのか。東の聞かぬ地蔵の方にも、西の聞く地蔵の方にも、両方のお地蔵さんにちゃんと祈ったか」と訊ねたそうです。
聞いた村人たちはハッとしました。東の地蔵さんには全く祈っていないことを知らされたからです。
そこで村人たちはしぶしぶ東のお地蔵さんのところに行き始めました。聞かない地蔵の前で、色々と心の中にある思いを訴えたそうです。すると不思議と心がスッキリとして穏やかな心になる。
そして、何か特別に必要な時には今度、西の聞く地蔵の方に行って、願い事を叶えてもらう。そのようにしていく中で、以前に比べお金や物には恵まれなかったのですが、不思議と彼らは幸せになっていった、というのです。
実は、東のお地蔵さん、聞かない地蔵は、まさにそのお地蔵さんの前で、本当に求めるべきものは何なのか、何を大切にして行ったらよいのか、自分を本当の意味で支えてくれる基盤って何なのかを、村人たちは考えさせられ、自己吟味をさせられたのではないかと思うのです。私は、このお話を聴いた時に、今日の御言葉を思い出しました。
まことのぶどうの木であるイエスさまにつながるということは、主イエスの言葉という、私たちの心の姿を映し出す鏡の前に自分自身が立つことです。そして私たちが求めているもの、願っているものが、私や家族にとって、あるいは周囲の人々にとって本当に大切なものなのかどうか、本当に賢い選択なのかどうかを吟味させられ、本当に求めるべきものを求める私へと造り変えてくださる。それが、力の御言葉、聖書なのです。
イエスさまこそぶどうの木であり、そして私たちは、そのイエスさまにつながりなさいと招かれているぶどうの枝です。
聖書の言葉を心の糧とすることこそ、幸せへの道であり、私たちの生活に確かな土台や基盤を与えることなのです。
変えてはならないもの、これを選び取っていきたいと願います。お祈りします。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

まことの王の到来

松本雅弘牧師
イザヤ書52章1節-10節、マタイによる福音書21章1節―11節
2020年2月2日

Ⅰ.はじめに―ヘロデとイエス

今日の聖書箇所を見ますと、「エルサレムに迎えられる」と小見出しがついています。この日から受難週が始まり、数日後に、都エルサレムにおいて受難の出来事が起こり、その城外で、主イエスは十字架にかかって死なれます。
ここで主イエスは2人の弟子にろばを用意させました。主イエスは、そのろばに乗ってエルサレムに入城されたのです。

Ⅱ.王として迎えられる主イエス

ところで、マタイ福音書は主イエスを王として示していると言われます。私たちは数年かけてマタイ福音書を読み進めてまいりました。
これまで必ずしもおおっぴらに、ご自身が王であるとおっしゃったわけではありません。しかし注意深く読むとき、マタイは最初からイエスを王として迎えることが大切だと理解していたことが分かるように思います。
その証拠に、福音書の1章1節、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」という言葉です。そして続く2節以下に出てくる系図は「王家の系図」です。マタイは冒頭から、イエスがイスラエルの王ダビデの子孫で、神の民、ユダヤの人々、いやそれどころではない、全世界の人々に真の救いをもたらす真の王なるお方であると宣言するのです。そして続く2章には、占星術の博士たちがやって来て、「ユダヤ人の王としてお生まれなった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と語ります。「あなた方の王をユダヤ人に属していない私たちも拝みたい。その方はどこにお生まれになったのでしょうか」と訊いているのです。そしてクリスマスの一連の出来事以降、王としてのお姿がはっきり現れてくるのが今日の箇所です。ゼカリヤ書の預言の成就としての、柔和さの象徴であるろばに乗ってエルサレムに入城された出来事でした。

Ⅲ.王とは

この時期になると毎年、4年前の聖地旅行を思い出します。まず案内されたのは主イエスと同時代に生きたヘロデ王が残した数々の遺跡でした。これだけのものを、それも2千年も前の昔に作ることが出来たと感心させられます。
ヘロデ大王は優れた都市計画者として知られています。そして何と言ってもヘロデの名を偉大なものとしたのは、「ヘロデ神殿」と呼ばれる第三神殿の建設です。それはソロモン神殿を超える規模で、ローマ帝国はもとより広く地中海世界において評判となりユダヤ教徒でない者までもが神殿のあるエルサレムを訪れるようになったそうです。何でこんな話をしたかと言いますと、普通、王さまという存在はそのような存在でしょう。ろばとは真逆の世界です。
安野光雅という絵本作家がおられます。その安野さんの作品に、『おおきなもののすきなおうさま』という絵本がありますが、安野さんに言わせますと、王さまとは、大きな物が好きなのです。それが王さまです。
最初の頁は次のような語りで始まります。「昔、あるところに、大きな物の好きな王さまがいらっしゃいました。王さまは、何しろ大きな物が好きでしたから、屋根よりも高いベッドで、お目覚めになると、プールのような洗面器で顔を洗い、庭のような広いタオルで顔を拭いて、やっと一日が始まるのでした」。絵本には梯子をかけなければ上れないベッド。自分の体よりも大きな歯ブラシ。一生かかっても食べられないほど巨大なチョコレート。王さまとは「大きなものが好きな人種だ」というのです。
まさにヘロデもそうでした。でもこれは他人事ではありません。私たちの中にも「小さなヘロデ」が潜んでいるのではないでしょうか。山上の説教で主イエスはお語りになりました。「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと思い悩むな。また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。…空の鳥をよく見なさい。…野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。」
慈しみ深い神さまが、今この時も支配されている、守ってくださるから大丈夫だ、というのです。ところが、その王なる神さまの御手の働きを見ることが出来ない。そして、どうにかしなくちゃ、と思い煩う。人間関係においても、先方の出方までコントロールしたくなり、それが自分の意にそぐわないと、急に苛立ち、腹が立つ。こうした姿はまさに、私が、神さまに代わって王のように、と勘違いしていることの証拠ですと、主イエスはおっしゃるのです。神さまのご支配を認めない。神さまは慈しみ深いお方であり、私たちの最善を常に考えておられる。その私たちのために万事を相働かせる力と思いを持っておられるお方であることを信じられず、ゆだねられないので、私たちは思い煩うのです。
私たちが思い悩むことの原因は、実は、私自身がいつの間にか王さまになっていることの証拠なのだと聖書は教えているのです。

 Ⅳ.いのちを与える真の王

この時、主イエスもここで王になっておられます。元々、真の王なるお方でしたから。ご自分がダビデの子孫であって、ユダヤの民が待望していた新しい王なのだということを、敢えてここで誇示しておられるのです。でも、その誇示の仕方はろばなのです。柔和で決して相手を威圧し黙らせようとするのではなく、平和をもたらすのです。ですから、私たちがすべきことは、主イエスを王なるお方として受け入れる。その神さまのご支配、神の国に生きる。そしてその時に、私たちは本当の自由をいただくことができるのです。
真理はあなた方を自由にする。王なる神さまの慈しみ深いご支配を認めて初めて、私たちはそのお方にあって、恵みと平安のうちに憩うことが出来るからです。
ヘロデ大王は命を奪う王でした。メシヤが生まれたとの情報を耳にした途端に不安になり、「そのメシヤとやらを、赤ん坊の内に殺してしまおう」と言って、すぐさま命令を出して殺したのがヘロデです。大きなことが大好きで、自らの大きさを保つために、どれだけの人々が犠牲になっていったことかと思います。先ほどの絵本に出てくる王さまはそうした残虐さはなかったにしても、でも謙遜さ、柔和さはありませんでした。真の王を知り、自分の限界に気づく必要があるのです。絵本の最後の場面は、こんな物語が出てきます。王さまが大きな植木鉢を作るのです。梯子をかけてのぞき込まないと中が見えないほどの巨大な広さの植木鉢です。そしてそのど真ん中にチューリップの球根を一つ植える。そして春が来るのを待ちました。植木鉢がこんなに大きいのだからどんなに大きなチューリップが咲くだろうかと楽しみにしながら待ちました。ところが植木鉢のど真ん中に咲いたのは普通の大きさの可愛いチューリップでした。
作者は「あとがき」で、「目もくらむような思いで、大きな物を使う王の世界を描きながら、しかし、最後に問うたのは、どんなに大きな物を作ることが出来ても、いのちのあるチューリップは作れるかということでした」と書いていました。
確かに王さまという存在は、大きな物が大好きでしょう。でも真の王である主イエスは、それとは正反対に小さなものも好きな王になってくださったのです。
ある牧師がこんなことを語っていました。「主イエスは、小さい、でも掛け替えのない、いのちを大切にする王となってくださった。しかも、この王は、他のどんな王さまにも不可能な、いのちを造るということをするために、王になってくださった」と。
主イエスは、見上げるような戦車や馬に乗ってではなくて、乗っても足が地面に付いているかもしれないようなろばにまたがって、エルサレムに入城されました。それは、私たちを殺さないで、生かすためでした。私たち一人ひとりのいのちを生かすためにそうなさったのです。私たちは、今こそ、主イエスがどのようにして平和をもたらされたのかを聴かなければならなりません。主イエスはこのようにしてエルサレムに入城され、この5日後に十字架の上で死なれたのです。
パウロは、そのことについて、次のように語りました。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊……されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ2:14-16)
主イエスは、ろばに乗って入城し、平和の礎となるために十字架にかかられました。私たちは、そのことを感謝しつつ、主イエスの後に従う者でありたいと願います。お祈りします。