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主日共同の礼拝説教

感謝の作り手

和田一郎副牧師
出エジプト記16章1-8節,1テサロニケ5章16-18節
2020年3月29日

はじめに

私たちは、この一週間を新型コロナウィルスのことで、不安や戸惑いの中で過ごしています。外出を自粛するように求められて緊張を強いられる状況にあります。私たちの教会もかつてなかったことですが、今日の礼拝はインターネットで映像を配信する礼拝となりました。そのような中で、今日の御言葉は「いつも喜んでいなさい、祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい」という御言葉です。今の状況にミスマッチな御言葉に思えてしまいます。しかし、神様の御言葉にミスマッチはありません。御言葉は自分で選ぶものではなく与えられるものです。
あの「山上の説教」の中でも、イエス様は言われました。「心の貧しい人々は幸いである」「悲しむ人々は幸いである」と。あの山に集まっていた人達は、お前たちに神様の祝福などはないと言われていた人達でした。自分達でもそう思っていたのです。ですからイエス様に「心の貧しい人、悲しむ人は幸いである」と言われても「ミスマッチだ、なにが幸いだ」という驚きがあったのです。(マタイによる福音書5章1-4節)
今日の御言葉も、いつも喜んでいなさい、祈りなさい、どんなことにも感謝しなさいと言われても、今はそんな気分じゃないと感じます。楽しみにしていた外出や集会も、延期かキャンセルです。それどころか仕事がどんどん減っている人がいます。収入の見通しがたたない人がいます。逆に仕事が忙しすぎて疲れている人もいます。もし、この御言葉を本当に受け止めようとすれば、逆に厳しい言葉に聞こえてきます。しかし、神様にミスマッチはないと言いましたが、自分に対して不釣り合いな、神様の問いかけなどはないはずです。

Ⅰ.いつも喜び、祈り、感謝する

この御言葉は、パウロが自分の経験から、このことを書いているといえます。パウロが、かつてフィリピの町に行った時のことです(使徒言行録16章16-34節)。同行していた弟子のシラスと一緒に捕らえられ、牢に入れられてしまいました。パウロ達が町を混乱させていると、言いがかりをつけて役人に引き渡したのです。パウロ達にとってみれば、思ってもみなかった理不尽な出来事でした。二人は衣服をはぎ取られ鞭で打たれ、足に
は木の足かせまでつけられ、牢に入れられました。牢には他にも囚人がいましたが、二人は一番奥の牢に入れられ、鞭打ちの痛みに耐えていたはずです。ところが、夜になって彼らは「賛美をして、祈っていた」というのです。賛美というのは、神様のことを喜び感謝し称えて歌うことです。喜びと感謝がなければ賛美はできません。彼らの喜びと感謝の思いが、その牢獄の中に響きました。「ほかの囚人たちは聞き入っていた」とあります。真っ暗な牢獄が、彼らによって神を賛美し、礼拝する場となっていたのです。そこに突然、大地震が起こりました。牢の戸が開き、すべての囚人の鎖が外れてしまったのです。厳重に監視するように命令されていた看守は、てっきり囚人たちは逃げ出したに違いないと思い込んで「剣を抜いて自殺しようとした」。しかし、すでに喜びと賛美の場となっていた牢の中の囚人たちは、パウロに倣って誰一人として動かなかったのです。看守の耳に「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」というパウロの声が聞こえました。こうしてこの看守は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」という言葉を受け入れました。
あの牢獄の中で起こったことは、いったい何だったのでしょうか。もともと、そこは殺伐とした希望の見えない暗い場所でした。看守たちにとっても、囚人たちにとっても喜びなど生まれない場所だったのです。そこに、パウロとシラスが入れられて、彼らの中から喜びと感謝から湧き出る、賛美が歌われ始めました。そして、看守にも囚人の心にも伝わったのです。神への喜びと感謝する者のもつ「自分には無い何か」です。
その後、信仰を受入れた、看守とその家族はその喜びを分かち合った、と記されています。喜びは喜びを生み、感謝が感謝を生んでいきました。どのような場所であっても、神を喜び感謝するところで状況は変えられます。パウロが、あの暗い牢獄の中で、鞭打ちの痛みに耐えながら、そんな時でも賛美できたのはなぜでしょうか。

Ⅱ.キリスト・イエスにおいて

今日の聖書箇所「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい」に、続く言葉は「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(18節)とあります。キリスト・イエスにおいて、喜び、祈り、感謝することを神は望んでおられるというのです。パウロは、自分自身の経験においても、キリスト・イエスにおいてこそ喜び、感謝できたからです。パウロが宣教活動の中で、鞭で打たれたのは今回だけの事ではありませんでした。パウロは次のように言っています。「鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました」。まさに苦難に苦難を重ねた人生です。(コリントの信徒への手紙二 11章25-26節) 私たちの人生にも、行き詰まりがあったり、道を見失ったりすることがあります。パウロも偉大な宣教者として類まれな賜物を発揮しながらも、苦難を味わって生きていました。その波乱万丈な生き方の中で、パウロは自分のウィークポイント、自分のスランプ、そこに神様の恵みは働いて、十分に満たしてくださることを経験したのです。
パウロが、自分の弱さを取り除いてくださいと願った時、パウロは主の言葉を聞きました。「主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。(私の)力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』」と、パウロは聞いたのです。だから、「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と確信をもったのです。(コリントの信徒への手紙二 12章9節)
パウロの確信というのは、「キリストが私の中にいる」というところです。その自分の中のキリストは、おごり高ぶったり、自分を過信するところでは働かず、「自分の弱さを知る」ところでこそ、十分に発揮されるものだと。
パウロの波乱万丈な生き様は、私たちには、強さのようにも見えます。くじけることがない強い意志、強さに見えますが、パウロにとっては「弱さを知ること」でした。
それは、キリストの弱さと重なるのです。イエス様がののしられ、鞭を打たれて十字架で死なれた姿は、まさしく弱い者の姿そのものでした。しかし、そこに十字架の勝利がありました。イエス様は弱さの中で栄光を現わした方です。パウロはイエス様が成してくださったことと、自分の受けた苦難を重ねて「弱さの中でこそ強い」と言ったのです。自分の中にいるイエス様が、弱い時こそ強さを発揮される。この確信があって、そのことを喜んで、そのことを祈って感謝したのです。

 

Ⅲ.感謝の作り手

そんな、パウロに比べると、私たちは喜びや感謝よりも不平不満ばかりが口から出てきてしまうのではないでしょうか。旧約聖書の中で、エジプトの奴隷生活から解放されたイスラエルの民が、あれだけ神の救いと恵みをいただいていたのに、口から出てくるのは感謝どころか、愚痴や不満ばかりでした。これから長い旅が始まる、新しい荒れ野での生活が始まる時、不安と期待がある中で「飲む水が足りない、食べるものはどこだ」と、先行きの不安が、愚痴や不満となって、それは家族や民全体に広がっていったのです。(出エジプト記 16章3-10節)
早いもので、今日は3月の最後の日曜日ですので、今年度も終わりに近づいてきました。今週からもう4月です。新しい生活が始まる人もいるかと思います。新しいクラス、新しい職場、新しい人との出会いもあるのではないでしょうか。イスラエルの民のように、これから新しい旅が始まる時の、ちょっとした不安もあると思います。まして、コロナウィルスの影響で、なおさら心が揺さぶられ、先が見えない不安があります。オリンピックも延期されてしまって、こんなことが、自分の人生の中で起こるものだろうかと考えてしまいます。しかし、思い起こしてみると9年前、東日本大震災の時も「こんなことが、自分の人生に?」という経験をしました。
私はその時にボランティアで行かせて頂いた、気仙沼の教会の嶺岸先生のことを思いだします。ご自身も被災者として仮設住宅での生活をしていた先生が、いつも「感謝です、感謝です」と、口癖のように言っていた姿を思い出します。その感謝する姿から、こちらも感謝の思いが湧いてきて、感謝が感謝を生む様子を見ていると、とても励まされました。嶺岸先生は「感謝の作り手」、感謝が湧き出て、感謝をまわりに配っていたと思います。あのような災害にあっても、自分と共にいる神様に「あなたは弱い時こそ強い方、あなたの恵みはわたしに十分です」、という御言葉を現わしているように思いました。
私たちの生活の場に、感謝の心を携えて派遣されて行きたいと思います。受ける者ではなく与える者として、喜びを作り感謝を与える者として、生活の場に仕えていきましょう。お祈りをいたします。

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派遣される恵み

2020年3月22日
和田一郎副牧師
レビ記19章1-18節
1テサロニケ5章14-15節

はじめに

先月の「灰の水曜日」から受難節に入りましたが、ちょうどこの時期に新型コロナウィルスの問題が世界を覆っています。人との接触が制限され、自宅などで多くの時間を過ごすことを求められてしまったこの時期に、私たちは神様との関係を自己吟味する時となっています。今日の聖書箇所では、パウロがテサロニケの教会の人々に対して、信仰生活の在り方を示しています。まさに私たちが自己吟味する時期に、自分達の信仰生活について、問われている御言葉だと思います。

1、「怠けている者」

14節で、パウロはまず、「怠けている者たちを戒めなさい」と、自分の仕事をしっかりとしていない人のことを戒めるように勧めています。これは二つ目のテサロニケの手紙でも、パウロは働く事について書いていて「働かざる者、食うべからず」(2テサロニケ3:10)という諺(ことわざ)にもなりました。
当時のテサロニケの信徒たちの中には、イエス・キリストの再臨によるこの世の終わりがもう近いのだから、一生懸命働く意味がないという思い人がいたようです。パウロは、ただ働いていない人に、働きなさいと戒めているのではなく、それは教会を建て上げる方向へと向かっていないということです。同じ地域に住む住人として役割を果たしてこそ、その人を通して、教会がその地域をキリストの福音で満たしていきます。
宗教改革者のルターは16世紀の当時、日常から離れた修道院生活が、神様にすべてを捧げる最高の生き方とされた時代に、そうではなく、世の中に入って働く信仰者としての意味を与えました。人はこの世の職業に就くことによって、神の召し(calling)に応えることができるという生き方です。職業は神の意思によって、一人ひとりが召された場であると受け止めたのです。この手紙を書いたパウロは、会堂で説教をしたり、手紙を書いてキリスト教に偉大な貢献した人ですが、普段は革製のテント作りをする職人でした。勤勉に働くことも、教会を建て上げて神の栄光を現わしていくことになる。あなたたちはどのように働いているだろうか、というパウロの問いかけです。

2、「気落ちしている者」

そして、「気落ちしている者たちを励ましなさい」と教えています。気落ちしている人がいるにも関わらず、それに無関心であれば、教会を建て上げることにはなりません。愛の反対語は無関心だと言われます。今、コロナウィルスによる混乱で、周りに気落ちしている人がいないだろうか、そこに目を向けているだろうかと問われます。
旧約聖書のダビデが、気落ちしている人たちに向けた態度と言葉が思い出されます。ダビデが自分の集落をアマレク人に襲われて、家族や財産を略奪された時、兵士を引き連れて取り返しに行った時の話です。たび重なる闘いで、兵士の中には疲れてついて行くことが出来ない者も出てきました。もう力が残っていない人は荷物番として残り、ダビデは体力が残っている者だけで、アマレク人を追跡し彼らを倒して、家族や財産を取り返します。そうして、戻って来た時に周りの兵士が言ったのです。途中で疲れて付いて来れなかった者は、取り返したものを受け取る資格がない。最後まで戦闘に関わった者だけで山分けしようと言ったのです。しかし、ダビデはそれを認めませんでした。
「ダビデは言った。『兄弟たちよ、主が与えてくださったものをそのようにしてはいけない。我々を守ってくださったのは主であり、襲って来たあの略奪隊を我々の手に渡されたのは主なのだ。誰がこのことについてあなたたちに同意するだろう。荷物のそばにとどまっていた者の取り分は、戦いに出て行った者の取り分と同じでなければならない。皆、同じように分け合うのだ。』この日から、これがイスラエルの掟、慣例とされ、今日に至っている」。(サムエル記30章23-25節)
ダビデは、今自分が置かれた状況は、自分で勝ち取ったものではないと言ったのです。主が与えてくださった、主が守ってくださった、それを自分だけのものにしてはならない。気落ちしている者を励ますというのは、相手を気の毒に思うのではありません。土から生まれ土に返るにすぎない、はかない存在である私たちに、神は恵みを与えてくださいました。自分の手にあるもので、神様から与えられたのではないものなどありません。賜物も時間も仕事も与えられました。私たちは、神に与えられたものを分け合うという恵みも手にしています。「兄弟たちよ、主が与えてくださったものを・・・分け合うのだ」これがイスラエルの掟、慣例となったように、気落ちしている人を励ますことを通して、与えてくださったものを分け合う、ということが自分の掟、慣例となっているだとうか、と問いかけてきます。

3、「弱い者たち」(霊的な弱さ)

また、「弱い者たちを助けなさい」と言われています。人は誰でも弱さを抱えています。ここでパウロが言う「弱い者」という意味は、病気や高齢、社会的に弱い立場の人という意味と、もう一つは霊的な弱さ、つまり信仰的にまだ成熟していない人を指しています。信仰の弱さや、病気や高齢などで、弱さを覚えるような状況は、時として信仰を成長させます。神の力は弱さの中でこそ発揮されます。イエス様は弱さの中で十字架に架かられましたが、その弱さは死に打ち勝つ勝利となりました。主は弱さの中に力を発揮させる方です。私たちは弱さの中に神の力は働かれます。「弱い者たちを助ける」のは、そこにこそ働かれる神様の力を信じること、主の力を信頼して心を寄せることが、本当の支えになるのです。

4、「忍耐強く」(パウロの経験)

「すべての人に対して忍耐強く接しなさい」という忍耐強くというのは、新改訳聖書では、「寛容でありなさい」とありました。忍耐することは寛容であることです。そして、寛容であることと、赦すことは重なります。私たちは赦されています。私たちが重ねてきた、数えきれない罪は赦されました。ですから他人のことも赦すべきです。忍耐強くあるべきです。私たちは、乗り越えられない試練は与えられないと言われていますから、そうであれば、乗り越えられないほど、赦せないことも無いのではないでしょうか。

5、悪をもって悪に報いない

「悪をもって悪に報いることのないように」というのは、イエス様の教えにもあります。
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。(マタイ福音書5章38-39)
「目には目を、歯には歯を」というのは、出エジプト記(21:23)、申命記(19:21)、またハンムラビ法典にも書かれている言葉です。しかし、やられたらやり返すといった、復讐を正当化する法律ではありません。必要以上の報復を制限するために定めたものです。しかし、イエス様の教えはそれを超えていました。相手に頬を打たれたら、さらに別の頬を向けなさいというものです。イエス様は、実際に罪がないのに十字架で処刑するという人間の悪に対して悪で報いるのではなく、自分自身を捧げて無抵抗の愛を示されました。
イエス様は、相手がしたことに応じないという選択があることを示しました。相手がしてきたことにも、相手を越えて、自分が生きているのは神の国という領域であること、天に国籍をもつものとして、神の国に立つことができるのです。イエス様は、この世では弱い者として処刑されましたが、死に打ち勝つ勝利者として復活され神の国に君臨されています。私たちも、その神の国という領域に生きることが出来ます。ガンジーやキング牧師も、非暴力という選択をして世の中を変えました。私たちは彼らのようにキリストに倣って、神の国に立つという生き方をしているでしょうか。

まとめ

今日の御言葉は、いつも私たちの礼拝の最後に派遣の言葉として用いている言葉です。
私たちの一週間は日曜日から始まります。礼拝の中で聖書の御言葉を受け取り、送り出され、一週間をそれぞれ過ごし、また日曜日に神の前に集められます。そこで一週間の罪を告白し、御言葉とともに派遣されて行く、この繰り返しの中で生きています。
いま世の中は、かつて経験したことのないウィルス感染のことで戸惑いがあります。しかし、私たちは、この礼拝から送り出される時、手ぶらで送り出されるのではありません。御言葉という確かなものを手渡されて、その御言葉に生きるように送りだされます。そのことを私たちは「派遣される」と言います。そこには恵みがあります。キリストの受難と十字架の代償として救われた者として、派遣される恵みに生きていきましょう。お祈りをいたします。

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考え直すことへの招き

松本雅弘牧師

マタイによる福音書21章28―32節

2020年3月15日

Ⅰ.単純な譬え話?

「問われていることを知らないと、信仰はよく分からない」、ある牧師がそのように語っていました。主イエスは譬え話で私たちに問いかけておられます。今日の箇所でも譬え話を語っておられます。でもとてもシンプルな話なのです。ある人に二人の息子がいた。最初に父親は兄息子ところに行き「今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と言うと「いやです」と答える。でも後で考え直し、ぶどう園に行きました。それとは知らない父親は弟息子のところへ行き同じことを言います。すると「お父さん、承知しました」と答えますが、彼は言っただけで行かなかったという譬え話です。
この話が語られたのは前回と同じ場面、祭司長や民の長老たちに語られました。そして話し終えた後、「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」と質問する。誰でも答えられる質問です。彼らも「兄のほうだ」と答えるのです。
この箇所は余りにも単純なので多くの注解者は「読めば分かる」ということで細かな解説を加えません。そうした中でも、「では一体なぜ、主イエスはこんなにも分かり易い譬え話を、敢えて語ったのか、この時の主の真意はどこにあったのか」と考える専門家もいるようです。

Ⅱ.2つの異なる写本

この関連で注目しなければならないことがあります。以前の口語訳聖書では、兄息子と弟息子が入れ替わって登場してくる点です。
口語訳では兄は最初いい返事をしますが、ぶどう園には行かない。いっぽう弟の方は「いやです」と言った後、心を変えてぶどう園に出かけていく。こうしたことが生じた理由は、それぞれの読み方を支持する2種類の写本が存在しているからです。私たちが読んでいるマタイによる福音書ですが、福音書のオリジナルのテキストは失われてしまいました。残っているのは書き写した写本です。
聖書学者たちは現存している写本を照らし合わせ、福音書の復元作業をします。現在進行形の作業です。そして何年かに一度、限りなくオリジナルに近い「底本」を完成し、各国に持ち帰り翻訳をする。そうして出来上がったのが口語訳聖書であり、新共同訳聖書であり、昨年刊行された聖書協会共同訳です。
では、そもそも異なる写本がなぜ存在するのか。一般に2つ写本がある場合、どちらを採用するかとなった時、読んで理解しやすい写本ほど誰かが書き換えた可能性が高いと学者は判断します。
今日の譬え話に限って言えば、キリスト教には初期の段階からユダヤ教に対する優越意識、反ユダヤ主義があったと言われています。初期のクリスチャンは、この兄をユダヤ人とし、自分たちクリスチャンを弟に重ね合わせて考えていたのではないか。ユダヤ人に比べ、自分たちは後から聖書の神さまを知ったわけですから弟の立場となります。
兄であるユダヤ人は神に選ばれていたにもかかわらず、いい返事はするが御心を実行しない。逆にクリスチャンは後から神の民になったという点では弟のような存在ですが、キリストを信じ洗礼を受け、「ぶどう園」に生きている。そうした図式です。この図式に従って兄と弟を書き換えてしまった。これが、現代の本文批評の世界の通説のようなのです。何でこんな話をするのか。そもそも主イエスの問いに戻ることが必要なのではないかと思うからです。

Ⅲ.神の望みに生きる

彼らが元々問われていた問いとは何か。それは「分からない」としか答えることが出来なかった問いでしょう。「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」。この問いかけを巡るやり取りがあったので、主イエスの口から今日の譬え話が語られることになりました。そのようにして今日の譬え話を読み返していく時に改めて、主が問いかけておられる言葉があるのに気づかされます。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたのか」という質問です。
父親の望みとは当然、神の望みのことです。聖書は私が願うことがあるのは当然ですが神さまが望んでおられることがあるという事実を伝えます。父なる神は何を望んでおられるのか。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたのか」と主は問いかけておられる。「神の望み/御心に生きているか」、いや、「神の望み、御心が分かるか」とそうした生き方へと招いておられます。でもそのためには全面的に神を信じ、信頼する姿勢が求められていると思うのです。

Ⅳ.神の愛を実感してほしいという願い

ここで祭司長、長老たちは正しい答えをしました。ただある牧師が語っていました。ここで彼らは、この物語が自分たちの物語だということに気づいていなかった。だから、すんなり答えてしまったと。でももし自分たちの話だと分かったならば、ここで簡単には答えられず、前回同様「分からない」と答えたかもしれない。問題はぶどう園に行くのか行かないのか。ぶどう園が意味する神の国、慈しみ深い神さまの御心の支配に、自分を委ね任せて生きるかどうか、が問われてくる。くどいようですが神の御心を信頼しない人がいます。逆に最初「いいえ」と言うけれど後になって考え直し御心に生きようとする人もいる。そうしたそれぞれの人の代表として主イエスは、「祭司長や民の長老たち」と「徴税人や娼婦たち」を比較し「徴税人や娼婦たち」のほうが「先に神の国に入るだろう」とおっしゃっています。これは大変な言葉でしょう。
徴税人とはユダヤ人からしたら裏切り者です。その徴税人と娼婦です。そうした人たちの方が神の国に入る。ただ果たして徴税人や娼婦の方が祭司長や長老たちに比べどれだけ、その行いにおいて優れていたのでしょうか。どれほど善いことをしたのでしょうか。それを解く鍵が次の主の言葉でしょう。祭司長、長老たちがせず、徴税人や娼婦たちがしたことは信じること、いや考え直して信じることでした。
「神の国に入る」、それは慈しみ深い神のご支配の中に生きるということです。神が慈しみ深いお方であることを信頼し、そのお方に身を任せてしまうことです。その結果、本当に平安を味わうことが出来る。喜びを経験できる。しかし祭司長、長老たちは主イエスによって神の国がもたらされていても、そのご支配が見えていない。ですから自分で自分を守らなければなりません。結局、常に思い煩いで心が一杯、思い通りにならない焦り、憤りが内側から込み上げてきます。でも神の守りがあるのです。そのお方がよいお方です。「その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」とパウロが語るように、神さまというお方はご自身の目の瞳のように私たちを愛しておられ、その私たちのために全てのことを相 働かせて益とするとの強いご意思と、必ず益とすることの出来る御力とを兼ね備えておられる神さまなのです。ですから大丈夫なのです。でも、この時の祭司長、長老たちは、その神を信じていない。その神さまのご支配が見えませんから、常に自分でどうにかしなければと考え、焦り、苛立つのです。
私は、この31節の主イエスの言葉を読みながら、ルカ福音書7章に登場する娼婦のことが心に浮かびました。彼女も主に招かれ「ぶどう園に行った人」の1人でしょう。ですから感謝の涙で主の足をぬらし、髪をほどいてそれをぬぐい、さらに高価な香油を塗って主への愛を表した。彼女がそれだけ主を愛するのは、主がまず彼女を愛してくださったから。彼女は心の底から赦しに現わされた主イエスの愛を実感していたのです。「徴税人や娼婦たちの方が、先に神の国に入る」のです。エリコに住む徴税人のザアカイも「ぶどう園」に招かれました。彼は喜んで主イエスを迎え、「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれからか何かだまし取っていたら、それを4倍にして返します」と言えたのです。そこでも「徴税人や娼婦たちの方が、先に神の国に入る」のです。今、私たちは新型コロナウイルス感染症拡大という、経験もしなかった出来事に遭遇し足踏みを余儀なくされています。たとえそうだとしても私たちを取り巻く確かな現実は何か。それは私たちがすでに招きに応え、神の国の中に生かされているのです。慈しみ深い神さまの愛の傘にすっぽりと包まれている。私たちを取り巻くすべての状況に先立って神に愛されている子どもとして、力強い神さまの御手のご支配の中に守られているのです。慈しみの神がいつも共にいてくださる。そのお方の御心こそが最善である。だからこそ立ち止まって考え直すことが求められるのです。
私たちは誰であり、私たちはどこにいるのか、そのことを常に心に留めたいと願います。
お祈りいたします。

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主イエスからの問いかけ

2020年3月8日
サムエル記上8章4~22節/マタイによる福音書21章23~27節
松本雅弘牧師

Ⅰ.事の発端

今日の個所を読みますと、祭司長、民の長老たちと主イエスとの間に議論が起こっています。「何の権威でこのようなことをしているのか」。
「このようなこと」とは、前日の、境内で大暴れ、「神殿きよめ」のことでしょう。「ここは私たちが管理している場所だ。勝手なことをされては困る」と言いたかったのだと思います。

Ⅱ.問いかける主イエス

その問いに対して主イエスは直接お答えにならず、一つの問いかけをなさいました。ところで祭司長たち、長老たちは問われる側ではなく常に問いただす側の人たちです。想定外の問いかけに戸惑った彼らは互いに議論を始めます。
議論を注意深く読むと、彼らが一番気にかけていたことが見えてきます。それは自分たちの面子です。ヨハネの権威のことはどうでもよい。むしろ面子が保たれ、事柄がスムーズに運ぶのかが問題だったのです。
ところで、私は洗礼入会準備会の時によく「聖書は不思議な書物だ」と話します。その不思議さの一つは聖書が持つ私たちに問いかけるてくる不思議さでしょう。
高校の時、初めて教会の礼拝に出席し、特に教会の高校生たちが自分たちとどこか違うことに心惹かれ求道生活が始まりました。その違いはどこにあるのだろう。何でイエスと言う人が神なのか等々、そうした私の側から問いがあったので通い続けることが出来たように思います。
ただ次第に分かってきたことがありました。問いをもって出席し続けている私が今度、聖書の言葉で問われてくるのです。「床を担いで歩きなさい」、「あなたはわたしを誰と言うか」。
ある牧師が語っていました。「問われていることを知らないと、信仰はよく分からない」と。私の小さな経験からもそうだと思います。問われていることを知って初めて信仰の世界が開かれてくるのです。
カンバーランド長老教会の神学者、ヒューバート・マロウ先生は、罪を犯した人に向かって神が語った「あなたはどこにいるのか」という問いかけこそ、旧新約聖書全巻を貫く神からの問いかけなのだと語っています。
「あなたはどこにいるのか」。この問いかけに気づき、振り返った時、そこに両手を広げて私たちを迎え立つ神が待っておられるのです。
ここで祭司長たち、長老たちが問われています。今まで彼らが聞いていたイエスの教え、また働き、どれもこれもが、権威ある彼らからすれば疑わしいものばかりだ、と思っていた。
そのイエスが今、自分たちのお膝元、都エルサレム、それも神殿の境内において教えています。彼らはそのイエスを問いたださずにおれなかった。ですから主イエスを尋問した。そして返ってくる答えを、正しいかどうか、権威者である自分たちが判断しようとしたのです。
ところが権威者である自分たちの質問に答える代わりに、主イエスは逆に問い返して来たのです。その結果、ああでもないこうでもないと、祭司長たち、長老たちの間に議論が始まり、議論の末に彼らが用意した答えは何かと言えば、「分からない」という答えだったのです。
先月、説教黙想セミナーに参加しました。そこで心に残る話を聞きました。日本基督教団の牧師の加藤常昭先生が、現在の日本の教会を覆う閉塞感はどこから来ているのか。それはひとえに牧師たちの説教の貧しさから来ているとおっしゃったというのです。
頭の痛い言葉でしょう。でも本当にその通りだと素直に認めざるを得ないように思いました。その話を聞きながら神学生の時に授業で聞いた言葉を思い出していました。「牧師とは、やりたいことをやる人ではなく、やるべきことをやる人だ」という言葉です。卒業後も折につけ、この者を導き守ってくれた言葉でした。
加藤先生ご自身も牧師ですから自戒を込めてお語りになったのだと思いますが、実は信徒に向けても語っておられる。「どうか信徒のみなさん、教会をイエスさまにお返しください」、そうお願いされたそうです。
先ほど「やりたいこと」と「やるべきこと」という言葉を使いましたが加藤先生に言わせるならば、それは信徒にも求められている。信仰生活において余りにも自分たちのやりたいこと、やって欲しいことばかりに思いを集中していませんか。むしろ主が皆さんに何を求めておられるのか、願っておられるのかを主に聴く必要があるのではないでしょうか。教会はイエスさまのものです。ですから、信徒に対しても語られたのだと思います。どうかまずイエスさまにお返しください。
あくまでも基準が自分なのです。自分を中心にこうあって欲しいと思う。そして何かが起これば、やはり私を基準に判断を下す。いいか悪いか判定する。仮に思い通りにならなければ、「なぜ、どうして」と子どものように問い続けます。そして最後、「分からない」とシャットアウトするのです。この時の祭司長、長老たちがそうだったのではないか。彼らが基準、権威なのです。そのようにして彼らは判断し、主イエスの問いかけに対して答えていきました。その答えが「分からない」。これが彼らの答えでした。

Ⅲ.「分からない」との答え

説教の準備をしていて新しい気づきをいただきました。マタイは、神としての権威が主イエスに現れていたことをすでに伝えているということです。
例えば山上の説教を語り終えた時の聴衆の反応をマタイは、「彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」と伝えます。
また9章の中風の人の癒しの場面で、主イエスは「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言って、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と神の権威で宣言されました。ここでは罪を赦す権威を主張され証明されたのです。
つまり主イエスの権威は山上の説教で語られたような生き方をもたらす権威であり、もう1つは、罪を取り除く権威です。このとき主イエスは神殿の境内で教えておられたのです。そして同じ権威をもって主は神殿を清められた。神殿にかかわる罪の清めも、福音に生きることの喜びを語ることも、実は、神の権威がなければなし得ないことだった。そこに居合わせていた人々は、主の御姿から感じ取ったに違いない。そして感じ取ったのならば、それを素直に受け入れればよいのです。ところが受け入れず、「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」と問いかけるのです。

Ⅳ.救いへの招き

ヨルダンの荒れ野にヨハネが登場したとき、彼が語ったのは罪の悔い改めのメッセージでした。神の民が罪を犯していることをはっきりと指摘し、生き方の転換を求めました。
あなたを探す神がおられる。神はあなたたちを探しておられるのです。「あなたはどこにいるのか」という神の呼びかけが聞こえませんか。その招きの声に応え、振り向いてごらんなさい、と神の御許に立ち返ることを求めたのです。
その招きに応じる、人間の側での具体的な行為が洗礼を受けるということでした。そしてこれは今でも変わりません。洗礼を受けるということ、それは神の権威の下にへりくだること。ヨハネはそう教えました。ですから罪人と呼ばれた人々はこぞってヨハネの前に列をなし、そしてヨハネから洗礼を受けたのです。その人々の殆どは権威なき人々でした。でも当時、自分に権威あると思っていた人たちはどうしたでしょうか。彼らは並ばなかったのです。指導者たちは動かなかった。神の権威を認めれば、自分の権威が相対化され、今まで通りの生活ができなくなるからです。言葉には出しませんが、「分からない」という立場、態度決定を保留するのです。
主イエスの権威は洗礼者ヨハネの権威と密接な関係がありました。ヨハネは主イエスを指さし、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)と、主イエスこそが、「来るべき方」であることを証ししました。ですからヨハネの権威を認めるということは、まさに主イエスこそが神から遣わされた者として受け入れることでもあったのです。
神からの、この大切な問いかけに、彼らは「分からない」と答えました。苦し紛れの回答です。その結果、最後どうにも逃げ場がなくなっていく。そして〈このイエスを殺すほかない〉。それが言葉にならない、でも心に抱いた結論だったのではないでしょうか。
主イエスこそ私たちに問いかけ、私たちを審くことの権威を持たれたお方です。でもそこに留まることをなさらず、同じ権威をもってさらに道を行かれる。その解決の道が罪人を滅ぼすことによってではなく、十字架の贖いの死によって審かれてもしょうがない私たち罪人を生かすことにおいてなのです。お祈りいたします。

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主日共同の礼拝説教

実を結ぶ生き方を求めて

2020年3月1日
松本雅弘牧師
申命記10章12節~11章1節/マタイによる福音書21章18~22節

Ⅰ.実のないいちじくの木

新型コロナウイルスの脅威の中、私たちは不安のうちに今日、主の御前に集ってまいりました。本日は3月の第一主日で聖餐式が行われる礼拝です。しかし私たちの側の出来ることを徹底するということで、今日は聖餐式の取りやめを決定しました。今日は聖餐式にあずかれることを期待してこられた、それに向けて1週間備えてこられた兄弟姉妹に対して、ほんとうに申し訳なく思います。そのような意味で、本日は、主イエスの十字架での贖いを指し示すパンとぶどう液をいただきませんが、主イエスご自身が、「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って調べているが、聖書はわたしについて証しをするものだ」とおっしゃった、そのキリストを指し示す聖書の言葉を通して、主ご自身が、ご自身を私たちの目の前にはっきりと、そして鮮やかに表してくださるように、祈りつつ、今日の御言葉に心を向けていきたいと思います。そのようにして、今朝の御言葉を読み始めますと、とても難しい箇所です。愛に満ちておられる主イエスの御姿が見えないからです。代わりに何か理不尽で、失望させられるような主の御姿がここにあるからです。R・T・フランスの註解書には「この話自体に多くの価値を見いだせる者はほとんどおらず、実際、多くの者が、その破壊性と、つまらない失念深さにさえ見えるものに当惑してきた」とありました。その問題となっている箇所が18、19節です。「朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、『今から後いつまでも、お前には実がならないように』と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった」。同じ出来事を記すマルコ福音書には、「いちじくの季節ではなかったからである」と書かれています。躓きを覚える主イエスの言動です。
この場面、過越祭の最中です。都エルサレムは巡礼の人々でごったがえしていました。神殿の境内に入ると何かに取りつかれたかのように売り買いをしていた人々を追い出すわ、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返すわ、一種異様な行動をとられたのです。主イエスの瞳に大勢の人々で賑わう神殿、いや都エルサレムを埋め尽くす神の民であるイスラエルの人々の姿はどう映っていたのでしょう。葉ばかりで実をならせないいちじくの木と同じような姿に映っていたのではないでしょうか。神の民と呼ばれるだけの内実の伴っていないイスラエルの人々の姿が主の眼前に現れていたのではないでしょうか。

Ⅱ.主イエスによって演じられたたとえ話

ただ、そうは言っても主イエスはなぜ、ここまでラディカルな行動、木を枯らせてしまうという異常なまでの行動をおとりになったのでしょう。静まって思いめぐらすときに、主イエスの優しいお顔は思い浮かびません。ある種の切迫感に満ちたお顔なのです。3年の公生涯を歩んでこられました。弟子たちを育て宣教に心血注いで来られたのです。でも「神の民」と呼ばれるイスラエルの民は福音を受け入れない。そして数日にしたら十字架が待っているのです。「今、主イエスの地上の生涯の清算の時が来た」とある牧師は語っていました。
この出来事は、主イエスによって「演じられたたとえ話」なのだ、ある学者が語っていることを知りました。目を覚まして欲しかった。自分たちの足元に気づいて欲しい。公生涯の8割の時間を主は弟子たちと共に過ごされた、割かれたと言われます。寝食を共にし、ご自身の心血を注いで教え育てて来た弟子たちすら分かっていない。気づいて欲しい。目を覚まして欲しいのです。ですから、とても衝撃的なショッキングな仕方で、彼らの目の前において、そのメッセージを「演じて」見せられたのではないかというのです。

Ⅲ.自らが呪われる者となって

主イエスは、いちじくの木を枯らせてしまわれました。「今から後いつまでも、お前には実がないように」と、主イエスとしては珍しい、呪いの言葉をかけられたのです。先週、中会主催の灰の水曜日の祈祷会が行われました。礼拝の最後に「希望される方は前に出てきてください」と招かれ、司式者の前に並び、番になると「あなたは地の塵から取られたのだから土に帰ることを忘れてはならない」と言いながら、私たちの額に墨で十字架を書くのです。私もひんやりとした墨の感覚と共に、その言葉を聞きながらアダムに対して宣告された主なる神の言葉、「塵にすぎないお前は塵に返る」という言葉が心に思い浮かんだのです。ある種の呪いともとれる言葉です。
主イエスは木に向かって呪いの言葉をかけられた。でもよくよく考えるならば、それはいちじくの木だけの問題ではない、当時のイスラエルの人々、私たちの含め、人間なら誰もがそうでしょう。枯らされても不思議はない存在です。「塵にすぎないお前は塵に返る」、この言葉を身に帯びて生きている。しかし主はそうした私たちが朽ちていくのをよしとはなさらなかった。そうした私たちをご覧になり、私たちの呪いを自らが受け自ら呪われる者となった。それが十字架なのです。
パウロは次のように語ります。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13)。
数日後、主イエスは木にかけられ、呪われた者となります。塵に過ぎない私たち人間が身に帯びなくてはいけない呪いをすべて身に引き受け、私たちを生かすためです。呪いから最も遠い、公生涯の最初に「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という父なる神からの祝福をもって歩み出されたお方。祝福を受けるのに最もふさわしい存在が主イエスでしょう。でも、そのお方に相応しくない呪いを一手に引き受けて死ぬ道を取られる。それが十字架への道です。ここに主イエスの私たちへの愛が現わされるのです。

Ⅳ.創造主なるお方としての権威をもって

これを目撃した弟子たちは驚きました。ひとこと発しただけで、一瞬で木を枯らす。彼らが驚いたのは出来事自体は勿論、そうした力を持たれた主イエスです。
神が「語ったら、必ず語られた通りの出来事となる」(イザヤ55:11)。そうした力と権威のある言葉を主イエスはここで発せられた。それはとりもなおさず、主イエスが神だということなのです。生かすことも殺すこともお出来になる、いのちの主なる神なのです。そして主は次のようなチャレンジをなさったのです。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも与えられる。」
「山を移す」とはユダヤ教のラビたちが使った表現だそうです。とても難しいことを解釈し、不可能に思えることでもやってしまう人を指す時に使われました。このとき「山を動かす」と言われたのは木を枯らせるよりももっと難しいことという意味でしょう。言葉をもって木を枯らすお方、発した言葉を出来事とするお方、主イエスは神なるお方、もしそうだとするならば、今、目の前で見せたように、いのちを取り去り、木を枯らせてしまうことがおできになるだけではなく、その正反対のこと、すなわち、枯れてしまった木を元通りに再生する、死んだものを生き返らせることがお出来になる方である。あなたたちはそれを信じるか、と問われているのではないでしょうか。
パウロは次のように語ります。「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」(コロサイ1:16)。パウロによれば、御子も父なる神と共に天地創造に参与したお方。御子イエス・キリストも創造主であり、父なる神と同じ権威と力をもっておられる、という信仰の告白です。
山を造られる方であれば、山を動かすこともできる。いのちを創造された方だから、生き返らせることもできる。呪いを取り去り、祝福をもたらすことも可能なのです。だだ、そのためには大きな代償が必要でした。人間が身に負っている呪いを取り去る必要がありました。主なるイエス・キリストは、その代償を払ってまでも、「塵にすぎないお前は塵に返る」存在に過ぎない人を生き返らせ、まことの命に与る道を開こうとなさったのです。それが十字架、そしてそれに続く復活なのです。お祈りいたします。