カテゴリー
主日共同の礼拝説教

霊の火


和田一郎副牧師
詩編51編12-19節,1テサロニケ5章19-22節

2020年4月26日

1、「霊の火」

ここ数日、インターネットで礼拝や祈祷会を見ているという声を聞いて、とても励まされました。しかも、普段はパソコンを使わないのだけれど、礼拝の動画を見る為に、ご家族に手伝ってもらってインターネット礼拝をしているそうです。そのようにしてでも、礼拝に与かりたいと思わされる時、それは聖霊が働いているといえます。パウロは今日の聖書箇所で「霊の火を消してはいけない」と言っています。聖霊の働きというのは、炎のように激しく燃える時もあれば、ロウソクのともし火のように弱々しい時もあります。
聖霊の炎を消してしまわないように、その働きが失われてしまわないようにしなければなりません。

2、「預言を軽んじてはいけない」

そのために必要なことが、次の20節の「預言を軽んじてはなりません」ということです。つまり、礼拝の説教のことで、聖霊の火を消さないように説教を軽んじてはならないと言うのです。説教者は、神様の御言葉を預かることでメッセージを告げます。そして、聞く者は、礼拝のメッセージを神の言葉として受け取ります。もし、説教者がメッセージを自分の知恵で語ろうとしたり、聞く者もメッセージを選り好みして聞こうとするなら、それは、パウロが指摘するように「預言を軽んじて」いるということになります。パウロは、この手紙の2章でも説教について話しています。
「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」。(テサロニケの手紙2章13節)
パウロの言葉を、人の言葉としてではなく神の言葉として受け入れた。だから、言葉はあなたがたの中で働いているというのです。パウロは説教者です。パウロは自分の言葉を、一人の人間として語りかけますが、しかし、神の言葉として聞かれることを願って語っています。聞いた人々が、パウロのメッセージを神の言葉として受け取ることで、言葉がその人の中で生きて働くからです。実際に、パウロの言葉を神の言葉として信じたことで、テサロニケに教会が生れました。言葉が生きていたからです。しかし、パウロは自分の言葉の力を誇りませんでした。パウロによって教会が設立されたのに、誇ることがなかったのです。それは神が働いてくださったからです。言葉によって人が救われる、そして教会が建てられる。その出来事は聖霊なる神が成してくださいます。聖霊が働かれると、神の言葉が成されていきます。説教者というのは、そのために用いられるのです。聞く者も、説教を神が自分に語られていることとして聞く時、言葉が自分の中で動きはじめます。「預言を軽んじてはいけない」とは、言うなれば、生きた炎のような神の御言葉を、人の知恵で消してはいけない。自分の中でも言葉が生きて働くようにしなさい。と、求めているのです。

3、「すべてのことを吟味して、良いものと悪いものを識別する」

これは、次の21-22節とも関係してきます。「すべてを吟味して、良いもの悪いものを識別しなさい」というのは、この手紙の流れからすると、二つの意味があると思います。一つは礼拝の説教について、もう一つは信仰生活全般について問われることです。
礼拝の説教については、パウロが手紙を書いた当時の教会には偽預言者と呼ばれる人が
「キリストの復活などなかった」とか「キリストは一人の人間に過ぎない」といった間違った教えを広めていた人達がいました。そういった異端の教えは今もあります。異端とまでいかなくても、私たちの中に、聖書の御言葉を昔話や他人事のように受け取っているところがあります。しかし、聖書の言葉は生きて私たち一人一人に問いかけています。私を知り、私に問いかける神の言葉です。もし、自分に都合のよい解釈をするのであれば、それは、悪いのもとして遠ざけなければならないものです。
そして、パウロはクリスチャンが社会で生きる者として、信仰生活全般についてしっかり吟味して識別することを指摘しています。特に今、コロナウイルスの影響によって、世界的な危機感が生活を覆っている時に、問われていることがあるのではないでしょうか。学校は休校、在宅でのテレワーク。外出を自粛する期間が続いて子どもも、大人もストレスが増しています。

4、どこに目を向けるのか

大切なことは「聖霊の火を消さないように」ということです。コロナウイルスの影響の中にあっても、聖霊の働きを消さないで、神様との繋がりの大切さを思わされます。しかし、それと反対に、神と人との繋がりを、何とか打ち消そうとするのがサタンの働きです。サタンは巧妙です。もっともらしい言葉や、心のスキをついて、人間を教会や神様から離そうとするのがサタンです。
『悪魔の格言』という本を書いた水谷潔先生が、サタンたちが新型コロナウイルスについて語っているという、ユニークな話をネットで投稿していました。その話は、二人のサタンの会話です。
「このコロナウイルスは、我々サタンにとっては追い風だ。一同に会して礼拝をしなくなった教会は困っていて嬉しいぞ。もしライブハウスみたいに、教会でクラスターが発生すれば地域との信頼は破たんだし、終息後も教会の活動に戻らない事を期待しちゃうな。集会の中止や再開の判断を巡って教会内の人間関係が険悪になることも期待できるな。しかし、ちょっとまてよ。過去の歴史を見ても、迫害や試練の中にある時こそ、教会は力を発揮してきたから、それは心配だ。礼拝中止を機会に、クリスチャンたちが礼拝の恵み、意味、目的に目覚めるとも限らない。コロナ終息後に、礼拝を義務感じゃなくて、喜んで命あふれる礼拝になってしまったらどうしよう。コロナウイルスは教会にとって、ピンチのようでチャンスになってしまう。サタンにとってはチャンスのようでピンチだ。それじゃあ、チャンスとピンチを分けるものはなんだろう? それは、クリスチャンたちが「どこに目を向けるか」だろうな。だから、サタンとしては神ではなく、目に見えるものにくぎ付けにしてやるんだ。例えば、感染が発生した時の責任リスク、礼拝人数の減少、献金の激減、問題処理に目を向けさせて、神を想定外においてもらおう。そのためには、サタンの得意技「目くらまし」だ。神の恵みが、まるで存在しないかのように目を眩ませるのだ。試練の時にこそ向けるべき、神への視線を、試練そのものへと向けさせるのだ」
という、二人のサタンの会話です。とても、ユニークでリアルで核心をついた会話だと思いました。核心というのはクリスチャンたちが「どこに目を向けるか」という箇所です。サタンの得意技「目くらまし」とは、わたしたちが本来、目を向けなければならない、神の臨在や愛や恵みが、まるで存在していないかのようにして、試練や問題そのものに目を向けてしまうことです。
わたし達は、神様を信じるようになってから、問題が一切無くなったということはないと思います。クリスチャンでも苦労はいつもついてまわります。しかし、問題が問題ではなく、起こった問題に目を向けてしまうのが問題です。神の変わらぬ愛、今もそして、地上の生涯が終わった後も続く永遠の命、それは、目には見えません。しかし、御言葉によって神の愛に心をよせる時「主が共にいてくださる」ということが分かってきます。
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」(ヨハネ福音書15章4節)。目には見えない神様の、「愛」というぶどうの木にとどまる時、主が共にいてくださり、「平安」という実を結ぶのです。

5、「良いものを大事にする」

今日の聖書箇所で、パウロは、「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい」と言いました。「悪いものから遠ざかりなさい」とも言いました。問題に目を向けるのではなく、目には見えない、神の愛、永遠の命、ぶどうの木なるキリストを、良いものとして大事にしていきたいと思うのです。聖霊の火を消すことなく、コロナウイルスに、優しさと思いやりで対抗していきましょう。主イエス・キリストは、私たちを霊なる家族、神の家族とするために、ご自分も苦難に耐えて命を犠牲にしてくださいました。ご自分が十字架に架かられても、聖霊によって私たちが互いに愛することを祈っています。この愛に目を向けていきましょう。お祈りをします。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

婚宴に招かれて

松本雅弘牧師
マタイによる福音書22章1―14節
2020年4月19日

Ⅰ.はじめに

都エルサレムに入城された主イエスは翌日、神殿の境内に入り教えられました。そして「何の権威でこのようなことをしているのか」と主イエスに詰め寄った祭司長たち、長老たちに対し次々と譬えをお語りになりました。今日の個所は3つ目の「婚宴のたとえ」です。

Ⅱ.婚宴にたとえられている天の国

主イエスは「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」と語り始めます。主イエスが教える「天の国」、マタイ以外の福音書では「神の国」という言葉が使われていますが、これは死んだ後に行く所というよりはむしろ、宣教の最初から「悔い改めよ。天の国は近づいた」と教えた、今、すでに訪れている、王なる神のご支配という意味での「天の国」を意味しています。そうした天の国は王子の結婚のために王国が開く祝宴のようなものだとおっしゃるのです。しかし、その最高の祝いの席に御呼ばれしながらも人々は「来ようとしなかった」のです。家来たちの招き方に問題があったと考えたのでしょうか。王は別の家来たちを集め、わざわざ招く際の言葉までも伝えたうえで遣わすのです。王自身の熱い思いが伝わって来ます。ところが結果は無残。招かれた人は誰も来ようとしません。色々なことを考えたのでしょう。仕事をしたほうが得だと考えたのです。
また中には招きに応じないどころか、王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺す人までいたのです。最初彼らも王が送った家来の話を聞いたことでしょう。家来たちは王の熱い思いを知っていましたから一生懸命に心を込め丁寧に「すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください」と王から聞いたそのままの言葉を「王様からの声」として伝えたことでしょう。しかしそれを「うるさい」と感じたのです。煩わしく耳障り、いい迷惑だと感じたのだと思います。招かれた人々は「さあ、婚宴においでください」という、その声を消すために、声を発する家来たちを捕まえ消してしまう。それはキリストの十字架そのものでした。
なぜ主イエスは殺されたのか。それは主イエスが、「さあ、婚宴においでください」と神の招きを伝えたから、神の言葉を語ったからです。その神の言葉は私たちを救いに導く「よき知らせ」、福音です。招かれた側は、その招きに応じるべきでしょう。「本当にありがとうございます」と知らせてくれたお方の手を握り、心からの感謝をもって応えてもいいはずです。でもそうしないのです。なぜなら招きに応じるならば、自分の生き方を変えなければならないことに感づいているからです。ですから、その声が聞こえないように、その声を殺そうとしたのではないか。それほどまでに、私たちは自分の生き方を変えたくないのです。
では、王様はどうしたでしょうか。「王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」とあります。ただ大切なことは、主イエスはここで譬え話を締めくくってはおられない。この譬えには次のような続きがあります。「そして家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』」
人々は招きに応じてこなかった。婚宴は準備万端整っている。そこで王は何をしたか。何と家来たちに命じ、「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」ということでした。これは驚きです!「町の大通り」という言葉は聖書協会共同訳では「四つ辻」と訳していました。要は、「境目/ボーダー」のことです。エルサレムという都の境目、もっと言うならばユダヤの人々の国と、その外に生きている異邦人、神さまを信じていない人々が住んでいる国々との境目を意味する言葉です。その所に立って婚宴に招くように、それも、「見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」というわけですから、いわば、「片っ端から誰でもいい。連れて来なさい」という命令です。
考えてみますと、そうした国と国との境目に立って、「だれでも婚宴に連れて来なさい」ということは、それまでユダヤ人に限定されていた招きが、すべての人に及ぶようになったことを意味するでしょう。しかも招かれた人たちは善人も悪人も皆招かれた。そこには善人と悪人の区別すらありません。そう言えば、主イエスは山上の説教で、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせる」(マタイ5:45)と父なる神さまのことを、そう教えてくださいました。まさにその通り、ユダヤ人異邦人の区別なく、神さまを信じている人、そうでない人もみんな区別なしに婚宴に招かれたのです。何という懐の深さ、気前の良さ、と思います。
ところで、ここで一つ引っかかる言葉があります。それは8節に出てくる「ふさわしくなかった」という言葉です。「婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」。つまり最初に招いた人々はふさわしくなかったのです。では招かれるに値する「ふさわしさ」の基準って何だったのでしょう?例えば「婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、」と次に続く言葉は普通でしたら、「ふさわしい人を探して連れて来なさい」となるはずだと考えます。ところが主イエスは、「招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、誰でもよいから片っ端から呼んで来なさい」とおっしゃる。ここで王様にたとえられている神さまの心のうちにある「ふさわしさ」の基準が、正直、よく分からないのです。何故なら、町の大通りに出て、見かけた者誰もがふさわしいが、一方、最初に招待されていた人たちはふさわしくなかった、ということですから。
ちなみに、この「ふさわしい」というギリシャ語、その根本的な意味は「重み」という意味だそうです。秤で測る重さ、値打ちのことです。婚宴の席には「善人も悪人も皆集まって来た」わけで、悪人にさえも、婚宴に招かれるにふさわしい重みがあった、それはいったい、どういうことか、と考えてしまうのです。皆さん、いかがでしょうか。
結論から言いますと、それを解く鍵が11節の「礼服」にあるように思うのです。

Ⅲ.ふさわしさとしての礼服としてのキリスト

11節からの箇所です。いざ王様が婚宴の会場にやって来ました。そうしますと、そこに礼服を着ていない人が一人いた。その人を見つけた王様は12節。「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」と質問し、そして13節。側近の者たちに命じて、彼を外に出してしまいました。「礼服を着ていたかどうか」がポイントだったということでしょう。ただ1つだけ疑問が残ります。元々この人は通りがかりの人です。彼が礼服を持ち合わせていること自体が不自然、また王様が礼服の着用を求めること自体が理不尽でしょう。ただ、調べて分かったことがありました。当時の習慣では権力のある者が人を招待する場合、客たちのために礼服まで用意したのだそうです。だとすれば「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」との問いかけは「あなたのために私が用意した礼服をどこにやったのか」と言った問いかけであったとも考えられるのです。
ここで主イエスが語っておられることは神さまの招きです。私たちが招かれるために神さまは何をしてくださるのか。もっと言えば、神の御前に出る時、私たちの側で用意できる礼服は一着もないということです。使徒パウロは「主イエス・キリストを着なさい」(口語訳ローマ13:14)」と語っています。キリストが礼服なのです。父なる神が自らの手で、私たちのために用意し、装わせてくださる礼服、それはイエス・キリスト以外にない。

Ⅳ.すでに私たちは招かれている

私たちは通りすがりに招かれた者のように、私の側に「ふさわしさ」は何もありません。まさにキリストの体なる教会につながる私たちは皆、王子である主イエス・キリストご自身がわざわざ大通りに出て招いてくださり、そのお方ご自身が、シミも傷もない義の「礼服」として、私を覆い隠し、私の救いとなって装ってくださる。私たちは、このキリストご自身という礼服をいただき、神さまの祝宴、恵み深い神さまのご支配の中に今日も生かされているのです。私たちは、今、どこにいて、そしてどのような者とされているのか、そのことを覚えつつ、この1週間、歩んでまいりましょう。お祈りします。

カテゴリー
イースター礼拝 主日共同の礼拝説教

復活の主イエスに出会った最初の人

松本雅弘牧師
ヨハネによる福音書20章11―18節
2020年4月12日

Ⅰ.週の初めの日に起こった出来事

主イエスが、「渇く!」と言われ、「成し遂げられた!」とおっしゃって、十字架の上で息を引き取られたのは金曜日の午後三時頃でした。翌日の安息日が明けた翌朝、朝早く、まだ暗いうちにマリアが墓に向かいました。すると墓を塞いでいた石が取り除けられていたのです。彼女は急いで引き返し、再びペトロとヨハネとで墓に向かうのです。確かにマリアの言った通り、ペトロもヨハネも全く理解せずに、同時に怖れと驚きで心満たされながら仲間の弟子たちのところに戻ったのです。しかしマリアは残り、墓の外に立って泣いていました。

Ⅱ.マグダラのマリア

さて福音書はマリアを「マグダラのマリア」と紹介しています。「マグダラ」とはガリラヤ湖の西岸にある町の名です。そこは商業都市に通じる主要道路が通っていて、いかがわしい歓楽街としても有名な町でした。ですから当時「マグダラ」という地名にはよくないイメージが込められていたと言われます。マグダラのマリアは主イエスによって7つの霊を追い出していただいた女性でした。その7つの霊のために多くの問題を抱え、悩み、打ちひしがれ、絶望的な人生を送っていたのがマリアです。そのマリアがイエスさまと出会い生まれ変わったのです。「多く赦された者は、多く愛するようになる」と主は言われましたが、まさにマリアは多く愛されたことを実感したが故に、他の誰にも勝って主イエスを多く愛する弟子として、この時まで従い続けてきたのです。そのマリアが泣いている。自らの人生に革命をもたらしたお方が、三日前に死んでしまったからです。
さて泣きながら身をかがめ中を覗いてみると白い衣を着た2人の天使が座っていて「婦人よ、なぜ泣いているのか」と尋ねたと書かれています。彼女は訴えるようにして答えます。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
この時のマリアにとって、こんなやり取りはどうでもよかったにちがいない。ですから彼女の方から会話を中断します。目の前にポッカリ口を空けた墓も、そこには「想い出」はあっても、生きる希望、生きる力はない、絶望のどん底なのです。

Ⅲ.復活が信じられなかったマリア

さて今日は主イエスの復活を祝うイースター礼拝です。でも聖書を見ますと、マリアをはじめ誰一人として、主イエスが復活することを期待していなかったことが分かるのです。そんなマリアの背後から声がしました。墓を覗くことをやめて後ろを振り返ると、そこにイエス・キリストが立っておられた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と訊かれます。でも気づいていないのです。アリマタヤのヨセフの園を預かる番人だと勘違いしています。消えてしまったイエスさまの遺体を取り戻したい。そして大変皮肉なのですが、一番求めている、そのお方、復活の主が目の前におられるのに、彼女が問題にしているのは、主の亡骸、生ける主ご自身ではなくて、あくまでも「遺体」のことだったのです。
でもその人から、「マリア」と呼ばれた時、その語りかけによって彼女の心の目が開かれていきます。いつも礼拝の中で、聖書朗読の前に「照明を求める祈り」を祈りますが、私たちは神さまに心を開いていただかなければ、暗い心を照らしてくださらなければ、自分でキリストを見ようとしても見ることはできないからです。語り掛けてくださったお方が、主イエスだと分かったマリアは、「ラボニ/先生」と応答したのです。きっといつもマリアが主をお呼びするときの呼びかけ方だったにちがいない。即座に主だと分かって、足に縋りついたマリアに対して、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と、優しい語りかけだったと思います。

Ⅳ.「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」

ところで「わたしにすがりつくのはよしなさい」との言葉に対し、いつも腑に落ちない思いを持っていました。と言いますのは、この後、主イエスはトマスに向かって、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と触れるように、さわるようにと促しています。マタイ福音書にも復活の主に出会った女性たちがその足を抱いたことが出てきます。でも何でマリアに対してだけは、「わたしにすがりつくのはよしなさい」とおっしゃったのでしょうか。「すがりつく」という言葉を調べますと、単に触るとか、確かめるために触れるということではなく、「対象物を失わないで、所有し続けることを願って、それを捕まえている」という意味のある言葉であることが分かりました。主イエスの墓が空になって遺体が行方不明。主イエスとの絆の最後の証しでした遺体が失われてしまった。ちょうどその時、「マリア」と語りかけられ、そのお方が、主イエスだと分かったのです。ですから、「もう決して離しません」と言わんばかりに、しっかり摑まえ離さないのです。主イエスと弟子たちのお世話をしながら、宣教旅行を一緒にしてきたのでしょう。一緒に語り、共に食事をし、御言葉の説き明かしをしてくださった。そうした主イエスとの交わり、前と同じような主イエスとの関わりを、もう決して失いたくないと思って、一瞬のうちにそう決意したのだと思います。そのマリアに対し、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と、主イエスは言われたのです。実はその理由が、その後の17節の主イエスの言葉に出てきます。「イエスは言われた。『わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」と』。」ここで主イエスが繰り返し語っていることは、「父のもとへ上る」ということでした。だからすがりつくのは止めなさいと言われたのです。
信仰告白の言葉を使うならば、「昇天」です。主イエスが復活されたのは、天に昇るためであった。決して地上の生活に戻るためではない。父なる神の許に昇って行くための復活です。宗教改革者のカルヴァンが「キリストの復活は、主イエスが天にのぼり、父なる神の右に座したもう時まで、十分で完全ではなかった」と語るのは、そうした理由からです。
そういえば、この日の4日前、十字架の前夜、最後の晩餐の席上で、主イエスは弟子たちにお話されました。「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(16:7)。この約束を実現するために自分は、この復活の体をもって昇天していく。確かに肉眼で私の姿を見ることはできなくなる。でも、「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」。つまり、遥かに勝る恵みの現実を見るように、味わうようにと、主イエスはマリアに対し、そして私たちに対してしっかりと語られた。それはイエスの霊である聖霊が注がれるという現実です。父なる神さまの右の座にお着きのキリストご自身が聖霊によって教会の生命そのものとして、私たちの交わりの只中に今も生きて働いておられること。私たち教会と共にいてくださり、教会を生かし、御言葉を悟らせ、御言葉によって養い育て、教会を守り導いてくださる。私たちは、マリアのような誤りを犯しがちです。でも主イエスは復活され、天に昇り、そして約束どおり弁護者/助け主である聖霊を送ってくださった。そのことによりマリアが味わった、弟子たちが経験した、地上での主にある交わりよりもはるかに親しい交わりの中に私たちを置いていてくださっている。
先週の70年史の原稿を新教出版社に届けました。私は作業に携わらせていただき、神さまの私たちに対する熱い情熱を強く感じたことです。高座教会の歴史を振り返ると様々な課題がありました。現在もそうです。そして今、教会はコロナウイルスによるパンデミックという嵐の中に置かれている。でも、聖霊において主イエス・キリストが共にいてくださるのです。教会の歴史を振り返るとどんなときにも聖霊が教会に、私たち一人ひとりのうちにおられ働きを始めてくださった。そのお方はその働きを必ず完成してくださる。昇天の時、主イエスは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されました。どこにあっても、どんなときも主イエスと離れることはない。私たちと共にいてくださる。その恵みに支えられて、復活の主イエスを心から賛美しようではありませんか。お祈りします。

カテゴリー
祈祷会

十字架の死

ヨハネによる福音書19章16節後半−30節
宮城献副牧師

1. 十字架の彼ら

 

今日は、キリストが十字架にかけられ、亡くられたことを覚える受難日です。教会にとって、大切な一日です。そして、キリストの死を覚えるために、高座教会でも、歴史の教会に倣って、講壇や聖餐卓の上を、受難日は、黒の布で覆っています。今年は、ともに礼拝堂に集まることが出来ませんが、実際の礼拝堂では、黒の布で覆いました。
確かに、私たちは、今、ともに、私たちのその身をもって、礼拝堂に集まることは出来ません。だから、礼拝堂の様子が変わろうとも、だから、どうしたのだと思うかもしれません。そして、何より、私たちは、今、日常と違った日々を送らなければなりません。ですので、この先行きが見えない中、この後、世界はどうなってしまうのかと不安に思ってしまいます。
でも、そのような中で、今、立ち止まって覚えたいことは、昨年と同じように、今日も、高座教会の礼拝堂を黒の布が覆っています。そして、今、この教会に連なるお一人おひとりが、それぞれの場所で、ともに心を合わせて、キリストの十字架を覚えているのです。私たちは、たとえ、その肉体が離れていようとも、主の十字架を見あげることで、一つになれるのです。そして、それは、高座教会だけのことでもありません。今、この病で、全世界が分断されてしまいました。でも、全世界の教会が、今日、ともに、主の十字架を見あげます。私たちは、十字架にあって一つなのです。この十字架の慰めを覚えながら、今日のみ言葉をともに聞いていきましょう。
19章16節以降では、まず、具体的な人が出てこないことに気づかされます。他の福音書では、イエス様の代わりに十字架を背負ったキレネ人のシモンが登場しますが、ヨハネでは、出てきません。また、16節では、イエス様を十字架に架けるために引き取った「彼ら」、18節でも、イエス様を十字架につけた「彼ら」とあって名前は記されていません。さらに、他の福音書では、イエス様とともに十字架に架かった二人は、強盗と紹介されていますが、ヨハネでは、「他の二人」とだけ記されています。
では、なぜイエス様の十字架に関わった人たちが、このように簡潔に語られているのでしょうか。それは、ヨハネの強調点が、イエス様の十字架は、具体的な誰だれ、ということではなく、全ての人が関わる問題なのだ、ということにあります。イエス様の十字架は、ユダヤ人だけではなく、また、ローマ人だけではなく、祭司だけによるものでもなく、ピラトだけによるものでもなく、全ての人が関わる出来事なのだということです。そして、それは、今、このみ言葉を聞く、私たちにも関わる出来事だ、ということでもあります。

2. 兵士と女性

 

そして、このヨハネの強調点に立って、今日は、23節以降も捉えていきたいと思います。確かに、23節以降、十字架に関わった人々の具体的な輪郭が示されていきます。ヨハネは、十字架のもとにいる二つのグループを描いているのです。ヨハネは、印象的に、四人の兵士と、四人の女性を記しています。けれど、十字架の前にいる彼らの姿を見ていきますと、彼らを通して、不思議と、私たちも、キリストの十字架の前に立たされていることを覚えるのです。
兵士たちは、イエス様を十字架に架けた後、イエス様の服をむしり取り、それを四等分に分けた、というのです。世界の救い主が、今、十字架で死のうとしている。そんなことは自分に関係ない。衣服を奪い取り、私腹を肥やすことにしか関心が無い。十字架を前にした哀しい人間のあり様です。
でも、彼らだけではないのです。今日は、主の十字架を見あげる受難日です。でも、それにも関わらず、自分のことにしか関心が持てない、自分の生活のことしか考えられない。確かに、今、私たちは不安で押しつぶされてしまいそうです。でも、それでも、彼らの姿を通して、私も今、十字架の主の苦しみから目を離しているのではないかと問われます。
一方、ヨハネは、十字架の前で、十字架を見つめ続けた、四人の女性たちを描いています。もちろん、ここで、イエス様の愛する弟子、このヨハネ福音書を記したヨハネ自身ではないかと言われていますが、一人の男性の弟子も登場します。でも、他の男性の弟子たちは、一人もいません。そして、ここで、四人の兵士と四人の女性が対になっているように、十字架を見あげ続けた「女性」に焦点が向けられています。今この様な中でも、十字架を見上げる続けるご婦人たちの敬虔な姿を、私は思わされます。
また、その中で、イエス様は、母であるマリアに対して、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です。」(26節)さらに、イエス様は、愛する弟子に向かって、「見なさい。あなたの母です。」(27節b)とおっしゃられました。そして、27節の最後で、「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(27節c)とあります。残される年老いた母を思い、信頼に置く弟子に、その母の世話を託した、イエス様の愛が麗しく描かれています。
ただ、今日は、そのようなイエス様の愛の姿に視点を向けるだけではなく、主の十字架を通して、この出来事を覚えたいのです。イエス様と母マリアとのやり取りは、ヨハネの福音書では、まず、カナの婚礼で描かれています。イエス様が、結婚式の中で、水をぶどう酒に変えられた奇跡の場面です。せっかくですので、その一節を開きたいと思います。2章4節です。新約聖書の165頁です。お手元に聖書がある方は、ぜひお開き下さい。ヨハネによる福音書2章4節、新約聖書の165頁です。お手元に無い方は、私が、ゆっくり読みますので、どうぞお聞き下さい。お読みします。

イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

ぶどう酒が無くなって困る、母マリアに対して、イエス様は、素気ない態度を取られているなと思わされます。でも、今日の箇所と重ねて読んでいきますと、気づかされることがあります。2章4節では、「わたしの時がまだ来てい」ない、とイエス様は、おっしゃられていますが、その時とは、十字架の時です。そして、その時が来たら、新しいかかわりが生まれる。それは、十字架によって、神の家族が生み出される、ということです。マリアは、十字架の前で、愛する弟子のヨハネと神の家族になったのです。
そして、これは、マリアとヨハネだけのことではありません。十字架の前に集う私たちは、もともとこの世での繋がりはありませんでした。けれど、キリストの十字架の御前で、私たちは、教会という神の家族が与えられたのです。
では、私たちを一つにする十字架とは、どういったことを意味しているのでしょうか。

3. 究極的な愛の実現

 

30節にありますように、十字架上で、最後、イエス様は「成し遂げられる」と語られています。そして、この「成し遂げられる」という言葉は、「終わり」や「究極」といった意味の「テロス」という言葉がもとになっています。そして、その言葉が、ヨハネの福音書では一回だけ出ています。この祈祷会の初日の箇所、最後の晩餐が描かれた13章1節に、です。この言葉を、新しい聖書(聖書協会共同訳)が、とても良く訳していましたので、そちらをお読みしたいと思います。ゆっくりとお読みしたいと思いますので、注意してお聞き下さったらと思います。

過越祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた。

今、お読みした後半、「最後まで愛し抜かれた」の「最後」に、その「テロス」という言葉が用いられています。そして、この箇所の後、イエス様は、弟子たちの足を洗われ、弟子たちを愛されたのです。でも、その後、ユダの裏切りが語られます。けれど、それでも、互いに愛し合うようにという掟を示されました。そうして、イエス様は、十字架に架かったのです。そうやって、成し遂げられたのです。何をでしょうか。それは、テロスに至る愛、つまり、究極的な愛をです。
では、誰を愛されたというのでしょうか。それは、弟子たちを。私たちを。そして、この世界の全ての人を。そうして、この愛ゆえに、つまり、イエス様が、友を愛するがゆえに、命を捨て、血を流され、私たちの罪が洗い清められたのです。そうやって、私たちを、イエス様は、最後まで愛し抜かれたのです。これが、十字架の意味です。

4. 愛の勝利

 

また、説教を備えながら、ヨハネの福音書が語る十字架の壮大さに驚きを覚えました。イエス様が、十字架の意味について語る箇所が、12章32節に記されています。新約聖書の193頁になります。どうぞお開き下さい。また、お手元にない方は、ゆっくり私が読みますので、お聞き下さい。新約聖書193頁、ヨハネによる福音書12章32節です。

わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

イエス様は、十字架の御前に、全ての人を招かれているというのです。招かれているのは、弟子たちだけでないというのです。十字架を見あげていた、四人の女性たちだけでもありません。十字架の前で、十字架を見つめなかったローマの兵士も招かれているのです。なぜなら、全ての人の罪を赦すために、イエス様は、十字架に上げられたからです。もちろん、この十字架が自分のためだったと信じるか信じないかは別のことです。けれど、それでも、十字架は、全世界の全ての罪人を招いている。そして、その中に、私たちもいるのです。そうやって、私たちは、十字架の御前に招かれた罪人として、けれども、十字架ゆえに、罪赦された罪人として、私たちは、一つにされたのです。
今、私たちは、礼拝堂に共に集うことが出来ず、神の家族が離ればなれになってしまったと思うかもしれません。また、世界の国境は閉じられ、この世界も分断されてしまった様に思えてしまいます。けれど、そのような中で、今日のひと日、覚えたいことは、イエス様は究極的な愛を「成し遂げられた。」のです。もう既に、十字架によって、私たちは、イエス様のみもとに招かれ、一つにされたのです。この十字架の恵みに、堅く立って、どうぞ、イースター礼拝まで、それぞれが、それぞれの場所で、一つ思いになって、主の十字架を見あげて参りましょう。それでは、お祈り致します。

カテゴリー
祈祷会

大祭司の祈り

2020年4月9 日
ヨハネによる福音書17章1-26節
和田一郎副牧師

1、大祭司の祈り

 

今日の聖書箇所17章は、イエス様がお祈りしている箇所です。ヨハネ福音書における「最後の晩餐」(13~17章)は、イエス様が弟子の足を洗うという模範と、そのあとに続く「決別の説教」、そして、説教の締めくくりとして今日の箇所「祈り」が記されています。この祈りは、聖書に記されているイエス様の祈りの中で最も長い祈りです。その内容から「大祭司の祈り」と呼ばれています。御子であるイエス様が、父なる神様に私たちのために執り成してくださっている祈りだからです。イエス様は、神様と人間との間に立って祈っていて、人間の罪を担って神様に執り成しをされました。イエス様は、真(まこと)の神であり真(まこと)人でありましたが、この神様と人間との間に立たれるという大祭司の役割は、まさしく、神であり人というイエス・キリストには変えられない祈りです。

2、イエス様ご自身のための祈り

 

大祭司であるイエス様は、ご自身の十字架の死を前にして何を祈られたのでしょうか。1節に「父よ時が来ました」と言われました。この「時」というのは、十字架の時であり、その後に続く復活とペンテコステの時です。イエス様が地上にお生まれになってから、ずっとここを目指して歩んできた、その「時」です。さらにさかのぼると、天地が造られる前から定められていた神様の救いの御業が、長い年月を経て成される「時」です。その時がついに来ました。

イエス様は、「栄光を与えてください。」と、1節と5節で祈り求めています。イエス様が十字架を前にして、求めていたものとは、何よりもこの栄光です。そしてこの栄光は、神の独り子であるキリストが、父なる神様と共に天においてもっておられた栄光です。地上に来る前に持っていた栄光であり、天に昇られたイエス様が、神の右において持っておられる栄光です。このキリストの栄光は、父なる神様と一つの栄光ですから、父なる神様の御心と一つでもあるのです。イエス様は、十字架を目前にして、自ら十字架に架かることによってその栄光を現すのだ、と受け止めておられるということです。地上の生涯においては、真(まこと)の人として、栄光とはほど遠い姿で歩まれました。しかし、真(まこと)の神として、天において持っておられた栄光を十字架で現すのです。

イエス様は3節で、永遠の命について、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と言われます。

永遠の命とは、父なる神様とイエス・キリストを知ることだというわけです。ここでいう「知る」という言葉は、知識としてあの人を知っている、というような意味の「知る」ではありません。知るというのは、人格的な関係を意味しています。人格的に深く交わること、その方との深い信頼において、その方無しには自分本来の命はないと知ることです。それは「愛する」と、一言で言い換えてもよいと思います。父なる神様とイエス様を、深い人格的な愛の関係において生きる。それが永遠の命に生きるということです。

父なる神様とイエス様との深い交わりがあり、そこに私たちも加わることができる、その交わりこそが「永遠の命」なのだと言うのです。

3、弟子たちのための祈り

 

9節では「彼らのためにお願いします。世のためではなく、私たちに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです」と記されています。イエス様は、「私たちに与えてくださった人々のためにお願いします」と祈っているのですが、これは弟子たちのことを指しています。「世のためではなく」と、あえて言われてますが、ヨハネによる福音書の中で「世」と言った場合、それは神など必要としない、と思っている人々のことを指しています。しかし、それは決して「世」はどうでも良い、としていたのではないのです。順序として、まずは弟子なのです。これは、救いの秩序と言っても良いことです。神様は、いきなり世のすべての人を救うのではなく、まず弟子たち、それから弟子によってイエス様を信じるようになる人々、その人々が増え続けることによって「世」を救おうとされました。また、この祈りは、現代において、弟子たちの働きを担っている、私たちのために祈られた祈りとも言えます。

15節では「私たちがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」とあります。イエス様はご自身が十字架に架かって世を去ることを意識しており、そうなった時に、残された弟子たちの行く末を案じていました。

もし、弟子たちが信仰から離れてしまうというようなことになれば、誰が福音を福音として、この世に広めるのでしょうか。この重要な役割を与えられていたのが、最後の晩餐の席にいた、弟子たちです。ですから、イエス様は彼らのために「守られるように」と祈ったのです。

4、弟子たちの働きを通して救われる人々のための祈り

 

20節では、「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によって私たちを信じる人々のためにも、お願いします」と始まります。20節以降でイエス様は、弟子たちによって、イエス・キリストを救い主として信じるようになった人々のために祈りました。弟子たちによって彼らの言葉や、彼らの働きによって、イエス様を信じるようになった人々への祈りですから、教会のために祈られた祈りとも言えます。ここで分ることは、イエス様が私たちのために祈ってくださった、自分は祈られている者だ、ということ、そして、その祈りは、今現在においても祈られていると、知ることができるのです。

21節では、「父よ、あなたが私たちの内におられ、私たちがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私たちたちの内にいるようにしてください」と記されています。イエス様は、教会に繋がる兄弟姉妹が一つであることを祈ってくださっています。そして、三位一体である、父なる神様と独り子イエス・キリストの一体性を示しつつ、父なる神様と子なるキリストが一つであるように、教会を一つにしてくださいと言うのです。

三位一体の父なる神様と独り子キリストの一致は、まさに神秘的な統一性にありますが、「彼らも私たちの内にいるようにしてください」と続いているように、私たちが一つになるというのは、この三位一体の神秘的な一致の中に、父なる神様と独り子キリストとの、永遠の交わりの中に、私たちも入れられるという、これ以上にない恵みを示しています。先ほど、父なる神様とイエス・キリストを知ることは、人格的な愛の関係を生きる、それが永遠の命だと話しました。まさしく三位一体という愛の関係の中に、私たちも招かれている、素晴らしい恵みに与っているということなのです。

まとめ

 

今日のイエス様の祈りは、大祭司なるイエス様が、ご自身の祈りから始まって、私たち教会、私たち信徒一人一人を、父なる神様に執り成す祈りでありました。いつの時代でも、教会が一つになるところから、その愛が外に向かって溢れていきます。地域にいる困難を覚えている人、孤独な人、子どもたち、福音を必要とする人に向かっていきます。そのような教会の一致は、世の中に光を照らします。私たちが一つになって役割を担う姿を見ながら、世の中の人は、神様がイエス・キリストをこの世に送ってくださった意味をしることになります。救い主が、今も生きておられることを知るようになるのです。

イエス・キリストは、父なる神と、罪深い私たちとの間に立たれて、執り成してくださる方です。救いの御業のその時の為に大いなる犠牲を担ってくださいました。

その、主のご受難を覚えて、この一週間の日々を歩んでいきたいと思います。

お祈りをします。