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ペンテコステ礼拝 主日共同の礼拝説教

交わりの回復を求めて―ペンテコステの恵み

松本雅弘牧師
使徒言行録2章1―13節
2020年5月31日

Ⅰ.ペンテコステに起こった聖霊降臨の出来事

ペンテコステ、おめでとうございます。2章1節の「五旬祭」は「50日目の祭り」という意味で、ギリシャ語では「ペンテコステ」という言葉が使われています。2千年前の、このペンテコステの日に、弟子たちの上に聖霊が降りました。私たち教会が聖霊を宿す神殿になった瞬間です。
仮に私たちがこの場に居合わせたなら、弟子たち同様に身体全体で実体験できた驚き衝撃の出来事だったことでしょう。さらに不思議な現象が続いて起こりました。彼らが「ほかの国々の言葉で話しだした」のです。
ただ注意すべきは色々な国の言葉で彼らが語り出したことではなく、何を語ったかの方です。彼らが語り出したこと、それは「神の偉大な業」、神の国の福音です。ここから福音宣教がスタートしたのです。

Ⅱ.復活の主の証人として

先ほどペンテコステは「50日目の祭り」だとお話しましたが、いつから数えて50日目かと言えば、過越の祭りから数えて50日後なのです。この年の過ぎ越しに何があったのかと言えば、主イエスの十字架です。細かく言うならば十字架の後の復活から数えて50日目、主イエスの昇天から数えたら僅か10日後の出来事がペンテコステです。
ところで50日前と言えば、私たちにとっては緊急事態宣言が発出された時期です。人によって感じ方は違いますが、確かに長かったと思います。でも客観的に見たら50日前は遠い昔ではなくつい先日のことです。つまり弟子たちからしたら十字架のショックがまだ覚めないような時期、〈次に捕まるのは、この私〉という思いで戸を締めてじっとしていました。勿論、その3日後、復活の主に出会うまでは、です。ただ福音書を丁寧に読む限り復活の主に出会った後でさえも外の世界に向かっては閉じられたままです。
彼らが都に踏み留まることが出来たのは復活の主から「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた父の約束されたものを待ちなさい」と命じられていたからです。でも本音の部分は身の危険を感じ、怖れで一杯だったのではないでしょうか。しかしそうした彼らの心配や都合にお構いなく聖霊が降り注がれた。その結果が使徒言行録2章に出て来たとおりなのです。
ですから弟子たちは語りたかったから語ったのではありません。本音は逃げ出したかった、怖かったのです。でも聖霊降臨の結果、「霊が語らせるままに」とあるように、彼らに注がれた聖霊が語らせたので語ったのです。そして使徒言行録2章41節を見ますと、この日、3千人もの人々がクリスチャンになり、エルサレムにキリスト教会が誕生したことが分かります。ある人の言葉を使えば、「物凄く劇的で華々しいスタート」でした。
ただこの後の教会の歩みは決して順風満帆ではありませんでした。あまり時間を置かず様々な問題が教会を襲ってきました。教会の中心メンバーのアナニアとサフィラ夫妻が献金をごまかす事件が起こります。教会員数が増加したことは恵みだったのですが、ヘブライ語を話すユダヤ人信者の、ギリシャ語を話す信者への愛のなさが、不公平な配給として表面化しました。そして目を教会の外に移せば、ユダヤ人による激しい迫害の嵐です。殉教者も出はじめるのです。
でも不思議なことに1つひとつの問題を契機に福音宣教の働きが拡がっていく。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」、この主の約束が確実に実現していくのです。

Ⅲ.バベルの塔の出来事とペンテコステの出来事

今日は、「交わりの回復を求めて―ペンテコステの恵み」という題をつけました。旧約はバベルの塔の箇所を選びました。聖霊降臨の出来事が言葉の問題と深く関係しているからです。バベルの塔の出来事は端的に、人間が神抜きの自己実現をはかろうとした出来事です。その結果、言葉が通じなく、心が通い合わなくなった。その後の人類の歴史はこの時の混乱をそのまま引きずっています。
ところが、使徒言行録2章を見ますと、ペンテコステの日に聖霊が降ると、彼らが様々な言語で話し始めました。その様々な言葉をもって「神の偉大な業」、神の国の福音を語っていたのです。

Ⅳ.交わりの回復を求めて

公生涯の最初、主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになりました。すると天が割け、聖霊が鳩のように主イエスに注がれた。聖霊の油注ぎをいただき、メシアとしての歩みが始まりました。まずナザレで説教なさった。そこで洗礼の時に受けた聖霊の油注ぎの意味をお語りになったのです。「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれ人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるため」。そのために「わたしは油注がれ、メシアとされたのだ」。これが神の国の姿、私たちが既に与っている恵みの現実なのです。
福音書を見ますと宗教指導者たちに向かって「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」と断言なさる。天地がひっくり返るような発言です!町の四つ辻に立って、「見かけた者はだれでも、片っ端から連れて来なさい」と神は招いておられる。その招きに応じてやって来た全ての人に、無条件に、「主イエスを着なさい」と救いの礼服を着せてくださる。そのようにして私たちを神の国へ、救いへと導かれるのが主イエスなのです。そしてペンテコステの日に、主に注がれた同じ霊である聖霊が弟子たちの上に注がれた。そして今を生きる私たちの上にも豊かに注がれている。主イエスの始めた回復の働きのバトンが私たちに手渡され、今も継続しているということなのです。
バベルの塔を建てようとした人々の心の中にあった望みは何でしょう?神からの自立、神抜きの自己実現です。ただ問題になるのは、「自立して何になりたいのか、何を実現するのか」ということでした。誰でも私たちは自分を実現したいという願いを持ちます。でもその願いが強ければ強いほど、〈願いがかなわないのではないか〉、〈願いを実現するには力不足なのではないだろうか〉と不安を抱えます。そしてふと周りを見れば私と同様の願いを持つ人たちを発見する。そしていつの間にか他人との競争の中に立たされている自分に気づくのです。
「私は一体誰なのか」、これは人間として根本的な問いです。でもその答えを周囲との比較の中に見出さざるを得ない。その結果、手を携えながら共に生きていくべき周囲の人々を、友や仲間ではなく競争相手、場合によっては敵としてしか見ることが出来ないのです。バベルの塔建設に携わった人間たちの心を支配していた「高さ」や「大きさ」や「強さ」を求める心は、こうした思いだったのではないだろうかと思います。
しかし神さまは人間を愛し、時満ちるに及んで御子を遣わしてくださった。そしてご自身を指し示し人生に神がおられることの幸い、人生に「神との関係という縦軸」がどうしても必要なことを示されたのです。そして人生に「神との関係という縦の軸」をいただくとき、私にしか立つことのできないユニークな立ち位置を初めて発見することができ、本当の意味で安心し満たされた思いを経験する。そして人との比べ合いから自由にされ、隣人と手を携えて生きる準備が私の側に出来てくる。主イエスがそうであったように不思議と「低さ」や「小ささ」や「弱さ」に目が向き、互いに受け入れ支え合えるような横との関係が建て上げられていくのです。
私たちは神さまのもの、神さまのご支配の中に生かされている者です。神と和解させられ、自分とも仲直りし、そして隣人との平和の中に置かれている。この恵みのしるしとして、聖霊が与えられています。聖書によれば、私たちが主イエスを信じることができるのも、聖書をもっと知りたい、祈りを深めたいという願いを持つのも、それは聖霊が働いていることの証拠だと教えています。
この聖霊の恵みの力を私たちがしっかりといただくために、私の側でできること、それは「信仰生活の5つの基本」を通して、ぶどうの木であるキリストにつながることです。そうすれば、ぶどうの木であるキリストを通して、聖霊の樹液が私たちに注がれ、私たちを通して、神の恵みの実が実っていくのです。
今日から始まる1週間も、この聖霊なるお方が共にいてくださり、私たちを通して、豊かに働いてくださることを祈り求めていきたいと願います。お祈りします。

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みこころを成してくださる神

和田一郎副牧師
創世記1章31節/1テサロニケ5章23-24節
2020年5月24日

1、はじめに

最近、外出を自粛していることもあって、家でテレビを見る機会が増えました。高齢出産をする老夫婦のドラマを見ながら共感することがありました。そして、どうして神様は、私たち夫婦をもっと早く出会わせ、子どもを授けてくださらなかったのだろうか、このような人生を通して、私に示されている神様のみこころには、どんな意味があるのだろうかなどと思い巡らすことがあります。皆さんはどうでしょう。自分自身に示されている、神様のみこころについて考えることはあるでしょうか。

2、神のみこころ

今日は、神様の「みこころ」というものに目を向けたいと思いました。というのは、今日のテサロニケの信徒への手紙の箇所は、テサロニケの人々のために祈っている所です。23節は「してくださいますように」という言葉が繰り返されていて、一つはキリスト者として「聖なる者としてくださいますように」、そして、キリストの再臨の時、私たちを「非のうちどころのないものとしてくださいますように」という願いが込められています。しかし、この願いというのは人間の立場からの願望です。もしかしたら自分の願いと、神様のみこころとは違うところにあるのではないかと思う時もあるのです。たとえば、イエス様はゲッセマネの祈りの中でおっしゃいました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(マタイによる福音書26章39節)と祈りました。
私たちの願いは、実に現実的なものを求めますが、神様のみこころは究極的です。私たちは目の前にある問題に対して「はい」とか「いいえ」の答えを求めますが、神様のみこころは、その奥にあります。私はいつも祈る時に思うのです。神のみこころを、もっとはっきり具体的に教えて欲しい。ですが、それは神様の領域です。被造物に過ぎない人間の知恵と力では、神のみこころを直接知ることはできません。ただ、聖書に啓示されている神の御言葉から、みこころを理解するしかないのです。

3、平和の神

今日の聖書箇所で、パウロは神様のことを「平和の神」といっています。私たちの信じる神様は、平和という性質をもった神様です。聖書に書かれている「平和」という言葉は、争いがない状態のことだけではありません。むしろ、心の平安や神様と人との関係が良い状態であることを表しています。イエス様は「あなたがたは わたしによって平和を得る」と言われました。(ヨハネによる福音書 16章33節)。つまり、イエス・キリストによって、神様との良い関係、神様との和解を得られるということです。決して人間による力や、自分の努力でなされることではなくて、究極的な平和はキリストによって成されるものです。
その、平和の神御自身が23節で、テサロニケの信徒たちを「聖なる者としてくださいますように」とパウロは祈っています。「聖なる者となる」というのは、神の性質である聖さに、少しづつ近づいていく、似ていくということです。パウロはエフェソの信徒への手紙で、次のような言葉を記しています。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(エフェソの信徒への手紙1章4節)。つまり、私たちが生れるずっと以前から、イエス様は私たちを「聖なる者」とすることを願っていた。その理由は「神はわたしたちを愛して」いたと書かれているのです。わたしたちが生れる前から、私たちを愛しておられた神のみこころには愛が盛り込まれていたのです。

4、イエス・キリストの来られるとき

テサロニケの手紙にもどります。23節で私たちが聖なる者とされ、非のうちどころのない者とされるのは、「わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき」だということです。それは、イエス様が十字架につけられて死に、復活し、天に昇られましたが、いつかもう一度この世に来られて、しかも、全ての者を裁いて、この世を終わらせて、神の国をもたらすという素晴らしい未来がイエス・キリストの再臨の時です。その時には生きている者も、先に死んだ者も、聖なる者とされ、非のうちどころのない者とされるのです。
それは、そもそも天地創造の中で神様が人間を「神のかたち」に造られたのですが、その「人間本来の姿」にほかなりません。神様はその人間の姿を見て「見よ、それは極めて良かった」(創世記1章31節)とおっしゃいました。残念ながら人は罪を犯してしまう者となっています。しかし、堕落したその罪にまみれた姿から、時間をかけて自分らしい、人間本来の姿にもどっていく、少しづつ人生経験を重ねながら聖なる者とされ、やがて、非のうちどころのない者とされることが、神様のみこころです。いつか私たちに訪れるキリスト再臨の時には、大いなる喜びがあります。その希望を祈っているわけです。この希望は、今を生きるわたしたちクリスチャンすべてが持つ希望でもあるのです。コロナウィルスの被害と不安は目の前に現実としてあるのですが、クリスチャンとしての究極の希望が揺らぐことはありません。

5、忘れ物

先週のある日、私は一人の方の葬儀に参列しました。私のいとこにあたる男性のHさんの葬儀に行きました。Hさんは63歳で亡くなる一月ほど前に横浜の教会で洗礼を受けていました。私はその洗礼式に立ち合いました。Hさんは長い闘病生活を送っていたのです。Hさんのお父さんは牧師でした。開拓伝道を始めた頃は、狭い自宅で礼拝を始めたので、小さかったHさんは、日曜日になると自分たちの部屋で礼拝や集会をするのが嫌だったようです。父への反発もあったのだと思いますが、信仰をもつことはありませんでした。成人してからも外資系の会社でキャリアを重ねて、社会的な立場も、経済的にも恵まれた中で生きていました。ですからHさんにとって両親が持っていた聖書を基盤とする信仰は必要のないもののようでした。しかし、重い病気にかかられて長い闘病生活を過ごされていました。ある日、気になって連絡してみると「教会に行きはじめている」「洗礼のことを考えている」と言っていました。あのHさんが洗礼を考えていると聞いて、少し驚く思いがありました。その後「洗礼の日程が決まった」と知らされました。コロナウィルスの影響がある中で、どこか急いでいるような感じを受けました。私も参列し限られた人達が見守る中で洗礼式が行われました。それから、約一か月後に天に召されました。
洗礼を受けた日にHさんが言ったのです。「今日、私は忘れ物を取りにきたように思います」。神様はHさんの人生を、どのようなみこころで導いてこられたのだろうと考えました。神様のみこころは、キリストによって平和を得ることを望んでおられるはずです。もっと早くそうされても良かったじゃないかとも思うわけです。しかし、聖なる者となるまでには時間がかかるものです。何一つ欠けることのない完成した者となるまでには、キリストの再臨の時を待つしかありませんが、それまでのあいだも、時間をかけて私たちは成長させられていくものです。神のかたちへと近づいていく、自分らしい本来の姿へと成されていく。どれだけの時間がかかるのか、どんなタイミングなのか、その神のみこころを知ることはできません。Hさんは、両親と兄弟の中で唯一信仰をもたずにいた人でした。数年前に、牧師であるお父さんとお母さん、そして弟さんの家族三人が天に召されて、Hさんは、その教会の葬儀で見送りました。葬儀をきっかけに、少しづつ教会へと通い始めたと聞きます。家族三人が過ごされた歩みを振り返って、「自分は何かを置いて来た」忘れ物があったことに気付かされたのが、この時だったのかも知れません。平和の神は、人の心を操り人形のように支配される方ではありません。人に自由な意思を与えてくださいました。私たちが自分自身の自由な意志によって、自分の生き方を選び取る自由です。自分の意思によって信仰を選びとる、そのことを通して神のみこころを映し出されたのです。何かが足りない、何かを忘れている、その何かに気付いて選び取る。Hさんの歩みは今も証しとして、残された家族や多くの人の心に残っていると思います。
わたしはHさんの出来事を通して思うのは、本人もやり残したことがあるかも知れませんが、この世の歩みを全うしたのではないかと感じました。神様の、みこころが成されたと思います。平和の神ご自身が、Hさんを全く聖なる者としてくださる。そして、キリストが来られる時、非のうちどころのない神の似姿としてくださると思えるのです。それらを全て見て「見よ、それは極めてよかった」とされたのです。
今日の24節の御言葉は、そのことを確信させてくださいます。「あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます」。私たちを招いてくださる方は、生きた真実の神様です。みこころは、必ずそのとおりにしてくださいます。このみこころに信頼して、わたしたちも聖なる者へと、一歩一歩、時間をかけて歩んでいきましょう。お祈りしましょう。

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神と向き合い、隣人と向き合い、自分と向き合う

松本雅弘牧師
マタイによる福音書22章34―40節
2020年5月17日

Ⅰ.「7日間ブックカバーチャレンジ」

フェイスブックを通じ「7日間ブックカバーチャレンジ」という招待がきました。読書文化普及に貢献するチャレンジで、好きな本を1日1冊7日間投稿する。選んだ本の1つがマロウ先生の『恵みの契約』でした。忘れられない一冊で、多くのことを学ばせていただきました。何故、このような話をしたかと言いますと、今日の箇所と響き合う内容だからです。

Ⅱ.主イエスへのチャレンジ

主イエスのところに次にやって来たのが律法の専門家でした。その彼らが「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねたのです。当時「何々しなさい」という命令の掟が248、「何々してはならない」という禁止命令の掟が365、合計613の掟が存在していたと言われています。その613にも上る細則を記憶し個々のケースに当てはめる働きをしていましたが、ただ一方でそれが正しく出来ているかどうかを判断する基準はあいまいで、常に論争があったようです。こうした事情からして彼らが投げかけた問題は、自分たちでも解決できない、難問中の難問だったのではないか。ある人は、公衆の面前で主イエスに恥をかかせる目的だったのではないか、と解説していました。

Ⅲ.試みる意図はどこにあったのか

ところで、ここに「試みる」という言葉が出て来ます。ローマへの税金を巡る議論の中で、主イエスが「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか」と言われた時の言葉です。マタイ4章の悪魔の誘惑の時に出てくる「誘惑する」という言葉です。つまりこの時、彼ら律法学者たちが準備した問いを、福音書を書いたマタイは悪魔の問いだと理解していたということでしょう。主イエスを陥れる、本当に悪い方向に誘う毒の入った質問です。ただ、そう言われて、改めてこの質問、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」を考えると、皆さんはどうお感じになるでしょう。あまり毒気が見当たらないように思うのです。
ローマに納める税金に関する問いかけ、復活を巡る質問もそうです。主の答え次第では大変な事態を招きかねない。ところが今回準備された質問のどこに主イエスをひっかける罠が隠されているのでしょうか。そうしたことを、まず考えさせられるのです。ただ、こうした問題意識を持ちながら、この後、読み進めてまいりますと、42節で今度は主イエスの方から、「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか」と質問しておられるのです。
ファリサイ派の人々は当時の英知を代表していた人々でしょう。その彼らが結集し考え出した質問は実は肝心なことが抜けていた。メシア不在なのです。聖書が指し示すメシアは誰なのかを問わずに、一生懸命、宗教生活を営んでいる。私たちが婚宴の席に招かれるために、礼服が必要なのです。メシアが必要なのです。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか」と主イエスは問われる。私たちが招かれるために、行うべき、守るべき掟は何かという世界ではないのです。私たちは掟を行うことで婚宴に招かれるのではありません。神の御前に出る時、私たちの側で用意できる礼服は一着もない。ですから使徒パウロは「主イエス・キリストを着なさい」と語った。キリストが礼服なのです。父なる神が自らの手で用意し装わせてくださる礼服、それはメシア・イエス以外におられない。
公生涯の最初、ガリラヤに戻られ宣教を開始され、ナザレでの「就任説教」で、「貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれた」とお語りになったのです。当時のユダヤ教では貧しい者は神の国に招かれざる者でした。逆に裕福さこそが神からの祝福のしるしです。しかし主イエスは、自分は貧しい者に神の国の訪れを知らせるためにやって来たと宣言なさった。そしてその宣言通りに、これまで歩んでこられたのです。少し前のマタイ福音書21章31節で、非難するファリサイ派の人々に対して主は、「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」とおっしゃるのです。まさに町の四つ辻に立って、「見かけた者はだれでも、もう片っ端から連れて来なさい」と行って招き、その招きに応じてやってきたすべての人々に、「主イエスを着なさい」と救いを用意してくださる。今日の箇所に登場するファリサイ派の律法学者たちの言動には、その肝心要の「礼服」が見えて来ないのです。くどいようですが、律法を守ったので神の民になったのではない。一方的な赦し、無条件の愛があった、そのようにして救われた神の民が、次に神に愛されている者として生きるというのはこうした生き方ですよ、と与えられたのが、律法であり掟なのです。

Ⅳ.神と向き合い、隣人と向き合い、自分と向き合う

今日の聖書の箇所に戻りますが、試みようとしていた質問者たちの思いを超えて、ここで主イエスは、神を愛し、隣人を愛しなさい、と本当に大事なことを語っておられます。そして、この2つは別々ではなく2つで1つの掟なのです。そしてもう一つ、心に留めたい言葉があります。39節をもう一度見ていただきたいのですが、「隣人を愛しなさい」というところに、「自分のように」という言葉が挿入されています。
私たちが、そのありようのままに神に愛され、受け入れられ、喜ばれていることを少しずつ味わう中で、私自身をそのままの姿で受け入れることができるようになってくる。そして同様に隣人のことを神が大事にしておられることを知る中で、私自身も隣人を愛するものとして成長させられていくのです。
先ほど主イエスを非難するファリサイ派の人々に向かって、「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」とおっしゃった言葉に触れました。実は福音書を書いたマタイは正真正銘の徴税人でした。マタイはこの福音書9章で主イエスとの出会いを記録に残しています。「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」。これだけなのです。仕事を終え帰宅し、布団に横になりながら、自分の歩みを反省している姿を御覧になったのではなく、収税所に座って仕事をしている最中のマタイを見て、「わたしに従いなさい」と言われ、自分はすぐに立ち上がって付いて行った。マタイは自分の召命の証しをそのように記すのです。勿論、マタイの側にもそれなりの理由があったかもしれません。自分の仕事に疑問を持ち、お金を騙し取る度に良心に痛みがあったかもしれない。徴税人であるが故に社会から疎外され淋しさを味わいながら生きていたのでしょう。その彼の前に突然現れた、あの人だけは、これまでの誰とも違う、全く違う眼差しで自分を見てくれた。そうした主イエスの眼差し、そして毅然とした態度が、マタイの心を虜にしてしまったのでしょう。そして立ち上がって従ったということを書いた直後、マタイは1つのエピソードを挟み込むようにして自分の物語を締めくくろうとする。その言葉は、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。主イエスが来られたのが、どうしようもないこの者を招くためだった。この私を呼び出すために来てくださった。この主イエスの言葉とお姿をしっかり記録するため、自分は今こうして福音書を書いている。そしてマタイが書いたこの福音書は系図から書き始めているのは有名なことです。
一般にユダヤの系図は男性の名前だけで綴られるのが普通です。でもマタイのには女性の名前が出てくる。4人も出て来る。しかも「いわくつきの女性」ばかりです。それだけではありません。南ユダの悪王たちが名を連ねています。「救い主イエスさまの系図だけは清くあって欲しい」というファリサイ派的な期待を裏切る事実です。でもそれが神の愛なのです。
マタイは自らの人生とイエスの系図を重ね、罪の暗闇の世界のど真ん中に降りて来てくださったナザレのイエスという男が、収税所で罪深い仕事をしている、その罪の現場のど真ん中に現れ、「わたしに従いなさい」と招き救出してくださった。礼服を着せてくださった。そして本当に不思議なのだが、その招きに従って立ち上がったのが自分なのだ!その時の出会い、その出会いの激しさに心打たれながらマタイは神を愛し、神に愛されている自分を受け入れ、そして少しでもこの愛を隣人に伝えようと熱心に福音書を書くマタイに変えられた。神に愛されたので、私たちは神に、世界に、自分に向き合う者とされたのです。

お祈りいたします。

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聖書読みの聖書知らず

松本雅弘牧師
マタイによる福音書22章23―33節
2020年5月10日

Ⅰ.「復活の時には、めとることも嫁ぐこともない」?

主イエスは、「復活の時には、めとることも嫁ぐこともない」と明確に述べていますが、これは私たちにとって意外と切実な言葉なのではないかと思うのです。天国に行ったら、今の妻とのつながりがなくなってしまうのだろうか。「天使のようになる」とはどういうことか。夫婦、親子、友達との絆はいつまでも続く、決して切れないものだと言う代わりに、主イエスは「そうではない」とおっしゃっているように聞こえるからです。

Ⅱ.あらすじ

ファリサイ派、そしてヘロデ派に代わって主イエスの前に現れたのがサドカイ派の人々でした。彼らサドカイ派は、ファリサイ派同様にユダヤ人の中の一つのグループでした。サドカイ派の多くは貴族出身で、また祭司も多くいました。保守的で、知識人が多かったようです。またサドカイ派の信仰理解の特徴は「モーセ五書」と呼ばれる旧約聖書の最初の5つの書を重んじる立場だったようです。この点、当時のファリサイ派や律法学者たちと明らかに立場が違います。そしてサドカイ派とファリサイ派の両陣営がぶつかる時の、中心テーマの一つが人は死んだらどうなるのか、つまり復活たったのです。サドカイ派は復活を否定したのですが、理由はモーセ五書の中に死者の復活という教えが明確に述べられていないと理解したからです。そう言われて見ますと、創世記もそうですが、死とは人の存在が消えてしまうこと、滅びるようにして土に帰ることだと書かれています。サドカイ派の人々は、この事実を見据えた上で、塵に帰った人間がなおも生き続けることなど理屈に合わないと結論付けたのです。しかも彼らは貴族階級。今の生活に満足していました。「人生、死んだら、それでお終い」と考えた方が都合もよかったのかもしれません。
その彼らサドカイ派の人々がイエスに近寄ってきて質問してきたのです。「さて、わたしたちのところに、7人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに7人とも同じようになりました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女は7人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです」。サドカイ派は復活を認めませんが仮に復活があるとした場合、7人の夫と1人の妻が甦ることになるけれども、彼女は誰の妻として甦ることになるのか、と主イエスに質問したのです。

Ⅲ.聖書読みの聖書知らず

ところで、このやり取りは主イエスにとっての受難週の場面です。ある種、非常に緊迫した場面だったのです。ところがこの時の彼らサドカイ派はほぼ興味本位で主イエスに近づいたのではないかと思います。今、この時、訊かなくてもいいような質問を主イエスに投げかけている。ある牧師は「知的遊戯に過ぎない」と語っていましたが、まさに自分たちの知的関心を満たすため、十字架への道行きを歩み始めようとしていた主イエスを利用したのでしょうか。勿論、「人間は死んだ後どうなるのか/復活はあるのかないのか」という問いは確かに大切なものです。でもこの時のサドカイ派の人々にとっては、それに対する主イエスの答えによって、自分が変わらなければならない、変わりたいというような切実さは全くなかったと想像されるのです。既に彼らは貴族として、祭司として特権がありました。生活も安定していた。いやそれを通り越してとても豊かなのです。そうした彼らが十字架への道行きにあった、主イエスに向かって呑気な質問をしているのです。
ただ、ここでひと際、光るものがあります。それは主イエスの誠実さです。彼らに対して、主は何と誠実な対応をしておられるのか。主は彼らと向き合って時間をお使いになる。そうした上で、彼らの魂の一番深いところに、彼らにとっての一番必要な御言葉をお語りになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」と言われたのです。
もう数日したら十字架にかけられる。切羽つまっていました。時間もなかったかもしれない。こうした連中を相手に時間を使うのは無駄、と言って退けても構わなかったでしょう。でも主イエスは、そうした彼らと向き合うのです。何故?「彼らも、神に返すべき、神のもの」だからです。

 

Ⅳ.復活を信じている者の喜び

30節からの箇所をご覧ください。「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか」。復活を前提に語っておられます。そうした上で、32節。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言われたのです。当然ですがアブラハムもイサクもヤコブも、モーセの時代にはすでに死んでいました。ところが、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と現在形で語られています。
学生時代、キリスト者学生の聖書の読み方に関する学び会に出席しました。4回ほどの学びで、最後に、「このような読み方を、どこで学びましたか」とお聞きしたのです。たった4回で終わってしまうのがもったいなくて、どのような学校で、あるいはどのような参考書を用いて学んだのか、とそうした事を聞きたかったのです。ところが先生からの答えは意外なものでした。「神さまから教えていただきました」と。信仰のリアリティを感じさせられた一言でした!そう言えば、神さまそっちのけで聖書研究にふけるユダヤ人に向かって、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところに来ようとしない」(ヨハネ5:39-40)と言われました。聖書を読む時、神の言葉である聖書を通し、神が私の人生に介入される、出来事が起こることなど最初から考えてもいない。生ける神さま、不在なのです。全く期待していないのです。
サドカイ派の人々もそうだったのではないでしょうか。期待していないのです。その彼らに対して主は、「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」とおっしゃったのです。「天使のようになる」とは、以前の聖書では「天にいる御使いのようなものである」と訳されていましたが、「天にいる」、神の懐にある、という意味です。「神の懐に生きる存在となる」ということです。
ここで主イエスは、復活がどういう状態か、多くをお語りになりません。ただ私たちは、夫婦、親子、友達との絆はいつまでも決して切れないものであって欲しいと願うのです。当然でしょう。それが一番の幸いだと思いますから…。でも主イエスはそれに勝る、もっともっと素晴らしい恵み、今の状態を完全に超えたよいものとして、私たちは復活する。それが、「天使のようになる/天にいる御使いのようなものとなる」ということ、神の懐に抱かれるような恵みの中にすっぽり覆われて生きる者として甦るという約束です。
これまで主イエスは、一度も、「これが真理である、これを信じなさい」とは言われませんでした。サドカイ派が求めるような答えをお語りにならなかった。その代わりに、「わたしが真理だ」とおっしゃった。そして「わたしを信じなさい」と言われたのです。ですから、私たちがすることは、この主イエスを信頼すること。主イエスを信頼するとは、そのお方がお語りになったことを信じることです。
死後のことも安心して、このお方に委ねればよい。いや、今、このコロナの危険の中にあっても、私たちの思いを超えて、生きて働いておられる。そしていつか、振り返った時に、神さまの深いみ旨を知らされ、神をほめたたえる時が必ずやって来る。
信仰の目を開いていただき、共におられる主が、生ける主であり、生きて働いておられることを見せていただきながら、この1週間、主と共に歩む私たちでありたいと願います。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」だからです。お祈りします。

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神のものは神に


松本雅弘牧師
マタイによる福音書22章15―22節
2020年5月3日

Ⅰ. 憲法記念日と主イエスの言葉

今日は5月3日、憲法記念日です。今日、私たちに与えられている聖書の箇所を見ますと、まさに日本国憲法の精神と響き合う、主イエスの御言葉が記されています。それが「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という言葉です。教会と国家の問題、信仰者にとって国、国家権力者はどのような存在なのかを考える上でとても大切な聖句です。

Ⅱ. 周到に準備された罠

ここまで主イエスは続けざまに3つの譬えを語られました。聞かされた彼らは、主イエス殺害を腹に決めるのです。ただ民衆の手前すぐに実行できない。いかに合法的に行うにはどうしたらいいか、そうしたことを考えるために一旦、主イエスの前から姿を消すことにしたのです。その話し合いの結果、彼らは自分たちの代わりに弟子たちを遣わし、ヘロデ派の人たちと一緒にイエスのもとに遣わし、そこで考え抜かれた質問をすることにしたのです。
ところでヘロデ派は領主ヘロデと結びつくことで利益を得ていた人々です。親ローマの立場です。一方、ファリサイ派はその真逆の立場にありました。世俗的なヘロデ派に対し批判的で、言わば、水と油のような両者です。その彼らが結託して主イエスのところに行く。普通でしたらあり得ないような組み合わせです。ただそれだけ主イエスの存在が我慢ならなかったのでしょう。この際、目の前にいる共通の敵である、ナザレのイエスを葬り去ることで意見がまとまったのです。そのようにして、主イエスのところにやって来て、「ところで、どうお思いでしょうか、教えてください」、そう言って、毒を盛った杯を、主イエスの口元に差し出すように、用意してきた質問を投げかけたのです。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか」。この質問のどこに毒があるのか、お判りでしょう。仮に「納めてよい」と答えれば、ローマの支配を認めることを意味し〈イエスは反ユダヤだ〉ということで、ファリサイ派をはじめ、ユダヤの民衆が黙っていません。逆に、「納めてはならない」と答えるならば、今までそれで生活が成り立っていた、既得権を持つヘロデ派の人々から猛反発を食らうのは目に見えています。さらに厄介なことに、ヘロデ派のバックにはローマ権力もありました。《Yes》、《No》のどちらに転んでも、大問題。ただでは済まされない。本当に考えに考え抜かれ、周到に準備された罠でした。

Ⅲ. 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」

主イエスは即座に「彼らの悪意」に気づき、そして「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい」と言われたのです。言われるがままにデナリオン銀貨をもって来ますと、「これは、だれの肖像と銘か」と問い返されたのです。そこには皇帝のものが刻まれていましたから、「皇帝のものです」と、そのままのことを伝えますと、「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われました。これが練りに練った上、毒を盛り込んだ質問に対する主イエスの回答でした。
紀元4年ころ、ユダや地方に人頭税が導入されました。額は1デナリオンなのです。所得税とは別に収入に関係なく納めなければなりませんから貧しい人にとっては大変厳しい税金でした。そしてもう一つ大きな問題がありました。それはデナリオン貨幣に皇帝の顔が刻まれ、皇帝の刻印が押されていたのです。聖地旅行に行きました際、マサダの要塞を見学しました。紀元70年に、ローマ軍によってエルサレムが陥落した際、難を逃れたユダヤ人が立て籠り、最後まで抵抗した時の要塞です。そこに宮殿のようなものがあり部屋には壁画など、装飾が施されています。それが全て幾何学模様なのです。人物や動物を一切描いていない。「像を刻んではならない」というモーセの十戒を忠実に守っていたからです。それがユダヤ人の常識なのです。そう考えると貨幣に皇帝の像が刻まれてあることはユダヤ人の感覚からすれば決してあってはならないものだったに違いありません。こうしたことを考えてきますと、19節で、「税金に納めるお金を見せなさい」と言われ、すぐにデナリオン銀貨を持って来て主イエスの前に見せたことは、もしかしたら、特にファリサイ派に属する者たちにとってはうかつな行為だったかもしれません。現実には、その貨幣を使わなければならない。それをポケットに忍ばせて生きていかなければならない難しい事情がある。勿論、口では威勢のいいことを言ったでしょう。ローマ権力に抵抗する姿勢を見せていたことでしょう。でも実際はどうだったのか。ある意味で妥協して生きざるを得なかったでしょう。ですから、主イエスは、「偽善者よ」、と彼らに向かって、そう呼ばれたのではないかと思うのです。その彼らに向かって、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とおっしゃったのです。「神のものは神に返せ」です。この答を聞いた彼らは返す言葉もない。逃げるように、主イエスをその場に残したまま、消えていなくなってしまいました。

Ⅳ. 神のものとして自分を神に返して生きるようにと召されている

山上の説教の中で主イエスは、「あなたがたは地の塩、世の光です」と教えてくださいました。確かに天国に国籍を持ち、そして地上では旅人であり、寄留者である私たちクリスチャンは、同時にこの世にあって地の塩、世の光です。社会の中で一市民として責任をもって生きる者でもあります。ここで主イエスは「皇帝」という言葉を使っていますが、現代に当てはめるならば、この世の権威、あるいは国家と呼んでもいいでしょう。私たちは、そうした社会のルールに従うことが求められます。ただ押さえておかなければならないことがあります。それは聖書によれば、皇帝も一人の人間、神さまに造られた被造物に過ぎない。その人間が造り出す国家も究極的なものではないのです。
3年ほど前、平和講演会が行われました。その時のテーマが「憲法」で、講演会では自民党の憲法改正草案を資料にしながら、改めて国家権力を縛る目的で制定された「憲法」そのものが、逆に国民の権利を制限する内容になっている。本末転倒ぶりを確認したことです。
「皇帝」という言葉で象徴されるこの世の権威と神の権威が、対等に並んでいるのでは決してない。ある人の言葉を使うならば、「皇帝のものは皇帝に返せ」という命令は、「神のものは神に返せ」という命令によって限界づけられているからです。ですから仮に、この世の権威が、神の意志に反するようなことになるならば、私たちは抵抗し、神さまのご意思がどこにあるかを求め、訴えなければならないことでしょう。
もう一つ、「神のものは神に返せ」という、この主イエスの言葉が心に響きます。
このこととの関連で、創世記1章の27節を見ますと、「神はご自分にかたどって人を創造された」と書かれています。言わば聖書は、「私たち一人ひとりが神の像が刻まれている」と教えるのです。とするならば、ここで主イエスが、「神のものは神に返しなさい」とおっしゃる意味は、「神の像が刻まれているあなた自身は、自分自身を神に返すようにして生きていきなさい」という私たちに向けられた強い勧めの言葉なのです。
コリントに宛てた手紙の中で使徒パウロ、「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現わしなさい。」(Ⅰコリント6:19-20)「もう、あなたがたは神のもの、神の所有なのだ。元々、私のものであったあなたがたを、再び手に取り戻すために、キリストの命を代価にした。だからもう、あなたがたはあなたのものではない。私のものなのだ。だからこれからは、あなたがたの体、あなたがたの存在をかけて、私の栄光を現わすように生きていきなさい。それが、あなたがたクリスチャンの生きる目的、生きる使命なのだ」と教えているのです。しかもパウロは「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」(エフェソ1:13)と語ります。私たちの体にはキリストの霊である聖霊の「焼き印」が押されている。聖霊ブランド、これは凄いことです。「神のものは神に返しなさい」。神に属する者として、自らを神さまにお返しする献身の歩みを続けていきたいと願います。お祈りします。