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主日共同の礼拝説教

みことばを聞く者

和田一郎副牧師
出エジプト記24章3-8節 1テサロニケ5章25-27節
2020年6月28日

1、「聞く」ということ

パウロは今日の聖書箇所27節で「この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように」と強く勧めています。当時、聖書は声を出して読み聞くものでした。日本語でも「聞く」という言葉は広い意味があります。漢字でも3つの漢字がありました。一番一般的な「聞く」という字は、音を聞くという意味から始まって広い意味でよく使われます。「聴く」という文字は「心で聴く、心を聴く」というニュアンスで使われるようですし「訊く」という文字は、訊問という言葉にも使われますが、厳しく問いただす際などに使われるようです。日本人にとって「聞く」という言葉は、状況に応じて漢字を使い分けることで細やかに表現しています。
では聖書に書かれている「聞く」という言葉はどうでしょうか。旧約聖書が書かれているヘブライ語で「聞く」というのは「シェマ」という言葉です。今日の旧約の聖書箇所でも「シェマ」という言葉が出てきます。出エジプト記24章は、シナイ契約を交わす場面です。神様はイスラエルの民に対して、様々な戒めを示されました。その中心は十戒です。十戒をはじめとする戒めに、従うのか従わないのか。問われているのが24章です。
荒れ野を旅するイスラエルの民にとって、神様はリアルに生きた神様です。
エジプトを脱出したのに、40年もの間、荒れ野を旅しなければならなかった目的というのは、神を中心とする生き方を確立させるためでした。その中心は神の言葉を「聞く」ということです。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」この神の言葉どおりに「従う」ということでした。日本語の「聞く」という言葉は、どれも音や人の声を聞くことを現していますが、聖書において聞くものの対象は、まず神にあります。神の言葉を聞くことは従うことが求められます。ですから「シェマ(聞く)」という言葉には「従う」という意味が含まれています。ユダヤの聖書朗読をする人は、最初に「シェマ」と呼びかけるそうです。「聴け、従え」です。わたしたちの礼拝でも、まず「わたしは聴きます。従います。主よ、お語りください」という姿勢が大切です。

2、神の語りかけ

旧約聖書の時代、神様はモーセや預言者たちに直接語りました。たとえば、モーセが神の名前をなんと言えばよいでしょうか、と聞いた時「わたしはある、という者だ」と神様は具体的に教えてくださいました。そのように、具体的に神様のみこころを教えてもらえないものかと思うのです。しかし、それは旧約の時代のことです。神様からの直接的な語りかけはなくなりました。
旧約の時代は、イエス・キリストの十字架の贖いの業が成されて終わりました。イエス様によって救いの御業が完成して、それを証しする啓示として新約聖書が完成しています。さらに、聖書を神の言葉として理解できるように聖霊を送ってくださっているのが、今のわたしたちの時代です。聖書がある。その聖書を神の言葉として理解する聖霊の力が送られている。これは旧約の時代の人とは、くらべものにならない大きな恵みです。
旧約の時代も、いつも神の言葉を聞けたわけではないのです。特別な時に特別な人にだけ、限定的に語られました。しかし、今はいつでも神の語りかけを聞くことができます。この聖書の言葉が心に留まっていて、聖霊の力が働かれたら、いつでもどこでも神の言葉を聞くことができる時代にいるのです。
今日の聖書箇所5章27節「この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように」とあります。ここでも「聞く」というのは、旧約聖書のシェマと同じように聞いて従うことをパウロは求めているのです。パウロはこの手紙を通して、テサロニケに人々が神に喜ばれる生活をするように求めました。イスラエルの民に十戒を授けたのと目的は同じです。神に聞き従う者となるため。神に喜ばれる生き方をするためです。十戒がモーセを通して、神様から授かったように、この手紙もパウロを通して語られた、神の言葉です。
テサロニケの人々がパウロの言葉を神の言葉として受け取ったことが2章13節に書かれています。「わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた・・・」パウロは、わたしたちと同じ一人の人間ですが、パウロの説教や手紙を神の言葉として受け取ったというのです。

3、手紙が書かれた時代

この手紙が書かれた頃は、まだ福音書が書かれていませんでした。新約聖書のマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書、そして使徒言行録、パウロ以外の人が書いた手紙も、書かれたのはもっと後のことです。この手紙はパウロが書いた手紙の中でも初期に書かれた手紙でした。わたしたちは4つの福音書を読まずに、イエス・キリストを救い主とするイメージを持てるでしょうか。当時の人も口伝えで、イエス様の地上での生涯を聞いていたかも知れません。しかし、わたしたちが知っているほど、知ることはできなかったと思います。それでも、テサロニケの人々はイエス様を信じたのです。「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」(4章14節)とパウロは教えています。この手紙が書かれた20年程前に、エルサレムで十字架に架かって死なれたナザレのイエスという人が、旧約聖書で預言されたメシアだと、テサロニケの信徒は信じました。イエス様が死んで復活されたこと、同じように再臨の時に、わたしたちも復活してイエス・キリストと会うことができる。そのような、驚くべき希望が約束されていることを信じたのです。
今は27巻からなる新約聖書が整っています。自分の国の言葉で読むことができますし、解説書もあります。ビデオや映画も作られて、さまざまなかたちでイエス・キリストという方を知ることができます。しかし、当時はそういったものはなかったのです。あったのは、ただ聖霊の働きです。「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです」(1章5節)。力というのは「神の力」です。神の力と聖霊、そしてそこから得られる確信がありました。手紙を書いたパウロも聖霊の働きによって、この手紙を書きました。その言葉を聞く者たちも、聖霊の力があったからこそ、神の言葉として理解することができました。聖霊によって書かれ、聖霊によって聞かれてきた、それゆえにこの手紙は「聖書」として今も残されたのです。

4、インマヌエル(神は共にいてくださる)

今日は、聖書における「聞く」という言葉には「従う」という意味が含まれていることを見てきました。奴隷の状態から救い出されたイスラエルの民にとって、神様のみことばはリアルで具体的でした。共に生きてくださる神様が、先立って昼は雲の柱、夜は火の柱をもって彼らと共に歩んで下さいました。ご自身の言葉を「聞きなさい、従いなさい」という神様は、言うなれば、そうやって「共にいてくださる」ということです。遠く離れて眺めている方であれば語りかけません。共にいるからこそ「聞きなさい、従いなさい」と言えるのです。イスラエルの民が旅した荒れ野の40年間。旧約の時代からパウロの手紙の時代を経て、今もわたしたちに「聞きなさい、従いなさい」と語り続ける神様は、常にわたしたち一人一人と、共に歩んでくださる神様です。苦難の時も挫折の時も、行き場のない闇の中にいる時も「聞きなさい、従いなさい」と語り続けてくださる。従うその先に、わたしたちの命があります。
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」
(ヨハネによる福音書 8章12節)
最近2歳10か月になる息子は、言葉を覚えてきました。食事の前のお祈りの時は自分でやりたがります。いつも「きょうも、ともに、あることに、アーメン」と祈ります。教えたわけでもありませんが、どこかで聞いた言葉が残っていたのでしょう。わたしたち夫婦は、息子の祈りに心からアーメンと言えます。「きょうも、ともに、あることに、アーメン」「ああインマヌエル(神は共におられる)だな」と思います。いつも近くで語りかけてくださる神様、いつも御言葉を聞くことができる。そこに命があります。生ける神様と共にあるように。みことばと共にあるように。「聞きなさい、従いなさい」とおっしゃる神様が・・・「きょうも、ともに、あることに」感謝して、従っていきたいと願います。
お祈りしましょう。

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本当の不幸とは何か

松本雅弘牧師
マタイによる福音書23章13―24節
2020年6月21日

Ⅰ.山上の説教との関係性

先週からマタイ福音書23章から25章の3章にわたって記されている主イエスの教えに耳を傾けています。それは十字架でのご受難を目前にした主イエスの教えで、言わば遺言のような教えだったと思います。そこで繰り返される言葉が、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」という言葉でした。実はこの表現が7回繰り返されています。山上の説教の語り出しでは、8回の「幸いなるかな」、祝福が語られているのに対して、この23章では「7つの不幸」を語っておられます。
こうしたことからも23章から始まる主イエスの教えを読む人々が、山上の説教と重ね合わせるようにして読んできた歴史があったようです。
実際にこの教えが語られた時期は、過ぎ越しの祭りの時期でした。春の季節です。それこそガリラヤ湖畔に集った大勢の人々相手に語られた山上の説教も、ちょうどこの季節だと言われています。私たちは、山上の説教を聞く時、喜びに満たされる。でも、この23章から始まる一連の不幸の言葉を前に、自らの罪の現実を見せつけられ、暗い思いにさせられるのです。では一体何が不幸なのか。なぜ不幸なのかを考えてみたいと思うのです。

Ⅱ.なぜ不幸なのか

高座教会の長老、また幼稚園の園長を長年務められた田中清隆先生は、「ルツ会は教会の門だ」とよくおっしゃいました。今は「ノア会」と呼び名が変わりましたが、教会の女性会が主催する、幼稚園の保護者、求道者のための伝道集会です。
聖書は、ルツ会、もしくはノア会を通して導かれた教会という信仰共同体自体は、まさに天の国の入り口のような役割を果たすことを教えています。ところがその教会で仮に牧師や長老、教会員たちが、聖書の言葉を語るだけで、御言葉に生きていない、見ばえばかりに気を遣っているだけだとするならば、「人々の前で天の国を閉ざす」ことになる、と主イエスはおっしゃるのです。
ここに出てくる「天の国」とは、別の福音書では「神の国」となっています。主イエスが言われる「天の国、神の国」とは死んでから行く場所ではなく、正確には「神さまのご支配」のことです。主イエスが、「天の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語られたメッセージとは、「神のご支配が今、ここに到来した。方向転換して、神さまのご支配を受け入れるように」というメッセージでした。
確かに私たちは、「天の国/神さまのご支配」を肉眼で見ることはできません。でも信仰の目をもって見ていく時に、この世界に慈しみ深い神がおられ、そのお方が今日も生きて働き、全てを支配されていることを確認しながら生きることができる。ところが、「律法学者たち、ファリサイ派の人々は、人々の前で天の国を閉ざし、自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。人々が信仰を持つ道を閉ざす、神さまのご支配を認めさせない、だから不幸であり、災いなのだ」と言われたのです。

Ⅲ.天の国から遠ざける行為

さらに不幸が語られていきます。それは誓いについてです。「あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか」と。
神殿の黄金とは、神さまに捧げられた物です。その黄金にかけて誓いをしたら、必ず果たさなければならない。でも神殿という建物それ自体は、人間が建てたものだから、それにかけて誓うならば、果たさなくても大丈夫。何か分かったような、分からないような理屈です。実際に、彼らがこう教えていたかどうかは分からないと、現代の聖書学者たちは口を揃えて言います。ここで主イエスは、誰が聞いても何か変、どこかおかしいと思うような理屈を、敢えて語ることで、律法学者、ファリサイ派の人々がしていることはこういうことなのだ、と際立たせて見せたようなのです。
そして最後の一つ、捧げ物についてです。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである」。
確かに律法では土地の産物の十分の一を主に捧げることが求められていました。薄荷、いのんど、茴香というのは香辛料の類です。ただ律法にはこのような小さい物に関し十分の一を捧げるという規定を見つけることはできないのですが、彼らは細かい物まで徹底して十分の一を捧げていました。ただそのように重箱の隅をつつくようなことをしながら、「律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしている」彼らの姿勢、的を外した生き様をご覧になって、「不幸だ、災いだ」と言っておられるのです。

Ⅳ.何が不幸で、何が幸いなのかを知るために

ところで、ここまで「不幸である」という言葉に注目しましたが、実は「偽善者」、そして「ものの見えない」という言葉も繰り返し出て来ます。この3つは深い関係があるようなのです。「偽善者」とは「役者」という言葉から生まれました。舞台の上でその役柄の人のように演じて見せるのです。同じように偽善者もその人自身はそうでないのに善人を演じて見せるのです。ところが、ここで主イエスが律法学者、ファリサイ派が偽善者だという時、今お話したような意味と少し違うようなのです。普通、役者は役柄と自分を区別し演じるのですが、律法学者、ファリサイ派の人々は「ものが見えない」がゆえに自分の悪さに気づいていない。むしろいつの間にか自分が善人であり、信仰深い者であるかのように勘違いしているのです。
主イエスは日ごろから彼らの日常を観察されました。額の小箱を大きくし衣服の房を長くし、宴会や会堂では上座を求めるという行動を生み出す彼ら自身の内面を見抜いておられたのです。その動機は「すべて人に見せるため」だと言われます。見せようとするのが好きだからとおっしゃるのです。
では、何故、彼らはそうするのか。それは、神さまを知らないからだ、と主イエスは言われるのです。神との生きた関係があれば、そうした生き方には決してならない。本当に恐れるお方を恐れていたら人の目から自由にされる。安心して生きることができる。人の目を気にし、人の目にどのようにしたら大きく映るのかを考えて生活している律法学者、ファリサイ派の人々は神が見えていない。神との関係抜きで単なるお務めのように宗教行事や宗教生活をこなしている。信仰が全然分かっていない。だから不幸だと言われるのです。
宗教改革者のマルティン・ルターの妻ケイティの話です。ある朝、ケイティは喪服を着て夫ルターの前に現れました。驚いたルターは「誰が亡くなったのか」と訊くと、彼女は「あなたの神が亡くなったのです」と答えたそうです。ルターは「馬鹿なことを言うな。神が死なれるわけがないじゃないか」と言うと、彼女は「神が生きおられるなら、なぜあなたは神が死んでいるかのように振舞うの」と返したそうです。
神は生きて働いておられるのです。もし生きて働いておられ、私たち一人ひとりに深い関心を持っておられる神を心から信じていたら、あなたの生き方にどんな変化が起こると思いますか。私たちの生き方は本当に変わってくるのではないでしょうか!
律法学者やファリサイ派の人々は、神のことを「大事だ、大事だ」と口では言います。でも生活を見るならば、最後に大事にしていること、頼りにしているのは、結局はお金であったり、仕事であったり、今、置かれている人間関係の中で、人が自分をどのように見てくれるのか、そちらの方が断然、優先されるのです。その人の、時間の使い方、お金の使い方、気の使い方を見れば一目瞭然でしょう。神よりももっともっと優先している物や人がいる。そして突き詰めていけば、結局、この私、自分です。それこそ、誰かに喪服を着て出て来て貰い、面と向かって「あなたの神が死なれました」と言われるまでは気づかないでいることはないだろうか、と思うのです。
詩篇18編でダビデは歌います。「主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの神をあがめよ」と。ダビデは「主は生きておられる。そのことを心から信じていますか」と、この詩篇を通して訴えています。そして本当にそのことが分かったら、見えてくるものがあります。それは、何が本当に不幸で、そして何が幸いなのか、です。私たちは幸いな道を選び取るように召されています。お祈りいたします。

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主イエスのお姿を鏡として

松本雅弘牧師
マタイによる福音書23章1―12節
2020年6月14日

Ⅰ.「マタイ福音書23章から25章」の位置づけ

「あなたたちはメシアのことをどう思うか」。この問いかけを巡っての問答ののち、今日からお読みします、マタイ福音書23章から3章にわたり、主イエスの教えが延々と語られていきます。そして26章からは主イエスが十字架に掛けられ、殺される受難の記事が続くのです。ですからこの後続く主イエスの教えは、死の直前に語られた、いわば遺言のような教えです。そしてその矛先が、律法学者、ファリサイ派の人々に向けられています。

Ⅱ.律法学者、ファリサイ派とは

当時、安息日になるとユダヤの人々は会堂で礼拝し御言葉を教えられていました。そこでの教師が律法学者でした。そして今日も登場する「ファリサイ派」です。ファリサイ派の「ファリサイ」とは、律法学者の中のあるグループの名称で、「区別された者/分離された人々」という意味のあだ名でした。大国の支配が続く中、信仰を守ること自体に失望したユダヤ人や世俗化していく人たちの中、律法に忠実でありたいと願い実践していた人々でした。ファリサイ派と言うと、福音書に親しむ者たちからすると、主イエスの敵対者、「悪者」のように思われがちですが、実際のところは、ユダヤ社会における模範生だったわけです。

Ⅲ.見せるための信仰

そのような意味で、真面目なファリサイ派の人々もいたことでしょうが、しかし今日、ここでも主イエスは、そうした律法学者、ファリサイ派の人々を厳しく批判しています。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らの言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」。「彼らの言うこと」は守り、行いは見倣ってはならないとおっしゃるのです。見倣ってはいけない具体例が2つ挙げられています。1つ目は、「聖句の入った小箱を大きくする」ということ、もう1つは「衣服の房を長くする」という行為でした。
この2つ、いずれもが彼らの信仰を支える手段であったのですが、いつのまにか、自分たちの立派さを示すパフォーマンスの手段になってしまったのです。
主イエスは、日ごろから、彼らの様子を観察し、その行動を生み出す彼らの内面を見抜いておられたのでしょう。周囲から「先生、先生」と持ち上げられることで、いつの間にか傲慢になっていく姿がありました。実際、私たち牧師も「先生」と呼ばれます。神学校を卒業するとすぐ「先生」と呼ばれ始める。実態が伴っていないのに、「先生、先生」と呼ばれ続けますと、いつの間にか勘違いが起こり高慢になることがあります。
聖書における「高慢」の反対は「謙遜」ですが、謙遜とは背伸びをせずに等身大の自分であることを認めて生きる心の姿勢を指す言葉です。ところが、「先生」と呼ばれ始める。でも自分を顧みると内実が伴っていないことに気づく。そうした自分を隠し一生懸命に背伸びをし、できるだけ自分を大きく見せ、自分は高い所に立っているかのようにアッピールしようとする誘惑が起こるのです。そうした姿勢を戒めるように、「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とおっしゃったのでしょう。

Ⅳ.主イエスを鏡として生きる

では、律法学者、ファリサイ派の人々が陥りやすい過ちとは何でしょう。それは「そうすることは、すべて人に見せるため」でした。何故、見せるのかと言えば、それが好きだからだというのです。尊敬され、称賛され、褒められることが大好きなので、だから自分を大きく見せようとしている。さて、ここまで来て思います。これは、律法学者やファリサイ派の人々だけの課題ではなく、私たちにも当てはまるのではないか、と。
3百年ほど前のイタリアの話です。ある教会に大変優れたオルガニストがいました。彼の奏楽、伴奏の美しさ、素晴らしさに教会員は心打たれ、時には礼拝中にも拍手が起こるほどだったそうです。当然ですが、彼のことが方々で話題になっていきました。ある日、街の有力者を招き、オルガンコンサートが開かれました。オルガニストの彼は会衆席を眺め、どのような人たちが集まっているかを確認した上で、最高の演奏をと意気込んで弾き始めました。
ところが、いつものように弾けないのです。思うように音が出ない。結果、コンサートは散々でした。集まった人達も期待が大きかっただけに失望し、ある人は呆れ顔で帰っていきました。演奏会が散々。この者の顔に泥を塗り、築き上げた名声を一瞬の内に失わせた張本人のふいご手のアンセルモに文句を言いに、オルガンの裏に回って大声で呼び出すと、出て来たのは見知らぬふいご手でした。「アンセルモはどうした!」と訊くと、「今朝、亡くなった」との答えが返ってきたのです。それを聞いた瞬間、オルガニストの背筋にビリビリッと震えが走ったそうです。
これまで自分の音楽こそ、神への最高の賛美の献げ物だと思っていた。自分一人でやって来たと思っていた。でも、この時、気づいたのです。自分はいつも人を喜ばせ、人から見られ、称賛された。口では「神さまを賛美します。神さまのためです」と言っていたけれども、いつの間にか人の注目を勝ち取るために弾いていた。どれだけの人たちを感動させたか、どれだけの人数の人を集められたか、自分を見てくれているかの方が一番大事。結局は自分の栄光のためにやっているに過ぎないことを知らされ、背筋に戦慄が走り、深い悔い改めに導かれたそうです。
私たちの多くはオルガニストではありませんが心当たりがあるのではないでしょうか。私がやっていることを人が認めてくれるかどうかが、自分にとって切実な問題なのです。でも往々にして周囲からは決して期待通りのレスポンス、フィードバックは返って来ません。その結果、私たちは苛立ち、もっとエスカレートしたり、場合によっては、認めてくれない周囲を責めるのです。
主イエスがヨルダン川で洗礼をお受けになった時、天から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という声がありました。この御声が宣言された時、周囲を驚かせ、感動させるような御業は何ひとつなさっていません。勿論、十字架も復活もまだ起こっていなかった。仮に、父なる神さまが、福音書に出て来るような主イエスの宣教の働き、悪霊を追い出し、病人を癒し、ご一緒に読んできたような、マタイ福音書に出てくる数々の深い教えを語られ、5千人の人々の胃袋を僅かなパンと魚で完璧に満たすような奇跡、死後4日も経過し臭い始めたラザロを蘇らせる、とんでもないような御業をご覧になった結果、「ああ、やっぱり、これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者だ!」とおっしゃるのだったら分かるのです。
しかし最後にぶどう園にやって来て1時間しか働かなかった人を最初に呼び出し賃金を渡したいと願う神さまは、どうしても納得いかないのです。何故なら理屈に合わないからです。でもイエスさまは、それが神の恵み、神の愛だ、とおっしゃる。私たちの理屈では、救われ、神の子にされるには、それなりの理由が私の側にあるはずだと、考えているからからです。
洗礼をお受けになったあと、主イエスは荒野に導かれ、40日40夜、父なる神さまと深い交わりを経験されました。そして悪魔の誘惑をお受けになるのです。その誘惑は普遍的な誘惑だと言われます。所有、会社や仲間からの評価、そして影響力の3つです。この3つをどれだけ手にしたかで人間の価値が決まる。以前お話した「我持つ。ゆえに我あり」という世界観です。でも聖書は、「それは嘘です!」とはっきりと言うのです。「神、我を愛する。ゆえに我あり」だ、と。
神さまから離れ、神さまを神さまとして礼拝せず、崇めることをしないならば、本来、造り主である神との交わりを通していただく、そのお方からの評価、そのお方からの称賛、そしてすでに与えられている、必要なすべての物が、1つも視界に入らず、その結果、今日の律法学者やファリサイ派の人々のように、自分を大きく見せずには生きていけない、周囲からの褒め言葉ばかりを見つけては安心するような生き方。そうしたものを少しでも見ること、聞くことに自分の存在をかけてしまうような生き方にならざるを得ない。でも、そうした生き方は裏を返せば、神さま抜きの自己実現、自分を神とする生き方なのです。
主イエスはおっしゃる。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」。これこそが、私たちが従うべき、主イエスご自身の生き方、私たちの鏡とすべきお姿なのです。お祈りいたします。

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私たちを救うメシアはだれか

松本雅弘牧師
マタイによる福音書22章41節―46節
2020年6月7日

Ⅰ.「あなたたちはメシアのことをどう思うか」

今日は本来ならば洗礼式が行われる礼拝です。しかしコロナの影響で延期となってしまいました。洗礼式の時になされる質問の一つに「あなたは、罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主、主と信じ、洗礼を受けることを心から願いますか」という問いかけがあります。これは今日、主イエスがなさった問いかけ、「あなたたちはメシアのことをどう思うか」という問いかけと共通したものです。

Ⅱ.油注がれた者への待望

旧約の時代、「油注がれた者」は特別な職務祭司、預言者、王のいずれかに限られていて、任職の際、その人の頭に油を注がれたのです。こうした視点をもって旧約聖書を読み返しますと不思議な言葉に出あいます。イザヤ書45章1節の「主が油注がれた人キュロス」という表現です。キュロスとはペルシャ帝国の王です。
イザヤは異教徒であったキュロスが油注がれた者、メシアだと語っているのです。理由は彼がユダヤ人たちをバビロン捕囚から救い出すのに用いられた神の器だったからです。彼は非常に研究熱心で、「覇権を掌握した大国がなぜ滅ぶのか」という問題意識をもって歴史を調べました。その結果「被征服地の神々を怒らせたからだ」との結論に至ります。そこでキュロスはバビロンに捕囚にされたユダヤ人たちを解放しエルサレムに帰還させ、神殿を再建させ、彼らが信じる主なる神にペルシャ帝国の繁栄を祈ってもらうことをさせるのです。
確かに預言者イザヤはキュロスを「油注がれた人」と呼びましたが、所詮彼は世俗の王です。いざとなれば権力や武力に訴えて物事を進めるに違いない。本当の意味で自分たちイスラエルを信仰の祝福へとは導いてくれない。そうしたことに気づかされていく中、キュロスに代わる、真のメシアへの待望がユダヤ人の間に起こっていったと言われます。一方、主イエスの時代はローマ帝国による支配と抑圧です。ユダヤ人の指導者層の一部、先日登場したサドカイ派などはそのローマと結託し同胞ユダヤ人から搾取していたのです。
ですから、いつかダビデに代わるメシアが現れ、エルサレムに再び繁栄を取り戻したい。いや、メシアは王・祭司・預言者の三職を兼務し、自分たちユダヤ人のために神に執り成し、自分たちを神の民として整えるために御言葉で養ってくれるような、真の王なるメシア・キリストを待望していたわけなのです。そうした背景がありました。

Ⅲ.ダビデ王を超えるお方

さて、ここ数週間、主イエスとユダヤ人指導者たちと論争の箇所を読んでまいりました。問いかけられた質問に対して、主イエスご自身も繰り返し問い返す。すると今度は考えに考え抜かれ質問を準備し主イエスを問い詰める人々が登場する。そして最後は愛についての質問でした。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」。
これに対して主イエスは、彼らの思いを超えて本当に大切な神の愛を説かれたのです。私たちはあるがままで神に愛されている。あるがままで神に愛され、喜ばれていることを知る中で、私自身をそのままの姿で受け入れることができるようになってくる。そして同様に神が隣人のことを大事にしておられることを知る中、隣人を愛する者として変えられていく。愛するよりほかに生きる道はないのだと説かれ、その延長線上、究極にある問いが、今日の、「あなたにとってメシア・キリストはだれか」という問いでした。
するとファリサイ派の人々は即座に「ダビデの子です」と答えました。これは当時の人々のメシア信仰の中身を表明する言葉でしょう。「来るべきメシアはダビデの子孫より生まれる」と信じていたのです。ところがこれに対して主イエスは、ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか、と問題提起をされたのです。当時の人々はダビデ王を理想化していました。その結果、ダビデを超える存在を考えることができなかった。主イエスが問題にされたのは、そこだった。
「ファリサイ派の先生方、あなたがたは、メシアを『ダビデの子』と呼ぶことによって、来るべきそのお方の栄光を狭めてしまってはいませんか。『ダビデの子』として限界づけてはいませんか。そのお方は、あなたがたの想像をはるかに超える仕方で来られるのだ」、とおっしゃったのです。本当に皮肉です!そのお方こそ、彼らの目の前にいた、彼らが殺そうと謀っていた、主イエス、そのお方だったのです。

Ⅳ.「金冠のキリスト」

今日は旧約にイザヤ書第53章を選びました。ユダヤの人々は、「メシアは、あのダビデ王、あの栄光の時代が再びやってくる」と待ち望みました。それが当時のユダヤ人たちが考える、最高のメシア・キリスト像でした。ところが実際のメシアはイザヤ53章に出てくるようなお姿で来られた。ちっともメシアらしくない。王様らしくない。「見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。…」。
ですから、ここに出てくるファリサイ派の人々もそうでした、メシアとして来られたイエスを「軽蔑し、無視し」たのです。ただ、そうしたイエスさまでしたが、それでも一度だけは王様らしい姿があったかもしれません。
この数日前、主イエスは正にメシア、王様として人々の大歓声の中進んでいかれました。エルサレム入城の場面です。でも、そんな時でさえ主イエスはロバに乗っておられたのです。普通かっこいい軍馬に乗り手に剣とかを持つものです。戦いに強いのがメシアである王様でしょう。でも主イエスはロバに乗る、「戦わない王様」なのです。ロバの仕事って何でしょう。いつも重たい荷物を担いで動くことです。主イエスの王様としての務めも、ロバと同じでした。
私は説教の準備をしながら韓国のカトリックの詩人、金芝河(キムジハ)の「金冠のキリスト」という戯曲を思い出しました。こんなストーリーです。
ある会社の社長が多額の寄付を集め街の広場の真ん中に、黄金の冠をかぶった王の姿をした立派なイエス像を、セメントで作るのです。仲間の金持ちや町の役人が毎日のように像の前にひざまずき、「イエス様、あなたは王の王です。教会の為に多くの寄付をしますからどうか私たちを犯罪者や敵から守り、私たちの商売が益々繁栄しますように」と祈りました。夜になるとイエス像のもとに、寒さに震えながら、娼婦、物乞い、そしてハンセン病患者の3人が肩を寄せ合いながら座り、互いに支え合っている。そうしている内に、突然イエス像の口から嘆きの言葉が聞こえてきます。「どうか私を捕虜の身から自由にして、解き放して下さい」。驚いた3人が、「どうすればあなたを自由にすることができますか」と訊くと、イエス像のイエスが答えるのです。
「あなたたちの貧しさと柔和さ、温かい心、不正への怒りは、私を自由にできます。あなたたちの手によって私を解き放ち、あなたと共に歩み、苦しみ、共に立ち上がっていきたい」。
3人は、このイエスの呼びかけに答えて立ち上がります。そしてシスターたちや町の貧しい人たちも加わって、コンクリートを打ち壊そうとするのですが、そこに金持ちや機動隊がやって来て、彼らは逮捕されてしまうと言う話です。
この戯曲は当時韓国の独裁政権と癒着関係のあった一部の教会が、人の苦しみに目を向けず、動こうとせず、逆に人々を抑圧する権力の側に立っていた現実を暴き、教会自体がイエスをコンクリでかため、金の冠をかぶせ、何もできず何も言えない状態にしていることへの痛烈な批判を込めた戯曲です。
福音書に出てくるお姿を見る時、主イエスは人間の中で最も貧しく低い者となられました。多くの苦しみを受けられました。ロバの子に乗って入城し、その後、十字架で殺されていった。「金冠のキリスト」の対極にある「苦難の僕キリスト」です。主イエスは私たちに真の平和をもたらすために来られたと教えます。聖書で平和とは「満ち足りた状態・充足の状態」を意味します。自分と言う小さな範囲が平和であっても、充足の状態ではない。自分の小さな殻の中に留まるのではなく、隣人に開かれた者となるために、主イエスの御言葉の大胆さに揺さぶられる経験が本当に大事なのだと思わされる。主イエスの口からでる神の言葉、いや神の言葉そのものとして、私たちの前に立たれる主イエスから、「あなたはイエスを救い主、主と信じ、洗礼を受けることを心から願いますか」。その問いかけに答えて洗礼を受けた私たちは、告白した通りに生きる者とさせていただきたい。そのお方を救い主として、人生を導く主として従い続けていく者でありたいと願います。お祈りします。