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主日共同の礼拝説教

主に託された務めに生きる喜び

松本雅弘牧師
マタイによる福音書25章14-30節
2020年8月30日

Ⅰ.私たちの悩み

私たちの悩みの1つは、自分で選んだのではない条件で生きていかなければならない、ということにあるかと思います。私の父は小さな洋品店を営んでいました。何で自分は洋品屋の両親のもとに生まれたのだろう、と何度も考えたことがありました。友人たちが羨ましくてしょうがない。その理由の1つは、自分で選んだ服を着ることが出来るということにありました。私が着せられる服は子どもが着るような色柄の服ではない。お店で売れ残った品物を裁縫の上手な母が仕立て直した物を着せられました。おじさん臭い色、柄、生地なのです。それがもう嫌でたまりませんでした。好き好んで洋品屋を営む両親のもとに生まれてきたのではありません。程度の差はありますが、私たち誰もがこうした課題を抱えながら生きている。最初からある種の条件のもとに生活を始めなければならない。しかも、そうした条件が、しばしば私たちにとって「悩みの種」になることが多いように思います。今日の「タラントンのたとえ」は、こうした悩みを抱える私たちに大切な方向性を示す教えのように思います。

Ⅱ.タラントンの譬え話

ある人が旅に出かけるにあたって僕たちを呼び、1人には5タラントン、1人には2タラントン、1人には1タラントンを預けて旅に出たというところから譬え話は始まります。1タラントンは6千デナリオン。労働者6千日分の賃金です。およそ20年分の賃金に相当する額です。確かに預けられた額に違いがありますが、一番少ない1タラントンでも実際には本当に大きな額です。つまり誰もが多くの賜物を預けられ、しかも期待され生かされている存在である。価値のない人生なんか1つもない。1人ひとりは、実に価値ある、尊い存在なのだ、ということを教えられます。
ただそうは言っても、預けられたタラントンの違いが気になるものです。こうした額の違いはどこに出てくるのでしょう?15節に見落としてはならない表現が出て来ます。「それぞれの力に応じて」と書かれています。例えば、重さ10キロしか持つことの出来ない人が常に50キロの荷物を抱えながら生きていかなければならなかったとしたら、とてもシンドイ。分不相応でしょう。ここで主イエスは持ち物の量によって評価したりはしておられない。むしろ、「それぞれの力に応じて」タラントンの量が違っていると言われる。そうした上で19節に次のように書かれています。「さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた」とあります。その続きの20節からの箇所を見ますと、5タラントン預けられた人は5タラントン儲け、2タラントン預けられた人は2タラントン儲けました。ところが、1タラントン預けられた人は地の中に隠しておき、結果的にその僕は外に追い出されてしまったという結末です。
ところでこのことだけを取り上げて解釈するならば、私たちの価値がその人の働きや成果にかかっている。そうしたことを教えている譬え話だと理解されてもおかしくないかもしれません。あるいは「働かざる者、食うべからず」ではありませんが、働かなかった者は切り捨てられる、といったように読めなくもない。そうなると神の国もこの世の世界も、結局、同じ価値観が支配しているではないか、と思われるかもしれません。いかがでしょう?
ここで「成果」を挙げた人に注目したいと思うのです。5タラントンの人は5タラントン儲けましたし、2タラントンの人は2タラントンを儲けたのです。成果主義で考えるならば、両者の差は6タラントンに拡がっています。でもここでとても興味深いことが分かります。それは、主人がこの2人の人に対して、全く同じことを言っているという事実です。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」ギリシャ語を見ても、一字一句、全く同じです。成果の違いによって評価は変わっていない。むしろ全く同じです。

Ⅲ.主に託された務めに生きる喜び

こんな話があります。動物たちが集まって森に学校を建てました。その学校には、水泳、かけっこ、木登り、空中飛行などの科目があり、しかも人間の学校のように、すべての動物が全ての科目を取らなければならないといった規則もありました。そして人間の学校のように森の学校にもテストの季節がやってきました。ご存知のようにアヒルは水泳が得意です。でも木登りは苦手。かけっこも上手とは言えません。ですから木登りやかけっこが上達しませんから、放課後残って、一生懸命木登りとかけっこの練習をしました。ところがこの練習がたたって、アヒルは足を痛めてしまった。その結果、得意だった水泳の試験でも、ごく平凡な成績しかとれませんでした。ただ平均的な成績でしたので、アヒル本人以外には、誰もそのことに気づきませんでした。リスは木登りが上手でした。しかし空中飛行はストレスでした。全然、上手くいきません。そのクラスではいつもイライラ、いくら頑張っても木から落ちるだけ。体もボロボロ、疲れもたまり、その結果、得意のはずの木登りでも成績が振るわず。かけっこも惨めな結果に終わりました。
私たちには、これならば喜んでできるというものが必ずあるはずです。勿論、ある程度、まんべんなくやることは大事ですが、運動ベタな人にどんなに運動を教えても、難しい場合もあるでしょう。でも神さまは、その人に何か別のタラントンを与えておられる。ですから私たちがすべきことは、与えられたタラントンを地の中に隠すのではなく、それを磨き、用いていけばよいのです。
パウロはコリントの教会に向けて、「そこで神は、御自分の望みのままに、体に1つ1つの部分を置かれたのです」と語りました。アヒルをアヒルに造られたのは、慈しみ深い神さまの御心によるものということでしょう。恐れる必要など全くないのです。大事なことは、自分にタラントンが与えられており、そのタラントンを地の中に隠して何もしないのではなく、磨き、用いることです。
そして先ほど、5タラントンの人と、2タラントンの人に向けて語られた主人の言葉をもう一度見て見たいのです。「主人と一緒に喜んでくれ」とあります。私たちにタラントンを預けた大きな目的は何かと言えば、主人の喜びを共にするということです。小さな子どもが、台所で、お母さんのお手伝いをする時、本当に満足をする。物凄い喜びで満たされる。お母さん一人でしてしまえば、時間もかからず、おいしく仕上がる料理ですが、敢えて、子どもに手伝わせると手間もかかります。効率もよくないかもしれません。でも、そうする。何故かと言えば、作る喜び、作った物を家族が食し喜び合う幸せを子どもと一緒に分かち合うためです。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。 主人と一緒に喜んでくれ。」とは、そうした意味なのです。

Ⅳ.他者を生かすために与えられている賜物

実は、このあと、主イエスは、十字架につけられて殺されていかれます。この譬えを聞きながら、決して忘れてはならないことに気づかされます。それは十字架の出来事が愛の出来事、私たちが生かされていくための、主イエスによる犠牲的愛の出来事だということです。主イエスが自己犠牲的愛の結晶としての十字架の死を目前にして、いま、タラントンの譬えを語っておられるのです。一人一人に託されているタラントン、すなわち神が私たちに託す尊い宝は、決して自分ただ1人を生かすものではない。もっと積極的な生き方を期待して、主は託しておられる。その預けられたタラントンを用いて、いかに他の人々を愛し、どうしたら他の人々を生かすように使っていくことができるのか、正に主イエスは、十字架を通して身をもって示そうとなさったのではないかと思うのです。
そして最後、私たちは預けられた賜物をいつかまた主にお返ししなければならない日が来るということを忘れないように、と主イエスはおっしゃる。私たちはその日をどのようにして迎えるのか、です。その日、私たちは喜んで主の御前に進み出ながら、「主よ、本当に感謝でした。あなたからお預かりしたものを精一杯用いさせていただきました。今、あなたにお返しします。本当にありがとうございました」。喜びをもって、そのように告白できる人生を求めて、この1週間も歩んでいきたいと願います。お祈りします。

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祝福の祈り

和田一郎副牧師
詩編37編21-31節
2テサロニケ1:1-2節
2020年8月23日

1、テサロニケの町と使徒パウロ

パウロがこの第二のテサロニケの手紙を書いたのは、第一の手紙を書き送ってから、間もなく書いたようです。テサロニケという町は、今でもギリシャの中ではアテネに次いで2番目に大きい都市でテッサロニキと呼ばれています。当時はマケドニア州の主要都市でした。マケドニアというのは、世界史に出てくるアレキサンダー大王が世界帝国を築き上げた国です。パウロの時代にはマケドニア王国はローマ帝国の支配下になっていて、ローマ帝国の支配下にあるマケドニア州となっていました。ローマの影響を強く受けてローマ皇帝に対する尊敬と忠誠心が強かったのです。皇帝の銅像が置かれ、ローマ皇帝を祭る神殿がありました。つまり皇帝礼拝が行われていました。ですからクリスチャンたちが、皇帝礼拝を拒否したならば、反社会的な人々とも思われかねないことでした。
パウロはかつてそのテサロニケの町に行って宣教をしました。その時ヤソンというユダヤ人と出会って、彼の家に滞在したのです。パウロは彼の家やシナゴーグと呼ばれる会堂で説教をしてイエス・キリストの福音を伝えました。誰にも経済的負担をかけまいとして、昼も夜も天幕作りの仕事をしながら生計を立てて伝道しました。テサロニケの教会の中には、イエス・キリストの再臨の時は近い、この世の終末は近い、だからコツコツと働く必要はないと、仕事を怠ける者がいたのですが、パウロは自分が模範となって天幕作りの職人をしながら伝道したのです。そこから「働こうとしない者は、食べてはならない」という言葉が第二の手紙に書かれていて、それが「働かざる者、食うべからず」という諺となりました。これは、再臨の時まで自分に与えられた仕事をしっかりして、信仰生活を守りなさいという教えです。
パウロがテサロニケの町で、福音を伝えたことによって教会が形成されました。しかし、それを妬んだのはユダヤ教のユダヤ人たちでした。ユダヤ人たちはパウロを滞在させていたヤソンの家を襲撃したのです。しかし、ヤソンはパウロをかくまいました。そのおかげでパウロたちはテサロニケの町から逃げてきました。パウロたちがコリントの町にたどり着いてしばらく滞在している頃「テサロニケの信徒は、迫害にあってもパウロの教え通りにしっかり教会が保たれているらしい」という知らせを聞いて、いてもたってもいられずに書いた手紙が、この二つのテサロニケの信徒への手紙です。
この二つの手紙は何について書かれているのでしょうか。それは、キリストが終末の時に、再び地上に来られる「再臨」について書かれているのが特徴です。ですから二つの手紙は「再臨書簡」と呼ばれています。再臨の時までにキリスト者がどのように生きていくべきか。その信仰生活について述べられています。
よく「人は生まれたときから、死に向かって歩んでいる」と言います。人生のゴールは死であると。しかし、この手紙は死に目を向けながらも、今をしっかり生きること、再臨というゴールの時、主イエス・キリストが来られて永遠の休息、平安に入るという信仰をしっかりともちながら、今を生きなさいというパウロの教えです。
パウロは具体的に「働きたくない者は、食べてはならない」しっかり自分の仕事をしなさいと教えました。「仕事」は「仕える」という字を使います。仕えることが仕事です。他者に仕える、世の中に仕える、そして何よりもイエス・キリストに仕える者としてこの世を生きて、死の先にある再臨の時に平安の報いを受けなさいと、パウロはこの手紙で教えています。

2、祝福の源 アブラハム

今日の聖書箇所の2節は、祝福の祈りです。パウロがテサロニケの人々のために、祝福を祈っている箇所です。ここで「祝福」という言葉に注目したいと思います。祝福とは「神の愛によって恵みを与えられること」をいいます。神様に「祝福の源」と言われたアブラハムに与えられた祝福の言葉があります。
「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る』」(創世記12章1節‐3節)
この箇所では、「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」と書かれています。アブラハムによってすべての人々が祝福に入るというのです。確かにアブラハムに与えられた祝福はイサク、ヤコブ、そしてその子孫である12部族に及びました。そして、霊的なアブラハムの子孫である私たちにも、その祝福は受け継がれています。
パウロもキリスト者を迫害する呪う者から、キリストに出会って祝福する者となりました。パウロは説教や手紙で、人々を祝福しながら旅をしたのです。そして、テサロニケの教会は祝福され、今や他の教会の模範となって祝福する者となりました。祝福が周辺の町に受け継がれていったのです。
聖書が言っていることは、祝福はそこに留まらない、受け継がれていくということです。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(1ペトロの手紙3章9節)

たとえば祝福が受け継がれる例に幼児洗礼があります。神様はアブラハムに言いました。
「・・・あなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける」(創世記17:10)。契約とは「あなたによって祝福に入る」とアブラハムと交わした約束です(創世記12:3)。その「しるし」として割礼を受けなさいというもので、幼児洗礼は割礼が原型になっています。新約の時代には、神とアブラハムの約束(契約)の子孫として祝福の中に入る、その「しるし」が幼児洗礼によって表されています。教会と家族は、その子が「神の家族」となっていく責任を担うという大切な働きです。幼児洗礼も「あなたによって祝福に入る」という営みの一つとなっています。

3、イエス・キリストによる祝福

しかし、この祝福はイエス様が来られるまでは限られた人にしか与えられないものだと思われていました。人間的な目で見て立派な人、成功している人しか神様の祝福を受けられないと、神の御心を誤って理解されていました。そこにイエス様が地上に来られて、山上の説教で8つの祝福について話されました。「心の貧しい人々は、幸いである」と始まった言葉は「八福」と呼ばれている祝福の言葉です。「幸いである」とは、「祝福がある者」と訳していい言葉です。「心の貧しい人、悲しむ人々は、祝福があります」となります。「柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人、わたしのためにののしられ、迫害される人、あなたがたは祝福されています」と、イエス様は宣言されました。当時の常識では考えられない祝福の理解でした。人間の目で見て良い人も、悪い人でも、成功して見える人も、苦しんでいる人にも「祝福があります」と言われました。しかし、大事なのは理屈よりも、イエス様が「祝福がある、幸いがある」とされたから、幸いがあるということです。人から見れば不幸に見えても、イエス様が「幸いである」と言われるなら、それは幸いな人です。山上の説教では自分には幸いなどない、祝福には入れないと思ってきた人たちが祝福されたのです。彼らは祝福を受け取り、やがて祝福を受け継ぐ者となっていきました。

4、生きた祝福

わたしは山上の説教を聞いていて、今年の春に天に召されたN兄のことが思い出されました。N兄はずっと一人暮らしをされて、歳を重ねてからは施設に入居されていました。若い頃から脳梗塞の障害が残ってしまったので不自由が多かったと思います。Nさんが初めて行った病院で、「あらNさん?」と声をかけられたそうです。初めての病院でしたが、そこに他の病院でNさんの看護をしたことのある看護師さんが覚えていたというのです。Nさんはどこに行っても人気者でした。笑顔を絶やさずに、周りを和やかにする賜物がありました。長い間、障害を抱えて暮らしていたNさんは、人の目には豊かな人生には見えなかったかも知れません。しかし、ずっと信仰をもっていてイエス・キリストのゆえに「あなたは幸いです」と祝福された人でした。私はお見舞いに行った時、生きた祝福を見る思いでした。
山上の説教に集まった人たちのように、イエス・キリストを見上げて、キリストの言葉を受け入れる者は、その人の心の中に「幸いです」とイエス様は宣言してくださいます。その幸いは、自分に与えられた仕事を守り、死の先にある最終的な平安を信じて生活していく時、わたしたちの幸いは、隣人に受け継がれていくものです。
神様はアブラハムに「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」とおっしゃいました。私たちクリスチャンが、祝福に入った者として正しく立つ時、家族や周囲の多くの人を幸いなる者、祝福された者として導くようになります。この祝福を受け継ぐ者でありたいと願います。 お祈りをいたします。

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分かち合うことのできないもの

松本雅弘牧師
マタイによる福音書25章1―13節
2020年8月16日

Ⅰ.譬え話のあらすじ

今日の譬えの筋は実にシンプルです。花婿がやって来るのを花嫁の友人、十人のおとめたちが待っていました。ところが夜中になってもやって来ない中、彼女たちは皆、居眠りをする。しばらくして花婿到着の知らせを受けて飛び起きるのですが出迎え用のランプの火が消えかかっていたのです。半数の五人は予備の油を用意している中、残りの五人はそうしておらず、油を分けて欲しいと賢いおとめたちに願うのですが、断られ、急いで買い求めて帰って来たときには、すでに花婿が到着していて婚宴が始まっていました。中に入れて欲しいと必死に願うのですが、それがかなわなかったという話です。

Ⅱ.分かち合うことのできないもの

この譬え話を聞く時、五人の賢いおとめは厳しいとか冷たいと思ってしまいますが、主イエスはそのことを問題にされるのではなく、人生には「分かち合うことのできないものがある」ということを示そうとしておられるのではないかと思うのです。勿論、分かち合うことの出来るもの、分かち合うべきものもたくさんあります。特に、今の時代、分かち合うべきものがとても多いようにも思います。
今日の週報に、「小会報告」を掲載しました。今月に入り、日本中会のアジア宣教小委員会から、「香港中会に対する祈りと献げもののお願い」という書簡が送られてきました。そこには現在の香港中会の様子が報告され、祈祷課題が挙げられていました。それについてはぜひ分かち合っていきたいと思いますし、また分かち合っていかなければならないと思います。つまり分かち合うべきものがあるのです。
聖書を見ても主イエスのチャレンジに応じた少年が、手元にあった五つのパンと二匹の魚を分かち合った結果、男だけで五千人、女性や子どもたちを含めたらおよそ一万人以上の人々にいきわたりました。勇気のある、その少年のパンと魚の分かち合いによって、神さまの恵みの出来事が豊かに広がっていきました。これも分かち合った結果、起こった神の恵みの出来事です。
しかし主イエスは、分かち合うことのできないものもあることを伝えているように思います。例えば、人間の基本的な営みである、「食べたり、飲んだりすること」もその一つです。夏バテ気味で食欲が落ちていたとしても、「あなた、私の代わりに、その食事、食べてください」とお願いしたとしても、その人が食べたり飲んだりすることで、私の夏バテは解消しない。私が自分の口に食べ物や飲み物を流し込まなければ体力は回復しません。
以前、サンフランシスコカンバーランド長老教会に立ち寄らせていただいた時、その教会の長老が、「教会には〈神の子〉はいるけれども〈神の孫〉はいない」と話された。
意味を尋ねると、「聖書には、〈神の子〉という言葉が何度も出てくる。しかし〈神の孫〉という表現は一度も出てこない。実際、私が〈神の子〉なら、私の子は〈神の孫〉にあたる。しかし聖書に〈神の孫〉という言葉はない。つまり信仰は、親が信じているから大丈夫と言う世界ではない。1人ひとりが〈神の子〉とされる必要がある」と話されたのです。
賢いおとめたちは、どこか冷たいように感じます。でも、私たちが感じる冷たさや厳しさは、賢いおとめたちのせいではなく、むしろ人生そのものが兼ね備えている、人から借りた油ではやっていくことのできない厳しさ、決して分かち合うことの出来ない油というものがあるという、場合によっては冷たく感じてしまう事柄のせいなのではないかと思うのです。
13節で主イエスは、「目を覚ましていなさい」と言われるのですが、ここではおとめ全員が居眠りをしていました。だとしたら賢さと愚かさの境目は眠っていたかどうかではなく、油の用意があったかどうかでしょう。もっと言えば灯をともしているかどうかです。ここで主イエスは、私たちにとっての油は何か、灯が何かについても特に語ってはいません。私たちの信仰生活は油を用意して生きるようなものだとある牧師は語っていました。確かに油の用意ができていれば、平安の内に身を横たえることができる。でも用意ができていなければ、いざ何かが起こった時に慌ててしまいます。
この譬えをお語りになった場面は受難週です。十字架にお架かかりになる直前の説教なのです。そもそも何で主イエスは十字架に苦しむ必要があったのか。そうです。それがなければ神さまと私たちの間に和解が成立しなかったからです。私たちと神さまとの間の繋がっていない道を自らの命をもってつなげるために、十字架でその尊い命を捧げられた。そのようにして、御自身にしかともすことの出来ない灯を、ともしてくださったのです。そしてそれは私たちにも当てはまります。
私たちは神さまから授かった生命、あるいは「人生」と呼んでもよいでしょう。そうした「いのち」をいただいています。そして聖書によれば、私たちは誰でも、この歴史上、決して二つとない、ユニークな唯一無比の存在として生かされています。時代、国や地域、性別や嗜好、生まれ育った環境、ある意味、自分では選べない、ある種の制約や条件をも含めて、神さまが造られたこの世界で、一日一日を生きるようにと選ばれている。そう考えてみますと、この私を引き受けて生きていくこと自体が、別の誰かが私に代わって生きてはくれないと言う意味からして、決して分かち合うことのできないものなのではないか。主イエスはその厳粛な事実を伝えようとしているのではないかと思います。

Ⅲ.憐れみ深い神さま

3年前の夏休み、大阪女学院を見学しに行ってまいりました。チャペルがあり、そこに「十人のおとめの譬え話」を題材にした絵が掛けられているのです。
エーミル・ブルンナーが、ヨーロッパの教会でよくみられる、十人のおとめの絵や像について「教会が神の裁きを示すために、このような裁かれた者と救いに与る者とを対比させて彫刻に掲げていることには、根本的な間違いがある。聖書の読み違いがあるのだ」と語っていたそうです。
ブルンナー先生に言わせるならば、大阪女学院のチャペル入り口に掲げられた絵は、そこを通る生徒たちが、「ああ自分はダメだ。愚かなおとめになりそうだ」とビクビクさせ不安にさせるために掛けられているのではないのです。逆に「先週は教会にも行けたし、このところ聖書も読めている。献金もしたから、イエスさまが来られても、賢いおとめのようにしていられるから大丈夫」と安心させるためのものでもないのです。
そもそも主イエスが来られたのは何のためなのか。十字架にお掛になるのは何のためだったのか。それは誰かを滅ぼすためではなく、私たちを救うため。そのために十字架にかかってくださったのです。もっと言えば、賢いおとめと愚かなおとめの区別を消して、みんなでキリストをお迎えできるようになるために、主イエスはわざわざこの譬えをお語りになったのです。
注意したいのですが、この譬え話には閉められた扉のことが語られていますが、それは花婿が到着したからです。でも、いまこの時はどうでしょう。まだ花婿は到着しておられないのです。ですから、扉は閉じられていません。締まってはいないのです。ある牧師が語っていましたが、主イエスは、「もう一杯です」とか「扉は閉じられました」と宣言しておられるのではない。「さあ、お入りなさい。誰でも入って来なさい。ぜひいらっしゃい」。そう招いておられる。だって、そのためにこそ、これから十字架で命を捧げようとしておられる。落とそうとしてハードルを高くしているのではないのです。救うためにとことんハードルを下げ、いやそれをなくしてしまわれたのが十字架に現わされた無条件の神の愛なのです。

Ⅳ.礼服を着て婚宴が開始されることを待ち望んで生きて

この説教の準備をしながら、既にご一緒に味わったマタイ福音書22章の記されている、もう一つの「婚宴の譬え」が心に浮かびました。婚宴に招かれた人は誰も来ようとしないのを知った王は「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」と命じられた。そして自ら礼服を準備された。
私たちがすべきこと、それはこの主イエスの招きに応えること。十字架によって準備してくださったイエス・キリストという礼服を着て、その主が来られ婚宴が開始されることを待ち望んで生きていくことなのです。お祈りします。

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滅びを突き抜ける希望

松本雅弘牧師
マタイによる福音書24章32―51節
2020年8月9日

Ⅰ.天地は滅びる

ここで主イエスは「天地は滅びる」とはっきりとおっしゃるのです。その「天地」の中に被造物世界の一部である私たち人間も含まれる。でも私たち人間はなかなか自分たちが死ぬ、滅びるということを受けとめることが難しい。そこで主イエスは創世記のノアの出来事をお語りになります。ノアの物語を聞いて改めて気づかされることがあります。ノアは隠れて箱舟作りをしたのではなかったことです。森のど真ん中、その時代の人たちの目の前で箱舟作りに精を出したのです。ノアとあの時代の人々との違いはどこにあったのか。神の言葉に対する姿勢の違いにあったのではないか。神の言葉、それが警告であれ、約束であれ、そうした神がお語りになった御言葉を額面どおり真に受けるのか、それとも割り引いて聞こうとするのか、そうした御言葉への姿勢の違いにあったように思うのです。

Ⅱ.父なるお方と飲み食いの関係

ここで主イエスは責めておられるのではありません。あるいは「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしている」ことがいけないと脅しておられるのでもないのです。そうではなく、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」とおっしゃって、その日、その時は、父なる神だけが知っていて、しかもその神はあなたがたの父なるお方なのですよと語っておられることに注意したいのです。
思い出していただきたいのですが「祈ることを教えて下さい」と求める弟子たちに「天におられるわたしたちの父よ」と祈るように教えて下さいました。神を「父」と呼ぶことは当時は一般的ではありませんでした。そのような中で主イエスは「父」と呼ぶように教えて下さった。しかも元々天におられる、その父なる神の懐から来られた御子イエス御自身が、「そう呼びなさい」と教えてくださった。それが「父」という呼び方でした。
先週、15名の新しい神の家族が私たちの群れに加えられました。洗礼に備えカンバーランド長老教会の大切にしている幾つかの教理も聖書か

ら学びました。その1つが神と私たち人間の基本的関係が「親子の関係」という教えです。従来のウェストミンスター信仰告白では、神と人間との関係は法的な関係、この世界を神の律法が支配する「法廷」と見る世界観があったのに対し、私たちの教会は神と人間との本来的関係は「親と子」という親子関係であり、したがってこの世界は、「ホーム/家庭」なのだと告白します。その確かな証拠に、主イエス自らが神を指し「父」と呼ぶように教えてくださっているのです。しかも実際にお使いになった言葉は「アッバ」という、とっても砕けた呼び方、「お父さん/お父ちゃん」と呼びなさい、と言われるのです。主イエスは、そのお方に向かって、「日ごとの糧を今日、与えてください」。私の分だけ、少し広げて私の家族だけの糧ではありません。私たち人類に「日ごとの糧」をお与えくださいと祈るように教えて下さった。このように見て来ますと、「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしている」ことがいけないどころか、飲み食いする物を求めるようにと教えておられるのが、他でもない主イエス御自身だということなのです。
ですから、ここで主イエスは、飲み食いに意味がないとおっしゃっているのではないのです。飲み食いはとても大切です。めとること、嫁ぐことも大事なのです。ただ、その大切な日々の生活のなかでも、終わりの日が来ること、また私たち自身も土に帰る時がくることを忘れないようにと語っておられる。もっと言えば35節、これが今日の聖書箇所のキーワードですが、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」そうです。「わたしの言葉は決して滅びない」。このことを忘れないように。滅びることのない、この主イエス・キリストの言葉に生きるようにということなのです。

Ⅲ.「わたしの言葉は決して滅びない」

前回の説教で、私自身、大変ショックを受けた、「8割おじさん」こと、北大の西浦博教授の言葉をご紹介しました。「世界が壊れないといいがと真剣に心配している」という、その言葉にどこか頷いてしまう私を発見したのです。コロナ禍にある世界、自然災害に見舞われ、今日は長崎に原爆が投下され75年が過ぎた日でもありますが、正に主イエスが予告している世の終わりの様相を呈しているような印象を持つのです。そう言えば、子どもの頃、関東大震災級の大地震がいつかやってくる。いつやって来てもおかしくないと聞かされ、物凄い恐怖心を抱いたことがありました。そう聞かされ、また聞かされ続け、私にとってはすでに50年以上の月日が流れています。地震一つとっても、ある種の滅び、終わりのようなことを薄々感じていている。飲み食いの生活、いわば日常生活をしながら、私たちは心のどこかで、死を意識しているのではないでしょうか。実際、ここ2週間の間に3名の方たちの葬儀をさせていただきました。つい先日までお交わりのあった方たちです。
ですから、主イエスははっきりとおっしゃる。私たち人間を含め「天地は滅びる」のです。でもそれだけで終わらない。もう一つ決して忘れてはならない現実がある。それが35節の後半、「わたしの言葉は決して滅びない」ということなのです。滅びない、確かなものが残されている。それが「わたしの言葉」、御言葉の約束、御言葉に裏付けられた現実、それが私たち神を信じる者が拠って立つ、滅びを突き抜ける希望なのです。
「私たちにも祈ることを教えて下さい」と求める弟子たちに対して主は、「天におられるわたしたちの父よ」と祈るように教えて下さいました。そしてその時、「どうぞ、そうした日、世の終わりが来ませんように」ではなく、心から「御国が来ますように」と祈るようにと教えてくださっています。「御国が来ますように」と祈ることができるのは、「人の子」が来られる再臨の日に、主イエスにあって世界は真の喜びに満たされる、私たち一人一人もキリストに似た者として完成される、という約束の御言葉をいただいているからです。だからこそ、ルターが言うように、「明日、世の終わりが来ようとも、私は今日リンゴの木を植える」歩みを続けることができるのです。
私たちはボーっとしていると、天地が滅びることのみに心が向いてしまい、恐ろしさのあまり、「どうぞ、そうした日が来ませんように」としか祈れなくなります。他でもない、そうした私たちを滅びから守り、本当の意味で意義ある生涯を送れるようにと、主は御言葉を語り続けてくださる。滅びを恐れるのではなく、むしろ心を高く上げ、「御国が来ますように」と祈り、神さまからいただく日々において、「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、私は今日リンゴの木を植える」歩みを続けることができるように、そのためにこそ、主イエスは、決して滅びることのない、私たちを生かす御言葉を語り続けておられる。ですから、私たちは、それを聴き続けていくことが大切なのです。そしてそのことが、その日がいつ来ようとも、備えが出来ていることにつながる。

Ⅳ.滅びを突き抜ける希望

そうした備えることについての信仰者の姿勢について語るのが、32節からの「いちじくの木の教え」であり、45節から出てくる、「忠実な僕と悪い僕」の教えです。
最初、「いちじくの木の教え」ですが、ここで主イエスは、いちじくの木を観察し、そこに変化を観たならば、夏の近づいたことが分かる。同様に「これらのこと」、すなわち、この直前の31節まで語られた様々な終末の徴、終わりの日を示す徴を観たならば、「人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」と言われます。普通は、終わりの日の徴を観たなら怖くなるものです。でも信仰を持っている者たちは違うのです。何故なら近づいて来られるお方が「人の子」、主イエスだからだ、と言うのがその理由です。
主イエスの教えからすると、いまを生きる私たちも、聖書がいうところの「世の終わり/終末」に生かされています。天地は滅びるでしょう。しかし主イエスの希望の福音の言葉は滅びない。そして、終わりの日は完成の日、喜びの日だから。
ですから今週も私たちは、先輩のルターと共に、「明日、世の終わりが来ようとも、私は今日リンゴの木を植える」と告白しながら生きることが許されているのです。お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

天の国のことを学ぶ

宮城献副牧師
出エジプト記3章7-12節 マタイによる福音書13章51-52節
2020年8月2日

Ⅰ.はじめに

この度、私が、高座教会での主日のご奉仕が最終日とのことで、説教奉仕のお役を仰せつかりました。皆さまの尊きお祈りとご支援によって支えられてきた者として、御言葉をお分かちする機会を与えられ、感謝しております。また、今日は、洗礼入会式も執り行われます。新しい神の家族が与えられる恵みに預かることも許され、感謝です。ただ、このようなコロナの状況にあって、高座教会の皆さまに、按手を迎えてのお礼を直接お伝えすることが出来なかったこと、また、直接お別れのご挨拶も出来ない方もおられ、心苦しく思っています。
けれど、神学教師に必要な資格取得のために、留学する決断を致しました。私は、教会に教職者として仕えながらも、神学教育・研究を通しても、教会に仕えていきたいとの志が与えられました。そして、その志に応えていきたいと示され、また神様から、様々な助けが与えられ、道が整えられ、9月から学びを始めることへ導かれていきました。

Ⅱ.学者とは:天の国の学者

さて、今日説教をさせて頂くにあたって、マタイの13:51-52の御言葉が与えられました。というのも、神学校時代に、私が、師事した指導教官の研究室の壁に、この御言葉が掛けられていたからです。研究室では、先生に指導を受けながら、歴史の教会を導いてきた、アウグスティヌス、アクィナス、ルター、カルヴァン、バルトといった教会の先人たちが、命を賭けて、語り、記してきた聖書の教えに心を傾けてきました。ただ要領も悪く、呑み込みの悪い私でしたが、先生は忍耐強く、真理を分かち合うために心を砕いてくれました。このような中で、私は、先人たちの言葉に心を傾け、聖書の教えという真理を分かち合う喜びを教えて頂きました。
そして、今日のマタイの御言葉に出会ったのです。51節で、イエス様は、「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」と聞いております。これらのこととは、前のページの13章1節以降の小見出しを見ていくと、様々なたとえが語られていることが分かります。ですので、イエス様が「これらのことがみな分かったか」という「これらのこと」とは、イエス様が語られた、たとえのことです。そして、イエス様は、それらの「たとえ」を通して、「天の国」について、語られています。ですから、イエス様は、これでもか、これでもかと、様々なたとえを通して、天の国について、教えられました。そして、その後「これらのことがみな分かったか」と、優しく、弟子たちに、彼らの理解を確認しています。愛をもって、イエス様は、弟子たちと、真理を分かち合っていたのです。
そして、弟子たちの理解を確認した後、52節の御言葉が続きます。「そこで、イエスは言われた。『だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。』」ここで、イエス様が、天の国を学んだ、弟子たちを「学者」と呼んでいることに、驚かされます。「学者」という、もともとの言葉は、他の箇所では、「律法学者」を指す言葉として、用いられています。当時の宗教的なリーダーで権威を持つ「律法学者」に該当する言葉が、当時の社会で蔑まれ、馬鹿にされてきた漁師や徴税人出身の弟子たちに向けて語られています。そうだとしますと、天の国を学んだ人とは、どんな人であっても「学者」なのだと、イエス様は、語っていることが分かります。ちょうど、このマタイの福音書の松本先生の講解説教を通して、私たちは、天の御国について、学んできました。ですので、不思議に思われるかもしれませんが、私たちも、皆、学者です。今日から神の家族の仲間に加わる方々も、受洗勉強会を通して、天の御国について、ともに学んできたのですから、天国学の学者です。そして、私のこれからの学びも、この延長線上にあるものだと受け止めております。
また、イエス様の御言葉を通して、天の国を学んだ学者と、律法学者との違いも分かります。イエス様は、学者とは、自分の倉から、食べ物を惜しみなく家族に与えて、養う一家の主人のようだと言うのです。自分が学び、培った真理を、自分の知的欲求を満たすためのものとして、一人占めしようとはしません。そうではなく、真理を分かち合うのです。一方、律法学者は「知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきた」(ルカ11:52)と語られています。律法学者は、培った知識を自分のために、利用していたのです。

Ⅲ.分かち合う真理:神の愛の支配

では、分かち合う真理の内容とは、どういったものでしょうか。イエス様は、学者が「新しいものと古いものを取り出す一家の主人のようだ」と語っています。新しいものと古いものとが、分かち合われる内容です。では、古いものと新しいものとは、何でしょうか。古いものとは、律法と預言者といった旧約聖書を通して、示されてきた神様の御心です。そして、新しいものとは、イエス様を通して示された神様の御心です。
ただ、ここで、注意が必要です。古いものと新しいものと聞きますと、その違いが強調されているように思えます。けれど、イエス様は、律法と預言書を完成するために、この世界に来たのだと語っています。つまり、旧約聖書を通して示されていた神様の御心を、イエス様は、完全に示された、ということです。ですので、古いものと新しいものとで示される、神様の御心は同じです。ただ、この神様の御心は、イエス様を通して、この世界に、完全に明らかにされたのです。
では、イエス様を通して示された御心とは、具体的に何か。それが、愛です。神様の愛です。聖書は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された、」と語っています。また、マタイによる福音書で、天の国とは、神様が支配されている、その領域のことを意味します。そして、イエス様は、宣教の初めに「天の国は近づいた」と宣べ伝えました。天の国が近づいたのですから、天の国の方から、この世界に近づいてきた、つまり、神様が、この世界を治めようとしている、ことをイエス様は語られています。けれど、イエス様は、ただ、言葉を語るだけではありません。神様が、この世界を支配されていることを実際に証されたのです。では、どうやって。それは、イエス様が、病気の人を癒し、貧しい人々にパンを与え、罪びとの友となり、神様の愛で、この世界を満たすことを通してです。ですので、悲しみや憎しみで支配されているように思えてしまう、この世界を、神様は、愛をもって治められることを、イエス様は、示されたのです。そして、この神様の愛のご支配という真理を分かち合う者が、天の国の学者なのです。
神学校の敬愛する先生のもとで、先人たちの言葉に心を傾けていくことで、真理を分かち合う喜びを教えられたとお話しました。そして、私は、この喜びを教えられた者として、神学教師の働きにも仕えていきたいとの志が与えられていったのです。けれど、そういった中で、教会に仕える中で、どのように、この志に応えていけるのかと思い悩む様になりました。そして、ついに、私は、この悩みを解消することが出来なくなっていました。こんな私は、献身者としての道、その全てを捨てるべきだとも思う様になりました。そして、全てのことに手がつかなくなり、生きる気力も失っていきました。
ちょうど、そのような時期、神学校のもう一人の恩師が、執筆中の注解書の資料を集めるために、リサーチアシスタントとしてお手伝いする機会を与えて下さいました。先生は、私が、悩み行き詰まっていることも、ご存知でした。ですが、私が資料を届けに参りますと、その注解書のことや研究なされている御言葉について、生き生きと分かち合って下さいました。今、振り返りますと、そのようなご指導や交わりを通して、私は、心からの慰めが与えられました。先生は、この世の誰とでも、友になられた、キリストの友情論をテーマに、新約聖書を研究されてきました。けれど、先生は、ただ研究するだけではなく、ご自身が学んでこられた神学に生きておられました。そして、行き詰まり、迷い、どうしようもなくなってしまった、この私とも友になって下さったのです。そうやって、イエス様が示された、神様の愛という真理を分かち合って下さったのです。そして、私自身、前を向いていく、一つのきっかけを頂きました。そして、教会に教職者として仕えながらも、神学教育・研究を通しても、教会に仕えていきたいとの思いが固められていきました。

Ⅳ.天の国の学者として

さて、先ほど申しあげましたように、今日は、洗礼・入会式がこの後に執り行われます。誠に感謝なことに、今回もそうですが、何回か、私は、若い学生たちと、洗礼に向かっての勉強会をリードする機会を頂きました。その中で、み言葉の解き明かしをした後に、若い学生たちが、み言葉の真理に出合った、その驚きを分かち合って下さる機会が度々ありました。その度に、私自身も教えられ、多くの励ましを頂いてきました。そして、今日、洗礼に与る方々は、ぜひ、これからも、天の国の真理に出合った喜びを、愛する家族や友に分かち合って頂きたいと思います。なぜなら、皆さまも、天の国の学者だからです。そして、この度、受洗する方々だけではありません。毎週、み言葉に預かり、神様の愛という真理を教えられた私たちも、天の国の学者として、その喜びを共に分かち合っていこうではありませんか。それでは、お祈り致します。