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主日共同の礼拝説教

神の愛を実感する交わりづくり

和田一郎副牧師
ヨハネの手紙一4章19節
2020年12月27日

Ⅰ.コロナウイルスが変えたもの

今日は2020年最後の礼拝の日となりました。毎年この日は、その年の主題聖句から一年を振り返っています。今年の主題は「神の愛を実感する交わりづくり」でした。「交わりづくり」そのことを大切にしようとした年に起こったのが新型コロナウイルスでした。あっという間に世界中に拡大して世界で170万人の命が失われていますが、これは広島の原爆で命を落とした方の数の12倍。つまり原爆12個分以上の命が世界で失われると誰が予測できたでしょうか。私たち高座教会でも、かつてない特別な一年であったと思います。3月末から約3か月はオンラインだけの礼拝となり、日曜日に教会がひっそりとしているというのは教会始まって以来の特別な経験でした。礼拝堂に集まることを禁止せざるをえないことで私たちは悩み、オンラインでいいのだろうかという葛藤を続けてきました。
しかし聖書を見ますと状況に応じて礼拝を守っていたことを知ることができます。たとえば礼拝の場所について、旧約聖書の人々はいつもエルサレムの神殿での礼拝が本当の礼拝だと当たり前に思っていた。しかし、バビロン捕囚となって外国に連れて行かれた人々は、行ったその国で礼拝を続けました。それは、やがてキリスト教の教会の元となっていきました。また、ダビデが命からがら逃亡している時、祭司の他には食べてはならない礼拝用のパンを分け合って命をしのぎました。それをイエス様は「人が安息日のためにあるのではない。安息日は人のために定められた」といって安息日の規定より、人の命を優先されました。これらのことからも、私たちは伝統的なスタイルを守ることよりも、まず尊い命を優先します。神様から預かっている尊い命を大切にしながら、どのような礼拝と信仰生活を守っていけばよいのか、考え続けなければなりません。
新しいスタイルを柔軟に考えることは、宣教の機会を広げるきっかけとなることを感じています。特にコロナ渦とは関係なしに、礼拝に行くことが困難となった高齢の方や、健康、仕事、家庭の事情で思うように礼拝に行くことのできない方もいて、その事情は多様化しています。ですから、この機会に宣教のスタイルを工夫することによって、宣教の幅が広がっていくのではないかと思います。

Ⅱ.今年の主題「神の愛を実感する交わりづくり」

しかし、教会では変えることのできないものも多くあります。その中の一つが、教会における交わりづくりです。今年の主題は、「神の愛を実感する交わりづくり」です。そして聖書箇所はヨハネの手紙第一4章19節です。「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです」
この御言葉で鍵となる言葉が「まず」という一言です。私たちの愛と、神様の愛には違いがあります。私たちの愛には不完全さがありますが、神の愛は完全な愛です。その神の愛が「まず」先にあるというのです。人間は生まれてから親の愛の中で育ちます。幼い時の親の愛がなければ自分を愛することも、他人を愛することもできません。同じように、神様は、私たちが生れる2千年も前に、ご自分の独り子イエス様をこの世に送り、十字架にお掛けになりました。私たち人間の罪を取り除くためでした。つまり、私たち人間を救うために大切な独り子を犠牲にしたのです、そこに私たちに対する愛がありました。
私たちはこの愛に触れるまでは本当の愛を知りませんでした。男女の愛とか親子の愛とは違うさらに深遠な愛、すなわちイエス・キリストの犠牲において神が私たちを愛してくださった。その本当の愛が、まず先にあるから私たちは神を愛し、自分を愛し、他人を愛することができるのです。世の中には神の愛を知らずとも、隣人に愛を示している善良な人がいます。しかし、人間の中からでる愛は不完全です。なぜなら人間は自己中心という罪、自分という不完全なものから出てくるからです。
「まず、神がわたしたちを愛してくださった」それを知るところから本当の愛が現れていきます。隣人を愛すること、交わりを大切にすることは、信仰において愛するということです。これが聖書に記されている神の掟です。
隣人への愛の第一歩はその人に関心を持つことですし、もう一歩先にあるのが共感を持つということです。共感というのは同情ではありません。「同じことが、私にもありうるな」と考えることです。今年は、まさに他人に関心をもち共感することの大切さを知った年ではないでしょうか。「神の愛を実感する交わりづくり」というテーマはコロナがなくても大切なテーマでしたが、コロナ渦にあって「神の愛を実感する交わりづくり」がないと生きていけないと思わされるのです。「人が独りでいるのは良くない」と神様が言われたように、交わりの中で生きるということは、命に関わることなのだと思わされるのです。
私は施設や病院を訪ねることが、すべてできなくなりました。入院、入居されている方は家族との面会もできない状況にあります。しばらくの我慢だと思いましたが、人と会えない寂しさが一層深刻になってきていると思わされます。今年もいくつかの葬儀がありましたが、施設に入居していた方が、家族と面会ができなくなってから元気がなくなっていったという話を聞きました。逆に、教会では祈り会とか家庭集会という小グループがたくさんあります。メンバーとの付き合いが、数十年続いているグループがあります。コロナになって人とはなかなか会えないけれども、教会の小グループの仲間が連絡をくれる、時々訪ねて来てくれる。それがかけがえのない、大切な生きる力になっているという話を耳にします。まさに神の愛を、交わりの中で実感されているのではないでしょうか。

Ⅲ.「人が独りでいるのは良くない」

ローマ皇帝フリードリッヒ二世の実験というエピソードを知りました。生まれたばかりで捨てられた赤ちゃんを、話しかけたり、あやしたり、目を合わせたり人間的な接触を禁じたら、どんな言語を話すのだろうと実験したというのです。しかし、赤ちゃんたちは、大きくならないうちに全員死んでしまったというのです。愛情や人間的出会いがないと、人間は生きることができない。「人が独りでいるのは良くない」という、創世記にある神の言葉の意義深さを認識させられます。
イエス様は、ある町に来られた時に、ザアカイという人を見つけました。ザアカイはお金はあるが友だちがいなかった。町の嫌われ者だったのです。そんな状態から、這い上がろうとしていたと思います。そんなザアカイにイエス様は声をかけた。「今日、あなたの家に泊まることになっている」と言われてザアカイの友人になられた。ザアカイと友人になるということは、彼に共感して共に重荷を負うことです。
ザアカイがもっていた寂しさを、自分も受けるということです。ザアカイはキリストの愛を受けました。そして、他人を愛する心が芽生え、人生に変化が起こりました。町の嫌われ者の心の奥に隠れていた寂しさ、それを知ってくださり、関心をもち、共感してくださったのは、その日初めて町にやって来て声をかけてくれたイエス様でした。神が、まず、私たちを愛してくださった。

Ⅳ.寂しさへの関心、共感、愛

私はいつも3歳の息子とお風呂に入ります。ある日、楽しく風呂に入っていると息子が急に静かになりました。思い詰めたような顔をしているのです。「どうしたの?」と聞くと「なんでもない」とポツリと言って、泣くのを我慢していたのですが、風呂から出ると大声で泣き出してしまったのです。「どこか痛いの?」「怖いの?」「嫌なことあったの?」あらゆる質問をしていって、やっと「寂しいの?」という言葉に初めて「うん」と言いました。何が寂しいのだろうと聞いていきました。すると「幼稚園が寂しい」と言うのです。来年の春から幼稚園に入るために保護者の説明会に行った時、息子はてっきり楽しく遊べると思っていた幼稚園で、保護者との入園手続きなどの話を横で聞かされるだけで、自分が置いてきぼりになった気がして寂しかったようなのです。春から幼稚園に行ったらまた、そんな寂しい思いをさせられると思ったのでしょうか。記憶の中にある出来事で、心がいっぱいになるというのを見たのは、親としては初めてで、心が育っているのだと思いました。これから大人になっても、寂しいという感情は続きます。寂しさは周りに人がいても感じるものです。いや、人の中にいればこそ、自分は関心をもたれてない、共感してくれる人が、誰もいないと感じた時に、寂しいという感情は湧いてきます。
今、私たちの周りには、たくさんの「寂しい」という思いがあるのではないでしょうか。コロナによって、その寂しさは精神的にも肉体的にも厳しさを増しています。イエス様はザアカイの寂しい思いを知って、声をかけてくださいました。ザアカイはその愛を実感した時、他人を気遣う思いが湧いてきました。それが、神の愛を実感する交わりづくりの第一歩です。私たちは、信仰において寂しい思いに関心をもつことができるはずです。信仰において共感する、信仰において愛することができます。イエス様が愛したように、私たちも愛し合いたいと思うのです。「私たちが愛するのは、神がまず 私たちを愛してくださったからです」。お祈りしましょう。

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クリスマス礼拝 主日共同の礼拝説教

神に栄光、地に平和

松本雅弘牧師
イザヤ書25章1-9節
ルカによる福音書2章1-20節
2020年12月20日

Ⅰ.信仰を持つことの不思議さ

私たちの信仰は、イエスというお方に深く関わりを持つ信仰です。そして最近つくづく思うことですが、ほんとうに信仰を持ってよかった。信仰を持っていなかったら、今頃、どんな生活をしていたことだろうと思うことがあります。クリスチャンになることは、イエスさまを愛する者になることであり、そのお方の愛の中にあることを確信しながら日々生かされることでしょう。ただ、クリスマスを迎え、改めて思いますのは、信仰を持つということはとても不思議なことなのではないでしょうか。クリスチャンになるとはイエスさまを愛する者になることであり、そのお方と関わりを持つことです。ところが、そのイエスさまは2千年前に生きた人物です。しかも遠く離れたパレスチナで活動した方です。そのような方と時空をはるかに超え、場合によっては家族よりも深いかかわりの中に生きる。これは本当に不思議です。

Ⅱ.世界で最初のクリスマスを祝ったのは父なる神だけ

今日の箇所でルカは淡々と事実を伝えているように見えますが、実はとても大切なことを伝達しようとするルカ自身の意図が伝わって来るように思うのです。それは、ヨセフが向かって行ったベツレヘムは「ダビデの町」だったということです。ヨセフはダビデの家系に属する人でした。ですからベツレヘムはヨセフにとっての故郷、そこに住民登録のため戻ってきた。そしてイエスさまがお生まれになった。ここでルカが語っているのは「ダビデの町」と呼ばれたベツレヘムで生まれたイエスこそ真の王なのだということです。
もう一つ、ルカが伝えようとしていることは、イエスの誕生を当時の人々は誰も知らなかったという事実です。勿論この後、羊飼いが御子の誕生の知らせを受けるわけですが、それはあくまでも例外、世間一般の人々は誰一人、イエスの誕生を知らなかった。ですから祝いもしなかった。もっと言えば、お祝いしたのは父なる神さまだけだったのです。
さて、イエスさまのこうした誕生をルカはさらに別の視点でとらえ、「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」と伝えています。アウグストゥスの時代には、長きにわたって平和が続きました。一般に「アウグストゥスの平和」と呼ばれます。人々は、「戦争のない、こうした平和な状態が続くのは、皇帝アウグストゥスのお蔭なのだ」と語り、彼を「救い主」と呼び、「神」と崇めた人々も出たそうです。そうした彼の誕生日を「福音」と呼んだ人々もいました。元々は「良き知らせ」という意味するのですが、それをアウグストゥスに当てて使っていたというのです。
そうした上で11節を見ますと、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と語り、皇帝アウグストゥスを呼ぶ時に使った「救い主」の呼称をイエスさまに当てて使っている。天使は飼い葉桶の赤ん坊を指しながら、「アウグストゥスではない、こちらのお方こそがまことの救い主なのだ。ダビデの町に誕生し、布にくるまって飼い葉桶の中に寝かされている乳飲み子こそ、真の救い主なのだ。最強の王、名君と褒め称えられた皇帝アウグストゥスの治世に、実は、もう一人の王が誕生した。そして、この方こそメシア/キリスト・イエスなのだ」、そう確信を持って記しているのです。

Ⅲ.世界の片隅に生まれた救い主

ところで、本を読んでいますと、時々目に留まることがあります。それは、イエスの誕生が当時のローマの歴史にほとんど記録がない、一般の世界史には記録されていないということです。そのような意味で、ルカ福音書2章1節と2節に出て来る記録自体の信憑性が疑問視されてきた経緯がありました。18世紀以降、ヨーロッパを中心とする聖書学者たちの間で、いわゆる科学的、歴史的と言われる福音書研究が始まる中、特にイエスという存在に批判的な立場をとる学者たちが最初に問題視したのが、このルカ福音書2章の1節と2節の記述だったと言われます。この箇所はイエスさまの誕生の出来事と一般の歴史の出来事が交差する場面です。ですので、学者たちはこぞって、ルカの記述とローマ史の記録とを比較検討したのです。その結果、多くの聖書学者が、福音書記者ルカが書いていることは歴史的に正確なものとは言えないと結論づけ、さらにそうした議論の延長線上で、そもそも「イエス」などという人物も実在しなかった、それはキリスト者のでっち上げに過ぎないと言った主張さえも出て来ました。
ところが、その後、大きく学説は変わっていくことになります。考古学の発掘や、エジプト、その他の地域で発見された碑文などの研究が盛んに行われるようになったのです。その結果、これまでの学説が一つひとつひっくり返されていきます。そして今では、福音書記者ルカの記述の正しさが立証されて行くことになったからです。こうしたことを踏まえ、私たちがこの福音書を読む時に、決して見落としてはならないルカが私たちの目を向けさせようとしている点があります。それはアウグストゥスによる世界規模の歴史的人口調査が実施される最中に、世界の片隅の、ほんとうにひっそりとした夜に、もう一人の王、いや真の王である救い主イエスが誕生した。当時の世間では誰も知らない。それ故、誰からも祝われない仕方で誕生しました。ある人の言葉ですと、それを歴史的出来事としてスクープした新聞記者のように、自らの興奮を抑えつつ、しかし確信を持って、「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」と記録するのが福音書記者ルカだったのです。

Ⅳ.「神に栄光、地に平和」

さらにルカのスクープは続きます。その知らせを受けた最初の人が羊飼いたちでした。羊飼いとは、初めから住民登録の対象外の人でした。だから世間が人口調査でごった返している最中にベツレヘムの野で羊の番をすることが出来ていたのです。ではなぜ神さまは、羊飼いたちにまず御子の誕生を知らせたのでしょうか?結論を言えば、だれよりも彼らこそイエスさまを必要とする人たちだったからでしょう。
ところでルカは、主イエスの誕生に飼い葉桶が使われたことを伝えています。その理由は「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったから」とあります。「場所がなかった」とは、「迎え入れてはくれなかった」ということです。実はこれこそ羊飼いたちが経験していたことです。「お前なんか居ても居なくてもいい」と人々から扱われ、深く傷つく経験を何度もさせられていた。その彼らに、神さまは御子誕生の最初の知らせを伝えてくださったのです。
イエスさまがおられた場所はきっと臭かったでしょう。ただその「臭い」こそ羊飼いが身にまとっていた「香水」なのです。羊飼いたちからしたら全く自然な臭い、むしろホッとできるような香りだった。羊飼いたちが恐れることなく近寄ることができるように、しっかりと「野原の香水」をたっぷり浴びるようにして飼い葉桶に生まれてきてくださった。しかも赤ん坊の姿で生まれてきてくださった。神さまって何と優しいお方なのでしょう!
イエス・キリストはひっそりとお生まれになりました。それは、ひっそりと生きることしかできない人、片隅にしか居場所を見つけることができない人の救い主になるために、忘れ去られるような仕方で、本当に静かに生まれてくださったのです。そして、羊飼いたちに喜びの知らせを告げた天使たちは、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と歌ったのです。クリスマスの夜に、飼い葉桶の中に、オムツにくるまって、誰に認められることもなく、産声をあげているイエスさま。そのお方の誕生によって神の恵みの支配がこの世界に始まった。全ての人の救い主となり、まさに全ての顔から涙を拭おうとする神さまの闘いが、この時から始まったのです。私たちは、この王なるイエスさまの平和を実現する闘いに参与するように招かれています。その光栄と喜びを今日、もう一度、共に確認し、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」と賛美しながらの歩みを進めて行きたいと願います。
お祈りします。

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アドベント 主日共同の礼拝説教

厳しい現実の中で

松本雅弘牧師
詩編147編1-11節
ルカによる福音書1章39-56節
2020年12月13日

Ⅰ.アドベントの主役としてのマリア

しばらく前の話ですが、幼稚園のクリスマス会を翌日に控えた年長さんが、虹の部屋の前で遊んでいました。通りかかった私に、「明日は、クリスマスなんだ。劇をやるんだ」と話しかけてきました。「誰の役?」と尋ねますと、「マリアさん」とその女の子は答えました。そして、もう1人の女の子に「あなたは?」と訊きますと、その子も「私もマリアさん」と答えました。〈さすが、みどり!〉と心の中で嬉しくなりながら、「マリアさんは何人いるの?」と尋ねますと、「8人かな、でもイエスさまは3個しかないの」と答えが返ってきたのです。お人形のイエスさまが3つしかない、という意味でしょう。改めて私は、降誕劇の主役はマリアさんなんだなぁ、と思ったことでした。

Ⅱ.喜びに溢れるマリア

今日もそのマリアさんが登場します。受胎告知を受けたマリアには婚約者ヨセフがいました。まず彼のところに急いで行って話を聴いてもらってもよかったかもしれません。あるいは家族か、もしくはナザレの会堂長のところに出掛けて行くことも考えられます。ところが、ルカ福音書は、マリアがエリサベトの許に急いだことを伝えています。
何でそんなにも急いで向かう必要があったのでしょうか。例えば、ふと気づくと急ぎ足で歩いている自分を発見するようなことがあります。そのような時、心の中に何か急き立てるような思いがあることに気づきます。不安や焦りであったり、何か落ち着かない気持ちだったり。でも、それとは全く逆のこともあります。向かった先に楽しみが待っているような場合です。「少しでも早く、そこに行ってみたい」という思いから急いでしまう。この時のマリアはそうだったのではないでしょうか。彼女の心の内はどのようなものだったのでしょうか。それを解く鍵が「マリアの賛歌」の歌い出し、「わたしの魂は主をあがめ」にあると思います。この「あがめる」という動詞の形は現在形で書かれていて、ニュアンスを込めて訳すならば、「わたしの魂は主であるあなたを、今もずっとあがめ続けています」という意味です。この時、マリアはすでに喜んでいた。不安だったので確かめようとしてエリサベトの許に急いだのではありません。喜びに急き立てられていたからです。それが、ここでルカが伝えようとしていることなのです。

Ⅲ.マリアのエリサベト訪問

さて喜び溢れたマリアを迎えたのが親戚のエリサベトでした。エリサベトのところに行って、喜びを感じている者同士、神さまの恵みを数えながら、共に賛美し、祈りをしたいと願ったからです。そして本当に不思議なのですが、エリサベトと会う時点まで、マリアの心の中にあった喜びは歌になってはいません。エリサベトに挨拶され、そして共に抱き合って喜んだ時、その時初めて賛美の歌が生まれたのです。そのようにして歌われたのが「マリアの賛歌」でした。
ところで学者によれば、マリアは全く白紙の状態から、この賛歌を歌い上げたのではなく、幾つもの聖書の言葉が、この「マリアの賛歌」にはちりばめられていることを指摘しています。そう言えばマリアは祭司アロンの子孫エリサベトの親戚でしたから祭司の家だったかもしれません。幼い頃から詩編を唱え祈る家庭の中で信仰を育まれてきたに違いない。ですからマリアは、自分だけの言葉で歌を歌おうとはしなかった。神の御子イエスを生むという恵みを独り占めしようとは思わなかったのでしょう。むしろ旧約聖書で歌い継がれた神さまの恵みに自らも与っている一人の信仰者としてエリサベトと共に、与えられた恵みを感謝しながら恵みの歌を歌おうとしている。ちょうど、みどり幼稚園に、「マリアさん」がたくさんいたように、「私だけではない、あなたにも、このような神さまの恵みが与えられている」と、その恵みを数えながら、信仰の歌を、それも昔からの歌を、新たな思いを込めて歌ったのが、この「マリアの賛歌」だったのです。このようにして歌われたのが「マリアの賛歌」でした。

Ⅳ.厳しい現実の中で

14世紀のイギリスに「ノリッチのジュリアン」と呼ばれるクリスチャン女性がいました。30歳の時、大病を患い、死線をさまよう中、神さまの特別な取り扱いを経験します。後に、それを「神の愛の16の啓示」という本にまとめました。その中で彼女は、こんなことを語っています。「神に示すことのできる最高の敬意とは、神に愛されていることを知ることにより、私たちが喜んでいきることである。」長年、信仰生活を送る中、私たちが導かれる思い、境地は、まさにジュリアンが語るこの言葉に表されているように思うのです。「神の愛を実感し、神を喜んで生きること」。ですから新共同訳も口語訳も、「喜ぶ」という、この言葉を少し膨らませるようにして、「喜びたたえる」とか「たたえる」と訳しているのだと思うのです。
今年はコロナ禍で礼拝も限定的、未だに動画中心です。この動画をご覧になっている方たちはいつ、またどのように礼拝を捧げておられるだろうかと気になることがあります。ある方が、「いつも動画を観ています。横になりながらでも見れるので便利です」と言われ、その方は笑い話で言われたのでしょうが、私は笑うことが出来ませんでした。むしろ悲しい思いにさせられたことです。今まで、毎週、礼拝に集っておられた方々、あるいは定期的に礼拝に出席された方たちの礼拝生活のリズムは大丈夫だろうか、と心配になることがあります。確かに礼拝動画ですので、私たちの都合に合わせていつでも、どこでも、どのような姿勢でも動画を観ることは可能でしょう。でも、今まで大事にしてきたクリスチャンとしての優先順位がいつの間にか乱れて来ていないでしょうか。実は、コロナ禍にあって、私たちはそうした厳しい現実の中に立たされている。
礼拝は本当に大切であり、クリスチャンとしての生命線です。神さまが、独り子イエスさまを飼い葉桶に誕生させ、イエスさまが十字架にかかって下さったのは、私たちを罪の奴隷状態のような生活から自由にし、その与えられた自由をもって、礼拝の民として生きるためだと、はっきりと教えられています。いや、私は会社員です。主婦や学生ですと言われるかもしれません。確かに、そのような者として一週間、この世へ派遣されます。しかし、聖書によれば、私たちは会社員以前に神の子であり、主婦以前に、神を礼拝する民なのです。学生以前に、神の愛するいとし子なのです。それが最後まで私から取り去ることの出来ない身分なのです。
牧師が皆さん教会員の祈りに支えられながら、「みことばに仕える」という務めを果たすために説教と取り組み、時間や健康の管理をするように、信徒も神を礼拝するために召された者として、日曜日には礼拝に集えるように祈り、健康管理をし、スケジュールを調整する。すると不思議と恵みに満たされ、必ず神を喜ぶ者へと整えられていくはずです。何故なら、礼拝を守ることは、喜びの源泉である、ぶどうの木であるキリストにつながることであり、そのことこそ「恵みの手段」と呼ばれる、神さまが私たちを成長させるために用いられる、祝福の手段だからです。
マリアは、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌います。神さまを礼拝することは、神さまを喜ぶことだ。神さまを礼拝することにより、私たちの心に喜びが満たされるからです。マリアの喜びの源泉はここにありました。身分でもない、性別でもない。今まで偉大な神さまだから、偉大な人々にしか目をお留にならないと思っていたのに、そうではなかった。この私に目を留めてくださった。そして偉大なことをしてくださった。そのようにして神さまは、この私を愛してくださった。マリアはそれを実感したのです。そして、そのことが、彼女にとっては驚きであり、そしてまた大きな喜びとなったのです。
今日、ここに礼拝に集った私たちも、マリアやエリサベトと一緒に主を賛美し礼拝して、生きることが許されている。教会には、私と共に喜びや悲しみを分かち合える信仰の友エリサベトがいる。この恵みの中、クリスマスに向けて歩む私たちでありたいと願います。
お祈りします。

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アドベント 主日共同の礼拝説教

信仰の冒険

松本雅弘牧師
イザヤ書30章15-22節
ルカによる福音書1章26-38節
2020年12月6日

Ⅰ. できないことは何一つない神が、なぜ?

今日の聖書箇所、「受胎告知」を示すこの箇所にはたくさんの恵みが隠されています。その一つが「神にできないことは何一つない」という御言葉です。ただ、コロナ感染症に襲われた私たちにとってこの御言葉を聞くことは、時に苦痛を伴うものなのではないでしょうか。
コロナ禍のため職を失ったり収入が激減する。DV(ドメスティックバイオレンス)に関する報道も後を絶ちません。いま第三波に不安を募らせながら生活しています。そうした中、ふと「このコロナ禍において、神はどこにおられるのか」と思います。先月、ゲッセマネの園での祈りを御一緒に学びました。あの時の主イエスは実に無力です。あっという間に逮捕されてしまう。あの時の主イエスにとって、またコロナ禍の中で大変な思いをする一人ひとりにとって「神にできないことは何一つない」という、この天使の言葉をどう聞いたらよいのか、戸惑いさえ感じてしまう。
信仰者は神が全能のお方であることは分かっています。逆に全能でないならば神の名に値しないと考えます。だからこそ戸惑ってしまう。神さまが全能であるならば、何でこんなひどいことがこの世界に起こるのか。とても複雑な思いにさせられるのです。
ところで、この天使の言葉を私なりに訳してみますと、「神にとっては、その語られた全ての言葉は不可能ではない、不可能になるようなことは決してない」と訳せるように思います。つまり、この御言葉は元々、「神の語られた言葉は不可能ではない」という意味として理解できるのです。そのようにして今日の箇所をもう一度読み返しますと、天使を通してマリアに語られた言葉は何かと言えば、それはとても具体的な言葉です。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」という「神の約束」の言葉です。
創世記18章にアブラハムのことを心にかけていた主の独り言が残っています。「わたしが行おうとしていることを、アブラハムに隠す必要があろうか」とご自身が自らの心に問いかける御姿が出て来ますがその時と同じです。若いマリアに対し神さまはご計画を打ち明け、その計画に参与するようにと招かれ、打ち明けられた方は大変だったと思う。でも彼女は「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えた。このマリアの姿は、信仰者として実に潔く、そして本当に美しく思いました。今、コロナ禍にあって、信仰を持っているがゆえに、「なぜ」「どうして」と問う私たちです。そうした私たちに、マリアと神から遣わされた天使とのやり取りは、少なくとも二つの大切なメッセージを示しているのではないかと思います。残された時間、そのことを御一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ.「お手伝い」へと招く神

一つ目は、マリアは自分のことを「主のはしため」と呼んだ点です。この言葉は、「僕」という言葉の女性形です。今日の箇所から改めて教えられたことは、神さまのご計画、お働きは必ず、私たち主の僕、はしためたちの参加を必要としているということです。「あなたのご計画通り私をお用い下さい、生かしてください。私たちを通してあなたの御心が実現しますように」という祈りに導かれて初めて、神さまのご計画が動きだして行く。誤解を恐れずに言えば、マリアのようなはしためたちや僕たちの「お手伝い」を必要としている。「お手伝い」なしに、神のご計画は実現しないと言えるかもしれません。
先週、祭司ザカリアに起こった出来事を学びました。ザカリアの人生に直接神さまが介入し、ザカリアの老後の生活が大きく変更を迫られたのです。マリアも同様です。彼女の人生に神さまが介入なさった。そしてマリアは「あなたのなさる通りで結構です」と答えた。言葉を添えるならば、「私も自分の人生に自分なりの計画を思い描いて来ました。でも主よ、あなたが私のためにと準備してくださったご計画の方が、私にとって最善のものです。ですから、あなたのなさる通りで結構です。」そう告白し明け渡していったのです。しかしそう祈ったがゆえに、その後のマリアのことは、皆さんもよくご存じだと思います。それが今日の二つ目のポイントです。「お言葉どおり、この身に成りますように」という祈りが、その後の展開を甘んじて受ける覚悟/責任を伴うということです。

Ⅲ.「おめでとう!あなたに喜びがありますように!」

さて、私たちの日常は何かを選ぶことの連続です。人生の節目々々で選択を繰り返し生きています。そして当然、選択にはある種のリスクが付き物です。ところで「危険を冒して何かをすること」を「アドベンチャー/冒険」と呼ぶわけですが、その「アドベンチャー」という言葉はラテン語の「アドベント」から来ています。「飼い葉桶と十字架は初めから一つである」と言われますが、神さまの冒険の結果が飼い葉桶であり十字架でした。とすると、私たちが信じ従うイエス・キリストの神さまはアドベントの神。ですから、そのお方に従う時、私たちも冒険をさせられることもありうるということでしょう。
マリアも、このアドベントの神に従いつつ、信仰の冒険を始めたのです。マリアにとってヨセフも知らないのに子どもを授かってしまう。それは想像もつかないような世界に足を踏み入れる「信仰の冒険」でした。まずはヨセフが信じてくれるかどうか。家族に受け入れて貰えるだろうか。ナザレの村の会堂の親しい仲間、そして村人達から何と言われるか分からない。考え始めたら怖くなったに違いありません。でも聖書を読む限り、マリアは実に自由に神さまに心を開き、その御心を選び取っています。そしてよくよく考えてみれば、彼女のこの決断、「お手伝い」があったからこそ、私たち全世界の救いのご計画が大きく動き出して行ったのです。ではなぜ、そうした自由さを持つことが出来たのでしょう。
ここで天使はマリアに向かって、「おめでとう。恵まれた方」と呼びかけています。この「恵まれた方」とは「既に恵みを受けた方」という意味です。この「呼びかけ」は、既に神さまがマリアをお選びになっていること、マリアの決断に先立って、もうすでに神さまの決断があったことを示す言葉なのだと語っている人がいました。「おめでとう」というこの言葉も、ギリシャ語を直訳すれば、「喜びなさい」という意味です。「おめでとう!あなたに喜びがありますように。」という意味です。辞書によれば、日本語の、この「めでる」という言葉は、「実際に自分の目で見て本当にいとおしい」という意味がある言葉ですが、神さまがマリアを、すでに慈しみをもって、いとおしいと感じながら見ていてくださっている。マリアはこのように神さまが慈しみをもって選び、めでられた女性だったのです。御子を宿すことは、この時のマリアにとっては必ずしも喜びであったとは思えません。さらに、この後ルカ福音書を読み進めていくと、その2章でシメオンという老人が登場し、赤ちゃんイエスさまを連れてお宮参りにやって来たマリアとヨセフを待ち構えるように、マリアにとっては有難くないような預言を伝えます。聞かされたマリアは複雑な気持ちにさせられたことでしょう。ところが、福音書を記したルカは極めて明るいのです。そのことをよく知った上で、マリアが「神さまの愛の中に選ばれている者」であった、だから「マリア、神さまの愛の中に選ばれている者よ、おめでとう。あなたも喜びなさい」と、天使の「喜びなさい」という、その言葉を、それだけの思いを込めて、このところに記録しているのだと思うのです。神さまの恵みの決断、喜びを知らせる決断が、まず最初にあった。そして、それを受けるように、私たち信仰者が、そうした神さまの恵みに応答して信仰の冒険に足を踏み出していく。

Ⅳ.神の慈しみのなかで

神さまが始め、手を付けられたお働きは、神さまの定めた時に、必ず実現する。世界の片隅で始まった小さな幼子の物語、これが世の終わりまで揺らぐことなく続いて行く。そして救いの完成にまで至る。その最初の一頁、おとめマリアの決断をもって、神さまは救いの実行に移られたのです。神さまがマリアをめでるように、私たちをご覧になり、その私たちに御言葉を用意し、私たちの家庭や学校、職場、そして地域にあって、神さまの救いのご計画の一端に参加するように召してくださるのです。ですから私たちもマリアに倣って、「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と応え、それぞれに与えられている信仰の冒険へと踏み出す選択、決断をしていきたいと願います。お祈りします。