カテゴリー
主日共同の礼拝説教

天地の造り主-使徒信条③

松本雅弘牧師
創世記1章31節-2章3節、エフェソの信徒への手紙2章1-10節
2021年1月31日

Ⅰ.神を信じること

私たちが暮らす日本社会には「神」の名でもって呼ばれるものがたくさんあります。記紀神話に出てくる天照大神は、実在のものであるかのように神社に祭られ「神」と呼ばれています。今はちょうど受験シーズンですが菅原道真のように歴史上実在した人物が、その功績を認められて「受験生の神さま」として祭られる場合もあります。また人間だけではありません。山や木や石が神の名をもって呼ばれ崇められている現実があります。神への信仰を語る時、一番大切なことは、その神とはどのようなお方なのか、という問いなのではないでしょうか。その問いに対し使徒信条は、「神とは天地の造り主」と答えるわけです。

Ⅱ.天地を造られた神

さて、今日は創世記を読ませていただきました。創世記によれば、私たちの神は、天地の造り主なるお方であると教えています。創世記によれば、最初に造られたものから最後に造られた人間に至るまですべての被造物は、最終的に造り主なる神さまの支えがあって、初めて存在しうると説かれています。被造世界は造り主なる神さまによって一瞬一瞬支えられている。いや、この時間さえも神の被造物である。造り主なる神さまの支えによって、この世界が保たれ、生かされていることを創世記は教えています。そう考えますと、創世記に出てくる、後に造られたものであればあるほど、前に造られたものへの依存度が高い。
先日、駿河湾深海で巨大なイワシが発見されました。体長1.4メートル。体重が何と25キロに達する魚です。このイワシは主に魚を食し、食物連鎖の「頂点」にいるがゆえに「横綱イワシ」と命名されたそうですが、神学の世界では、一般に人間のことを「創造の冠」と呼ぶことがありますが、「創造の冠」として天地創造の最後に造られた、私たち人間は、自分たちが造られる以前に造られた被造物が何一つ欠けたとしても、実は生きていくことはできない。言わば神が造られたこの世界に対して一番依存度が高い存在であることが分かります。
そしてもう一つ、この世界をお創りになった神は、一日の終わりに、造られた被造物をご覧になり、「良しとされた」。そして最後、人間をお造りになり、ご覧になった時に、「極めて良かった」。そのようのおっしゃった。自画自賛なさったのです。つまり神は、この世界を良いものとして造られた。お創りになった神さまが良いお方だから。そして最後に造られた人間をはなはだよいものとして造ってくださった。創世記はそのように伝えているのです。

Ⅲ.神に造られた私

ところで、聖書は、神さまが、天地万物の造り主であることを語り、私たちが告白する使徒信条は、「私は天地の造り主である神を信じます」と告白するわけですが、その告白を深めていくと、もう一つ大切な信仰理解に行きつく。天地の造り主である神は、私を造られた神である、私は神に造られた私である、という信仰へと導かれるのではないでしょうか。
創世記は、人間が「神のかたち」に造られていることが分かります(1:26、27)。「神のかたち」とは何か。一言で表現するならば、人間は神の特質を備えた者として造られているということでしょう。一般に神学者たちは、神の特質として3つのことを挙げています。①神は自立自存のお方。②造り主なるお方。③全てのものから自由で、全てのものを支配する自由なる主権者。この3つが一般的な特質ですが、私はこれに神は愛なるお方、しかも良いお方であることを付け加えておきたいと思います。その神さまが、ご自分に似せて人をお造りになったということは、こうした特質を反映する存在として人は造られたというのです。人間のこうした特質を一般的な言葉を使えば、「人格」という言葉が当てられるでしょう。
ただ、神は人を人格そのものとはお造りになりませんでした。神さまは、人を「土の塵」でお造りになった。「土の塵」。風が吹けば吹き飛ばされ、地球の引力に引き付けられるものです。被造物の一部です。外の力に支配され、必然性の法則のもとにおかれる存在として、神は人間を創造なさったのです。ところがそれで終わりませんでした。「土の塵」、地上の物質を素材として造られた人に命の息を吹き入れられて初めて、人は生きる者となったと言われています(創世記2:7)。人間は被造物であるにもかかわらず、他の被造物と区別されるかのように「神のかたち」に造られ、それ故、息を通わせるような、造り主なるお方との生きた、親しい交わりのなかで、初めて生きる者、つまり人格を与えられた存在として、人間らしく生きることができる。例えば、このことについて、私たちカンバーランド長老教会の「礼拝指針」では次のように告白します。
「私たちは人間として、欠乏感に迫られて礼拝することを知っている。私たちは自分自身では満ち足りることができないのであり、造り主と出会い、礼拝することによって、完成と充足を経験するのである。礼拝するとは、人間が人間になることである。」(『礼拝指針』)

Ⅳ.造り主なる神の準備された善い業に生きる

私は、この説教の冒頭で、隅谷三喜夫先生の、「人生の座標軸」の話をさせていただきました。神さまが創造者であり、そのお方に対して、私自身は「神に造られた私」である。その関係が、被造物である私にとっては、本当に大切な知識であり、告白であることを思うのです。こうしたテーマを考える時、いつも心に浮かぶのが、「瞬きの詩人」と呼ばれ、親しまれた水野源三さんの詩です。水野さんは9歳の時に赤痢にかかりました。高熱で脳性まひになり、見ることと聞くこと以外の機能を全部失ってしまった。でも本当に幸いなことに13歳の時、自分を捜しておられる神さま、自分を造り愛しておられる神さまを知った。そして受洗し、クリスチャンになったのです。それ以来、お母さんが作った「あいうえお」の書かれた「50音表」を、瞬きで合図しながら、一つずつ言葉を拾い、詩を創られました。そのようにして証しして生きられた人が水野源三さんです。その作品に、こんな詩があるのです。
“たくさんの星の中の一つなる地球/
たくさんの国の中の一つなる日本
たくさんの町の中の一つなるこの町
たくさんの人間の中のひとりなる我を
御神が愛し救い
悲しみから喜びへと移したもう“
水野さんは見ることと聞くこと以外の機能を全部失ってしまいましたから、少し想像しただけでも、自らを「カメ」にたとえるほど、どうにもならない《自分の小ささ》を実感していました。でも、そのような小さな者を愛して、天地万物の創造者なる偉大な神が、カメのような自分を御心に留め、捜し出してくださった。そのお方に出会ってから、つまり人生にその御方との関係という縦軸をいただいてからは、自分にしか出来ない生き方、自分に与えられている、自分しか歩むことの出来ない人生を、神さまと一緒に歩むことを決心したのです。
同じような信仰体験をしたダビデも詩編のなかで次のように歌っています。
「あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。」(詩編8:4、5)
本日の聖書箇所エフェソ書2章には、神さまによって素晴らしく造られた人間が罪を犯し、神から離れてしまった。しかしキリストによって再び連れ戻され、神との交わりが回復するなか、再創造された私たちが、善い業を行って生きていく。生かされている目的が出て来ます。聖書協会共同訳では、私たちは「神の作品」だと訳されています。神さまが愛の意図をもってお造りになった。私という作品に込めた意図が、「神が前もって準備してくださった善い業」です。その意図とは、まさに十戒が示すような「神を愛し、人を愛する」生き方。それを元にして毎週宣言される「派遣のことば」にあらわされているような生き方です。また、それぞれに与えられている情熱や賜物を生かした、その人しかできない生き方でしょう。
鼻と鼻を突き合わせるほどの神さまとの親しい交わりをいただきながら、それぞれに与えられている善い業を行って生きることで、作者としての神さまの素晴らしさを証しして生きる。「私は、天地の造り主を信じます」と告白する時、そのような生き方を神さまに導かれることを覚えながら、告白するように生きる者でありたいと願います。お祈りします。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

神の言葉を生きる

和田一郎副牧師
エレミヤ書9章22-23節、テサロニケの信徒への手紙二2章13-15節
2021年1月24日

Ⅰ.感謝という信仰告白

テサロニケの信徒たちは、パウロの手紙によって大いに励まされたことと思います。テサロニケの手紙は、他の手紙よりも励ましの思いが強いと思うのです。それは、パウロの祈りにおいて、繰り返し神様に感謝しているからです。13節「主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません」。
パウロがいつも感謝しているのは、相手への感謝ではなくて、神様に感謝しているというのが特徴です。わたしたちは感謝することを、すぐに忘れてしまいます。愚痴や不満に思うことの方が多いのではないでしょうか。コロナ禍の中にいる今ですから、感謝できない言葉ばかりかも知れません。
イエス様がある村に入られた時、病を患っている人たち十人が声を張り上げて「イエス様、わたしたちを憐れんでください」と助けを求めました。イエス様は彼らを憐れんで病気をすっかり癒してくださったのです。しかし、そのことでイエス様のもとに戻ってきて感謝したのは、たった一人であった。他の九人は治ったらさっさと何処かへ行ってしまったのです。戻ってきた一人は病気だけではなく、本当の生き方を見いだして永遠の命を得たのです。イエス様は優しく「あなたの信仰があなたを救った」と言ったのです。
目に見えることも、目には見えない物事も、神様はその日その日で、必ずなんらかの恵みを与えてくださっている。今、生きていること、家族がいること、嫌な出来事でさえ万事を益として自分を整えようとする、神様の働きがあるのだ。そう思えた時、感謝は信仰の告白となります。パウロは、いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい、これこそが神様が望んでおられることなのですと、教えてくださいました。
パウロは、信仰においてテサロニケの人々のために、何度でも感謝できたのです。たとえ彼らの信仰理解が十分でなくても、怠けた生活を送った人がいても、パウロは感謝せずにはいられなかった、なぜなら、神様は必ず良い結果をもたらす恵みを与え続けて下さっている、という信頼があったからです。それがパウロの信仰です。パウロには感謝する、具体的な事柄がありました。
13節後半。テサロニケの人々が、パウロの宣教によって信仰をもち、その信仰が大いに成長して、聖なる者になっていることを喜んでいるのです。「初穂としてお選びになった」とありますが、神様はテサロニケの人々を、初めから救おうと計画されていた。天地創造という、世界の基の置かれる前からテサロニケの人々は神の選びにあったと喜んでいるのです。

Ⅱ.「義人であり、同時に罪人である」

「聖なる者とする“霊”の力」という言葉が13節にあります。テサロニケの人々や、わたしたちクリスチャンは聖霊の力によって「聖なる者」とされていきます。しかし、「自分が聖なる者だ」という表現にピンと来ない方が多いのではないでしょうか。日本人は自分を低く見なす美意識があります。逆に自分たちを「罪人」だと表現したほうがしっくり来る人が多いのではないでしょうか。
マルティン・ルターは、クリスチャンとは「義人であり、同時に罪人である」と言いました。クリスチャンが罪人であるという考えは正しいことです。しかし、高座教会で取り組んできた『エクササイズ』の著者ブライアン・スミスは、あえてこの結論は正しくないと断言していました。これはルターを否定したり、罪に対するこれまでの神学的理解を否定しているのでもありません。
「わたしたちは救われました。義とされ、神様との和解をしました。そして、同時に罪人です」という認識は、実生活での霊的な刷新、クリスチャンというアイデンティティを生きることに失敗するというのです。「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と言いながら「今だ、わたしは罪人です」というアイデンティティの持ち方は、また罪に支配された者として、罪を犯すことに陥ってしまう。
日本人は、謙遜して自分を低く見なす美意識があり、例えば、相手に善いものを差し上げる時も「つまらないものですが」と言うのは、日本人の謙遜さを表している大切な文化です。ですから日本人のクリスチャンには「わたしは罪人です」とする方が、自分のアイデンティティになりやすいのだと思いました。本当であれば罪を赦されてキリストと共にいる、その温かさ、清らかさを実感していいのですが、「わたしは罪人です」というレッテルが深く刷り込まれていて、どうしても罪人に留まってしまう。いつの間にか、この世の価値観に流されてしまうというのです。

Ⅲ.エン・クリストオ (キリストにあって)

しかし、今日の聖書箇所でパウロは、聖霊の力が人を「聖なる者」とされたと言っています。テサロニケの人々が「聖なる者」となった、なぜなら、「聖なる者」とは、内にキリストが宿っている人だからです。わたしたちの体の「内に住む」と書いて、「内住」する神といいますが、パウロはそのことを「エン・クリストオ」というギリシャ語で表現しました。
英語では「イン・キリスト」、日本では「キリストにある」と翻訳しています。教会では「キリストにあって」、とか「主にあって」という言葉を使います。それは「エン・クリストオ」という、キリストがわたしたちの中に内住されている、ということを表しています。パウロはコリントの手紙で「イエス・キリストが、あなたがたの内におられることが、分からないのですか」(コリントの手紙二13章5節)と勧告しました。この重要な真理について、イエス様も大事な場面で語られました。
イエス様は、最後の晩餐の席上、これから十字架に架かるため、弟子たちと一緒にいられるのはこれが最後だという時に、神に祈ったのです。「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」(ヨハネ福音書17章23節)。
彼らというのは、わたしたちクリスチャンです。イエス様は「わたしが彼らの内にいるのだ」というのです。父なる神がイエス様の中にいて、一つとなっているように、主イエスは彼らの内にいて一つになる、と言われたのです。「完全に一つになる」と言われたように、わたしたちの内に住んでくださる神は、父なる神、子なるキリスト、そして聖霊である三位一体の神様が内に住んでいるという真理です。
さらにイエス様は、聖霊を送る、そして父なる神と私は、その人の所に行き、一緒に住むと言われました。(ヨハネ福音書14章23節)。三位一体の神様が、私たちの内側に住むようになる。それがイエス様の地上での最後のメッセージでした。
確かに、以前わたしたちは罪に支配された罪人でした。罪の性質が残っているのも事実ですので罪を繰り返します。しかし、罪の支配はなくなっています。この体は神が支配する、神の住む神殿になっている。ただ単に赦された罪人ではなくて「新しくされた人」。イエス様を体の内に宿して、イエス様と同じ「永遠の命」を持つ人なのです。
聖なる神様は、横にいるけれども、罪深いわたしはここにいる、ということではないのです。わたしの内に神がいる。それがパウロのいう「エン・クリストオ」であり、イエス様が「わたしは彼らの内にいるようになる」と言われた意味です。とても神秘的な真理です。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられる」(ガラテヤ書2章20節)
「自分は罪人だ」と罪を自覚した人は、心の中に壁を作ります。その壁は自分を守るための壁です。「自分は罪人である」という壁から出てくることは、とても難しいものです。しかし、イエス様がその壁を越えて、内に入ってくださった。わたしたちの性質が「聖」ではなくても、内住されるキリストゆえに「聖なる者」とされました。紛れもなく、わたしたちはキリストにあって「聖なる者」です。一度、罪赦され救われた人は必ずその内にキリストがおられます。問題なのは、キリストが内におられるという認識です。その働きを邪魔しないということです。

Ⅳ.まとめ

今日、お勧めすることが二つあります。一つはパウロに倣って、小さな出来事にも感謝する習慣を身につけていきたいということです。感謝は信仰告白だと言いましたが、感謝は内に住んでおられるイエス様の働きを強く、温かく、より豊かにします。感謝する習慣。感謝を見つける目を養っていきましょう。
もう一つは、コロナ禍にあって、今年もオンラインの礼拝が続きます。日曜日の礼拝を守る一年となるようにパウロの教えに従っていきたいと思うのです。今日の聖書箇所15節「ですから、兄弟たち、しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを、固く守り続けなさい」アーメン。
この一年、しっかり立って日曜日の説教と聖書の教えを固く守っていきましょう。
お祈りをいたします。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

へりくだりの道を整えて

風間亮太神学生
イザヤ書57章14-21節、ペトロの手紙一5章6節
2021年1月17日

Ⅰ.思い描いていなかった道

今年度に私がこの高座教会で研修させていただいたことは、とても意味深いものとなりました。とても難しい状況からスタートとなった今回の研修は私にとって戸惑いばかりのものでした。その中でも私自身、多くの方々と十分に深い交わりがあまり出来なかったことが少々心残りでもありました。しかし、時にはわずかながらでも何人かの方と分かち合い出来たことも感謝に思っております。高座教会の方々がそれぞれどのような道を歩みどのような信仰を持っておられるのか、同じ雰囲気の中で互いに顔と顔を合わせ、共に笑い、共に励まし、共に仕え合うということを分かち合う時間がわずかにもてただけでも私にとっては幸せな時間でした。そんな中でも、私自身が想像していたものとは異なる道を神様はこの一年私に語って下さったのだと感じます。
このコロナ禍という一年は私だけでなく世界中の人たちにとって予想外の出来事ばかりでした。おそらくこれから先も、私たちにとっての「当たり前」であったものが大きく変えられ、神様の前に歩んでいくために改めて道を整えていくことが求められているのかもしれません。

Ⅱ.道を整えること

イザヤ57章は、イスラエルの民が捕囚から解放された後、再建に向けて神様が預言者を通して語られた言葉でした。かつて自分たちが神殿を築き、神様を礼拝していた当たり前のような毎日、そして当たり前のように馴染んだあの場所はすっかり様変わりしていました。ここで神様は彼らに、はじめに道を整えることを語られたのです。
それはこれから歩むべき道を整備するだけのことではなく、歩みの妨げとなるものを取り除くことでした。この時の彼らを支配していたのは神様への絶望や不信感、または自身の限界を感じる脱力感だったのではないでしょうか。
私たちもコロナ禍という異例の事態と向き合う際に、あらゆる問題とも向き合わなければなりません。世間では「コロナ疲れ」という言葉があるように、生活サイクルも大幅に変わり、このような状況はいつまで続くのかということを考えれば考えるほど気が遠くなってしまう。そんな思いが、どこか私たちの心をも支配していたこともあったかもしれません。それは気付けば私たちが歩むべき道の石となっているとここで語られています。しかし、そんな考えは不信仰だと神様は頭ごなしにおっしゃるのではなく、自らを低くされて私たちの抱いている不安やそれぞれの思いに寄り添ってくださるのではないでしょうか。
私が妻と結婚したばかりの頃に、お互いの些細な違いによくぶつかっていたことがありました。心配しやすい妻に対して、楽観的な私はそんなこと心配したってしょうがないじゃないかと結論のみでよく話していたことを思い出します。しかし、そこで大切なことはその時の対処法をどうするかということよりも、心配であるという気持ちを理解するということでした。心配や思い煩いが神様の前に立つ時に取り除かなければならないことは自分でも十分にわかっている。しかし、それを一蹴されたまま歩んでいても何ひとつ癒されないという気持ちはこの時の民たちも同じだったのかもしれません。そんな彼らに必要であったのは、自らを低くされた神様からの癒しでした。

Ⅲ.打ち砕かれた者たち

しかし、そのような状況の中にある民たちに対して、神様はへりくだった者には命を与えると語っています。
へりくだるということについて、私は高校生の頃に仕える姿勢を通して考えさせられたことがありました。当時、教会などで奉仕をしている際に、とにかく作業を多くこなした者が優れているという雰囲気の中、私も負けじと必死に動き回っていました。しかし後に私の奉仕の目的が神様のためにというよりも、奉仕している姿を人に見せるためという目的が中心になっていたようにも感じます。そんな自分を嫌ってか、今度は奉仕をする機会から自ら離れてしまったこともありました。しかし、それらはどちらも私にとって神様を第一とした行動なのではなく、むしろ高慢な姿の現れでした。
私たちにとってへりくだるということは、神様にとって私たちがどのような存在であるのかということにも示されているようにも思います。来年度の主題聖句である、ペトロの手紙第一5:6のように神の前に低くさせられるということは、自身が本当に弱く何も持っておらず神様という存在なしには生きていくことが出来ないことを痛感し、それでも私たちを迎え入れてくださる方を喜んで礼拝することを示しているのではないでしょうか。それは、この預言者の言葉を語られた民たちも同じだったのかもしれません。国家も神殿も崩壊した彼らにとって、帰還した時点で何も持つものはありませんでした。それだけでなく、かつては神様の前に幾度となく罪を犯し続け、これからどのように生きていくべきかの希望すら失った彼らは、いと高き聖なるお方の御前に立つことすらふさわしい者ではないくらい、打ち砕かれていました。そんな彼らを大切な存在として迎え入れてくださる方の御前では自然とへりくだった者とさせられるのです。

Ⅳ.「シャローム」に迎え入れて下さる方

ここで、手を差し伸べて下さる神様はもう怒りによって民が苦しむ時は終わりであることを告げます。ここでは「平和」という言葉が用いられています。これはヘブル語で言う「シャローム」です。この知らせは帰還できた民だけでなく、祖国の復興に絶望を覚え離散した仲間たちのもとにも届きます。しかし、この平和という希望はただ、私たちと神様との間の溝を埋めることだけなのではなく、家族として迎え入れてくれることのようにも感じます。後の彼らの歴史を見ても、これまでのように土地を所有して国家を設立するということよりも、外国人に支配される歴史の道を辿ります。ここで彼らに与えられた新しい道として、国土を持たない国家というものがあり得るのではないかとエレミヤは語っています。それぞれ散らされた場所の人々と争うのではなく、その人たちのために祈りなさいと神様は語られるのです。「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と神様がアブラムに約束された民の本来の目的へと確かに導いて、神様は国家と人種の壁を取り壊そうとされ、家族としてのシャローム(平和)に迎え入れようとされています。家族とは弱い者、小さい者をまわりが支え合う関係があります。フィリップ・ヤンシーは自身の著書で「家族とは違いを取り繕うことなのではなく、むしろ違いをたたえること」だと述べていました。
冒頭でお話ししたように、私はこの高座教会でわずかながらでも共に奉仕をしたり、信仰の分かち合いができたことを嬉しく思っております。私はこの高座教会に来て、家族としてのつながりがとても強い教会であるという印象を持たせていただきました。みんなで子どもの成長を見守り、互いの霊的状態を分かち合い、そして仕え合う光景がありました。そして、この交わりにわずかでも加えていただいたことを本当に感謝しております。
愛する者のために自らが低くなるという謙遜、そしてこの家族の主人であられる方に、この地上全てをおさめられる王への謙遜というへりくだりがこの「シャローム」から語られているのではないでしょうか。へりくだることを見るとき神様にとって私たちはどのような存在なのかということについて触れさせていただきました。一方で、私たちにとって神様はどのような存在なのかということからも、へりくだるということが見えてきます。マザー・テレサはカルカッタで自身の活動で多くの貧しい人たちと出会う前にまず、1日の始まりの陽が昇る前から主の前に出て祈りを捧げることをしていました。また、訪問者一人一人に「まず最初にこの家の主人ご挨拶をしましょう」と言っていたそうです。私たちはともに集まることが出来なくても、一度立ち止まって私たちを生かしてくださっている方をまず見上げることが出来ます。そんな時、本当の主人であられる方への低い姿勢こそが、ここでも語られているへりくだりなのかもしれません。

Ⅴ.荒野を進む私たち

このコロナ禍という新しい時代によって、あらゆる「当たり前」が崩されてきたように見えます。しかし、神様のなさろうとされることはいつの時代も変わることがありません。むしろ、これから私たちはどのように生きて行くべきかと新しい荒野に立たされているのかもしれません。そこにはかつて馴染んでいた生活様式や礼拝の在り方などの姿はないかもしれませんが、確かにその向こうに神様が私たちを家族として迎え入れてくださる道、そしてこれまで以上の素晴らしい世界が用意されているはずです。そこを進むためには、道を整え、へりくだって神様の御前に立つことです。自分の弱さの中で心から神様に信頼するとき、心から神様に生かされていることを実感し、低い者にこそ神様からの励ましの言葉は語られます。それこそ、神様によって高くされる私たちの姿なのでしょう。この先にある道に期待して、神様と共に歩んでいきましょう。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

私は信じます―使徒信条②

松本雅弘牧師
詩編89編1-19節、ローマの信徒への手紙10章1-13節
2021年1月10日

Ⅰ.信条が生み出される背景

先週、教会員の皆さんのところに緊急メールでのメッセージ、そしてHPでもお知らせを掲載させていただきました。1月8日から礼拝、諸集会をしばらく休止すること、礼拝堂、教会諸施設の利用、貸し出しを中止する旨のご連絡でした。改めて私たちは真空状態の中に生きているのではなく、日々、様々な問題に直面していきていることを考えさせられるのです。
今回のコロナ禍でも、「神さま、なぜ?」とか「神さま、コロナ禍を通して何を?」と問いながら過ごしてきました。そうした問いをもって聖書に向かう。すると神さまは聖書を通して、何等かのメッセージを語りかけてくださる。実は、二千年の間、歴史の教会はそのように歩んできました。その時代の問いかけに真摯に向き合い、聖書を通して神に聴いたものを文書としてまとめてきた。それが教会の生み出してきた信条であり信仰告白です。では一方そもそも使徒信条はどのような訳があってまとめあげられたのか。先週の復習になりますが、それは洗礼志願者の準備のためでした。当然ですが洗礼を受け教会に属するに際し、一人ひとりがバラバラな理解をしていたら困るわけです。そうした際に洗礼を認めるか否かの基準となるものを、という必要性があって使徒信条はまとめられていきました。ですから聖書の中に出てくる文書ではありません。でも聖書の言葉が使われていますし、その中心的な教え、聖書のエッセンスが短く簡潔な言葉でまとめられている。それが、この使徒信条なのです。

Ⅱ.なぜ「わたしたちは信じます」ではないのか?

使徒信条の語り出しは次のようになっています。「わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。」手元にある英語版の使徒信条を見ますと「I Believe(わたしは信じます)」という言葉で始まっています。調べてみると他の外国語の使徒信条も同様で、最初に「わたしは信じます」で始まり、その後、信じる内容が続くような形式になっています。共同体みんなで告白する文書なのですが、どういうわけか一人称単数の「わたしは信じます」で始まっているのです。
「教会とは何か」というテーマで書かれた良書、マイケル・グリフィスの『健忘症のシンデレラ』という書物があります。その本の中に、「一人ぼっちのクリスチャンはいない」という有名な表現が出て来ます。聖書は、その人がクリスチャンであることと、信仰共同体である教会のからだであることとは切り離せない関係にあると教えているからです。グリフィスによれば、聖書に出てくる、クリスチャンを指す「聖なる者」という言葉が全て複数形で出てくることを指摘しています。仮に単数形の場合でも、「一人ひとりの聖なる者」ということで、教会という信仰共同体が前提されて語られているというのです。
ところが、そんな話を聞きますと、「いや、別に私は一人でやっていける」とおっしゃる方も出てくるでしょう。そんな時に、主イエスが私たちクリスチャンを羊にたとえてお語りになったことを思い出したいのです。羊は群れがあっての動物です。「私は、一人でも信仰を守っていける」と言った羊がいたら、主イエスはその羊を「大丈夫な羊」とは呼ばず、「迷子の羊」と呼ぶわけです。私たちはそうした存在、教会と言う信仰共同体あっての私なのです。
さて、そのように教えられている中、ではなぜ使徒信条を告白する際に、「わたしは信じます」と告白するのか。むしろ聖書の教えからすれば、「私たち教会は信じます」と告白すべきなのではないかと思うわけなのですが、いかがでしょうか。正直、私自身、使徒信条を告白する度に、そうした疑問を持ちながらやって来た経験があります。皆さんは、いかがでしょうか。

Ⅲ.「わたしは信じます」

実は、そのことを考える意味で読ませていただきましたのが、ローマの信徒への手紙10章の言葉です。8節から10節でパウロは、「あなたの近くに」「あなたの口、あなたの心に」、そして「あなたは救われる」と、あくまでも二人称単数形で語り切っていて、決して「あなたがた」と複数形を使っていないことに気づかされます。これは聖書が教える、信仰の大切な側面、一人ひとりが信じて告白する、ということです。
昨年、御一緒にお読みした、マタイ福音書にある、「十人の乙女」の譬え話を覚えておられるでしょうか。油を切らしてしまった愚かな乙女に対し、賢い乙女は自分の油を分けることをしなかった、いや、分かち合うことが出来なかったのです。つまりこの世界には、分かち合うことのできない油というものがある。その油こそ、主イエスを信じる信仰だ、というお話をさせていただきました。私一人ひとりが信じるのです。パウロの言葉を使うならば、一人ひとりが自らの口で公に言い表して救われる必要があるのです。
ところが、ここで一つ問題が生じた。聖書の教えのエッセンスである使徒信条にも、主イエスが陰府にくだられたこと、そして天に昇られたこと、そうした主イエスの御業がはっきりと告白されているにもかかわらず、勘違いし、「だれが底なしの淵に下るのか」とか、「だれが天に昇るのか」と心の中でつぶやいたり、実際に言ったりする人が出て来た。仮にその主張が正しいとするならば、「キリストを天から引き降ろすことになる」し、「キリストを死者の中から引き上げることになる」。そうなれば、キリストが成し遂げてくださった救いは陰府にまでは届かない。天にも昇らない、結局、中途半端なものになってしまう。だとしたら、あなたの理性で、あなたの頭で考えだした、その信仰は完全な意味であなたを救うことにはならない、とパウロは語る。信じるということは、そういう事ではない、と言うのです。

Ⅳ.「同じことを言う」

このように考えますと、なおさら「私は信じます」という私個人が告白するのではなく、「私たちは信じます」と、聖書の信仰、教会が大切にしてきた内容のある信仰を、一緒になって告白する方がふさわしいのではないかと思ってしまうかもしれません。しかしくどいようですが、使徒信条もパウロの手紙も「わたしたち」ではなく、あくまでも「わたし」になっている。最後にそのことをお話して終わりにしたいと思います。
もう一度、10節に戻りましょう。ここに「公に言い表す」という言葉が出て来ますが、辞書で引くと大事なことに気づかされます。この言葉は「同じことを言う」という意味の言葉であることが分かりるのです。ここでパウロは、「あなた」、すなわち、この「わたし」が一人ひとり信仰告白をするわけですが、それは一人ひとりがバラバラのことを告白するのではなく、パウロは救いのために「同じことを言う」ことが大事なのだ、と語っているのです。
私たちの声は違います。高い声を出す人もいれば、低い声、太い声の人もいるでしょう。でもそれぞれの声で同じことを告白することで救われるとパウロは語るのです。
私はペンテコステの日の出来事を思い出しました。二千年前のペンテコステの日に、約束の聖霊が降った時、特別な現象が起こった。使徒言行録には、「すると一同が聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」(2:4)とあります。
父なる神さまが約束された聖霊がイエスをキリストと信じる弟子たち1人ひとりの上に降った。その結果、彼らの心を動かし、口を開かせた、語らせた。ところが、語った言葉は他の国々の言葉だった。ですから、そこに居合わせた人々は、外国語を知らなければ、騒音としか聞こえなかったに違いない。そんな状況です。しかし彼らは気づいたのです。だから驚いた。それは聞こえて来る言語は種々雑多でしたが、そうした種々雑多な言語を通して語った内容が一つだった、一致していた。つまり神の偉大な業、福音という同じことを語っていたのです。ダイバーシティとユニティーと言ってもいいかもしれません。また日本語で「異口同音」という言葉がありますが、正に異なった口で同じことを言ったのです。
「わたしは信じます」、使徒信条の言葉は、まさに異口同音に同じ信仰を言い表すという意味なのです。
私たち一人ひとりが主体的に、自分の信仰として、告白する。しかし、それはバラバラではない。聖書が教えたとおりの同じ内容、主イエス・キリストの同じ救いの御業を共に告白する。なぜなら、私たちは、その同じ主イエス・キリストの救いに与り、その同じ主イエス・キリストによって生かされているからなのです。お祈りします。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

いつものように―使徒信条①

松本雅弘牧師
申命記6章4―12節、ルカ福音書22章39-46節
2021年1月3日

Ⅰ.使徒信条を学びます

新年、あけましておめでとうございます。今年、礼拝で、使徒信条についてご一緒に学ぶことになりました。当たり前のことですが、使徒信条は聖書に記されている文書ではありません。しかし、使徒信条を形作る言葉は、聖書のあちらこちらに出てくるわけです。

Ⅱ.使徒信条とは何か

そもそも、信条、信仰告白とは何か、という問題があります。カンバーランド長老教会の信仰告白の解説で書かせていただきましたので、お時間のある方は、そちらを読んでいただければと思いますが、その中でも、信仰告白とは、「今の時代に生きる私たちクリスチャンが、そして契約共同体が直面する様々な課題を真摯に受けとめ、『神さま、なぜですか』と問いたくなるような現実に直面し、その問いをもって聖書を通して神に聴いたものを、信仰告白という形式でまとめたのです」と書かせていただきました。つまり、聖書が語る神に対する信仰、神がしてくださった救い、聖書が証言する救いの業を要約したのが使徒信条であり、そうした意味で、使徒信条は聖書の信仰の要約、エッセンスなのです。
その歴史的起源については諸説があります。たぶん紀元2世紀頃にその原型が生まれたのではないか。またそうした文書が生み出された理由としては、洗礼志願者の洗礼に向けての準備のために必要となって書かれたのではないか、と言われています。
高座教会でもそうですが、洗礼の受けるための準備の学び会、「洗礼入会準備会」というものを行っています。そこで学びをされた方たちは、小会の面接において、その人がどのような信仰を言い表すのかが問われます。言い換えれば、教会に与えられ、教会が語り継いできた聖書の信仰を受け入れているかどうかが問われてくるわけです。当たり前のことですが、教会に属するといっても、一人ひとりがバラバラな理解をしていたら困りますから。例えば、ペトロの手紙第2の1章1節にこのような御言葉があります。「イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロから、わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ。」これは使徒信条を学ぶ上で大切な聖句だと思われます。ここで使徒ペトロは、「わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ」と語っています。「わたしたち」とは、この手紙を書いている使徒ペトロたちのことです。その使徒ペトロたちと同じ尊い値打ちのある信仰を与えられている人たちに向かって手紙が送られているわけですが、まさに、ペトロたちと同じ信仰を受けた人たちによって信仰共同体なる教会が形成されている。その信仰共同体なる教会の中で共有されている同じ信仰を、短く、適切に表現したのが、これからご一緒に学ぼうとしている使徒信条なのです。
ところで、使徒信条のことを学ぶ中で、改めて教えられたことがあります。それは、歴史の教会は、この使徒信条と共に、十戒、そして主の祈りの3つの文章を大切にしてきたという事実です。確かに高座教会でも、使徒信条と主の祈りは、ほぼ毎週の礼拝の中で唱えられ、祈られてきた歴史があります。この3つの文章、これから学ぶ使徒信条は、私たちは何を信じているのか、をまとめたものであるならば、十戒とは、そのように信じている者たちはどのように生きるのかを示したものであり、そして3つ目の主の祈りは、何をどのように祈るのかをまとめたものであるといえます。
4月からスタッフとして働いてくださっている北村卓也兄の母教会である、世田谷中央教会では、何を信じ、どのように生き、また何を祈るのか、信じること、生きること、祈ることを示した、この3つを毎週の週報に必ず印刷して配布するそうです。配布するだけではなく、毎週の礼拝の中で必ず告白し、唱え、祈ることをしている教会もあります。そのような意味のある使徒信条を御一緒に学ぶことを通して、特に礼拝の中で告白する際に、その内容を一つひとつ理解しつつ、神さまから頂いた様々な恵みに対する私たちの応答として、心から使徒信条をもって、神への信仰を告白する者、そうした教会として、整えられていきたいと願っています。

Ⅲ.いつものように

さて、そうした上で、今日取り上げたルカ福音書にはゲッセマネの園での祈りの場面が記されています。昨年、同じゲッセマネの園での主イエスの祈りの格闘を記したマタイ福音書の記事を御一緒に学みました。その時の説教題を「歴史上、最も重大な夜」としました。聖書の中の聖書と呼ばれる、ヨハネ福音書3章16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とありますが、まさに私たち人類を滅びから救うために、神の子イエス・キリストが十字架にかけられ殺される。それが避けられないものとして、この夜、主イエスは、ゲッセマネの園において最終的に確認された。この夜、人類の歴史を決定するとてつもなく重大なことが、天の父なる神とイエス・キリストの間で語り交わされていたと考えられる。ですから説教題を「歴史上、最も重大な夜」としました。そのような意味で、ゲッセマネの祈りは歴史上、ただ一度限りの祈り、特別な祈りでした。ある人の言葉を使えば、他の誰もが繰り返すことのできないし許されない祈りです。ところが、その特別な祈りを、ここでルカは、主イエスの日常的習慣を強調するように、敢えて、「いつものように」、「いつもの場所」で祈ったのだ、と伝えています。マタイ福音書の説教でもお話しましたが、マタイは「三度も同じ言葉で祈られた」と書き、その祈りの言葉は「主の祈り」を連想させ、たぶんその祈りはいつも主イエスが祈っていた「主の祈り」だったのではないかと思われるのです。
ところで、アドベント第3主日の礼拝で、「強いられた恩寵」があり、そして全ての信徒、クリスチャンに与えられている「強いられた恩寵」は「礼拝を守る」という務めなのではないか、ということをお話させていただきました。今まで、毎週、礼拝に集っておられた方々、あるいは定期的に礼拝に出世された方たちの礼拝生活のリズムは大丈夫だろうか、と心配になることがあります。私が神学生の時に、後に日本聖書神学校の先生が、神学生として奉仕しておられました。その先生が「信仰生活は坂道を上がっていくようなものだ」と語ったことを覚えています。前に進まなければ、必ず後ろにずるずると後退する、というのです。使徒ペトロは、「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」と語っていますが、そのことこそが、神学生の言う「坂道に立っている」状態を指すのだと思うのです。今日の聖書の箇所に戻りますが、ゲッセマネの祈りがささげられたのは、十字架の前の晩です。特別で特殊な時でした。ところが主イエスはいつものようにオリーブ山に行かれたのです。いつも習慣で祈るために行かれたのです。

Ⅳ.使徒信条を口癖に

ところで、礼拝がオンラインになった時、式次第を簡素化しました。頭で色々と考え、流れを抑えながら、最初のプログラムを考えました。そしてしばらくそれでやって来ました。ところが、ある時、教会員の方から、「使徒信条がないのはおかしいのではないか」、「使徒信条を入れて欲しい」という要望が教会員の方から上がって来ました。それは素晴らしいことだと思いました。ある牧師が語っていましたが、毎週、礼拝を捧げていても、いつでも恵まれるわけではないかもしれない。でも礼拝を捧げる癖をつけてしまうこと。聖書を読み、祈りを捧げる習慣を身に付けてしまうこと。そのような信仰の生き方の癖が生まれてくる。そうしたことが習慣になってくる。その一つとして使徒信条を身に付けてしまう。口癖にしてしまう。ふと気づいた時に、礼拝で唱えた使徒信条が口をついて出てくる。その言葉によって自分の信仰が養われるからだ、といのです。
主イエスが教え、示してくださった「いつものように」ということ、ギリシャ語でエートス、習慣という言葉ですが、そうした聖なる習慣を身に付けることが、実は、私たちを守ることとなる。それが私たちの基準になり、神さまがそれを用いて、私たちを守ってくださる。特にコロナ禍にあって、やり方の変更が求められる時に、「変わることのないもの」、守り続けるべき大切なものとして使徒信条が与えられていることを覚えつつ、今年も共に歩んでまいりたいと願います。お祈りします。