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主日共同の礼拝説教

共に生きる

和田一郎副牧師
ルツ記2章1-4節、テサロニケの信徒への手紙二3章1、2節
2021年2月28日

Ⅰ. コリントでの困難な状況

今日の聖書箇所のはじめに「終わりに」とパウロは記しています。パウロがテサロニケの教会の人々に宛てた手紙も、終わりに近づいています。これまでパウロはテサロニケ教会に向けた手紙の中で、神様に喜ばれる聖なる生活について、この手紙の中で教えてきました。まだ、できたばかりのテサロニケ教会は、ユダヤ人たちに迫害されることもあったのですが、パウロは手紙を通して彼らを励まし続けていました。しかし、実はパウロも困難な状況の中にいたのです。パウロはアテネという学問の盛んな町で宣教をしましたが、そこで教会を形成することはできませんでした。次にたどり着いたコリントの町は、腐敗と繁栄が入り混じった大きな町でしたが、このコリントの町でもユダヤ人による妨害があったのです。ある夜、パウロは幻の中で神様の言葉を聞きます「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる」(使徒言行録18章10)。苦難の中にいるパウロには、このような励ましの言葉が必要でした。多くの人々を信仰に導き、励ましてきたパウロ自身も、実は励ましと支えを必要としていたのです。
そこで今日の聖書箇所3章1節で、パウロは求めるのです。「兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように」。テサロニケにパウロが滞在したのは、たった3週間程であったと言われています。そこで福音を信じた信仰者たちは、パウロが去った後もテサロニケで教会を形成したのです。テサロニケ教会でそうであったように、パウロが今滞在しているコリントでも速やかに福音が宣べ伝えられるように、祈って欲しいという祈りの要請です。しかし、それは簡単なことではない。テサロニケの町でそうであったように、ここコリントでもパウロの宣教活動を妨害するのはユダヤ人でした。しかし、考えてみますと、イエス様もパウロもユダヤ人です。なぜ、パウロが行く先々でユダヤ人たちの妨害を受けたのでしょうか。

Ⅱ. ユダヤ人

新約聖書の時代、ユダヤには多数の信仰グループが存在しました。ファリサイ派やサドカイ派などの分派がたくさんありました。しかし、彼らの信仰は旧約聖書に記されている本来の信仰からは、それぞれ逸れてしまって、偏った解釈のもとで信仰を守っていました。多くのユダヤ人はユダヤ人以外の民族を「異邦人」と呼んで、人間として低くみなしていたのです。しかし、イエス様は、ユダヤ人が救いには与れないと決めつけていた異邦人にも救いがあると説いたので、彼らとの間で緊張が生まれました。そして、十字架の贖いによって、それが決定的になりました。すべての人々に救いの道が開かれたのです。パウロは、その救いの道を福音として広めたのです。特に異邦人宣教のために、復活したイエス様から召命を受けて、諸外国の異邦人伝道の働きにつきました。ですから異邦人に神様の祝福などはあり得ない、としていたユダヤ人から攻撃の的となったのです。同じユダヤ人、同じ唯一の父なる神様を信仰していたが故に、その理解の違いからパウロは行く先々でユダヤ人の妨害にあったのです。今日の聖書箇所の2節に「道に外れた悪人ども」とは、ユダヤ人のことであり、「すべての人に信仰があるわけではないのです」というのも、イエス・キリストを救い主であると信じる信仰を、すべてのユダヤ人がもっているわけではないとパウロは説明しているわけです。だから、「祈ってください」自分の働きには祈りが必要なのだと、祈りの要請をするのです。

Ⅲ. 祈ること、共に生きること

今日の箇所は「祈ってください」という、相手にお祈りをお願いしている箇所なのですが、パウロが祈りの要請をしている箇所は、他の手紙でも多く見ることができます。
「“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください、」(ローマ書15:30)。「わたしがしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈ってください」(コロサイ4章4節)。パウロは相手のためにいつも祈る人ですし、「祈って欲しい」と求める人です。
ボンヘッファーという神学者は「キリスト者は、日ごとに共に生活すべき人たちである・・・すべてのキリスト者の共同生活の核心とも言うべき点は・・・その成員相互のとりなしの祈りによって生きるのであり、それがなければその交わりは壊れてしまう」(『共に生きる生活』)。つまり、互いに祈り合って生きる日ごとの生活が、キリスト者をキリスト者たらしめると言っているのです。ひとつの教会に繋がる信徒同士が、互いに祈り、祈られる、それがキリストにあって「共に生きる」ということなのです。
今日お読みした、旧約聖書ルツ記の箇所は、ルツという女性が姑のナオミと二人でベツレヘムにやってきた時の話です。やもめになって先行きに不安のある女性二人が、その町にやって来ました。嫁のルツは、ある畑に行って落穂を拾わせてもらおうと思いました。収穫をしている他人の畑に行って、落ちている麦の穂を拾わせてもらう。貧しい二人が食べていくには、この方法しかありませんでした。そこに畑の主人がやってきて、作業をしていた農夫たちとあいさつをするのです。主人が「主があなたたちと共におられますように」と言うと、彼らは「主があなたを祝福してくださいますように」と挨拶を返しました。執り成しの祈りが、そのまま挨拶になったような、温かい信仰共同体の様子を見ることができます。その温かい信仰共同体の中に入ることができたナオミとルツは、神の祝福を得ました。神様において結ばれた信仰共同体においては、信仰によって「共に生きる」という、恵に満たされた生活があります。
テサロニケの手紙に戻りますが、互いに祈り合うといっても、パウロのように「自分のために祈って欲しい」と、なかなか言えない思いもあると思うのです。「誰かのために祈りましょう」とは言えても、「私のために祈って欲しい」と口に出して言えない人というのは多いように思います。日本人は、人にお願いごとをするのを遠慮する文化があります。相手に心配させたくないですし、困っていることを人に打ち明けることをはばかる思いがあると思うのです。しかし、今日の聖書箇所から、パウロはそのような遠慮をする文化から一歩踏み込んで「祈って欲しい」と祈り合う、キリストにある交わりの奥深さを勧めているのです。
わたしは、亡くなった母の言葉で大切にしていることがあります。母が病気で入院している時、亡くなる数か月前のことだと思います。母は自分が天に召されて葬儀を行う時に、誰に何を依頼すべきか、リストにして紙に記してありました。葬儀の司式をする牧師先生、オルガンの奏楽者、控室での食事の支度をお願いする近所の方々などです。その紙を私に渡して「人にお願いごとをするのも、大切なコミュニケーションなのよ」と言いました。私は言われた通りに、皆さんにお願いをしました。そして、そのことをずっと大切にしてきました。母の名前は頼子です。「神様に依り頼む人」という意味をこめて「頼む子」と付けられたそうです。それで私も自分の息子に、人を信頼して、人に頼り頼られて育って欲しいので「頼人」と名付けました。人と祈り祈られる人になって欲しい、神様に信頼して依り頼む人になって欲しいと思いました。
パウロは、「自分のために祈ってくれなくても大丈夫」などと言うことはありませんでした。むしろ「祈って欲しい」「祈ってください」と何度も依頼しました。それは祈りを通して生み出される、力を信じていたからです。

Ⅳ. 祈ってください

パウロの手紙を読んでいると、パウロの祈りの要請は、その相手や目的も多様であることに気づきます。ある時は「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」(ローマ書 12章14)と祈るのです。先ほども話ましたがパウロはことごとくユダヤ人に迫害を受けてきたのです。その「ユダヤ人の祝福を祈ってください」と、相手に求めているのです。ある時は「夫婦は互いのために祈ってください」(一コリ7:4-5)と求めますし、弟子のテモテには、「王や政治家のために祈ってください」(一テモ2:1-2)と祈りを求めています。さらにパウロは言うのです、祈りというのは、その人の内にある「霊が祈っている」(一コリ 14:14)。そして、祈る人は「祈りによって聖なるものになる」と告げています(一テモ4:5)。わたしたちキリスト者は、祈り祈られる関係において、聖なるものとされていきます。
コロナ渦の中で互いに会うことが難しい状況があります。このような状況で「祈ってください」というのは、神様の呼びかけではないでしょうか。私たちが遠慮から一歩踏み出して、祈りを求めることは、信頼されている喜びを相手に生み出します。そうした愛の良いわざを行うことは、神の栄光を表すことになるでしょう。それを祈り合うことを通して、求められているのではないでしょうか。
先日、教会の仲間が引っ越しをするので、お手伝いをしました。小さい車に荷物を詰め込んで、教会のみなさんと荷物を運んだのです。荷物を運び終わって「これから友人の新しい生活が始まるのだな」と思いました。一緒に手伝っていた人から「祈ってください」と言われたので私はそこで祈りました。無事に引っ越しができたことと、新しい生活を祝福してくださいと祈りました。ついさっきまで空っぽで何もなかった部屋に、家具が運ばれて、最後に皆さんと祈った時、そこに息吹が吹き込まれたように思いました。イエス様は、「わたしの家は、祈りの家」だとおっしゃいました。友人のその家はイエス・キリストにある、聖なる住み家になるのだと思いました。「兄弟たち、わたしたちのために祈ってください」。祈ることを通して、神の栄光を表していきましょう。
お祈りしましょう。

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恵みの『ご利益』

篠﨑 千穂子 神学生
マタイによる福音書22章34-40節
ペトロの手紙一5章6節
2021年2月21日

Ⅰ.「キリスト教はご利益宗教?」

私は千葉県にある成田市の出身です。成田市は、成田山新勝寺という大きなお寺を有していることもあり、毎年多くの参拝客がおとずれる観光地です。私はこの成田山新勝寺が経営する幼稚園、中学、高校に通っていました。高校生の時に信仰をもってクリスチャンとなりました。毎日お寺の脇を通って通学しながら、私が毎日考えていたこと、それは、「お寺ってご利益宗教だなぁ」というものでした。当時の通学路には大きな駐車場があって、そこでは交通安全のお札をもらえます。駐車場に交通安全を祈願してほしい車をとめておくと、交通安全の祈りが届いてその車が守られる。そういう仕組みになっているようです。また、地元の人はよくこんなことを言っていました。「ご本尊のお不動様はやきもちやきだから、カップルでお参りをする場合は必ず別の門から分かれて参拝しなくちゃだめだよ。」家内安全、大願成就、商売繁盛、といったいろいろなことをかなえる力があると言われているに、やきもちをやくという不安定さ。そんな不安定な神様に支配されているなんてお気の毒様と思っていました。でも、今になって考えると、あのときの私は大きな思い違いをしていたように思うのです。だって、不動明王はやきもちをやく偶像かもしれないけれど、それをいうなら聖書の神様は妬む神です。成田山新勝寺に人々が多くの願いを持って参拝するように、私たちクリスチャンも沢山の祈りや願いをもって神様の前に立っています。「私たちは神様にご利益を求めているわけではない!」とクリスチャンは言うかもしれないけれど、本当にそうでしょうか?
私は誤解を恐れず言うならば、キリスト教はご利益宗教の一面を持っていると思います。では、私たちは一体どんなご利益を、誰によって与えられようとしているのでしょうか?

Ⅱ.「身を低くする」、その根拠は?

なぜキリスト教をご利益宗教だと思うのか?その根拠は本日お読みしたペトロの手紙一5:6にあります。冒頭に「だから」という言葉が入りますね。言わずと知れた、理由と結論を説明する接続詞です。つまり、5章6節の「力強い御手のもとで自分を低くしなさい。」という結論の前に、その理由が書かれているということになります。では、なんで私たちは身を低くしなくてはいけないのでしょうか。「だから」の前部分、5章5節には、こんなことが書かれています。「『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』からです。」つまり、「謙遜な者には恵みを与える神がいるんだよ、だから自分を低くしなさい。」というのが、ここでペトロが言っている主旨ということになります。「恵みが欲しいから、謙遜になる。」「安全が欲しいから、お札を買う。」…何かが欲しいから何かをするという意味で、私たちのメンタリティーはご利益主義のそれと変わりがないように思うのです。キリスト教は、そういう意味でご利益宗教です。けれども神様に多くのことを求めることは決して罪ではありません。神様は喜んで私たちを「恵んで」「高めさせてくださる」方であります。ただ、私たちは自分の願いを神様の前にもっていく時『神様が下さる恵み』や『高めさせてくださる』ことの内容を一度確認する必要があるのです。

Ⅲ.へりくだりの先の「恵み」とは一体何か?

私は以前、自分の名前を「漢数字の千、稲穂の穂、子どもの子で『千穂子』です。」と説明をして、「神様の恵みがざくざくした感じの名前ですね。」と褒められたことがあります。でも実は、恵みの内容をわたし自身はわかっていないような気がします。多くの恵みをと名前を付けられた私自身は恵みを随分小さく見積もっているなあとも思わされます。たとえば私は、自分の願いが叶ったときに、「恵まれた!」と言ってしまいます。皆さんはそんなことないでしょうか。志望校に合格した時、仕事がうまく運んだ時、欲しかったものが手に入ったとき、結婚した時、病気が治ったとき、あるいは教会の人数が増えたとき…?「恵まれた!」と言ってはいないでしょうか。確かにそういうものは恵みの一部です。けれども、分かりやすいものだけが恵みだというのは聖書の教えではありません。新約聖書で「恵み」とは「カリス」という言葉で表されていますが、この言葉の語源は、「思いがけずに示される誠実さ」を表すのだそうです。神様はペトロを通して、「思いがけずに神様からの誠実さを受け取りたいのならば、神の力強い御手のもとで自分を低くしなさい。」というのです。なぜなら、思いがけない誠実さは、強くて自信に溢れていて自分で何でもできる人には受け取れないものだから。弱く悲しく絶望しているときにこそ、神の誠実さは深く深く心に染み入るものだからです。

Ⅳ.疲れ果てた民への戒め

このペトロの手紙一が書かれた時代、この手紙の宛先である小アジアのクリスチャンたちは迫害の勃発を恐れながら生きていました。そんな試練に悩むキリスト者たちに、ペトロは厳しく生活を律することを求めます。ペトロが提示する戒めは、「神である主を愛しなさい、隣人を自分のように愛しなさい」というイエス様が示した二つの律法に依っていました。全ての律法はマタイによる福音書22章でイエス様が語られたように、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」に集約していましたが、この律法は私たちクリスチャンが、神様が造られたこの世界を安全に安心して生きるためのガイドラインとして与えられたものでした。神が創り、神が支配するこの世界を安心して生きるには、神を愛することが一番の方法です。神に創られ、神に愛された人々と安全に暮らすためには、その人たちをまず愛する必要があります。そして「神である主を愛しなさい、隣人を自分のように愛しなさい」この二つの律法を真面目に守ろうとするならば、私たちは真剣に神の前にへりくだることをせざるを得なくなってきます。それはおのずと、人の前にもへりくだることにつながってくると思うのです。でもそういうときに、私たちは思いがけない誠実さを受け取ることになります。強くて自信満々のときの私や皆さんではなく、弱くて悲しくて寂しくて絶望した私や皆さんのほうが、受け取った誠実さに敏感になることができるように思うのです。

Ⅴ.「今」、へりくだるということ

わたしたちは、この1年をコロナ禍という特殊な環境の中で生きて参りました。誰も明日が想像できない不安定な時代を過ごしてきました。絶望に満ちたこの時代、そのような時にこそ、神の御前に自分を低くしよう。いつかこの世界がコロナから回復した時、ただ元の世界に復元するのではなく、正しく回復させるべきものを選び取っていくことができるようにしよう。そのために、神の前にへりくだる必要がある…そんな思いから、高座教会ではペトロの手紙一5章6節の「だから、神の力強い御手のもとで自分をひくくしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。」というみことばを、2021年の主題聖句としています。
私たちはへりくだりを求めています。けれどもへりくだりの根拠は時として、私たちの誠実さには由来しないかもしれません。恵まれたいから、神様に助けてほしいから、思いがけない誠実さを神に示していただきたいから、知恵を頂きたいから、神の前にへりくだる。私たちはただ神への熱心さや神への熱い思いだけでへりくだることができない者です。それでも、神はただただ私たちに誠実を尽くしたいから、「へりくだりなさい」「神を愛しなさい」「隣人を愛しなさい」と命じておられるのです。「へりくだりなさい」と言われる神は、私たちがへりくだることができない者だということを知っています。「神を愛せよ、隣人を愛せよ」という神は、私たちが神と隣人を愛せない者だということも知っています。キリストが戒めねばならないほどに、私たちは、隣人を憎む者なのです。私たちは人を憎み神を呪うことしかできない自分に絶望します。けれども、私たちの救い主は、そういう私たちのために命を捨てて、救いの道を開いてくださった方です。それが、私たちに与えられた思いがけない神の誠実さの真骨頂であります。神を愛することができない私たち、隣人を憎むことしかできない私たちに、神が与えられた、「神の力強い御手のもとで自分を低くしなさい」という戒めがあります。「思いがけない誠実さを、あなたにきっと表すから。だから、自分を低くし、神と人を愛してみなさい。あなたがこの世界を安心して暮らせるように、神と人を愛せるようにしてあげる。わたしの『ご利益』を信じてみなさい。」そう語られる神が、私たちの目の前におられます。私たちはこの招きに、どう応えていくでしょうか。

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全能の神を信じます-使徒信条⑤

松本雅弘牧師
創世記18章16-33節
エフェソの信徒への手紙1章15-19節

2021年2月14日

Ⅰ.全能の神と私たち

「全能」の「全」とは「すべて」とか「完全」という意味、「能」とは「能力」のことですから、「全能」とは「すべてのことができる」ということでしょう。私たちが使徒信条で、「全能の神を信じます」と告白する時、「すべてのことがお出来になる神を信じます」という意味でしょう。いかなる神を信じるかは、その人の信仰生活を枠づけると言われます。では、神さまが全能であるということはどういうことなのか。そのお方を信じる私たちはどうなるのでしょうか。創世記によれば、天地の造り主、全能の神は、被造物に過ぎない人間と関わりを持たれるのです。今日はそのような視点から創世記第18章の出来事を手掛かりにしながら「全能の神を信じる」ということについて、御一緒に考えたみたいと思います。

Ⅱ.聖書の神さま

ある暑い日、それも真昼頃、遊牧民の格好をした3人の男がアブラハムの天幕にやって来ました。アブラハムはその彼らをもてなす中、ソドムの滅びの計画を知らされていくのです。

Ⅲ.自問なさる神

今日の箇所には驚くべき言葉、神の独り言が記録されています。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか」、聖書協会共同訳では、「私は、これから行おうとしていることをアブラハムに隠しておいてよいだろうか」と訳されています。
このとき神はソドムを滅ぼそうと考えておられた。ソドムの住民の悪が極限に達していたからです。神さまは王の王、主の主ですから、ご自分で考え罰をくだしたとしても、誰も文句など言えません。神さまですから。でもこの時、ご自身の側でわざわざアブラハムに伝え、彼から意見を求めようとしておられる。「私は、これから行おうとしていることをアブラハムに隠しておいてよいだろうか」という独り言は、そういうことでしょう。主なる神は全宇宙の創造者で統治者であるお方、しかも正義の神であり、審判者なるお方。その偉大な神が、アブラハムという1人の人間に、ご自身のご計画や考えを報告し、相談しようとされる。それは、神がアブラハムをそのような者としてお選びになったからでした。この「選んだ」というヘブル語は「友とする」と訳せる言葉です。聖書よれば、神は私たちとも同じ関係を持ちたいと願っておられる。神さまのお働きの協力者として選ばれ、友として生かされているということです(ヨハネ15:15)。こうしてアブラハムは祈りを通し神との話し合いを始めたのです。

Ⅳ.全能の神を信じます

そうした中、アブラハムにはどうしてもはっきりさせたいことがあったのです。「正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」〈神さま、どうしてあなたが〉という思いです。これまで神を信じて生きて来た。そのお方こそ人生の拠り所となるお方です。それなのに、何で神がこのようなことをしようとなさるのか、分からない。昨年から何度も心の中に頭をもたげる、「コロナ禍における神の沈黙」と相通じるテーマかもしれません。全能の神、善きお方なのに何故?
私たちが使徒信条で、「全能の神を信じます」と告白する。そのように、「すべてのことがお出来になる神を信じます」と告白した瞬間、なぜ、この世の中にはこんなにも不条理な苦しみがあるのだろうかと、ふと神の無力さを思ってしまうわけなのです。義人と言われる人に災いが降りかかり、罪のない人が犠牲になる。コロナのような疫病がどうして起こるのか、いや、神さまが全能ならば、何で、このような状態を放置されるのか。私たちは問いたくなる。さらに続けて、神が全能でなんでもおできになるならば、例えば、嘘をつくことができるのか。聖書には「神は常に真実で、自分を偽ることができない」(Ⅱテモテ2:13)という御言葉があるが、それは神の全能を否定するものではないか。神は悪を行うことができるのか。罪を犯すことができるのか。神は死ぬことができるのか。そうした意地の悪い問いかけが、次々と心の中に湧いてくることさえあります。アブラハムもそうでした。「どうして神は正しい者を悪者と一緒に滅ぼしてしまうのですか。そのようなことをなさったら、もうあなたは正義の神ではなくなってしまいます。あなたのことが分からなくなりました。」誤解を恐れずに言えば、ここでアブラハムの祈りの中心点はソドムの運命云々ではなく、むしろ神ご自身の資質を問うていたのではないかと思うのです。
創世記に戻ります。27節、「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます」と祈っています。そう言えば、若き預言者イザヤも同じような経験をしました。煙の中に輝くまことの神の臨在に触れ、イザヤの口から飛び出したのは、「災いだ。わたしは滅ぼされる」、新改訳は「ああ。私は、もうだめだ」(イザヤ6:5)という叫びです。
まことの神の御前に立たされる時に、人の心に畏れが生じる。ですから、創世記のこの箇所を注意深く読む時、アブラハムは、本当に知りたかったことを質問していないことに気づきます。なぜなら、恐ろしかったから。〈こんなことを訊いたら殺されるかもしれない〉と思ったから。ですから30節、彼は震えながら、でもぎりぎりのところで、「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください」、32節、「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません」と申し上げています。そして、創世記によれば、彼のこの訴えに対する主の答えが、「その十人のために滅ぼさない」というものだったというのです。
するとどうでしょう。アブラハムは対話を切り上げ、家に帰ってしまうのです。なぜここで終わりなのか。何が起こったのか。詳細は分かりません。でも一つ、確かなことがあると思います。それはアブラハムが納得した、ストンと腑に落ちたのです。
「滅ぼさない。その40人のために。…滅ぼさない。もしそこにわたしが30人を見つけたら。…滅ぼさない。その10人のために」と、そのように返ってくる答えごとに、神の、そのお方のイメージがアブラハムの中で変えられていった。自分の前におられるお方は、「得体のしれない怪物/理屈の通じない暴君」ではない。いや今まで以上にもっと信頼できるお方だった、という納得です。
ですから、さらに人数をカウントダウンし、駆け引きする必要もありません。誤解を恐れずに言うならば、たとえ何が起こったとしても、起こらなかったとしても、このお方は信頼できる。
私たちの言葉で言うならば、祈りの格闘を通して、アブラハムは神との新たな出会いを経験した。それによってアブラハム自身も変えられる経験をしていったのです。
神さまは全能のお方である。でも、それだけではありません。そのお方が創造の冠として、ご自身のかたちに人を造られた。そして造られたこの世界を、神と共に治めるように、この世界、この歴史形成の担い手として、私たち人間を召しておられる。
昨年の8月、タラントンの譬え話から説教した時に、台所での子どものお手伝いの話をしました。お母さんのお手伝いをする時、小さな子どもは、本当に満足をする。物凄い喜びで満たされる。お母さん一人でしてしまえば、時間もかからず、おいしく仕上がる料理ですが、敢えて、子どもに手伝わせると手間もかかります。失敗するかもしれません。でも、そうしたリスクを承知の上で、そのようにする。なぜでしょう。作る喜び、作った物を家族が食し、喜び合う幸せを子どもと一緒に分かち合うためです。その喜びに与らせてくださる。そして喜びだけではありません。悩むことも、怒ることも、分からずに苦しむことも起こる、何故なら、神が私たちを歴史形成のパートナーとして、友として選ばれたから。選んだ神さまが「これから行おうとしていることをアブラハムに隠しておいてよいだろうか」と自問なさるようなお方だからです。私たちは、この光栄な招きと選びを引き受けそのお方のことを、「全能の神を信じます」と心から告白して歩む者でありたいと願います。
お祈りいたします。

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父である神-使徒信条④

松本雅弘牧師
イザヤ書66章10-14節
ローマの信徒への手紙8章14-17節
2021年2月7日

Ⅰ.神を「父」と呼ぶことへの抵抗感/違和感(?)

しばらく前のことですが、説教で「神さまは父親のような存在なのだ」と語ったところ、ある方が来られて、「先生、神さまを〈父〉と呼ぶことに,私は抵抗を覚えます。そのことだけはストンと落ちないのです」。そういうお話をいただいたことがあります。「父」という言葉は、今の私たちにとってどのような印象を与えるものなのでしょうか。しばらく前の日本では父親は怖い存在の代表のように扱われてきましたが、一方で父親の権威は認められていたかと思います。でも現在の日本社会では、父親がらみの犯罪、家庭内暴力/性暴力を繰り返す父親の犯罪報道が頻繁に目に付くご時世。主イエスが地上の父親をもって神を紹介することに抵抗を感じるのは当然なのではないかと思うのです。こうした中、使徒信条は神を父と告白している。そもそもなぜ主イエスご自身が神を父とお呼びになるのか。どのような意味でそうお教えになったのか。そのような問を心に留めながら、今日は、「父である神」についてご一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ.イエスが神を「アッバ父」と呼んだ意味

主イエスが、神を父と呼ぶようにと示された“きっかけ”は、弟子たちが、「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」とお願いしたことにありました。その願いに対し、「こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。』」(マタイ6:9)とお語りになったのです。ただ聖書は、「父」という言葉が当てられていますが、実際に主がお使いになったのは、「アッバ」というアラム語の言葉です。
ある牧師曰く、「この『アッバ』はイエスが活動したガリラヤ地方で人々が話していた言葉、アラム語では幼い子どもが父親を家庭で呼ぶときの言葉で、あまり外では使わない、大人になったら使うのが恥ずかしい、『おとうちゃま』とか『とっと』とかいう呼び方」。とっても砕けた呼び方、一番、親しみを込めた呼び方です。幼い頃、皆さんは、父親を何とお呼びになっていたでしょう?「とうさん/お父ちゃん」、主イエスは、そう呼びなさいとお教えになったのです。
ところで、このことの関連で、一つ確認しておきたい事実があります。イエスさまの時代、もっと正確な言い方をするならば、旧約聖書の中で、神を父と呼ぶことは一般的ではなかったということです。旧約聖書には「父」という言葉が約千回使われています。そのうち神をさして「父」と出てくるのがたった15回、しかもその場合、「厳しく近寄りがたい存在」というイメージが強いのです。つまり神を指して「父」と呼ぶことは一般的でなかったにもかかわらず、主イエスは敢えて、ご自分の弟子たちに対して、祈る時に、「そう呼びなさい/そう呼び掛けるのですよ」と、教えられたのが、「アッバ父」という呼び方だったのです。
ヨハヒム・エレミヤスという聖書学者が次のように語っています。「われわれはここで基本的な意義を持つ一つの事実に出会っていることになる。すなわち、ユダヤ教の中には神に対してアッバという呼びかけがなされたという証例がただの一つも見つからないのに対して、イエスは自分の祈りの中では絶えずこの呼びかけを用いていたということ、(中略)アッバは子どもの言葉、日常語であり、親しい仲での敬語なのである。イエスの同時代人の感覚から言って、こういう日常身近な言葉を使って神に語りかけるなどは不謹慎きわまること、否考えることさえできないことであったろう。」(角田信三郎訳、『イエスの宣教』)
実は、主イエスが地上の生涯を送られた当時、ユダヤはローマ帝国の支配下にありました。そこで何が起こっていたかと言いますと、ローマ皇帝が植民地の住民に対し自らを「父」と呼ばせるようにしていたのです。ゼウスとかジュピターが、「天の父」であり、ローマ皇帝はそうした神々の地上における代理者としての「父」として、自らを現人神として崇拝させることを強要していた時代です。その時代に主は、「地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ」(マタイ23:9)とお語りになった。主イエスご自身が祈りを捧げ、導こうとなさったお方を指して、「アッバ父」と呼びかけるように教えられた。これは、当時の政治体制にたいする一つのプロテストだと言われます。

Ⅲ.父なる神は男性?

さて冒頭、神さまを「父」という言葉で表すことに抵抗を持たれる方のお話をしました。結論から言うならば、主イエスが神さまを指して「父」とお呼びになる時、それは神が男性であることを意味しているのではないことも付け加えておきたいと思うのです。その証拠に、聖書を丁寧に読んでいきますと、そこには母なる神のイメージも出て来る。今日、朗読箇所で取り上げた、イザヤ書66章13節に、「母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける」とあります。つまり神さまを父と呼ぶ時、それは神のジェンダー/性別を問題にしているのではい。このことは、ぜひ覚えておきたい、心に留めたいと思います。ただ残念ながら、長きにわたり、キリスト教の歴史の中で、「父なる神」の「父」を性別/ジェンダーとして受けとめ、その結果、男性中心の社会や文化、家父長制を正当化する根拠として用いられてきた歴史が教会の中にもありました。高座教会においても、女性長老を認めることのできなかった頃、そうした聖書理解があったかと思います。

Ⅳ.神の家族としての私たち

今日は第一主日で、本来ならば聖餐に与る日です。最後の晩餐の席上で、主イエスは、取り上げたパンを指し「取って食べなさい。これはわたしの体である」と言われ、そしてまた杯をも取り上げ、「皆、この杯から飲みなさい。これは罪が許されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と宣言された。実は、それと同じように大切な宣言を主イエスはなさっていたことを福音書は伝えています。それは「神の家族宣言」です。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」ご自分の周りに居た人々、そして弟子たちを指さして、そう宣言なさったのです。幸いなるかな、神は私たちにとって、「アッバ父よ」と呼びかけることが許されているような存在なのです。私たちをあるがままそのままで愛してくださっている。勿論、私たちが犯す罪を憎まれます。それは、罪が神の子である私たちを傷つけダメにするからです。命の源である神から私たちを断絶させるからです。だから神の子たちのことを思い、的外れの生活から解放したいと願い、御子イエス・キリストを送り、罪の支払う報酬である死を、私たちの身代わりの死を、十字架の上で成し遂げてくださった。
神は私たちをどう見ておられるか。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と見ておられる。放蕩息子の父親のようなお方が、使徒信条で告白する「父なる神」、主イエスが「アッバ父よ」と呼ぶようにと示してくださったお方です。息子の帰りを毎日毎日忍耐して待ち、戻って来た息子の姿を見付けた途端、一直線に走り寄り、抱きしめ、「ああ、よかった!」、息子の無事、その存在を喜ぶ。それが、私たちが使徒信条で「父なる神を信じます」と告白する神さまなのです。
パウロは、神が私たちと、そうした親しい関係、その関係を成り立たせるために、信じる私たちの内側に、聖霊を与えてくださったのだと明言しています。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」私たちの信じている神さまは、放蕩息子を迎える、愛に満ちたアッバなるお方、しかも、そのお方を、私たちの心の深み、霊において告白できるように、聖霊が私たちの内側に住んでくださる。しかもそのお方は、私たちをして心の底から「アッバ、父よ」と呼び掛けられるように、告白できるようにしてくださる。
「私は、父である神を信じます」と使徒信条で告白する時、そのような恵みの現実の中に置かれ、生かされてことを覚えたい。その恵みを与えてくださる神さまを、「アッバ父よ」と呼びながら、この一週間も歩んでいきたいと願います。
お祈りいたします。