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主日共同の礼拝説教

キリストの忍耐

和田一郎副牧師
詩編86編11~17節
テサロニケの信徒への手紙二3章3~5節

2021年3月28日

はじめに

今月私たち夫婦は結婚7周年を迎えました。しかし、時々喧嘩にもなります。ほとんどの喧嘩がゆっくりしている妻に対して、私は「もっと早くもっと効率よく」とイライラして喧嘩になることが多いのです。また、3歳の息子はなんでも自分でやらないと気が済みません。夫婦の関係も子育ても、早く、効率よくということは当てはまらないと最近思いました。今日は皆さんとテサロニケの手紙から御言葉を分かち合っていきたいと思います。

Ⅰ.今を生きる

今日の聖書箇所3節でパウロは「しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます」と記しています。前の節でパウロは、自分たちが迫害を企てる悪人どもから守られるように祈ってください、と伝えました。そして、今日の箇所では、自分たちを守ってくださる神様は真実な方ですから、テサロニケの信徒たち、あなたがたのことも、必ず守ってくださる。そして、これまで自分が命じることをテサロニケの人々は現に実行しているし、これからも実行してくれると確信している。と言うのです。パウロがこれまで「命令してきたこと」とはいったい何でしょうか。
テサロニケの手紙は1と2があって、二つの手紙は間をおかずに続けて送られたと言われています。この中でパウロがテサロニケの人々に教えてきたことの一つは、再臨の正しい理解です。再臨は、いつかまたイエス・キリストが来られて、キリストの裁きを受けたのちに、キリストが神の国をこの地上に打ち建ててくださることです。それは私たちクリスチャンにとって喜ばしい時です。しかし、それが、いつ来るのかは分かりません。ところがテサロニケの人々の中には、再臨の時がいつ来るのかと気にしてばかりいて、問題になっていました。そんな彼らをパウロは戒めたのです。パウロは次のように教えました。
「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、私たちは生きていると言える」(テサロニケの信徒への手紙一3章8節)と教えたのです。
彼らにパウロが命じたことは「今を生きる」ということです。いつ起こるか分からないことを気にして生きるのではなく、もっといい生活があるはずだと、今をおろそかにするのではない。再臨の希望を心に留めながら、今をどう生きるのかをパウロは示しました。
少し話が脇にそれるようですが、来週から使う「聖書協会共同訳」では、今の聖句は「私たちは今、安心しています」と訳されていて「生きる」という言葉が抜けていました。しかしギリシャ語の原文では「生きる」という言葉があるので、新共同訳の「今、私たちは生きている」という訳の方が原文に忠実だと思います。パウロがこのテサロニケの手紙で教えていることは、再臨の理解をしっかり説明したうえで、今をしっかり生きるということです。
「メメントモリ」という言葉があります。「死を覚えよ」という意味です。命に限りがあることを心にとめて、今を生きることに目を向ける言葉だそうです。パウロはこの手紙の中で、再臨の時を心にとめて、今を生きることを勧めています。それを「聖なる者となる」とか「主に倣う者になる」と表現してきました。今をどのように生きるのかという具体的な教えが、みなさんもよく耳にする、テサロニケ第一の手紙5章の言葉です。
「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(テサロニケの信徒への手紙一5章14-18節)。
このように、今を生きることをパウロは教えているのです。今私たちは生きている。キリストの命を生きています。それはキリストの復活の命であり、永遠の命に与って生きることを意味します。生けるイエス様と今、共に生きるということです。
「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられる」(ガラテヤの信徒への手紙2章20節)。それが、今日の聖書箇所4節で、パウロがテサロニケに人々に命じてきたことの意味です。これはキリストの復活を理解するうえでも、クリスチャンとしての自覚を考える時にも、そして福音という良い報せの意味を知るうえでも大切なことです。

Ⅱ.キリストの忍耐

続いて、今日の聖書箇所5節で「神の愛」と「キリストの忍耐」とを悟りなさいとパウロは結んでいます。これはイエス様をまだ信じていない人を、信じて救われるように待っているという忍耐です。キリストの忍耐について、パウロはローマ書で次のようにのべていました。
「滅びることになっていた怒りの器を、大いなる寛容をもって耐え忍ばれた・・・」
(ローマの信徒への手紙9章22節聖書協会共同訳)
とありました。パウロは、イエス・キリストをまだ信じていない不信仰な人たちを「大いなる寛容をもって耐え忍ばれ」ているというのです。それがキリストの忍耐です。イエス様が話された「ブドウ園の労働者と主人」の話が、このことをよく表していると思いました。

Ⅲ.ブドウ園の主人の忍耐

あるブドウ園の主人が、農園で働く労働者を雇います。最初は夜明け行って一日1デナリオンで雇います。次に9時に広場に行くと、まだ人がいたので雇います。さらに同じ条件で12時、3時と広場に行って雇った。最後に夕方5時ころにまた行くと、まだ人がいた。主人は、この人たちもブドウ園に送り込んだ。夕方になって主人は、最後に来た者から順番に報酬を払うように命じた。5時から働いた人に1デナリオンが支払われた。途中から来た人にも、朝一番から働いていた人にも同じ1デナリオンを払いました。当然のようにクレームが出ました。早朝からフルに働いた人は「何で最後に少ししか働いていない、彼らと同じ報酬なのだ」と言います。けれども、主人は約束を破っていません。「友よ、あなたは私と1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。」という話です。
気前の良い主人は、神様に譬えられていて、神様が与えてくださる恵は、働く時間の長さや、仕事の質で測ることをなさらないということです。信仰生活が50年であろうと、数日間の信仰生活であっても神様の恵は同じです。
洗礼を受けたばかりの頃の私は、どう考えても不平等だと思えて理解できませんでした。しかし、それだけこの話は、人間的な価値観と神様の価値観が違うという典型的な話だと思います。私が思うには、ブドウ園の主人は朝一番で仕事を探している人全員に来てほしかったのだと思います。でも呼びかけに応じた人は一部の人だったのです、ですが主人はまた広場に行きました。一日に何度も「ブドウ園で働かないか?」と呼びかけに行ったのです。もしかしたら、呼びかけたのに応じないで様子を見ている人も、いたのではないかと思うのです。そんな人もいるのを承知で、主人はまた呼びかけに行った。しかし、主人は「何でまだ来ないんだ!」とイライラして我慢して呼びかけに行ったのではない。大いなる寛容をもって耐え忍ばれて呼びかけに行った。そして最後に、気前良く支払いをしてくださる、それが神の忍耐です。
いつものブドウ園の労働者のたとえ話を、ちょっと違った解釈からお話をしましたが、これは自分の経験からも思わされます。私は小さい時から親と一緒に教会に行く機会はありましたが、決して自分から教会に行くことはしなかった。呼びかけに応じなかったのです。社会人になってから信仰を持つことができました。それまでイエス様は本当に忍耐してくださったのだなと思います。キリストの忍耐によって生かされている。その寛容な忍耐に今とても感謝しております。
先週、長年教会学校の奉仕をされている姉妹と話しをする機会がありました。その姉妹は、教会付属のみどり幼稚園の先生もされていたそうです。その卒園生にずっとクリスマスカードを送っていると聞きました。最初の生徒さんは、今60歳を過ぎたと聞いて驚きました。今も毎年、聖書のみ言葉が書かれたカードを送っているそうです。中には信仰をもっていない人もいて「先生が送ってくれたカードの御言葉と同じ言葉が、近くの教会に張り出されていました。それで久しぶりに聖書を開きました」というお便りが来たそうです。信仰をもつか持たないかは分かりませんが、ひたすら何十年も御言葉付きのカードを送っている。その姉妹は「いつになったら信仰をもってくれるのかな?」とイライラしてカードを送っているのではないのです。「自分は本当に恵まれている」と話していました。
その姉妹の話と、ブドウ園の主人が呼びかけ続けていたこと、神様が再臨の時まで、寛容な忍耐をもって救いに招き続けている、忍耐の意味が分かるような気がしました。
パウロは、そのキリストの寛容な忍耐を悟りなさいとテサロニケに人々に伝えています。迫害など、いろいろと問題があって宣教が進まなくても、キリストは寛容に忍耐してくださるから、焦らずに、しっかり今を生きて福音を伝えなさいと教えているのです。
神様は、悪をもって悪に報いてしまう、私たちのことを知ってくださいます。弱い人を支えられない、いつも喜ぶことができない、祈ることができない、感謝を忘れてしまう私たちの弱さを知っていてくださいます。そのように今を生きるということができない、私たちの欠けを知っていて、それでも今も寛容をもって忍んでくださっています。神の愛、キリストの忍耐を悟り、今、与えられている中で、生きていきたいと思うのです。
お祈りをいたします。

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キリストにならいて

杉本 巌 神学生
ヨハネによる福音書13章3~8節
ペトロの手紙一5章6節
2021年3月21日

1. 高座教会での一年間

高座教会に遣わされておよそ一年が経ちました。その間、自分達の集会を保つことも難しい中にあって、私たちを迎え入れてくださっている高座教会の皆さんに、感謝を申し上げたいと思います。昨年度来、私たちの想いと意識の多くはコロナウイルスの対策へと向かい、その中で私たちはこのコロナウイルスとどのように生きるべきかという事が大きな問題となってきました。
しかしある時、ふとコロナウイルスの影響や自分の身の周りのことだけではなく主事室スタッフや、長老の方々、教職の先生方の事を思う機会を与えられました。
このような状況であるにも関わらず、多くの方々が教会を建て上げようとしている。ただ、自分の礼拝を守るだけではなく、今できる最善を尽くして他の方の霊的なケアをしようとしている。その姿を見せていただいた時、私はこの一年間、高座教会で真に学ぶべきこと、教会とはどういうものなのかという事を改めて、示されました。

2. 受難節に想いを馳せること

私たちは、今、自分たち自身もまだまだ困難が続く中での、受難節をすごしています。私たちは本日、この受難節の時に私たちの主であるイエス様がどのように振る舞ったのかという事を、共に見ていきたいと思います。
イエス様は本日の聖書箇所のうちで「ご自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟った」、と書かれている。受難節に入り、イエス様の地上での生涯の終わりの時が間近に迫っていました。人生の最後の時と言うのは、その人の生き方が現れるものですが、イエス様が公生涯の最後に選ばれたのは、弟子たちと共に食事をし、そして弟子にひれ伏して足を洗って教える事でした。
今でも人にひれ伏すという行為は、自分の立場を低くすることを意味しますが、当時、身をかがめて足を洗うという事は奴隷が高貴な主人をもてなす際に行う行為でしたから、恐らく弟子たちの多くは本当に戸惑ったのではないかと思います。
その為に、シモン・ペトロは「わたしの足など、決して洗わないでください」と言います。イエス様に対する尊敬の想いが溢れての言葉でしょう。ここでは、ペトロの名が記されていますが、他の多くの弟子たちも恐らく、共通の想いでいたことだと思います。
しかし、イエス様はペトロにこう返答します。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」
イエス様に対して、尊敬の念を込めての発言をしたペトロは、突如として冷や水をかけられたような驚きに満たされました。そして、イエス様のこの言葉にペトロは急いで、言葉を翻します。
一方で、この「足を洗う」という事の意味が、それほどまでにイエス様にとって大切なことだったことが伺えます。何故、この足を洗うという行為はなぜ、それほど大切な行為だったのでしょうか。この時、足を洗う事は単に奴隷や召使が主人に対してもてなすという事だけではなく、むしろ人々の罪の為の贖いをすることを意味するものでもあったからだと聖書学者たちは解釈しています。
その意味でペトロの発言は意図していなかったにせよ、自分自身での救いの達成や、自分は神様の力に頼らなくても何とかやっていけるものである、仕えて頂く必要などはないという人間の傲慢さの象徴でした。

3. ペトロにとってのへりくだり

本日、もうひとつ指定させていただいた本日の聖書箇所は、今年度の高座教会のテーマ聖句で、ペトロの手紙第一5章6節です。聖書の中の2通のペトロの手紙は、聖書学者によれば、ペトロの最晩年のものであると考えられます。
ペトロの手紙の5章の手紙の挨拶には「バビロン」すなわち、当時の様々な放埓や、あらゆる悪の中心地であるローマにいることが示されており、ペトロはその地で迫害によって、亡くなったと言われています。
ペトロはその最晩年に神の力強い御手の下で、自分を低くすることを勧めています。
それは何故かと言うと、この聖句の前後を見るのであれば、それはキリストがまさにそのように、この地上での生涯を歩まれて、そして、その生涯の最後に私たちの初穂として、復活され天に昇られたからです。この手紙を書いた時、ペトロの目には、自分の若い時に歩んだ、イエス様の地上での生涯が頭にあったと思います。
とりわけその時、頭にあったことはイエス様がご自身の死の直前にまで、自分を低くされ、受け入れられ、弟子たちの足を洗ったその姿勢だったと思うのです。
ペトロは最晩年になって、後世のクリスチャンたちにへりくだることを教え、互いに愛し合う事を教えました。あるいは迫害の中での自分の死も見えていたかもしれません。
そんな時に、ペトロは多くの兄弟姉妹たちに、自分を低くすることを伝えました。まさに、主イエス・キリストが最後にそのことを残されることを望まれたからです。

4. 私たちはどう生きるか?

私たちは、この与えられている時をいかに生きるべきでしょうか。どのように、日々を生きるべきでしょうか。へりくだって歩むこと、誰かの足をイエス様に倣って洗ってあげる事、私たちに負い目のある人を赦して身を低くすることが今、望まれている様に思います。互いが互いの為に愛せるならば、その想いはイエス様にもまた愛され、来る日に高く引き上げて頂けるのではないでしょうか。
そうすれば、私たちはイエス様のように引き上げられるのだという事を伝えました。なぜなら、それこそがペトロ自身において経験したことであり、イエス様に倣う事だったからです。私たちもイエス様に倣って日々を歩みましょう。そして、謙遜さをお互いに伝えあう、そうした歩みを今週も、またしていこうではありませんか。(※「今週もまた、そのような歩みを進めていこうではありませんか」、「今週もまた、そのような歩みをしていこうではありませんか」と、「歩みを」と「していこう」の間に言葉が入らない方がつながりやすいように感じました。お祈りをいたします。

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主イエス・キリストを信じます―使徒信条⑦

松本雅弘牧師
出エジプト記32章1~6節
マタイによる福音書16章13~20節
2021年3月14日

Ⅰ.はじめに

クリスチャンになる前、「イエス」が名前で、「キリスト」は苗字(ファミリーネーム)だと思っていました。そうではなく、ギリシャ語の「キリスト」とは称号、ヘブライ語では「メシア」、「油注がれた者、メシア/救い主」という意味です。使徒信条において、「主イエス・キリストを信じます」というのは、2千年前にベツレヘムで生まれ、ナザレで育った「イエス」という名の人を「メシア/救い主」、すなわち「キリスト」と信じます、という告白です。
今日、読ませていただきましたマタイ福音書からの箇所には、まさにペトロがこの告白をしたことが紹介されています。

Ⅱ.ナザレのイエスは何者なのか?

ここで主イエスは弟子たちに向かい、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。それに対して弟子たちは、「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の1人だ』と言う人もいます」と応えました。考えてみれば、「洗礼者ヨハネ」、「エリヤ」、そして「エレミヤ」、どれ一つ取っても、人間として受ける最高の評価です。そして現代に至るまで、「ナザレのイエス」、ベツレヘムで飼い葉桶に生まれ十字架に掛けられて死んだ、ひとりの男に対し、本当に様々な評価がなされてきました。
ところで、ナザレのイエスを聖人と考える人、偉大な宗教家、または人生の教師、社会改革者と考える人もいるでしょう。多かれ少なかれ誰も最初はそのように考え教会の門をくぐるのではないでしょうか。ただ礼拝に出席し聖書の言葉に耳を傾け、教会の人たちと触れ合う中、次第に〈あれ、様子がおかしいぞ〉と始まる。何か違うことに気づく。そして人々は去っていく。ある牧師がこんな風に語っていました。「“人生の教師”としてイエス・キリストを見、“人生の学校”として教会をとらえる人は、やがて卒業して去っていく。」
教会学校の先生が私に、こう話してくださったことを今も覚えています。世の中には偉人と呼ばれる人はたくさんいる。そうした人たちは「ここに道がある、これが真理だ」と人として歩むべき道、真理を指し示す。でもナザレのイエスだけは違う。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)とご自分が道そのもの、真理そのもの、命そのものと言い切る。そうです。信仰に与る者はある時、この事に気づき、視点の転換が起こるものです。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
考えてみれば、これはとてつもない発言です。教会に導かれた者は、イエスのこの言葉が本当かどうか。人生のどこかの時点で真面目に向き合うように招かれていると思うのです。イエスは単なる大嘘つきか、その発言のままのお方かどうか…。もし大嘘つきだけの男であるならば、礼拝に集うことは無意味ですし時間の無駄です。気休めにしか過ぎない。でもそうでないならば、主イエスのこの発言は聞く者たちに、ある種の態度決定を迫る発言となります。ここで求められるのは、周囲の者がどう言っているかではありません。自分の家がクリスチャンホーム、親がクリスチャンである、あるいはミッションスクールを卒業した、そんなことを聞いているのではないのです。主イエスが聞きたいこと、それは「あなたはわたしを何者だと言うのか」ということ。それをあなたの口から聞きたい。あなたの考えを、その考えに基づきどう生きていくのか、生きて行きたいのかを聞きたいのです。

Ⅲ.恵みの契約によって神との生きた関係が始まる

ところで、以前、高座教会にも来られたことのある千代崎秀雄先生が、洗礼を受ける際の信仰の告白は結婚の誓約に似ている、とおっしゃっていました。どこがどう似ているのか。先生曰く、「健やかな時も病む時も」とあるように、調子のよい時だけではなく、どんな時にも相手に対する誠実さを保つ誓いでもあるからだ、というのです。確かに聖書は神と私たちとの関係を結婚にたとえて教えます。あの出エジプトの出来事の後、エジプト王ファラオのくびきから解放された人々はシナイ山において神と契約を結びます。言わば、「結婚の誓約」をするのです。この時から正式に神の民イスラエルとなります。そしてその結婚関係が守られ、祝福された関係となるために与えられたのが十戒を中心とする律法です。結婚の契約関係に入ったのは、律法を守った結果ではありません。あくまでも律法は「神の民たる者/主の花嫁たる者はいかにあるべきか」を示すものです。特にカンバーランド長老教会ではこの契約関係を「恵み」と呼びます。これとは対照的なのが一般的な契約関係です。この4月から新社会人になる方もあることでしょうが、就職で「試用期間」という時期を設ける場合があります。まずは試験的に採用してみる。そしてよく働けることが分かったら本採用となる。イスラエルの民の場合はそうではない。最初から本採用なのです。その証拠に、律法は神の民として本採用された後に与えられている。この順序が大事なのです。実は、シナイ山において恵みの契約を結んだイスラエルの民、最初から本採用でした。しかしその彼らが、その律法を早々と破るという大事件が起こります。今日、お読みしました出エジプト記32章の出来事です。金の雄牛の像を作って、「これがあなたがたの神々だ」と言って、祭壇を築き、お祭り騒ぎを始めたのです。預言者ホセアの言葉を使うならば姦淫の罪を犯したのです。結婚なら破談もの。会社でしたらクビになっても当然のような事件です。しかし契約は取り消さなかった。この金の雄牛の像の事件こそ、後のイスラエルの歩みを象徴するような出来事でもありました。花嫁イスラエルは繰り返し律法を破ります。しかし、にもかかわらず、主なる神は彼らを赦す。結婚関係、自らが結んだ恵みの契約に誠実を尽くしたのです。ただ、そのために、主なる神はどれだけ心を痛めたか。犠牲を払ったか。贖いの血が流されたか。執り成しの祈りや労が捧げられたか。そうした一つひとつの労苦は、新約に至り、最終的には十字架の贖いにつながっていくのです。
この時の主イエスの問いかけ、「あなたはわたしを何者だと言うのか」、この問いかけは、正に恵みの契約への招きの言葉なのです。これに対し私たちを代表しペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したのです。私たちで言うならば、そのように告白し洗礼へと導かれ、神との生きた関係が始まっていくのです。

Ⅳ.私たちを宣教の業へと導いていく告白

さて、ペトロのこの告白に対して主イエスは大変喜び、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」とおっしゃった。そして、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われたことが記されています。私たち自身の信仰の告白を振り返ると、その背後に必ず神さまの導きがあったことを知る。見えざる神の導きがある。つまり一方的な恵みの出来事であることを知らされるのです。さらに主イエスは続けて「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と語られました。キリスト教会には、主イエス・キリストから地上における天国への入り口としての重大な使命を与えられている。そのことにも畏れと不思議さを覚えさせられます。ともすると、神さまからいただいた恵みが当然となり、驚きも感謝も薄れ、天国の「鍵」も自分でコントロールの利く「自分のもの」と思い込む時に、キリスト教会は傲慢に陥り、塩気を失うのではないでしょうか。
今日は、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」、という主イエスの御言葉を何度か読ませていただきました。主イエスはそのようなお方です。それゆえ使徒信条をもって、「主イエス・キリストを信じます」と告白する時、信じるお方が救い主なる方ですから、これからも真面目に宣教の業に励まなければならない。とくに愛する家族の者たちと一緒に、地域に住む仲間と一緒に、これから後も、神の国の恵みのなかに歩んで行きたいからです。お祈りします。

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神のひとり子 - 使徒信条⑥

松本雅弘牧師
マタイによる福音書4章1~11節
2021年3月7日

Ⅰ.はじめに

今日は「神のひとり子を信じます」という告白が、クリスチャンである私たちにとって、どのような意味を持つ告白なのかについて、御一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ.悪魔の誘惑

『コロナの時代と僕ら』の著者、P・ジョルダーノは、消費行動に駆り立てられた私たち人間が、その欲望のままに「藪」をつつき回ってきた結果、そこから飛び出してきた「蛇」こそが、コロナウイルスであり、今回のパンデミックなのだ、と語ります。木曜日に3.11を迎え、あれから丸10年になりますが、東北を襲った大地震、続く福島原発事故。思えば、そうした悲劇もジョルダーノの言葉に照らしてみる時、それはどこか深いところで人間の消費行動と深い関係があることに気づかされる思いがするのです。
今日の聖書で悪魔は神の子である主イエスに向かって、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と語りかけました。AIの時代と言われ、不可能なことは何もないと錯覚させる時代にあって、自分たちの生活をより豊かに出来る、快適にすることが可能なはずだ、いや、そうでなければならない、という囚われに突き動かされているのではないでしょうか。私たちのそうした願いは必ず満足させられなければならないという誘惑です。
ところで、今週の礼拝のポスターをご覧になったでしょうか。崖の上に両手を広げて立っている人の姿です。向こうには美しい太平洋が広がっています。そして次の写真を見ますと、自分の番を待つ若者たちの長蛇の列です。場所はニュージーランドのロイズ・ピークという、絶景インスタ映えスポットだそうです。北村さんが考えたポスターのキャッチコピーは「どうして『映え』たいんだろう?」です。ニュージーランド観光局は、SNSに感化された写真ばかりを撮らないよう、旅行者に求めるキャンペーンを始めているそうです。
なぜこのスポットを訪れるのか?「どうして『映え』たいん」でしょう?一人でも多くの仲間から「いいね」を貰いたい…。心の奥底にある承認欲求が私たちを、そうしたことへと駆り立てるのです。主イエスが経験した2つ目の誘惑は、まさにこの承認欲求をくすぐる誘惑だったと言えるでしょう。悪魔は「神の子なら、飛び降りたらどうだ」、と提案しています。
高い塔から飛び降りれば、その評判は一気に広まることでしょう。当然、主イエスは神の子なのですから、飛び降りた後、天使たちの手に抱かれ傷一つ負わずにいたら、瞬時にして群衆、世間の関心を掴むことが出来たでしょう。それを誰かがインスタグラムやフェイスブックに投稿し、あるいはツイートしたならば、大勢の人が「いいね」し、その投稿は拡散したに違いない。仮にそうだとすれば、これから始まる主イエスの宣教活動もスムーズに進むことになります。悪魔はそこを突いて来きた。「神の子なら、飛び降りたらどうだ」。
そして止めの誘惑が8節と9節に出てきます。「(神の子なら)、すべての支配を手にしたらどうか」。「影響力のあるなしで、あなたの価値は決まりますよ」という誘惑です。
ヘンリ・ナウエンの、『静まりから生まれるもの―信仰生活についての三つの霊想』という書物があります。そこにこのような言葉がありました。「…実のところわたしたちは皆、自分自身の人生の意味や価値を、自分のこのような貢献度によって測ろうとしています。…何か意味のあることをしたいとする願望は、それだけに終わらず、自分がしたことの結果を、自分の価値を測る物差しにしてしまうことが多いのです。そうすると、何かを成し遂げたと言うだけでなく、自分の成し遂げたことを自分自身だと思うようになってしまいます。」

Ⅲ.「いちじくの葉っぱ」がなぜ必要?

創世記3章を見ると、最初の人間アダムとエバが、悪魔の提案に耳を傾け、それを実行に移した途端、彼らに何が起こったかと言えば、神が予告した通り、彼らは自らに死を招くことになったことが記されています。聖書における死とは関係の断絶です。神との断絶、隣人との断絶、そして自分自身との断絶です。その結果は、すぐに現れました。いちじくの葉っぱです。人間は、自分を恥かしいと感じ始めた。あるがままの自分を受け入れることの出来ない者となったのです。現代の心理学用語を使えば、低いセルフイメージに苦しむこととなった。セルフイメージが低いと当然、人間関係の中でストレスを覚えます。自分を良く見せようと背伸びし、何かで飾り、あるいは隠す。人によっては自分を支え守る「いちじくの葉っぱ」は異なることでしょう。SNSのフォロー数であったり、高価な持ち物であったり、肩書きや実績や経歴であったり…。しかも創世記では、アダムとエバと言う夫婦の間柄にさえ、いちじくの葉っぱが持ち込まれていく。でも、これが私たちの現実なのではないでしょうか。
神さまから離れてしまった人間は、「あなたは愛されるに値しない」という声が常に心の奥深くから聞こえて来るものです。不安感に襲われ続ける(信仰告白7.05)。この不安を解決する手っ取り早い解決法が、悪魔が提案した物の所有、世間の評価、影響力の獲得でしょう。最近、こんな言葉と出会いました。「今までわたしは、正しいことを、まちがった動機でおこなってきた自分に気づいた。」ドキッとしました。さらに読み進めると、「自分が何かをしているとき、ほんとうは何をしているのかを知るという(もう一つの)課題がある」と書かれていました。私たちは、何で物を欲するのか。どうしてインスタ映えする写真をアップしたいのか。いや、信仰に関わることでさえも、もしかしたらそうかもしれません。いつしか無意識に何かをしている時、いったい私は、何を求めて、それをしているのでしょう。

Ⅳ.神の子であり、何かをして神の子になるのではない

もう一度、マタイ福音書に戻りたいと思います。主イエスが悪魔に放った、最後の言葉に注目したいと思うのです。「あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ」。一言で言えば、神さまを礼拝せよ、ということです。悪魔の試みを受ける直前、主イエスは断食し祈っていました。もっと言えば神を礼拝していたのです。私たちが礼拝で御言葉をいただくように、主イエスも神の言葉を思い巡らしたに違いない。その御言葉が4章の直前に出て来る、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の言葉です。たとえ悪魔や周りの人が何と言おうと、自分は神の子であり自分を愛してくださる神のものなのだ、という恵みの現実を宣言する御言葉を味わっていたのです。何かをしたので、何かが出来るので、みんなが注目するから神の子になったのではないのです!すでに神の子なのです!doingがその人のbeingを決めるのではないのです。その逆なのです。これこそが、私たち一人ひとりに向けて語りかけられている、大切な聖書のメッセージなのです。
神の子となる資格は神によって与えられるもので、決して血肉によるのではなく私たちの頑張りや努力によるのでもない。それは賜物であり恵みとして授かるものなのです(ヨハネ1:12-13)。私たちは、神さまの子どもなのです。悪魔が何と言おうと、また人さまがどう見ようと、私たちは神の子です。そして神の子であるとは、この私を愛してくださる神さまのものとされた、宝物とされたということなのです。私たちは元々、神のかたちに似せて造られたものです。ですから神さましか埋めることのできない空洞がある。神さまを知らない時、いや知った後でも、しばしば悪魔の囁きに耳を貸し、必死になって何かを求めているかもしれません。でも冷静になって振り返るとき、私が本当に欲しているものは何でしょう。本当に必要なものは何でしょう。それは神様ご自身、神さまの愛なのです。そのお方に承認され、無条件に受け入れられ、愛されていることを実感したいのです。
ですから、私たちがすべきこと、特に誘惑を感じた時にすべきこと、それは神のところに逃げていき、その御前に心を静め、そのお方の無条件の愛を深く味わうことです。主イエスが40日40夜、黙想した、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」との御言葉を、聖霊の助けをいただきつつ味わい、心に刻むことなのです。
私たちが主イエスを神の子と信じる信仰に生きるということは、私たち自身も神の子の恵みと特権の中に置かれていること、そこを出発点として、そこを足場として生きていくことなのです。お祈りします。