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主日共同の礼拝説教

きょうだいとなるために

和田一郎副牧師
詩編133編1-3節 、テサロニケの信徒への手紙二3章6-15節
2021年4月25日

今日の説教題は「きょうだいとなるために」です。もちろん教会の兄弟姉妹のことです。キリスト教会では信徒同士が兄、姉、兄弟、姉妹と呼ぶ伝統があります。神様を父と呼ぶことができて長男はイエス様です。それに続く兄弟姉妹が私たちで、これが神の家族です。今日はパウロが書いたテサロニケの信徒への手紙から、「きょうだいとなる」ことについて、考えていきたいと思います。

Ⅰ.「きょうだいたち」

6節「きょうだいたち」は、先月まで使っていた「新共同訳」では漢字で兄弟と書かれていましたが、新しい協会共同訳では平仮名で書かれています。テサロニケ教会の信徒は、男性も女性もいました。新しい聖書では現代の感覚として差別的であったり、不快に感じる表現が改められました。きょうだいの意味が男性を特定した箇所もあるので、そこには漢字で「兄弟」と書かれています。聖書は男性優位に書かれていると言われる方もいます。聖書の中の時代も、キリスト教会の伝統の中でも男性優位の文化があったことは否めないことだと思います。しかし、創世記において神様が人間を造られた時「男と女に創造された」(創世記1章27節)と、男女は同じように造られました。同じように「神のかたち」に造られました。その後、女が男の「助け手」として造られたとありますが、それは、男と女の主従関係を表しているのではありません。
カンバーランド長老教会には女性の長老も女性の牧師もいます。互いの賜物の違いを受け入れて、同等に扱われていくというのは、これからの時代に必要なことです。
6節にもどりますが、パウロは、テサロニケ教会には教えに従っていない人がいると指摘しています。イエス様が再び地上にやって来る再臨の時が、間もなくやって来ると信じて、コツコツと仕事をする必要がないと怠けた生活をしている人たちです。教会の経済を一部の人たちが負担を負って、間違った考え方から不公平を生んでいるとしたら問題です。パウロはここで厳しい言い方をしていますが、それには理由がありました。パウロがかつてテサロニケに滞在している時、テント作りの仕事をしながら宣教の働きをしていたのです。本来ならパウロのような伝道者は、経済的なサポートしてもらうことができました。イエス様も「働く者が食べ物を受けるのは当然である」(マタイによる福音書10章10節)と言いました。しかし、パウロがあえて働いていたのは、模範を示すためでした。働く尊さを知ってもらいたかったからです。テサロニケの手紙には「働く」ということが再三でてきます。10節に「働こうとしない者は、食べてはならない」という言葉があります。これは「働かざる者、食うべからず」という諺を生みました。
しかし、働く者は食べてよくて、働かない人は食べてはいけない、という意味ではありません。景気が悪くて仕事がない人や、健康の問題があって働けない人もいます。聖書に書かれている意味は、働けるのに働こうとしない人に向けてパウロは言っているのです。

Ⅱ.労働

働くことは信仰生活の中で重要なことです。創世記を見ると、人間に与えられた最初の仕事というのは、神様が創造し「良かった」とされた世界を治めることでした。
創世記1章28節「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ」とあります。この箇所も以前の聖書では、「支配せよ」とありましたが「治めよ」と改められました。かつて人間が自然を自由に扱ってよいという解釈があって、自然破壊や動物の乱獲などが黙認されてきました。辞書を調べましたが、日本語の「治める」という言葉は「乱れているものを平定する」「整った状態にする」という意味合いが多くある言葉です。神様は天地を創造されましたが、その被造物を整った状態に治める働きを、人間に委ねたのが創世記1章28節の意味です。この箇所を「文化命令」とキリスト教会では呼んできました。神様からの命令ですから、神の代理人として治めることが私たち人間の仕事でした。続く仕事はエデンの園を耕し、守ること(創2: 15)、そして被造物に名前をつけること(創2:19)でした。名前を付ける仕事というのは、人間が被造物一つ一つを認めて、受け入れて、理解し治めることを意味します。名付け親になったことはあるでしょうか。名前を付けると責任を感じて見守ってあげようという気持ちが起こります。人間が名前を付けた動物を見守ることを意味します。
エデンの園を耕すことは種を蒔いて育てるためです、さらに「守る」とありますが、守ることは整った状態を維持することになります。支配することとは随分違う働きです。つまり、人間の労働はこの世界に秩序を与えて発展を助けること。それは昔の話ではありません。今の、私たちの仕事も同じです。地上を治めることは、神様の働きです。命を育てるのは神様の仕事であり、この神様の仕事に人間が招かれたのです。人間の労働は、本来神様がなさるはずの仕事を神様に代わって、させていただくという喜びに満ちたものです。
神様はこの仕事を一人の人間だけに、任せたのではなかったことが分かります。同じ神の「かたち」を持つ女を創り、二人が協力して使命を達成するようにされました。女は男と同じ神のかたちを持っています。男に従属させられては、女性の中の神のかたちに傷が付きます。互いの個性、賜物、人格を支配しては、神のかたちに傷がつく。それが、人が人を大切にする、隣人を愛することの根源的な意味ではないでしょうか。その基盤があって、働くことを通して人格的な交わりを育てていくことを神様は望んでおられます。
テサロニケの手紙にもどりますが、パウロは、自分から率先して働く姿を見せて、そのことを示しました。

Ⅲ.戒規

しかし、パウロが再三にわたって働くことを命じても、従わない者たちがいたようです。14節「もし、この手紙で私たちの言うことに従わない者があれば、その人とは関わり合わないように気をつけなさい」とあります。教会は神の家族だと言っても、秩序を整える必要があります。その時に用いられるのが「訓練規定」とか「教会戒規」というものです。カトリックでもプロテスタントの教会でも、秩序を保つための規定を設けています。カンバーランド長老教会では「訓練規定」と呼んでいて、助言から始まって、戒告、資格停止などがあるのです。しかし、罪を犯した人を処罰したり、追いだすことが目的ではありません。15節にあるように「その人を敵とは見なさず、きょうだいとして」とありますが、その人が悔い改めて、再びきょうだいになる事が最終目標です。このような対応をとる根拠というのがマタイによる福音書18章でイエス様が教えてくださった対応です。
「きょうだいがあなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところでとがめなさい。言うことを聞き入れたら、きょうだいを得たことになる」(マタイ18章15節)とあります。訓練規定は「言うことを聞き入れて、きょうだいを得る」ことが目的です。悔い改めを待ってくださったイエス様に倣って、きょうだいとなることが目的です。

Ⅳ. きょうだいとなるために

今回聖書箇所でパウロがしていることは、牧会のことだと思いました。
牧師の「牧」と教会の「会」で「牧会」と言います。辞書には「信徒の魂の配慮をし、信仰と生活を導くこと」とありました。パウロは、自ら仕事を実践して働く意義を示したり、間違った生活をしている人を戒めて、牧会しているのです。まさに創世記にあるように、支配ではなく教会を「治める」ということをしているのだと思いました。
かつて、私が神学校に行っている時に牧会について学んだことがありました。神学校は全寮制なのですが、ある学生が重大な規則違反をしたので退学処分になってしまいました。それは、牧師になるために送り出した両親や教会にとってもショックだったと思います。退学処分が決まった時に、寮生が全員集められて、大学の先生から説明がされました。規則違反をした学生が退学処分になったこと、本人は実家に帰ること、そして、帰った地元に大学の教員が行って、両親と教会の牧師に会って、今後のことを相談すると言ってました。私はとてもビックリしました。普通の大学でしたら、退学処分にしたら、それでおしまいです。それ以上は関わらないでしょう。しかし、キリスト教大学では、その後も何度か連絡をとっていました。そして寮でも2・3回そのことで集められて退学した生徒の為に祈りました。そこで先生が言ったのです。「なぜ、こうやってみんなに説明して祈っているのか考えて欲しい」と言ったのです。「君たちは、これから教会に仕えていく。牧師であったり宣教師であったり教会の働きに就いて行く。そのために「牧会するということを考えて欲しいと」言われたのです。その時感じたのは、この学校の先生たちは、学問を教えているのだけれど、それぞれ牧会しているのだなと思いました。それぞれのクラスで牧会マインドをもって教えている。普通の学校と違うと感じていたのは、そこなんだなと、分った気がしたのです。
今日の聖書箇所15節に「その人を敵とは見なさず、きょうだいとして諭してあげなさい」とあります。クリスチャンであっても、罪を犯してしまう時があります。しかし、同じ、神のかたちに造られた者です。
イエス・キリストが十字架で犠牲となってくださったゆえに、偶然ではなく私たちは兄弟姉妹となりました。牧会マインドをもって、きょうだいたちと励まし合っていきましょう。
お祈りいたします。

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“へりくだる”という生き方を選び取る

金山達成神学生
ペトロの手紙一 5章5-6節
2021年4月18日

Ⅰ. はじめに

今年度、研修神学生としてお世話になります、聖契神学校から参りました金山達成と申します。主にジュニアチャーチとユースに関わらせていただいております。限られた期間ではありますが、皆様と一緒に、主の礼拝に与り、神の家族としてのお交わりができることを、本当に楽しみにしています。1年間どうぞよろしくお願い致します。

Ⅱ. 「へりくだる」とは?

今回注目したいのは、ペトロの手紙一のみことばです。ここでは、「神の力強い御手の下でへりくだりなさい」ということが書かれています。
私が印象に残っているエピソードを1つ紹介します。私は今、キリスト教主義の中高一貫校で理科の先生をしているのですが、今から2年前、ある女子生徒と「へりくだること」や「謙遜」について話す機会がありました。その時、生徒が興味深いことを言ったのです。「先生、私は『へりくだる』と聞くと、ただ雑用をこなすようなイメージがありました。でも、そうじゃない気がしてきました。だって、うちはキリスト教主義の学校だけれど、校長先生や副校長先生みたいな立場の先生たちは、みんな模範的で、素敵なクリスチャンだから。だとしたら、『へりくだる』って何なのでしょうか…?」それを聞いて、なかなか鋭い視点だな、と思いました。
「へりくだる」とは、何でしょうか?そして、ペトロの手紙一でペトロはなぜへりくだることを勧めているのでしょうか。

Ⅲ.へりくだるとは、互いに尊敬し合うこと

1つ目のポイントは、「へりくだるとは、互いに尊敬し合うことである」ということです。ペトロはこの手紙全体を通して、立場の差に関係なく、互いに尊敬し合うことを勧めているのです。なぜ、互いに尊敬し合うことが大事なのか。それは、教会に属する一人一人が互いに愛し合い、一致し、世界に対してイエス様の愛を表していくためです。
当時は、ペトロの手紙一の宛先である小アジアの教会には、迫害の危機が迫りつつありました。信徒たちの間には、かなりの緊張感が漂っていたと想像できます。先が見えない、一体これからどうしたらいいのか。何だか、今のコロナ禍に置かれている私たちの状況とも近いものがあるかもしれません。そんな中ペトロは、まず互いの違いを認め合い、受け入れ合い、一致して、この困難な現状を乗り越えることが大事だ、と語っています。私たちが一つ所に集まって同じ神様を見上げるためには、互いに尊敬し合う、という姿勢が大事であると思います。

Ⅳ.へりくだりは、神を見上げることから生じる

2つ目のポイントは、「へりくだりは、神を見上げることから生じる」ということです。先ほど、へりくだるとは、互いに尊敬し合うことだ、とお話ししました。しかし、人間的な視点と努力で相手を尊敬することは簡単ではありません。隣人を尊敬するためには、まず自分自身と神様の関係を見つめ直し、私は神様に造られた存在であるということ、私たちはみんな、神様からそれぞれに異なるユニークな個性を与えられた作品である、ということを思い出す必要があります。
また、神様は、天から私たちを見下ろして「もっとへりくだらないとダメじゃないか」と一方的に言われる方ではありません。イエス様を通して、最もへりくだった姿を私たちに教えてくださいました。私たちクリスチャンは、このイエス様に従っていきたい、と考えている者たちですよね。であれば、なおさら、私たちは神様が言われるように、またイエス様がなされたように、へりくだることを実践していくべきです。誰かと自分を比べるのではなく、まず神様を見上げることが、自分のアイデンティティの確認、そしてへりくだりにつながります。

Ⅴ.へりくだりは、人生の方向を変える

3つ目のポイントは、「へりくだりは、人生の方向を変える」ということです。先ほど、へりくだりは、神様を見上げることから生じる、とお話ししました。私たちが真剣に神様と向き合う時、まずは悔い改めに導かれるのではないかな、と思います。聖書が語る「悔い改め」は、人生の指針をより神様と聖書とに合わせていく、よりイエス様に近づいていく、という前向きで肯定的なニュアンスが強いです。6節には、神様が、適切なタイミングで適切な状況へ導いてくださることが書かれています。そのためには、神様に自分の存在を委ねて、今神様から与えられているものに感謝して生きるという、へりくだりが必要です。「へりくだること」はただの手段ではありません。私たちが、クリスチャン、イエス様に倣い従おうとする者である以上、生涯続けるべき生き方です。
神様を正しく認識し、悔い改めへと導かれる時、考え方が変わっていくのではないでしょうか。
そしてその時、隣人との違いを受け入れ合えるようになったり、互いを認め合えるようになったり、愛をもって一致していけるようになる。考え方の変化の積み重ねが、人生の方向転換につながります。これは、よりイエス様に似た存在へと変えられるプロセス、と表現することもできるでしょう。

Ⅵ.おわりに

今日は、「へりくだること」について、3つのポイントを見てきました。そのような、“へりくだる”という生き方を選び取っていく時に、私たちの人生は日々、方向転換をしていきます。そして、最善の時に、最善の方法で、最善の場所へと、神様が導いてくださると信じます。今は特に、コロナ禍という難しく大変な状況に私たちは置かれています。このような状況を打開するための秘訣も、私たち一人一人のへりくだり、またそこから生まれる一致にあると思います。私たちが、より、神様の前にへりくだった歩みをするために、今できることは何でしょうか。これからも、神様に聞き求め従っていきたいと思います。
お祈りします。

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ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け―使徒信条⑨

松本雅弘牧師
サムエル記24章1-4節,10節、15-17節,マタイによる福音書27章1-2節,11-26節
2021年4月11日

Ⅰ.はじめに

今日は、使徒信条の「主は聖霊によって…ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という告白のところも心に留めながら、御一緒に読み進めていきたいと思います。

Ⅱ.使徒信条に「ピラト」の名があることの意味

使徒信条は分厚い聖書のエッセンスを75文字で綴っています。その短い使徒信条にイエス・キリスト以外の人物の名が二つ出て来ます。一つはマリアの名、そしてもう一つがポンテオ・ピラトの名前です。歴史の教会は使徒信条を記すにあたり、それ程までにピラトの名を残す必要を感じていました。そこには三つの理由があったと言われます。
第一はイエス・キリストの受難が、フィクションではなく、歴史上の出来事であったことを明確にするため。第二にピラトの名前があることで、主イエスは事故死や、事件に巻き込まれて命を落としたのではなく公的な権威のもとで処刑されたということ。第三にピラトは世俗の権威を代表するがゆえに、主イエスはこの世によって裁かれたということです。

ところでここでピラトは群衆の前で水で手を洗い、「この人の血について、私には責任がない」と身の潔白を証しして見せています。聖書を読むかぎり、確かに最後の最後までイエスを処刑することには消極的だったように見えます。ピラトにしてみれば、このような形で、歴史に汚名を残すことになるなどと、これっぽっちも考えていなかったと思うのです。

Ⅲ.ピラトと群衆

当時、バラバ・イエスという人物も逮捕されていました。ピラトは、そのバラバを引き合いに出し、「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアと言われるイエスか」と群衆に尋ねています。群衆は、先日の日曜日にはエルサレムに入城したイエスを歓呼の声を挙げて迎えていました。ですからピラトが、「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアと言われるイエスか」と尋ねたということは、好意をもって主イエスを迎えた彼ら群衆に尋ねれば、何か起こるのではないか、あくまでも主イエスを助けたいと願ったからだと思います。
しかし群衆は、主イエスを十字架につけることを最後まで要求するのです。結果的にピラトは処刑を認めざるを得なかった。手を洗いながら、「この人の血について、私には責任がない。お前たちの問題だ」と言い放ったのです。

私は改めて、ここに登場する群衆の存在についても考えさせられました。最近よくSNSがらみで、「炎上」という言葉を耳にします。何かの行為や発言が人々の目に触れ、それに引っ掛かりを感じた人々が、それをした人/発言した人に向かって集中砲火を浴びせる。場合によっては、その人を追いつめ、死に至らせる事件にまで発展してしまう。
この時、エルサレムに集まっていた群衆一人ひとりは名前を持ち、家族がいて、それぞれに人生ストーリーを持つ人たちです。膝を交えて話したら、悪い人間ではなかったかもしれません。もし彼らがこの時のピラトの立場に居たとしたら、きっとイエスを処刑することを躊躇したに違いありません。しかしそうした彼らは罪を免れるのでしょうか。

一旦ピラトは、その判断を委ねられています。その後、「十字架につけろ!十字架につけろ!」の大合唱が起こりますが、群衆の中には、〈それは違う!〉と思う人もいたでしょう。でも何も言わなかった。いや言えなかったのかもしれません。でもだからと言って、責任はなかったかと言えば、難しい問題ですが、やはり神の御前に問われるように思うのです。

Ⅳ.帰るべきところを持つ

私は、ピラトと群衆の関係を考える中で、本日のもう一つの朗読箇所、サムエル記に記されている人口調査をめぐる、ダビデ王とイスラエルの民の微妙な関係のことが心に浮かびました。
この時ダビデは、直属の部下に命じて人口調査を実施させています。調査の目的は「剣を取りうる戦士」たちの数を把握すること。言わば、イスラエルの軍事力の確認にありました。一見、罪とは無関係の出来事の中に実は、王様としてのダビデの野望/野心が、隠れた罪として潜んでいたことをサムエル記の著者は見逃しません。
実は、人口調査に象徴されるイスラエルの国家としての反映はダビデだけが望んだことではなく、当時、民全体も歓迎していたのです。ダビデが王となり諸外国に引けを取らないくらいの強大な国軍を持ち、立派な国になることは、民の誇りとなり、それを人々は歓迎したのです。今まで自分たちを苦しめてきたペリシテ民族からの解放だけではなく、周辺諸国と戦って連戦連勝するダビデの軍隊の勇ましさ、イスラエル王国が強く、その軍事力が強大になることは、ダビデ本人も願っていたことでしたし、他でもない民の望むところだったようです。
しかし、それは神の御心を悲しませることとなり、結果として、イスラエル全土で七万人の命が犠牲になったことを聖書は伝えています。罪の深刻さを知ったダビデは、罪の全ての責任を自らが背負うことによって、イスラエルの人々を生かしたい、救いたい、と祈りを捧げるように導かれていきます。主はそうしたダビデを憐れみ、預言者を遣わし悔い改めへと導き、その預言者の導きに従い、主のための祭壇を築き礼拝を捧げた。そして神の憐れによって裁きが収まるのです。そのことの記念の場所として、後の世代までも記念するために、そこに神殿を建てることを決め、実際には息子ソロモンが神殿を立てるのですが、神殿建設の青写真や建設資金の全てをダビデは準備することになります。

サムエル記は、ダビデが祭壇を築き礼拝を捧げた出来事をもって、ダビデの歩みを総括します。つまり「王様ダビデ」でも「軍人ダビデ」でもなく、「礼拝者ダビデ」として総括するのです。群衆の前のダビデでも、権力をまとうダビデでもなく、神のみ前にあるダビデです。
少し古い話ですが、2003年3月19日に、クリスチャンとしても知られていた、当時日銀総裁であった速水優さんが、退任の記者会見をした時、最後に記者からこんな質問を受けました。「金融政策運営を司る上で信仰はどのように総裁を支えたのか。」それに対して速水さんは、次のように答えたという記事がありました。
「私は、1945年、昭和20年からのクリスチャンである。…クリスチャン・ホームで育ったということである。…私は…『土の器』のように本当に平凡な使い勝手のない男である。神様がやってみろと職業を与えるということは、こういう弱いもの——「土の器」——だけれども、それを使ってみるということによって、神様の力を皆さんがわかるようになる、というようなことをパウロが言っている。…国会に400回近く行ったり、海外に行ったり、いろいろなことがあった。明日何が起こるかわからないといったこともあったり。そういう時でも、私は三つのことをいつでも口ずさんでいる。…イザヤ書という中に、『怖れるな、私は汝とともにある』という言葉がある。『主、共にいます』ということ。これが一つであり、神様はいつでも私のそばに付いていてくれている。二つ目は、『主、我を愛す』、これは、幼稚園の時に歌った歌だが、神様は私を愛してくれているということ。三つ目はやはり、『主、全てを知りたまう』、神様は、どんなことがあっても全てのことを知っており、全てを知った上で正しい判断を行い、正しい事をやっていれば、神様は守って下さるということ。そういう極めて単純な信仰を持って、事にあたって来たつもりである。」当時の記者の一人は、「私にとって、この小柄な老人は、日銀総裁としてよりもキリスト者として強く記憶された。そして速水さんを取材すればするほど、『帰るべきところ』をもつ人なのだと感じ入ることになる」と語っています。

私たちがピラトと群衆を反面教師として学びながら心に留めたいのは、私たちは誰をおそれて生きるのか、ということに尽きるのではないでしょうか。この時の彼らの視界には神さまが入っていなかった。

今、この礼拝で神さまのみ前におりますが、神さまのみ前こそが私たちの「帰るべきところ」、そして常に、共におられる神さまのみ前に生きる者として、歩ませていただきたいと願います。
お祈りします。

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イースター礼拝 主日共同の礼拝説教

復活を信じます - 使徒信条⑧

松本 雅弘 牧師
マタイによる福音書28章1~20節
2021年4月4日

Ⅰ.死の事実

先週は受難週祈祷会で主イエスの十字架への道程をたどってまいりました。しかし昨年来、コロナの関係でどこか静かなイースターの朝です。例年ですと、金曜日の受難週祈祷会の終了を合図に、翌日土曜日は、朝から数百個もの玉子茹でが始まり、教会はイースター一色、その準備で活気づきます。受難節の期間中、講壇の布は紫、そして木曜日の晩から講壇には真っ黒な布が掛けられる。ですから土曜日は真っ黒なのです。あの二千年前のイースターの朝、前々日に起こった十字架の出来事を経験した弟子たちの心は「黒い布」が示すように真っ暗だった。恐怖と興奮でここ二日ばかり一睡もできず、あまりにも目まぐるしく移り変わる出来事、しかも衝撃的な出来事を経験し、振り返る余裕もなく、何を感じ、何を考え、何をしたかについて、まったく記憶が飛んでしまう二日間を過ごしていたように思います。その証拠に、福音書を読んでも十字架の後の弟子たちの動向については、はっきりとは伝えられていません。そうした中、唯一と言ってもよいかもしれません。弟子たちの様子を知る手がかりが「あなたがたより先にガリラヤに行かれる」と語る天使の言葉に隠されているように思いました。この時の弟子たちの心にあったのは、少しでも早くガリラヤに帰ることでしょう。そうした彼らの思いを受けとめるように「あなたがたより先に」と天使が語ったと理解できます。普通の神経の持ち主でしたら十字架の直後は何も考えられなかったでしょう。エルサレムは過ぎ越しの巡礼で訪れた場所で滞在地に過ぎません。〈すぐにも逃げ出したい。戻るとすれば、どこ?〉。咄嗟に浮かんだ風景は故郷ガリラヤでした。〈ガリラヤに戻ろう、そこで一からやり直したい〉と思ったのではないでしょうか。ある説教者が語っていました。「ここにははっきりと、一つの死の事実がある」と。そうです。彼らにとって主イエスはすでに死んでしまった人。それが弟子たちを包み込む決定的な状況だったように思うのです。

Ⅱ.「死んだらお終い」という物語

今年になって、多くの方たちが天に引っ越しをされました。牧師になって何年も経ちますが、このような年は初めてです。死の現実を繰り返し見せつけられています。この時の弟子たち、そして二人のマリアも同様でした。特にマグダラのマリアは、主イエスによって七つの霊を追い出してもらった女性でした。その彼女を苦しみから解き放たれたのが、他でもないイエスさまです。主イエスは命の恩人、そのお方のお蔭で「人生のやり直し」を経験できた。その主イエスが死んでしまったのです。この時、彼女は墓を訪ねています。復活を確認するためではなく遺体の前で泣きたいだけ泣くためにやってきたのです。二人のマリアも弟子たちも、みんな、「死んだらお終い」という「死の物語」に捕らわれていた。この物語に心が支配されている時、私たちは不安を抱きます。いつ死がやってくるのか分かりませんから。
でもどうでしょう。そうした私たちに、ここで聖書が宣言するのです!「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」マタイによれば不意打ちをくらわすのは死ではありません。主イエスの復活の方なのです。「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』これこそ聖書が、歴史の教会で「使徒信条」にまとめ上げ、告白し続けてきた、キリストの復活です。信者、未信者問わず、誰の心の奥深くにインストールされている、「死の恐怖」「死の絶対」「お墓が終着駅」という物語に対する挑戦であり、そして取って変わるべき、新しい喜びの物語なのです。

Ⅲ.死の物語を書き換える復活の物語

ここで改めて気づかされたことがありました。ガリラヤに行く以前にすでに復活の主が二人のマリアに出会ってくださっていることです。それも墓場を出たばかりの、ある人の表現を使うならば、「正に死に取り囲まれている所から飛び出して来たばかりのところ」で、です。9節でマタイは「すると、イエスが行く手に立っていて」と記していますが、原文では「すると」と訳されている言葉は「見よ」と訳せる言葉、「見よ、イエスが行く手に立っていた」ということでしょう。さらに彼女たちに「おはよう」と声をかけます。これはギリシャ語の命令形、「喜べ」と訳せる言葉です。主イエスは彼女たちを出迎え、「喜びなさい」と言ってくださったのです!そして、「恐れることはない。行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこで私に会えるだろう」とお語りになったのです。
〈本当にありがたい〉と思いました。「きょうだいたち」という言葉は、ギリシャ語の原文には、「私の」というギリシャ語が添えられています。これまでは、「弟子たち」と呼ばれていた彼らです。でもここで主は「私のきょうだいたち」と呼んでおられます。
それだけではありません。この事実はさらに深い恵みを私たちに伝えています。調べてみますと、歴史の教会は、詩編22編との関連で、この呼び換えの意味を理解していることが分かりました。十字架上で主イエスは、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ/わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。この叫びは詩篇22編冒頭の御言葉を苦しみの中で主イエスは唱えようとされたと言われます。その詩篇を読み進めていき23節に来ますと、「私は兄弟たちにあなたの名を語り伝え/集会の中であなたを賛美しょう」とあるのです。十字架の上でたったお独り、深い絶望の中で歌い始められた詩篇の歌を、復活の後、今この時、彼女たちに語りかけながら、「きょうだいたち」の歌としてくださったのです。「お前たちは、私の苦しみを全く理解してくれなかった。私の復活も信じなかった。だから、この詩篇を歌う権利はない。これは私一人の歌だ」と主は決しておっしゃらなかったのだ、とある牧師はそう語っていました。二人のマリアは、主から預かったこの言葉をペトロやヤコブやヨハネ、トマスらの前に立ちながら、「主イエスが先だって待っていてくださるのだから、さあ、ガリラヤに行きましょう。先生はあなたがたのこと、私たちのことを、もはや『弟子』とだけお呼びにならず、『きょうだい』、それも『私の兄弟』とも呼んでいてくださっています。そして私たちを迎えるためにガリラヤへ先回りするとおっしゃいました。ですから、さあ、立って行きましょう」と言ったに違いない、とそうコメントするのです。

Ⅳ.「復活の主を信じます」

このようにしてガリラヤで弟子たち、いや兄弟姉妹と会ってくださった復活の主イエス・キリストが、彼らにお与えになった約束が福音書の最後に出て来る、18節以下の御言葉です。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。主イエスは一方的に命令だけをなさるのではないのです。御言葉に生きる力をも与えて下さる。何故なら主イエスこそ「天地の一切の権能を授かっているお方」であり、世の終わりまで、いつも私たちと共にいてくださるからです。そう言えば、マタイは天使がヨセフにイエスの誕生を告げた時、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」と語り、この名は「神は私たちと共におられる」という意味である、その言葉でもって福音書を書き始めています。そして福音書の締めくくり、最後のところで、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。「マタイ福音書は『神が共におられる』『キリストが共におられる』という二つの約束にサンドイッチされた福音書なのだ」と言われる通りです。この約束は信仰を持たない人にとっては愚かな言葉でしょう。復活を疑う人は常にいます。拒否する人もいます。でも愚かに思える、その言葉を疑いつつも信じ、主イエスの弟子になる決心をして歩み始める時、私たちの人生の中で何かが、私たちの世界で何かが変わり始める。「死んだらお終い」の物語が復活という希望の物語に書き換えられ、死は新しい命への旅立ち、それ故、天での再会の望みへと私たちを導くからです。マタイは「イエスの復活が作り話だった」という話が有名で、「今日に至るまで広まっている」と正直に記しています。今日でも大勢の人々が復活を作り話だと疑う人もいる。でも私は、この二つの話のうちどちらを受け入れるか、です。私たちは復活を信じ、イエス・キリストの弟子となり、洗礼を受け、主の教えを守り、「キリストは私たちと共におられる」という約束と共に、歩んで行きたいものです。お祈りします。