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主日共同の礼拝説教

祈りの力

2021年6月27日
詩編95編1-7
2テサロニケ3:17-18

1,はじめに

今日の聖書箇所は、テサロニケの信徒への手紙二の最後の箇所です。この箇所から「祈りの力」と「キリストの再臨」の二つの事について学びたいと思います。
まず祈りについて。パウロはいつも手紙の最初と最後に、祈りの言葉を記しています。今日の聖書箇所でも、パウロが祝福を祈る祈りをもって終わっています。あるクリスチャンの、祈りの人生の話しをしたいと思います。

2,「夕あり朝あり」

先日、伝道集会のノア会でクリスチャン実業家の話しをしました。波乱万丈な人生を、夫婦で祈り合いながら歩んだ人の話しをしました。それは明治時代、クリーニング事業を営んだ五十嵐憲二という人の話しで、作家、三浦綾子が「夕あり、朝あり」という本で紹介していました。五十嵐健治は明治10年新潟の生まれで貧しい家で育ちました。一攫千金の金持ちになることを夢見て、家を飛び出すのですが、どこに行っても仕事が長続きせずに、流れながれて北海道にたどり着きます。ところが騙されて開拓地の肉体労働をさせられる羽目になりました。奴隷のように逃げ出せない日々。このままでは死んでしまうと思い立ち、そこを逃げ出し歩いて小樽の町の宿屋にたどり着きます。まったくの無一文ですから、宿に入り翌朝になって「実はお金がない」と主人に言うのです。仕方がないから、宿代の代わりにしばらく宿で働くことになりました。その宿で出会ったのが聖書でした。しかし、聖書を広げてみてもまったくわからない「それなら二階に泊まっているお客さんに聞いてみるといいよ」と言われて紹介されたのが常連客の中島という人だったのです。それから憲二は毎日この人から聖書を学びます。そしてある日、宿の近くにある井戸の水で洗礼を受けました。この中島という人は「キリスト同信会」というブレザレン系の教会の信徒で、健治は生涯この同信会という教会で信仰を守っていくことになります。信仰をもってから五十嵐健治の人生が変わっていくのです。東京に出てきてから、この同信会の信徒たちとの交わりができ、結婚し、仕事の面からも信頼されるようになって「三越」という日本で初めてできた百貨店で勤めるのです。
ところが「三越」で10年働いたところで、仕事を辞める決意をするのです。自分を変えてくれた神様のことをもっと伝えたい、もっとキリスト教の伝道に当たりたいという思いがあったのです。それには務めているより自営業を営んだ方がいいと考えました。そこで選んだ仕事がクリーニング業でした。当時のクリーニング業は人がやりたがらない職業だったそうです。ところが仕事を始めると、外国には水を使わないクリーニングがあるというので、健治は研究に研究を重ねて日本で初めてドライクリーニングを始めるのです。その店の名前を「白洋舎」と名付けました。
会社の事業ですから良いことばかりではありません。会社乗っ取り事件が一番辛いことだったとありました。信頼していた責任者が社員の大半を連れて、別のクリーニング会社を始めたのです。健治はこの裏切り行為に怒って嘆いて泣きました。しかしそんな時、妻のヌイさんが「あなた、わたしたちは人には捨てられましたが、神には捨てられていませんね」と言われて、健治は「はっ」となって我に返ったといいます。聖書にある「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい・・復讐は私のすること・・悪にまけることなく、善をもって悪に勝ちなさい」という、パウロがローマ書(12章19節)で語った言葉を読んで祈ったとありました。健治は奥さんと、裏切って向こうについた人たちのために真剣に祈ったというのです。自分の至らなさから、彼らを躓かせたことを神に詫びて祈った、すると心が少しづつ平安になっていった、平安になると残ってくれた社員が、神様が与えてくださった宝物のように思えてきた、そうして祈りの力によって立ち直っていったのです。そのきっかけは、一緒に祈りましょうといってくれた妻の存在です。人間祈ったからといって、すっかりと平安を取り戻せるというものではありません。それが人間というものです。しかし、当初の怒り嘆いていた時とは違うというのです。
そのように健治が白洋舍の事業を展開していくと、社員の中にも信仰者が増えていったそうです。本社の近くに教会を建てるなど、事業を通してキリストを伝える働きをしていきました。実はうちの教会に、白洋舎の本社に勤めていたという方がいて、晩年の五十嵐憲二を知っている信徒の方がいました。とっても素敵なジェントルマンでクリスマスには会社でクリスマス会があったことなどを話してくださいました。

3,祈りの力

五十嵐健治と奥さんの二人が、繰り返しやってくる試練に対して、祈っていた様子が印象的でした。特に人を赦すということは難しいことです。「汝の敵を愛せよ」と言われても、簡単にできることではありません。しかし、パウロの手紙を読んでいても、要するに「そのためにどれだけ祈っているのか?」と言うことだと思うのです。パウロは、本当にテサロニケの人々を愛していましたし、同時にとても心配していました。間違った信仰理解をしている人たちもいたからです。彼らに厳しい言葉で諭すこともありましたが、それ以上に愛をもって祈っていたのです。健治と奥さんも、思い通りにならない人を変えてやろうとか、ライバルの失敗を願っていたら、それは間違った敵と戦っているようなものです。ことを成してくださるのは神様ですし、戦う相手は自分の中にあるサタンです。なぜなら、許せないその人を、神様は愛しているだろうか?と考えれば、もちろん罪を犯していても神様は愛しているでしょう。そこで考えてみたいのです。自分は神様に愛されているだろうか? 愛される価値があるだろうか?義人はいない、一人もいない、私たちは罪人ですから、誰一人として、神の恵みを受けるに値しません。人を赦すことをしないで、自分だけ神の赦しを乞うことはできないでしょう。ただ人を赦すことは、とても難しいというのは事実です。だから祈りが必要なんです。一人で祈るのが難しければ、一緒に祈る人が必要です。健治は苦難にあうと、いつも奥さんの信仰に「はっ」として我に返る人でした。イエス様は、私たちのために祈ってくださっています。そして、私たち

が誰かのために祈ることを望んでおられます。
「私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った。だから、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカによる福音書22章32節)

4,パウロの「キリストの再臨」理解

もう一つのテーマ「キリストの再臨」について。パウロは、この手紙で「再臨」のことを伝えようとしました。パウロは再臨の時をどのようにとらえていたのでしょうか。パウロは復活したイエス様出会って衝撃を受けました。パウロにとって復活はキリストの再臨を理解する基盤になっていきます。同時にパウロは旧約聖書に精通した人でした。旧約聖書に書かれていたメシアの到来という預言について熟知していたでしょう。たとえばエレミヤ書では「新しい契約」の預言の中で「その日が来る」という言葉が繰り返し述べられています。「その日」というのは、救い主であるイエス・キリストの到来と、さらに先にある終末の時に救いが完成することの、二つの段階の希望を指しています。復活のイエス様と出会ってしまったパウロは、まず旧約聖書の預言の視点から考えたと思うのです。イエス様の復活のできごとも、終末の再臨のできごとも、来たるべき終末の時代が、二つの段階で到来したと見ていたでしょう。つまり終末のできごとは、キリストの復活で既に「到来しました」し、将来キリストの再臨でも確実に「到来する」とパウロは理解していたのです。
N.Tライトという神学者は「第一の終末と、第二の終末の間に生きていることをパウロは自覚している」と説明していました。「第一の終末と、第二の終末の間」に、テサロニケの人々やパウロ、そして私たちもいるのです。ですから、パウロがこの手紙でテサロニケの人達に忠告したように「再臨の時がいつ来るのか?」と憶測するのは意味がないのです。すでに救いは来ていますし、将来必ず救いは完成するのですから、パウロは惑わされずに、今をしっかり生きることに目を向けさせたのです。それを確実にするものが祈りの力です。
5,小さな祈り
お祈りについて、以前、我が家の食事の祈りを、3歳の息子がする話しをしました。教えたわけでもないのに「今日も共にあることに、アーメンいただきます」と祈ると話しました。しかし、最近はこのお祈りもだんだん省略されてきて「今日もあることにアーメン」になってきました。しかし短くなると意味深くなるなと思いました。「今日もあることにアーメン」今日・・何があるのか?と。「命が」「恵が」「今日という日が」「家族が」「仲間が」そして「神様が」今日あります。「光あれ」と言われた神様が、今日この日のために「ここにあれ」と置いてくださったものは素晴らしいものです。うちの息子にとっては目の前の、ご飯があることにアーメンかも知れません。小さくて、当たり前のようにあるものです。それでもかけがえのない大切なものです。みなさんの前には今日、この日、何が「ある」でしょうか。パウロはこの手紙の中で再臨の希望を覚えつつ「今を生きる」ことを示しました。今日、聖なる者になるように生きる指針を伝えました。つまり「今日、神様によってあるものに感謝して祈る」そんな生活こそがパウロの教える、聖なる生活の指針です。小さなことに感謝できることは、生きる力を与えます。その祈りには力があります。今日あるものに、今日あることに感謝する、それは小さなことでも、祈りによって力あるものになります。最後にパウロの最後の祈りの言葉で、テサロニケの信徒への手紙を終わりましょう。18節「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にありますように」お祈りいたします。

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天に昇り、神の右に座しておられる主イエス・キリストー使徒信条⑭

松本雅弘牧師
詩編110編1-7節
使徒言行録2章29-36節
2021年6月20日

Ⅰ. はじめに

以前、旧讃美歌を使って礼拝を捧げていた頃、使徒信条を告白する際、オルガンの奏楽に合わせて告白していました。旧讃美歌556番です。それによりますと十字架の告白を境に、「三日目に死人のうちからよみがえり」あたりから曲の雰囲気が次第に明るくなり、そして「天にのぼり、全能の父なる神の右に座し給えり」では最高潮に達するのです。今日はその「天にのぼられました。そして全能の父である神の右に座しておられます」という箇所を御一緒に学んでいきたいと思います。

Ⅱ.ハイデルベルク信仰問答を手掛かりに

ところで、16世紀にドイツで告白されたものに、「ハイデルベルク信仰問答」という文書があります。使徒信条の学びをしている中で知ったのですが、使徒信条を理解する上で引き合いに出されるのが、この「ハイデルベルク信仰問答」なのです。今日は「ハイデルベルク信仰問答」を参考にしながら考えてみたいと思います。
ハイデルベルク信仰問答の中で、主イエス・キリストの昇天と着座に関する問答は、第49問目に出てまいります。
問い:キリストの昇天は、われわれに、どういう益を、与えるのですか。
答え:第一に、主が、天において、神のみ面(かお)の前に、われわれのとりなしをする者となってくださることであります。
第二に、われわれは、主が、かしらとして、そのえだであるわれわれを、ご自分のもとに引き上げてくださる、確かな担保として、われわれの肉を、天にもつことになるのであります。
第三に、主は、み霊を、これと見合う担保として与え、そのみ霊の力によって、われわれは、キリストが神の右に座しておられる、あの上にあるものを求め、地にあるものを求めないようにしてくださるのであります。

Ⅲ.昇天がもたらす益/恵み

この問いかけを見ますと、キリストの昇天によってもたらされる益は何かと問うています。答えは、昇天し神の右への着座したキリストが、神の御前で私たちを執り成してくださっていることが最大の恵みなのだ、と告白するのです。

ところで使徒信条は、元々はラテン語で書かれているのですが、そのラテン語で書かれた、これら一つひとつの動詞の時制/テンスを見ますと、主イエス・キリストが、「宿り」、「生まれ」、「苦しみを受け」、「くだり」、「よみがえり」、「天に昇られました」までは完了形で告白するのですが、今日の後半、「全能の父である神の右に座しておられます」という「座する」という動詞は現在形で言い表されているのです。使徒信条が「宿り」、「生まれ」、「苦しみを受け」、「くだり」、「よみがえり」、「のぼり」と、そこまでは既に歴史上一回限りの出来事として完了してしまっている。でも続く「座し」を使徒信条は現在のこととして告白しているということなのです。
今、この時、主イエスはどこにおられるのか。「おられた」という過去の話ではありません。今、現在、主イエスはどこにおられるのか。私たちの使徒信条によれば、神の御前に、それも父なる神の右におられる。そして、執り成しておられる、と聖書から、そのように告白している、ということなのです。「でも、松本先生、父なる神の右におられるとしたら、私たちと離れておしまいになったのですか?いつも私たちと一緒にいてくださらないのですか?」と疑問を持たれるかもしれません。そうなのです。主イエスは、その後、ペンテコステに遣わされた、ご自身の霊である聖霊によって、私たちといつも一緒にいてくださる。ただ天に行って、私たちと離れてしまわれたのではありません。聖霊によって主がいつも私たち教会と、そして私たち一人ひとりと共にいてくださるという恵みを実現してくださったのです。主イエスが神の御前に行かれると共に、私たちといつも一緒にいてくださる。まさにそれが聖霊によって、教会の現実になっているということなのです。
少し話題を変えますが、「全能の父である神の右に座しておられます」と告白するわけですが、「神の右の座についている」とはどういう意味なのでしょうか。使徒言行録2章でペトロは詩編110編を引用し次のように語っています。「ダビデが天に昇ったわけではありません。彼自身こう言っています。『主は、私の主に告げられた。「私の右に座れ/私があなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』」
この詩編110編は、神さまによって立てられる王の即位について歌った詩篇だと言われています。それが主イエスの救い、王なる主イエスのご支配を語る歌として読まれ、謳われるようになった。ペトロはその詩篇を引用しながら説教しています。
ところで、ペトロが引用した詩篇が現しているように、神さまの御心を行う王様は、神の右に座すという理解がイスラエルに広く行きわたっていたと言われます。一般に右は利き腕です。物の本によれば、「みぎ」という日本語は、「ミフセギ」、自分の身を守るということから来ている、とありました。ですから大切な人を守る時、その人の右側に立つ。あるいは座る。権威者からしたら、常に守る人が自分の右に居て、なおかつ自分の言うことをよく聴き、身代わりのように働く。したがって権威ある者の右に位置する人は、権威者と同じように重んじられるべき代理者のような存在です。
主イエスが、全能の神の右に座する。それは、神さまのご支配、神さまの御心の実現が実は、右に座しておられる主イエスにかかっている、ということを表しています。神の御心を、右におられる主イエス・キリストが実現しておられるということです。
私たちが使徒信条で、主イエスが神の右に座しておられるということを信じ、そして告白することは、主イエスを通して、神さまがいつも私たちをご支配してくださる、守ってくださることを確信する信仰へと導かれていくわけです。
そしてもう一つ、「神の右に座しておられる」という、この「座する」という言葉についても少しお話したいと思います。以前、エクササイズ修了者のためのコロサイの学びのテキストでも書かせていただきましたが、聖書において「座する(着座する)」とは、「仕事を成し終える」という意味があります。ですから主イエスが「座した」とはイコール、主イエスに与えられた救済の御業を成就したということなのです。
ヘブライ人への手紙では、「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の現れであって、万物をその力ある言葉によって支えておられます。そして、罪の清めを成し遂げて、天の高い所におられる大いなる方の右の座に着かれました」と語られ、主イエスが完了した御業が、罪の清めという御業であり、言い換えれば、この世を神と和解させることであり、過去、現在、未来にわたる、私たち人類の全ての罪の赦しを完成するための御業のことです。しかも主イエスは死んで陰府まで行かれ、そこに光を放ち、闇を追い払い、甦ってくださった。そのようにして命をもたしてくださった。ですから私たちは、今すでにキリストと共に復活の命に与っているのです。
主イエスが「父なる神の右にお座りになった」、言い方を変えるならば、主イエスが完全に和解の御業を完了したということは、その後はもうやることなく、悠々自適な生活をするために昇天されたのではないのです。今現在も主イエスは、偉大な大祭司として私たちのために執り成してくださっているのです。これは本当にありがたいことです。しばらく黙想し、この事実が意味することを思い巡らしてみてはいかがでしょうか。

Ⅳ.この恵みの現実に生きる

この主イエス・キリストは今も、神の右の座に着いておられます。そして、今この時も執り成していてくださる。パウロはこの恵みの現実、主の昇天と着座によって、今、私たちに与えられた恵みについて、初代教会の兄弟姉妹に訴えるのです。
「では、これらのことについて何と言うべきでしょうか。神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。誰が神に選ばれた者たちを訴えるのでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。誰が罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右におられ、私たちのために執り成してくださるのです。」
聖霊のお働きの中、主イエスの執り成しの恵みと神さまの愛に支えられ、この一週間も、この恵みの現実の中に歩んでいきたいと願います。お祈りします。

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聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれた主-使徒信条⑬

松本雅弘牧師
イザヤ書9章10-17節
ルカによる福音書1章26-38節

2021年6月13日

Ⅰ.主イエスに関する告白の始まり

使徒信条は大きく三つの部分から成り立っています。第一部は父なる神に関するもの、第二部は主イエス・キリストに関する部分、そして第三部は聖霊とその御働きについての告白部分です。こうした中、今日の「主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ」という告白は、第二部の最初の箇所です。

Ⅱ.「処女降誕」のつまずき

国際基督教大学の森本あんり先生が著書、『使徒信条―エキュメニカルなシンボルをめぐる神学黙想』の中で、「使徒信条の条項のうち、もっとも不条理で現代人に受け入れがたいと思われるところを一か所挙げよ、といわれたら、おそらく多くの人が『処女マリアより生まれ』というくだりを挙げるのではないだろうか。イエス・キリストの処女懐胎は、復活と並んで、福音信仰の大きなつまずきである。」と記しています。
私は、高校生の時に教会に通い始めたのですが、しばらくして分かったことがありました。それはクリスチャンの多くが進化論を目の敵にし、創世記の1章、2章の記述をもって批判するわけです。私自身もかなり長い間、そのように受けとめていました。ところが、結婚し子どもが与えられ、小学校の理科の時間に「人間はサルから進化した」と教わって帰ってくる。「お父さん、人間は神さまが造ったのではないの」と子どもに質問されたことがありました。我が家では、それも一つの説明の仕方なので、しっかりと学ぶようにと励まし、送り出してきました。果たして進化論と聖書の記述、特に創世記の最初の箇所とは矛盾するのでしょうか。
聖書を神さまの言葉として読む私たちが、心しておかなければならないことがあります。それは創世記の著者は、進化論に対する創造論を展開する目的で創世記を書いただろうか、と問う必要があるということです。聖書は何のために、どのような目的をもって書かれたのか。主イエスははっきりとおっしゃっています。「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ。それなのに、あなたがたは、命を得るために私のもとに来ようとしない。」(ヨハネ5:39-40)
そうです。聖書とはキリスト証言の書なのです。主イエス・キリストにあって永遠の命をいただくために書かれた救いの書なのです。決して、科学の教科書ではありません。
聖書に書かれていることを、ある人の言葉を使うならば、それこそ新聞記事を読むようにして受けとめないと、クリスチャンにはなれない、聖書を理解したことにならない、と考える教会もあります。でも、私たちは、私たち人間を、この世界を創造してくださったのは神さまなのだ、それがどういう形であったのかは分かりませんが、創造主は確かに神さまなのだ、ということを押さえていること自体が、聖書が大切に伝えようとしていることなのではないかと思うのです。

Ⅲ.「聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ」が意味すること

今日お読みしましたのは、ルカ福音書に出てくる受胎告知、処女降誕と呼ばれる聖書の箇所です。使徒信条では、この箇所から、「聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ」と告白するわけですが、この告白が意味することは一体何なのでしょうか。
主イエスの公生涯を記す四つの福音書を読みますと、四つ全てが主イエスがマリアから生まれたことを伝えてはいません。マルコ福音書などには全く出て来ませんし、ヨハネ福音書はマリアの名前すら出て来ません。一方、マタイ福音書には確かにマリアから生まれたことは出て来ますが、むしろヨセフに起こった出来事として記していきます。そうした中、ルカ福音書だけが一番丁寧にイエスの誕生の経緯を伝えています。だとすると、使徒信条の「聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ」という告白内容は、あまり重要なのではないのでしょうか。むしろ、その逆のように思うのです。
使徒信条は、主イエスが何を教え、どのような奇跡を行い、どれだけ熱心に愛を説かれたかについて述べる代わりに、ただ一直線に主イエスの生涯、主イエスによる救いの歴史を告白していると言われます。そのように絞りに絞った内容であるにもかかわらず、敢えて、「聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ」と言葉を挿入している理由はどこにあったのでしょうか。
教会の歴史を振り返りますと、時代によっては集中的に幾つもの信仰告白が生み出されるということが起こっています。それは教会が問題に直面していたからです。その際、教会は聖書に立ち帰り、聖書が何を語るのかに耳を傾け、信仰告白としてまとめていった。実は、この信仰告白成立過程が聖書の中の手紙や福音書が成立していく過程とも共通するのです。
新約聖書の場合、まず書簡、その後、福音書が書かれたと言われます。新約聖書の各書が書かれ始めた時期は、すでに主イエスは昇天し地上におられません。聖霊降臨の恵みにあずかった初代、古代の教会が、宣教の戦いを始めた時期と重なります。その頃、教会が抱えていた問題が偽預言者との戦いでした。例えば、第一ヨハネ4章1節以下に次のような御言葉が出て来ます。
「愛する人たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て行ったからです。イエス・キリストが肉となって来られたことを告白する霊は、すべて神から出たものです。…」
ヨハネは、「イエス・キリストが肉となって来られたことを告白する霊は、すべて神から出たものです」と書きますが、裏を返せば教会の中にキリストが肉体をとってこられたことを告白しない人々がいたということでしょう。グノーシス主義という考え方です。霊的なものは善で、物質は悪。当然、肉体も悪です。彼らの考え方による救いとは、物質である肉体からの解放と考えました。そしてこの考え方によれば、霊的な主イエスが、肉体を持つ我々と同じ人間として生まれたことは信じたくない。そうした偽りの教えに翻弄された教会に向かってヨハネは手紙を送り、正しい信仰へと導くのです。
直接の論争相手は異なりますが、パウロも同じような問題意識をもってガラテヤ教会に手紙を送っています。「しかし、時満ちると、神は、その御子を女から生まれた者、律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。」使徒信条の「おとめマリアから生まれた」という言い方はしていませんが、意味は同じです。そしてルカも同様でした。
福音書記者ルカは、手紙という形式ではなく福音書という特別な形式で表現したがゆえに、ヨハネたちのような議論はしていませんが、ナザレの村のマリアというおとめのところに、ガブリエルという名の天使が現れ、神の恵みを伝え、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。」しかも「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と、聖霊なる神さまがマリアの体、マリア自身をすっぽりと覆い、包んでしまわれる。だから、「生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と天使が語ったのだ、と物語る仕方で伝えています。
こう考えて来ますと、使徒信条が「聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ」という告白で表そうとしたことは、第一に、主イエス・キリストが、私たちと変わらない一人の人間として地上に誕生された。そしてもう一つ、「聖霊によって宿り」という告白通り、主イエスの誕生が神による特別なものであったということでしょう。

Ⅳ.私たちのことを分かってくださるお方としての誕生

そして最後に、忘れてならないポイントがあります。それは、使徒信条がマリアやポンテオ・ピラトの名前を挙げ、主イエスの人生と交差させながら告白している点です。名前とはその人にしか与えられていない、その人固有のものです。マリアもポンテオ・ピラトもそうです。特にピラトは歴史の教科書に載っている人物です。第五代ユダヤ総督で在任期間は26年から36年です。これによって間接的にではありますが、主イエスの歴史性を証明しています。「聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ」と告白する時、主イエスの生涯が私たちが生きているこの世界で起こり、しかも私たちと全く変わらない一人の人間として誕生し、生きられた。だからこそ、私たちのことをご自身のこととして分かってくださる。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く者として歩んでくださった。だからこそ、私たちは、主イエスを信じると、今日も告白できるのです。お祈りいたします。

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よみにくだる主イエス・キリスト―使徒信条⑫

松本雅弘牧師
詩編139編1-8節
マタイによる福音書27章57-66節
2021年6月6日

Ⅰ.はじめに

先週、私たちは主イエスの死について、御一緒に学びました。今日はその続きです。
使徒信条の告白文を読みますと、「主は死んで葬られ、よみにくだり」とあります。死の後に葬りと、そして「よみにくだった」ことが告白されています。

Ⅱ.主の十字架の証人としての女性たち

マタイによれば、主イエスの十字架の死の目撃者は百人隊長であったと共に女性たちであったと伝えています。当時、女性は裁判で法廷に立つことができませんでした。さらに女性は男性に所属すると見なされてきました。このように女性は弱き者の象徴的存在でした。ところが福音書において神さまは、「証人」となることができなかった女性たちを、主イエスの死の目撃証人として、さらに復活の最初の証人として、お選びになっている。世界で最初のクリスマスの知らせを、人口調査の対象外の羊飼いや、祝福の枠外にいた異邦人であった東方の占星術の博士たちを選んで告げられた神さまが、ここでも女性たちを復活の最初の証人としてお選びになった。ここに福音のメッセージが兼ね備える物凄い大きな恵みの力、解放の力が隠されているように思うのです。

Ⅲ.男性たち

さて、証人として立てられていた女性たちに対し、この場面に男弟子たちの姿が見当たりません。26章56節で「この時、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」とある通り、彼らは蜘蛛の子を散らすように逃亡し、十字架の場面に目撃者として居合わせていなかったのです。
この時代、社会の表舞台に登場するのが男性たちです。ただそうした彼らはいつの間にか社会の構造の中に組み込まれ自由に振舞うことができなかった。その代表者が祭司長たち、ファリサイ派の人々でしょう。そうした彼らは何をしたかと言いますと、ピラトのもとに出向き、こう訴えています。
「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを思い出しました。ですから三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』と民衆に言い触らすかもしれません。そうなると、人々は前よりも、もっとひどくだまされることになります。」
彼らの不安が、よく表れた言葉です。確かに社会的混乱の回避は、立場上、大切なこと。でも本音は地位や面子を失うのを恐れていました。しかも呆れてしまうのですが、その日は安息日です。
マタイ福音書12章には、弟子たちが麦の穂を摘んで食べた始めた時に、目撃したファリサイ派の人々が主イエスに対し、「あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と非難しています。その彼らが、他でもない安息日にピラトのもとに結集し直談判している。しかも交渉相手のピラトは異邦人です。口ではモーセの律法に従うと言うのですが、実際は自分たちの腹がモーセの律法よりも上、結局、自分のことしか考えてないのです。
もう一人の男性をマタイは紹介しています。アリマタヤ出身のヨセフです。たぶん彼は主イエスの説く神の国の福音に心を惹かれながらも、表立って信仰を表明することができないでいたのでしょう。でも最後の最後、勇気を振り絞り、遺体の引き取りを願い出たのです。マタイは、彼がイエスの弟子であったと伝えます。主イエスの宣べ伝えた神の国の福音によって解放され、すべきことを示された時、神から勇気をいただき行動に出たのでしょう。

Ⅳ.主はほうむられ、よみにくだり

さて、今日、お読みしました、この出来事を、使徒信条では、「主は死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちからよみがえり」と言い表しています。死に関する言葉が重ねられ、それによって主イエスが確実に死なれたということを強調しています。
使徒パウロは主イエスの死の意味をこう述べています。
「キリストは、神の形でありながら神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の形をとり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまでそれも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6-8)
神の御許におられた主イエスが、御自分を無にし、この世にお生まれくださった。それは罪の内に彷徨っている私たちを捜し出し救うため。その罪を代わり担い私たちと共にあるためです。マタイは、そうした主イエスのご生涯の意味を旧約の預言者の言葉を重ね合わせ、「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』これは『神は私たちと共におられる』という意味である。」(1:23)と記しています。
これまでマタイ福音書を読み進めてきて、まさに「インマヌエル/神は私たちと共におられる」というのは、誕生から十字架、そして復活まで、主イエスのご生涯の全ての場面において貫かれているメッセージです。私たちが行く所どこにおいても、主イエスはご自分を無にして降って(くだって)来てくださる。その極みが、「よみにくだり」と使徒信条が告白する、「主イエスのよみくだりの出来事」だと言うことができるのではないでしょうか。
ところで、「よみ(陰府)」という言葉を見ると、「地獄」を連想する方もあるかもしれません。ヘブライ語で「シェオル」、ギリシャ語では「ハデス」と言う言葉ですが、聖書で言うところの「よみ」は、死んだ人間が行く世界とされています。ちなみに、生前の罪の罰を受ける地獄はギリシャ語で「ゲヘナ」と区別されます。
詩編88編に「陰府」という言葉が出て来ます。「私の祈りが御前に届きますように。私の叫びに耳を傾けてください。この魂は災いを知り尽くし、この命は陰府に届きそうです。私は穴に下る者のうちに数えられ、助けのない人のようになりました。死人の中に捨てられ、刺し貫かれ、墓に横たわる者のようになりました。もはやあなたはそのような者に心を留められません。御手から切り離されたのです。」(詩編88:3-6)
これこそが旧約の時代の死生観だと言われます。陰府とは神との関係が完全に断絶された深い闇の世界。そこに落ちてしまったら二度と光を見ることができない。これに対して使徒信条は何を告白するかと言えば、主イエスは死なれた後、詩人が恐れる陰府まで降ってくださったのだ、と告白するのです。その根拠となるのがペトロ第1の手紙3章19節以下の箇所です。
「こうしてキリストは、捕らわれの霊たちのところへ行って宣教されました。これらの霊は、ノアの時代に箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者たちのことです。僅か八名だけが、この箱舟に乗り込み、水を通って救われました。」(Ⅰペトロ3:19-20)「捕らわれの霊たちのところ」とは陰府のことで、御手から切り離された、絶望と闇が支配する場所です。ところが、その陰府に光そのものであられる主が降っていかれた。闇を追い払うためです。
「死んだら御終い」という私たちを捕らえる死の物語が、復活という希望の物語に書き換えられ、たとえ私たちがどれだけ離れたところにあったとしても、福音の光は必ず届く。何故?陰府にすら届いているわけですから。全く断絶してしまったかに思えるような状態にあっても、私たちを捜し続け、光そのもののお方が陰府まで降りて来て、闇を追い払ってくださったのです。

最後にもう一度、今日の聖書の箇所に戻りますが、主イエスが生前お語りになった、「自分は三日後に復活する」という言葉を祭司長たちやファリサイ派の人々が、自らの口で言い表しています。しかも、「イエスは死者の中から復活した」と言い触らす可能性を心配している。これは元々主イエスがお語りになった言葉です。その御言葉が今、力を発揮し光を放っている。本来ならば、計画通りに主を十字架で殺害できたわけですから、喜びの中にあっていいはずの彼らです。しかし勝利者である彼らは不安の中におかれています。その証拠に主イエスの墓に封印させ、厳重に警備させるために番兵を配置しているのです。
でも、まさにこの間に、主イエスは何をなさっておられたか。「陰府にくだり」、宣教しておられた。そのように、誰一人として、主イエスの復活の力、神の国の福音宣教を阻止し封印することはできなかった。
今日も、この後、使徒信条で、「主は死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちからよみがえり」と告白する時、その圧倒的な恵みを心から感謝し、告白していきたいと願います。お祈りします。