カテゴリー
主日共同の礼拝説教

あわれみの主

和田一郎副牧師
ホセア書6章1-6節 、マタイによる福音書9章9-13節
2021年7月25日

Ⅰ.マタイの召命

今日の聖書箇所はマタイの召命の場面です。召命とは、神様によって呼び出されることです。マタイが徴税人として働いていた時に、イエス様に「わたしに従いなさい」と呼び出されたのです。つまり、マタイにその仕事を辞めて、わたしの弟子になりなさいと、突然イエス様は呼び掛けたのです。このマタイという人はマタイの福音書を書いたマタイのことです。ですから今日読んでいる「マタイの召命」の箇所は自分のことを書いています。マタイはこの出来事から何十年も経ってから、イエス様との出会いを書きました。マタイの証しと言ってもいい箇所です。この時マタイは徴税人として働いていました。この時代の徴税人という職業は、ユダヤ人の中で大変軽蔑されていました。ローマに納める税金に加えて、自分の取り分も多く懐に入れていました。ユダヤ人からは裏切り者として、締め出されていた人々です。でも、それでもいい、金が手に入るならそれでいい、そのように生きていた徴税人マタイに声をかけたのがイエス様でした。
今日の聖書箇所では「私に従いなさい」と言われ、「彼は立ち上がってイエスに従った」と簡単に書かれています。これだけのことしか聖書は伝えていません。それ故に劇的な印象を残しています。ですから、この場面をモチーフにして絵を描いた人が何人もいたようです。イタリアの画家カラバッジョが描いた「聖マタイの召命」という絵があります。
右端で、マタイに向かって指を指しているのがイエス様です。収税所で「わたしに従いなさい」そう口にした瞬間の絵です。この絵の中でマタイは誰でしょうか。私は中央で指を指している髭の男がマタイだと、ずっと思っていました。「えっ私ですか?」と言っているのかと思っていました。しかし、諸説あって最近では左端に座っている青年がマタイだとする説もあるようです。周りの男たちは、イエス様を見て驚いているにも関わらず、左端の男はじっと机の上のお金を見つめています。片方の手には、金入れの袋を握りしめて居座っている、あたかもお金にしか関心がないかのように見えます。そこにイエス様の側から光がこの男を照らし、その耳にイエス様の声が響いた。「わたしに従いなさい」。その瞬間、その声に、お金を数える手が止まったかのようです。この絵の数秒後何が起こったでしょう。そこに居座っていたマタイが立ち上がった。周りの人はさらに驚いた「まさか、この仕事を捨てて、イエスに従って行くとは」。
この箇所を読んで、人は疑問に思うかも知れません。たった一言で、自分の仕事を投げうってついていくだろうか。漁師だった他の弟子たちはイエス様が死なれた後に故郷に戻って漁師の仕事に戻りました。しかし、徴税人の仕事は一度辞めたら、簡単に戻れる仕事ではない。もしくは実はもっと言葉のやり取りがあったのだけれど、聖書は省略して書いたのだ、と言う人がいるかも知れません。しかし、わたしはここに書かれたやり取りを、そのまま受け入れたいと思います。これだけの会話であったと思うのです。それはなぜか?
イエス様の言葉には力があったからです。イエスの言葉には、人の運命を変える力があります。
無から有へ 悪から善へ 罪から救いへ、そして、闇から光へと変える力があるからです。私たちも同じように罪を抱えた人間であり、そのわたしたちが、罪の中いたとしても、イエス様は立ち止まり、見つめていてくださり、声をかけてくださる。その言葉には力があって、私たちにはそれで十分なのです。「わたしに従いなさい」。なんと力強く愛に裏打ちされた言葉でしょうか。

Ⅱ. 罪人の家で

さて、次の節からは食事の場面に移ります。それはマタイの家だと並行箇所ルカ福音書に書かれています。マタイはイエス様の弟子となることを喜びました。そして、自分の家で食事の準備をしました。そこでイエス様が、弟子たちと多くの徴税人と、罪人を招いて食事をしたのです。マタイだけでなく他の徴税人や罪人とされていた人々が、イエス様に招かれて食事をしていたのです。いわゆる社会の中で失格者とされていた人たちと、食事をしたということなのです。その様子を見ていたファリサイ派という権威ある人たちは、「なぜ、あなたがたの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と質問しました。これは質問というよりも批判です。ファリサイ派の人々は、決して悪人ではありません。むしろ、信仰熱心で真面目な人々です。真面目に生きている人たちが、自分たちが守ってきたものを守らない罪人たちと、喜んで食事をしているイエス様が許せなかったのです。ファリサイ派の人たちだけではなく、誰が見ても、「何でこんな人達と一緒に食事をするのだろう」と不審に思う人たち、怪しむ人たちがいたのです。

Ⅲ. スラム街で

この箇所から思い浮かぶ人物がいました。戦前戦後にキリスト教を広めて、さまざまな協同組合を日本に創設した賀川豊彦です。賀川が神戸のスラム街に移り住んで、貧しい人々の為に働いた姿と重なりました。
賀川は明治21年に徳島県で裕福な家に生まれました。キリスト教の伝道者になろうと決めて、東京の明治学院を卒業して、神戸神学校に通うことになりました。しかし、この時に病気にかかった事が、大きな転機となりました。「結核」にかかり危篤状態に陥ったのです。その頃の様子は賀川が自伝として書いた『死線を超えて』という小説に書かれています。死の宣告を受けたにもかかわらず、奇跡的に回復をするのです。生死をさまよう死線を超えて、賀川は残りの人生を、貧しい人たちの為に身を捧げることにしました。神戸のスラム街に住むと決めたのですが、学業がとても優秀だった賀川を周囲の仲間が何度も止めました。「あそこは君が行くところではない」。「とんでもない悪い連中がいる所だ」と諭すのですが、イエス様が罪人と呼ばれる人達の家に行って食事をしたように、賀川は神戸のスラム街で生活を始めました。
スラム街は想像以上にひどい場所でした。新参者の賀川には金がありそうだと、刃物を持って強請りに来る者、俺が守ってやると近づいては金を要求する者、家に帰ると布団や米が盗まれて壁には拳銃の弾の跡が残っているといったエピソードが次から次へと起こります。長屋に住む女たちは生きるために売春をしていましたし、賀川がもっとも嘆いたのは「赤ん坊殺し」です。望まれないで生まれた赤ん坊を、養育費と一緒に引き取るのですが、そのまま餓死させるということが日常的に行われていた。そのようなことがスラム街では普通にありました。彼らに良心がなかったのではないのです。強請りも盗みも、売春も赤ん坊殺しも、善悪ではない、どれも生きていくための手段でした。世間から見ればあってはならない事ばかりです。しかし、そんな事がありながらも賀川はスラムの生活がシックリ合ってきたというのです。賀川は比較的豊かな生活をしてきました。生きてきた中でスラム街の生活ほど、張り詰めた生活をしたことがなかったと。スラム街を歩いていると、小さいながらも皆生きるために努力している。生きようとする努力に少なからず賀川は心動かされたといいます。スラム街のすべての人を尊敬したとも言っています。たとえ彼らが、ことごとく人生の失敗者であるとしても、彼らの失敗にはそれぞれ尊い失敗の理由があることを発見して、賀川は彼らを尊敬しました。
やがて、スラムに住む子どもたちが賀川を「先生」と呼んで集まってきます。教会に来る者が出てきた。賀川の活動が新聞にも載って応援する人も増えていったのです。スラム街での経験は、その後の賀川の活躍の基盤になっていきました。彼は一旦アメリカに渡米した後、神戸で協同組合運動を始めました。生活クラブとかコープといった消費者協同組合を日本で創設したのです。またJAと呼んでいる農協も、企業の中にある労働組合も賀川の尽力で作られたものです。当時発言する力が乏しかった労働者、消費者、農業従事者たちを、組合という形で団結させたのです。
スラム街の住人たちの、生きづらさの真っただ中へ入って彼らと一緒に過ごすことは、イエス様が示した愛の姿です。イエス様は罪人を救うために、ご自身を低くしてくださり、この地上に来てくださいました。さらに罪人を救うためには、罪の真っただ中まで入っていかなければならなかったのです。

Ⅳ. あわれみの主

今日の聖書箇所に戻りますが、12節「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」とあります。ここで医者を必要としていたのはマタイです。マタイは丈夫な人などではない、お金にしがみつくしかない病人でした。しかし、そこに「わたしに従いなさい」というイエス様の言葉が耳に入ったのです。医者を必要としていたマタイの耳に憐れみ深い声が響き、心を動かしたのです。なぜなら、マタイは心のどこかで、それを求めていたからです。マタイは憐みを求める病人でした。
つづいて「私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない」と言われました。イエス様に差し出す、いけにえなど必要ありません。この自分を憐れんでほしい、慈しんでほしいと、マタイは心の何処かで求めていたのです。通りかかったイエス様は、それを知って収税所にやって来た。偶然ではなく、うつむいて、お金ばかり見ていたマタイに向けて声を掛けてくださったのです。なぜなら「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われた通りです。

わたしたちも、マタイと同じように医者を必要とする者です。医者を必要とする罪人です。しかし幸いなことに、神の愛は私たちが罪人であっても、いや罪人であるが故に、憐みと慈しみに与れるということです。罪人であるが故に招かれている。
「わたしに従いなさい」。この言葉には人を変える力があります。人を動かす力がある。マタイは収税所に居座る罪人から、立ち上がって『マタイによる福音書』を書いた証し人になりました。私たちもこの一週間、求める人のただ中に入っていきたいと思うのです。それぞれの持ち場で、憐みの主を証しする者でありたいと願います。お祈りをいたします。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

きよい公同の教会を信じます―使徒信条⑰

松本雅弘牧師
イザヤ書12章1-6節
使徒言行録20章17-38節
2021年7月18日

Ⅰ.「きよい公同の教会を信じます」とは?

洗礼入会準備会も終わりの方に差し掛かると、参加者一人ひとりとの面接の時を持っています。その時、ある方が、こんな話をしてくださいました。「以前、南米のペルーを旅行したことがある。その時初めて、キリスト教国と言われる国からやってきたクリスチャンや教会が、神の名のもと多くの現地の人々を殺した事実を知らされた。何故、神を信じ、聖書に学んでいるはずの教会がそんなことをしたのか、出来てしまったのか、自分にはどうしても理解できない」と。
また、一人の若者が話してくれました。「自分はクリスチャンホームに生まれたが、そうではない友だちの家が羨ましかった。自分の両親は二人そろって熱心な教会員だったので、毎週、奉仕に忙しく、とっても寂しい思いをした。教会に両親を取られてしまったかのように感じていた」。彼の話を聞きながら、心痛みました。「本当に申し訳なかった」とお詫びしたことを覚えています。
使徒信条の「わたしはきよい公同の教会を信じます」という告白は、今の私たちにとって何を意味するのでしょう。私たち教会の現実の姿を前に、片目をつぶり、不完全さや弱さは見ないようにし、もう片方の目で良い点だけを見るように、ということなのでしょうか。

Ⅱ.教会はだれのものでもない、神のもの

パウロはミレトスという港町にやって来て、エフェソ教会の長老たちを呼び寄せ別れの説教を語りました。その時の説教が、使徒言行録20章に記されている言葉です。こうした中、残される長老たちにとって自分たちはこの後どうなるのだろうか、と不安になったと思います。その彼らに対してパウロは、次のように語りました。
「私が去った後、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、私には分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。」(29―30)
改めて私たちキリストの教会は、常に危険にさらされていることを知らされます。「残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らす」。敵が教会外からやって来る。それだけではありません。「あなたがた自身の中からも」とあります。この言葉を聞いているエフェソ教会の長老たちは耳を疑ったに違いない。「あなたがた」とは、今、この説教を聴いている自分たちのことでしたから!自分たち長老の中から教会の敵が現れる。では長老たちが何をどうするのでしょう?「邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする」というのです。ここにある、「弟子たち」という言葉は、教会員のことです。教会員はキリストの弟子です。キリストの弟子である教会員を自分に「従わせようとする」。自分の弟子にしようとする。
しかし、それだけで終わっていません。パウロは直前でこう語っている。「どうか、あなたがた自身と羊の群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神がご自身の血によってご自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命されたのです。」(28)
そうです。一言で言うならば、彼ら長老たちに向かって、「教会を宜しく頼む」と語るのです。
ここで見落としてはならない言葉に出会います。「神の教会」という表現です。教会は誰のものでもない神さまのものです。ちなみに、「聖なる公同の教会」の「聖なる」という言葉ですが、聖書特有の言葉ですが、これは「神の所有とされた/神のものとされた」という意味があります。誤解を恐れずに言えば、教会は私たちのものでもないのです。何故?教会とは、「神がご自身の血によってご自分のものとなさった」存在だからとパウロは語っています。
そしてさらに驚くべきことに、その同じ聖霊なる神さまが、「ご自身の血によってご自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命された」。聖霊なる神さまが、御自身のものである教会を、長老たちにゆだねたというのです。
パウロはここで、「あなたたちを信じるということではなく、あなたがたをこの務めに任じている聖霊の働きを信じている。あなたがたもこの聖霊の事実を信じ、受け入れ、そこに立ち続けて欲しい。務めに励んでほしい」、そう語っているわけなのです。

Ⅲ.神とその恵みの言葉とに委ねる

さらに長老たちに語る言葉が続きます。「そして今、あなたがたを神とその恵みの言葉とに委ねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に相続にあずからせることができるのです。」(32)
ここに「造り上げる」という言葉が出て来ますが「家を建てる」という意味の言葉です。新築したり再建したりする。教会も同様です。何度も建て直しを求められます。
今日、礼拝後に懇談会があります。先日アンケートをもとにKMO委員会がまとめた内容についての報告をさせていただきました。アンケートを通して、私たちに与えられた多くの恵みと共に、幾つかの課題も示されてきました。
私たちは、「高座教会ミッションステートメント」にもあるように、「四世代が喜び集う教会」を祈り求めていますが、特に若い世代の教会離れが顕著になってきている。私にとっては耳の痛い内容でしたが、説教が長いし分かりにくい。音楽がしっくりこない。そうした課題も浮き彫りになってきた。今後、具体的にどうするのかを、これからご一緒に祈り求めていくわけですが、ここでパウロは、エフェソ教会の建て直しの必要性を前提に語っている。そして同じことが、今の私たち高座教会にも当てはまるのではないかと思うのです。
教会という信仰共同体を立て直す時に、何に心を留めるべきなのでしょうか。もう一度32節に注目したいのですが、「あなたがたを神とその恵みの言葉とに委ねます」と語り、何よりも神さまは、ご自身の言葉を与えて教会を建てあげ、御言葉を与えることによって何度でも教会を建て直す道を与えてくださっている。ここでパウロは、エフェソ教会の長老たちに、自信を持てと咤激励したのではありません。むしろ自分たちを過信しないように。聖霊なる神さまの働きと、御言葉の力を信頼するように、と語り長老たちを励ましているのです。

Ⅳ.聖霊において、キリストが臨在するゆえに、教会を信じる

実は、パウロの語ったこうしたことを土台として、歴史の教会は教会のことを考えて来ました。教会のことを考える時に必ず引用される、アウグスブルク信仰告白の中の一節がその代表的な例でしょう。「教会とは聖なる会衆であって、福音が純粋に解かれ、聖礼典が正しく執行されるところである」と。教会は神の御言葉が正しく説教され、聖礼典が正しく執り行われることにかかっている。宗教改革以来、私たちは、これを教会の試金石として捉えてきました。そして今日の箇所でも、「あなたがたを神とその恵みの言葉とに委ねます」とあるように、教会にとって御言葉の恵みに与ることがいかに生命線であるのかを改めて教えられます。
このことの例として心に浮かんだのが使徒言行録6章の出来事です。当時、教会には、ギリシャ語を話すユダヤ人とヘブル語を話すユダヤ人の二グループがありました。そうした中、ギリシャ語を話すユダヤ人のやもめたちに行くはずの配給が滞っていることが発覚したのです。教会は問題を解決するために執事職を新設します。使徒たちが担っていた奉仕を分担した。その結果宣教の前進が再び始まったことを伝えています。
ただ気を付けなければいけないのは、事の本質は教会の働きを合理的に行ったからではなく、配給における不公平の根っこにあった「愛のほころび」だと思います。愛が冷めていたから、愛の共同体として成長していなかったからでしょう。
そのために教会はどうしたか。基本に立ち返った。愛が冷めてしまうのは、裏を返せば、神によって愛されている実感が薄れる時です。原因を究明していくと御言葉の務めを担う使徒たちがそうできてない。教会に御言葉の飢饉があったのです。
先ほどのパウロの言葉、「この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に相続にあずからせることができるのです」とあるように、壊れそうになる時、私たちには神の恵みの言葉が与えられている。恵みの言葉をもって建て直すのです。
そして幸いにも神の言葉は恵みの言葉であって審きの言葉ではありません。愛の言葉なのです。まさに、初代教会の先輩たちは、そこに立ち帰った。
私たちが「きよい公同の教会を信じます」と告白しうるのは、信仰共同体である教会の中に共におられる聖霊、そして具体的に御言葉を通して常に私たちを守り導き建て上げてくださる聖霊なる神さまへの信仰のゆえであることを覚えたいと思います。そして、心から、「わたしは教会を信じます」と告白して歩んでまいりましょう。お祈りします。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

わたしは聖霊を信じます―使徒信条⑯

松本雅弘牧師
イザヤ書42章1-9節
ヨハネによる福音書14章1-17節
2021年7月11日

Ⅰ.「わたしは聖霊を信じます」から始まる使徒信条の第三部

以前、私たちの使徒信条は、大きく三つの部分から成り立っているということをお話しました。第一部は、「わたしは、天地の造り主、全能の父なる神を信じます」というところ、父なる神さまについての告白部分です。そして第二部は、続く「わたしはそのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます」から始まる、御子イエス・キリストに関する告白部分です。そして今日から始まる第三部では、「聖霊を信じます」と告白した後、「きよい公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、永遠の命を信じます」と続き、聖霊なる神さまが働かれる時、それは私たちの中、生活の中で生きて働いておられることを信じるのであり、そうした具体的な働きの実として信仰共同体やクリスチャンの交わり、罪の赦しや永遠の命があることを告白しています。

Ⅱ.弁護者である聖霊

さて今日の箇所で主イエスは聖霊なる神さまのことを、「弁護者」と呼んでおられます。「弁護者」と訳される言葉は、「呼ばれたらそばに来てくれる者/呼ばれてそこに来た人」という意味で、それが転じて「大変困っている人を助けに来る有力な弁護者」という意味となりました。またこのお方は、主イエスが父なる神さまにお願いして、父なる神が遣わしてくださったお方だということなのです。
ところで、今、「そのお方」という言い方をしましたが、そうした言葉遣いに違和感を持たれるかもしれません。今、一般的にもスピリチュアルな事柄に関心がありますが、その場合、霊は、英語で、”it”と表現される非人格的な力や物として受け取られています。しかし、聖書によれば、聖霊は「もの」ではありません。私たちが所有できる霊的な力、アラジンのランプのように、いつでも必要な時に「出て来なさい」と呼びだすことのできる、神秘的で、常に持ち運び可能な「もの」のように、思いのままに用いることができるような存在ではないのです。そのお方は人格をお持ちのお方であり、私たちが尊ぶべき存在であり、礼拝すべきお方であり、自由に働かれるお方です。
今日お読みしませんでしたが、25節と26節で主イエスは、聖霊の大切なお働きの一つに、主イエスがお語りになった教えやお話になったことをことごとく思い起こさせてくださるというお働きについて語られました。ですから後に彼ら弟子たちは、思い起こさせてくださる聖霊の働きによって、自分たちが見聞きした主イエスの言葉、主イエスの御業を新約聖書という文書として書き残すわけです。そして、その聖書に触れた私たち一人ひとりの人生と主イエスの物語、福音の物語を響き合わせ、私たち一人ひとりの人生と結び付けてくださるのも、弁護者、助け主なる聖霊のお働きなのです。
今日の礼拝でも、聖書朗読、説教の前に、「照明を求める祈り」を祈りました。これは「聖霊の照明/照らしを求める祈り」という意味です。何故なら、聖書を理解するために本質的に必要なことは、決して頭を鍛えることや、熱心に勉強することが決定的なのではなく、聖霊の照明が不可欠だ、という、聖書を通して教えられた信仰から来ているわけです。
神学や哲学の世界でよく永遠と時間は質的に異なると言われます。いくら時間を積み重ねても永遠に達するのではないことが真実であるように、パウロが、「聖霊が働いてくださらなければ、誰も主イエスをキリストと告白することはできない」と語るのはそういう意味なのです。すなわち、聖霊が働いてくださらなければ、私たちは神さまを知ることがない。そして神さまに知られている自分自身を知ることができません。

Ⅲ.ぶどうの木であるキリストにつながり続ける―関係に生きる

ところで、クリスチャンとは聖霊を宿す信仰共同体である教会につながったことを意味し、しかも、教会の肢々である私たち一人ひとりも聖霊の宿る神殿になったのだとパウロはコリントの信徒への手紙の中で語っています。その印が「洗礼」です。ですから聖霊をお与えになった後、聖霊の働きを私たちの教会の交わりや、私たち個々の生活の場面で豊かに溢れていく方向を選び取っていくことが大切です。
例えば、鳥は鳥固有の命を神さまから授かっています。ですから、空を飛ぶことが出来る。しかし生まれたばかりの雛鳥はすぐには飛べません。しかし雛に与えられている命が成長するにしたがって、大空を自由に羽ばたくようになる。私たちクリスチャンも同様です。イエス・キリストを救い主、主と告白し洗礼を受けた時点で聖霊が与えられています。ですから聖霊をいただいている私たちがすべきことは、聖霊の働きがもっと現れていく方向を選択して生きていくことです。
この点についてペトロは、「生れたばかりの乳飲み子のように、理に適った、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これによって成長し、救われるようになるためです。」(Ⅰペトロ2:2)と勧めます。分かり易く言うならば、「御言葉の乳を飲むように」と語るのです。そして、この短い箇所で具体的に三つのことが教えられています。一つは、「生まれたばかりの乳飲み子のように」飲むように。二つ目に、「混じりけのない霊の乳を飲むように」。そして三つ目に、「一切の悪意、一切の偽り、偽善、妬み、一切の悪口を捨て去って」(Ⅰペトロ2:1)飲むようにと教えます。つまり心の中を占領していた、「悪意、偽り、偽善、妬み、悪口を捨て去る」ことで心の中にスペースを作る。そこに御言葉の乳をいただき、それを用いて聖霊のお働き、聖霊の命が拡がっていくように、と教えるのです。

Ⅳ.聖霊の働きによる「恵みの循環」

さて、今日の聖書の箇所で、主イエスは父なる神が弁護者である聖霊を遣わされることを明言されたわけですが、実際にこの出来事が起こったのがペンテコステの日でした。その出来事を伝える使徒言行録2章を読みますと、使徒信条の第三部、「わたしは聖霊を信じます」以降の、「きよい公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、永遠のいのちを信じます」と続く生きた証の姿を、実際のエルサレム教会の歩み、そこに集うクリスチャンたちの生活の中に、具体的に現れる聖霊の働きとして見ることが出来ます。
ただ、注意したいのですが、聖書は聖霊を宿した信仰共同体の様子をレポートし、「教会はこうあるべきだ、クリスチャンはこうあらねばならない」と主張しているのではなく、むしろ聖霊なる神さまが私たちの教会に、私たちの人生に働きかけてくださる時に、このような出来事が起こったのだと淡々と報告しているということなのです。ただ、私たちが見習うべき模範もそこにあります。というのは、エルサレム教会のクリスチャンたちは、あのペンテコステ以降、聖霊を宿し、聖霊に満たされて生活していったわけですが、聖霊のお働きの恵みに継続的に与るために、彼らが大切にしていたことがあった。それが高座教会で大事にしている「信仰生活の5つの基本」です。礼拝、聖書と祈り、主にある交わり、クリスチャン・スチュワードシップの実践、そしてそうした生き方が宣教に結びついた、ということです。カンバーランド長老教会の「信仰告白」の言葉を使うならば、そうした「恵みの手段」を通してぶどうの木であるキリストにつながり、聖霊のお働きを体一杯に受けて生きていたということでしょう。
そしてもう一つ、彼らの生活を通して教えられる大事なことは、「信仰生活は順序が大切」ということです。信仰生活の入り口は、まず神さまとの生きた関係に入るということです。
その日、主イエスは祭りに集った群衆に向かい「大声で言われた」と福音書に出てきます。祭が盛り上がり、みんな興奮していたのでしょう。祭りやイベントは盛り上がるのですが、終わるとドッと疲れが押し寄せ、「あれは何だったんだろう」と思うこともあります。主は、それをご存知だった。ですから祭で興奮する人々に向かって大声で語られた。「『渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ与えられていなかったからである。」(ヨハネ7:37-39)
主イエスのところに行って飲むことです。「そのままの枝の状態で、私のところに来て休みなさい。飲みなさい。そして繋がりなさい」という勧めにしたがい、主イエスにつながり続けるのです。
エルサレム教会は生き生きしていました。それは聖霊をいただき、聖霊に満たされ、その満たしを常に経験するためにぶどうの木である主との関係を大切にして生きたからです。そこに「恵みの循環」があったからです。
私たちは、この同じ聖霊なる神さまをいただいている教会、そして私たち一人ひとりが、この聖霊なる神さまを内に宿す神殿として召され、生かされています。「わたしは聖霊を信じます」と告白するとともに、このお方のお働きが、私たちの生活を通し、高座教会を通し、いよいよ豊かに広がっていきますように。お祈りいたします。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

審き主なるイエス・キリストー使徒信条⑮

松本雅弘牧師
詩編32編1-11節
コリントの信徒への手紙二5章1-11節
2021年7月4日

Ⅰ.「終わった人」

作家の内館牧子さんの作品に、『終わった人』という小説があります。3年ほど前に映画化もされました。63歳になる田代壮介という名の男性が主人公で、大手銀行の出世コースから子会社に出向させられ、そのまま定年の日を迎える。そこからストーリーが始まります。何よりもその小説は書き出しが凄い、「定年って生前葬だな」という田代の呟きで始まります。

田代壮介に限らず「人生の終わり」をどこに見ているのか、これは一人ひとりの生き方に大きな影響を与えます。そして田代のような考え方は意外と一般的なのではないだろうか。クリスチャンであっても例外ではないでしょう。あるいは、もう少し先延ばしして、「死が人生の終わり」と考える人も多いことだと思います。では、これに対して聖書は何と教えるのでしょうか?今日取り上げます、使徒信条の告白、「そこからこられて、生きている者と死んでいる者とをさばかれます」とあります。いわゆる「最後の審判」ですが、この時こそが、私たちにとっての決定的な区切りの時、一人ひとりの人生の総決算を迫られる時だと告白するのです。

Ⅱ.審き主なるイエス・キリストの再臨

今日の聖書個所でパウロは、再臨の時、主イエス・キリストは審判者なるお方として現れ、「苦であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行った仕業に応じて、報いを受ける」と語ります。かつて主イエスは、「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠れているもので知られずに済むものはないからである。」(マタイ10:26)と語られ、神の御前で全てのものが明らかになることをお示しになりました。ですから、再臨の時に起こる出来事はどこか私たちにとっては恐ろしい出来事のように感じます。

Ⅲ.審判者であられる主は救い主であり、弁護者であられる

ところで、主イエス・キリストの再臨や最後の審判を思う時に心に浮かぶ賛美歌があります。賛美歌18番、「こころを高くあげよ!」です。その4節に「おわりの日がきたなら、さばきの座を見あげて、わがちからのかぎりに、こころを高くあげよう。」とあります。昔、これは開き直りではないのか、と思っていた時期がありました。ところが、今日の「私たちは皆、キリストの裁きの座に出てすべてが明らかにされ、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行った仕業に応じて、報いを受けなければならない」と語る直前に、パウロは「安心している」という言葉を2回も繰り返して使っています。全てが明らかにされるので、びくびくしているのではないのです。キリストの裁きの座に出るのに、開き直るのでもありません。むしろ安心している。先ほどの賛美歌18番と通じる信仰でしょう。

何故、安心できるのか。恐ろしくないのでしょうか。いったいどのようにしたら、「おわりの日がきたなら、さばきの座を見あげて、わがちからのかぎりに、こころを高くあげよう」と心の底から告白できるのでしょうか。実は、この点が今日の説教のポイントです。今日も、ハイデルベルク信仰問答に耳を傾けてみましょう。第52問に次のような問答があります。

問い:生きている者と死んだ者とをさばかれるためのキリストの再臨は、あなたをどのように慰めるのですか。
答え:わたしがあらゆる苦悩と迫害の中にも、頭をあげて、かつて、わたしたちのために神のさばきに御自身を差し出し、あらゆる呪いを、わたしから取り去ってくださった、あの審判者が天から来られるのを待ち望んでいるということです。この方が、御自分とわたしのあらゆる敵を永遠の罰の中へ投げ入れ、事実、また、わたしのすべての選ばれた者たちとともどもに、天の喜びと栄光の中へ招き入れてくださるのです。

再臨の出来事が、「あなたをどのように慰めるのですか」という問いに対して、ハイデルベルク信仰問答の答えはこうです。「あの審判者」、すなわち主イエス・キリストは、「かつて、わたしたちのために神のさばきに御自身を差し出し、あらゆる呪いを、わたしから取り去ってくださった」。「かつて」とありますから既に起こった出来事です。神の審判はもう既に、主イエスの十字架によって済んでいるというのです。ですから主イエス・キリストは審判者であるが、実は、そのお方は救い主でもあり、なおかつ弁護者でもあられる、というのです。
このこととの関連でパウロは、コリントの信徒への第一の手紙で次のようにも語っています。「ですから、主が来られるまでは、何事についても先走って裁いてはいけません。主は、闇に隠れた事を明るみに出し、人の心の謀をも明らかにされます。その時には、神からそれぞれ誉れを受けるでしょう。」(Ⅰコリント4:5)

主が再臨されたのならば、そのお方は「闇に隠れた事を明るみに出し、人の心の謀をも明らかにされ」る。だから私たちはもはや、その御方から逃げも隠れも出来ない。隠されていた思いも行いも、全てが明るみに出される。ある意味で、言い逃れることが不可能な、全ての証拠、完璧な事実が、そこに出そろう状況に置かれるわけです。そうなれば誰一人として言い逃れできません。しかしもう一度、パウロの言葉を見ますと、「その時には、神からそれぞれの誉れを受けるでしょう」と、耳を疑うような言葉が語られています。

最後の審判の時に主によって、「それぞれの誉れを受ける」。終わりの時、「おほめにあずかる」というのです。何でこんなことが言えるのでしょう?それは、裁きをなさる方が、私たちの救い主だから。そのお方は、私たちの罪のために十字架に付かれ、全ての罪を贖ってくださったから。ですから、そのお方は、罪の私たちが行った僅かな善に目を留めてくださる。私たちの中にある善き業への小さな思い、志を認めてくださるからなのです。

Ⅳ.主の正義、身にまとい/恐れなく、進みゆかん

十字架にかかられる数日前、主イエスは神殿の境内で、世の終わりについて、終末についての連続説教をお語りになりました。その一つが、「婚宴の譬え」話です。
婚宴が準備されたのに招かれた人は誰も来ようとしない。最後に王は、家来たちに向かって、「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」と命じたというのです。「町の大通り」に立って、「見かけた者はだれでも、もう片っ端から連れて来なさい」。「ユダヤ人/異邦人の区別ナシ」です。一方的な恵みによって招かれる。
ただ、一つだけ条件があった。王様の方でしてくださったことがあった。それが婚宴に出席するための「礼服」でした。

私たちが婚宴という神の国に入るために、救いにあずかるために、私たちが行うべき、守るべき掟は何か、という世界ではありません。何かの掟を守ったので婚宴に招き入れられたのではないのです。神の御前に出るために礼服を着る必要がある。しかし、私の側で用意できる礼服など一着もないのです。ですから聖書は、「キリストを着なさい」と語るのです。キリストが礼服なのです。父なる神が自らの手で、私に着せてくださる礼服、それはメシア・イエス以外にない!主イエスはその礼服を用意するために、十字架にかかってくださった。

私たちがすべきこと、それはこの主イエスの招きに応えることです。十字架によって準備してくださった「イエス・キリストという礼服」を着て、その主が来られ神の国の婚宴が完全にスタートする時を待ち望んで生きていくこと。私たちにとっての最後の審判とは、私たちにとっての弁護者であり救い主であるキリストによる裁きですから、もうビクビクする必要はありません。本当に幸いなことに、十字架の上ですでにすべての罪の贖いは終了してしまっている。ですから、私たちは再臨に際し、審判者である主イエスの、その「さばきの座を見あげて、わがちからのかぎりに、こころを高くあげ」ることができるのです。お祈りいたします。