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主日共同の礼拝説教

永遠のいのちを信じます―使徒信条㉑

松本雅弘牧師
ヨブ記19章1-27節
コロサイの信徒への手紙3章1-11節
2021年8月29日

Ⅰ.はじめに

私たちカンバーランド長老教会の信仰告白の冒頭に、一つの聖句が掲げられています。皆さん、よくご存じのヨハネ福音書3章16節です。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
これは、聖書の中の聖書、聖書の急所と呼ばれる聖句で、カンバーランド長老教会に集う私たちにとっても大切な御言葉です。ここに「永遠の命」という言葉が出て来ます。今日は使徒信条の学びの最終回になるわけですが、「永遠の命に与る」ことは、どんな恵みであるのか。今日は、「わたしは永遠の命を信じます」と告白することの意味について、ご一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ.聖書が語る「永遠の命」とは

ところで新約聖書には「命」を表すギリシャ語が3つあります。「プシュケー」、「ビオス」、そして「ゾーエィ」という言葉です。例えば主イエスは、「体は殺しても、命(プシュケー:)を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、命も体もゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)と語られた時、ここに出てくる「命」という言葉が「プシュケー」というギリシャ語で、辞書を引くと「魂、息、心」という意味もあります。
2つ目は、「ビオス」というギリシャ語で、例えば第一ヨハネ2章16節に使われています。「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、見栄を張った生活(ビオス)は、父から出たものではなく、世から出たものだからです。」この「見栄を張った生活」の「生活」が「ビオス」という言葉です。辞書を引きますと、「生活、生涯、一生」という意味があります。
ところが、この2つに対して、3つ目の「ゾーエィ」というギリシャ語が、「永遠の命」という意味での「命」を指す時に使われています。今日のコロサイ3章3節に、「あなたがたはすでに死んで、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているからです」とある、この「あなたがたの命」の「命」が「ゾーエィ」というギリシャ語です。使徒信条が、「わたしは永遠の命を信じます」と告白する時の「命」です。
聖書が教える「永遠の命」とは、単に生物学的に現在の生が来世まで続くという、「生命維持の延長」ではない。ある人の言葉を使うならば「根本的な刷新」。ですから私たちを人間として生かす命は一度、終結し、葬られる。塵に帰る。しかしそれでお終いではない。その断絶の彼方に、神さまがお与えくださる「新しい命/永遠の命」に甦るという希望の約束を聖書は私たちに語っている。このことが、使徒信条の最後の部分、「わたしは永遠の命を信じます」と告白することの意味なのです。

Ⅲ.キリストと共に神の内に隠されている命としての「永遠の命」

さて、今日は、コロサイの信徒へ手紙第3章の1節からの箇所を読ませていただいたのですが、一般にコロサイ書第3章は、使徒信条の「永遠のいのちを信じます」という言葉を学ぶ時、ほとんど必ず読むと言われている聖書箇所でもあります。
ここを見ますと私たちが授かる、「ゾーエィ」と言われる「永遠の命」は、今現在は、神の右に座しておられるキリストと共に神の内に隠されている。そしてそのキリストが再臨なさる時に、隠されていたキリストが再び姿を現すように、隠されていた「ゾーエィ」と言われる「永遠の命」が私たち一人一人に明らかに与えられるのだ、と説かれています。そのことを確認する上で1節から4節をもう一度、お読みしたいと思います。
「あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地上のものに思いを寄せてはなりません。あなたがたはすでに死んで、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているからです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」
現在、このキリストは上におられる。天の父なる神さまの右に座しておられる。そのキリストのところにある私の真の命。そして、キリストが現れる時、すなわち再び来られる再臨の時に、私たちに与えられている「永遠の命」が私たちのものとなる。私たちが永遠の命に完全に与るというのです。
主イエスが復活なさった日、弟子たちはある家に集まっていました。しかし彼らは自分たちを迫害しようとするユダヤ教指導者たちを恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。ヨハネ福音書20章19節に描かれている場面です。
宗教改革者のカルヴァンは、その箇所を、「弟子たちが集まっていたことは彼らの信仰を表し、家の戸に鍵をかけていたことは、彼らの不信仰と恐れを表している」と解釈します。そして復活の主イエスは、信仰と不信仰、勇気と恐れが入り混じった複雑な心境の只中にいた弟子たちの真ん中に立たれ、「あなたがたに平和があるように」と言われたと聖書は伝えるのです。
確かに、目に見える現実は怖れに満ち溢れていたことでしょう。しかし、そこにいた弟子たち、そして私たちには、復活なさった主イエスはもう一つの現実があること、いや真の現実があることを伝える。「あなたの目があなたに言うことを信じないでください。それらは、限界を示すだけなのです。あなたの信仰を通して世界を見てください」と神さまは、聖書を通して語りかけておられるのです。

Ⅳ.「永遠の命」を信じます

もう一度、「永遠の命」のテーマに戻りたいと思います。実は、主イエスご自身が永遠の命の正体を語った言葉があります。ヨハネ福音書17章の「大祭司の祈り」と呼ばれる祈りの中で主は、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ること」だと語られました。
「知ること」、その御方との関係において生きること、私たち自身の人生に神さまとの関係という縦軸をいただく時、その縦軸との関係で、自分を見、他者を見、この世界を見ていく目が開かれていきます。神さまとの関係で自分を知り、他者を知り、この世界を知る。もっと言えば、神さまに愛されている自分に気づかされる。神さまに受け入れられている他者を発見する。そして神さまの被造物としての、この世界へのかかわりも私たちの中で変化が起こって来る。それが永遠の命に与った者が経験する幸せであり、恵みです。
マックス・ルケードの『たいせつなきみ』という絵本をご存じでしょうか。彫刻家エリにつくられた木の人形たちが、互いに金の星シールや、「だめ」を表す灰色のシールを貼り合う中、灰色のシールをたくさんつけられた、「パンチネロ」という名の人形が、そんな暮らしが嫌になり、生みの親、彫刻家のエリに会いに行く話なのです。その時のエリとパンチネロの会話が癒されます。会話はエリの言葉から始まります。
「私は お前のことを とても大切だと 思っている」
「僕が 大切? どうして? だって 僕 歩くの遅いし、飛び跳ねたり出来ないよ。絵具だって剥げちゃってる。こんな僕のことが、どうして大切なの?」
考えてみれば私たちも平気で造り主なる神の御前で自己卑下する。パンチネロと同じです。そんな彼に対しエリは、「それはね お前が 私のものだからさ。だから 大切なんだよ」と答えるのです。二人の対話は、実は、私たちと神さまとのやり取りなのではないでしょうか。
私は神によって造られた。聖書はそう教えています。でもこのことを本当に信じているだろうか。もしそうなら神の作品であるはずの自分を自分勝手に評価することなどできません。社会や他人に「私が誰なのか」を決めさせる必要などない。この絵本を読むと、この後、パンチネロがエリの言葉を信じるようになった瞬間、体から灰色のシールがパラパラ剥がれ落ちるのです。
「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ること」だと言われます。これは何と幸いなことではないでしょうか。また様々な困難の中にあって、最後まで支えてくれる恵みではないでしょうか。
永遠の命、キリストの内に隠されている真の命、まことの私は、実は、造り主である神さまと、そのお方が遣わしてくださった主イエス・キリストを知ることにより、その御方に造られ、愛され、守られ、生かされている。そしていつか、キリストの内にある、私の命に甦る恵みが与えられる。今まさに、このお方との交わりの中で日々生かされている。「私は永遠の命を信じます」と心から告白し、告白したように生きる者でありたいと願います。
お祈りします。

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そして子になる

和田一郎副牧師
ハバクク書 3章17-19節
ローマの信徒への手紙8章18-25節
2021年8月22日

Ⅰ.父と子

今日の説教のテーマは「父と子」がテーマです。
今月うちの息子は4歳になりました。私がもし「どんな瞬間が一番うれしいですか?」と聞かれたら、息子に「パパ」と呼ばれる瞬間です。それは、私を育ててくれた父も、かつてそうだったのだろうと思うのです。私は思春期に入った中高生の頃から「大人になったら父のような人にはなるまい」と思っていました。父はいつもキャッチボールをしてくれて、子ども会のソフトボールの監督をしたり、人懐っこくて優しい人でした。しかし、仕事から帰って来るとお酒を飲んで不機嫌にしている人でした。母との喧嘩も絶えなかったので、母は幸せではない。それは父のせいだと思っていたので、そんな父のような人にはなるまいと、思いました。社会人になって家を出て数年後、母は癌で1年の闘病生活で天に召されました。その闘病生活の中で父と喧嘩になりました。母は一旦退院しても再発する可能性が高いと言われていたので、その苛立ちから言い争い取っ組み合いになってしまった。その時、父が真っすぐに私を見て言いました。「俺は世界中の誰よりもお母さんのことを愛しているんだ」いつも不機嫌だった父の口から「愛している」という言葉がでてくるとは驚きでした。父の本来の優しさを見た思いでした。母が死んで一人暮らしになった父と私は、見違えるように仲良くなったのです。その父も14年前に天に召されました。
数年前、私は家族三人で旅行で出かけることがありました。家族で楽しく過ごしたいと期待していました。しかし、出発の時間に遅れ、現地には遅刻するのが確実、途中で忘れ物に気が付き車の中でイライラして爆発しそうになりました。その時のことをある人に話しました。せっかく家族で楽しむはずの旅行で思い通りにならずイライラして楽しむどころじゃなかったと。そして、自分の正直な思いや、これまでの思いを次々と話していった時、ふっと自分の口から出た言葉に驚きました。「自分は良き夫、良きお父さんになりたいんだ」という自分の言葉でした。平凡な言葉ですが、そのようなことを意識したことはありませんでした。「良き夫、良き父になりたい」誰だってそう思う当たり前のこと。しかし子どもの頃から刷り込まれた「父のような大人にはなりたくない」というかつての思い。現実はあの頃の父に似ているのではないか。私の死んだ父も「良き夫、良きお父さん」になろうとしていたのではないか? 思ってはいるけど、その通りになっていない現実。私の苛立ちと父の不機嫌な姿が重なる思いがしました。

Ⅱ.「将来の栄光」

今日の聖書箇所18節には「将来の栄光」という見出しがあります。これは将来キリストが来られる再臨の時に、私たちが完全に神の子とさせていただく栄光という意味です。
18節「今この時の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光と比べれば、取るに足りません」とあり「今この時の苦しみ」というのは、私たちの地上の生涯は苦しみがともなうと言っているのです。それに対する「将来・・現されるはずの栄光」の時というのは、今は隠されていますが、将来再臨の時に完全なる神の子とされる喜びの時、栄光を受ける時です。今もクリスチャンは神の子とされていますが栄光にあずかるのは将来です。しかし、それまでのこの地上の人生には忍耐がともないます。再臨の希望があるといっても、私たちの人生にある悲しみや苦難に忍耐して、再臨の時を待ち望む必要があります。これが今日の聖書箇所の大筋です。

Ⅲ. 養子にしていただくこと

将来の栄光とは、完全なる神様の子とされることだと言いました。23節には「子にしていただくこと」とあります。神様の子とされることは、私たちにとっても喜びですが、神様の側からしても、私たちをご自分の子とすることは、心から願っている最終的な目的です。
エフェソの手紙1:4-5に次の言葉があります。「(神は)天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。私たちが愛の内に御前で聖なる、傷のない者となるためです。御心の良しとされるままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、前もってお定めになったのです」
神様は天地創造の時からすでに、私たちを、ご自分の子にしようと定めておられました。しかも、ただ自分の子にするのではなく、愛する者に対して愛をもって子にしてくださるというのが、神様の御心の根源であり最終目的です。ところで、イエス様も神様の子です。イエス様と同じ私たちも神の子でしょうか。
23節「子にしていただくこと」と、日本語で「子」とありますが、原語のギリシャ語では「養子」と書かれています。英語では”adoption”。ですからパウロは、神の「養子にしていただく」と書きました。当時の社会でも養子は親の財産を受け継ぐことができる権利があったからです。つまりアブラハムの子孫に与えられるという祝福を相続する権利が養子にもあるのです。神の独り子イエス様を長男として、私たちは養子とされました。余すことなく神様の祝福に与ります。長男のイエス様が復活されたように、やがて私たちも復活の体を得ることができます。それが将来の栄光です。
日本は養子縁組や里親の引き取り手が少ない養子後進国ですが、私たちクリスチャンは霊的に神様の養子にされました。霊的な孤児であった者が養子にされたことで、神の家族という温かい交わりの中で生きています。自分が養子として恵まれたのだから、私も親のいない子どもを養子に迎える。これがキリスト教世界観によって培われた欧米社会にあるようです。
「子にしていただくこと」は私たちの祝福でありますが、神様の御心も「私の子になって欲しい」「一人でも多くの人が、私の子となって神の家族を築いていきたい」。それが神様の御心だと覚えたいと思います

Ⅳ.心に記された神の律法

今日の箇所では、神の子とされる将来の喜ばしい栄光だけではなくて、それまでの地上の生涯における「忍耐」が必要だと書かれています。18節「今この時の苦しみ」、22節「共に呻き、共に産みの苦しみを味わ」いながら、25節「忍耐している」とあるのです。ここに書かれている、「今この時の苦しみ」と、「忍耐」とはいったいどんな事なのか、考えたいと思います。
ここで一つの問いがあります。人はみな罪人だと言われます。クリスチャンであってもそうでなくても罪の性質があります。罪人なのに善い行いをしている人はたくさんいます。それはなぜでしょうか。
人間は天地創造の業の中で、神のかたちに創造されました。神様に似たものとして、神様の性質である愛という特性を与えられて造られました。しかし、その後アダムとエバの罪による堕落によって、人間に罪の性質が入ったわけです。ですから人間には「原罪」という、生まれながらにしてもっている罪があります。この原罪によって人を傷つけ、神を中心としない自己中心という性質を持ち続けています。しかし、もともと神のかたちに造られた私たちの心の中には、神のかたちの性質も残っているのです。
「こういう人々(異邦人)は、律法の命じる行いがその心に記されていることを示しています。彼らの良心がこれを証ししています。また、互いに告発したり弁護したりする彼らの議論も、証ししています」(ローマ書2章15節)
「律法の命じていることが、心に記されている」とあります。律法とは神様の律法です。クリスチャンではない異教徒が正しい行いをするのは、心の中に神の律法が記されているからだとパウロはいっているのです。神のかたちに造られた、私たち人間の心の中には、造り主である神の律法が記されています。神の律法というのは、神の性質を反映した愛の律法です。神を愛し、隣人を自分のように愛することが心に刻み込まれているのです。これはアダムとエバが罪を犯した後も同じ状態です。原罪がありながらも、人間の中には善悪をわきまえて、善を行い悪をよしとしない分別は残っています。確かに罪によって神を中心とする性質ではなくなり、人間本来の姿を失っていますが、造り主である神の愛の律法が、人間の心に記されていることに変わりはありません。ですから、ローマ書2章15節後半に「互いに告発したり弁護したりする」というのは、人間の心の中で原罪という罪の性質と、神のかたちに造られた神の愛の律法が互いに争っているのです。「罪」と「愛の律法」とが心の中で葛藤するということが起こってしまうのです。ですから人間は矛盾した生き物なのです。
この「罪」と「神の律法」とのせめぎ合いが、今日の聖書箇所に記されている「今この時の苦しみ」であり、「呻き」であり、25節にある「忍耐」の意味です。
苦しみと忍耐を繰り返しながら、私たちはイエス・キリストに似たものへと変えられていき、やがて完全なる神の子としての栄光に与ることができるのです。

Ⅴ. そして子になる

今日私は父との証しを話しました。父も私も、家族を前にして本来自分はこうありたいと願うことと、自己中心という自分の至らなさの狭間で悩みを抱えます。「よい夫、良い父でありたい」と願いながら、自分中心のよい夫であり、自分中心の良い父なのかも知れません。まさに神の愛の律法を心に記されていながら、自己中心という罪の性質との狭間で悩みを抱え続けます。
それでも、私たちの歩むべき道は心に記されている神の律法に従って、天の父なる神様の御心を求め続けるということです。私の一番うれしい瞬間が息子に「パパ」と呼ばれる瞬間であるように、天の父に向かって「アッバ父よ」と親愛を込めて呼びかける関係は、神様の御心にかなったことです。天の父と、子とされた私たちが良い関係であることが人間の本来の姿です。
この地上の生涯においては忍耐が必要ですが、将来の栄光を希望として、子とされたことを共に喜びましょう。神が与えてくださった希望は失望に終わりません。
この一週間が、神の子として相応しい歩みとなりますように。お祈りいたします。

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からだのよみがえりを信じます―使徒信条⑳

松本雅弘牧師
創世記 1章1~2、26~31節
コリントの信徒への手紙一 15章35~58節
2021年8月15日

Ⅰ. はじめに

ある方が、私たちは望みにおいて救われている。希望を持って生きることができるし、同時に希望をもって死ぬことができる。私たちの信仰はそういうものだ、と語っていました。主イエス・キリストが再び来てくださる、しかも、救いを完成しにやって来てくださる。確かにそうした希望をもって生かされています。

Ⅱ.「からだのよみがえり」とは

さて、今日のテーマ、「からだのよみがえり」について考えてみたいと思います。
創世記には、神である主は、私たちにまず体を造ってくださって、その体に神の息を吹き込んで、その結果一人の人間として生きる者とされた、と書かれています。この神の息が人を人として生かす霊となったわけです。その聖霊の働きが私たちの体、すなわち肉体をも生かすものであり、肉体のない人間存在を聖書は想定していないわけです。ところが、使徒信条が生み出されていく背景に、教会の中に一つの問題提起がありました。それが、当時教会の内外にあった、いわゆる「霊魂不滅の信仰」で、肉体はやがて腐り滅びるが、肉体に宿る霊魂は不滅だ、という考え方です。
これは元々ギリシャ哲学の考え方でしたが、いつの間にかそれが教会の中に入り込んだ。その結果、肉体はつまらない物。それに対し霊魂こそは永遠のものと考えるようになってきた。確かに、こうした考え方は、私たちの感覚に近いかもしれません。
コロナ禍で、暑い日々が続くと、肉体を持って生きることは、時として大変な重荷となります。まして、歳を重ねて行けば行くほど、衰えていく自らの体をもてあますことがあるのではないでしょうか。そして肉体の問題は、年寄りだけの問題かと言えばそうではありません。若者は若者で肉体に宿る欲望に対してどう対処したらいいのか。どうしようもない思いを抱くことがありように思います。
ですから多くの宗教や哲学は、どうしたら肉体の重荷から解放され、自由な精神、魂の世界に憩うことが出来るのか。昔から人はそれに憧れ、その結果、宗教や哲学は、真面目に、そうした私たちが抱える課題に応えようとしてきたわけです。その結果、「霊魂不滅」という思想や霊肉二元論の思想が誕生しました。そして、こうした教えが初期の教会の中に入り込み、行き着くところまで行ってしまった。
このことが実は、コリントの信徒への手紙第一の手紙が扱っている、教会が抱えているもう一つの大きな課題だったわけです。ですから、ただ漠然と「よみがえりを信じます」という告白ではなく、神さまの救いは私たちの存在全部をひっくるめてのことであるので、敢えて、「からだのよみがえりを信じます」と告白し、肉体と魂/霊を全部ひっくるめて、ここで「からだ」という言葉で使徒信条は表していることを、まず心に留めたいと思います。

Ⅲ.「からだのよみがえりを信じます」とは

さて、今日はコリントの信徒への手紙第一の15章を取り上げました。この章全体は復活に関わるパウロの教えであることが分かります。例えば、20節と21節を見ますと、パウロはこのように語っています。
「しかし今や、キリストは死者の中から復活し、眠りに就いた人たちの初穂となられました。死が一人の人を通して来たのだから、死者の復活も一人の人を通して来たのです。」(15:20―21)
ここでパウロが言わんとしているのは、私たちの復活は、すでに起こった主イエス・キリストの復活の出来事によって保証されている、ということです。キリストが復活されたのだから、私たちも復活する、とパウロは語っているのです。
ここでパウロは、「眠りに就いた人たちの初穂」という表現を使いました。聖書によれば「初穂」とは、「神さまに先ず捧げる大切なもの」です。聖書の世界では、「初穂は神さまのもの」なのです。しかも、その後に続く豊かな実りを先取りするものが「初穂」です。パウロは、「キリストの復活が初穂だ」と言うことで、当然、キリストの初穂に続く豊かな実りがある。「その初穂に続く豊かな実りが、私たちの復活だ」とパウロは語るのです。それゆえに、「すでに主イエス・キリストが復活されたからには、その事実が、将来における、私たちの復活を約束する確かな出来事、根拠となるのだ」と教えるのです。
さらに死んだ人々のことを「眠りに就いた人たち」と表現します。死を「眠り」と呼ぶのです。よく私たちが口にする「永眠」ではありません。あくまでも「眠り」という言葉を使います。何故なら必ず目覚めるからです。眠っている人たちの目覚め、復活の初穂として、主イエス・キリストが既によみがえられた。そのような意味で、終わりのときの死者のよみがえりが、実はキリストの復活においてすでに始まっているとパウロは語るのです。
さて、そうした中でコリント教会には、「しかし、死者はどのように復活するのか、どのような体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。」と問う人がいました。
この地上での生涯が終わりますと、葬儀をします。葬礼拝の後、火葬し骨にしてしまいます。あるいは自分の母は若くして召された。息子の私は、60歳を過ぎたけれども、復活したとしたら、何歳の姿で復活するのか等々。
そのように考えて来ますと、魂だけが生き続けている。眠っているのも魂だし、終わりの時に甦るのも魂だ、と考えた方が分かり易い。私たちの救いが肉体と関係がないところで起こると受け止めた方が腑に落ちる。そう考える人が教会の中にもけっこう現れていた。
これに対する丁寧な答えが36節から出て来ます。パウロは、体が復活すると聞いた時に、自分の肉の体を見て、これがどうして終わりの時に甦るのだろうか、私が死んだら、この手足も朽ちてなくなってしまうではないか、などと考える人々に向かって、自然のいのちを宿す体は、地に落ちて死ぬ種に等しい。そこから生まれる新しい復活の体は「霊の体」と呼ばれる「新しい体」である。霊の体は、今現在のような、私たちの見る通りの体ではない。しかし体をもって復活するということは明らかなのだ、とパウロはそう主張するのです。

Ⅳ.キリストに似た者としての復活

では、霊の体とは何だろうか。パウロはそれにも答えています。
「最初の人は地に属し、土からできた者ですが、第二の人は天に属する方です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天上の者たちはすべて、天上のその方に等しいのです。」
パウロははっきりと答えます。土から造られたアダムのように土からできたものですが、しかし復活する時には、アダムに似た者としてではなく天に属し天から来てくださった第二のアダムと呼ばれるキリストのようになるというのです。キリストに似るのです。
ところで、「からだのよみがえり」を考える上で、よく引用される聖句があることを知りました。それは、第一ヨハネの手紙第3章2節です。
「愛する人たち、私たちは今すでに神の子どもですが、私たちがどのようになるかは、まだ現わされていません。しかし、そのことが現されるとき、私たちが神に似たものとなることは知っています。神をありのままに見るからです。」
「そのことが現されるとき」と聖書協会共同訳聖書では訳されていますが、口語訳では「彼が現れる時」、新共同訳では、「御子が現れるとき」、新改訳でも「キリストが現れたなら」と訳しています。つまりキリストの再臨の時のことです。その時に、私たちは、「私たちが神に似たものとなる」、キリストに似た者となることを私たちは知っている、というのです。
私たちは、一人ひとり個別性をもって生まれて来ました。背の高さや容姿、人様々です。身体機能の面でも一定水準以上の機能を有する体の人もいれば、生まれながらに障碍やハンディキャップを抱えて生きる人もいます。「自分の体は何故こうなのだ」と、自らの「所与」について悩み嘆き、神を恨む思いと戦っている人もいるかもしれない。しかし、使徒信条が告白する希望とは何か?それは、私自身が新しくされる。この肉体も含めて変えられる!新しくされる。今日の箇所でパウロが、「弱いもので蒔かれ、力あるものに復活」すると語るように、そこには大きな非連続/変化がある。と同時にそこで甦らされるのは、他の誰でもない、「この私の体」であることを、聖書は教え、そして使徒信条は告白している。
キリストはよみがえられた。そして再び来られる。その時キリストに似た私として体ごと復活する。その恵みを期待して、歩んでいきたいと願います。
お祈りします。

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罪のゆるしを信じます―使徒信条⑲

松本雅弘牧師
詩編51編3節-19節
マタイによる福音書18章21-35節
2021年8月8日

Ⅰ.はじめに

今日のテーマ、「罪のゆるしを信じます」と告白する時に、私たちは何を信じ告白するのでしょう。今日は、このことを考える上でマタイ福音書18章で「罪」と「罪の赦し」、また「罪の赦し」が私たちの信仰生活のなかでどう具体化するのかについて、本当に丁寧にお語りくださった譬え話に耳を傾けるところから始めたいと思います。

Ⅱ.仲間を赦さない家来の譬え話

この話の中で、神さまが王様/主君に譬えられています。そのお方に対する私たち人間の罪、負い目というのは、私たちが一生かかって努力し、どんなに償おう頑張ったとしても、償い切れないほどのもの。ところが、神さまは私たちの負債を帳消しにしてくださる。罪のゆるしとはそうしたものであることを、主イエスはこの譬えを通して、語ろうとしている。
そしてもう一つ、莫大な借金を帳消しにされているにもかかわらず、僅かな額を借金していた仲間を赦さない、この家来を神さまにたとえられている王様/主君は罰するわけです。
このように主イエスはこの譬え話を通して、神の赦しと、その赦しを経験した私たちが人を赦すことが切っても切り離せない関係にある、セットなのだということを語ろうとなさったのです。このことをよく示しているのが、昨年の主題聖句、Ⅰヨハネ4章19節は、「先行する赦し/先行する愛、先行する恵み」を語る御言葉、「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。」
私たちが心に留めなければならないこと、それは「はじめに赦しありき」という恵みの現実なのです。神がまず愛してくださったという「先行する愛、先行する恵みの現実」です。それも主君がこの家来を赦してやった時、何の条件もつけなかった。無条件、無制限の赦しなのです。

Ⅲ.「罪のゆるしを信じます」とは?

ところで、今日の「招きの御言葉」、Ⅱコリント5章17節は「わたしは罪のゆるしを信じます」という使徒信条の告白の意味を伝える大切な聖句と思われます。それは、「わたしは罪のゆるしを信じます」と信じ告白するということは、自分が新しく造られた者となった。新しくなったことを信じることだからです。この点についてパウロは、この聖句の直後に続けてこう記していきます。
「だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。これらはすべて神から出ています。神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに授けてくださいました。つまり、神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。」(Ⅱコリント5:17-19)
なぜ新しくなったのか。それは、19節で繰り返すように語っていますが、「神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことをなさらない」から。それが答えです。私たちが「わたしは罪のゆるしを信じます」と告白する。罪が赦されているということは、イコール罪の責任を問われなくなる、ということ。罪の責任が取り除かれるということなのです。
使徒信条の学びで何度か引用していますが、『ハイデルベルク信仰問答』の問い56がまさにこの点についての問答となっていますのでご紹介したいと思います。
問い:あなたは「罪の赦し」について何を信じますか。
答え:神はキリストの償いのゆえに、私のあらゆる罪、同様に、私が一生涯にわたって戦わなければならない罪深い本性も、もはや決して思い起こそうとはなさらず、むしろ恵みに基づいて、キリストの義を私たちに与え、もはや私が、決して裁きを受けないようにしてくださるということです。
考えてみれば、これは驚くべき恵み/アメイジング・グレイスなのではないでしょうか!これが神さまが私を見ていてくださる見方。キリストという礼服を着せていただいているのです。そして、このような赦しを、神が私たちにお与えくださった。そのことを伝えようと主イエスはこの譬えを語り、そのことを私たち一人一人の者とするために、十字架にかかり甦ってくださったのです。
私たちが、聖霊のお働きの中で、この恵みを味わい、この恵みに留まる時に、まさに主イエスが譬えを通して伝えたかった、恵みに応答する生き方が、私たちの心の内に芽生えて行くのではないでしょうか。
そのことで思い浮かぶのが、申命記に出てくるモーセがイスラエルの民に示した一つひとつの生き方です。出エジプトという救いの恵みの出来事を経験したイスラエルの民に対して、その恵みを忘れないように、いつも思い起こすように、その恵みに留まり続けるようにと説いた後、今度は彼らイスラエルの民に向かって、神の民とされた者にとってふさわしい生き方が、モーセを通して語られました。その中でも私が大好きなのが、申命記24章に出てくる、落穂拾いにかかわる教えの箇所です。作物を刈り入れする時に、自分の畑で実ったものを全部収穫してしまうようなことはするな、という教えです。
ぶどうの実を摘み取って、もう一回歩き直して、残っている房を全部集めるとか、麦の穂を刈り取った後に、まだ残っている穂があるならば、全部それを拾い集めて、「これは皆、私の物、誰にもあ げない」と言うよりも、落ちたら落ちたでよい、残ったら残ったでよい、いやむしろ、敢えて残すようにしなさい。何故なら、収穫する当てもなく、ここに生きているやもめたちや身寄りのない子どもたち、外国から来た寄留者たちのために、自分たちが収穫した後、「さあ、どうぞいらっしゃい、あなたがたの取り分はここにありますよ」と、言ってあげなさい、と教えるのです。そしてその一番の理由は、「あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が、あなたをそこから贖い出されたことを思い起こしなさい。それゆえ、私はあなたにこのことを行うように命じるのである。」(申命記24章18節)これが理由です。
私たちにとっては主の食卓を囲み、キリストの十字架の贖いを思い起こすことでもあり、そしてまさに、「わたしは罪のゆるしを信じます」と告白する私たちがあずかる恵みの生き方でもあるのです。

Ⅳ.赦しとは新しく造られた者として生きること

最後にもう一度、譬え話に戻りましょう。この家来の姿は、本当に神さまの赦しの愛を実感できていない時に生じる、私たちの姿そのものを示しています。
彼は仲間にお金を貸している。貸しているから、当然、返すように主張しておかしくない。つまり、そのことだけを切り取って考えるならば、彼の主張に誤りはないのです。ですから、常識的には誰もこの家来を非難することは出来ないことだと思います。
ただ、にもかかわらず、この家来がしていることはどこか間違っている、と私たちは感じる。それは何故か。それはすでに私たちの心の目に神さまとの関係という縦軸がはっきりと見えてしまっているからでしょう。だから彼の行動を、神との縦の関係に照らして、違和感を覚え、おかしいと思うのです。主イエス・キリストは「借金帳消し」をするために、十字架で死んでくださった。その犠牲によって、私たちは赦されているのです。
今日、この後、私たちも派遣の言葉をもって派遣されて行きますが、この生き方こそ、先行する赦し、先行する神の愛を知らなければ決して選び取れない生き方、神の愛にどっぷり浸っている者でなければ、生き得ない素晴らしい生き方でしょう。
力強い神が共におられ、神が守って下さるのだから、私たちは勇気を持つことが出来る。そして神ご自身が全ての善悪の決定的な基準ですから、そのお方の前に生きている者として、そしていつか、自分の人生の総括をそのお方の前でする者として、人が見ていても見ていなくても、私たちは、「いつも善を行う」ことを選び取るのです。
そして、そのお方が最終的に悪に報いられるわけですから、私たち自らの手で悪に報いる必要はありません。むしろ相手の益を求め、「気落ちしている者たちを励まし」、弱さを抱えている人たちの支えとなり、困難の中にある人を助け、すべての人を尊重するように。何故なら、私たち自身がすでに神さまから最大のリスペクトをいただいているわけですから。
私たちが「わたしは罪のゆるしを信じます」と告白する時に、まさにこのような徹底的な赦しを神さまが与えてくださっていることを心に留め、今度私たち自身が、その恵みをもって、周囲の方たちに愛をもって仕えていく者へと新しくされた者として生きていく。これこそが、「わたしは罪のゆるしを信じます」と告白する意味であることを覚え、主に感謝しつつ、この一週間を歩んでいきたいと願います。
お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

聖徒の交わり―使徒信条⑱

松本雅弘牧師
出エジプト記16章1節-12節
ローマの信徒への手紙12章1節―21節
2021年8月1日

Ⅰ.教会は「聖徒の交わり」、それとも「罪人の集まり」?

私たちクリスチャン生活のなかで、よく「躓く」という言葉があります。牧師に躓いた、教会員に躓いた。小会のやり方に躓いた。それが原因して教会の交わりから、礼拝から遠のいてしまう。残念ながらそうしたことが起こる現実があります。
そのような時、よく聞くのが、「牧師も人間だから」とか「教会は罪人の集まりだから」という言葉です。ただよくよく考えてみれば、これは真実の片側しか語っていない。もう片方の大切な側面を忘れた物の言い方であるように思います。
例えば、コリントの信徒への手紙の最初に、次のようなパウロの言葉が出てくるのをご存じでしょうか。
「コリントにある神の教会と、キリスト・イエスにあって聖なる者とされた人々、召された聖なる者たち、ならびに至るところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めるすべての人々へ。イエス・キリストは、この人たちと私たちの主です。」(1:2)
コリント教会の兄弟姉妹を指して、「聖なる者とされた人々、召された聖なる者たち」と呼んでいる。実は、この手紙を読みますと、コリント教会には様々な問題があったことが分かります。妬みから生じる教会員の間での紛糾、性的不道徳の問題、そして、起訴事件までありました。
ところがパウロは、問題だらけのコリント教会の人々に向かって、「コリントにある神の教会」、「聖なる者とされた人々、召された聖なる者たち」と呼んでいるのです。真心からそう呼び掛けている。何でパウロはそう呼べるのか。そうした問題意識を持って、そう呼ぶパウロの言葉を注意深く読むと、そこに一つのキーワードがあることに気づきます。それは、「キリスト・イエスにあって」という言葉です。
ある時主イエスは、一つの譬えを話されました。婚宴が準備されたのに招かれた人は誰も来ようとしない。最後に王は、家来たちに向かって、「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」と命じたというのです。一方的な恵みによって招かれるという話です。ただ、一つだけ条件があった。王様が用意した「礼服」でした。「キリストを着る」。キリストが礼服なのです。父なる神が自らの手で、私に着せてくださる礼服、それはメシア・イエス以外にない!主イエスはその礼服を用意するために、十字架にかかってくださった。
パウロは、様々な問題を抱えていたコリント教会の兄弟姉妹に向かって、あなたがたはキリストという礼服を着せていただいた者たちなのですよ、と自分自身が誰なのかに気づかせているのです。

Ⅱ.「聖徒の交わり」が持つ二つの側面

今日は「わたしは、聖徒の交わりを信じます」という告白を学んでおりますが、「聖徒の交わり」という言葉には二つの側面があると言われます。
一つは、私たちクリスチャン、教会員同士の横の交わり。そしてもう一つは、聖なる神との縦の交わりという側面です。つまり「聖徒の交わり」とは、生きて働かれる神さまのとの交わりに支えられているクリスチャンの相互の交わりということでしょう。
2001年、小会は、現在のKMO委員会と同じような委員会、コミュニティー教会委員会を作りました。小会、執事会、世代別会、委員会の代表者が集まってまずは現状をラベル分析しました。その結果を踏まえ、まとめたものが三つの「めざすもの」で、その一つ目のが「温かく小さな群れによって成長する契約共同体の実現」です。
ここで突然、「温かく」という言葉が出て来ます。ラベル分析をする中で、教会員数が増えたことは恵みなのだが、反面、温かい家庭的な雰囲気が失われてきたのではないか。そんな反省から出て来た言葉です。しかし教会が家庭的で温かであるとか、逆に冷たいとか、確かにそうした視点は大事なことですが、そこだけを見ているとするならば、やはり足りないのではないかと、最近思うことがあります。今日の使徒信条の告白によるならば、「わたしは聖徒の交わりを信じます」と告白する時に、私たち兄弟姉妹の横の交わりが「聖徒の交わり」であり続ける前提には、私たちが聖なる神さまとの縦の交わりに支えられている、生かされているという前提がどうしても必要です。
週報を見ますと、「温かく小さな群れによって成長する契約共同体の実現」の後に聖書箇所が書かれています。ヨハネ福音書13章34節と35節です。
「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」という主イエスの言葉です。
「互いに愛し合う」という「聖徒の交わり」が成立する前提に、「私があなたがたを愛したように」という主イエスの愛がしっかりとある。それが聖徒の交わりを支えるからです。ここを無視し、ただ横との交わりがどれだけ親しくなっていったとしても、教会が教会となっていくことから離れてしまう危険性は大いにあるのではないかと思うのです。
主イエスは、弟子たちを育てるために、主に二つのことをなさいました。一つは、主イエスとの縦の関係を培うために自分のそば近くに置くこと。もう一つは弟子たち同士の横の交わりを経験させることでした。今日の言葉で言えば「聖徒の交わりに生きる」ということでしょう。この二つが、クリスチャンの成長にとって不可欠だったので、主はそうなさったのでしょう。
ある日、律法学者が主イエスのところにやって来て、「私の隣人とは誰ですか」と質問して来たことがありました。それを受けて主イエスは『よきサマリヤ人の譬え話』を語られました。この出来事は、私たちにとても大切なことを教えているように思います。それは、実践がない、頭だけで信仰を捉えていこうとすると、結局、隣人が隣人でなくなる。すでに多くの隣人に囲まれて生きていたはずの律法学者の目には、神さまが置いておられる、そうした方々の存在が視野に入らない。ですから、「私の隣人とは誰ですか」と主イエスに問うてしまっている。
ですから主イエスは律法学者に向かって、「あなたがその人の隣人になりなさい」とチャレンジされたのです。弟子たちが、「聖書読みの聖書知らず」にならないために、具体的に兄弟姉妹を愛するように、具体的に御言葉に生きるように、初めから弟子たちを「聖徒の交わり」の中に置かれ、「私の隣人とは誰ですか」と、とぼけた質問をする必要がない状況のなかに弟子たちを置かれたのです。
そうした「聖徒の交わり」の中には、様々な個性の弟子たちが居ました。彼らの好みに任せたら、決して自分の方から友だちとして選ばないであろう者たちの交わりの輪の中に彼らを置いて、そこにおいて彼らの信仰を訓練なさった。
私たちに当てはめるならば、それが私たちの招かれた高座教会という聖徒の交わりです。そこには世代も違う方たちがおられます。そりが合わない人もいるでしょう。でも共に主を見あげ、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とチャレンジなさった、その「聖徒の交わり」が実現していく時に、神さまを知らない周囲の方たちにとって、証しとなる、伝道となる、とおっしゃるのです。

Ⅲ.救いの恵みに対する応答として「聖徒の交わり」

さて、今日のローマの信徒への手紙は、パウロがローマの教会に宛てて書いたもので、これから訪問したいと考えているローマの教会の兄弟姉妹に対して、ただ主イエス・キリストの十字架の贖いによってのみ、私たちは義とされる。それを信じることが何よりも大切。そうしたメッセージをローマの教会に向けて書いたのが、この手紙です。
そして、この12章では、11章まで説かれてきた、言わば、「キリストという礼服」を私たちに着せてくださるために、神さまは何をしてくださったのかを受けて、「こういうわけで」と、「キリストにある新しい生活」と説いていくのです。

Ⅳ.「聖徒の交わり」に生きる

15節に、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」とあります。これは、私たちが心から願う、人間らしい生き方なのではないでしょうか。でもなかなかできない。しかし私たちが神さまの愛に浸り続けていく時に、聖霊の働きの中で「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣」ける者たちに変えられていく。そしてそのような交わりが高座教会の中に形作られていく時に、「それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」と主イエスが約束してくださった、周囲の人々への証し、宣教する教会の姿として用いられていく。
「わたしは、聖徒の交わりを信じます」と告白する時に、このような恵みを心に覚えつつ、心から告白するものでありたいと願います。
お祈りします。