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主日共同の礼拝説教

主の名をみだりに唱えてはならない 第三戒

松本雅弘牧師
出エジプト記20章7節
ルカによる福音書19章1―10節
2021年10月10日

Ⅰ.はじめに

今日の第三戒に「主の名をみだりに唱えてはならない。主はその名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない」とあります。こうした言葉と直面すると、「主の名を唱える時は気を付けなくては…」、「いや、主の名はできるだけ口にしない方がいいらしい」と考えてしまうかもしれません。しかし一方、信仰生活を送る上でも「主の名」を口にしなければ話にならない現実もあります。そもそも、この第三戒は私たちにどのようなことを求めているのでしょうか。

Ⅱ. 神を愛するから戒めを守る

ところで、聖書は、「名はその名を持つ存在の本質を表す」と理解します。そうした中、今日の第三戒に、その神さまのお名前が、「主(ヤハウェ)」と示されていますが、この名は神さまの本質をどのように表しているのでしょう?
「ヤハウェ」というヘブライ語は、「存在」を意味する「ハーヤー」という言葉に由来すると言われます。「ハーヤー」は「存在する/在る/生成する」という意味の動詞です。そこから専門家たちは、神の名前は、「すべてを存在させるもの」という意味だと説明してきました。確かに天地万物の創造に際し、神さまは「光あれ」と言葉を発せられると光が存在しました。さらに光と闇をお分けになった後、「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた」と書かれていますように、被造物に名をお与えになりました。
また出エジプト記3章には、モーセが神のお名前について尋ねますと、神さまは、「私はいる、という者である」(3:14)とお答えになっています。ここから聖書学者は、「ヤハウェ」という固有名詞をお持ちの神は、「すべての生きものに生きよと命じる者」なのだと解釈しています。
そうした神さま、私たちを含め、全ての被造物の存在の根拠であるお方が十戒に先立って「私は主、あなたの神なのだ」と宣言しておられる。あなたを選び、「私とあなた」という人格的な恵みの契約関係に入れてくださった。そうした上で私たちに対し、「主の名をみだりに唱えてはならない」と戒めておられるということなのです。
ここに「みだりに唱える」、「みだりに」という言葉がありますが、調べてみますと、神さまの名前を繰り繰り返し、それも機械的に呪文のように唱える。それによって何をしようとするかと言えば、自分の願いを満足させるために、神を動かそうとする。そうした当時の異教的な習慣を暗示した言葉が「みだりに唱える」ことだと分かりました。とすると、第三戒でいましめられている罪は、第二戒の偶像を造る時の人間の思いと通じ合うところがあるのではないでしょうか。何故なら、ご人格のあるお方をモノのように扱う。こちらの都合で操るように、そのお名前を機械的に呪文のように唱える。これは、神さまに対して大変失礼な行為であり、ましてや救いにあずかった側の私たちにとっては最もふさわしくない、神さまとの関わり方でしょう。
第三戒で問題にされている罪、それは、第二戒のように、具体的な像を刻まなかったとしても、自分の思いを満足させるために、人格をお持ちの神を非人格的にモノ扱いする行為に他ならないということです。
地鎮祭を思い起こしたらよいかと思います。新しく家を建てる時、キリスト教では「起工式」という式を持たせていただきますが、一般には神道の儀式で「地を鎮める祭り」と書いて「地鎮祭」という式が行われます。建築工事に入る前に、その土地の神々に供え物をして宥めておかないと祟りがあると厄介なので、そうしたことが起こらないようにとお祓いをする。そのような慣習が日本にはあります。そっとしておく。余り関わりを持たない。神の名前は呼ばない方がいい。そうした非人格的な神理解から来る、言葉にならない恐れからでしょう。様々な儀式が行われるのです。

Ⅲ.「私とあなた」という関係に呼び出された恵み

しかし、十戒をお与えになった神さまはちがいます。「私は主、あなたの神。あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した」お方です。それゆえに、私たちを妬むほどに愛される神さまです。「光あれ」と言葉をもって存在を呼び出されるとともに、「私の僕ヤコブ、私が選んだイスラエルのために/私が呼んだ名を/あなたに名乗らせようとした」(イザヤ45:4)と御言葉にあるようなお方なのです。
幼稚園の子どもたちが礼拝で歌う賛美歌の一つに、「ひとりひとりの名を呼んで」という歌があります。「ひとりひとりの名を呼んで/愛してくださるイエスさま/どんなに小さな私でも/覚えてくださるイエスさま」
この歌詞を味わいつつ賛美する子どもに、「神さま、イエスさまってどういうお方ですか?」と尋ねたら、「それはね」と言って、「ひとりひとりの名を呼んで/愛してくださるイエスさま/どんなに小さな私でも/覚えてくださるイエスさまだよ」と答えてくれたら本当に幸いです。
そうです。私たちの神さまは呪文を唱えて操作できるお方ではありません。供え物をして宥めておかないと祟りがある、厄介なお方ではないのです。私たちをお造りになったがゆえに、私たちの本質にふさわしい名をもって、私たちを呼びだしてくださる、そして愛してくださるお方が、私たち神さまなのです。「私たちなしでは済ませることのできない」、そうした思いをもって、「私とあなた」という関係に私たちを呼びだしてくださる。考えてみれば、これは大変なこと、物凄い大きな恵みなのではないでしょうか。
この恵みに留まる続けることが信仰生活です。今ご一緒に学んでいる十戒も含め、「私とあなた」という、人格的な親しい交わりに生かされ続け、そのお方との絆が深められて行く中で、一つ一つの戒めは、まさに、そのお方が大事だから、異教の神々を信じる人たちがするように、神の名を使って非人格的な扱いを通して、自分の願いを満足させるような生き方はしないことを選び取っていくのではないでしょうか。あるいは、私たちの祈りが呪文のようにはなっていなかったとしても、聖書を通し、主イエスを通してご自身を示された神さまに向かっての祈りの言葉になっているかどうかを覚えながら祈る。何故なら、祈りとはそのお方に対する語りかけであると同時に、そのお方の御心を聞くための手段だからです。

Ⅳ.ザアカイの場合

今日の新約の朗読箇所にはザアカイが登場します。ある日、彼は、主イエスが自分の住むエリコの町にやって来ることを知ります。街道は群衆で膨れ上がり、背の低いザアカイは、一目でも見たい、見逃してはならないと思い、いちじく桑の木に登り、その到着を待つことにします。
一方主イエスは、街道を進む中、いちじく桑の木の下まで来ると足を止め、上を見上げ、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひ、あなたの家に泊まりたい!」と、ザアカイを見つけ、名前をお呼びになったというのです。この場面を想像しますと、何か心がワクワクしてきます。主イエスは、どんな声の調子で、どのような表情でザアカイを見上げ、声をおかけになったのでしょう?!
私たちもザアカイ同様、主イエスに見つけられ、呼び出され、「私とあなた」という生きた関係に招き入れられた者たち、そのような意味での救いにあずかっています。
ですから、自分の願いを満足させるために、「ものをぶつけたり、やかましい音を立てる」ように、御名を繰り返し機械的に、それも呪文のように唱えることで神さまを思い通りに動かす必要もない。何故なら、神さまは祈る前から私たちの必要をご存じですから。
ザアカイは、主イエスと出会い、人生に大きな変化が起こりました。主イエスとの出会いがきっかけとなり、それ以降の彼の人生の全てを変えてしまったと言っても過言ではないでしょう。一番大切だと思っていた財産に対する見方も一変してしまいます。ザアカイの心に他者を思いやる気持ちが芽生えてきたことを、ルカ福音書は伝えています。
主イエスは、「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」とおっしゃいました。主イエスはザアカイを「失われた者」と見ておられたのです。主イエスとザアカイとの出会いは、単に良い教師と会い、良い影響を与えられたというものではありません。「失われて」いたから、「捜して」もらったのです。
十戒を授かったイスラエルもザアカイと全く同じでしょう。「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」とご自身を現わされ、エジプトの隷属から、神さまを知らない世界から、「私とあなた」という親しい人格関係の中に呼び出してくださった。そのお方を愛するがゆえに、そのお方の尊い御名を機械的に、それも呪文のように唱え、そのお方を利用するようなことはできない。私たちは十戒を守ることを通して、そのお方への愛を表していきたいと願います。
お祈りします。

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妬む神 第二戒 ― 十戒

松本雅弘牧師
出エジプト記20章4-6節
ルカによる福音書10章25-28節
2021年10月3日

Ⅰ.はじめに

今日のこの第二戒は、比較的長々と語られていますが、ポイントは、「あなたは自分のために彫像を造ってはならない」ということです。そしてその理由は、「私は主、あなたの神、妬む神」だから、というのです。

Ⅱ.偶像礼拝

今日の箇所、出エジプト記20章を読み進めていき32章になると、そこに金の子牛を礼拝する事件が起こります。「出エジプト」という大きな恵みの体験をしたにもかかわらず、主なる神さまを捨て金の子牛の像を造り、それにひれ伏すイスラエルの民の姿が出て来ます。実は彼らは、こうした歩みをこの後ずっと繰り返していくのです。旧約聖書を見ますと、その彼らに対して主なる神は預言者を遣わし、「偶像を拝むな」というメッセージを伝え続けるという記録が出て来ます。それは裏を返せば、イスラエルの民がいかに偶像になびく民だったか、そして私たち人間がいかに偶像礼拝に陥り易い存在で、神さまの恵みを忘れやすい者なのかを物語っています。
今日の第二戒に、「あなたは自分のために彫像を造ってはならない。」とありますが、この言葉を注意して読みますと、ここで神さまは、単に「あなたは彫像を造ってはならない」と戒めるだけでなく、「あなたは自分のために彫像を造ってはならない」、「自分のために」という言葉を添えて戒めておられるのに気付きます。ここに偶像を生み出す根源的理由がはっきり示されているのです。「自分のため/私たちのため」です。自分に都合がいいから、自分に役に立つと思うから偶像を造る。そして本当に皮肉なのですが、その神が真の神さまかどうかは二の次なのです。
考えてみれば、この時すでにイスラエルの民は「出エジプト」という、とてつもない大きな恵みを経験していました。その救済の御業のおかげで自由が与えられ生かされている。そうしてくださったのが他の誰でもない、主なる神さまです。しかも「あなたの神」とありますように、「私とあなた」という人格的な関係の相手として選んでくださった。預言者ホセアはこれを結婚関係にたとえて語ります。そのように愛されているはずのイスラエルの民が、モーセがシナイ山で十戒や様々な教えをいただいている最中、山の麓にいて、「さあ、私たちに先立って進む神々を私たちのために造ってください」と懇願し、金の子牛の形の偶像を鋳て作り、それにひれ伏し、お祭り騒ぎに興じたのです。
ところで「偶像礼拝」と言われると心に浮かぶ聖書の箇所があります。イザヤ書44章にある預言者イザヤの言葉です。イザヤは痛烈な皮肉を込めて、偶像礼拝を非難しています。技術を尽くして立派な偶像を造る鍛冶屋や木工たちの無力さ、偶像そのものの無力さが語られています。14節には、「彼は杉を切り/松や樫の木を選んで/林の木々の中で育てる。また、月桂樹を植え、雨がそれを成長させる」とあります。杉は伐採し、松や樫の木は残しておいて育てる。さらに月桂樹は雨水の潤う場所を見つけてそこに植えるのです。このイザヤの言葉を見ますと、あくまでも「育てる」主語は「彼/人間」です。確かにコリントの第一の手紙3章6節などには、「私が植え、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させてくださったのは神です」とあって、聖書の理解によれば育て、成長させてくださる主体は神さまなのですが、この人にとっては、自分が育てたという意識ですから、育てた木は当然、自分のもの。自分のものですから、それをどう使おうが使う者の勝手となります。そのようにして、木を切って薪として暖を取り、またパンを焼く。体も暖まり腹も一杯になる。満足です。ところが、ふと〈何か足りない〉と思う。そうです。神が足りないのです。そこでどうしたかと言えば、薪にした後、残った木で神の像を造り、その前にひれ伏す。そして何と17節、「救ってください。あなたは私の神だから」と祈るというのです。
確かにここでイザヤは、ひれ伏し拝む人の姿を語っていますが、ただどうでしょう。心のどこかに、これは「自分が造ったもの」という思いがあったに違いない。心の片隅で「それは木に過ぎない、だって俺が造ったのだから」と思っているのです。そうした矛盾を抱えながら、「あなたは私の神、私たちのもの、そのように祀(まつ)ってあげるのだから、私たちの言うことを聞きなさい」と言うのです。

Ⅲ.願望の投影としての偶像

ところで、主イエスは山上の説教で、こんなことをお語りになりました。「祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。彼らは言葉数が多ければ、聞き入れられると思っている。彼らのまねをしてはならない」。(マタイ6:7―8)。
「異邦人」とは、主なる神さまと「私とあなた」の関係に入っていない人たち、信じていない人々を指す言葉です。ところが、そうした彼らも祈りを捧げている。しかもその祈りは「くどくどと述べる、言葉数が多い」と主はおっしゃるのです。
この点について、こんな思い出があります。クリスチャンになる前です。受験生だった頃、実家近くの「学問の神様」と言われる亀戸天神に行き御札を貰って帰って来ました。さっそくそれを部屋に貼り、朝晩、それに向かって手を合わせました。ところが受験が終わると、何が起こったかと言えば、御札に向かっての祈りがパッタリ止んでしまった。何故なら、私の側に願いがなくなってしまったからです。
旧約の預言者は、偶像は人間の側の「願望の投影」だと教える。たくさんの手を持つ千手観音は生きとし生けるものを漏らさずに救う、それ故、その手のひらに目が刻まれ、その目で悩み苦しむ者を見つけては手を差し伸べ救うのだそうです。私たちの側のニーズが多ければ多いほど、思いが強ければ強いほど、手の数も増えてくるのです。ですから偶像礼拝が危険なのは、私たち人間とは祈る対象、拝むものによって支配される傾向にあるからです。結局、自我の虜、願望の虜となり続けるからでしょう。何故なら、あがめる(拝する)ことと仕えることは深く関係しているからです。

Ⅳ.妬む神

今日の新約の朗読箇所をご覧ください。律法の専門家と主イエスとの間に交わされた問答が出て来ます。「律法には何と書いてあるか」と主イエスが質問しますと、律法の専門家は答えました。「『心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」。今日の第二戒、「あなたは自分のために彫像を造ってはならない」という戒めは、言い換えれば、「神さまを愛する」ということなのです。
十戒の冒頭で、「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」とご自身を現わされ、救いの御業に現わされた、その御方の愛を深く知れば知る程、本来、人間とは最も遠いお方が、「私とあなた」という最も近い関係に私たちを選ばれた。それは、そのお方と新郎・新婦のような間柄とされた私たちです。
私たちは、このようにしてくださった神さまを知れば知る程、今日の第二戒で、「私は主、あなたの神、妬む神である」とそう言われる、主の言葉の意味を理解することができるのではないでしょうか。
ある神学者が、この点についてこう語ります。「人間は神なくして済ますことがある。しかし、神は人間なくして済ますわけにはいられない方である」と。ルカ福音書15章を思い出していただきたい。あの放蕩息子の譬え話に出てくる父親は、息子を見つけたら、走り出すのです。子どものようです。そして言いました。「急いで、いちばん良い衣を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足には履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」と。主イエスは、これが真の神さまなのです、と語られます。「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」。私たちは神さまにとって、本当に大事な掛け替えのない存在とされました。ですから、その私たちの思いが、神ご自身に向かわず、自分が造った偶像に向かう時、妬まないわけにはいかないのです。それだけの激しさをもって私たちを愛し抜いておられるお方が、主なる神さまなのです。
出エジプト記20章6節に興味深い表現が出て来ます。「私を愛し、その戒めを守る者」。そうです。神を愛することはイコール、神の戒めを守ることだ、と。そのお方の言葉を大切にする。そのお方が傷つくことを私たちはしない。何故?そのお方を愛しているからです。神さまは私たちを選び、愛してくださっている。だからそのお方を神として私たちも生きていくのです。
お祈りします。

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君は一人じゃない ― 労働の意味

和田一郎副牧師
コヘレトの言葉 3章1~13節
テサロニケの信徒への手紙 3章6~15節

2021年9月26日

Ⅰ. 労働のはじまり

今日の聖書箇所は、働くことの大切さをパウロがテサロニケ教会の人々に向けて訴えている箇所です。10節の「働こうとしない者は、食べてはならない」という箇所から「働かざる者食うべからず」という諺を生みました。今は本屋さんに行くと若い人や、子ども向けにも働くことに関する本が並んでいますし、働く女性も増えています。コロナ禍になって1年半、働き方が大きく変わったという人も多いでしょう。今日は現代的な仕事の在り方にも焦点を向けて、労働の意味について考えていきたいと思います。

人間に与えられた最初の仕事というのは、神様が創造し「良かった」とされた世界を治めることでした。
「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ」(創世記1章28節)とあります。神様は被造物を治める働きを人間に委ねました。その仕事としてまずエデンの園を耕し園を守り、そして被造物に名前をつけるという働きがありました。そこで注目したいのが、神様は、それらを一人の人間だけに任せたのではなかったということです。男と女が造られ、初めから二人で仕事をするように命じられたのです。
天地創造の6日目に男が造られ、女が造られアダムとエバにこの地を治める仕事を与えたのです。ですから、仕事をすることは最初から一人ではなかった。「人が独りでいるのは良くない」と言われたように、労働においても一人では良くないので、共に働く助け手が最初から与えられたことを示しています。
わたしたちの仕事をよく見てみると、誰かの為になることが仕事として成立していることが分かります。どんな職業でも誰かの役にたっている、誰かの必要なものが世の中で仕事として成り立っています。天地創造の業の中でアダムの助け手としてエバが造られたように、神様が造られた地上のこの世界には、人と人とが助け合う仕組みとして仕事があると言えます。自分は自分ができることをして誰かの助けになる。人は独りでいるのは良くない、だから生きていくうえで必要な助け手が「仕事」を通して与えられているのです。
時々、「聖書には労働は罰として与えられたと書かれている」と言う人がいます。「あなたは生涯にわたり苦しんで食べ物を得ることになる」(創世記3章 17節)という聖書箇所を、罰として労働しなければならなくなったと理解しているようです。しかし、これはあくまでも労働に苦しみがともなってしまったことを意味しているので、決して罰として労働があるのではありません。「治めなさい」と人間に命じられているのは、あくまでも「祝福」として労働が与えられているのです。
やがて16世紀以降、宗教改革者たちは、職業に「calling」という言葉を用いて、与えられた仕事に励むことは信仰的な意味があると理解しました。今あるこの仕事は神様に与えられた天職だという考えです。さらに労働を通して神様の偉大さを証ししていくという考えが広がりました。ところが、産業革命による大量生産技術が進むと、工場ができて、歯車のような働きが始まって、仕事における宗教観は消えていきました。人間疎外、個人より組織、経済発展優先の構造が今現在も続いていると言えます。神様の計画に基づいた働き方の改革が必要です。人間らしさ、自分らしさを現わす仕事の在り方を考える必要があるのではないでしょうか。

Ⅱ. 自由意志で選んでいく

今日の聖書箇所でパウロは「誰からもパンをただでもらって食べたりしませんでしたし、誰にも負担をかけまいと、労苦し骨折って、夜も昼も働いたのです。」と熱心に働いたことを主張しています(3章8-9節)。
12人の使徒たちは、漁師や徴税人の仕事を捨ててイエス様との働きに専念しました。しかし、パウロはテント作りの仕事をしながら宣教活動をしました。どちらが神様の御心に相応しい働き方でしょうか?どちらも相応しいのです。なぜなら神様は人それぞれに自由な意志を与えて、自分にあった働き方を、自分で見つけることを望んでいるからです。自分の好き勝手にしていいという事ではありません。聖書に書かれている神様の御心の原則的なことを心に留めて、自分の意志で働き方を考えていくことを、神様は望んでいるのです。

Ⅲ. 父の仕事

私は子どもの頃、家の仕事を手伝っていました。父は会社務めを辞めて、職業訓練学校に通いタイルを貼る職人の仕事をはじめました。新築の家を建てる現場が仕事場でした。冬の寒さの中で作業したことなどをよく覚えています。父は個人事業主でしたが、現場に行く途中で建材屋さん等に寄りますし、建築現場に行くと壁紙を貼るクロス屋さん、電気屋、ペンキ屋や左官屋さんなど、他の職種の職人さんがいるのです。休憩時間になると現場の職人さんたちと、いろいろな会話がありました。それは父を通して垣間見た大人の世界でした。父は誰とでも親しく話しができる賜物があったようです。父の仕事を手伝うのが好きだったのは、自分が役に立っていると感じられましたし、学校では教えてくれない、大切な何かがあったからだと思います。結局、わたしは学校を卒業して会社務めを20年以上しました。しかし、父の仕事を手伝った経験は、自分の職業観や、仕事に貴賤はないという意識に繋がっていると思います。
そのタイル職人の仕事は減ってしまったと聞いています。タイルを使わない住宅が増えているようです。仕事って変わっていくのです。今ある仕事も将来AIにとって変わって無くなるかも知れないと言われます。その変化のスピードも速くなっているように思います。ですから、将来の仕事に不安を感じる若者が多いと思いますし、現役で働く以上、年齢がいくつになっても仕事は私たちの生き方に影響する重大な関心事です。

Ⅳ. 「働き方」は心に記されている

例えば、目の前に三つの仕事があるとします。どの仕事を選ぶのが神様の御心なのでしょうか?と祈るとします。しかし、三つとも神様の御心に適った仕事かも知れません。なぜなら神様の御心は一つとは限らないからです。神様の御心は究極的には一つと言えますが、人間の目の前にある選択においては、一つとは限りません。どれを選んでも神様は良しとされるかも知れない。つまり「どの仕事を選ぶか?」よりも「どんな働き方をするのか」というのが神様の関心事だということです。
神様が関心をもっておられる働き方、それは私たちの心に記されています。
ローマ書2章には「律法の命じる行いが、その心に記されている」(ローマ2:15)とあります。私たちの心には神様の律法が記されています。生まれる前から、神のかたちに造られた人の心に、神様の律法が心に記されています。神様の律法というのは第一に「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という戒め、第二に「隣人を自分のように愛しなさい」という二つのことに集約されます(マタイ福音書22章37‐39節)。これが心に記されています。
旧約聖書にある十戒の第1戒から第4戒は「心を尽くして神を愛すること」、第5戒から第10戒までの後半は「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に集約されていて、人間にとって最も相応しい生き方を示しています。人間にとって根源的な生き方がそこにあります。隣人との関係において、なぜ姦淫しないのでしょうか?それは、その人を愛するからです。なぜ殺さないのでしょうか?それは、その人を愛するからです。なぜ盗まないのでしょうか?それは、その人を愛するからです。なぜむさぼらないのでしょうか?それは、その人を愛するからです。ですから、この心に記された基本的な神の律法に従うならば、隣人の中にある神のかたちの尊厳を大切にして愛するということが、私たちの生き方です。
「どんな働き方をするのか」その時に考えたいことが、仕事は一人でするのではないということです。必ず誰かの支えがある、誰かとの信頼関係があって成り立つ、誰かの為にしているから頑張れる、どこかの誰かの役に立っているから続けられます。神様は、アダムとエバの二人で地上を治める働きを委ねました。それが神様の求めた仕事のあり方でした。隣人と共に働き、どこかにいる隣人の為に働く、そうして神様に応えていく、隣人と神様との関係が整った仕事、それが神様の御心に適った仕事と言えます。ですから、そのことが出来るのであれば、どんな仕事についても神様の御心に適っている、自分が自分らしく神様に与えられた賜物を生かせる仕事と言えるのです。
世の中も仕事も動いているのですから、終身雇用が全てではないでしょう。転職することも神様の御心かも知れません。失業する時もあるでしょう。その時も決して自分は一人ではない、神の家族がいて、人は生きているだけで価値がある、存在しているだけで価値があることを忘れないで欲しいと思うのです。そのことが分かって仕事に就いた時、きっと働く意義を見つけることができると思います。なぜなら自分と同じように、隣人一人ひとりにも価値があり、神様はその一人ひとりを愛していると気付けると思うのです。
今日は、働くということについて御言葉から神様の御心を分ち合いました。
エレミヤ書には次のような言葉が記されています。
「私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。もはや彼らは、隣人や兄弟の間で、『主を知れ』と言って教え合うことはない。小さな者から大きな者に至るまで、彼らは皆、私を知るからである」(エレミヤ書31章33-34節)
わたしたちの心に記された神の律法を回復してくださったのは、メシアなるイエス・キリストです。イエス様の十字架があってこそ、私たちは心に記された神様の御言葉を、より広く、より深く知ることができます。与えられた仕事を通して神の栄光を現わしていきましょう。お祈りをいたします。

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主日共同の礼拝説教 敬老感謝礼拝

私を強めてくださる方のお陰で―敬老感謝礼拝

松本雅弘牧師
イザヤ書46章3-4節
エフェソの信徒への手紙2章19-22節
2021年9月19日

Ⅰ.歳を重ねることの意味を聖書からとらえ直す

私たちは天国に向けての旅人、巡礼者同士です。お互いのペースで天国への旅をしています。決して歩く速さを競い合っているのではないのです。ゴールに着いて主と直接まみえる日を待ち望みつつ、そしてまた先に天に召された、愛する家族や親しい仲間たちとの再会を楽しみにしながら、巡礼の旅を味わい歩むのです。
そこには私たちにとって、もう一つの楽しみが待っています。ヨハネの黙示録を見ますと、ゴールにおいて、神は、私たちそれぞれに新しい名を用意して待っておられると書かれている御言葉があるのをご存じでしょうか。黙示録2章17節です。
「耳のある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。(次ですね)また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほか誰も知らない新しい名が記されている。」(黙示録2:17)
名前、それはその人にしか与えられないものです。アブラムにアブラハムという新しい名前、サウルにパウロという新しい名前が神さまに用意されたように、私のための名前、実は、巡礼の歩み、この地上でのクリスチャン生活は、その名にふさわしい正体へと信仰の成長をいただくためのプロセスでもあったでしょう。聖書によれば、私たちは最後の日に、新しい名をいただく。キリストに似た松本雅弘に変えられる。小石に記された新しい名をいただくということは、その名が表す新しい正体に変えられる、ということでしょう。
どんなに歳を重ねて、若い時のように体が言うことを聞かなくなってきたとしても、あるいは、様々な責任を若い者に譲り、具体的な働きが亡くなって行ったとしても、神に愛されている子としての私の身分は誰も取り去ることはできない。
聖書によるならば、私たちの価値とは、その人が何を持っているか、他人がその人を何と言っているかで決まるのではなく、一人ひとりは御子イエス・キリストの命と引き換えに神の子とされた尊い存在なので す。勿論、旅の最後には多少疲れも出て来ます。身体的な色々な部分も傷んでくるでしょう。しかし、最後、死を通して復活のキリストと同じように、新しい体に甦る時に、そこにあってすべてが新しくなることを覚えたいと思うのです。ですから、不都合なこと、それはもう少しの辛抱です。
私たち高座教会では、毎年この時期に、敬老感謝礼拝を捧げますが、歳を重ねることを聖書から、神さまの視点でとらえ直すことに敬老感謝礼拝の意義があるように思うのです。そして、敬愛する信仰の先輩、人生の先輩が、これからも健やかに、与えられた信仰の旅路をまっとうすることができるように、祝福を祈り求めることをしています。
今日、敬老感謝礼拝のために選びました聖書箇所から、神さまの目に映っている私たちの本質。自分が自分をどう評価しようと、神さまがあなたや私をどのような存在として愛しておられるのか、ということに焦点を絞って見ていきたいと思います。

Ⅱ.私たちは「聖なる者たちと同じ民」

19節をご覧ください。パウロはここで、あなたがたは「よそ者/外国人でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民である」と言いました。これは、キリストの十字架と復活を通して救いの恵みに与り、神の国の市民となった私たちが、もはや外国人専用の列ではなく、神の国の民の列に並ぶことが許され、「お帰りなさい。お疲れさま」と、無審査、無条件で神の国への入国が認められる存在とされたのだ、ということを言わんとしているのです。しかも、この地上にあって、すでに国籍を天に持つ者として、プライドを持って生きることが許されている。そして、もう一つ、「聖なる民」とあります。聖書で「聖なる」とは、「神さまのもの/神さまの所有になった」ということです。それが私たちです。

Ⅲ.神の家族、神の住まい

第2番目は何でしょうか。19節の続きを見ますと、そこでパウロは私たちのことを「神の家族の一員」と呼んでいます。
聖書が教える家族とは何でしょう。それは「ありのままの自分で居ていいところ」、何故なら、神さまが私たちをありのまま、そのままで受け入れ、愛してくださっているからです。色々な弱さや欠けを持ち、傷や痛みを抱える私たち一人ひとりの居場所、一人ひとりが大切にされる場、それが神の家族が集う教会という家庭。もっと言えば、面倒をかけたり、かけられたりすることが許されるところです。
「神の家族」には子どもも居るでしょう。若者たちも当然、居ます。働き盛りの現役世代、一線を退いたご高齢の兄弟姉妹。教会という神の家族は、そのような意味で、四世代ですから、各世代のニーズや興味関心も異なるでしょう。様々な意味で違う者同士の私たちが、教会の中でどのように交わるのか。そのことで、高座教会という「神の家族」の真価が問われているように思います。今、まさにKMOが取り組んでいる課題です。
そして3番目に、パウロはクリスチャンのこと、教会のことを「神の住まい」と呼んでいます。そして、その住まいの土台が、「使徒や預言者」、つまり新約と旧約からなる聖書が土台、さらに「隅の親石」が「キリスト・イエスご自身」だとパウロは教えています。
建物にとって土台は重要です。少なくとも次の2つの点で、そう言えます。第一に、土台が重要なのは、いざとなる時に物を言うから。そして第二に、土台は建物全体の将来を決定づけるから大事です。つまり土台を見れば、工事中の建物でも、完成時にどの程度の規模の建物になるのかを知ることが出来ます。
ところが、残念ながら、そんな大切な土台に私たちはあまり関心を払わないのですが、パウロは、「人目からは見えない隠された生活」、言い換えれば、「使徒や預言者」つまり、その人がどれだけ御言葉に根ざした生活の土台を持っているのかに注目し、なおかつ大事に考えています。
そして、「隅の親石」がキリストです。これは土台の角に置かれる大きなもので建物の方向性と大きさを左右する石です。その石がキリストですから、「ぶどうの木であるキリストと、どのような関係にあるか」が私たちの歩みの方向性、またその豊かさを、大きく左右するということでしょう。そして私たちは「神の住まい」です。神さまが私の心に、また私たちの交わりの中心に臨在しておられる。そのお方と共に生きる生活をどう楽しむのか、味わうのかが私たちクリスチャンに与えられた特権なのではないでしょうか。21節を見ますと、「神の住まい」という言葉に代わって「主の聖なる神殿」という表現が出て来ます。私たちは何者なのか。そうです!聖なる民、神の家族、そして聖霊が宿る神の住まいなのです。

Ⅳ.「心の目を開いてください」との祈り

最後になりますが、この時のパウロは、ローマの獄中にいました。ですから囚人です。しかも病を患っていた。肉体的にも精神的にも不自由を経験し、不満や不平を言い出したら切りがないような状況に置かれていたわけですが、不思議とパウロは不平や不満の塊ではなかったのです。なぜなのでしょう?結論から言えば、彼は囚人である以前に天に国籍がある神の国の市民であり、病人以前に神の家族に属する神の子としての誇りが心を支配していたからです。
神の子であり、神の民であり、神の住まいであることが、パウロにとっての第一義的アイデンティティ、囚人である以前に、そうした一つひとつのことが、全てに優先していたのです。この時、パウロは60歳を過ぎていたと言われます。当時、60歳というと、敬老のお祝いをされる年齢だったそうです。しかしパウロは、神さまの力を受けて霊的にみずみずしく若々しく、老人である以前に愛されている神の子、囚人である以前に神の恵みの全財産の相続者として生きていた。
私たちは年を重ねるにしたがって、様々な不自由を経験するでしょう。色々なところでの痛みや弱さを覚えます。ある人は頭角を現してきた若者を見て、自分が脅かされるような不安を経験するかもしれません。しかし、パウロと同じように、そうした1つひとつのことを、祈りを通して、神さまに委ねていきましょう。神さまが、私たちのことを心にかけていてくださるからです。
パウロは、エフェソの信徒への手紙の中で「心の目が照らされ、神の招きによる希望がどのようなものか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか、また、私たち信じる者に力強く働く神の力が、どれほど大きい物かを悟ることができますように。」(エフェソ1:18-19)と祈りましたように、何よりも神さまに心の目を照らしていただきたい。そしてこの恵みがいかに大きいものなのか、生活の中で味わいたいと思います。本日、敬老のお祝いを迎えられた御一人ひとりの上に主の祝福が豊かでありますようにとお祈り申し上げます。

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主日共同の礼拝説教

第一戒 決意の宣言 ― 十戒②

松本雅弘牧師
出エジプト記20章3節
マタイによる福音書22章35―40節
2021年9月12日

Ⅰ.十戒の二区分

ある日、ひとりの律法学者が主イエスのところにやって来て、「先生、律法の中で、どの戒めが最も重要でしょうか」と問うのに対して、「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ。」とお答えになりました。まさに十戒は、主イエスが語られた二つのこと、「神である主を愛すること」、そして「隣人を自分のように愛すること」、その二つを示していることが分かります。
このようにして、神さまとの関係という縦軸と、人間同士の横とのつながりという横軸とがしっかりと結び合うところに、私たち神の民とされた者が立つべき位置があることを、明確に示すのが、この十戒であると言えます。

Ⅱ.第一戒:「唯一神信仰」ではなく「拝一神信仰」を求める戒め

さて、主は第一の戒めでこう語られます。「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」これは2節の御言葉、「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」という宣言をもって、ご自身をあらわされた神さまが、イスラエルの民に向かって語られた最初の戒めの言葉です。
H.W.マロウ先生は『恵みの契約』で、出エジプトという奴隷状態からの解放の目的はイスラエルの民が神を礼拝する民として生きるということにあったと聖書から解き明かしています。それを踏まえて、第一戒を見ますと、この戒めは、「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」とご自身をあらわされた、ヤハウェなる神さまのみを礼拝するようにという「拝一神信仰」と取るべきである、と主張されるのが、以前YMCA主催の平和講演会でお話しくださった関田寛雄先生です。
確かに第一戒を唯一神信仰を求める戒めと捉えた場合、当然の帰結として、他宗教に対して排他的/非寛容になり、それがこの第一戒の中心メッセージなのだ、という理解になりかねない。しかし聖書に聴くならば、主なる神さまはそれとは正反対の御心を持ったお方であることが分かります。
前回、説教で触れた申命記を見ますと、落穂拾いにかかわる教え、穀物の収穫をする時に、自分の畑で実ったものを全部収穫してしまうようなことはするな、と教えています。収穫する当てもなく、ここに生きているやもめたちや身寄りのない子どもたち、外国から来た寄留者たちのために、自分たちが収穫した後、「さあ、どうぞいらっしゃい、あなたがたの取り分はここにありますよ」と、言ってあげなさい、と教えるのです。
聖書には、「名前は命」という考え方があり、名前はその名を持つ人の本質を表すと言われます。「ヤハウェ」というお名前を持つお方は、その名前が、「すべてを存在させ、すべての生きものに生きよと命じる者」という意味だとしたら正に申命記の教えに現わされた御心は、そのお名前と一致するわけです。名前と正体が一つになっているのです。
コロナ禍にあって、生活に行き詰まりを覚えておられる方が大勢います。生きるのが辛い、死にたいという声も届いて来ます。しかし聖書には、私たちの世界に「生きよ」と命じる声が実はいまも響いている。決してやむことなく聞こえて来る。
やもめたち、身寄りのない子どもたち、外国から来た寄留者たち、そこには他民族、他宗教の人たちも当然いたことでしょう。そうした人々をも含め、生きることを願い、「生きよ」とお命じになる。ですから、ある人の言葉を使うならば、ヤハウェなる聖書の神さまの御心とは、「生命を肯定する/共存・共生を願う御心」なのだ、というのです。確かに、旧約聖書の中などには、そう読めない個所もあります。しかし、その聖句の文脈、その行間を見ていくと、必ずと言ってよいほど、そこには神さまの痛みや悲しみ、嘆きがにじみ出てくると言われます。
こう考えますと、第一の戒め、「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」という戒めは、神は唯一である、神はお一人だということを中心に主張する「唯一神信仰」を求める戒めというよりも、むしろ「私とあなた」という関係へと招かれた神を礼拝するようにと求める、「拝一神信仰」を意味する戒めであると結論付けられると思うのです。そのように見て来ますと、5節の主なる神さまがご自身を「妬む神」だとおっしゃるのもうなずけるわけです。それは、主なる神さまが、イスラエルの民と、「私とあなた」という、いわば結婚関係を結ばれたからです。だとするならば、花嫁であるイスラエルの民を情熱的に愛するという、そうした主なる神とイスラエルの民という関係の中で、主なる神さまは「妬む神」であられる。こうしたことからも第一戒は、「拝一神信仰」を説いておられると考えて間違いない。
ご存じのように、この時、イスラエルの民が脱出したエジプトは多神教の地でした。そして今後遭遇するであろう、バビロニア、ギリシャもいずれも多神教の宗教文化を生み出していきます。それも極めて発達した宗教文化です。そうした中、主なる神さまは、エジプトや諸地域の神々に目を向けることなく、「私が主、私があなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者、私をおいてほかに神々があってはならない。私との関係に生きるように」。ここで、そう語っておられるのです。
宗教改革者のルターは、3節の、「私をおいてほかに」を「私と並べて」と訳しているそうです。神さまは、ご自身以外のものと「並べて」礼拝することを人間にゆるされませんでした。ホセア書1章2節などを見ますと、それは「淫行」を意味することだと、預言者は糾弾するほどです。父祖アブラハムへの契約を思い起こし、奴隷であったイスラエルの叫びを聞き、そしてエジプトから救出された、その恵みに踏み留まって生きるイスラエルにとって、救い主であるヤハウェに「並べて」拝する「神」など有りうるはずはないでしょう!この第一戒は、まさに、そうした神さまの愛のメッセージなのです。

Ⅲ.第一戒の目的―「ハイデルベルク信仰問答」から

「ハイデルベルク信仰問答」は、その第94の問答が、第一戒についての問答となっていて、「第一の戒めで、主は何を求めておられるのですか」という問いに続き、その「答え」において、「わたしは自分の魂の救いと祝福を失うことがないため」なのだ、と語っています。つまり、すでに救いと祝福がすでにもう私のものになっているのです。その前提で語っている。だから、すでにいただいている救いと祝福を失うことがないために、私たちは、「ただこの神だけを信頼し、できるかぎりの謙遜と忍耐をもって、この神だけに、あらゆる良きものを期待し、心底から神を愛し、畏れ、敬うこと」等々を求めていくのだ、と語るのです。
先週、何度もお話しましたが、律法がいつ与えられるかの順序が大事です。戒めを守ったので救われたのではありません。戒めを守った報いとして、「私とあなた」の関係に入ったのではなく、一方的な恵みによって、神さまが選んでくださった。主イエスも、「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)と語られました。そうしていただいたのが、この時のイスラエルの民であり、私たちなのです。そして、救われた私たちが、その恵みに応答する生き方、すでにいただいている救いと祝福を失わないために、この第一戒の「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」という律法が与えられているのです。

Ⅳ.主なる神の決意の宣言としての第一戒

先にご紹介した関田寛雄先生は、カール・バルトの次の言葉、「神はイエス・キリストにおいて永遠に人間と共にあることを決意された」。この言葉を引用し、「これ(バルトのこの言葉)が、第一戒の意味です」と語っておられました。
「神、我らと共にいる」とインマヌエルの神として、私たちと一緒に生きることを決意された。だから、「生きよ」とお命じになられる。それも永遠に私たちと共にあることを決意された。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。」と主イエスが語られているように、私たちは、その方から絶対に離れてはならない。「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」聖書の神さまは、人間との愛の関係性の中で存在しようと強く決意なさった。それは、私たちが救いと祝福に留まるためなのです。
お祈りします。