カテゴリー
主日共同の礼拝説教

真夜中の賛美

和田一郎副牧師
詩編32編1-7節
使徒言行録16章16-34節
2022年6月22日

Ⅰ. 使徒言行録について

今日の聖書箇所は使徒言行録です。使徒言行録を書いたルカは新約聖書の中で二つの書を書きました。第一巻はルカによる福音書、その続きとなる第二巻が使徒言行録です。ルカ福音書の主人公はイエス・キリスト、第二巻 使徒言行録の主人公は「聖霊」です。ペトロやパウロたちに聖霊が働きかけて、福音の広がりがエルサレムからローマへと広がっていきました。聖霊はまずエルサレムに教会を建てました。迫害を受けた教会が、聖霊によってエルサレムから世界へと働きを広げ、聖霊を受けたアンティオキア教会は、使徒パウロの働きを教会の中から外へと送り出し、宣教の働きがアジアのみならず、ヨーロッパへと広がっていく様子が描かれています。
今日の聖書箇所は、聖霊に促された使徒パウロが、いよいよヨーロッパに渡りフィリピという町で宣教の働きをしていた時の話しです。この16章の文章に「私たち」という言葉がでてきます。ここまではパウロたち一行のことを「彼らは」と表現してありました。しかし、この章から「私たち」となっている。つまりこの使徒言行録を書いたルカがパウロと出会って合流したのがこの16章であるとされているのです。今日の聖書箇所の少し前16章8節にトロアスという町に滞在したことが書かれています。ここでパウロとルカは出会い、行動を共にしたので今日の聖書箇所も「私たちは」と始まっていてルカもパウロと一緒にいたことが分かります。この二人の出会いが、やがて『ルカによる福音書』を書くことに繋がっていくわけですから運命の出会いと言っていいでしょう。パウロとルカを出合わせたのも聖霊の働きによるものです。

Ⅱ. 聖霊の働き

今日の聖書箇所はフィリピにおける聖霊の働きを見ることができます。16節「私たちは、祈りの場に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った」。ここに聖霊ではなくて、占いの霊がでてきます。占いの霊に取りつかれている女性が、幾日もパウロたちの後に付いてきて「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と、宣伝してくれるのです。宣伝してくれるのならいいじゃないかと思われるかも知れませんが、相手は占いの霊に取りつかれている女性です。それを聞く人はどう受けとめたでしょうか。その神は、ギリシャ神話の神とか他の神々とも、受け取れるからです。パウロは占いの霊の働きを見破って
いました。それはパウロに宿っている聖霊の存在に、この女性の中にいる占いの霊が反応していると分かっていたからです。
イエス様が宣教をされている時も、「ああ、ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」(ルカ4章34節)。と男に取りついていた悪霊が反応したことがあります。その時の悪霊と同じように、女性の中にいた占いの霊は、パウロの中にいる聖霊に反応して、パウロの後から付きまとったのです。パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言いました「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」。すると、悪霊は即座に彼女から出て行った。パウロは、女に言ったのではなくて、悪霊に対して言いました。パウロは、この女の叫びが、悪霊によるものであることを見抜いていたわけです。

Ⅲ. 真夜中の賛美

しかし、ここで一つ問題が起こりました。それは、この女が奴隷であり、主人たちはこの女の占いによって多くの収入を得ていたのです。彼らにとって、金もうけの源がいなくなってしまった。そこでパウロとシラスを捕らえて、高官たちに引き渡したのです。
22節「高官たちは、二人の衣服を剥ぎ取り、鞭で打つように命じた。そして、何度も鞭で打ってから二人を牢屋に入れ、看守に厳重に見張るように命じた」。
これは、勿論不当な扱いです。当時からユダヤ人に対する迫害があったようです。ユダヤ人は他の人達とは一緒に食事をしないといった閉鎖的に見られる文化をもっていましたから摩擦があったようです。高官たちは、パウロとシラスに弁明する機会も与えず、一方的に彼らを鞭打ちの刑にして牢に入れたのです。
二人はこの不当な扱いにさぞ悔しい思いや恨みをもったことでしょう。ところが、その晩パウロとシラスの牢から賛美の声が聞こえてきたのです。他の囚人たちは驚いたと思います。そして、思わず聞き入ってしまったのです。牢屋とは罪を犯した者が入れられる世の中からはじき出された人達がいる所です。牢の中の生活には、何かに感謝したり誰かを褒め称えるといったことはないのです。その牢でパウロとシラスは神をほめたたえていた。パウロとシラスは、神に向かって不満を言ったり、嘆いてもよかった。けれども、彼らは、真夜中の牢屋の中で神を賛美したのです。
二人はどんな思いでいたのでしょう。彼らは全く不当な扱いを受けました。想定外の出来事です。このような出来事には、神様が関わっていると思ったのでしょう。不思議な出来事には神様が関わっている。自分たちが鞭で打たれ、投獄されたことには、何らかの神のご計画があったに違いない。この出来事を通して、神様が何かを成そうとしておられることを信じる。この出来事には神様の何らかのご計画がある。きっと、すべてを益としてくださるに違いない。それに感謝、そして賛美。さらに、二人が歌う歌に他の囚人たちは「聞き入っていた」とあります。神をたたえる歌に、心が癒やされるような思いがしたのではないでしょうか。そうして囚人たちの心に変化が起こっていったのです。
歌には力があります。先日、うちの4歳の息子が動画で映画「サウンド オブ ミュージック」のドレミの歌を歌っているシーンを繰り返し見ていました。山々に囲まれた緑の草原で、歌を歌う主人公のマリア。この物語は暗い時代でした。ナチスドイツがオーストリアを併合して進駐してきた時でした。まさに真夜中の暗闇のような状況で、あの美しい歌の数々が歌われていたのです。映画の中で歌われた曲に「すべての山に登れClimb every mountain」という歌があります。「すべての山に登りなさい、すべての川を渡って、すべての虹を追いかけて、あなたの夢をつかむまで」という歌詞です。マリアがトラップ家から飛び出して、もといた修道院に戻って懺悔した時、修道院の院長がマリアを励ました歌です。私は「すべての山に登れ」とは、あの山もこの山も、くまなく山を登れという意味だと思っていました。しかし調べましたら、山があったら、「Every その都度」登りなさい。つまり人生は山もある、谷もある、山が来たらその都度、山に登りなさい、谷が来たらその都度、谷を渡りなさい。人生は止まらない、自分の愛を与え続けて、山を越えて、谷を越えなさい。という意味だと知りました。院長はそうして苦難にあったマリアに一歩踏み出すように励ましたのです。この歌は映画のラストシーンでも使われています。トラップ大佐と結婚し、子ども達の母親になったマリアと家族たちが、自由を求めて国境の山を越えるシーンです。戦争が忍び寄る暗闇のような中でマリアの愛は歌を通して家族を一つにしました。山を越えて、その先に希望があるというメッセージが伝わってきました。

Ⅳ. 「主イエスを信じなさい」

パウロとシラスの賛美にも希望がありました。鞭を打たれて牢獄に入れられた、それでも二人は前を向いて賛美していました。すると突然、大地震が起こります。そして、たちまち牢の戸がみな開き、すべての鎖が外れてしまうのです。この大地震で目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人が逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとしました。死んで責任を取ろうとしたのです。けれども、パウロは大声で叫びました。28節「自害してはいけない。私たちは皆ここにいる」鍵が開いているにもかかわらず、囚人たちは誰一人逃げていませんでした。なぜ、逃げなかったのだろうか。それは他の囚人たちがパウロとシラスの歌声に聞き入っていたので、神がパウロとシラスと共におられることが他の囚人たちにも分かったからです。二人が賛美する神様が真の神であると感じたのです。死のうとしていた看守は、震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出してこう言いました。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」。パウロの答えは明確です。「主イエスを信じなさい」。そうです。イエス・キリストこそ、私たちが信頼すべきお方です。全てのものは移り変わって行きますが、このお方は決して変わることがありません。「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ人への手紙13:8)
「主イエスを信じなさい」。イエス・キリストを信じるとは、いったいどういうことでしょうか?この看守はイエス様の姿を見ることはできません。それは私たちも同じです。そのイエス様を信じるとは何を意味するのでしょうか。それは、キリストが十字架で死なれたのは、私たちの為に死んでくださったと信じること。復活されたことで、私たちが永遠の命に預かることができると信じること。キリストは今も生きておられ、聖霊によって、私たちに苦難があったとしても、その先に最善の道へと導いてくださるということです。つまり、主イエスを信じるということは、自分とイエス様が今も関わりがある、救い主であることを信じるということです。自分とイエス様との関係が今も、しっかりあるからこそ、不当な扱いをされても、痛い思いをしても、それが高い山を登るような、深い谷を渡るようなことであってもイエス・キリストとの関係において、神様は最善を成してくださると信じることができるのです。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」(ヨハネ福音書16:33)
山があったら山をこつこつと登ろう、谷があったら一歩一歩渡って行こう、山も谷も、神様が成される最善の道への一部なのです。
苦しい時、試練に出会った時に神に感謝するのは難しいことです。そんな時、賛美歌が役に立つと思います。パウロとシラスも讃美歌を歌って励まし合っていました。ですから、なかなか感謝できない時は、まず讃美歌を歌うといいと思うのです。
苦しい時にこそ、神を賛美し感謝する。そうして、神様が何をなしてくださるかを期待していきましょう。
お祈りをいたします。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

ペトロの姑のいやし

饒平名丈神学生
歴代誌下15章1-8節
マルコによる福音書1章29-34節

2022年6月19日

Ⅰ.ペトロのしゅうとめのいやし

高座教会での神学生研修が4月に始まってから、2ヶ月が過ぎ、皆様には本当に温かく迎えていただき、また、お祈りに覚えていただきましたことを心から感謝申し上げます。高座教会にて研修させていただけることは本当に大きな恵みであり、将来に向けての良い備えの期間として神様から与えられた大切な時と思っております。
さて本日は、日毎の糧の聖書日課に従って、マルコによる福音書の1章29節から34節より学んでいきましょう。最初に、マルコによる福音書1章の全体像を見渡し、「ペトロのしゅうとめのいやし」の前の部分からどのようなことがおきていたかを確認しておきたいと思います。
主イエスはヨハネから洗礼をお受けになった後、故郷ガリラヤでの宣教を始め、「神の国が近づいた」こと、そして悔い改めるようにと教えます。最初に4人の漁師を弟子にするのですが、先ほど読んだ聖書の箇所に出てくるシモン(またはペトロ)は、この主イエスの最初の弟子となった人物でした。
主イエスは安息日に会堂で教えましたが、人々には権威ある教えとして驚きの念をもって受け取られていたようです。また、汚れた霊にとりつかれた人を癒し、これもまた神のみがなさることのできる不思議なわざとして人々は驚いたのです。こうして主イエスの評判はガリラヤ地方の隅々にまで広がった、と聖書は記しています。
さて、主イエスは会堂で教えられた後、一行はシモンとアンデレの家に行った、とあります。家の住人であるシモンとアンデレだけでなく、ヤコブとヨハネも一緒に行ったのですが、このシモンとアンデレの家は、会堂のすぐ近くにあったようです。ですから、推測するに、会堂での主イエスの教えに驚いた人々がその他にも大勢ついていったのではないかと思われます。
さて、マルコによる福音書のこの箇所を読むと私は疑問に思うことがあります。30節です。
「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。」
シモン・ペトロのしゅうとめとありますので、シモンには妻がいる、ということです。人々が主イエスにしゅうとめの病気を報告する前に、普通ならシモンの妻がおそるおそるシモンにお願いして主イエスに母親の病気の癒しを依頼するものではないかと思いました。さらに、そもそもシモンが弟子として招かれた時の様子を1章16節から18節からみてみましょう。
「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを通っていたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」
ここで注目したいのは、「二人はすぐに網を捨てて従った。」の部分です。仕事を捨て、家族と別れて主イエスに従ったのです。ヤコブとヨハネにいたっては、父ゼベダイと雇人たちを舟に残して主イエスに従っています。つまり、主イエスに従うことは仕事を捨てて、家族とも別れて従っていったという厳しいことであったと私は勝手に思い込んでおりました。残された家族の気もちなどは書かれていませんが、働き手を失った家族の痛手は、相当なものだったに違いありません。シモン・ペトロもまさか主イエスが自分の家に来て妻の母をいやしてくださるとは思いもよらぬことだったのではないでしょうか。ペトロのしゅうとめに目を留められた主イエスの行動は、弟子たちとその家族をも大切に扱い愛を示してくださるものでした。31節に次のようにあります。
「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は引き、彼女は一同に仕えた。」
まるでごく普通の日常生活の一部を描くようにこのいやしが説明されます。ここには働き手を失った家族からの文句などは聞こえてきません。主イエスがシモンのしゅうとめのそばに行って、手を取って起こされると、熱は引いて、彼女は食事の世話をするようになったというのは、なんだかほのぼの感さえ伝わってくるように思われました。家族というのは、私たちの身近な存在であり、日々の暮らしを共にする人々です。その人のいやしは、大きな安堵を本人は勿論、家族にももたらしたことでしょう。
しかしながら、このような日常を、マルコはなぜ記録に残したのでしょうか。

Ⅱ.主イエスの宣教といやし

マルコによる福音書1章32~34節をみてみますと、「夕方になって日が沈むと、人々は病人や悪霊に取りつかれた者を皆、御もとに連れて来た。町中の人が戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちを癒やし、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊がイエスを知っていたからである。」「夕方になって日が沈むと」とは安息日が終わるとすぐに、ということです。安息日にはやっていいことが限られていました。歩く距離も、病人をいやすことも、制限がありました。ですから、安息日が終わるのを人々が今か今かと待っていた様子がここからうかがえます。そして多くの病人や悪霊に取りつかれて苦しむ人が主イエスのもとに連れてこられたのです。主イエスは連れてこられた大勢の人たちをいやしました。この大勢の人々のなかには、主イエスの会堂での教えに感動した人々も含まれているでしょう。いやしのわざだけでなく、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というメッセージも主イエスは伝えたのではないでしょうか。プライベートな日常の生活のなかでおきた「ペトロのしゅうとめのいやし」ですが、体のいやしと同時に、福音のメッセージが主イエスに従う者たちの家族にまで広がり、その恵みが伝わっていったのではないかと思うのです。

Ⅲ.義理の父の受洗

少し自己紹介を兼ねて私自身のことをお話しさせてください。私は高校2年生の時に受洗しました。私の住んでいた那覇から30分ほどバスで行く浦添市というところにある沖縄キリストの教会というところでした。教会の近くには、実話に基づく戦争映画で有名になった「ハクソー・リッジ」という崖があります。この米国映画は、第二次大戦の沖縄戦で銃をとることを拒否しつつ、衛生兵として「ハクソー・リッジ」の戦いに参加した一人のクリスチャン、デズモンド・ドスの体験を描いています。沖縄戦では、実際に私の伯父は矢矧という駆逐艦で戦艦大和とともに海でなくなりました。伯母はひめゆり部隊の生き残りの一人です。戦争が如何に悲惨なものであるかは親戚や家族から聞かされ、近くの芋畑をちょっと掘るだけで、銃弾が出てくる、そのような場所自体が戦争の事実を示してくれました。
その戦争の悲惨さを後世に伝えるべき世代にありながら、私は金網の向うにある米軍住宅の緑の芝生が眩しくて、自分で努力さえすれば、あのような生活を手に入れることができる、だからアメリカ人に負けないように努力するのだと思っていました。それと同様に、信仰も自分で努力して、悪や罪と戦って得るものであると頭のどこかで考えていたのでしょう。受洗から約40年、表面的にはかろうじて教会生活を継続していましたが、信仰面ではうすっぺらなものでした。
このような信仰生活に変化が与えられたのは義理の父の受洗でした。銀行員であり、あるお寺で座禅会の会長までしていた義父でしたので、クリスチャンにはならないだろうと私は勝手に決めつけていました。しかし、病のために入院し、日々症状が悪化していく中、義父は亡くなる4カ月前に92歳で病床受洗しました。義父の受洗後、病室でともに聖書を読み、讃美歌を(小さな声で)歌い、祈る時が与えられたのです。義父の受洗は、まさに常に逃げ回っていた私を、再び主の十字架に立ち返えらせてくれました。再び主のまなざしを仰ぎ見るようにと、神様が用意してくださった悔い改めの時でした。主の御言葉に飢え渇き、御言葉が語られるのを待っている人が身近にいることに気づかない、愚かで怠惰な僕のような、その僕そのものの自分の半生を振り返らざるを得ない体験でした。
シモン・ペトロの場合はしゅうとめでしたが、今日の聖書箇所を読んで私はどうしても義理の父の魂のいやしと救いのことを考えざるを得ませんでした。私の沖縄の実の父は、私が25歳の時に亡くなりました。実の父とは十分に主イエスの福音のことを語り合うことが出来なかった後悔があります。しかし神様は不思議な導きにより、義理の父と福音を語る機会をくださったのです。それは義理の父の魂の救いだけでなく、私自身にとってもいやされ、救いを感謝し、主イエスに確かに従っていこうという決心をもたらす機会となりました。

Ⅳ.キリストに従う

私が高座教会で研修を始めて2ヶ月ほどの間、本当に驚いたことがあります。それは、何世代にもわたり信仰が継承されている方々がおられることです。私の40年もの会社員時代に出会った方々のなかには、昔教会に通ったことがある、親がクリスチャン、キリスト教主義の学校に通っていた、という方々がおられます。私は自分の親兄弟含めて、「かつて御言葉にふれたことがある。でも今は興味ない」という方々へ再び御言葉を伝えることへの困難さを覚え、祈るしかない場面に出会うことがあります。
主イエスはペトロのしゅうとめのいやしを通して、家族へ広がる愛を示してくださいました。ペトロのしゅうとめがその後どうなったかは記されておりません。しかし、ペトロの妻については、パウロ書簡であるコリントの信徒への手紙1の9章5節をみてみますと、「私たちには、他の使徒や主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。」「信者である妻を連れて歩く」とあり、ケファ(シモン・ペトロのこと)の妻はペトロと一緒に伝道旅行に付き添った可能性が示されています。なんと素晴らしいことでしょうか。
主のいやしのわざは、病などの肉体的ないやしだけでなく、より重要で大切なこと、すなわち「神の国」がすでに始まっているということ、今ここに、人々のあいだに、日常生活の只中に、主が共にいてくださること、そのことを告げ知らせ、新しい時代が始まっていることの証しでもあります。だから私たちも主に従う者として、「神の国」を家族にも、そして私たちの周囲にいる人々にも知らせていくのです。「シモン・ペトロのしゅうとめ」がいやしのあとすぐに立ち上がり、主から受けた恵みの応答として、主につかえ、一同をもてなしたように、私たちも主に応答し、ご奉仕させていただくのです。不思議な導きをもって、家族や私たちの周囲にいる一人一人を、その恵みのなかに主は招いておられるのです。主イエスはたしかに私たちに「悔い改め」を求めておられます。しかし、それは私たちを裁くためではなく、愛をもって、罪びとの罪を赦す神として、私たちに関わろうとしておられるのです。私たちが普段考える方法を超えて、不思議な導きをもって、家族や親しい者たちをもその恵みのなかに招いてくださるのです。
Amazing Grace! 驚くべき恵みに感謝しましょう。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

人となった神の言

松本雅弘牧師
ホセア書11章4-9節
ヨハネによる福音書1章14-18節
2022年6月12日

Ⅰ.「神のようになろう」

先週、私たちはペンテコステ礼拝を捧げました。説教でも触れましたが、ペンテコステの出来事を思い巡らす時に、私は創世記に出て来るバベルの塔の出来事、言葉が混乱した、あの出来事を思い出します。
あの時、人間は、「さあ、我々は町と塔を築こう。塔の頂は天に届くようにして、名を上げよう」と思い上がって計画を立てました。「名を上げよう」とは、言い換えれば、「神のようになろう」という思いです。その思いの実現のために、天に届くほど高い塔の建設にとりかかった。ところが、御覧になった神さまはそれをよしとされませんでした。神さまは人間の言葉を混乱させ、結果として塔の建設は中断してしまいます。
ヘブライ語の「バベル」とは「混乱」を意味する「バーラル」という言葉から来ていますが、現代でも、「神のようになろう」という人間の高慢が分断や対立をもたらし、混乱を巻き起こしています。
実は、「神のようになろう」という思いは、遡ると最初の人アダムとエバが善悪の木の実を取って食べた時、彼らの心を支配していた動機であることを聖書は伝えています。神さまから離れた人間の心は、「神のようになりたい」という思いが常に勝っていたのだと聖書は伝えています。

Ⅱ.「言は肉となって、私たちの間に宿った」

そうした中、ヨハネ福音書1章の14節には「言は肉となって、私たちの間に宿った」と語られています。ヨハネ福音書が伝えるクリスマスメッセージです。
高校生の時に手にしたトラクトに、「言は肉となって、私たちの間に宿った」という出来事は、例えてみるならば、人間が蟻になって蟻の世界に入って行くような出来事、いやそれ以上の出来事だと書かれていたことが、今でも心に残っています。
人間も蟻も神さまから見たら同じ被造物です。人間が蟻の姿をとって、いや、蟻になって、蟻のコミュニケーションの仕方で蟻と関わりを持たなければ、決してメッセージを伝達することができないように、天地万物の造り主である神が私たちを愛されたがゆえに、ご自分の愛する独り子、神ご自身であられるお方が人間の姿をとってくださった。それも一時的ではありません。あのクリスマス以降、永遠に人間の姿をとって私たちの只中に来てくださった。考えてみるならば、「言は肉となって、私たちの間に宿った」、神が人となるということは、言葉で言ってしまえば簡単かもしれませんが、それはとてつもなく大変なこと、大事件であったことだと思うのです。
ところで、使徒ヨハネによって、この福音書が書かれた当時、すでに主イエス・キリストは昇天し、この地上におられません。ペンテコステ、聖霊降臨の恵みにあずかった初代、古代の教会が、宣教の戦いを始めた時代です。そうした宣教の戦いの中で、「言は肉となって、私たちの間に宿った」、神が人となるという「受肉」の教理は、今でもそうですが、いや今以上に受け入れがたい教えだったようです。それを知る手掛かりのの一つが、使徒ヨハネの手紙に出て来ます。ヨハネは、「イエス・キリストが肉となって来られたことを告白する霊は、すべて神から出たものです」と記していますが、裏を返せば、手紙の受け取り手であった当時の教会の中にさえも、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しない人々、疑う人たちがいたということでしょう。
神は永遠なるお方。それゆえ決して絶えることがないお方。だからこそ当時は、そのようなお方は、決して滅ぶべき肉体をとらないと考えられていた。これは私たちの現代の常識にも通じることです。

Ⅲ.受肉されたお方は愛の神

確かに頭で考え導き出す時に、「言は肉となって、私たちの間に宿った」などとはあり得ない。永遠のお方が有限なる時間の中に入って来られたなどとは理屈に合わない、全能のお方が肉体を取るということは、様々な面で制限や制約を強いられるわけですから、そんなことはあり得ないと考えるのが普通でしょう。ところが、真の神は全知全能であられると共に、慈しみ深い愛のお方でもあった。ですから全能の御力を用いて、自らを低くして、人間の姿をとられたのだとヨハネは強調するのです。
ところで、昨日、結婚式を司式しました。そして先週は洗礼式がありました。私は結婚式、洗礼式を司式しながら、以前、ある牧師が、洗礼を受ける際の信仰の告白は結婚の誓約に似ている、と言った言葉を思い出していました。つまり「健やかな時も病む時も」とあるように、結婚の誓いというのは、調子のよい時だけではなく、どんな時にも相手に対する誠実さを保つ誓いでもあるからだ、ということでした。
旧約聖書によれば出エジプトの出来事の後、イスラエルの民はシナイ山において神と契約を結びます。正に結婚の誓約をするのです。神はイスラエルの民を「花嫁」と呼びます。そしてその結婚が守られ祝福されるようにと神は十戒を中心とする「律法」をお与えになりました。
ですから結婚という契約関係に入ったのは律法を守った結果ではありません。あくまでも律法は「神の民たるもの、主の花嫁はいかにあるべきか」を示すもの。特に私たちカンバーランド長老教会では、この契約関係を「恵み」と呼びます。
この恵みの契約関係と対照的なのが一般的な契約関係です。就職を例に考えてみると分かり易いと思います。就職で試用期間という時期を設けます。そしてよく働けることが分かったら本採用となる。イスラエルの民の場合は最初から本採用なのです。
実は、シナイ山において恵みの契約を結んだイスラエルの民は、「神の民たる者、主なる神の花嫁たる者はいかにあるべきか」を示す律法を、早々と破るという大事件が起こります。モーセの不在中に痺れを切らした民がアロンに、「自分たちを導く神々を作ってください」と詰め寄ったのです。その結果、アロンは民から金を集め、雄牛の像を作り祭壇まで築き、お祭り騒ぎを始めます。主なる神の花嫁であるイスラエルの民が、主なる神を捨てて、別の男性、金の子牛という偶像に走ってしまった。姦淫の罪を犯したのです。会社でしたらクビになっても当然のような大事件。しかしモーセの必死の執り成しによって彼らの命は助かり、結婚関係も解消されずに済んだのです。主は結ばれた恵みの契約を破棄されないのです。
実は、このことをよく表しているのが、今日の朗読箇所のホセア書の御言葉です。神の民が神に逆らい自滅の道を辿ろうとして行くのに対して、
「エフライムよ/どうしてあなたを引き渡すことができようか。/イスラエルよ/どうしてあなたを明け渡すことができようか。/どうしてアドマのようにあなたを引き渡し/ツェボイムのように扱うことができようか。/私の心は激しく揺さぶられ/憐れみで胸が熱くなる。」(8節)と言われるのです。まさに調子のよい時だけではなく、どんな時にも相手に対する誓いを神さまの側で守ってくださっている。これが神さまの愛、これを聖書は恵みの関係、恵みの契約関係に入れられているからだ、と教えるのです。
以前、ある神父がツィッターでつぶやいていました。「『絶対に救ってくれる神さま』のもとで、神の子であると信じる以外に、本当の安心なんてあるはずないでしょ?『いつかキレる親』だったら、本当の安心にならないじゃないですか。」まさに私たちの神は「いつかキレる親」でも「いつかキレる夫/伴侶」ではない。絶対に救ってくれる神さま、恵みの契約を決して破棄されないお方なのです。

Ⅳ.愛ゆえに払ってくださった犠牲

確かに旧約聖書を読みます時、花嫁イスラエルは繰り返し律法を破ります。あるいは私たち自身の今までの信仰生活を振り返ってみてもそうでしょう。神に対してすぐに罪を犯してしまう。しかし、にもかかわらず主なる神はペトロに対して、「七の七十倍まで赦しなさい」と自らが言われるお方であるがゆえに、彼らを、私たちを赦されるのです。最後の最後まで、自らが結んだ恵みの契約に誠実を尽くしてくださる。何と慈しみ深いお方なのでしょう!
ただ、そのことを可能とするために、決して忘れてはならないことがあります。主なる神がどれだけ心を痛めたか。犠牲を払ったか。贖いの血が流されたか。執り成しの祈りや労苦が捧げられたか。そうした一つひとつの労苦は新約に至り、「言は肉となって、私たちの間に宿った」。そうです。最終的には十字架の贖いにつながっていくのです。
人となった神の言。そのことによって私たちに救いをもたらしてくださったお方に心から感謝し、また御名をほめたたえたいと思うのです。
お祈りします。

カテゴリー
ペンテコステ礼拝 主日共同の礼拝説教

神さまから遣わされた助け主―ペンテコステを祝う

松本雅弘牧師
エゼキエル書37章1-14節
ヨハネによる福音書16章4b-15節
2022年6月5日

Ⅰ.ペンテコステは教会の誕生日

ペンテコステ、おめでとうございます。過ぎ越しの祭りから50日を数える「五旬祭」、ギリシャ語で「ペンテコステ」と呼ばれるお祭りの日に、主イエス・キリストの弟子たちの上に聖霊が降りました。使徒言行録第2章に、その日の出来事が次のように伝えられています。
「五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」(使徒2:1-3)まさに「視覚や聴覚など五感に感じられる経験として描かれて」います。そして続く4節に、「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。」
本当に奇妙で奇跡的な現象が起こりました。ただ注意すべきは、その不思議さよりも、使徒言行録は、「彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っている」とあるように、神の国の福音を語り始めた。そうです!ここから福音の宣教がスタートしたのです。そうです。ペンテコステは教会の誕生日なのです。

Ⅱ.神から遣わされる弁護者(助け主)

さて、今日、選びました聖書の箇所は、ヨハネ福音書16章4節後半からのところで、ここで主イエスは、ペンテコステの出来事、すなわち聖霊降臨の恵みの出来事を予告しておられることが分かります。実は、これが語られたのは、主イエスの十字架の前夜でした。場所は、最後の晩餐の席です。次の日に命を捧げるわけですから、この場面での主の言葉は、弟子たちにとっては「遺言」と言ってもよいような内容だったと思います。
ひとつ前の15章には有名な「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」という教えも出て来ますし、13章には「新しい戒め」としてクリスチャン同士が互いに愛し合うようにと勧められています。いずれにしても、受難週の木曜日の晩に語られたメッセージであったことが分かります。
さて、共におられたイエスさまが去って行かれるということは、彼らにとって大きな試練だったでしょう。しかしそれが「あなたがたのためになる」ことだ、と主イエスはおっしゃるのです。なぜなら、弁護者なる聖霊が送られるからでした。
では、聖霊なる神さまは具体的に何をしてくださるのでしょう。一言で言えば、聖霊を通して、私たちの罪が示され、神さまの御心が明らかにされていく。言い換えれば、私たちの証し、宣教を導くお方でもあるといことでしょう。

Ⅲ.約束された聖霊を待ち望む

聖霊は宣教を導く霊です。この宣教ということを考え、神の国の福音を、満遍なく世界の人々に伝える、ということを考えた場合、教育機関を作り人材育成を進めたり、インターネットを活用し個人的な接点を増やして伝道する方法を考えたり、多くの人たちとネットワークを組み、組織的な宣教の働きも可能でしょう。ところが、聖書を見ますと、イエスさまはそうしたことを一切なさらなかった。
イエスさまがなさったことは何か、と言えば「無学な普通の人」と呼ばれた元漁師の人たちと徹底的に生活を共にしたことでした。それによって彼らがイエスさまに似た者になることを求められたからです。そのために、どうしてもイエスさまと生活を共にし、イエスさまの御言葉によって直接養われる必要があったのです。しかし結果はどうだったか。イエスさまが心を砕いて訓練し生活を共にした結果、本当に素晴らしい弟子たちになったかと言えば、残念ならが必ずしもそうではなかったわけです。主イエスが十字架にお掛になった時に、一人残らず、主イエスを捨てて逃げてしまったのが12弟子たちです。これが三年にわたって主イエスと生活を共にした弟子たちの現実でした。
そうした現実を予測してお語りくださった約束の言葉が、今日のヨハネ福音書16章の御言葉であり、十字架、そして復活の後、この約束にもとづいてお語りくださった御言葉が、「エルサレムを離れず、私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」という使徒言行録1章4節に出てくる御言葉でした。そして、この「父の約束されたもの」というものこそが聖霊であり、今日の御言葉の6節と7節にありますように、「あなたがたの心は苦しみで満たされている。しかし、実を言うと、私が去って行くのは、あなたがたのためになる。」とは、信じた者と共にいて下さる聖霊なる神さまのことを指した約束の言葉なのです。
この後、弟子たちの歩み、そして初代教会の歩みを聖書の言葉から辿って行くとするならば、結局、弟子たちは約束の聖霊をいただくことによって変えられていった。そして幸いなことに私たちにも、この聖霊が与えられている。従って、私たちが祈り求めていくべき方向というのは、すでにいただいている聖霊が、私たちの内側に大きく広がっていく方向です。

Ⅳ.聖霊の命が拡がる方向を選んで生きる

ある時、イエスさまは、わざわざ遠回りをしてサマリアを通られることがありました。それは心がカラカラに渇いていた一人の女性を救いへと導くためでした。
この女性はイエスさまとの出会いを通して、そしてイエスさまが「私の与える水はその人の内で泉となって、永遠の命に至る水が湧き出る」と言われたことで、キリストとの関係が回復し、キリストと親しい交わりの中で、聖霊の満たしを受ける、という約束をいただいたのです。それがイエスさまの導き方、私たちを導くイエスさまのやり方なのです。
神さまとの関係が回復し、その神さまとの関係の中で私たちを祝福へと、つまり神さまのお働きに参与する私へと引き上げてくださる。ですから、信仰生活の入り口はまず、神さまとの生きた関係に招く、というところから始まるわけです。
アダムもエバもそうでした。アブラハムも、モーセも、ダビデも、イザヤも、エレミヤも、ペトロも、パウロも、みんなそうです。彼らから神さまを求めたのではありません。神さまが彼らを求めてくださったのです。イエスさまの方から「あなたは私に従いなさい」と招かれたのです。私たちの言葉で言えば、ぶどうの木であるイエスさまにつながるようにと、まず私たちをイエス・キリストの神さまとの愛の関係に招いてくださるのです。
祝福された信仰生活の大原則は「神さまのために何かしてやろう」ということから始まるのではありません。そのように始めると必ずエネルギー切れで疲れてしまいます。
あるいはまた、神さまに愛されるために「立派なクリスチャンにならなければ」という、あの放蕩息子のお兄さんのようなところから出発するわけではないのです。そのようなことは、決して長続きしません。必ず息切れしてしまいます。
そうではなく、まず神さまとの生きた親しい関係から入るのです。キリストが「ぶどうの木」であり、私たちは「その枝」だからです。「良い枝になってからつながりなさい」と主は決して言われませんでした。むしろ、「疲れている者、重荷を負って苦労している者は私のところに来なさい。私が休ませてあげよう」と言われたのです。そのままの枝の状態で、私のところに来て繋がりなさい。そうすれば、癒しという実をいただける、というのです。
いつもお話していることですが、最初は元気がないように見える枝でも、ちゃんとぶどうの木につながれば、この聖霊が樹液のように流れて、やがて命がみなぎり実を結ぶのです。つながれば、そうした結果になるのです。このことを実現するために聖霊が与えられることを約束した御言葉が、今日のヨハネ16章に出てくる御言葉なのです。
使徒言行録の初めに紹介されているエルサレムの教会は、本当に生き生きしていました。でも、最初からそうだったのではありません。彼らに聖霊が降り、彼らがぶどうの木であるイエスさまにつながり続けた結果、聖霊の樹液がいつも彼らに流れ拡がって行ったので、そうなったのです。
キリストの体である教会につながり、聖書を読み、祈ることを通してつながり、聖餐式を守り、礼拝することにおいてつながり、神さまを証しし、与った恵みを御心のとおりに管理することを通して、キリストにつながった結果、いただいた聖霊の命が体の隅々にまで浸透していった結果なのですね。そのようにして、キリストに堅くつながる枝とされていったのです。そこに「恵みの循環」があったからです。
私たちも同じ聖霊をいただいている教会として、この聖霊の命が拡がる方向を選び取りながら歩んで行きたいと願います。
お祈りします。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

天を見上げて

和田一郎副牧師
創世記15章1-6節
ヨハネ福音書17章1-5節
2022年5月29日

Ⅰ. 最後の晩餐で

今日の聖書箇所は、先週に続いて「最後の晩餐」の出来事です。イエス様は弟子たちとの最後の語らいの中で、いったい何を祈られたのか。この箇所を皆さんと見ていきたいと思います。

Ⅱ. 神の栄光

1節に「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」とあります。「時が来た」というのは、イエス様がこの世から、天の父のもとへ移る時が来たということです。翌日には十字架につけられて死ぬのです。そして復活して天に昇る、その時が来たということです。その時に「栄光を与えてください」とイエス様は祈りました。12章23節でも「人の子が栄光を受ける時が来た」と言っておられました。イエス様が、死んで復活されることは、人の子としてこの世を生きてこられたイエス様が、神の子としての栄光を受けるということです。
「あなたの子が、あなたの栄光を現すために、子に栄光を現してください」と祈ったのは、イエス様ご自身が栄光を受けることによって、私たちキリストを信じる者たちの救いが実現するからです。ですからイエス様が、自分のために祈っているように聞こえますが、私たちの救いを実現するための、ご自分の使命を果たすための祈りなのです。
栄光を現わすというのはいったい、どのような意味なのでしょうか。栄光について、4節で「私は、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」とあります。イエス様が地上で栄光を現わした出来事を、いくつか振り返ってみます。まずイエス様が誕生した時、羊飼いたちが夜空に見た「光」、これは「主の栄光が周りを照らした」(ルカ2:9)とあります。次いで、カナの婚礼の出来事で、樽に入った水を、ぶどう酒に変えた時「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」(ヨハネ福音書2:11)とありました。そして、もっとも強く栄光を現わしたのが、イエス様の十字架と復活です。復活の後エマオへの途上で弟子たちに「ああ、愚かで心が鈍く・・・信じられない者たち、メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか」(ルカ 24:25‐26)と言いました。「これらの苦しみを受けて、栄光に入る」つまり十字架の苦しみを受けて「栄光に入る」と示しました。そして、イエス様が神としての栄光を完全なものにするのは再臨の時です。イエス様は「・・・人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来る・・・」(マルコ8:38)と、再臨の時は、キリストが父の栄光に輝く時だと説明していました。
最初の羊飼いたちの反応を見ると、夜空の光を見て「恐れた」とあるのです。つまり「恐ろしくなるほど驚いた」のです。ある人が栄光が現れることを「神様は素晴らしい!と感動することだと説明していました。それらは、単なる奇跡ではなくて「神の素晴らしさ」が現わされているものを「神の栄光」としているのです。まさしく羊飼いは光を見て「神様は素晴らしい!」と感動して、家畜小屋のイエス様を見に行ったのです。水をブドウ酒に変えた業も「神の業とは素晴らしい」ですし、十字架の死と復活も「神様は素晴らしい」と感動し、驚き、恐れおののくほどの誉れ高い出来事が成されたのです。
神の栄光は、人にも現わされますし、自然の中にも神の栄光が現わされます。人が現わす愛や、芸術、勇気ある行動などの中に神の栄光を見ることができます(2コリント4:6)。自然の美しさの中にも神の栄光を見ることができます(詩編19:2)。それは、例えるなら、神の栄光を映し出す惑星のような輝きです。自分自身で輝く太陽のような恒星の輝きではなく、月のように太陽の光を反射させて輝く、惑星のような輝きが、人間や自然に現わされているのです。人間の素晴らしさ、自然の美しさ、それに驚き感動することは、言うなれば「神様は素晴らしい」と感動することであり、それが神の栄光なのです。イエス様は「私は、人からの栄光は受けない」(ヨハネ福音書5:41)と言われました。人からではない、父なる神の栄光を「子に栄光を与えてください」とイエス様は1節で祈りました。
2節「あなたは、すべての人を支配する権能を子にお与えになったからです。こうして、子が、あなたから賜ったすべての者に、永遠の命を与えることができるのです」と話されましたが、具体的にはすべての者に「永遠の命を与える」権能を与えたのです。これは聖書の中の聖書と言われるヨハネ福音書3章16節の「御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という言葉を完成するための権能です。

Ⅲ. キリストを知ること

3節には「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」とあって、永遠の命とは、キリストを知ることだと言うのです。
永遠の命というのは、死んだ後の話ではありません。今を生きる私たちが、キリストの栄光を反射した惑星のように輝きを放って生きることが永遠の命です。それは神様に与えられた、本来の自分らしい自分を生きることですし、キリストに似た者へと変えられていく生き方です。それが永遠の命でありキリストを知ることなのです。キリストを知るというのは、知識としてキリストを知るとか、聖書の勉強をするということだけではありません。
先週、エクササイズ修養会という黙想会がありました。その時の学びで次のようなものがありました。
パウロが、コリント教会の人々に「最も大切なこと」を手紙に託して伝えたのです(1コリント15:3-11)。それは「振り返ること」です。つまり「神様がこの自分に何をして下さったか」と振り返ることです。パウロはイエス様の十字架の死と復活、そして自分に働きを与えてくださったことを、立ち止まって、振り返ってみた時、「神の恵みによって、今の私があるのです」と言ったのです。これから先にやることではないのです。この自分に神様が成してくださった恵みを知ること、それが「最も大切なこと」なのだとパウロは言ったのですが、それこそが「キリストを知る」ことだと思いました。実は、その修養会に行くために東名高速道路を走っていてスピード違反で捕まってしまいました。自分としては周りとあまり変わらないスピードのつもりでした。しかし、それはあくまでも自分の感覚です。しかし、神様の視点からすれば「ちょっと待ちなさい」ペースを落として、立ち止まって振り返りなさいと言われたように思いました。そして修養会では、この自分に神様が成してくださった栄光を振り返ったのです。私は、パウロの言葉を借りれば「月足らずで生まれた」未熟なクリスチャンです。そのようなわたしに、イエス様はまさしく栄光を現わしてくださいました。キリストを知るとは、そういうことではないでしょうか。キリストが自分に成してくださった恵み。それを大切にすることが「キリストを知る」ということだと思うのです。

Ⅳ. 天を見上げる

ヨハネ福音書に戻りますが、これらの祈りを、イエス様は1節にあるように「天を見上げて言われた」とあります。イエス様は、天におられる父を見上げて、話しをするように祈っておられたのです。わたしたちが祈る時は下を向くことが多いのですが、イエス様の祈りは父との人格的関係を表していると思いました。
人と人とが、相手への信頼をもって話し合う時、相手に目を向けます。互いの存在、互いの人格を認め合いう事です。父なる神とイエス様の関係は、この天を見上げて祈る姿に現れていると思いました。

教会のAさんに、お孫さんとの辛かった思い出を聞きました。Aさんには息子さんと、その孫が二人いるそうです。息子さんの奥さんは事情があって居なくなり、別の女性が家にやって来て、姉妹と同じ敷地に4人で生活を始めたそうです。祖母にあたるAさんは孫を幼稚園に送ったりして子育てを手伝っていました。孫たちもお祖母ちゃんに懐いていたのですが、新しく来た嫁が自分達で育てるといって自由に会うことができなくなってしまった。しかし、新しい嫁には自分が生んだ子ではない二人の幼児を育てる気持ちがなかったのです。幼子の体にはアザができて、食事もしっかり与えられなくて痩せていたそうです。Aさんは孫たちの状況を見かねて警察や児童相談所とも相談し続けたのです。祖母には親権がありませんから自分ではどうにもできない。児童相談所とも相談して、遠方にある児童養護施設に預けることになったのです。ようやく空腹や虐待から逃れられた二人の兄弟ですが、Aさんとは会えない施設の環境は淋しい思いがあったのだと思います。Aさんは孫たちのことが、どうしても気がかりで、遠くにあるその施設に行ったのだそうです。しかし、児童相談所からは、決して会ってはいけない。遠くから様子を見るだけだと厳しく言われましたが、施設の祭りの日に出かけていって孫たち二人の様子を遠目に見ているだけでした。しかし、孫たちはお祖母ちゃんたちが来ているのを察したので、施設の保母さんと一緒に駅まで追いかけて来た。お祖母ちゃんに会いたい。しかし、Aさんは会ってしまったら、児童相談所から二度と会ってはいけないと言われるかも知れない。保母さんが「一目会ってください」と言われても、その一目会うことができなかった。
トイレの奥に閉じこもって「いいんです。いいんです」と言うしかなかったそうです。本当は目を合わせて会いたかった。目を合わせることと、遠くから眺めることとは大違いです。心を互いに向けること、相手がいて、わたしがいる。祈るということは、神がいて、わたしがいる。それぞれの存在を認めたところで交わされる会話が、神に祈るということです。イエス様は、父と目を合わすかのように天を見上げて祈ったのです。5節「父よ、世が造られる前に、私が御もとで持っていた栄光で、今、御前に私を輝かせてください」。天地創造という素晴らしい栄光が現わされた時の栄光で、今わたしを輝かせてください、とイエス様は祈りました。そして、わたしたちも、その栄光の輝きを、神様を見上げて、神様の御前で、わたしたちも輝かせていただきたいと思うのです。
人からではなく、周りからの栄光ではなく、天を見上げて神の栄光を放つ者として歩んでいきましょう。
お祈りをいたします。