カテゴリー
主日共同の礼拝説教

滅びを突き抜ける希望

松本雅弘牧師
マタイによる福音書24章32―51節
2020年8月9日

Ⅰ.天地は滅びる

ここで主イエスは「天地は滅びる」とはっきりとおっしゃるのです。その「天地」の中に被造物世界の一部である私たち人間も含まれる。でも私たち人間はなかなか自分たちが死ぬ、滅びるということを受けとめることが難しい。そこで主イエスは創世記のノアの出来事をお語りになります。ノアの物語を聞いて改めて気づかされることがあります。ノアは隠れて箱舟作りをしたのではなかったことです。森のど真ん中、その時代の人たちの目の前で箱舟作りに精を出したのです。ノアとあの時代の人々との違いはどこにあったのか。神の言葉に対する姿勢の違いにあったのではないか。神の言葉、それが警告であれ、約束であれ、そうした神がお語りになった御言葉を額面どおり真に受けるのか、それとも割り引いて聞こうとするのか、そうした御言葉への姿勢の違いにあったように思うのです。

Ⅱ.父なるお方と飲み食いの関係

ここで主イエスは責めておられるのではありません。あるいは「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしている」ことがいけないと脅しておられるのでもないのです。そうではなく、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」とおっしゃって、その日、その時は、父なる神だけが知っていて、しかもその神はあなたがたの父なるお方なのですよと語っておられることに注意したいのです。
思い出していただきたいのですが「祈ることを教えて下さい」と求める弟子たちに「天におられるわたしたちの父よ」と祈るように教えて下さいました。神を「父」と呼ぶことは当時は一般的ではありませんでした。そのような中で主イエスは「父」と呼ぶように教えて下さった。しかも元々天におられる、その父なる神の懐から来られた御子イエス御自身が、「そう呼びなさい」と教えてくださった。それが「父」という呼び方でした。
先週、15名の新しい神の家族が私たちの群れに加えられました。洗礼に備えカンバーランド長老教会の大切にしている幾つかの教理も聖書か

ら学びました。その1つが神と私たち人間の基本的関係が「親子の関係」という教えです。従来のウェストミンスター信仰告白では、神と人間との関係は法的な関係、この世界を神の律法が支配する「法廷」と見る世界観があったのに対し、私たちの教会は神と人間との本来的関係は「親と子」という親子関係であり、したがってこの世界は、「ホーム/家庭」なのだと告白します。その確かな証拠に、主イエス自らが神を指し「父」と呼ぶように教えてくださっているのです。しかも実際にお使いになった言葉は「アッバ」という、とっても砕けた呼び方、「お父さん/お父ちゃん」と呼びなさい、と言われるのです。主イエスは、そのお方に向かって、「日ごとの糧を今日、与えてください」。私の分だけ、少し広げて私の家族だけの糧ではありません。私たち人類に「日ごとの糧」をお与えくださいと祈るように教えて下さった。このように見て来ますと、「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしている」ことがいけないどころか、飲み食いする物を求めるようにと教えておられるのが、他でもない主イエス御自身だということなのです。
ですから、ここで主イエスは、飲み食いに意味がないとおっしゃっているのではないのです。飲み食いはとても大切です。めとること、嫁ぐことも大事なのです。ただ、その大切な日々の生活のなかでも、終わりの日が来ること、また私たち自身も土に帰る時がくることを忘れないようにと語っておられる。もっと言えば35節、これが今日の聖書箇所のキーワードですが、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」そうです。「わたしの言葉は決して滅びない」。このことを忘れないように。滅びることのない、この主イエス・キリストの言葉に生きるようにということなのです。

Ⅲ.「わたしの言葉は決して滅びない」

前回の説教で、私自身、大変ショックを受けた、「8割おじさん」こと、北大の西浦博教授の言葉をご紹介しました。「世界が壊れないといいがと真剣に心配している」という、その言葉にどこか頷いてしまう私を発見したのです。コロナ禍にある世界、自然災害に見舞われ、今日は長崎に原爆が投下され75年が過ぎた日でもありますが、正に主イエスが予告している世の終わりの様相を呈しているような印象を持つのです。そう言えば、子どもの頃、関東大震災級の大地震がいつかやってくる。いつやって来てもおかしくないと聞かされ、物凄い恐怖心を抱いたことがありました。そう聞かされ、また聞かされ続け、私にとってはすでに50年以上の月日が流れています。地震一つとっても、ある種の滅び、終わりのようなことを薄々感じていている。飲み食いの生活、いわば日常生活をしながら、私たちは心のどこかで、死を意識しているのではないでしょうか。実際、ここ2週間の間に3名の方たちの葬儀をさせていただきました。つい先日までお交わりのあった方たちです。
ですから、主イエスははっきりとおっしゃる。私たち人間を含め「天地は滅びる」のです。でもそれだけで終わらない。もう一つ決して忘れてはならない現実がある。それが35節の後半、「わたしの言葉は決して滅びない」ということなのです。滅びない、確かなものが残されている。それが「わたしの言葉」、御言葉の約束、御言葉に裏付けられた現実、それが私たち神を信じる者が拠って立つ、滅びを突き抜ける希望なのです。
「私たちにも祈ることを教えて下さい」と求める弟子たちに対して主は、「天におられるわたしたちの父よ」と祈るように教えて下さいました。そしてその時、「どうぞ、そうした日、世の終わりが来ませんように」ではなく、心から「御国が来ますように」と祈るようにと教えてくださっています。「御国が来ますように」と祈ることができるのは、「人の子」が来られる再臨の日に、主イエスにあって世界は真の喜びに満たされる、私たち一人一人もキリストに似た者として完成される、という約束の御言葉をいただいているからです。だからこそ、ルターが言うように、「明日、世の終わりが来ようとも、私は今日リンゴの木を植える」歩みを続けることができるのです。
私たちはボーっとしていると、天地が滅びることのみに心が向いてしまい、恐ろしさのあまり、「どうぞ、そうした日が来ませんように」としか祈れなくなります。他でもない、そうした私たちを滅びから守り、本当の意味で意義ある生涯を送れるようにと、主は御言葉を語り続けてくださる。滅びを恐れるのではなく、むしろ心を高く上げ、「御国が来ますように」と祈り、神さまからいただく日々において、「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、私は今日リンゴの木を植える」歩みを続けることができるように、そのためにこそ、主イエスは、決して滅びることのない、私たちを生かす御言葉を語り続けておられる。ですから、私たちは、それを聴き続けていくことが大切なのです。そしてそのことが、その日がいつ来ようとも、備えが出来ていることにつながる。

Ⅳ.滅びを突き抜ける希望

そうした備えることについての信仰者の姿勢について語るのが、32節からの「いちじくの木の教え」であり、45節から出てくる、「忠実な僕と悪い僕」の教えです。
最初、「いちじくの木の教え」ですが、ここで主イエスは、いちじくの木を観察し、そこに変化を観たならば、夏の近づいたことが分かる。同様に「これらのこと」、すなわち、この直前の31節まで語られた様々な終末の徴、終わりの日を示す徴を観たならば、「人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」と言われます。普通は、終わりの日の徴を観たなら怖くなるものです。でも信仰を持っている者たちは違うのです。何故なら近づいて来られるお方が「人の子」、主イエスだからだ、と言うのがその理由です。
主イエスの教えからすると、いまを生きる私たちも、聖書がいうところの「世の終わり/終末」に生かされています。天地は滅びるでしょう。しかし主イエスの希望の福音の言葉は滅びない。そして、終わりの日は完成の日、喜びの日だから。
ですから今週も私たちは、先輩のルターと共に、「明日、世の終わりが来ようとも、私は今日リンゴの木を植える」と告白しながら生きることが許されているのです。お祈りします。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

天の国のことを学ぶ

宮城献副牧師
出エジプト記3章7-12節 マタイによる福音書13章51-52節
2020年8月2日

Ⅰ.はじめに

この度、私が、高座教会での主日のご奉仕が最終日とのことで、説教奉仕のお役を仰せつかりました。皆さまの尊きお祈りとご支援によって支えられてきた者として、御言葉をお分かちする機会を与えられ、感謝しております。また、今日は、洗礼入会式も執り行われます。新しい神の家族が与えられる恵みに預かることも許され、感謝です。ただ、このようなコロナの状況にあって、高座教会の皆さまに、按手を迎えてのお礼を直接お伝えすることが出来なかったこと、また、直接お別れのご挨拶も出来ない方もおられ、心苦しく思っています。
けれど、神学教師に必要な資格取得のために、留学する決断を致しました。私は、教会に教職者として仕えながらも、神学教育・研究を通しても、教会に仕えていきたいとの志が与えられました。そして、その志に応えていきたいと示され、また神様から、様々な助けが与えられ、道が整えられ、9月から学びを始めることへ導かれていきました。

Ⅱ.学者とは:天の国の学者

さて、今日説教をさせて頂くにあたって、マタイの13:51-52の御言葉が与えられました。というのも、神学校時代に、私が、師事した指導教官の研究室の壁に、この御言葉が掛けられていたからです。研究室では、先生に指導を受けながら、歴史の教会を導いてきた、アウグスティヌス、アクィナス、ルター、カルヴァン、バルトといった教会の先人たちが、命を賭けて、語り、記してきた聖書の教えに心を傾けてきました。ただ要領も悪く、呑み込みの悪い私でしたが、先生は忍耐強く、真理を分かち合うために心を砕いてくれました。このような中で、私は、先人たちの言葉に心を傾け、聖書の教えという真理を分かち合う喜びを教えて頂きました。
そして、今日のマタイの御言葉に出会ったのです。51節で、イエス様は、「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」と聞いております。これらのこととは、前のページの13章1節以降の小見出しを見ていくと、様々なたとえが語られていることが分かります。ですので、イエス様が「これらのことがみな分かったか」という「これらのこと」とは、イエス様が語られた、たとえのことです。そして、イエス様は、それらの「たとえ」を通して、「天の国」について、語られています。ですから、イエス様は、これでもか、これでもかと、様々なたとえを通して、天の国について、教えられました。そして、その後「これらのことがみな分かったか」と、優しく、弟子たちに、彼らの理解を確認しています。愛をもって、イエス様は、弟子たちと、真理を分かち合っていたのです。
そして、弟子たちの理解を確認した後、52節の御言葉が続きます。「そこで、イエスは言われた。『だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。』」ここで、イエス様が、天の国を学んだ、弟子たちを「学者」と呼んでいることに、驚かされます。「学者」という、もともとの言葉は、他の箇所では、「律法学者」を指す言葉として、用いられています。当時の宗教的なリーダーで権威を持つ「律法学者」に該当する言葉が、当時の社会で蔑まれ、馬鹿にされてきた漁師や徴税人出身の弟子たちに向けて語られています。そうだとしますと、天の国を学んだ人とは、どんな人であっても「学者」なのだと、イエス様は、語っていることが分かります。ちょうど、このマタイの福音書の松本先生の講解説教を通して、私たちは、天の御国について、学んできました。ですので、不思議に思われるかもしれませんが、私たちも、皆、学者です。今日から神の家族の仲間に加わる方々も、受洗勉強会を通して、天の御国について、ともに学んできたのですから、天国学の学者です。そして、私のこれからの学びも、この延長線上にあるものだと受け止めております。
また、イエス様の御言葉を通して、天の国を学んだ学者と、律法学者との違いも分かります。イエス様は、学者とは、自分の倉から、食べ物を惜しみなく家族に与えて、養う一家の主人のようだと言うのです。自分が学び、培った真理を、自分の知的欲求を満たすためのものとして、一人占めしようとはしません。そうではなく、真理を分かち合うのです。一方、律法学者は「知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきた」(ルカ11:52)と語られています。律法学者は、培った知識を自分のために、利用していたのです。

Ⅲ.分かち合う真理:神の愛の支配

では、分かち合う真理の内容とは、どういったものでしょうか。イエス様は、学者が「新しいものと古いものを取り出す一家の主人のようだ」と語っています。新しいものと古いものとが、分かち合われる内容です。では、古いものと新しいものとは、何でしょうか。古いものとは、律法と預言者といった旧約聖書を通して、示されてきた神様の御心です。そして、新しいものとは、イエス様を通して示された神様の御心です。
ただ、ここで、注意が必要です。古いものと新しいものと聞きますと、その違いが強調されているように思えます。けれど、イエス様は、律法と預言書を完成するために、この世界に来たのだと語っています。つまり、旧約聖書を通して示されていた神様の御心を、イエス様は、完全に示された、ということです。ですので、古いものと新しいものとで示される、神様の御心は同じです。ただ、この神様の御心は、イエス様を通して、この世界に、完全に明らかにされたのです。
では、イエス様を通して示された御心とは、具体的に何か。それが、愛です。神様の愛です。聖書は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された、」と語っています。また、マタイによる福音書で、天の国とは、神様が支配されている、その領域のことを意味します。そして、イエス様は、宣教の初めに「天の国は近づいた」と宣べ伝えました。天の国が近づいたのですから、天の国の方から、この世界に近づいてきた、つまり、神様が、この世界を治めようとしている、ことをイエス様は語られています。けれど、イエス様は、ただ、言葉を語るだけではありません。神様が、この世界を支配されていることを実際に証されたのです。では、どうやって。それは、イエス様が、病気の人を癒し、貧しい人々にパンを与え、罪びとの友となり、神様の愛で、この世界を満たすことを通してです。ですので、悲しみや憎しみで支配されているように思えてしまう、この世界を、神様は、愛をもって治められることを、イエス様は、示されたのです。そして、この神様の愛のご支配という真理を分かち合う者が、天の国の学者なのです。
神学校の敬愛する先生のもとで、先人たちの言葉に心を傾けていくことで、真理を分かち合う喜びを教えられたとお話しました。そして、私は、この喜びを教えられた者として、神学教師の働きにも仕えていきたいとの志が与えられていったのです。けれど、そういった中で、教会に仕える中で、どのように、この志に応えていけるのかと思い悩む様になりました。そして、ついに、私は、この悩みを解消することが出来なくなっていました。こんな私は、献身者としての道、その全てを捨てるべきだとも思う様になりました。そして、全てのことに手がつかなくなり、生きる気力も失っていきました。
ちょうど、そのような時期、神学校のもう一人の恩師が、執筆中の注解書の資料を集めるために、リサーチアシスタントとしてお手伝いする機会を与えて下さいました。先生は、私が、悩み行き詰まっていることも、ご存知でした。ですが、私が資料を届けに参りますと、その注解書のことや研究なされている御言葉について、生き生きと分かち合って下さいました。今、振り返りますと、そのようなご指導や交わりを通して、私は、心からの慰めが与えられました。先生は、この世の誰とでも、友になられた、キリストの友情論をテーマに、新約聖書を研究されてきました。けれど、先生は、ただ研究するだけではなく、ご自身が学んでこられた神学に生きておられました。そして、行き詰まり、迷い、どうしようもなくなってしまった、この私とも友になって下さったのです。そうやって、イエス様が示された、神様の愛という真理を分かち合って下さったのです。そして、私自身、前を向いていく、一つのきっかけを頂きました。そして、教会に教職者として仕えながらも、神学教育・研究を通しても、教会に仕えていきたいとの思いが固められていきました。

Ⅳ.天の国の学者として

さて、先ほど申しあげましたように、今日は、洗礼・入会式がこの後に執り行われます。誠に感謝なことに、今回もそうですが、何回か、私は、若い学生たちと、洗礼に向かっての勉強会をリードする機会を頂きました。その中で、み言葉の解き明かしをした後に、若い学生たちが、み言葉の真理に出合った、その驚きを分かち合って下さる機会が度々ありました。その度に、私自身も教えられ、多くの励ましを頂いてきました。そして、今日、洗礼に与る方々は、ぜひ、これからも、天の国の真理に出合った喜びを、愛する家族や友に分かち合って頂きたいと思います。なぜなら、皆さまも、天の国の学者だからです。そして、この度、受洗する方々だけではありません。毎週、み言葉に預かり、神様の愛という真理を教えられた私たちも、天の国の学者として、その喜びを共に分かち合っていこうではありませんか。それでは、お祈り致します。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

キリストの恵み

和田一郎副牧師

ヨブ記19章25-26節
1テサロニケ5章28節
2020年7月26日

1、恵みに始まり、恵みに終わる

今日は、テサロニケの信徒への手紙一の最後の一節です。「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように」という祝福の御言葉から、「恵み」という言葉を中心にパウロの手紙を見ていきたいと思います。「恵み」という言葉はキリスト教の専門用語でもあります。日本語の辞書を見ると「めぐむこと」「なさけをかけること」とありました。哀れな人に対して、恵みを与えるといった心遣いとして使われます。聖書においても同じニュアンスで使われることもあるのですが、信仰的な使われ方においては、神から人へ与えられるということが前提になっています。「神から人へ与えられる恵み」です。
たとえば旧約聖書では、有名な詩編23編の最後の句でも「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う」とあり、恵みと慈しみが神から一方的に来ることを意味しています。しかし、新約聖書で使われるギリシャ語には、そのような神から一方的に受ける恵みといった概念の言葉がなかったようです。ギリシャ語では恵みのことを「カリス」といいます。それは当時「親切な」とか「感謝」と言ったニュアンスで一般的に使われていて、聖書の中でもそのように使われている箇所もあります。そのカリスという言葉に「神様から無条件で与えられるもの」「相手を分け隔てしないで、神様から一方的に与えられるもの」という信仰的な概念を加えたのが、使徒パウロと言われています。パウロはローマ書に次のように記しています。
「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマ書3章24節)。恵みというのはイエス様がいるからこそ与えられる、善い知らせ(福音)ですから、イエス・キリストそのものを表すと言っていいかも知れません。そして、神様から一方的に与えられるものです。何が一方的かというと、何か良い事をしたとか、捧げ物をしたとかは関係ない。善人であろうと悪人であろうと関係なく、ただ信仰さえあれば与えられるという良いものです。あのアブラハムがそうでした。アブラハムは何か良いことをしたのでもなく、ただ神の言葉を信じました。その信仰によって義とされた、それが大いなる恵みです。

2、テサロニケの信徒への手紙における恵み

このテサロニケ第一の手紙で「恵み」という言葉は2か所にしかありません。手紙の一番最後の箇所と、もう一つは1章の1節最初の箇所です。つまり、最初と最後に恵みという言葉が書かれ、恵みに始まり恵みに終わっている手紙です。この手紙においてパウロが言う「恵み」とは何でしょうか。
まず一つは、テサロニケの信徒たちが迫害に耐えて守ってきた「信仰」です。彼らがイエス様を信じる信仰をもっていること自体、特別な恵みでした。テサロニケの信徒の多くは異邦人でした。それはかつてあり得なかったことです。神の救いはユダヤ人だけ、割礼を受けて、律法を守るユダヤ人だけが救われるとされていました。しかし、そうではなく、すべての人々が救われることを神様は望んでおられる。そのことを教え、道を開いたのがイエス様であり、それがキリストの恵み福音です。キリストの恵みがなければテサロニケの人々が救いに与ることなどなかったのです。聖なる生活をしながら、再臨の希望を持てるようになったのです。この再臨の希望もまた、キリストを通して与えられた恵みです。キリストはまたこの地上に来られる、そして完成した神の国に生きることができます。これは大きな希望であり恵みです。

3、恵みという概念の完成者パウロ

先程、恵みというギリシャ語「カリス」の信仰的な概念を完成させたのがパウロだと話ました。福音書の中でも「恵み」という言葉はルカによる福音書で使われ始め、福音書の続編として書かれた使徒言行録の後半になって「イエスの恵みによって救われる」といった言葉が書かれます。ルカはパウロの伝道旅行に一緒に同行した人ですので、パウロの働きを支えながらパウロが語る「恵み」の意味を、福音の中心を示す言葉として理解していったのではないでしょうか。
さて、そのパウロはどのようにして「キリストの恵み」という概念をもっていったのでしょうか。パウロが書いたコリントの手紙には次のような言葉があります。
「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」(コリントの信徒への手紙一15章9-10)
これはパウロの実体験から証をしている言葉です。パウロはクリスチャンを迫害する人でした。12人の弟子達とは違って、イエス様と旅をした経験もありませんし、ペンテコステの出来事の時もその場にはいませんでした。しかし、パウロはダマスコという町に行く途上で復活したイエス様と出会ってしまって、すべてが変わったのです。それは突然起こったイエス様からの一方的な出来事でした。イエス様から異邦人へキリストの名を伝える使徒になるように示されましたが、そのような難しい使命をパウロは「今あるのは神の恵みだ」と言ったのです。諸外国の異邦人への伝道という苦労は並大抵のことではありませんでした。しかし、それも恵みとして働き「働いたのはもはや自分ではなく、神の恵みそのものが働いたのだ」と、告白するのです。自分を誇るのではなく、あくまでもキリストの恵みが自分の働きを成したのだと言うのです。そのように生きてきた経験から、福音の中心は「キリストの恵み」であると確信したのです。十字架で死んでしまったと思っていたナザレのイエス、そのイエス・キリストとダマスコの途上で会ってしまった。復活したイエス様と会ってしまった。その生けるキリストが自分の中で働いている。働いたのは、わたしと共にある神の恵みキリストなのだ。これがパウロの「キリストの恵み」に生きているという証しです。
パウロがこのように「キリストの恵み」について手紙で書き、行く町々で説教をしながら「恵み」という言葉がキリスト教会の大事なキーワードになっていったようです。
先ほど福音書のマタイ・マルコの福音書には「恵み」という言葉が使われていないと話ました。四つの福音書の中で最後に書かれたとされているヨハネによる福音書には「恵み」という言葉が、深遠な表現によってキリストそのものを言い表す言葉になっています。ヨハネによる福音書1章14-17節「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。・・・(16節)わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」
14節には「キリストは恵みと真理に満ちていた」とあります。神であられる方が、人となってわたしたちの間に住んでくださった。その方には、すべての人に与える救いがあり永遠に続く真理となる。キリストを通してそのことが成されるというのです。そして16節に「恵みの上に、更に恵みを受けた」とあります。旧約聖書の時代には律法が、神様から与えられた救いの手段でした。しかし、キリストによって律法という恵みの上にさらなる恵み、分け隔てせずすべての人が救われるという恵みが増し加えられた。律法の成就がキリストによって成されたのです。ヨハネによる福音書が書かれた頃には、福音の核心として「恵み」という言葉が記されています。

4、恵みをかぞえる

今日はテサロニケの信徒の手紙の最後の一節から、「キリストの恵み」について分ち合ってきました。恵みは神様から一方的に与えられるものだと言いました。しかし、選び取るのはわたしたちです。わたしたちは生活の中で自己中心であったり、人を妬んだり、批判をしたりすることを選ぶこともできます。普通に生活をしていれば、自己中心になってしまうのが自然なことでしょう。しかし、求められていることは、何を選び取りましたか?ということです。本来、目を向けなければならない、いつも降り注ぐキリストの恵みを受け取っているだろうか、それとも自己中心や批判することを選び取っていないだろうか。
パウロが勧める聖なる生活とは、恵みを選び取ることです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい、すべてのことに感謝しなさい」と、日々の恵みを選びとっていく生活をこの手紙で伝えています。
この手紙が恵みに始まり恵みの言葉で閉じられているように、一日の始まりが恵みで始まり、恵みで終わる信仰生活となるように、パウロはこの手紙の最後の一節で祈っています。「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように」
この「キリストの恵み」を受け取るのは、誰でもない、このわたしたちです。キリストの恵みは、その人の人生にも、その人の日々にも、一人一人に与えられています。自分に与えられた恵みを、誰かが受け取るのではなく、この自分で受け取っていきましょう。
お祈りをいたします。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

キリストの警告

松本雅弘牧師
マタイによる福音書24章15節―31節
2020年7月19日

Ⅰ.主イエスが語る終末

ここ数回に分けて主イエスの最後の教え、遺言とも呼ばれる教えに耳を傾けて来ました。主イエスが心を傾け、存在をかけてお語りになっていることとは、一言で言うとキリストの再臨です。「その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる」。
古代の教会では、この「人の子の徴」を「天に現れる十字架の徴」、十字架に磔になったイエス・キリストの姿が現れる、と理解していたと言われます。ゴルゴタの丘の小さな十字架ではなく、誰もがどこからでも見えるような巨大な十字架の徴が天に現れる。
「そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」とあるように、自分たちイエスを磔にしたことに気づくゆえに、それがどんなに恐ろしく、悲しむべきことなのかを改めて知らされるのだというのです。

Ⅱ.いつ起こるのか

さて「世の終わり」と聞く時、誰もが知りたくなるのは、「それがいったい、いつ来るのか」ということでしょう。主イエスの弟子たちもそうでした。この質問に対して主イエスは様々な徴についてお語りになりました。
偽キリストの出現、戦争の騒ぎやその噂、飢饉や地震などの自然災害。教会への迫害は、教会内部での争い。そして根底に、人々のうちに愛が冷えることが特徴だとお語りになったのです。今日の箇所でも大きな苦難や偽メシア/偽預言者の出現についても話されました。ただ最終的には弟子たちのこの質問に対し主は「知らない」と答えておられる。「わたしも、他の誰も知らない。ただ父なる神だけがご存じなのだ」とだけおっしゃったのです。つまり、分からなくて当然。神さまの領域に属することだからです。
神は意地悪なお方ではなく、慈しみ深い父なる神さまなのだという信頼があるところに、先々のことを委ねる信仰も湧いてきますが、しかし信頼がないところで、「わたしも、他の誰も知らない。ただ父なる神だけがご存じなのだ」とだけ言われると、不安しか心に生じないということも起こるかもしれません。

Ⅲ.終末の現実

そのような人々の典型がテサロニケ教会の兄弟姉妹でした。世の終わりというプレッシャーのなか、ある極端に動いてしまった。具体的には、すぐ終わりの日が来るからと言って仕事を放り出してしまったのです。
ですからパウロは、「わたしが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう」(Ⅰテサロニケ4:11)と勧めるのです。
確かに主イエスがいつ戻って来られるのか分かりません。明日かもしれませんし、ずっと先かもしれない。ただ確かなことは、主イエスは再び来てくださる、そして主をお送りくださる神は、慈しみ深い父なる神だ、ということです。だから信頼して「目を覚ましていなさい」と主は語られるのです。
主イエスの教えからすれば、21世紀に生きる私たちも「世の終わり/終末」に生かされています。終末を生きる神の民の生き方について、宗教改革者のマルチン・ルターは、「明日、世の終わりが来ようとも、私は今日リンゴの木を植える」と語ったと言われます。
命の方、希望の方を選び取っていく生き方です。終わりの日を見据え、今という時を、心を込めて生きていく。それも破滅の道ではなく、命の道。戦いの道ではなく、平和の道。対立ではなく、共存の道。子どもっぽい道ではなく、大人としての道を選び取っていく生き方が、神を信じる私たちの生き方だと語ったのです。
先週、教会員からYouTubeのリンクが送られてきました。北大の西浦博教授と京大の山中伸弥教授との記念対談、その後の質疑応答の動画でした。正直、視聴して身の引き締まる思いにさせられました。対談の後、西浦教授の言葉が心に残りました。
「純粋に、学者として言うならば、あまり明るい希望は抱けない。今後、流行を繰り返しながら(ウイルスの)弱毒化するか否かを観察し続ける」「野球でたとえれば2回表のウイルスの攻撃といったところで、まだこんな回が残っているのかという現実に対峙していかなければならない」「世界が壊れないといいがと真剣に心配している」。改めて〈これが現実なのだ…〉と溜息が出ました。深刻な状況に立たされている。まさにマタイ24章で予告されていることが、私たちの身の回りで現実に起こっているかのようです。
こうした中、「どうぞ、そうした日が来ませんように」ではなく、心から「御国が来ますように」と祈れるのか。「明日、世の終わりが来ようとも、私は今日リンゴの木を植える」歩みができるのか、ということでしょう。
先週の説教で、「御国が来ますように」と祈れるのは、再臨の日にキリストにあって世界は真の喜びに満たされるからだと結びました。では、そもそも主イエスが実現しようとなさる「神の国/神の国のビジョン」とは何だったのでしょうか。

Ⅳ.神の国のビジョンに生きる―「御国を来たらせたまえ」と祈りつつ

思い出していただきたいのですが、主イエスは、ヨハネから洗礼を受け、その後、悪魔の試みを受けたのちに、ガリラヤに戻り宣教を始められました。お育ちになったナザレにまず行かれ説教なさった。いわゆる「就任説教」です。
ナザレの会堂に入ると渡されたイザヤ書の言葉を読み終え、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言なさった。つまりここに書かれたことを行うために私はメシアとなったと語られた。
「主の恵みの年」とは50年ごとのヨベルの年のことです。当然ですが50年も経てば経済的な格差が生じます。ヨベルの年とは50年ごとのリセットの恵みです。借金の帳消し、土地の返還、奴隷の解放が起こる。但し、ここで問題になるのは貧しい側の人々にとっては恵みの年なのですが、逆に富んでいる側の人々にとっては恵みでも何でもない。ですから、旧約学者の間では、実際にヨベルの年が行われたかどうかについては分からない、むしろ疑わしいとされています。
ただ大切なことは主イエスがもたらす福音によって実現しようとなさった神の国のイメージが、このヨベルの年にあらわされているという点です。でも現実はどうだったかと言えば、故郷ナザレの人々はイエスとそのお方の語る神の国の福音を受け入れることができず、イエスに対して憤慨し殺そうとさえしたのです。つまり「主の恵みの年」に現わされた神の国の恵みは当時のユダヤ人にとっては面白くない恵みであったということです。私たち人間は既得権を放棄しにくいからです。
私たち教会が、2千年の間、「御国が来ますように」と祈り求めている神の国はこのような神の御心が満ち満ちている。神の無条件の愛に満たされている。でも、それを主イエスの生き方を通して実際に見せていただき、主イエスから語り聞かされるとき、私たちはどう反応するのだろうか。
思い出したいのですが、「天の国はこのようなものである」と言ってお語りになった、あの「ぶどう園の譬え」でも、最後に1時間しか働かなかった、いや色々な理由で働けなかった労働者に最初に賃金を渡す主人の行動が理不尽だと違和感を覚えてしまう。しかし、それが神の国だと主イエスはおっしゃるのです。こうした神の無条件の愛を受け取ることは、結構難しい。生き方の変更をも迫るからです。自分がしがみついているもの、自分の捕われや自己中心的なものを変えて分かち合い、愛に生きる者へとなっていくかどうか。そのことによって私たちは癒されていく。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く者が本来の姿だからです。
パウロはローマ書のなかで、キリストにあって私たちがどのような者とされたのかと説いてきた後、12章に入り、神の国に生きる、神の国を先取りした生き方を説かれたのです。
聖書が説く、イエスが模範を示された神の国の市民としての生き方は、実は私たちの心深くに、本当に憧れる、真に人間らしい生き方なのではないでしょうか。終わりの日を見据え、今という時を、心を込めて生きていく。それも破滅の道ではなく、命の道。戦いの道ではなく、平和の道。対立ではなく、共存の道。子どもっぽい道ではなく、大人としての道を選び取っていくことだと思うのです。その手助けのために、いやその実現のために主イエスは来られ、そして再び来られるからです。お祈りします。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

耐え忍ぶことと待ち望むこと

松本雅弘牧師
マタイによる福音書24章1―14節
2020年7月12日

Ⅰ.弟子たちに対して明かされた秘密

先々週から九州全域に大雨のよる大変な自然災害が起こりました。大勢の人たちが命を落としたことでした。さらに首都圏を中心に新型コロナ感染者数が再び増加になりました。今日の聖書の箇所を見ますと、戦争の騒ぎや噂に加え、飢饉や地震などの自然災害のことも出ています。ところで今日の箇所は「福音書のなかの黙示録」と呼ばれる箇所です。黙示とは秘密が明らかにされることを意味します。1節を見ますと、神殿の境内を出て弟子たちだけになったところで、その彼らに対し秘密が明かされたのです。

Ⅱ.神殿の崩壊と終末

そうした主イエスの黙示を引き出すきっかけになったのが「神殿を指さす」弟子たちの行動でした。「主よ、よく見てください。よく御覧になってください」と注意を促したのです。それだけ神殿が弟子たちの心をとらえていた。
実は弟子たちのそうした行動には伏線がありました。直前にお語りになった主イエスの言葉、「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」という言葉です。「お前たちの家」とは神殿のことです。ですから主イエスが神殿の境内を出て行かれた、その時、「見捨てられる」と主イエスの言われた神殿をまじまじと見ながら、〈こんな立派な神殿なのに、本当にそうなの?!〉という思いを込めて、主イエスに神殿の建物を指さし、注意を促したのだと思うのです。ところが止めをさすように、「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と神殿をさして言われた。目の前にそびえ立つ神殿の立派な姿からしたら想像できない出来事だったのではないかと思います。
その思いを引きずったまま、主イエスと弟子たちはオリーブ山に行きました。弟子たちからしてみたら境内で聞いたことが気になって仕方がなかったのでしょう。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」と彼らは尋ねたのです。この時の弟子たちにとって神殿の崩壊イコール、世界の崩壊、世の終わりを意味していたからです。

Ⅲ.世の終わりの徴

ところで、3節にある弟子たちの質問に気になる言葉があります。弟子たちは、「世の終わるとき」のことを「あなたが来られて世の終わるとき」と、「あなたが来られて」という言葉を添えているのです。つまり弟子たちは、主イエスの再臨を「世の終わり」と受けとめていたということなのです。
一般に「世の終わり」と聞けば、もうお終いと理解するものでしょう。希望も何もない破滅のような状況を思い浮かべます。ところが聖書の終末理解はそうではありません。世の終わりとは完成の時、そのために主イエスが来てくださる、という世の終わりです。これは大切な点です。これ以降の主イエスの言葉は、このような終末理解を前提に語られている。
だからこそ主は言われる。「人に惑わされないように気を付けなさい」。世の終わりについて間違った教えに惑わされ、誘惑されることがあるからです。では、どういう点で惑わされやすいのでしょう。1つは「偽キリスト」の出現です。もう1つは「戦争の騒ぎや戦争の噂」です。でもこうした状況を見た時に「慌てないように気をつけなさい」と。何故なら「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる」という理由があるからです。
ここに飢饉や地震という自然災害に関する言葉が主イエスの口から飛び出しました。先週、九州に続き、岐阜・長野も大雨が襲いました。パオロ・ジョルダーノの『コロナの時代の僕ら』に、こんな言葉がありました。
「ウイルスは、細菌に菌類、原生動物と並び、環境破壊が生んだ多くの難民の一部だ。自己中心的な世界観を少しでも脇に置くことができれば、微生物が人間を探すのではなく、僕らのほうが彼らを巣から引っ張り出しているのがわかるはずだ。
増え続ける食料需要が、手を出さずにおけばよかった動物を食べる方向に無数の人々を導く。たとえばアフリカ東部では、絶滅が危惧される野生動物の肉の消費量が増えており、そのなかにはコウモリもいる。同地域のコウモリは不運なことにエボラウイルスの貯蔵タンクでもある。
コウモリとゴリラ―エボラはゴリラから簡単に人間に伝染する―の接触は、木になる果実の過剰な豊作が原因とみなされている。豊作の原因は、ますます頻繁になっている豪雨と干ばつの激しく交互する異常気象で、異常気象の原因は温暖化による気象変動で、さらにその原因は……。
頭がくらくらする話だ。原因と結果の致命的連鎖。しかし、ほかにいくらでもあるこの手の連鎖は、以前に増して多くのひとが考えるべき喫緊の課題となっている。なぜならそれらの連鎖の果てには、また新たな、今回のウイルスよりも恐ろしい感染症のパンデミックが待っているかもしれないからだ。そして連鎖のきっかけとなった遠因には必ずなんらかのかたちで人間がおり、僕らのあらゆる行動が関係しているからだ。
この本の序章で、僕はあえて少し大げさな表現を用いて、今起きていることは過去にもあったし、これからも起きるだろうと書いた。だだそれは、いい加減な予言ではない。そもそも予言ですらない。むしろ、あくまで客観的に、こう付け加えてもいい。COVID-19とともに起きるようなことは、今後もますます頻繁に発生するだろう。なぜなら新型ウイルスの流行はひとつの症状にすぎず、本当の感染は地球全体の生態系のレベルで起きているからだ。」
私たちが経験する「自然災害」と呼ばれるものは、もはや純粋な意味での自然災害ではなくなっているのではないか、ということです。例えば「飢饉」のことも出て来ますが、飢饉も自然災害でしょうが、その大きな原因は「食物の分配の偏り」だと言われます。食物は十分にあるのに飢饉が起きているのが実情です。食料分配の不均衡も温暖化も、世の終わりの前にはそういう事が起きてくる。
8節を見ますと、「しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである」とありますように、そうした出来事は世の終わりではなく、それらは世の終わりの前兆にすぎない。さらに今度は私たち教会に関する主イエスの言葉が続きます。「あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる」とあります。
キリストへの信仰を持つがゆえに迫害される。教会の外側から受ける迫害です。今、中国や香港で起きている状況に重なります。それだけではありません。
12節を見ますと、「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」。教会内部においても自分を守るために愛が冷えていく。それだけ厳しい迫害が起こるということでしょう。あるいは教会に対して大きな迫害がなかったとしても、ある人の言葉を使うならば、些細なことで躓きが起こったり、憎み合うようになったり。一体何のために信仰生活をしていたのだろう、と問わざるを得ないほど、信仰共同体である教会自体が揺さぶられる経験もするかもしれません。

Ⅳ.耐え忍び待ち望む

コロナ禍にあり動画を観ながらバラバラに礼拝をしている私たちにとって、そもそも礼拝って何なのか。教会って何なのか。インターネットを検索すれば、どこの教会の動画も見ることができる中で、今後、高座教会という共同体に所属する意味ってどこにあるのか。そのような意味で、私たちは今、正に、惑わされ揺さぶられているのかもしれません。
ただ、主イエスの教えはそこで終わりません。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」とあります。私は、この言葉を読んだ時に、「派遣の言葉」を思い出しました。「平和のうちに世界へと出て行きなさい。」
世界は悪魔の勝利で終わるのではなくキリストの勝利で終わる。確かに悪魔力がこの世界を支配しているかに見えるような状況がある。しかし私たちは愛を冷やさずに伝えていく。それが私たち教会に託されている使命です。
ある牧師が語っていました。この世の語る終末論には希望がない。怖れと慄きに包まれ、口から出る祈りの言葉は、「どうぞ、そうした日が来ませんように」ということでしょう。しかし神の国の福音に生きる私たち教会は違うのです。「御国が来ますように」と祈るのです。何故なら、その時、その終わりの日に、キリストにあって世界は真の喜びに満たされるからです。お祈りします。