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主日共同の礼拝説教

へりくだりの道を整えて

風間亮太神学生
イザヤ書57章14-21節、ペトロの手紙一5章6節
2021年1月17日

Ⅰ.思い描いていなかった道

今年度に私がこの高座教会で研修させていただいたことは、とても意味深いものとなりました。とても難しい状況からスタートとなった今回の研修は私にとって戸惑いばかりのものでした。その中でも私自身、多くの方々と十分に深い交わりがあまり出来なかったことが少々心残りでもありました。しかし、時にはわずかながらでも何人かの方と分かち合い出来たことも感謝に思っております。高座教会の方々がそれぞれどのような道を歩みどのような信仰を持っておられるのか、同じ雰囲気の中で互いに顔と顔を合わせ、共に笑い、共に励まし、共に仕え合うということを分かち合う時間がわずかにもてただけでも私にとっては幸せな時間でした。そんな中でも、私自身が想像していたものとは異なる道を神様はこの一年私に語って下さったのだと感じます。
このコロナ禍という一年は私だけでなく世界中の人たちにとって予想外の出来事ばかりでした。おそらくこれから先も、私たちにとっての「当たり前」であったものが大きく変えられ、神様の前に歩んでいくために改めて道を整えていくことが求められているのかもしれません。

Ⅱ.道を整えること

イザヤ57章は、イスラエルの民が捕囚から解放された後、再建に向けて神様が預言者を通して語られた言葉でした。かつて自分たちが神殿を築き、神様を礼拝していた当たり前のような毎日、そして当たり前のように馴染んだあの場所はすっかり様変わりしていました。ここで神様は彼らに、はじめに道を整えることを語られたのです。
それはこれから歩むべき道を整備するだけのことではなく、歩みの妨げとなるものを取り除くことでした。この時の彼らを支配していたのは神様への絶望や不信感、または自身の限界を感じる脱力感だったのではないでしょうか。
私たちもコロナ禍という異例の事態と向き合う際に、あらゆる問題とも向き合わなければなりません。世間では「コロナ疲れ」という言葉があるように、生活サイクルも大幅に変わり、このような状況はいつまで続くのかということを考えれば考えるほど気が遠くなってしまう。そんな思いが、どこか私たちの心をも支配していたこともあったかもしれません。それは気付けば私たちが歩むべき道の石となっているとここで語られています。しかし、そんな考えは不信仰だと神様は頭ごなしにおっしゃるのではなく、自らを低くされて私たちの抱いている不安やそれぞれの思いに寄り添ってくださるのではないでしょうか。
私が妻と結婚したばかりの頃に、お互いの些細な違いによくぶつかっていたことがありました。心配しやすい妻に対して、楽観的な私はそんなこと心配したってしょうがないじゃないかと結論のみでよく話していたことを思い出します。しかし、そこで大切なことはその時の対処法をどうするかということよりも、心配であるという気持ちを理解するということでした。心配や思い煩いが神様の前に立つ時に取り除かなければならないことは自分でも十分にわかっている。しかし、それを一蹴されたまま歩んでいても何ひとつ癒されないという気持ちはこの時の民たちも同じだったのかもしれません。そんな彼らに必要であったのは、自らを低くされた神様からの癒しでした。

Ⅲ.打ち砕かれた者たち

しかし、そのような状況の中にある民たちに対して、神様はへりくだった者には命を与えると語っています。
へりくだるということについて、私は高校生の頃に仕える姿勢を通して考えさせられたことがありました。当時、教会などで奉仕をしている際に、とにかく作業を多くこなした者が優れているという雰囲気の中、私も負けじと必死に動き回っていました。しかし後に私の奉仕の目的が神様のためにというよりも、奉仕している姿を人に見せるためという目的が中心になっていたようにも感じます。そんな自分を嫌ってか、今度は奉仕をする機会から自ら離れてしまったこともありました。しかし、それらはどちらも私にとって神様を第一とした行動なのではなく、むしろ高慢な姿の現れでした。
私たちにとってへりくだるということは、神様にとって私たちがどのような存在であるのかということにも示されているようにも思います。来年度の主題聖句である、ペトロの手紙第一5:6のように神の前に低くさせられるということは、自身が本当に弱く何も持っておらず神様という存在なしには生きていくことが出来ないことを痛感し、それでも私たちを迎え入れてくださる方を喜んで礼拝することを示しているのではないでしょうか。それは、この預言者の言葉を語られた民たちも同じだったのかもしれません。国家も神殿も崩壊した彼らにとって、帰還した時点で何も持つものはありませんでした。それだけでなく、かつては神様の前に幾度となく罪を犯し続け、これからどのように生きていくべきかの希望すら失った彼らは、いと高き聖なるお方の御前に立つことすらふさわしい者ではないくらい、打ち砕かれていました。そんな彼らを大切な存在として迎え入れてくださる方の御前では自然とへりくだった者とさせられるのです。

Ⅳ.「シャローム」に迎え入れて下さる方

ここで、手を差し伸べて下さる神様はもう怒りによって民が苦しむ時は終わりであることを告げます。ここでは「平和」という言葉が用いられています。これはヘブル語で言う「シャローム」です。この知らせは帰還できた民だけでなく、祖国の復興に絶望を覚え離散した仲間たちのもとにも届きます。しかし、この平和という希望はただ、私たちと神様との間の溝を埋めることだけなのではなく、家族として迎え入れてくれることのようにも感じます。後の彼らの歴史を見ても、これまでのように土地を所有して国家を設立するということよりも、外国人に支配される歴史の道を辿ります。ここで彼らに与えられた新しい道として、国土を持たない国家というものがあり得るのではないかとエレミヤは語っています。それぞれ散らされた場所の人々と争うのではなく、その人たちのために祈りなさいと神様は語られるのです。「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と神様がアブラムに約束された民の本来の目的へと確かに導いて、神様は国家と人種の壁を取り壊そうとされ、家族としてのシャローム(平和)に迎え入れようとされています。家族とは弱い者、小さい者をまわりが支え合う関係があります。フィリップ・ヤンシーは自身の著書で「家族とは違いを取り繕うことなのではなく、むしろ違いをたたえること」だと述べていました。
冒頭でお話ししたように、私はこの高座教会でわずかながらでも共に奉仕をしたり、信仰の分かち合いができたことを嬉しく思っております。私はこの高座教会に来て、家族としてのつながりがとても強い教会であるという印象を持たせていただきました。みんなで子どもの成長を見守り、互いの霊的状態を分かち合い、そして仕え合う光景がありました。そして、この交わりにわずかでも加えていただいたことを本当に感謝しております。
愛する者のために自らが低くなるという謙遜、そしてこの家族の主人であられる方に、この地上全てをおさめられる王への謙遜というへりくだりがこの「シャローム」から語られているのではないでしょうか。へりくだることを見るとき神様にとって私たちはどのような存在なのかということについて触れさせていただきました。一方で、私たちにとって神様はどのような存在なのかということからも、へりくだるということが見えてきます。マザー・テレサはカルカッタで自身の活動で多くの貧しい人たちと出会う前にまず、1日の始まりの陽が昇る前から主の前に出て祈りを捧げることをしていました。また、訪問者一人一人に「まず最初にこの家の主人ご挨拶をしましょう」と言っていたそうです。私たちはともに集まることが出来なくても、一度立ち止まって私たちを生かしてくださっている方をまず見上げることが出来ます。そんな時、本当の主人であられる方への低い姿勢こそが、ここでも語られているへりくだりなのかもしれません。

Ⅴ.荒野を進む私たち

このコロナ禍という新しい時代によって、あらゆる「当たり前」が崩されてきたように見えます。しかし、神様のなさろうとされることはいつの時代も変わることがありません。むしろ、これから私たちはどのように生きて行くべきかと新しい荒野に立たされているのかもしれません。そこにはかつて馴染んでいた生活様式や礼拝の在り方などの姿はないかもしれませんが、確かにその向こうに神様が私たちを家族として迎え入れてくださる道、そしてこれまで以上の素晴らしい世界が用意されているはずです。そこを進むためには、道を整え、へりくだって神様の御前に立つことです。自分の弱さの中で心から神様に信頼するとき、心から神様に生かされていることを実感し、低い者にこそ神様からの励ましの言葉は語られます。それこそ、神様によって高くされる私たちの姿なのでしょう。この先にある道に期待して、神様と共に歩んでいきましょう。

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私は信じます―使徒信条②

松本雅弘牧師
詩編89編1-19節、ローマの信徒への手紙10章1-13節
2021年1月10日

Ⅰ.信条が生み出される背景

先週、教会員の皆さんのところに緊急メールでのメッセージ、そしてHPでもお知らせを掲載させていただきました。1月8日から礼拝、諸集会をしばらく休止すること、礼拝堂、教会諸施設の利用、貸し出しを中止する旨のご連絡でした。改めて私たちは真空状態の中に生きているのではなく、日々、様々な問題に直面していきていることを考えさせられるのです。
今回のコロナ禍でも、「神さま、なぜ?」とか「神さま、コロナ禍を通して何を?」と問いながら過ごしてきました。そうした問いをもって聖書に向かう。すると神さまは聖書を通して、何等かのメッセージを語りかけてくださる。実は、二千年の間、歴史の教会はそのように歩んできました。その時代の問いかけに真摯に向き合い、聖書を通して神に聴いたものを文書としてまとめてきた。それが教会の生み出してきた信条であり信仰告白です。では一方そもそも使徒信条はどのような訳があってまとめあげられたのか。先週の復習になりますが、それは洗礼志願者の準備のためでした。当然ですが洗礼を受け教会に属するに際し、一人ひとりがバラバラな理解をしていたら困るわけです。そうした際に洗礼を認めるか否かの基準となるものを、という必要性があって使徒信条はまとめられていきました。ですから聖書の中に出てくる文書ではありません。でも聖書の言葉が使われていますし、その中心的な教え、聖書のエッセンスが短く簡潔な言葉でまとめられている。それが、この使徒信条なのです。

Ⅱ.なぜ「わたしたちは信じます」ではないのか?

使徒信条の語り出しは次のようになっています。「わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。」手元にある英語版の使徒信条を見ますと「I Believe(わたしは信じます)」という言葉で始まっています。調べてみると他の外国語の使徒信条も同様で、最初に「わたしは信じます」で始まり、その後、信じる内容が続くような形式になっています。共同体みんなで告白する文書なのですが、どういうわけか一人称単数の「わたしは信じます」で始まっているのです。
「教会とは何か」というテーマで書かれた良書、マイケル・グリフィスの『健忘症のシンデレラ』という書物があります。その本の中に、「一人ぼっちのクリスチャンはいない」という有名な表現が出て来ます。聖書は、その人がクリスチャンであることと、信仰共同体である教会のからだであることとは切り離せない関係にあると教えているからです。グリフィスによれば、聖書に出てくる、クリスチャンを指す「聖なる者」という言葉が全て複数形で出てくることを指摘しています。仮に単数形の場合でも、「一人ひとりの聖なる者」ということで、教会という信仰共同体が前提されて語られているというのです。
ところが、そんな話を聞きますと、「いや、別に私は一人でやっていける」とおっしゃる方も出てくるでしょう。そんな時に、主イエスが私たちクリスチャンを羊にたとえてお語りになったことを思い出したいのです。羊は群れがあっての動物です。「私は、一人でも信仰を守っていける」と言った羊がいたら、主イエスはその羊を「大丈夫な羊」とは呼ばず、「迷子の羊」と呼ぶわけです。私たちはそうした存在、教会と言う信仰共同体あっての私なのです。
さて、そのように教えられている中、ではなぜ使徒信条を告白する際に、「わたしは信じます」と告白するのか。むしろ聖書の教えからすれば、「私たち教会は信じます」と告白すべきなのではないかと思うわけなのですが、いかがでしょうか。正直、私自身、使徒信条を告白する度に、そうした疑問を持ちながらやって来た経験があります。皆さんは、いかがでしょうか。

Ⅲ.「わたしは信じます」

実は、そのことを考える意味で読ませていただきましたのが、ローマの信徒への手紙10章の言葉です。8節から10節でパウロは、「あなたの近くに」「あなたの口、あなたの心に」、そして「あなたは救われる」と、あくまでも二人称単数形で語り切っていて、決して「あなたがた」と複数形を使っていないことに気づかされます。これは聖書が教える、信仰の大切な側面、一人ひとりが信じて告白する、ということです。
昨年、御一緒にお読みした、マタイ福音書にある、「十人の乙女」の譬え話を覚えておられるでしょうか。油を切らしてしまった愚かな乙女に対し、賢い乙女は自分の油を分けることをしなかった、いや、分かち合うことが出来なかったのです。つまりこの世界には、分かち合うことのできない油というものがある。その油こそ、主イエスを信じる信仰だ、というお話をさせていただきました。私一人ひとりが信じるのです。パウロの言葉を使うならば、一人ひとりが自らの口で公に言い表して救われる必要があるのです。
ところが、ここで一つ問題が生じた。聖書の教えのエッセンスである使徒信条にも、主イエスが陰府にくだられたこと、そして天に昇られたこと、そうした主イエスの御業がはっきりと告白されているにもかかわらず、勘違いし、「だれが底なしの淵に下るのか」とか、「だれが天に昇るのか」と心の中でつぶやいたり、実際に言ったりする人が出て来た。仮にその主張が正しいとするならば、「キリストを天から引き降ろすことになる」し、「キリストを死者の中から引き上げることになる」。そうなれば、キリストが成し遂げてくださった救いは陰府にまでは届かない。天にも昇らない、結局、中途半端なものになってしまう。だとしたら、あなたの理性で、あなたの頭で考えだした、その信仰は完全な意味であなたを救うことにはならない、とパウロは語る。信じるということは、そういう事ではない、と言うのです。

Ⅳ.「同じことを言う」

このように考えますと、なおさら「私は信じます」という私個人が告白するのではなく、「私たちは信じます」と、聖書の信仰、教会が大切にしてきた内容のある信仰を、一緒になって告白する方がふさわしいのではないかと思ってしまうかもしれません。しかしくどいようですが、使徒信条もパウロの手紙も「わたしたち」ではなく、あくまでも「わたし」になっている。最後にそのことをお話して終わりにしたいと思います。
もう一度、10節に戻りましょう。ここに「公に言い表す」という言葉が出て来ますが、辞書で引くと大事なことに気づかされます。この言葉は「同じことを言う」という意味の言葉であることが分かりるのです。ここでパウロは、「あなた」、すなわち、この「わたし」が一人ひとり信仰告白をするわけですが、それは一人ひとりがバラバラのことを告白するのではなく、パウロは救いのために「同じことを言う」ことが大事なのだ、と語っているのです。
私たちの声は違います。高い声を出す人もいれば、低い声、太い声の人もいるでしょう。でもそれぞれの声で同じことを告白することで救われるとパウロは語るのです。
私はペンテコステの日の出来事を思い出しました。二千年前のペンテコステの日に、約束の聖霊が降った時、特別な現象が起こった。使徒言行録には、「すると一同が聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」(2:4)とあります。
父なる神さまが約束された聖霊がイエスをキリストと信じる弟子たち1人ひとりの上に降った。その結果、彼らの心を動かし、口を開かせた、語らせた。ところが、語った言葉は他の国々の言葉だった。ですから、そこに居合わせた人々は、外国語を知らなければ、騒音としか聞こえなかったに違いない。そんな状況です。しかし彼らは気づいたのです。だから驚いた。それは聞こえて来る言語は種々雑多でしたが、そうした種々雑多な言語を通して語った内容が一つだった、一致していた。つまり神の偉大な業、福音という同じことを語っていたのです。ダイバーシティとユニティーと言ってもいいかもしれません。また日本語で「異口同音」という言葉がありますが、正に異なった口で同じことを言ったのです。
「わたしは信じます」、使徒信条の言葉は、まさに異口同音に同じ信仰を言い表すという意味なのです。
私たち一人ひとりが主体的に、自分の信仰として、告白する。しかし、それはバラバラではない。聖書が教えたとおりの同じ内容、主イエス・キリストの同じ救いの御業を共に告白する。なぜなら、私たちは、その同じ主イエス・キリストの救いに与り、その同じ主イエス・キリストによって生かされているからなのです。お祈りします。

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いつものように―使徒信条①

松本雅弘牧師
申命記6章4―12節、ルカ福音書22章39-46節
2021年1月3日

Ⅰ.使徒信条を学びます

新年、あけましておめでとうございます。今年、礼拝で、使徒信条についてご一緒に学ぶことになりました。当たり前のことですが、使徒信条は聖書に記されている文書ではありません。しかし、使徒信条を形作る言葉は、聖書のあちらこちらに出てくるわけです。

Ⅱ.使徒信条とは何か

そもそも、信条、信仰告白とは何か、という問題があります。カンバーランド長老教会の信仰告白の解説で書かせていただきましたので、お時間のある方は、そちらを読んでいただければと思いますが、その中でも、信仰告白とは、「今の時代に生きる私たちクリスチャンが、そして契約共同体が直面する様々な課題を真摯に受けとめ、『神さま、なぜですか』と問いたくなるような現実に直面し、その問いをもって聖書を通して神に聴いたものを、信仰告白という形式でまとめたのです」と書かせていただきました。つまり、聖書が語る神に対する信仰、神がしてくださった救い、聖書が証言する救いの業を要約したのが使徒信条であり、そうした意味で、使徒信条は聖書の信仰の要約、エッセンスなのです。
その歴史的起源については諸説があります。たぶん紀元2世紀頃にその原型が生まれたのではないか。またそうした文書が生み出された理由としては、洗礼志願者の洗礼に向けての準備のために必要となって書かれたのではないか、と言われています。
高座教会でもそうですが、洗礼の受けるための準備の学び会、「洗礼入会準備会」というものを行っています。そこで学びをされた方たちは、小会の面接において、その人がどのような信仰を言い表すのかが問われます。言い換えれば、教会に与えられ、教会が語り継いできた聖書の信仰を受け入れているかどうかが問われてくるわけです。当たり前のことですが、教会に属するといっても、一人ひとりがバラバラな理解をしていたら困りますから。例えば、ペトロの手紙第2の1章1節にこのような御言葉があります。「イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロから、わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ。」これは使徒信条を学ぶ上で大切な聖句だと思われます。ここで使徒ペトロは、「わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ」と語っています。「わたしたち」とは、この手紙を書いている使徒ペトロたちのことです。その使徒ペトロたちと同じ尊い値打ちのある信仰を与えられている人たちに向かって手紙が送られているわけですが、まさに、ペトロたちと同じ信仰を受けた人たちによって信仰共同体なる教会が形成されている。その信仰共同体なる教会の中で共有されている同じ信仰を、短く、適切に表現したのが、これからご一緒に学ぼうとしている使徒信条なのです。
ところで、使徒信条のことを学ぶ中で、改めて教えられたことがあります。それは、歴史の教会は、この使徒信条と共に、十戒、そして主の祈りの3つの文章を大切にしてきたという事実です。確かに高座教会でも、使徒信条と主の祈りは、ほぼ毎週の礼拝の中で唱えられ、祈られてきた歴史があります。この3つの文章、これから学ぶ使徒信条は、私たちは何を信じているのか、をまとめたものであるならば、十戒とは、そのように信じている者たちはどのように生きるのかを示したものであり、そして3つ目の主の祈りは、何をどのように祈るのかをまとめたものであるといえます。
4月からスタッフとして働いてくださっている北村卓也兄の母教会である、世田谷中央教会では、何を信じ、どのように生き、また何を祈るのか、信じること、生きること、祈ることを示した、この3つを毎週の週報に必ず印刷して配布するそうです。配布するだけではなく、毎週の礼拝の中で必ず告白し、唱え、祈ることをしている教会もあります。そのような意味のある使徒信条を御一緒に学ぶことを通して、特に礼拝の中で告白する際に、その内容を一つひとつ理解しつつ、神さまから頂いた様々な恵みに対する私たちの応答として、心から使徒信条をもって、神への信仰を告白する者、そうした教会として、整えられていきたいと願っています。

Ⅲ.いつものように

さて、そうした上で、今日取り上げたルカ福音書にはゲッセマネの園での祈りの場面が記されています。昨年、同じゲッセマネの園での主イエスの祈りの格闘を記したマタイ福音書の記事を御一緒に学みました。その時の説教題を「歴史上、最も重大な夜」としました。聖書の中の聖書と呼ばれる、ヨハネ福音書3章16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とありますが、まさに私たち人類を滅びから救うために、神の子イエス・キリストが十字架にかけられ殺される。それが避けられないものとして、この夜、主イエスは、ゲッセマネの園において最終的に確認された。この夜、人類の歴史を決定するとてつもなく重大なことが、天の父なる神とイエス・キリストの間で語り交わされていたと考えられる。ですから説教題を「歴史上、最も重大な夜」としました。そのような意味で、ゲッセマネの祈りは歴史上、ただ一度限りの祈り、特別な祈りでした。ある人の言葉を使えば、他の誰もが繰り返すことのできないし許されない祈りです。ところが、その特別な祈りを、ここでルカは、主イエスの日常的習慣を強調するように、敢えて、「いつものように」、「いつもの場所」で祈ったのだ、と伝えています。マタイ福音書の説教でもお話しましたが、マタイは「三度も同じ言葉で祈られた」と書き、その祈りの言葉は「主の祈り」を連想させ、たぶんその祈りはいつも主イエスが祈っていた「主の祈り」だったのではないかと思われるのです。
ところで、アドベント第3主日の礼拝で、「強いられた恩寵」があり、そして全ての信徒、クリスチャンに与えられている「強いられた恩寵」は「礼拝を守る」という務めなのではないか、ということをお話させていただきました。今まで、毎週、礼拝に集っておられた方々、あるいは定期的に礼拝に出世された方たちの礼拝生活のリズムは大丈夫だろうか、と心配になることがあります。私が神学生の時に、後に日本聖書神学校の先生が、神学生として奉仕しておられました。その先生が「信仰生活は坂道を上がっていくようなものだ」と語ったことを覚えています。前に進まなければ、必ず後ろにずるずると後退する、というのです。使徒ペトロは、「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」と語っていますが、そのことこそが、神学生の言う「坂道に立っている」状態を指すのだと思うのです。今日の聖書の箇所に戻りますが、ゲッセマネの祈りがささげられたのは、十字架の前の晩です。特別で特殊な時でした。ところが主イエスはいつものようにオリーブ山に行かれたのです。いつも習慣で祈るために行かれたのです。

Ⅳ.使徒信条を口癖に

ところで、礼拝がオンラインになった時、式次第を簡素化しました。頭で色々と考え、流れを抑えながら、最初のプログラムを考えました。そしてしばらくそれでやって来ました。ところが、ある時、教会員の方から、「使徒信条がないのはおかしいのではないか」、「使徒信条を入れて欲しい」という要望が教会員の方から上がって来ました。それは素晴らしいことだと思いました。ある牧師が語っていましたが、毎週、礼拝を捧げていても、いつでも恵まれるわけではないかもしれない。でも礼拝を捧げる癖をつけてしまうこと。聖書を読み、祈りを捧げる習慣を身に付けてしまうこと。そのような信仰の生き方の癖が生まれてくる。そうしたことが習慣になってくる。その一つとして使徒信条を身に付けてしまう。口癖にしてしまう。ふと気づいた時に、礼拝で唱えた使徒信条が口をついて出てくる。その言葉によって自分の信仰が養われるからだ、といのです。
主イエスが教え、示してくださった「いつものように」ということ、ギリシャ語でエートス、習慣という言葉ですが、そうした聖なる習慣を身に付けることが、実は、私たちを守ることとなる。それが私たちの基準になり、神さまがそれを用いて、私たちを守ってくださる。特にコロナ禍にあって、やり方の変更が求められる時に、「変わることのないもの」、守り続けるべき大切なものとして使徒信条が与えられていることを覚えつつ、今年も共に歩んでまいりたいと願います。お祈りします。

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神の愛を実感する交わりづくり

和田一郎副牧師
ヨハネの手紙一4章19節
2020年12月27日

Ⅰ.コロナウイルスが変えたもの

今日は2020年最後の礼拝の日となりました。毎年この日は、その年の主題聖句から一年を振り返っています。今年の主題は「神の愛を実感する交わりづくり」でした。「交わりづくり」そのことを大切にしようとした年に起こったのが新型コロナウイルスでした。あっという間に世界中に拡大して世界で170万人の命が失われていますが、これは広島の原爆で命を落とした方の数の12倍。つまり原爆12個分以上の命が世界で失われると誰が予測できたでしょうか。私たち高座教会でも、かつてない特別な一年であったと思います。3月末から約3か月はオンラインだけの礼拝となり、日曜日に教会がひっそりとしているというのは教会始まって以来の特別な経験でした。礼拝堂に集まることを禁止せざるをえないことで私たちは悩み、オンラインでいいのだろうかという葛藤を続けてきました。
しかし聖書を見ますと状況に応じて礼拝を守っていたことを知ることができます。たとえば礼拝の場所について、旧約聖書の人々はいつもエルサレムの神殿での礼拝が本当の礼拝だと当たり前に思っていた。しかし、バビロン捕囚となって外国に連れて行かれた人々は、行ったその国で礼拝を続けました。それは、やがてキリスト教の教会の元となっていきました。また、ダビデが命からがら逃亡している時、祭司の他には食べてはならない礼拝用のパンを分け合って命をしのぎました。それをイエス様は「人が安息日のためにあるのではない。安息日は人のために定められた」といって安息日の規定より、人の命を優先されました。これらのことからも、私たちは伝統的なスタイルを守ることよりも、まず尊い命を優先します。神様から預かっている尊い命を大切にしながら、どのような礼拝と信仰生活を守っていけばよいのか、考え続けなければなりません。
新しいスタイルを柔軟に考えることは、宣教の機会を広げるきっかけとなることを感じています。特にコロナ渦とは関係なしに、礼拝に行くことが困難となった高齢の方や、健康、仕事、家庭の事情で思うように礼拝に行くことのできない方もいて、その事情は多様化しています。ですから、この機会に宣教のスタイルを工夫することによって、宣教の幅が広がっていくのではないかと思います。

Ⅱ.今年の主題「神の愛を実感する交わりづくり」

しかし、教会では変えることのできないものも多くあります。その中の一つが、教会における交わりづくりです。今年の主題は、「神の愛を実感する交わりづくり」です。そして聖書箇所はヨハネの手紙第一4章19節です。「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです」
この御言葉で鍵となる言葉が「まず」という一言です。私たちの愛と、神様の愛には違いがあります。私たちの愛には不完全さがありますが、神の愛は完全な愛です。その神の愛が「まず」先にあるというのです。人間は生まれてから親の愛の中で育ちます。幼い時の親の愛がなければ自分を愛することも、他人を愛することもできません。同じように、神様は、私たちが生れる2千年も前に、ご自分の独り子イエス様をこの世に送り、十字架にお掛けになりました。私たち人間の罪を取り除くためでした。つまり、私たち人間を救うために大切な独り子を犠牲にしたのです、そこに私たちに対する愛がありました。
私たちはこの愛に触れるまでは本当の愛を知りませんでした。男女の愛とか親子の愛とは違うさらに深遠な愛、すなわちイエス・キリストの犠牲において神が私たちを愛してくださった。その本当の愛が、まず先にあるから私たちは神を愛し、自分を愛し、他人を愛することができるのです。世の中には神の愛を知らずとも、隣人に愛を示している善良な人がいます。しかし、人間の中からでる愛は不完全です。なぜなら人間は自己中心という罪、自分という不完全なものから出てくるからです。
「まず、神がわたしたちを愛してくださった」それを知るところから本当の愛が現れていきます。隣人を愛すること、交わりを大切にすることは、信仰において愛するということです。これが聖書に記されている神の掟です。
隣人への愛の第一歩はその人に関心を持つことですし、もう一歩先にあるのが共感を持つということです。共感というのは同情ではありません。「同じことが、私にもありうるな」と考えることです。今年は、まさに他人に関心をもち共感することの大切さを知った年ではないでしょうか。「神の愛を実感する交わりづくり」というテーマはコロナがなくても大切なテーマでしたが、コロナ渦にあって「神の愛を実感する交わりづくり」がないと生きていけないと思わされるのです。「人が独りでいるのは良くない」と神様が言われたように、交わりの中で生きるということは、命に関わることなのだと思わされるのです。
私は施設や病院を訪ねることが、すべてできなくなりました。入院、入居されている方は家族との面会もできない状況にあります。しばらくの我慢だと思いましたが、人と会えない寂しさが一層深刻になってきていると思わされます。今年もいくつかの葬儀がありましたが、施設に入居していた方が、家族と面会ができなくなってから元気がなくなっていったという話を聞きました。逆に、教会では祈り会とか家庭集会という小グループがたくさんあります。メンバーとの付き合いが、数十年続いているグループがあります。コロナになって人とはなかなか会えないけれども、教会の小グループの仲間が連絡をくれる、時々訪ねて来てくれる。それがかけがえのない、大切な生きる力になっているという話を耳にします。まさに神の愛を、交わりの中で実感されているのではないでしょうか。

Ⅲ.「人が独りでいるのは良くない」

ローマ皇帝フリードリッヒ二世の実験というエピソードを知りました。生まれたばかりで捨てられた赤ちゃんを、話しかけたり、あやしたり、目を合わせたり人間的な接触を禁じたら、どんな言語を話すのだろうと実験したというのです。しかし、赤ちゃんたちは、大きくならないうちに全員死んでしまったというのです。愛情や人間的出会いがないと、人間は生きることができない。「人が独りでいるのは良くない」という、創世記にある神の言葉の意義深さを認識させられます。
イエス様は、ある町に来られた時に、ザアカイという人を見つけました。ザアカイはお金はあるが友だちがいなかった。町の嫌われ者だったのです。そんな状態から、這い上がろうとしていたと思います。そんなザアカイにイエス様は声をかけた。「今日、あなたの家に泊まることになっている」と言われてザアカイの友人になられた。ザアカイと友人になるということは、彼に共感して共に重荷を負うことです。
ザアカイがもっていた寂しさを、自分も受けるということです。ザアカイはキリストの愛を受けました。そして、他人を愛する心が芽生え、人生に変化が起こりました。町の嫌われ者の心の奥に隠れていた寂しさ、それを知ってくださり、関心をもち、共感してくださったのは、その日初めて町にやって来て声をかけてくれたイエス様でした。神が、まず、私たちを愛してくださった。

Ⅳ.寂しさへの関心、共感、愛

私はいつも3歳の息子とお風呂に入ります。ある日、楽しく風呂に入っていると息子が急に静かになりました。思い詰めたような顔をしているのです。「どうしたの?」と聞くと「なんでもない」とポツリと言って、泣くのを我慢していたのですが、風呂から出ると大声で泣き出してしまったのです。「どこか痛いの?」「怖いの?」「嫌なことあったの?」あらゆる質問をしていって、やっと「寂しいの?」という言葉に初めて「うん」と言いました。何が寂しいのだろうと聞いていきました。すると「幼稚園が寂しい」と言うのです。来年の春から幼稚園に入るために保護者の説明会に行った時、息子はてっきり楽しく遊べると思っていた幼稚園で、保護者との入園手続きなどの話を横で聞かされるだけで、自分が置いてきぼりになった気がして寂しかったようなのです。春から幼稚園に行ったらまた、そんな寂しい思いをさせられると思ったのでしょうか。記憶の中にある出来事で、心がいっぱいになるというのを見たのは、親としては初めてで、心が育っているのだと思いました。これから大人になっても、寂しいという感情は続きます。寂しさは周りに人がいても感じるものです。いや、人の中にいればこそ、自分は関心をもたれてない、共感してくれる人が、誰もいないと感じた時に、寂しいという感情は湧いてきます。
今、私たちの周りには、たくさんの「寂しい」という思いがあるのではないでしょうか。コロナによって、その寂しさは精神的にも肉体的にも厳しさを増しています。イエス様はザアカイの寂しい思いを知って、声をかけてくださいました。ザアカイはその愛を実感した時、他人を気遣う思いが湧いてきました。それが、神の愛を実感する交わりづくりの第一歩です。私たちは、信仰において寂しい思いに関心をもつことができるはずです。信仰において共感する、信仰において愛することができます。イエス様が愛したように、私たちも愛し合いたいと思うのです。「私たちが愛するのは、神がまず 私たちを愛してくださったからです」。お祈りしましょう。

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クリスマス礼拝 主日共同の礼拝説教

神に栄光、地に平和

松本雅弘牧師
イザヤ書25章1-9節
ルカによる福音書2章1-20節
2020年12月20日

Ⅰ.信仰を持つことの不思議さ

私たちの信仰は、イエスというお方に深く関わりを持つ信仰です。そして最近つくづく思うことですが、ほんとうに信仰を持ってよかった。信仰を持っていなかったら、今頃、どんな生活をしていたことだろうと思うことがあります。クリスチャンになることは、イエスさまを愛する者になることであり、そのお方の愛の中にあることを確信しながら日々生かされることでしょう。ただ、クリスマスを迎え、改めて思いますのは、信仰を持つということはとても不思議なことなのではないでしょうか。クリスチャンになるとはイエスさまを愛する者になることであり、そのお方と関わりを持つことです。ところが、そのイエスさまは2千年前に生きた人物です。しかも遠く離れたパレスチナで活動した方です。そのような方と時空をはるかに超え、場合によっては家族よりも深いかかわりの中に生きる。これは本当に不思議です。

Ⅱ.世界で最初のクリスマスを祝ったのは父なる神だけ

今日の箇所でルカは淡々と事実を伝えているように見えますが、実はとても大切なことを伝達しようとするルカ自身の意図が伝わって来るように思うのです。それは、ヨセフが向かって行ったベツレヘムは「ダビデの町」だったということです。ヨセフはダビデの家系に属する人でした。ですからベツレヘムはヨセフにとっての故郷、そこに住民登録のため戻ってきた。そしてイエスさまがお生まれになった。ここでルカが語っているのは「ダビデの町」と呼ばれたベツレヘムで生まれたイエスこそ真の王なのだということです。
もう一つ、ルカが伝えようとしていることは、イエスの誕生を当時の人々は誰も知らなかったという事実です。勿論この後、羊飼いが御子の誕生の知らせを受けるわけですが、それはあくまでも例外、世間一般の人々は誰一人、イエスの誕生を知らなかった。ですから祝いもしなかった。もっと言えば、お祝いしたのは父なる神さまだけだったのです。
さて、イエスさまのこうした誕生をルカはさらに別の視点でとらえ、「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」と伝えています。アウグストゥスの時代には、長きにわたって平和が続きました。一般に「アウグストゥスの平和」と呼ばれます。人々は、「戦争のない、こうした平和な状態が続くのは、皇帝アウグストゥスのお蔭なのだ」と語り、彼を「救い主」と呼び、「神」と崇めた人々も出たそうです。そうした彼の誕生日を「福音」と呼んだ人々もいました。元々は「良き知らせ」という意味するのですが、それをアウグストゥスに当てて使っていたというのです。
そうした上で11節を見ますと、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と語り、皇帝アウグストゥスを呼ぶ時に使った「救い主」の呼称をイエスさまに当てて使っている。天使は飼い葉桶の赤ん坊を指しながら、「アウグストゥスではない、こちらのお方こそがまことの救い主なのだ。ダビデの町に誕生し、布にくるまって飼い葉桶の中に寝かされている乳飲み子こそ、真の救い主なのだ。最強の王、名君と褒め称えられた皇帝アウグストゥスの治世に、実は、もう一人の王が誕生した。そして、この方こそメシア/キリスト・イエスなのだ」、そう確信を持って記しているのです。

Ⅲ.世界の片隅に生まれた救い主

ところで、本を読んでいますと、時々目に留まることがあります。それは、イエスの誕生が当時のローマの歴史にほとんど記録がない、一般の世界史には記録されていないということです。そのような意味で、ルカ福音書2章1節と2節に出て来る記録自体の信憑性が疑問視されてきた経緯がありました。18世紀以降、ヨーロッパを中心とする聖書学者たちの間で、いわゆる科学的、歴史的と言われる福音書研究が始まる中、特にイエスという存在に批判的な立場をとる学者たちが最初に問題視したのが、このルカ福音書2章の1節と2節の記述だったと言われます。この箇所はイエスさまの誕生の出来事と一般の歴史の出来事が交差する場面です。ですので、学者たちはこぞって、ルカの記述とローマ史の記録とを比較検討したのです。その結果、多くの聖書学者が、福音書記者ルカが書いていることは歴史的に正確なものとは言えないと結論づけ、さらにそうした議論の延長線上で、そもそも「イエス」などという人物も実在しなかった、それはキリスト者のでっち上げに過ぎないと言った主張さえも出て来ました。
ところが、その後、大きく学説は変わっていくことになります。考古学の発掘や、エジプト、その他の地域で発見された碑文などの研究が盛んに行われるようになったのです。その結果、これまでの学説が一つひとつひっくり返されていきます。そして今では、福音書記者ルカの記述の正しさが立証されて行くことになったからです。こうしたことを踏まえ、私たちがこの福音書を読む時に、決して見落としてはならないルカが私たちの目を向けさせようとしている点があります。それはアウグストゥスによる世界規模の歴史的人口調査が実施される最中に、世界の片隅の、ほんとうにひっそりとした夜に、もう一人の王、いや真の王である救い主イエスが誕生した。当時の世間では誰も知らない。それ故、誰からも祝われない仕方で誕生しました。ある人の言葉ですと、それを歴史的出来事としてスクープした新聞記者のように、自らの興奮を抑えつつ、しかし確信を持って、「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」と記録するのが福音書記者ルカだったのです。

Ⅳ.「神に栄光、地に平和」

さらにルカのスクープは続きます。その知らせを受けた最初の人が羊飼いたちでした。羊飼いとは、初めから住民登録の対象外の人でした。だから世間が人口調査でごった返している最中にベツレヘムの野で羊の番をすることが出来ていたのです。ではなぜ神さまは、羊飼いたちにまず御子の誕生を知らせたのでしょうか?結論を言えば、だれよりも彼らこそイエスさまを必要とする人たちだったからでしょう。
ところでルカは、主イエスの誕生に飼い葉桶が使われたことを伝えています。その理由は「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったから」とあります。「場所がなかった」とは、「迎え入れてはくれなかった」ということです。実はこれこそ羊飼いたちが経験していたことです。「お前なんか居ても居なくてもいい」と人々から扱われ、深く傷つく経験を何度もさせられていた。その彼らに、神さまは御子誕生の最初の知らせを伝えてくださったのです。
イエスさまがおられた場所はきっと臭かったでしょう。ただその「臭い」こそ羊飼いが身にまとっていた「香水」なのです。羊飼いたちからしたら全く自然な臭い、むしろホッとできるような香りだった。羊飼いたちが恐れることなく近寄ることができるように、しっかりと「野原の香水」をたっぷり浴びるようにして飼い葉桶に生まれてきてくださった。しかも赤ん坊の姿で生まれてきてくださった。神さまって何と優しいお方なのでしょう!
イエス・キリストはひっそりとお生まれになりました。それは、ひっそりと生きることしかできない人、片隅にしか居場所を見つけることができない人の救い主になるために、忘れ去られるような仕方で、本当に静かに生まれてくださったのです。そして、羊飼いたちに喜びの知らせを告げた天使たちは、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と歌ったのです。クリスマスの夜に、飼い葉桶の中に、オムツにくるまって、誰に認められることもなく、産声をあげているイエスさま。そのお方の誕生によって神の恵みの支配がこの世界に始まった。全ての人の救い主となり、まさに全ての顔から涙を拭おうとする神さまの闘いが、この時から始まったのです。私たちは、この王なるイエスさまの平和を実現する闘いに参与するように招かれています。その光栄と喜びを今日、もう一度、共に確認し、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」と賛美しながらの歩みを進めて行きたいと願います。
お祈りします。