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主日共同の礼拝説教

来なさい。そうすれば分かります

2017年2月12日夕礼拝
和田一郎伝道師
エゼキエル書36章26~27節
ガラテヤの信徒への手紙5章13~15節

Ⅰ.キリストにある自由

ガラテヤ書5章13節で、「ガラテヤの兄弟たちよ、あなた方は自由を得るために、キリストによって救われたのですよ。」と、キリスト者の「自由」についてパウロは語ります。私たちは、「仕える」とか「従う」という言葉を聞くと、束縛されたような気持ちになります。そうしたものから自由にされることこそが、自由なのではないか?と思うのです。けれども、そもそも人間は、神によって造られた者ですし、今も神の摂理の中にいるのですから、その神を信頼して生きることが、もっとも自由な状態です。教会に行かなくてもいい、神に背を向けてもいいというのが自由なのではありません。神から離れては、罪の中で生きる奴隷状態です。罪を清め、贖う力は神の業でしかありませんから、キリストと共に歩むところに、自由があるのです。
「神を信頼して生きることが、もっとも自由だ」と言いましたが、そういう意味では、イエス様が最も自由な方です。イエス様は父なる神と一つになっておられて、この方の命じられることを行なっておられました。その関係は愛に基づく自由があることを知る必要があります。
「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。・・」(ヨハネ福音書 5:19~20)
この父なる神、子なる神の固有な関係があるからこそ、イエス様は、愛と従順の関係において、本当の自由を私たちに与えることができる。私たちは本当に自由になれるのです。
「だから、もし子(イエス)があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」(ヨハネ福音書8:36)
キリスト者の自由とは、神との愛の関係がベースにあり、神に仕えるという関係の中での自由があります。これは人間の本来の姿です。人間が罪を犯す前の状態にあった、人間らしい自由の状態です。

Ⅱ.生き方

律法主義というのは、律法を守ろうとする事が、律法主義者を作り上げるのではありません。たとえば、私たちは十戒の中の戒めにあるように「父と母を敬う人」や「盗みを働かない者」や、「偶像礼拝」の戒めを守って、神社参拝を拒んだ人を批判することはありません。また日曜日を礼拝する日として、一生懸命努力することを律法主義だとして批判したりはしないでしょう。 律法主義者とは、律法を守った自分自身の行いを、自らを正しいと見なしたり、神の救いを受けるにふさわしい者だと、自分で定めることです。
また同時に自分の力、自分の正しさを誇る人は、他人の行い、他人の良し悪しを裁く目を持ってしまいます。キリストによって得られた自由なのに、自分自身を義として、他人を見て裁いてしまいます。まさしく、イエス様を陥れようと裁いていたファリサイ派や律法学者たちの姿です。律法を守るのが悪いのではない。律法によって人の罪が明らかになってしまう。それがガラテヤの教会にもあったようです。「互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。」(5章15節)と、パウロはガラテヤ教会の問題を指摘しています。
律法が悪いのではない、といいましたが、ではどうしたら良いのでしょうか? パウロは14節で「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」と、律法の本質をまとめています。イエス様は、マタイ福音書22章で、神を愛することを第1とされ、隣人を愛することを第2とされました。
「イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ福音書22:37~38)
このように、第1に重要なのが「神を愛すること」第2に重要なのが「隣人を愛すること」としています。しかし、それは隣人愛が神への愛に劣っているという意味ではありません。神を愛することなしには、まことに人を愛することはできないと、イエス様はおっしゃっているのです。
私たちは、自分が神から愛されていることを自覚すべきです。弱さや欠点があり、神に対しても人に対しても罪深いのが私たちです。しかし、神様の私たちに対する愛は深く、確かなものです。独り子であるイエス・キリストを、十字架にかけてまで、私たちを愛し、罪と死から救ってくださったのです。そのように愛してくださっている神を、信頼して、その神に従って生きることが本当の自由です。パウロがこの5章で訴えている、キリスト者の自由です。

Ⅲ.「何を求めているのか?」

先日、映画の「沈黙」を見る機会があって、このキリストの自由について考えるところがありました。幕府による激しいキリシタン弾圧のあった長崎に、ロドリゴという司祭が来るのですね。当時としては司祭の地位にあった宣教師は皆、追放されるか殉教していたので、隠れキリシタンたちは、カトリックの中で重要な罪の告白をする告解をする相手の司祭もいませんし、正しいキリスト教の教理も教える人がいませんでした。しかし、命がけで信仰を守って、多くの人が「踏み絵」を拒んで殉教していきました。その中で殉教するのが怖くて、踏み絵を踏んでは逃げてばかりいる、キチジローという気の弱い男がいるのです。
キチジローは親兄弟が信仰のために拷問にあって死んでも、自分は踏み絵を踏んで逃げおおせるのです。そんなキチジローをロドリゴ司祭は許してくれて、告解もさせてくれて信仰を導いてくれようとするのですが、そのロドリゴたちを密告して、お金をもらいます。ユダのような存在です。仲間が信仰を守って惨殺されても、自分は踏み絵を踏んで、十字架に唾まで吐いて、生き延びる。自分の命惜しさに逃げるのなら逃げておけばいいのに、やっぱり信仰を捨てきれずに、何度も舞い戻ってくるのです。戻って来て、司祭のロドリゴに求めるのは告解です。罪の赦しを乞うのです。
キリスト教史の専門家の中には、当時の隠れキリシタンを、クリスチャンとは認められないとする人もいるようです。正しい教理を分かっていない。土着の宗教と混合して異教化していたとする解釈です。確かにキチジローは、十字架に唾を吐きかけるし、踏み絵は踏んで逃げる、どうしようもない信仰者です。しかし、彼に間違いなくあったのは「自分には罪がある。自分は罪人だ」という罪の意識です。正しい教理は分かっていなくても、神を愛し隣人を愛することが出来ていない自分を「ダメな人間だから憐れんで欲しい、この罪を赦して欲しい」そんな心の叫びが、キチジローの姿から、聞こえるようでした。神の喜ばれること、神が嫌われることを知らなければ、罪の意識は生まれません。もし、キチジローがキリストに「お前の罪は赦された」と言われたならば、彼は本当の自由を得たのです。
5章14節の「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉は、ガラテヤ書でパウロが、なんども繰り返してきた、「信仰によって救われるのだ、律法ではない」という議論を、「この一句で全うするのだ」と言って、ここで結論を出しています。そしてこのあと、救われた者の生き方を説いていきます。その生き方の根っことなっているのも、この「隣人を自分のように愛しなさい」という、偉大な一句に基づいています。
沈黙という映画の「沈黙」の題名の主語は”神様”です。信仰を持つ民衆が、殉教しても神様は彼らを助けない、声をかけない。黙っている。沈黙している。という意味です。いついかなる時も、行いによっては神の言葉を聞くことはできませんが、信仰によって、聖霊の力によって、神の言葉を聞くことができるのです。
わたしたちは、キリストの十字架によって、この自由と希望を与えられました。キリスト・イエスに結ばれていれば、失うことがない、沈黙されることもない、自由と希望があります。この一週間も、神の言葉を聞くことができますように、隣人を愛する生活の中で、耳を傾けたいと願います。お祈りをします。

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生活の全ての領域で 主の恵みを味わう

2017年2月12日
松本雅弘牧師
創世記25章19~34節
エフェソの信徒への手紙5章31~33節

Ⅰ.イサクとリベカ夫婦の現実―子がない現実

今日の箇所にはイサクとリベカが結婚してから、およそ19年の歳月が流れた頃の出来事が記されています。その間、この夫婦には子どもが与えられないという現実があり、一方、イサクの異母兄弟イシュマエルの家庭には次々と子どもが誕生していました。
イサクは心配したのではないでしょうか。イサク自身、神の奇跡によって生を受けた存在でしたけれど、時間の経過と共に、次第にその確信も薄れていったのです。
そこでイサクがしたこと、それは妻のために主に祈ることでした。主はその祈りに答え、リベカは身ごもっていくのです。

Ⅱ.イサクの信仰

ところで創世記は、イサク本人の結婚であるにもかかわらず、一から十まで父親アブラハムが主導権を執っている様子を記しています。結婚の後も、その新家庭を守るために、アブラハムはイサクの兄弟たちをイサクの周囲から遠ざけています。「父母を離れる」ことが結婚の大前提です。父親アブラハムは関わり過ぎのように思います。
そのためでしょうか、これまで主体的に自分のこととして神さまと交わった経験が乏しく見えたイサクでしたが、子どもが与えられないという現実を通して、つまり、問題と取り組むことを通して、神さまとの祈りの格闘を始めていくことになったのです。イエスさまが言われる、「もっと豊かな実を実らせる目的を持ってなされる、神さまの枝の刈り込み、お手入れ」です。
私たちは弱い者です。だからなかなか祈ろうとしません。弱い者であるならば、なお、強いお方である神に向かってもっと祈ればよいのですが、でもそうできないし、また、そうしないのが私たちです。
そこで私たちを愛する神さまは、具体的な祈りの課題を私たちにお与えくださり、それを通してご自身との交わりへと、私たちを導こうとされるのかもしれません。
この時のイサクも「子どもが与えられない」という現実を抱え、神さまの御前に跪いて祈っていきました。これこそが祝福でした。

Ⅲ.イサクとリベカの夫婦

神さまはイサクの祈りに応えてくださいました。「めでたし、めでたし」です。しかし創世記には、「ところが、胎内で子どもたちが押し合うので」(創世記25:22)とあり、誕生した双子はイサクとリベカにとっての悩みの種となるのです。
それに対して彼ら夫婦はどうしたでしょうか。イサクはイサクで、そしてリベカはリベカで祈っているのです。夫婦そろって神さまの前に出ることがありませんでした。
二人のこの祈り方は、たまたまの出来事ではないように思います。何故かと言えば、この後、イサクとリベカの夫婦は、自分たちの好みによって、二人の子どものうち、それぞれ片方の子どもを偏って愛していくことが起こっているからです。
聖書は、「父母を離れて夫婦が結ばれ一体となる」と教えます。一体となるために父母を離れるのです。ですから父母を離れることが難しい時、夫婦が一体となることも非常に困難だということでしょう。
一体とならなくても平気、と感じる時、もしかしたら本来、夫婦間でしか満たすことの出来ない心の隙間を、全く別のもので満たしている自分を発見するかもしれません。イサクとリベカは、互いに交わりを深め、愛し合うようにと教える、聖書の生き方をしていたのだろうか、と思います。
自分のニーズを満たしてもらうために、相手の存在は好都合だったかもしれません。しかし、相手のために、自分の都合を変えるというところまでいっていなかったのでしょうか。そうした、夫イサクに対する苛立ちや怒りが、リベカの、夫に対する反発になり、足の引っ張り合いに発展していったのではないでしょうか。
その表れとして、エサウとヤコブという二人の子どもを、夫婦がそれぞれ、一人ずつ、別々に競争するように大事にしていきました。代理戦争のようにして、偏って子どもを大事にする行為になっていったように思います。
つまりこの夫婦は、根本的なところで不一致です。このような夫婦の許で育っていくエサウとヤコブは、結局、そうした大人たちの「負の遺産」を引き継いで大人になっていきました。その決定的な出来事が「長子の権利」を巡る事件です。

Ⅳ.生活の全ての領域で神さまの恵みを味わい知る

さて、これだけで物語が終るならば、単なる「悲劇」でしかありません。そこには「救い」も「福音」もありません。
でも、これだけでは終わらないのです。神さまが、この家庭の1人ひとりを愛してくださるがゆえに、この家庭に介入してくださるのです。創世記の物語はこの後、主人公がイサクから息子のヤコブに移っていきます。
最初、ヤコブは兄エサウを押しのけ長子の権利を奪い取る人物として登場します。誰も信じない、いや、信じられない、最終的には頼りになるのは自分だけという物語で生きてきた人物です。
そうしたヤコブが、エサウから命を狙われ逃亡し、叔父ラバンの許に身を寄せるのです。実は、そこもある種の地獄でした。叔父の許での厳しい労働。そして、叔父の2人の娘と結婚することになります。結婚することで、さらに人間関係も複雑になっていきました。
とうとうヤコブはラバンの許からも逃亡します。2度目の逃亡です。しかし、これから向かう地には命を狙う兄のエサウがいるのです。かといって逃げ出して来た義理の父親ラバンの許に帰ることもできません。八方塞がりの状況で、ヤコブは生まれて初めて、神さまとの出会いを経験したのです。自分のこととして、神さまと指しで向かい合う経験へと導かれました。
その出来事が創世記32章に記されています。ヤコブは生まれて初めて真剣になって神さまに祈りました。この時、その祈りの答えとして、ヤコブに「何者か」が襲い掛かり、夜明けまでヤコブと格闘したということが書かれています。
負けず嫌いのヤコブですから、倒されまいと必死に頑張りました。これに対して相手は、強引に屈服させようとし、彼の腿のつがいを打ったのです。体全体を支えていた片方の足に耐え難い激痛が走りました。と同時に、突然、力が抜けてゆくのを感じました。ヤコブは、とっさに自らの体を相手の胸に預けることしかできませんでした。
ところが、その瞬間、「ハッとするような経験」を彼はしていくことになります。ちょうど、水に体が浮くような経験です。それは、自分以外のものに自分の全存在がグッと受け止められるということであったと思います。
ヤコブは、小さい頃から、自分だけしか信用せずに成長してきた人物です。持ち前の賢さを武器に、人を蹴落とし、自らの運命を切り開いて生きてきました。しかしこの時、頼みにしていた「自分の力」がスゥーと体から出て行ってしまうような経験をしたのです。そして次の瞬間、今度は、自分以外の存在にしっかり支えられる確かさと力強さ、そして心地よさを、生まれて初めて身をもって実感していったのです。
人は無意識のうちに多くの持ち物、資格、力、経験によって自分の弱さを隠し、武装しています。そして、そうしたものによって自分は支えられていると思い易いのです。しかし、どうでしょう。この時のヤコブは、それらの武装がすべてはがされ、裸にさせられているような感じだったのではないかと思います。頼りにしてきた足場を失う喪失感を味わったことでしょう。
このようになったヤコブに対して、神さまは初めて祝福をするのです。それは新しい名前、「イスラエル」をもって表現されました。その意味は「神が戦う」という意味です。「お前が戦うのではない。ここは神の陣営である。私が戦うのだ」と。
ヤコブは、自らの弱さを通して真に頼るべきお方と出会っていきました。もはや、自分の人生は自分で勝ち取るのではなくて、主が戦ってくださるゆえに、このお方に依り頼もうとする信仰が与えられたのです。
自分の力では、どうすることも出来ないような状況に追い込まれ、結局、神さまに依り頼まざるを得ないのです。しかし、それが彼にとっての恵みでした。そのことを通して神さまとの出会いを経験しました。初めて水に体を任せ、水に浮く経験をしたのです。ヤコブは真剣になって祈り、慰めを求め、必死になって神さまに向かったのです。
今日は、イサクとリベカの結婚からスタートし、彼らから生まれ、彼ら夫婦に育てられたエサウとヤコブ、特にヤコブに注目して見て来ました。
私たちにとっての恵み、私たちにとっての福音は、神さまが愛のお方であり、神さまの愛から離すものは何もない。生活の全ての領域に神さまの恵みが満ちているということです。そのことを通して、私たちは神に近づくように召されているのです。
ですから、私たちにとって必要なこと、それは、生活の全ての領域で主の恵みを深く味わうことなのです。
お祈りします。

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主よ、お話しください ―信仰生活の基本③

2017年2月5日
松本雅弘牧師
サムエル記上3章1~21節
ペトロの手紙一 2章1~2節

Ⅰ.「祈る少年サムエル」

昨年のクリスマス賛美礼拝のポスターは、18世紀の画家ジョシュア・レイノルドによって描かれた『祈る少年サムエル』という作品を模写してデザインされたものでした。この絵に描かれている少年をイエスさまと間違える人も多いそうです。
その表情、肌の色つや、視線、ほんとうに透き通るように、神さまに向けて一直線に思いを集中している幼いサムエルの姿は、神さまの恵みの中で健やかに育った少年の姿を伝えているように思います。
ただ実際には、少年サムエルの成長は必ずしも、ひと筋縄ではいかないものでした。特にサムエルが置かれていた生活環境は子どもの成長にとって決して好ましいものではなかったのです。

Ⅱ.サムエルの育った環境

サムエルがお世話になっていた祭司エリは、当時、シロという町に置かれていた聖所に仕える大祭司でした。祭司エリのもとには、「ならず者」と呼ばれた、エリの2人の息子ホフニとピネハスがいました。つまり、サムエルが預けられた祭司エリの家とは、幼いサムエルにとっては最悪の教育環境だったのです。
E・ピーターソンは著書『若者は、朝露のように』の中で「聖書をよく読んでいくと、意外にも手本とすべき家族が出て来ない」と語ります。世界中どこを捜しても問題のない家族など1つもないというのです。
実は、サムエルが生まれた家庭もそうでした。サムエルを身ごもった時から、母親ハンナは悩んだことだと思います。夫にはもう1人の妻がいたからです。ですから、ハンナは、子どもを授かる前に神さまに祈った祈りを思い起こし、息子をエリのもとに預けました。でも先ほども触れたように、そこにはエリの息子たちがいたのです。

Ⅲ.ある決定的な出来事

ある日、決定的な出来事が起こりました。主の御声がサムエルにくだったのです。サムエルに語られた御言葉の内容は驚くべきものでした。それは祭司エリの家に対する裁きです。
当時、このエリ家はイスラエルにおいて最も重要な家系だったはずです。エリは大祭司であると共に、最後の士師です!!
「士師」とは、サムエル記の前の「ルツ記」その前に出て来る「士師記」の「士師」です。「武士の士」と「教師の師」の2つの「し」をあわせて「士師」と呼ばれ、特別な役割を持つ人のことです。
その役割とは、戦いのある時は野武士のように民をまとめ、敵から守り、平和の時は民の教師として律法の教えに従って民を治める役割を果たしていました。
ご存じのように、当時のイスラエルには、まだ王様はいませんでしたから、宗教的にも政治的にも最高の権威者は大祭司であり、士師であったのです。まさに、このエリという人物がその人でした。
ですから、この日、この晩、その大祭司エリに仕えるサムエルは、はっきりと悟ったことだと思います。大祭司をしのぐ権威者がおられる。また権威がある。それは他でもない主なる神であり、主なる神さまの御言葉であると。
大祭司という役割も、士師という務めも、そしてまたシロにある聖所も、それどころか、その中央に安置される「神の契約の箱」も。そこには十戒を記した2枚の板と、芽を吹いたモーセの杖と、荒野の食物マナの入った壺が収めてあったわけですが、その「神の契約の箱」さえも、神さまの御言葉を離れては何の権威もないということです。
実に歴史を支配し、歴史を動かすお方、それが主なる神さまであり、そのお方の御言葉の権威こそ、サムエルが拠って立つ権威であることを、この出来事を通して、幼いながら、その心の中にはっきりと焼き印されたのです。
この後、サムエル記の出来事は動き始めるわけですが、成人した後のサムエルの果たした役割について、3章20節に次のように記されています。「ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルのすべての人々は、サムエルが主の預言者として信頼するに足る人であることを認めた。」
「ダン」とはイスラエル最北端の町、そして「ベエル・シェバ」はイスラエル最南端の町です。たとえて言えば、「北海道から沖縄まで」という意味です。ダンからベエル・シェバまで、イスラエル全域で、そこに住む全てのイスラエルの民が、このサムエルこそが、神がお立てになった預言者であり信頼に足る神の人だと認めたというのです。
預言者とはどのような人でしょうか。預言者とは、その字のごとくに、神から御言葉を預かって伝える人のことです。そして伝えるためには、まず預かる御言葉を聴かなければなりません。サムエルは預言者として、全身全霊をもって神さまの御言葉を聴きました。そして、それを人々に聞かせる人として生き抜いた人でした。その出発点が、今日ご一緒に見て来た「この晩の出来事」に始まったのです。

Ⅳ.「主よ、お話しください。僕は聞いております」

さて、今日は「信仰生活の5つの基本」の第3番目「御言葉と祈りに生きる」を考える上で、サムエル記上3章を読んできましたが、サムエルは、「主よ、お話しください。僕は聞いております」と祈り始め、その後、だれにも勝って神さまに聴く人となり、そしてまた、人々に対しても、王に対しても、御言葉に聴くことを求めた人であったといえます。
ある聖書の専門家が、聖書に綴られているイスラエルの民の歴史を、「Human confusion and Divine providence(人間の混乱と神の摂理)」と呼びました。
1つひとつの出来事は混乱の連続です。サムエルが生まれた家庭も複雑な人間関係がありました。サムエルが預けられた祭司エリの家にはホフニとピネハスという「ならず者」がいました。完璧な家庭、最高の環境などありえないのです。どこにも様々な混乱があるのです。
私たちの目は批判力旺盛です。問題点や欠点、足りないところを見つけるように、と言われれば、次から次へと指摘することができるでしょう。そして、「人間の混乱」しか目に入らず、その結果、自分が置かれている環境は最悪で、どうにもならないと絶望的になったりします。
けれでも、そうした中で、「主よ、お話しください。僕は聞いております」と祈るようにと、聖書は私たちに勧めるのです。
そのようにして、聖書と祈りによって、神さまから新しい視点が与えられる時、混乱としか見えない中に、実は、すでに愛と慈しみに富む神さまの摂理の御手の業が始められていることをしっかりと見ていくことが出来るのです。
絨毯を思い出していただきたいのです。絨毯の裏側を見ている時、その絵柄はまさに「混乱」そのものではないでしょうか。しかし、御言葉と祈りの生活を通して、神さまの視点、神さまの価値観、神さまの物の見方を教えられ、そのレンズを通して物事を見ていく時に、本当に不思議なのですが、混乱の中に神さまの摂理の御業、愛の御業を見出すことができる。つまり、絨毯の表、神さまの愛と恵みが織りなす、素晴らしい絵柄を見せていただくことができるのです。
いかがでしょう?! 日々の生活は「こんなはずではなかった」と思う出来事の連続です。今日のサムエルもそうでした。そしていつも例に出しますが、あの創世記のヨセフの人生を思い出していただきたいのです。ヨセフは、兄弟の反感を買いエジプトに売られ、売られた先の主人から信頼されたところまではよかったのですが、暇を持て余した主人の妻に、濡れ衣を着せられ、投獄されてしまいます。
獄で出会った高官の夢解きの報いに、獄から解放されると思っていたのに、解放された高官がヨセフのことを忘れてしまう。その結果さらに2年間、獄からの解放はお預けとなりました。
〈やってられない!〉とふて腐れてもおかしくない状況です。でもヨセフは「ふて腐れる」という選択肢を選びませんでした。別の選択肢を選んだ。それが御言葉と祈りの生活です。
私たちクリスチャンにとっての特権は「こんなはずではなかった」と思う出来事の背後に、摂理の神さまの確かな御手があることを確信できることなのです。絨毯を裏側からいくら眺めても、そこには無秩序な模様しかありません。でも絨毯を表から見せてくださる時が必ずやってくるのです。
「こんなはずではなかった」と思えるような出来事の背後で、摂理の神さまは確実に働いておられる。そしていつか最高のタイミングで、全ての糸がつながり織りなされ、鮮やかな恵みの御業を目の当たりにさせられるのです。
その結果、私たちは、その神さまを賛美したい。その神さまに感謝したい。その神さまの恵みに応えて生きていきたいという思いが必ず与えられていくのです。
御言葉に聴く中で価値観が変わり、時間やお金の使い方、人との接し方、物事の判断の仕方が変わっていくのです。つまり人生そのものが変えられていくということです。
その最初の一歩が、少年サムエルが祈った、「主よ、お話しください。僕は聞いております」から始まるのです。
私たちもサムエルのように、「主よ、お話しください。僕は聞いております」と、祈りをもって御言葉を聴き、ぶどうの木であるキリストにしっかりとつながって歩んでまいりましょう!
お祈りします。

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その人は誰ですか?-信仰生活の基本②

2017年1月29日
和田一郎伝道師
詩編100編1~5節
ヨハネによる福音書4章1~26節

Ⅰ.はじめに

今日の聖書個所で井戸があった場所は、サマリアという地域です。登場人物の二人、水を汲みに来たのはサマリア人の女、イエス様はユダヤ人です。同じイスラエルの子孫でしたが、ユダヤ人はサマリア人と大変仲が悪かったのです。その事の発端は、イスラエル王国が南北に分裂したことから争いは始まりましたが、バビロン捕囚から帰ってきたユダヤ人はエルサレムの神殿を再建しようとしました。そこでサマリアの人々も手伝いたいと申し出ました。
しかし、それをユダヤ人が断ったことによって、サマリア人は自分達の山に神殿を独自に作ったのです。同じ神を信仰し、同じ救い主を待ち望んでいたのですが、敵対していたのがユダヤ人とサマリア人だったのです。ちなみに今でもサマリア人という人たちは、千人にも満たないそうですが、その地域に住んでいるそうです。

Ⅱ.水をめぐって

サマリアを避けて遠回りをするのが、当たり前だったにも関わらず、あえてイエス様はサマリアを通るルートで旅をしていました。サマリアのシカルという町の井戸のかたわらで、イエス様は腰を下ろして休憩されました。疲れていたのです。イエス様は完全に神でありながら、完全に人ですから私たちの疲れや痛みも、知識としてではなく、同じ「人」として、共に喜び悲しみ、疲れも知ってくださる方だと知ることができます。
そこに、サマリアの女が水を汲みに井戸に来ました。時間は正午とありますが、こんな暑い時間に水を汲みに来る人はいません。人目を避けて水を汲みに来る事情がありました。イエス様は女に「水を飲ませてください」と頼むのです。すると「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」と冷たい反応です。

Ⅲ.壁をこわす

当時は公の場で男から女に声をかけることはなかったという当時の常識がありました。また、イエス様が、女に声をかけた時、弟子たちは、食べ物を町に買いに行っていたように、ユダヤ人はサマリア人に、何かを頼んだ時は必ず代価を払いました。世話になりたくなかったのです。「あの人にはお世話になりたくない」という感情の表れです。ですがイエス様は「水を飲ませてください」と、頼み事をしたのです。自ら負い目を負う立場をとられたのです。ここから、人種的にも宗教的にも厚い壁があった、それも900年以上も続いていた、ユダヤとサマリアの隔たりをイエス様は壊していくのです。しかも、上からの支配的な力ではなくて下からの、へりくだる力によって壁を壊していきました。
10節で、イエス様は、あなたが神様の事を本当に分かっていて、さらに今「水をください」と言った人が誰だかわかっていたら、あなたの方から「生きた水」をくださいと言うでしょう。とびっくりするような事を言ったのです。イエス様が言った「生きた水」というのは「霊的な水」で、飲み水のことではないのです。霊的な話しに切り替えているのですが、女の人は分かっていないのです。ですから11節で「あなたに水をくださいと頼んでも、水を汲む物を持っていないでしょ? 先祖のヤコブが遺してくれた井戸の水よりも、もっといい「生きた水」を、あなたがくれるなんて、あなたはそんなに偉い人なんですか? まさかそうじゃないでしょ? というニュアンスです。イエス様が向けた霊的な話しには無関心で、物質的な水にしか興味を持てませんでした。
イエス様は霊的な話しを続けます14節「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と、イエス様は霊的な水と物質的な水を比較して、「物質的な水はいずれまた渇くが、わたしが与える霊的な水は、渇かない。それどころか永遠の命が得られる」と違いを説きます。
しかし、女は「もう水を汲みに来なくていいようになるなら、そうして欲しい」と、現実的なことにしか、興味を示せません。そこでイエス様は、話しを変えました。「あなたの夫を呼んで来なさい。」と聞くと、「夫はいません」と女の人は答えるのです。するとイエス様は「そのとおりだ、あなたは5人の夫がいましたね」と言うのです。結婚と離婚を繰り返して、しかも今は、夫ではない男と住んでいる。イエス様は初めて会ったのに、ピタリと言い当てたのです。それがこの女の人の現実でした。人目をはばかるように水を汲みに来るような生き方をしていた。霊的な渇きがあったのです。イエス様は私たちの心の底を見ている方ですから、この女が霊的な渇きに目を向けるように、ズバリと言ったのです。女は「あなたは預言者ですね」と、イエス様に対する態度が、少しずつ変わってきています。

Ⅳ.霊的な世界と地上的なものへの依存

サマリアの女は、物質的な水の事ばかりに、目がいっていて、自分の心が、霊的に満たされていない事に気付けませんでした。私たちの生活でも、目には見えない霊的なものに心を向けるよりも、目に見える現実に心を向けてしまうことが多いと思います。高座教会で取り組んでいる「エクササイズ」というプログラムも、霊的なものに心を向けるためのエクササイズというのがテーマです。「睡眠時間を確保する」とか、「瞑想」したり「生活のペースを落とす」といった忙しい生活の中で、できなくなっている事ばかりです。それが私たちの現実です。

Ⅴ.霊なる方と、霊をもって心をむける

しかし、この私たち人間は、霊的な存在として神様に作られました。霊である神様に、似た者として作られた。「霊的な心」というのは、自分の中にあるものを、神という大きな存在に求める思いです。御言葉を聞こうとする、祈ろうとする。それが霊的な心の状態で、そのように人は造られました。
「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(ローマ8章13-14節)
私たちは神の子とされた霊的なものに造られました。ですから20節以降から、イエス様は霊的に造られた私たちの礼拝の在り方を教えているのです。ユダヤ人とサマリア人は別々の山で礼拝していました。しかし、もう場所の問題ではない、どういうやり方で礼拝するかという形式の問題でもないのです。なぜなら24節で「神は霊である」と言います。この一言は、世のすべての目に見える偶像礼拝を否定しています。偶像に依存する先にあるものは霊的な死です。だから、まことの礼拝をするには「聖霊に満たされ」、救い主の贖いによって救われたという「真理」をもって礼拝しなさい。それが今、イエス様が来られたことによって、できるようになったのです。
サマリアの女は、まだ最後の大事なことが分かっていませんでした。それはその礼拝すべき方が誰なのか?ということです。26節で「それは、あなたと話をしている、このわたしである。」と告げられました。24節では「神は霊である」と言いましたが、そして「それはこの私である」と言うのです。この箇所はギリシア語では「エゴーエイミー」といって、直訳すると「私はある」となります。モーセが「神様あなたの名前はなんといいますか?」と聞いた時応えてくださった「わたしはある。わたしはあるという者だ」と、同じ言葉でイエス様は自分がメシアであることを示されました。
私たちは、霊的な心を持たなければ、「わたしはある」という方を、心にお迎えすることはできません。その方は私たちと共にあって、霊と真理をもって礼拝することを待っています。このサマリアの女は、キリストとの出会いによって、人目をはばかるような生き方から、解放されました。人間の知恵で神を知ることはできない。神様との霊的な生活をすることが、人間らしい生き方といえます。

Ⅵ.キリストと呼ばれるメシアが来られた

この出来事が突破口となって、異邦人にも福音は広がっていきました。当時歌われていた讃美歌の歌詞が、聖書のフィリピの信徒への手紙の2章にあります。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2章6-11節)
これは、まことの礼拝をするべき方がどのような方なのか? 短く、分かりやすい言葉でつづった讃美歌の歌詞です。おそらく手紙の行き届かない地域や、家庭でもこの讃美歌を歌って、礼拝すべき方を心に刻んでいたのではないかと思います。
今日は信仰生活の基本の一つ「礼拝に生きる」ことについて、御言葉から受け取ってきました。十字架で血潮を流された、霊である方を礼拝することを第一とした、生活を求めていきましょう。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

愛こそがすべて

2017年1月22日夕礼拝
和田一郎伝道師
出エジプト記19章3~6節
ガラテヤの信徒への手紙5章1~15節

Ⅰ.信仰の成長のために

クリスチャンとして、霊的に成長するというのは、子どもが成長することとよく似ているのです。江戸時代の躾の在り方に、「三つ心、六つ躾、九つ言葉、十二文、十五理で末決まる」というものがあります。この中でも最初の3歳までの「心」がとても大事でしょう。心がしっかりしていないと、その後の成長が難しいわけです。
信仰の成長も似たようなところがあります。この手紙が書かれた頃は、ガラテヤの人々がキリスト者になってまだ2~3年程でした。本当でしたらパウロのような先生がずっと面倒を見られたら良かったのですが、パウロは他の宣教地で働いていました。一見、順調にイエス・キリストを主と信じて、信仰生活を守っているようでしたが、間違った信仰理解をするようになっていたのです。
神様の恵みによる信仰だけで、義とされるという信仰の核心部分が整わないと、その後の成長が難しいのです。信仰によって救われた者は、信仰によって成長します。しかし、律法も必要だと受け入れたら、そのあとの信仰生活でも、ずっと律法を守っていく必要が出て来てしまう。イエス様が十字架で成し遂げられた救いの真理は、そんなものではないのです。十字架の贖いによって、それらの律法を守らなければならないという呪縛から自由にされたというのに、なぜ以前の奴隷のような状態にもどろうとしているのか。5章1節で「しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」と、パウロは言うのです。

Ⅱ.「自由」の身にされた

パウロは今日の聖書個所の1節で、「イエス様は自由を得させて下さったのだから…」と「自由」について切り出します。一般的な自由という意味とは少し違って、パウロはイエス様の贖いによる関係で、自由という言葉を使っています。それは罪と律法からの解放であり、死からの自由を表しています。人間が罪から逃れられない奴隷として生き、アダムの罪ゆえに死が私たちの中に入りました。この罪をキリストが十字架にかかり死なれた事で、負債が清算され、永遠の命が与えられました。従って、自由というのはキリストの救いによって成立し、キリストの愛ゆえの自由です。ですからこの自由は、神様から離れて何所へでも行ける自由などではなくて、イエス様が愛されたように、愛を持って互いに支えるという重荷を負い合うことへの自由です。
罪から自由になるためには、キリストの愛によってでしかなく、この自由にあずかるのはキリストへの信仰のみです。キリストへの信仰だけが、「罪」からも「律法」からも「死」からさえも自由になれるのです。この正しい信仰をもって成長していって欲しい。それがパウロの願いでした。
2節、この信仰に律法を付け加えるようなら、その後の信仰の成長が鈍くなる、といったものじゃない。成長が鈍るどころか、まったくキリストとは関係のない人になってしまう。4節で「縁もゆかりもない者」だとしています。キリストと関係のない信仰者であれば、以前のユダヤ教徒と同じで、613個もあった律法を行わなければならないのです。それを守り通せる人は誰もいないわけですから、成長どころか、一生罪の奴隷のままになってしまうのです。
パウロは5節で「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。」というのです。本当ならば、キリストを主と信じる者は、「義とされたことを喜んでいます」といってもよさそうなところです。しかし、パウロはここではそうはいっていない。義とされるということを何か既得権があるかのようには言わないのです。「義とされることを…待ち望んでいる」というのです。
救いという神の恵みを、自分のポケットに抱え込んでしまわないのです。上から与えられる、待ち望むという姿勢を崩しません。しかもパウロは「霊により」と、自分の力とか、自分の信仰の確信とか、そんなものではなくて、「霊により」つまり「神の力に支えられて」ということです。それが「信仰に基づいて切に待ち望む」という言葉につながっていくのです。もし律法によるのなら、「自分で行う」ことに主眼がいきます。しかし待ち望むという、ここにも律法主義的な救いとの違いが示されています。
6節「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではない」といいます。確かにパウロは「割礼」そのものを論じているのでもありません。パウロがテモテを伝道旅行に連れて行くに時にも、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けました。救いの条件として割礼を否定していましたが、ユダヤ人の習慣としか認識しなければ、パウロが「福音のためなら、わたしはどんなことでもする」と、その自由さ、柔軟さの中で、テモテに割礼を授けていました。

Ⅲ.愛によって全うされる

6節で「愛の実践を伴う信仰」と、訳しておりますが、口語訳では「尊いのは、愛によって働く信仰」となっています。愛の実践がないと、信仰がないように誤解してしまいがちですが、そうではありません。信仰は愛を生み出すものです。というのは、信仰は何よりも自分という自我から解放されることだからです。
7節以降から、「いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか」と、ガラテヤの信徒たちを惑わすユダヤ人を真っ向から非難しだすのです。しかも12節では「あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。」とまで激しく言い放ちます。その前の11節のところで、パウロは「兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。」というのです。パウロは、自分の先輩ともいうべきエルサレム教会に対して、割礼は必要ない、大切なのはただ神の恵みだけを信じる信仰だと言ってきた事で、迫害を受けてきたのです。そして「十字架はつまずきだ」とパウロはいうのです。福音を信じるということは、十字架を信じるということです。しかし、その十字架を信じるということは、そうやすやすと信じられるものではないでしょう。それは神の子であるキリストが、無力にも十字架で人の手によって殺されてしまうかのようです。神の子がそんな屈辱にあって、それが救いに導くことになるなんて、これは人の知恵からすると愚かに見えるわけです。しかし神様はこの世の、人間の高ぶった知恵を、愚かにさせるためにそうなさったのです。この世は、人間の知恵で神を知ることはできないからです。

Ⅳ.愛によって全うされる

パウロは13節から、愛がすべてを包摂していると、まとめています。パウロは、先ほどの割礼そのものを否定したのではないと言いましたが、同じように、律法についても、救いの手段としては否定してきましたが、律法を大切にすることを否定したわけではありませんでした。14節「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされる」と、イエス様の十字架の愛というものが、律法すべてを満たしていると言っています。「隣人を自分のように愛しなさい」というのはレビ記19章の偉大なる言葉です。

Ⅴ.善いサマリア人の愛

イエス様もこの言葉を重視しました。「善いサマリア人」の話しの前に、律法学者が、「どうすれば永遠の命がもらえるか」と質問した時に、「隣人を自分のように愛しなさい」という律法に書かれている言葉のとおり「あなたもそのようにしなさい」と言われました。しかし律法学者はさらに質問したのです。「では私の隣人はだれですか?」と聞いたのです。「わたしの隣人は誰か?」その相手は誰か?と質問したのです。「隣人を愛せよ」とは、「隣人」という特定の人物がいるのではないですね。私の助けを必要としている人、私の助けを待っている人がいたならば、その人が「私の隣人」であって、相手がどんな人でも隣人です。「隣人を愛しなさい」という戒めは、「私の助けを必要としている人がいるならば、誰であっても隣人になる愛を持っているかどうか」、それを律法学者、そして私たちに問いかけてくるのです。「隣人は誰か?」ではなく、私が「隣人」になるのです。親切なサマリア人は、強盗に襲われて重傷を負ったユダヤ人を助けて介抱して「隣人」となりました。見て見ぬ振りをした祭司やレビ人ではなく、よりによって嫌われていたサマリア人が、その人の「隣人」になりました。モーセの十戒をはじめとする、613個もあるという律法は、「隣人を愛する」、その「隣人になる」ことで、すべて全うされるのです。イエス・キリストの十字架によって、全うされたのです。この隣人愛の律法が、キリストによって贖われた、私たちキリスト者が従うべきことです。自らを愛するように隣人を愛する時、キリストの愛を知っている私たちは、神様にも人にも、喜ばれる歩みを地上で実践することになるのです。