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アドベント 主日共同の礼拝説教

神のご計画


2016年12月4日
第二アドベント
松本雅弘牧師
イザヤ書30章15~22節
ルカによる福音書1章24~38節

Ⅰ.「神にできないことは何一つない」

今日、私たちに与えられている聖書箇所には、有名な「受胎告知」の出来事が記されています。ここには、汲みつくすことの出来ないほど多くの恵みが隠されているのです。
今日は、天使ガブリエルとマリアとのやり取りを通して、2つのことを考えてみたいと思います。

Ⅱ.マリアが示した信仰者としての模範―主のはしためとして生きる

まず第1は、マリアは自分のことを「主のはしため」と見ていた点です。
「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』」(2:38)
今日の箇所を読んで改めて教えられたこと、それは神さまのご計画、神さまのお働きは、私たち主の僕、主のはしためたちの参加を必要としているということです。
「あなたのご計画通りに私をお用いください。私を生かして用いてください」、「私たちを通してあなたの御心が実現しますように」という祈り、願いに導かれて初めて、神さまの御計画が実現する道が拓かれていくということです。
誤解を恐れずに言えば、マリアのようなはしためたち、また僕たちの参加や手伝いなしには、神さまのご計画は実現しないと言えるのかもしれません。
マリアはそのような信仰者としての模範を私たちに示してくれたように思うのです。つまり、マリアは、自分の願い通りに生きることを明け渡しました。言葉を添えるならば、「私も自分の人生のシナリオを描いて来ましたが、でも、主よ、あなたのシナリオが私にとって最善です。ですから、あなたのなさる通りで結構です」と、ここでマリアは告白しているのです。
そしてその結果、ある意味で、自分の思い通りにはいかないという経験をしていきました。
この時のマリアのことを思い巡らしてみたいのですが、彼女は婚約期間中でした。自分のこれからのことについて、さまざまな願いを持っていたことでしょう。ところが、そのような時に、「そうはいかない」神さまの言葉が入り込んできたのです。
その御言葉に応答し、その御言葉が自分の人生において実現するようにという祈りが、マリアの心の中に生まれたのです。

Ⅲ.冒険としてのマリアの決断

2つ目のことは何でしょうか。「お言葉どおり、この身に成りますように」という祈りは、大きな決断を前提とした祈りだったということです。
私たちの毎日は計画と決断の連続だと思います。今日はジュニアチャーチの皆さんも礼拝に来ていますが、例えば、ジュニアチャーチの皆さんでしたら、中学、あるいは高校を卒業した後のことを思い描くでしょう。中学を卒業したら、どこの高校に行こうか。あるいは行きたいか。高校を卒業したら、どういう進路に進もうかと計画を立てます。そして決断をします。
学校を卒業すると、今度はどういう職業に就こうかと考えます。また、結婚のことも考えるでしょう。そのようにして、私たちは人生の節目、節目で計画と決断を繰り返しているのです。
進学や就職、結婚といった大きな決断もありますが、毎日の生活の中でも、小さな幾つもの決断をしながら生きている面もあるでしょう。
仕事をしている人で、とくに責任のある立場に立たされれば、自分で決断しなければならない場面にしばしば出合うことでしょう。そして、決断には、その結果を委ねる側面が必ずあるように思うのです。言い換えると、決断する私たちは、常にある種の冒険を強いられるということです。
以前、高座教会に来られたK先生が「神の冒険としてのアドベント」という言葉を使われました。実は「アドベンチャー・冒険」は、この「アドベント」から来ている言葉だそうです。
「飼い葉桶と十字架は初めから一つである」と言われますが、神さまの冒険の結果が、飼い葉桶であり十字架でした。
とすると、この神さまに従って歩んで行く私たちには、時に、アドベンチャーと言われる冒険のような歩みが強いられるかもしれません。
マリアの決断はまさに冒険だったと思います。この時のマリアの年齢について聖書は沈黙しています。ただ聖書学者によれば、たぶん10代の娘だったろうと語ります。まだ世間のことが分からない、若い娘だったことでしょう。これから結婚しようとするヨセフに頼り、彼に全てを任せて生きていこうと考えていたのではないでしょうか。そうしたマリアにとって、夫となるヨセフも知らないのに子どもを授かってしまう。それはマリアにとっては想像もつかないような世界に足を踏み入れることになるのです。
私がもしマリアの立場に立たされたとしたら、「それは、困る」と思います。まずは、ヨセフが理解してくれるかどうか。そして、世間から何と言われるか分かりません。でもマリアは実に自由に、神さまに対して従順に決断していきました。
それは1つの冒険だったでしょう。しかしそうしたマリアの決断があったからこそ、私たち人類の、そして世界の救いのための御計画が実際に大きく動き出していったのです。一人の、まだ二十歳にもならない娘の決断によって始まった出来事でした。
天使はマリアに「おめでとう、恵まれた方」と呼びかけています。この「恵まれた方」とは「すでに恵みを受けた方」という意味です。
ある人は、この「恵まれた方」すなわち、「すでに恵みを受けた方」という天使の「呼びかけ」は、すでに神さまがマリアをお選びになっていること、マリアの決断に先立って、もうすでに神さまの決断があったことを示す言葉なのだと語っていました。
ちょうど何かの賞を受ける時のようです。まずは選ばれることが先です。その結果、「おめでとう」という挨拶が語られるのです。
この「おめでとう」という言葉も、ギリシア語を直訳すれば、「喜びなさい」という意味になります。「あなたに喜びがありますように。おめでとう!」という意味です。
ルカは、「マリア、神さまの愛の中に選ばれている者よ、おめでとう。あなたも喜びなさい」という天使の言葉によって、「喜びなさい」という神さまの思いを、このところに記録しているのだと思うのです。
「おめでとう」、「めでたい」という日本語、この「めでる」という言葉は、「実際に自分の目で見て本当にいとおしい」という意味があるのだそうです。神さまがマリアを、すでに慈しみをもって、いとおしいと感じながら見ていてくださっているということでしょう。神さまが慈しみをもってマリアを選び、めでられたのです。
御子を宿すということは、この時のマリアにとって、必ずしも喜びであったとは言い切れません。
この先、マリアとヨセフが幼子イエスさまを連れて神殿に行った時、シメオンという名の老人が、幼子を見るなり神さまを賛美し、そして預言をしました。「シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った『御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。』」(ルカ2:34)
シメオンは、苦しみと悲しみの預言を語りました。マリアは、この預言の言葉のもとに、御子の子育てを始めなければならなかったのです。
この福音書を書いたルカは、そうしたことを承知の上で、しかも、それにもかかわらず、この苦しみの預言に先立つ、「おめでとう、恵まれた方」という天使の呼びかけによって、マリアが「神さまの愛の中にすでに選ばれている者」であることを記します。
神さまの恵みの決断、神さまの喜びを知らせる決断、その神さまの決断がまず最初にあって、私たち信仰者はそれを受けるように、神さまの恵みに応答し、決断していくのです。
私たちがどのような決断をする時にも、マリアと同じように、「お言葉」が先だってあるということです。そして、お言葉に心の耳を澄ませて聴いた者が、「あなたのお言葉どおりこの身に成りますように」という祈りをもって応答していくのです。

Ⅳ.神さまの決断に支えられ

神さまがお始めになられたお働きは、神さまの定めた時に必ず実現する。世界の片隅で始まった小さな幼な子の物語、これが世の終わりまで揺らぐことなく続いていくのです。そして、救いの完成にまで至るのです。
その最初の1頁、おとめマリアの決断をもって、神さまの救いの御業は実行へと移っていきました。
マリアを見るように、神さまは私たちをご覧になっておられます。慈しみをもって、いとおしいと感じながら見ていてくださるのです。
そして、私たちのために御言葉を用意し、家庭や学校、職場、地域で、神さまの救いのご計画の一端に参加するようにと私たちを召しておられます。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と、マリアのように、その召しに心から応答する者として生かされていきたいと願います。お祈りします。

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生きることも病むことも


2016年11月27日夕礼拝
和田一郎伝道師
詩編13編1~6節
ガラテヤの信徒への手紙4章12~16節

Ⅰ.はじめに

パウロは、ガラテヤ書3章から、ここまでのところで、ガラテヤの信徒に対して、厳しい口調で、正しい信仰理解について語って来ました。たとえば3 章 1 節「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」と相当に厳しい言葉を使って、相手が誤った信仰に流されていることを嘆いてきました。

Ⅱ.パウロの信念

それが今日の聖書個所12節から、口調が変わって、パウロは相手の心情に訴えかけるようになります。12節で「兄弟たち、お願いします」という言葉を使っています。彼らがパウロの教えから離れてしまったこと、憤りの感情から一転して、それでも兄弟として愛していることを伝えます。「わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。」と言うのはどういうことでしょうか?
パウロは、異邦人伝道の使徒です。同じユダヤ人に伝道するのとは違って、生まれ育った背景の違う人たちに伝道する上で、大切にしていた信念、または秘訣のようなものをもっていました。そのことを分かり易く説明したのが、第一コリント9 章にあります。
「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。・・・ 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」(Ⅰコリント9:19-23)
パウロはこのように、自分はユダヤ人ですが、ユダヤ人の習慣や考え方を、捨てる覚悟を持っていました。彼の言う覚悟とは、自分の思いのままにするのではなく、文化の違う異邦人伝道の使徒としての自由です。それは徹底して相手の立場に立って、相手に寄り添うことです。ガラテヤに行った時は、ガラテヤ人のようになって伝えたのです。

Ⅲ.病める者にも

12節の後半から、ガラテヤ教会の人々と出会った頃の出来事を思い出して、次のように語ります。ここでも相手の心情に訴えています。
「あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。」(ガラテヤ4:12-14)
ここに「体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を知らせた」とあります。
パウロは、ガラテヤ地方に赴いた時に、健康な体で行ったのではなく、病気を持っていたようです。具体的には書かれていませんが、パウロは目の病気、あるいはマラリヤの病を持っていたのではないかと言われます。いずれにしてもパウロを苦しめる病があった。パウロがガラテヤで伝道することになったのは、旅の途中で彼が病気の症状がでたことがきっかけでした。ユダヤ人の中では、病気は悪霊の働きだと考えられていましたから、病人を嫌ったり、避けることがありました。ですからガラテヤの人々は病人のパウロを、悪霊の使いのように扱ってしまう誘惑と試練がありました。
しかし、パウロが伝道に行った時、彼らはパウロに対して、いっさいそのような不当なことはしませんでした。それどころか「神の使い」か、また、「キリスト・イエス」でもあるかのように受け入れました。使徒言行録でもリストラと言う町に行った時、バルナバを「ゼウス」パウロを「ヘルメス」とギリシアの神々の使者のように呼んで、いけにえを献げようとさえしました。おそらく、リストラでもガラテヤでもパウロの事を他の伝道者と区別して、特別な使者であると認めていたのでしょう。その特別な使者とは「使徒であるパウロ」ということです。「使徒」という役職は、イエス様によって直接任命された12弟子たちのように限られた人です。パウロはダマスコ途上でキリストに出会い、異邦人伝道の使徒とされました。ガラテヤの人々はパウロが滞在中、病人であったにも関わらず、使徒として敬ってくれました。そしてイエス・キリストを救い主であると、福音を受け取ったのです。
その時は、15節にあるように、自分達がキリストによって救われた幸福に満ちていました。そのことを「自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとした」ほどと、びっくりするような表現でパウロは語っています、パウロは目になんらかの病気を持っていたようです。この手紙の最後に、「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。(6:11)」と言っています。この手紙はパウロが言った事を、誰かが書き記す、口述筆記であったと言われていますが、最後に自分の署名を入れる時に、大きな字で書かないといけないぐらい、目が見えなかったようです。

Ⅳ.生きること、病むこと

病気と闘ったクリスチャンに三浦綾子さんという作家がいます。その三浦綾子さんは、「病気の百貨店」と言うほど、病気を持ちながら執筆した人でした。三浦綾子さんの一生は、ほとんどが病気との闘いで、24歳の時に肺結核と脊椎の病気で13年間もの闘病生活。ガンや、パーキンソン病など多くの病いがありました。三浦さんは、病室に机を持ち込んで口述筆記をしたそうですから、パウロと重なる所があります。
いろいろな病気をしてきましたが、ガンを告知された時は不思議な境地になったそうです。どう説明してよいか分からない、深い淵の底にあるような、何とも言えない静かさに満たされた、と言います。その日から、朝目覚めると「今日は私の命日だ」と思うようになった。誰にとっても、今日は命日になるかも知れないのだ。病気のあるなしに関係なく、世界の幾万人の人が今日の夕日を見ずに死んでいく。今元気で笑っている人にも、今後の計画を練っている人にも、病気の人にも健康な人にも、老人も子どもも、誰にだって今日一日の保証はない。「今日は私の命日だ」と、それを身に刻み付けるように思い始めました。
さらに、ガンを特別席から引きずり降ろそうとしたそうです。「風邪を引いた」とあっさり言えるように、「ガンです」とあっさり言うようにした。家族がひた隠しに隠すような苦労をしてほしくなかったので、我が家ではガンが普通のこととして語られるようになった。
こうして、三浦綾子さんは病気を持ちながら、方々へ取材や講演をしながら執筆活動を続けました。
三浦さんは「病気のおかげで、私の書く本が多くの方々に読んでいただけるし、感動していただける」と言って、自分自身が苦しみを通ることは、よい作品が生み出されるから“感謝”だったそうです。なぜなら「福音を伝え、ひとりでも多くの人がまことの神様を信じてほしい、神様へ心を動かしてほしい」という祈りを持って書いていたからです。

パウロがこの手紙の送り先、ガラテヤに、かつて伝道旅行に行った時、彼らは尊敬と信頼をもって受け入れてくれました。パウロが病気であるにもかかわらず、決して見下したり、蔑んだりせずに、パウロが教えるイエス・キリストの福音を受け取ることができました。
「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。…すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。」(Ⅰコリント9:22)
パウロも病気のお陰で、ガラテヤに滞在することができました。病気のお陰で、パウロの熱意が、彼らの心をキリストへと動かし、本当の救いに預かった恵みを、パウロに感謝することができたのではないでしょうか。病気という、一見、目に見える有り様はマイナスの要素でしかありません。出来る限り病気にはかかりたくないものです。しかし、健康であっても病気であっても、今日一日生きられる保証は誰にもありません。健康でも病気であっても、神様はそれを超えたご計画をもっていて、すべてが益となる、善いようになるように働かれるお方です。

Ⅴ.まとめ

私たちは、ガラテヤの人たちのように、本当の救いに預かった恵みを感謝することができたのに、15節からあるように、いったいそれは何処へ行ってしまったのか?と問われる時があります。自分勝手な信仰に踏み外してしまう過ちを繰り返してしまいます。パウロが近くにいた時の信仰は喜びに満ちて、確かなものでした。パウロのような、私たちに福音を伝え、育てて下さった信仰の先輩たちがいなくても、教会に繋がり、御言葉と祈りに生きる信仰生活でありたいと願います。病気の人にも健康な人にも、お年寄りも子どもも、誰にでも、与えられている、今日という一日が、感謝で満たされますように。お祈りをいたしましょう。

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沈黙の恵み


2016年11月27日
第一アドベント
松本雅弘牧師
詩編77編1~21節
ルカによる福音書1章5~23節

Ⅰ.ザカリアに起こった出来事

祭司ザカリアが神殿の奥に入って神にお仕えしている時に天使が現れ、「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。」と伝えられました。
ところが、知らせを聞いたザカリアは戸惑います。そして「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」と答えたのです。その結果、彼は沈黙を強いられることになりました。

Ⅱ.強いられた沈黙

よく考えてみれば、私たちも、時に沈黙を強いられる場面に出くわすことがあるように思います。失敗してしまった時、病気など思いがけない状況に出くわす時、厳しい現実に直面し、モノが言えなくなる。そんな経験をすることはないでしょうか。それまで自信を持って語っていたことが一切語れなくなる。この時のザカリアがそうでした。沈黙を強いられ、モノが言えなくなったのです。妻エルサベトは、口は利けましたが、その出来事に驚き、身を隠したことが聖書に書かれています。彼女も夫と共に黙り、引きこもってしまったのです。
説教題に「沈黙の恵み」と付けました。この時のザカリア夫婦は、すぐにこの出来事を恵みと受け取れなかったと思います。けれども、私は、ふたりの静かな日々を思うと、この夫婦がこの沈黙の期間、どんなに深く神さまの恵みを味わったことかと思います。
その証拠に、この10カ月にわたる黙想の日々の後、ザカリアの口から飛び出した第一声、それは、「ほめたたえよ」という言葉でした。
「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」(ルカ1:68)という賛美の言葉です。後に「ザカリアの賛歌」と呼ばれるこの詩編の歌は、10か月の間、沈黙を強いられたことにより、自らを吟味し、神の恵みを数え、心の中で反芻し、味わいながら賛美の言葉へと導かれ歌い続けたものでした。それがこの「ザカリアの賛歌」です。
この沈黙の期間、ザカリアは天使ガブリエルの言葉の一字一句を深く味わったことでしょう。そして口が利けるようになった時、「あなたの妻エリサベトは男の子を産む。…」と、天使ガブリエルが取り次いだ神の言葉の一つひとつを、漏らさず伝えることによって、その御心を明らかにしていったに違いないと思うのです。
ある人が「神の前での沈黙を知る者だけが有益な言葉を語ることができる。自分がしゃべり続けるということは不信仰のしるしでもある」と語りました。この時、本当に大切な言葉を語るため、神の御心に生きる者とされるために、ザカリアは沈黙を強いられたのです。

Ⅲ.ザカリアの戸惑い

私は今回の聖書箇所を読みながら、天使が現れた時のザカリアの戸惑いに心が留まりました。祭司という務めは、決まったことを決まったとおりに行う仕事でもありました。
ザカリアは、生ける神さまの御前に出て、務めを順序正しく滞ることなく執り行うことができるように心配りしながら、緊張感を持って務めを果たしていたと思います。
その時、式順どおりに行かないことが起こりました。突然、天使が現れ、香壇の右に立ったのです。それを見て、彼は不安になり恐怖の念に襲われました。考えてみると、これはとても皮肉な話です。ザカリアは、目に見ることは出来ませんが生きておられる神さまの御前に出ていたはずです。その祭司が、生ける神さまの臨在に触れた時に、不安に襲われたというのです。
ある人はこの時の彼の様子について、「ザカリアの手順が狂った。神が邪魔をされた」と語っていました。ザカリアは神さまに邪魔をされたので慌てたのです。順序正しく滞ることなくやろうとしていたのに邪魔が入った。その張本人が神さまであったということでしょう。
今まで何十年と神さまに仕えてきたベテラン祭司のザカリアが、神さまのリアルな働きに触れ、不安になりおじ惑っているのです。何か滑稽です。
でも私たちは、こうしたザカリアを笑えるでしょうか。これは彼だけの問題ではありません。私たちは今日も礼拝に来ました。だいたい1時間から1時間10分で終わります。1つひとつの式順に従って礼拝は進みます。でも、そうした礼拝、あるいは日常のクリスチャン生活はどこか決まりきったもの、もっと言えば、この時のザカリアのように、誰からも邪魔されたくない、邪魔され不安にさせられたら困るという思いが、私たちにないだろうか、と思わされたのです。
「ザカリア」という名前は「神に覚えられている者」という意味のある名前です。その名前を帯びた祭司がザカリアです。しかし、その神さまから救いの言葉が与えられた時、彼は不安になり恐怖を覚えたのです。何故なら想定外だったからです。神さまが、彼の人生の今、この場面に直接介入されることを想定せずに信仰生活を送っていたからです。これはザカリアだけの問題ではありません。

Ⅳ.沈黙の恵み―神のシナリオを受け取り直すために

少し私たち自身に当てはめて考えてみたいと思います。「もしかしたら、私たちの生活は、神さまに邪魔されたら困るような生活になっていないでしょうか」ということです。
私たちは自分で自分の人生のシナリオを描きます。私も学生の時にシナリオを描きました。一般企業に就職する時にも困らないようにと語学の試験でAを取りたいと思いました。もし、その時点で、神学校に行くシナリオを描いていたら、先週お話しした、あんな馬鹿なことをする必要もなかったと思います。大学時代、語学でCの成績が付いても神学校の入学試験には関係ないわけですから……。
神学校では、もっと勉強を続けたいというシナリオを描いていました。でも神さまは、卒業後にすぐに教会に仕えるようにというシナリオを用意しておられました。このように、私たち1人ひとりは、自分の人生を自由に設計し、夢を抱き、シナリオを描くわけです。でも、クリスチャンになった後、そして神さまとの交わりが深まる中で、私たちの心の中に1つの、不安のようなものが生じることがあるでしょう。それは「果たして、私が描くこのシナリオは、神さまが私のために描かれるシナリオと同じかどうか…」という問いが起こるからです。
もしそうした問いを心深くに持つならば、あるいはその問いに気づいたならば、自分で描いたシナリオどおり、滞りなく、手順どおり、物事が進むようにという自分の計画、思いを、もう一度神さまの前に差し出すことが必要になります。神さまは、それをザカリアに求めたのです。
こうしたことを考える時、私はいつも創世記に出てくるヨセフを思い出します。ヨセフもシナリオを描きました。牢屋に入っていた時に、給仕役の長の夢を解き明かし、彼によってヨセフの身の潔白が証明され、牢屋から解放されるというシナリオです。ところが神さまはもっと壮大なシナリオをお描きになり、ヨセフにその一端を担って欲しいと考えておられたのです。
仮にヨセフが願ったとおりのタイミングで解放されたとしたら、2年後にファラオの夢の解き明かしはなかったかもしれません。そして、ファラオとの出会いがなければ、彼が総理大臣になることも、そして、もっと大事なこと、ヤコブの家を始め、エジプト全土、その周辺諸国の人々の救済も難しかった事でしょう。
ヨセフが願ったように獄からの解放がなかったこと、これが神さまのシナリオでした。
神さまは私たちが手に握りしめている宝より、もっと素晴らしく豊かなシナリオを用意しておられるのです。
預言者エレミヤは「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(エレミヤ29:11)と語っていますが、私たちはそのことを受け止めるために、神さまの前に静まり、御心を聞く時を必要とします。生活の中に余白を必要とするのです。ザカリアには10か月の余白が必要だったのでしょう。
箴言に「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である。」(16:9 口語訳)とある通り、私たちの側に、神さまの介入を受け入れる余白を備えることです。それは、私たち1人ひとりにとって、また、教会にとっても必要なことです。
カール・バルトは語りました。「われわれ人間の自然の営みが、神によって妨害されない限り、それは癒されることはない」と。神さまに妨害された時、すなわち神さまの介入が起こった時に初めて、私たちの本来の恵みの生活が始まります。そして、それはすでに始っていることを、心に留めながら、1週間を歩み始めて行きたいと思います。
お祈りします。

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社会人と信仰の問題点


2016年10月30日
秋の歓迎礼拝
和田一郎伝道師
ペトロの手紙一 2章13~25節

Ⅰ.はじめに

今月は歓迎礼拝で「社会で働くクリスチャン」というテーマでメッセージをしております。
昔と違って今は仕事をする環境も、大きく変わったと思います。人との繋がりもインターネットの普及で、大きく広がりました。今の時代はルールをしっかり守らなければならないという法令遵守が厳しくなってきて、社会も明らかに不寛容になりつつあるように感じました。そのことを「不寛容社会」などといったりする時代です。

Ⅱ.ペトロが手紙を書いた時代

今日の聖書個所のペトロが手紙を書いた時代も、不寛容な時代でありました。この手紙はローマにいたペトロが、一世紀末に迫害の中にある教会に宛てて書いたものです。迫害の中で、キリスト者としてどう生きるべきか? このことをペトロはここに記しています。
13~14節には「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと・・・総督であろうと、服従しなさい。」とあります。ペトロは手紙を読んでいる、迫害の中にいるクリスチャンに対して、「人間の立てた制度、皇帝や総督達に従いなさい」と勧めています。一般的な考えでは、これとは反対に自分達を苦しめる政府や企業や上司に従うことなどできるものか? と思うのが正直な思いです。
また、続く15節で「善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。」と記しています。先ほど、今の日本の世の中が不寛容だと申し上げましたが、少し前の時代までは、ヘイトスピーチのような人種差別的な発言や、障碍者の存在を否定するような不寛容な考えが、これだけ表にでることはなかったように思います。「愚かな者たちの無知な発言」これを封じることは、神様の御心だとしています。それにはまずこの社会の一員として、国や会社や組織の中で、その制度に従い、善を行うように勧めているのです。「そうは簡単に言うけれども、難しい」と言いたくなることが書かれています。
しかし、これはペトロだけではなくて、パウロも同じように指摘していることです。パウロは「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。・・・」「権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。」(ローマ書13章1~2節)
このパウロとペトロの教えは、イエス様から教わったことを反映しています。イエス様は
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われました。これは、信仰者は抑圧されているローマ帝国に対して、税金を払うべきか?との質問にイエス様が答えたものです。私たちは神の民だから、神の御心に適うようにいきなさい、しかし税金は税金で所属している国に対して払いなさい、というものでした。
これは、この世の中で権力をもった人々との付き合い方について、ひとつの示唆を与えてくださった言葉です。イエス様は「この世の権威に従うな」とは決して言っていません。パウロもペトロもこの教えを受け継いでいます。キリスト者としての生き方を、しっかり定義しています。
先ほど話しましたとおり、当時はクリスチャンに対する迫害がありましたが、その時彼らは反乱を起こすのではなく各地に散っていきましたが、ユダヤ人はローマに反乱を起こしました。エルサレムが陥落した後も、ユダヤ人達は反乱を続けました。また他の地域でもローマ帝国の圧政に対する反乱は絶えずありましたが、その中でも当時のクリスチャンは政治的反乱、反逆をしなかったのです。ただ迫害があるたびに、各地に散っていきました、それはなぜか?
先ほどの「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とイエス様が言わんとされていることは、キリスト教の世界観はローマ帝国を超越しているからです。税金を払う義務は守るように、しかし国籍は天国にあるのです。
先ほども触れましたローマ書13章1節「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」
私たちの住む国や会社やあらゆる組織は、すべて神様の権威に由来したものです。この国の政治家も経営者も、あらゆる管理者も神の権威の基(もと)にあります。
イエス様がもたらした神の国は、この世の被造物すべてを覆うものです。その中に、ローマ帝国が、ギリシャや日本も、会社も学校も入っているのです。その中に私たち人間は、置かれており、自由の身です。どこの国、どこの人種、どこの職場や家庭においても神の国に住む、自由な者とされました。

Ⅲ.キリスト教世界観

しかし、せっかく自由の身となっている私たちも、かつてのユダヤ人が、ローマ帝国に抵抗するように、「自分と職場」、「自分と学校」、「自分と世の中」を、それぞれ対峙させてしまう、過ちをしてしまう事があります。「教会と職場」「教会と学校・家庭・政治・地域社会」とを分けてしまう。神の国と、そうでない国があるかのように分けてしまうのは、神様ではなくて、私たちです。ペトロの手紙2章16節にあるように、神の国に住むわたしたちは、神の僕であり自由な者です。
先ほど、神の国は、この世の被造物すべてを覆うもの、その中に職場も学校もあるのだと、いいました。これが「キリスト教世界観」という世の中の見方です。この「キリスト教世界観」をもう一つ身近な視点で見たいと思います。
例えば、今日教会の門を入って直ぐ右側の花壇に目を向けましたら、ブルーの花が咲いていたのですね。「ああ綺麗だな」って思うのです。でもそこまででしたら、神様を知らない一般の人達と同じです。私たちは信仰の眼差しで見た時、神様が造られたデザイン、不思議な秩序の中にある色合いや形に、思いを馳せることができる。そうすると、私たちが人生で出会うことになったお一人、お一人にも同じ眼差しを向けることができるはずです。
他の人から見れば、よくあるような人との出会いも、偶然ではなく、神のご計画の中で備えられた大切な出会いであると思うのです。ペトロの手紙に戻り2章18節のように、人間関係の中で、無慈悲に感じる時、私たちクリスチャンはどのように生きるか?この事が問われます。愛によって善を行い、しかし相手の言葉や態度によって苦しむこともある。しかし、ペトロは語りかけるのです。周囲の人達は分からなくても、イエス様は知っておられる。神様が望んでおられることを自発的にするだけだ、そう確信することによって、私たちは、自分の人生を肯定的に生きることができます。これがペトロの言う「自由」です。
この新約聖書が書かれた時代、ローマ帝国が栄えた時代にキリスト教は、瞬く間に広まっていきました。その要因はいくつかありますが、各地にいたキリスト者が善良で、周囲にたいへん好意をもたれていたことが、あったそうです。地の塩・世の光となって広がっていきました。社会の中で小さくとも光を放つことができれば、やがて他の同じ光と繋がって、光の輪は世の中を変える力となります。
先日、本屋に行きましたら渡辺和子さんの『置かれたところで咲きなさい』という本が目にとまりました。置かれたところで咲く、というのは、そういうことかも知れません。その場に置かれたのは、神様の御心、神様のご計画があるはずです。

Ⅳ.まとめ

私たちは、「自分の信仰生活」と、「この世の社会生活」を区別してしまうという問題を作ってしまいます。その対立軸からは、世の中に光を放つことはできません。世の中の「不寛容」に「不寛容」で報いてはならないからです。私たちは不寛容には「赦し」をもって、それぞれ、置かれている場所で咲くだけではないでしょうか。なぜなら、わたしたちの罪の為に、イエス様がかかられた十字架、それは「赦し」だからです。
今月は「社会で働くクリスチャン」というテーマで、4人の方が証しをしてくださいました。みなさんも、それぞれ置かれた場所で、十字架の証し人として、歩んでいきましょう。

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わたしの願いと神さまの願い


2016年10月23日
秋の歓迎礼拝
松本雅弘牧師
マルコによる福音書10章46~52節

Ⅰ.願いを持って生きる私たち

私たちは誰もが願いを持って生きています。私たちが口にする願いや、心に浮かぶ願いとは、とても不思議なもので、よくよく考えてみますと、結構あいまいで、場合によっては、本当に何を願ったらよいかも分からないということもあるのではないでしょうか。

Ⅱ.バルティマイ

今日の箇所には盲人バルティマイが登場します。彼ははっきりとした願いを持っている人でした。ある日、イエスさまが歩いて行かれることが分かると、イエスさまに向かって、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と呼びかけ、叫び続けたのです。周りに居た人々は、そうしたバルティマイを叱りつけ、黙らせようとしています。ところが、そうされても彼はますます激しく叫び続けました。
いかがでしょう。こうしたバルティマイの姿は、悩みを持つ私たちに、もう一度、真剣になってイエスさまに向かって訴え続けるように、イエスさまに向かって祈りを捧げるように励ましを与えている姿のように思います。
今日もこうして礼拝に集いました。目に見ることはできませんが、私たちは、ここにご臨在なさる神さまに向かって賛美を捧げ、聖書の言葉と、説教を通して私たちに語りかける神さまに、心の耳を傾けるために集ってきたのです。そして同時に、私たちの心の中にある願い、それも切実な願いを、イエスさまに向けて祈るために集ってきたわけです。
確かに、私たちの捧げる祈りが、すぐに叶えられるかどうか、神さまによって聞かれるかどうかは分かりません。ただ、イエスさまがお教えくださっているように、私たちの側で出来ることがある。それは、熱心に求め続ける、門をたたき続け、探し求め続けることです。そのようにして、私たちの願いを神さまに知っていただくために、訴え続けることだと思うのです。
今日の聖書の箇所を見ますと、そのように訴え続ける時、場合によっては、そこに妨害や障害物が入り込むかもしれない、ということが知らされます。
「そんなに叫んで何になるのだ」という声が、周囲から聞こえて来るかもしれません。また、「教会に通って、また熱心に祈っても、結局、無駄なんじゃないか」とか、「それはあなたの自分勝手な願いでしょ」など。何も言わないでじっと見ている周囲の人々の心の中の声が、彼らの表情や態度を通して、私たちに語りかけてくるように感じてしまうことがあるのではないでしょうか。
私たちの心の中でも、「これは困った時の神頼みではないか。自分の勝手な願いのために、神さまを利用していいのだろうか」とか。本当に様々な声が心に響き、もうそれだけで疲れてしまうことがあります。
聖書が教える信仰とは、いわゆる「ご利益信仰」とは異質のものです。自分の必要をかなえてもらうための信仰ではありません。ただ、私たちが決して忘れてはならないこと、それは、弟子たちが「祈りを教えてください」と頼んだ時に、イエスさまは何と、「日ごとの糧を今日も与えて下さい」と、毎日の必要を祈るように教えてくださったということです。
バルティマイは目が見えないという苦しみの中にありました。ですから、「主よ、憐れんでください」と叫び求め続けたのです。多くの人々が彼を叱りつけ、黙らせようとしました。でも彼は負けません。祈り、訴え続けたのです。するとどうでしょう。イエスさまが立ち止まってくださったのです。
イエスさまはこのバルティマイの訴えに立ち止まって、ご自分の予定を変更してくださったのです。ご自分の時間をバルティマイのために使い、そして、「あの男を呼んで来なさい」と言われたのです。
呼ばれてイエスさまのそばに来た彼に向かって、イエスさまは「何をしてほしいのか」と聴いてくださいます。願い事があるならば、遠慮せず、隠すことをせずに、願うことを残らず話してごらんなさい、と励まし、促す言葉をお掛けになったのです。
バルティマイはそのイエスさまの眼差し、その励ましの言葉に背中を押されるようにして、「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えました。イエスさまは、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言って、彼はたちまち見えるようになったのです。

Ⅲ.「悩みの日にわたしを呼べ」

(詩編50:15、口語訳)
旧約聖書の詩編50編15節は、口語訳聖書では次のようになっています。「悩みの日にわたしを呼べ」。
バルティマイと出会ってくださったイエスさまのお姿がここに現われているのではないでしょうか。そして、神さまのお姿が現れているのではないでしょうか!
聖書は神さまの自己紹介の書です。今日の箇所で、イエスさまを通してご自身を示された神さまとは、まさに「悩みの日にわたしを呼べ」と言われるお方そのものでしょう。聖書が示している、私たちの神さまは、「悩みの時には自分のことを呼んでくれ、私が居ないかのようにして悩み続けるな。悩みの時にはわたしを呼ぶのだ」と、願い求めておられるのです。
時に、私の願いと神さまの願いがずれることがあります。ちょうど、子どもの願いと母親の願いがずれてしまうようにです。
でも、神さまは、聖書の中に神さまの願いをはっきりとあらわしておられます。それは、「悩みの日にわたしを呼べ」ということです。
悩みの日に、悩みの時に、あなたが本当に助けてもらいたいこと、してほしいことを、私に向かって祈れ、と言ってくださるのです。
「わたしを呼ぶ」、つまり、「神さま、主よ」と呼ぶということは、「祈る」ということです。あなたの心の中にある願いを、祈りとして表現しなさい。遠慮しないでいい、あなたの願いを私に向かって祈りなさい、と促しておられるのです。
何故、神さまは「悩みの日にわたしを呼べ」と言い、呼び求める者に、イエスさまが言われたように、「何をしてほしいのか」と、そのままに尋ねてくださるのでしょう。
祈る側の私の方に、その祈りを神さまに聞いていただくたけの資格はありませんし、神さまの側にも私の祈りを聞かなければならない義務もないはずです。それなのに、何故、神さまは、「悩みの日にわたしを呼べ」、「何をしてほしいのか」とわざわざ聴いてくださるのでしょうか?
この問いかけに対する聖書が語る答え、それはただ1つ、神さまが愛のお方だからだ、ということだけです。
神さまは、私たちを愛してくださっている。ご自身の独り子をさえ十字架にかけてくださるほどに、私たちを大切な者と受けとめてくださっている。それ以外に答えが見つからないのです。
ある人が語っていました。愛には理由がない、と。神さまは私たちの天のお父さんです。そのお方が「悩みの日にわたしを呼べ」と言ってくださいます。そして、私たちが本当に助けを必要とする時に、「主よ、わたしを憐れんでください」と呼ぶことが許されているのです。いや、神さまが呼ぶようにと願っておられるというのです。これこそが、神さまの願い、イエスさまの私たちに対する願いなのです。

Ⅳ.あなたの願いを祈りに変えて、主を呼び、主に従う人生

最後に、もう一度、今日の聖書箇所を見たいと思います。彼は「道端」にいたのです。社会が彼に与えていた居場所は、人が歩く道ではなく、その端っこでした。イエスさまを見つけ、道端から立ち上がり、「主よ、憐れんでください」と叫びながら道に立った途端、人々は彼を「道端」に引きずり戻そうとするのです。でもイエスさまは違っていました。社会が押し付けてきた「道端」から、道のど真ん中に招かれました。
人間の願いが、神さまの願いと1つになった時、彼の生き方に変化が起こりました。そして新しい、本当に人間らしい人生が始るのです。
盲目の彼が見えるようになったことそれ自体、大変なことなのですが、回復された目で、彼が何を見るか、それはもっと大切なことかもしれません。
この人は、その目でイエスさまを見たのです。道を進まれるイエスさまをしっかりと見て、そのお方から離れることなく、そのお方に従ったのです。
イエスさまに従う人生には、生きる意味があります。慰めと喜びがあり、使命が与えられます。それは、神さまの願いに応える人生であり、神さまの愛に守られる人生です。
あなたの願いを祈りに変えて、神さまに呼びかける人生を歩んでください。そしてイエスさまの歩かれる同じ道の上を、イエスさまに従って歩む人生を進んでください。
それが愛と恵みの神さまに良くしていただいた私たちに対する「神からの願い/神の願い」なのです。お祈りいたします。