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主日共同の礼拝説教

個のちから

和田一郎副牧師 説教要約
ダニエル書7章13-14節
ルカによる福音書4章16-30節
2023年1月22日

Ⅰ. ふるさとの山はありがたきかな

最近、叔母の家に行くことがよくあります。そこから見る富士山と大山が見事なので、いつも立ち止まって眺めています。石川啄木の歌に「ふるさとの山に向かひて言うことなし ふるさとの山はありがたきかな」というものがあります。叔母を訪ねるのはふるさとに帰るような懐かしさを覚えて、そこで、ふるさとの山、富士山と大山の景色を眺めて「ありがたきかな」と思えるのですね。今年の目標の一つとして、その大山に家族で登ろうと思っています。

Ⅱ. 故郷ナザレの反応

イエス様も、生まれ育ったふるさとの町に帰ってきました。しかも、一人で行かれたようなのです。イエス様の公生涯は、弟子たちと一緒にいるようなイメージがありましたが、今日の箇所では、一人ナザレの町の会堂へと入っていったのです。そこで17節「預言者イザヤの巻物が手渡されたので、それを開いて、こう書いてある箇所を見つけられた」とあります。当時の聖書というのは、手書きで書かれた巻き物です。今のように六十六巻が一冊の本になっているというものではなくて、イザヤ書であれば、イザヤ書だけの巻き物なのです。
朗読をされたあと、説教をされました。21節「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言されました。イザヤ書の内容は、主の霊が私に臨んだ、主が私に油を注がれた、主が私を遣わされたというのです。「私」というのはイエス様ご自身のことを言うのですから、イザヤの預言が、この私に実現したと語られたのです。
最初は説教を聞いて素晴らしいと褒めたのです。ところが22節「この人はヨセフの子ではないか」と言う人がいました。ナザレは小さな町で人々は、イエス様の両親であるヨセフとマリアのこともよく知っていました。その会衆の反応を見てイエス様は言われました。イザヤ書に書かれている救い主が現れるという預言が自分のことだと言うのなら、奇跡を行って見せてみろというに違いないと、先を見通して言われたのです。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだからです。イエス様が神から遣わされたという証拠を見せてもらいたいと、彼らは思っているのです。そもそも預言者というのは、神様の御言葉を預かって語る特別な人です。ところが小さな頃から知っているイエス様の言葉は、あの大工の息子の言葉としか聞くことができなかったのです。
そこで、譬えに出されたのが、預言者のエリヤとエリシャの話です。エリヤはイスラエルに3年6カ月にわたる大飢饉が起こった時、イスラエルではなく外国のシドンのやもめの所に行き、彼女の家族を救ったのです。エリシャもイスラエルに皮膚病で苦しんでいる人がいるにもかかわらず、外国人のナアマンの皮膚病を癒された。エリヤとエリシャの話は、ユダヤ人たちが、自分たちこそ神に選ばれた特別な民で、自国優先意識をもっている人は救いに与れなかった。むしろ外国人に救いがもたらされた話なのです。それは、ナザレの人達よ、あなた達と同じだろうとイエス様は言われたのです。
イエス様の話しを聞いたナザレの人々は怒りました。彼らは総立ちになってイエスを町の外に追い出し、それだけではなく崖から突き落として殺そうとしたのです。その殺意の背景にあったのは、イエス様が預言者だというのなら、奇跡を起こしてみろ、私たちが見てやる、神の言葉を扱う者かどうかは、自分達で判断するという思いがあったのです。ところが、救いに与るのはあなた達のような者ではない、とイエス様に言われたことが殺意になっていった。要するに正しいことを判断するのは自分である。いや正しいとか悪いとかを超えて、この町で偉いのはこの自分だという自己中心的な考えです。

Ⅲ. 人々の殺意

ナザレの人々の殺意は今の世界と重なるところがあるのではないでしょうか。ロシアのジャーナリストが、ウクライナとの戦争で戦死した母親に取材を申し込んだそうです。しかし、戦争に批判的なジャーナリストの取材に応じると、国から戦死した遺族に支給されるお金がもらえなくなるから拒否したと。その母親は、そのお金を娘の家を建てるのに使うのだそうです。つまり息子の命を悼むよりお金を優先しているのです。かつて、ソ連がアフガニスタンに侵攻して、戦死したロシア人の母親たちに取材をした時は、息子たちの命を惜しんで、戦争をはじめた国の指導者たちを批判していたといいます。ロシアだけではなく世界中で命の尊厳が薄らいでいる、自国優先主義が広がっています。イエス様を殺そうとしたナザレの人々は、自分たちの判断を第一として聞く耳をもちませんでした。それは、私たちも含めて他人事ではないと言えるのではないでしょうか。

Ⅳ. 故郷で受け入れられない

今日の聖書箇所の最初のところで、イエス様はご自分の育ったナザレに行き、お一人で会堂に入っていかれました。そして、終わりに30節「イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」と書かれているのが印象的でした。一人、会堂に入って行き、一人立ち去って行かれた。人々の殺意の中を、受け入れてもらえない、という虚しさを覚えて去っていくイエス様の背中が思い浮かぶのです。イエス様は、救いをもたらす救い主でありながら、一人の人として会堂に入られ、一人去って行きました。私たちが生きている、この世の生活においても孤独があります。多くの人の中に住んでいても、周囲からは見えない孤独が広がっています。殺意を感じながら生活している人がいます。イエス様はそのような淋しさや、孤独や、殺意の中を歩まれていました。私たちと同じ、一人でいる孤独な淋しさ、虚しさ、殺意の恐ろしさを分かってくださる方です。そういうことは誰にでもある、なんて扱わないのです。人にはまったく理解してもらえない虚しさを味わったイエス様だから、私たちの痛みに寄り添ってくださるのですね。
わたしの家族は、5歳の息子が夜寝る前に布団の上で絵本を読んだりして過ごすのですが、妻が「最近、年をとったかな?」と言ったら、息子が「ママもいつか天国に行っちゃうの?」と言うのです「それはそうだよ、いつか天国に行くのだよ」と答えると、息子は「ワー」と大泣きしました。人はいつか死を迎えるということが、自分の親もいつの日か・・・と感じていたようです。それから「パパとママが天国行っちゃうと、ボク一人になっちゃうよ」「ボクご飯作れないよ」と一気に言いました。イエス様も、死というものを意識して祈りました、「できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください」と。
わたしたちは一人では、どんなに力を尽くしても打ち勝つことができない弱さがあります。その私たちと同じ弱さを、イエス様は身に受けてくださいました。イエス様が歩まれた淋しさや恐れは、私たちの淋しさや恐れと同じです。しかし、この方はイザヤ書にあるように、主の霊が望んだ方、主が油を注がれた方です。完全に人であり、完全に神であられる唯一の力を持っている方です。
世のすべての罪を一人背負って十字架に架かってくださり、孤独を味わってくださいましたが、この方は孤独で終わる方ではありません。死に打ち勝ち、神の家族という、ふるさとを作ってくださったのです。ご自身は故郷で受け入れられませんでしたが、私たちのために、永遠のふるさとを天に備えて下さったのです。「私たちの国籍は天にあります。」唯一の方の後ろ姿に、従っていれば、小さな私たちであっても倒れることはありません。  
お祈りいたしましょう。

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主日共同の礼拝説教

神様がくれる参加賞

金山達成神学生  奨励要約
エレミヤ書9章22-24節
フィリピの信徒への手紙3章10節-4章1節
2023年1月15日

Ⅰ.新年の目標

 年が明けて、早くも半月が過ぎようとしています。皆さんは、2023年、どのような目標を立てたでしょうか。
 本日お読みしたフィリピの信徒への手紙の3章では、手紙の著者パウロが、フィリピという町の教会に対して、ある目標を指し示しています。この手紙から、この1年私たちはどのように進むべきか、思いを巡らせてみたいと思います。

Ⅱ.パウロが目指している目標とは?

 10-11節を見ると、パウロは、自分の人生とイエス様の人生が重なる、そんな生き方をしていきたいと願っていることが分かります。つまり、イエス様のように生きること、それが人生の目標だ、と語っているのです。
ただ、イエス様のように生きる、というのは簡単なことではありません。12-13節を見ると、パウロ自身もまだその状態に到達したわけでもないし、何とかして捕らえようと努めている、と語っています。
 でも、私たちはこの地上生涯を歩む中で、少しづつではあるかもしれませんが、イエス様に似た者へと変えられていくことができます。そのカギは何か。自分の人生とイエス様の人生が重なっていくためのカギ、それは、イエス様にあって喜ぶことだ、とパウロは語ります。このフィリピの信徒への手紙の、大きなテーマになっている言葉は「喜び」なんです。

Ⅲ.喜びつつ目標達成を目指す

 フィリピの信徒への手紙は、パウロのフィリピ教会に対する献金の感謝をきっかけに書かれ、「喜びなさい!」という励ましのメッセージが込められています。
 「喜びなさい!」と言われると、「そんないつも喜んでいられるときばかりじゃないよ…」と思われるかもしれません。この手紙での「喜びなさい」という勧めは、決して無理にポジティブでいなさいとか、空元気(からげんき)で頑張りなさい、という意味ではありません。
ここでの「喜び」とは、イエス様のことを知り、そしてイエス様の見方でこの世界を見られるようになっていくときに、今この瞬間から生き方が変えられていく、そしてその変化はやがて完成する、という期待感から来る喜びです。感情や環境に左右されるものではなく、神様が十分信頼できるお方であるからこそ生じるものです。
イエス様のように生きるという目標は、私たちが目指し続けるべき目標です。

Ⅳ.目標を達成するためのポイントは?

 パウロは他の手紙でも、信仰生活をマラソンのような競技に例えて話していますが、このマラソンを走るうえでの大事なポイントは、13節にあるように、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向ける」という、前進しようという姿勢です。少しづつでもいいから、前に進もうとする。現状に満足しない。上昇志向とも言えるような姿勢が大切になってきます。すべての人は追求者であれ、ということです。
 ここで1つ引っかかるのは、「後ろのものを忘れ」という表現です。これは、過去の記憶を無くせ、とか、過去を無かったことにしろ、ということではありません。今までに体験した神様の恵みと祝福を思い起こすことや、神様がこれまでに自分の人生をどのように導いてくださったかを思い返すことは、とても大切です。それは、マラソンを走るためのモチベーションになります。なぜなら、「これから先、神様は私の人生にどんなことをなしてくださるのだろう」と期待することができるからです。
「後ろのものを忘れる」とは、「過去に囚われてはいけない・縛られてはいけない」ということです。パウロも、以前の罪や弱さを忘れてしまったのではありません。その状態から神様によって変えられた、という恵みを喜んでいるからこそ、大胆にイエス様のことを語ることができました。
 過去の恵みを定期的に思い出し、忘れないようにすることは大切ですが、「自分は過去にこんな失敗をしてしまった…」と歩みを止めてしまうべきではありません。私たちは、この2023年、そしてその先の人生に、神様がなしてくださるみわざに期待したいと思います。

Ⅴ.目標達成の先にあるものは?

信仰生活というマラソンを走り終え、イエス様に似た者へと変えられていくその先には、一体何が待っているのでしょうか。14節には、「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得る」と書かれています。この地上での信仰生活というマラソンを終えたときには、神様が全員に賞を与えてくださる、というのです。神様がくれる参加賞、です。
 この参加賞は、形式的なものではありません。信仰生活というマラソンは、人によってスタート地点も違いますし、走るペースも違います。時には倒れてしまうことや、逆走してしまうことがあるかもしれません。それでも、最後まで走り切った一人一人の存在を心から喜んでくれて、イエス様と顔と顔を合わせた交わりをもつことができる。パウロは、そのようなゴールがあるということにワクワクしながら、信仰生活というマラソンを、それぞれのペースでいいから、走り続けなさい、と勧めているわけです。

Ⅵ.おわりに

信仰生活のマラソンは、1人で走れるものではありません。パウロはこの手紙の中でずっと、「きょうだいたち」とか「あなたがた」というように、教会全体に語りかけています。17節には、「きょうだいたち、皆一緒に私に倣う者となりなさい」と、パウロ自身の目標をシェアしています。
私は2021年の4月から高座教会で研修をさせていただいて、もうすぐ2年が経とうとしています。この2年間、本当に充実した研修をさせていただけたことを感謝しています。私が研修を通して高座教会に対して抱いたイメージは、「信仰生活というマラソンをみなで一緒に走っているキリストのからだ」です。多くの方々が集っていて、1人1人、歩んできた道のりや考え方も違うけれど、お互いのことを尊重し合いながら、一致して、同じ方向へ向かおうとしている。お互いの長所と短所を組み合わせながら、教会が、まるで1つの生き物のようにして機能している。これは本当に素晴らしいことだと思います。
高座教会での研修を通して、ありのままで神様の前に進み出て礼拝することの大切さや、隣人愛を実践する中で成長していく教会の素晴らしさなど、数えきれないほど多くのことを体験でき、感謝の気持ちでいっぱいです。
私の高座教会での研修は、3月で終わりになります。その後は、皆さんと仕える教会は変わりますが、同じ主にある兄弟姉妹として、ともに励まし支え合いながら、信仰生活というマラソンを走り続け、やがて地上生涯を終えたときに、神様から最高の参加賞を受け取って皆さんとともに喜ぶことを、待ち望みたいと願います。
お祈りいたします。

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主日共同の礼拝説教

独り子を与えるほどの愛

松本雅弘牧師 説教要約
イザヤ書63章15-19節
ヨハネによる福音書3章10-21節
2022年1月8日

Ⅰ.「小聖書」

 今日の聖書箇所を読みますと、「聖書の中の聖書」とか、宗教改革者マルチン・ルターが「小聖書」と呼びました聖句、ヨハネ福音書3章16節が出て来ます。私たちカンバーランド長老教会にとっても、この御言葉は特別で、『信仰告白』の冒頭に掲げられています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
よく「飼い葉桶と十字架は最初から一つ」と言われていますが、神さまが独り子をお与えになったということは、死に引き渡すことを覚悟で遣わされた。いや、十字架の死に引き渡すために遣わされた。それがクリスマスの出来事でしょう。そして、そのことを通して、信じる人が一人も滅びないで、永遠の命を得る。御子の命と引き換えに、私たちは命を得るというのです。

Ⅱ.ヨハネ3章16節の位置づけ

 ところで、このヨハネ福音書3章16節は、あまりにも聞きなれた御言葉です。作家の三浦綾子は、「この『世』のところに、あなた自身の名前を入れて読んで御覧なさい」と勧めています。自分に結び付けて、自分のこととして、この福音の言葉を聞いてみましょう、というのです。

Ⅲ.「救い」と「滅び」

 私は若い頃、「永遠の命」という言葉が、「終わることのない、永遠に続く長い長い命」を思い浮かべるようになり、どこか退屈さを感じ、心のワクワク感が消えていくような経験をしたことを覚えています。みなさんはいかがでしょうか。
 実は新約聖書には「命」と訳せる三種類のギリシャ語があります。一つは最近もよく「バイオ、バイオ」という言葉を耳にしますが、「生物学的な意味での生命」を意味する言葉「ビオス」です。もう一つは「プシュケー」。エジプトに居たヨセフに「幼子の命を狙っていた人たち、死んでしまった」とお告げがありましたが、この時の「幼子の命」の「命」が「プシュケー」というギリシャ語です。
そして三つ目が3章16節で使われている「ゾーエー」というギリシャ語です。神との関わりにあってこそ意味を持つ命という意味の「命」です。ヨハネ福音書には、主イエスがこの言葉の意味を説明している箇所がありますので、そこも確認しておきたいと思います。ヨハネ福音書17章に出て来る、「大祭司の祈り」と呼ばれる祈りの中に出て来ます。
 ここでイエスさまは、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と、「永遠の命」イコール、「神と主イエスを知ることだ」とおっしゃいました。つまり、主イエスを通して神との親しい交わりに生きている状態が命に生かされていることなのだ、と語っておられるのです。
今日の箇所に戻りますが、16節に続く続く17節でも「救い」に関する言葉が語られます。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。そして、その直後の18節では「救い」と矛盾する「裁き」を伝える次のような言葉が続きます。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子を信じていないからである。」
 ヨハネは「救い」を伝えると同じに、それと矛盾するような「裁き」を語っています。でもどうでしょう。「永遠の命」をもたらす「救い」とは、まさに先週の礼拝での言葉を使えば、ぶどうの木であるキリストにつながること、命そのものであられる主イエスとの親しい交わりの中に生きるときに、主イエス・キリストの「救い」に与って生きることができる。
まさに主イエスが、「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。」と言われる通り、主イエスを離れたら、私たちは何もできない。つまり命の源から切り離されては、本当の意味で生きることはできないとおっしゃるのです。そのことを語っているのが18節の言葉でしょう。命の源なる主イエス・キリストに繋がっていない状態がヨハネの語る「裁き」です。逆に言えば、イエス・キリストを知って生きることの中に、裁きからの解放があり、喜びがあるということでしょう。

Ⅳ.独り子を与えるほどの愛

 ちょうど成人式をお祝いした直後の春休みに、私はキリスト者学生会の春期学校に参加しました。その時、講師を務めた先生が私たち学生に向けて熱く語ってくださいました。「創世記2章7節に、『神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。』とある。『鼻から命の息を吹き入れる』という姿を想像してみてください。…『鼻から命の息を吹き入れる』というのは、鼻と鼻とをすり合わせるような、まさに夫婦のような交わりを意味します。私たち人は、神さまとそのような親しい交わりを通して、初めて生きることができる者として、この世界に存在させられたのです。…」。私も若かったのでドキドキしながら聞いたことを今でも思い出します。
 主なる神さまと本当に親しい交わり、絆の中に生かされた時、人間は生き生きしていた。神を喜び、自分の存在を喜び、与えられた人生の同伴者である神さまを喜びました。 ところが、そのお方との関係が失われた時に、自らを「恥ずかしい」と思い始め、隣人と、そしてこの世界と上手くかかわることができなくなった。愛と信頼に基づく人と人との結びつき、社会でのかかわり方が、「強い者の支配に対する弱い者の隷属という秩序」にとって代わってしまった。「あなたのゆえに、土は呪われてしまった。…土があなたのために生えさせるのは/茨とあざみである」と先生の言葉を使えば、「自然界の反逆」(創世記3:17、18)を経験します。食物を得ようとして土を耕しても、「茨とあざみ」が生え育つことになる。「予期せぬ副産物」を生じさせる。それ以来私たちは、聖書が言うところの「裁き」の現実を嫌というほど味わってきたわけでしょう。
 先週、お正月ということもあって牧師間の横の駐車場にクルマをとめていたこともあったので、〈そう言えば、幼稚園はいつから始まるんだっけ〉と思い、HPを開いたところ、「あなたは大切な人です」というキャッチコピーが目に飛び込んできました。改めてその言葉を読み、心の中に温かなものが流れたのを感じました。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。言い換えれば、神さまは私たち一人ひとりに「あなたは大切な人です」と真剣に語りかけておられる。その「オリジナル・ラブ」の具体的な形としてイエスさまを与えてくださったのです。しかし、この神さまの愛が分からなくなると、自分の大切さを確認するために、一生懸命に何かを成し遂げたいと思うようになります。あるいは、それが出来ない自分に打ちのめされます。そして今、私たちの社会の至るところで起こっている、「大切にされないことの悪循環」、そうしたことの「連鎖」が私たちの社会を覆っているように思うのです。
だからこそヨハネは、光としての主イエスを示し、「この光の方に来てみなさい。ここにこそ救いがある」と招いている。
 ヨハネは、私たちを光そのものであられる主イエス・キリストへと導こうとしています(19-20)。私たちは光なるお方の許に来る時に、初めて本来の自分を取り戻していく。人々の目に大切な人に映るように、一生懸命努力をするのとは違う世界です。すでに大切な人として神の瞳に映っている。その喜び、その慈しみの目に映る自分を確認し、周囲の人々を見、この世界を見ていく。
この世界に目を転じる時に、圧倒されるような問題が山積です。闇が深いです。
よくクリスマスの時に語られますが、闇を追い出すために、私たちは戸を開けて、一生懸命、箒で掃きだそうとするでしょうか。窓を開けて追い出すことができるでしょうか。その闇を消し去るために出来ることは、その所に光を灯すことでしょう。すると不思議と、その周りから闇が見えてなくなるからです。
私たちは、その光の下に招かれ、その光に照らされ、自らが小さな光となって歩んでいく。いま、遣わされているその場所にあって、与えられている責任を果たすことだったり、子どもとの時間を大切にすることだったり、学校の課題に忠実に取り組むことであったり、神さまから示されている、場合によっては取るに足りないと思わされるようなことを、〈イエスさまだったら〉と問いながら、イエスさまと共に向き合っていく。そのように私たちはキリストの光を灯す者として召され生かされている。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
お祈りします。

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主日共同の礼拝説教 新年礼拝

新しいぶどう酒は新しい革袋に

<新年礼拝>
松本雅弘牧師 説教要約
イザヤ書30章15-22節
ルカによる福音書5章33-39節
2023年1月1日

Ⅰ.はじめに

 新年あけましておめでとうございます。

昨年一年を振り返りますと、ウクライナ危機、さらに先月末には、日本でも増税により軍事費を拡大し、「専守防衛」という前提が骨抜きにされてしまいました。

コロナ・パンデミックも三年目を迎えた年でした。「地球号」という同じ乗り物に乗っている者同士ですから遠く離れた所で起こったことでも、「対岸の火事」では済まされません。物価の高騰があり、本当に身近なところでそうした現実を知らされます。また私たち教会の歩み、そして一人のキリスト者としての歩みを振り返る時に、どうだっただろうか、と思います。

そうした中、今年、最初の礼拝の招きの言葉は、使徒パウロがコリント教会の兄弟姉妹に送った手紙の一節です。「だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。」(Ⅱコリント5:17)と宣言してくださる。「にもかかわらず」の愛をもって、私たちの中で始めてくださった救いの御業を完成へと導いてくださる。

私たちの神さまは「事を始めるお方」であるとともに、「始めたことを必ず完成なさるお方」でもあります。私たちの内に働きかけ、思いを起こさせ、かつ実現に至らせるお方です。ですから、2023年という今日始まったこの年も、そのお方と共に歩んでいきたいと願います。この恵みに支えられ、自らを、兄弟姉妹を、世界を、この新しい年を喜んで受け入れて、歩むことができますように、祈り求めていきたいと思います。

Ⅱ.新しいぶどう酒は新しい革袋に

 今日は今年最初の礼拝ですので、今年の主題聖句を含む箇所を読みました。

 ところで、ユダヤでは昔から断食の習慣がありました。元々断食は、祈りに集中するための手段の一つでした。ところがファリサイ派の人々を中心に、宗教的な熱心さのゆえから、年に数回だった断食の回数が、月曜日と木曜日の週二回になっていたようなのです。それも、神さまの恵みを味わう目的で行う手段だったにもかかわらず、神の御前に高く評価されるべき功徳として断食を位置づけ、手段である断食が目的化して行った実情があった。人に比べ多くの回数、断食をしていることを、ファリサイ派の人々は誇りに思っていたわけです。

 このような中、「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」と断食をしていない主イエスの弟子たちのことを問題視した人たちが質問したのです。

当時の人々の目からすれば、主イエスの振る舞いや行為が、どこか宗教的伝統をおろそかにしていると映った、それで批判の対象となっていたのです。

私たちの社会でも、また教会の中でも同じようなことが起こると思います。一方に古い伝統をしっかり守り、それから決して反れないように、と考える人たちがいるかと思うと、他方では形式にとらわれず、むしろ古い伝統には反発して新しい生き方を求めようとする動きもある。こうした彼らの疑問に対する応答が34節からの言葉でした。

ここで主イエスは「婚礼の譬え」を語られました。イエスさまはよく婚礼のことを譬えとして用いられます。その場合、終末的な救いの喜びを象徴するものとして語られていました。つまりそこでは、メシアを花婿に譬えてお話されるのです。この時も同様でした。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」。これが主イエスの教えのポイントでしょう。

断食という宗教的な伝統や形式にしがみついて生きることより、キリストと共に生きることこそが大切だとおっしゃる。断食の目的もそこにあったわけですから…。

 そうした上で、今年の主題聖句が続きます。38節、「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れねばならない」。私たちがいただいている救いは、古い服の仕立て直しではない。私たちの救いとは、新しい人間の創造なのだ、と主イエスはおっしゃるのです。

主イエスを信じて生きることは、質的な新しさをもたらす。古い伝統や古い習慣によって信仰を補強しようとするようなことは逆戻りすることで、そのようなことをし続けていったら革袋は張り裂け、ぶどう酒も革袋もだめになってしまう。まさに今日の礼拝への招きの御言葉の意味するところでしょう。

Ⅲ.ウィズ・コロナ時代と教会

 昨年、アメリカで開かれた総会に出席した際、改めて、コロナ感染症がアメリカの教会に与えているダメージの大きさ、深刻さを知らされました。会場で食事をしていますと、牧師が、同席していいか、と声を掛けて来ます。席につくなり「コロナの影響はどうか」と尋ねるのです。何人かの牧師がそうでした。

牧師たちの話によれば、コロナ感染症のパンデミックが起こり、素早くオンライン礼拝に切り替えた。そしてパンデミックが落ち着き、社会全体が正に「ウィズ・コロナ」の生活に移行し始めた。しかしそうした中、元に戻らないままなのが教会なのです。礼拝に教会員が戻ってこない。その結果、活動も活動を支える捧げ物も深刻な状況に置かれている。「日本は、どうか?」というのが、総会会場で、何人かの牧師たちから訊かれた質問でした。今後、日本社会はどのようにコロナと付き合っていくのか分かりませんが、仮にアメリカのように、以前とまったく同じように社会全体が動き始める中、果たして日本の教会、また高座教会はどうなのだろうか…。それ以来ずっと考えさせられていることです。

確かにコロナを経験した私たちは、オンラインというツールを駆使し、今まで届かなかった方たちに御言葉を届けたりすることが出来ました。会議の効率化や、会議に出席するための行き来の時間が劇的に短縮されました。コロナを経験し丸三年が経とうとする今、こうした経験をふり返り、今後に生かすことが出来るかを考える、また一方でオンラインではどうしても実現できないことは何かを確認する。そうしたことが、今年、「ウィズ・コロナを見据えて」をテーマとして掲げて歩む私たちにとって、大切なこととなるのではないかと思います。

Ⅳ. 私にとっての「新しいぶどう酒は新しい革袋へ」

 先日、自然豊かなところを歩いていましたら、道の横に綺麗に咲いているアザミの花に目が留まりました。とても美しい。しっかりと咲いている。喜んで咲いている。創り主なる神さまを讃美している姿として、私の目に映ったことです。

以前、山道を歩いていてそんな小さな花を見つけた時は、〈こうした所に咲いている花は誰の目にも留まることもなく、枯れていくのだろう…〉と、そう思った時に、何か悲しい、そしてその花に対して「気の毒な思い」を持ったことを思い出しました。そしてふと、「誰の目にも留まらない」、裏を返せば、誰かの目に留まることが、私にとってとても大切だったのだなぁ、と私の心の中にあった「物語」に気づかされました。

ヘンリ・ナウエンが次のようなことを語っています。

“多くの声が私たちの注意を促します。「おまえがよい人間だということを証明しろ」と言う声があります。別の声は「恥ずかしいと思え」とささやきます。また「誰もおまえのことなんか本当には気にかけちゃいない」と言う声もあれば、「成功して、有名になって権力を手に入れろ」という声もあります。

けれども、これらの非常にやかましい声の陰で、静かな、小さな声がこうささやいています。「あなたは私の愛する者、私の心にかなう者」と。それは、私たちが最も聞くことを必要としている声です。しかしその声を聞くには、特別な努力を要します。孤独、沈黙、そして聞こうとする強い決意を必要とします。

それが、祈りです。それは、私たちを「私を愛する者」と呼んでいる声に耳を傾けることです。“

アザミは、私に気の毒がられようが、あるいは美しさを賞賛されようが、そうしたことに関わりなく、真っすぐに主を讃美し咲いている。それは、日常、周囲の、非常にやかましく、大きく、響き聞こえて来る様々な多くの声の中にあって、ナウエンが「私たちが最も聞くことを必要としている声」と表現した、静かで、小さく囁く「あなたは私の愛する者、私の心にかなう者」という神の声を強い意志をもって聞き続けていたのだと思わされされたことでした。

私たちを取り巻く世界から、今年も様々な声が聞こえて来ます。また自分自身の中からも囁きが聞こえてくることでしょう。しかしそうした中で、愛する神さまの御声を聴くために、まずは神さまの御前に出て、神を礼拝する時が「ウィズ・コロナ」の時代に入った今でも、いや、今だからこそ、大切になってくるのではないでしょうか。そのことを再吟味させていただき、私にとっての「新しいぶどう酒は新しい革袋へ」を考える一年にさせていただきたいと思います。 

「神よ、変わることのないものを守る力と、変えるべきものを変える勇気と、この二つを識別する知恵を与え給え」とニーバーが祈りましたが、この祈りを、私たち一人ひとりの祈りにさせていただきたい。識別の知恵を神さまから頂きたいと願います。

お祈りします。

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クリスマス礼拝 主日共同の礼拝説教

神に栄光、地に平和

<クリスマス礼拝>
松本雅弘牧師 説教要約
イザヤ書33章2-6節
ルカによる福音書2章1-20節
2022年12月25日

Ⅰ.信仰をいただいたことの恵み

クリスマス、おめでとうございます。クリスマスを迎え、改めて思いますのは、信仰を持つということは、考えてみれば、とても不思議なことなのではないでしょうか。信仰をいただきイエスさまを愛する者になること、言い換えれば、イエスという方と関わりを持つことです。これは本当に不思議であり、恵みでもあります。
今日、こうして共にクリスマスの礼拝を捧げているお一人おひとりにとっても、それぞれに与えられたお導きの不思議さを振り返ることができるのではないでしょうか。

Ⅱ.天使の知らせた福音

さて、福音書記者ルカは、クリスマスの出来事を淡々と事実だけを伝えているように見えますが、実はとても大切なことを伝達しようとする彼の意図を感じます。ルカが語っていることは、「ダビデの町」と呼ばれたベツレヘムで生まれた、イエスという名の赤ん坊こそ、私たちにとっての「真の王/メシア」なのだという信仰を明らかにしている点です。この点についてルカは、そしてもう一つ、ルカが伝えたかったのは「イエスの誕生を当時の人々は誰も知らなかった」という事実です。
当時は、ローマ皇帝アウグストゥスの時代です。その治世は長きにわたって平和が続きました。一般に「アウグストゥスの平和」と呼ばれます。人々は、「戦争のない、こうした平和な状態が続くのは、皇帝アウグストゥスのお蔭なのだ」と、彼を「救い主」と呼び、「神」と崇める人々も出たそうです。それ故、そうした皇帝アウグストゥスの誕生日を「福音」と呼んだ人々もいました。
そうした中、ルカは「今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった」。ここでルカは、当時、皇帝アウグストゥスを呼ぶ時に用いていた「救い主/メシア」の「呼称」を「イエス」に当てて使っている。飼い葉桶に眠る赤ん坊を指さしながら、「アウグストゥスではない、こちらのお方こそがまことの救い主/メシアなのだ。ダビデの町に誕生し、布にくるまって飼い葉桶の中に寝かされている乳飲み子こそ、真の皇帝なのだ。最強の王、名君と褒め称えられた皇帝アウグストゥスの治世に、実は、もう一人の王、いや真の王が誕生した。この方こそメシア/キリスト・イエスなのだ」、そう確信を持って記しているのです。

Ⅲ.福音書記者ルカによるスクープ記事

ところで現在、聖書外の文献や最新の考古学の裏付けによれば、この時の「住民登録」がシリアで実施されたのは紀元前7年、もしくは紀元前4年頃なのではないか。したがってイエス・キリストは紀元元年を遡ること7年前、もしくは4年前にベツレヘムで誕生されたのかもしれないと考えられるようになってきています。
さて、そうした中、この福音書を読む時に、ルカが私たちの目を向けさせようとしている点があります。それはアウグストゥスによる世界規模の歴史的人口調査が実施される最中に、世界の片隅で、本当にひっそりとした夜に、もう一人の王、いや真の王である救い主イエスが誕生した。当時、人々は皇帝アウグストゥスの力を称賛し、その平和を喜んだ。だから彼の誕生日を「福音」とまで呼んでお祝いしていた。しかし、その同じ時、その同じ世界にもう一人の王、いや真の皇帝として「イエス」という名のメシア・救い主が誕生した。当時の誰も知らない。それ故、誰からも祝われない仕方で誕生した。その出来事を歴史的出来事としてスクープした新聞記者のように、「ところが、彼らがそこにいるうちに、マリアは月が満ちて、初子の男子を産み、産着にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる所がなかったからである」と興奮を抑えつつ、しかし確信を持ってここに記録しているわけなのです。

Ⅳ.「神に栄光、地に平和」

最スクープはさらに続きます。その知らせを受けた最初の人が羊飼いたちだったというのです。「羊飼い」、彼らは最初から住民登録の対象外の人でした。だから世間が人口調査でごった返している最中にいつもと変わらずベツレヘムの野で羊の番をしていたのです。
ではなぜ神は、最初に彼ら羊飼いたちに御子の誕生を知らせたのでしょうか?結論を言えば、誰よりも彼らこそ、一番イエスさまを必要とする人たちだったからでしょう。ルカは、主イエスの誕生に飼い葉桶が使われた理由として「宿屋には彼らの泊まる所がなかったから」と伝えます。「泊まる所がなかった」とは、「迎え入れてはくれなかった」ということです。これは日常的に羊飼いたちが経験していたことです。
イエスさまがおられた場所は家畜小屋でしたから、きっと臭かったに違いない。しかも「飼い葉桶」の中に寝かされたわけですから。考えてみれば「飼い葉桶の臭い」こそ羊飼いが身にまとっていた「香水」だった。羊飼いたちからしたらホッとできるような香りだった。羊飼いたちが恐れることなく近寄ることができるように、、「野原の香水」をたっぷり浴びるように、家畜小屋の飼い葉桶に生まれて来た。しかも赤ん坊の姿です。神さまって何と優しいお方なのでしょう!
イエス・キリストはひっそりとお生まれになりました。それは、ひっそりと生きることしかできない人、片隅にしか居場所を見つけることができない、私たち一人ひとりの救い主になるために、忘れ去られるような仕方で、本当に静かに生まれてくださったのです。
そして、羊飼いたちに喜びの知らせを告げた天使たちは、「いと高き所には栄光、神にあれ/地には平和、御心に適う人にあれ。」と歌ったのです。
今年二月末からのロシア軍のウクライナ侵攻が今も行われています。二週間ほど前に、ロシア国内の空軍基地がドローンの攻撃を受け、その結果、三人が死亡、軍用機二機が破損したという報道がありました。それに対する報復とも思える爆撃が現在ウクライナで続いています。この危機に乗じて、あれよ、あれよという間に、私たちの国でも、増税による軍事費の増額が閣議決定され、今まで積み上げてきた安全保障に関する合意が、あっという間に骨抜きになってしまいました。何か危うさを感じます。
預言者イザヤの時代、当時、イスラエルの周囲にはたくさんの強国があり、イスラエル国内世論は、「自分たちは他の国に負けないくらい国力を増強し、いざという時に備えなければならない」というもので、そう考える人が大勢いました。ところが、イザヤは「神の御心に従って、剣を鋤に、槍を鎌に変えるように!」と人々に訴えたのです。
子どもの頃、近所に鍛冶屋さんの工房があり、職人さんが燃えさかる炉に向かって一生懸命仕事をしていました。鉄の棒を炉に入れ、真っ赤になったところで、ハンマーで何度も何度も、丁寧に叩いていくうちに、その棒が新しい道具に生まれ変わっていくのです。
この時イザヤが使った言葉は、私にとって、そうした鍛冶屋さんの仕事風景を思い出させる言葉です。「剣を鋤に、槍を鎌に変える」。武器を打ち直し、別の物に変えてしまう。そのためには一度炉の中に入れなければなりません。つまり根本的な変化、私たちの考え方に変化が起きることが、どうしても必要となります。
イザヤは「剣を鋤に、槍を鎌に変えなさい」と語り、「もはや、戦うことを学ばない」とも言い切りました。言い換えればそれは、「武器に頼らない、もっと別のやり方・新しい考え方の枠組みで平和を実現することを学んでいこう!探っていこう!」と呼びかけました。
聖書を読みますと、その後ゼカリアという預言者が現れました。イザヤから平和のバトンを受け継ぎ、「エルサレムの広場に、老爺老婆が杖を持って座し、わらべとおとめが広場に溢れ、笑いさざめく」と、ごく普通のありふれた日常を語りました。実はこの姿こそゼカリアが示した「神の平和」です。
飼い葉桶に誕生されたイエスさまは成人し、人々に向かって「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」と語られました。
「神の子」とは神の愛を知っている者のことです。私たちは愛される経験をする中で愛の人に変えられていきます。人に優しくされ、人として尊重されていく時、不思議と人に対して優しくなれる。人を大切にする人になっていくものです。逆に、おどされ、恐怖心をあおられ、力で抑えつけられれば、心は卑屈になります。最初は我慢していますが、復讐心や敵意を心の内に燃やすことだって起こるのです。今、私たちの世界は、正にこの報復の連鎖に巻き込まれています。
神さまは、この悪の連鎖を断ち切るために独り子イエスさまを飼い葉桶に誕生させてくださったのです。そのイエスさまを心に迎え入れることによって、私たちの内面を神の愛、神から来る平安で満たそうとされたのです。
私たちは、この王なるイエスさまの平和を実現する闘いに参与するように招かれています。その光栄と喜びを今日、もう一度、共に確認し、「いと高き所には栄光、神にあれ/地には平和、御心に適う人にあれ。」と賛美しながらの歩みを進めて行きたいと願います。
お祈りします。