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主日共同の礼拝説教

祈祷会 音声メッセージ

ペンテコステ特別祈祷会

5月27日(水)

宮城 献 副牧師
『 キリスト者の自由 』 コリントの信徒への手紙二 3章17節(328頁)

 

教会祈祷会

5月20日(水)

宮城 献 副牧師
『 選ばれた寄留者として 』ペトロの手紙一 1章1-2節(428頁)

 

5月13日(水)

宮城 献 副牧師
『 真理へと連れ戻す 』ヤコブの手紙 5章19-20節(427頁)

 

4月22日(水)

宮城 献 副牧師
『 祈りには大きな力がある 』ヤコブの手紙 5章16-18節(427頁)

 

4月15日(水)

宮城 献 副牧師
『 信仰に基づく祈り 』ヤコブの手紙 5章12-15節(426頁)

 

受難週祈祷会

4月6日(月)

和田一郎副牧師
『 弟子の足を洗う 』ヨハネによる福音書13章1-17節

 

4月7日(火)

宮城 献 副牧師
『 心を騒がせるな 』ヨハネによる福音書14章1-21節

 

4月8日(水)

松本 雅弘 牧師
『 わたしは世に勝っている 』ヨハネによる福音書16章25-33節

 

4月9日(木)

和田一郎副牧師
『 大祭司の祈り 』ヨハネによる福音書17章1-26節

 

4月10日(金)

宮城 献 副牧師
『 十字架の死 』ヨハネによる福音書19章16前半-30節

 

受難週祈祷会

祈祷課題

受難週の日々、私たちのために、キリストが担われたご受難と十字架を覚え、悔い改めの祈りをおささげ致しましょう。
それとともに、私たち一人ひとりの苦難を神様に祈り、キリストのご受難を見つめてみましょう。そして、この世界の苦難にも目を留め、祈りをおささげ致しましょう。
私たちは、新型コロナウィルスの感染拡大の中、不安と恐れの日々を歩んでいます。しかし、私たちのこの苦難を、キリストが先だって担われました。今なおそうです。
そして、十字架から復活されたキリストの希望に立って、思い煩いを神様に委ね、ともに歩んでいきましょう。

1) キリストのご受難と十字架を覚え、悔い改めの祈りをおささげしましょう。
2) 自分の苦しみ、悲しみを神様に祈り、キリストのご受難と十字架を覚えましょう。
3) 困難の中にある、愛する兄弟姉妹・家族・友のために祈りましょう。
4) 病いが終息し、共に集い礼拝をささげることが出来ますよう、祈りましょう。
5) 病いと闘う、全世界の友のために祈りましょう。
6) 病いと闘う、全世界の医療従事者のために祈りましょう。
7) 病いと闘う、全世界の為政者のために祈りましょう。

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主日共同の礼拝説教

主に願いなさい


2016年11月20日
松本雅弘牧師
詩編44編1~27節
マタイによる福音書9章35~38節

Ⅰ.マタイ9章35節の位置づけ

今日、お読みしたマタイによる福音書9章 35節の御言葉にイエスさまの働きが紹介されています。実はこの言葉とそっくりな表現が4章23節にもあるのです。マタイは、イエスさまがいつもなさっていた働きを4章と9章に同じ言葉で繰り返すことで伝えようとしています。
そして、もう1つ大切なことがあります。それは、この後の10章1節から12人の弟子を選ぶ記事が出て来ます。イエスさまは「あらゆる病気や患いをいやす」権威を12弟子にお与えになり、さらに彼らに命じて「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と言われたのです。
マタイはイエスさまの御業を同じ言葉で繰り返しつつ、その御業をイエスさまのお働きだけに限定せず、イエスさまがお選びになった弟子たちが担っていることを伝えているのです。イエスさまの働きを弟子たちが引き継ぎ、それを今、教会が、つまり、私たちが行っているということを伝えているのです。
そのような意味で、私たち日本の教会が、日本で生活している人々のために何をどのようにしたらよいのか、と立ちどまって考える時、その原点、出発点となる言葉が、今日の9章35節に記されているように思うのです。

Ⅱ.教会の業―イエスさまと同じ働きをする

注解者たちは35節をめぐって、もう1つ大切な視点で議論しています。それは、そもそも今日の箇所がどうして34節までの出来事に続けて書かれているかという視点です。
35節以前の箇所には一連の癒しの出来事が記されています。ヤイロの娘と出血の止まらない女性の癒し、2人の盲人の癒し、そして口の利けない人の癒しの記事と続きます。
ここで私たちが注目しなければならない点、それは何かと言えば、イエスさまがこれほど心を込めて愛の御業をなさったにもかかわらず、御業を目撃した人々は、イエスさまのことを正しく理解することがなかったという事実です。別の言い方をすれば「人々の愚かさ」です。
イエスさまは私たちの愚かさを見抜くお方です。ところが、そうした人々の愚かさとイエスさまはつき合ってくださるお方のように思うのです。「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言って、イエスさまを悪霊の仲間扱いしたファリサイ派の人々に対して「なんて馬鹿なことを言う」と反論されてもよい場面でした。でも福音書は、イエスさまはそうなさらなかったと伝えます。
イエスさまは悪をもって悪に報いることをなさいませんでした。そのイエスさまがなさったこと、それが35節から出てくるのです。
今まで通りに、「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」ということです。つまり、イエスさまはなすべきことを成し続けておられたのです。

Ⅲ.深く憐れまれる神

それでは、こうした愚かさの中にある人々をイエスさまはどう見ておられたのでしょうか? それが36節にあらわされています。「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」
「深い憐れみ」をもって見ておられた。「深く憐れまれた」のです。ギリシャ語によると「はらわた」、「内臓」です。その内臓が痛むという言葉です。
私たちも時に激しい同情によって胸が熱くなることがあります。しかし、内臓が痛むほどに同情を寄せることがあるでしょうか? どこかで防衛反応が働き、これ以上、感情移入するとマズイと思い、少し手前のところで、のめり込まないようにセーブするのではないでしょうか。
ところがイエスさまは、ご自分をセーブすることなく行くところまで行きました。つまり深く憐れまれたのです。イエスさまのことを悪霊呼ばわりする人々の無理解、愚かさに囲まれながら、そうした人々を馬鹿にしたり軽蔑したりすることをせず、愚かなことしか言えないような、そうした行動しかとれないような人々の惨めさに、ご自分の肉体や心が切り刻まれるような思いを抱かれたということです。これが、「イエスは、……深く憐れまれた」という言葉の意味なのです。
はらわたがよじれ痛むほどに共感し愛を注ぐ神さまという存在を、当時の人々は知りませんでした。当時の人々は、そうした姿と神を結び付けて考えたこともなかったのです。新約聖書はギリシア語で書かれています。この「深く憐れむ」というギリシア語「スプランクニゾマイ」は、ギリシア語を話すギリシア人たちが、決して自分たちの神を表わす際に使うことがなかった言葉です。何故ならば、心を痛めてしまうような神はもうその時点で「神」とは呼べないからです。
神ならば全てを超越していなければならず、自分に悩みを負わせる者によって自分自身が振り回されてしまっていたら、もうその時点で神としては失格である、と考えていたからです。
ギリシア人のこうした考え方は、私たちにも相通じるところがあるのではないでしょうか。
自分以外の他者の悩みや苦しみが、自分の生活の中に入って来て取り乱すことがないように、私たちはどこかで、全面的に感情移入しないように、自分を抑える傾向があるのではないかと思います。
イエスさまはそうなさいませんでした。イエスさまは、はらわたが痛むほどに憐れみ抜かれたのです。人々の愚かさを御覧になり、ご自分自身の心を痛め、さらに踏みにじられるに任されたということでしょう。ギリシア人からしたら、これは神として失格だったのです。しかし、こういうイエスさまだからこそ、私たちはそのお方の許に畏れなく、助けを求めて、赦しを求めて、恵みや憐れみを求めて、近づくことができるです。
ギリシア人は、そんなに深い憐みの思いを抱いたら、神が神でなくなってしまうと主張します。確かにそうかもしれません。でも、本当の神は私たちの想像を超えるお方だったということを、パウロもフィリピの信徒への手紙2章6~8節で書いています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず・・・人間と同じ者になられました。」(フィリピ2:6~7)
イエスさまは、深い憐れみに生きられました。神の御子がこの世にお生まれになり、しかも一番汚い飼い葉桶の中に寝かされました。最初の礼拝者はなんと人口調査の対象外の羊飼いたちだったのです。不安にさいなまれたヘロデ王に追われ、エジプトで難民生活を強いられた。シリアの難民と同じ境遇です。
大人になったら大人になったで、人々から苦しめられ続けられた。そして最後、十字架につけられて殺されていく。これほどまでに神らしくない神は一体どこにいるでしょうか?!
十字架に磔(はりつけ)にされたイエスさまを見た人々の中に、こんなことを言う人が居ました。「神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」と。
考えてみれば、この発言は理屈が通っています。でもイエスさまは、そうなさらなかったのです。そのような意味で神であることにこだわらなかった。むしろ、ご自分を無にして「深い憐れみ」の中、ご自身の肉体が裂かれるほどの愛に生きてくださったのです。
聖書が語るイエス・キリストの神は、そういう愛の神さまなのです。私たちの愚かさやののしりに対し、悪をもって、そうした悪に報いることをなさらず、かえって、深い憐みをもって私たちを愛してくださったのです。
それほどまでに憐れみ深く生きることができるのは、真の神さまを他にしては考えられないのではないでしょうか。私たちは、そのようなお方として、イエスさまを神の子として信じ、崇めるわけです。そしてそうした神さまの御子イエスさまの姿が、今日お読みした、この聖書の箇所にも現れていると思うのです。

Ⅳ.主に願いなさい

こうしてイエスさまは、人の愚かさを深く憐れみ、彼らが飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て憐れんでくださいました。
人間的に見れば悲惨な絶望的な光景です。でもイエスさまは、ここで「収穫が多い」時なのだ、と言ってそこに希望を見ておられるのです。困難が大きい時こそ、これは収穫の前触れなのだと、イエスさまは目に見える状況のさらに向こうを見ておられるということです。
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と言われ、12人弟子を選ばれ、働きを託されたのです。
私たちもこのイエスさまに従い、そのお働きの一端を担いながら歩ませていただきたいと願います。お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

相続養子縁組

2016年11月13日夕礼拝
和田一郎伝道師
出エジプト記32章13~14節
ガラテヤの信徒への手紙4章1~7節

Ⅰ.後見人の下にいる未成年相続人

前回の3章の終わりのところで、私たちクリスチャンは「アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」(ガラテヤ3:29)と呼ばれています。「相続する」と言うからには相続する遺産とか資産のようなものがあるはずです。ここで言うその遺産とは、創世記でアブラハムに約束された、「あなたの子孫は祝福される」という、神様に祝福された者となる権利です。
しかし4章に入ってパウロは、ユニークな例をあげて、ガラテヤの信者に対して説明します。ここでパウロは、「相続人」というものを人間の世界の中で、人間の世界の遺産相続に照らして考えているのです。もし、自分が成人に達していない未成年であれば、たとえ莫大な遺産相続があっても、受け取ることができません。ローマの社会では、25 歳になってやっと法的な権利が与えられました。日本では20歳未満の人は未成年として、単独で法律行為を行うことができないそうです。ですから、やはり後見人を立てるのです。もし17歳の高校生の親が亡くなって遺産を残したら、その高校生は遺産を相続する権利を持っていますが、未成年なのですぐには自由に受け取れません。後見人を裁判所に決めてもらい、20歳になるまで待たなければ、自分の自由にはならないそうです。
パウロはアブラハムの子孫に与えられる「神の祝福」という財産の相続権は、人間は生まれた時から誰にでもあるのですが、2節の「父親が定めた期日」いわゆる、イエス・キリストを主と信じる時までは、後見人の監督下にあるというのです。後見人とは律法や世の中の権威や風潮です。イエス様を知らなかった時期は、律法やこの世の中の権威や風潮に従っていました。この手紙が書かれた時代、ローマ社会の多神教の神々に従う不信仰者がいました。ユダヤ人は律法に固執して律法という後見人の監督の下にいました。未成年のように管理されていたのです。

Ⅱ.未成年から成人へ

律法というのは、窮屈でユダヤ人の生活を苦しめる一方で、実はとても分かり易いものでもあります。「こういう時は、こう行えば祝福される」と約束されていますから、その戒めを守り行ないさえすればよいのです。3節のところは「この世の幼稚な教えの下に奴隷となる」とも翻訳できる箇所です。律法を字義通りに守る生き方は、幼稚な教えの下の奴隷だというのです。
たとえば、献金のことを考えた時「什一献金は、しなければいけない戒めですか?」という問いかけがあります。収入の十分の一を献金とするという教えは、旧約聖書のレビ記やマラキ書において、神様が十分の一を捧げなさいと命じられている箇所があります(マラキ書3章)。イエス様もこの律法を「ないがしろにしてはいけない」とマタイ 23 章で言われています。しかし、これは旧約時代のものであると決めている人もいるかも知れません。確かに新約聖書では、明確に命令するように「しなさい」とは言っていません。
ところが新約聖書では、そうした規則にするのではなく、神様が惜しみなく捧げる愛があり、その愛の応答として、自分の生活の中で「第一のものを第一に」という信仰が与えられます。ですから、旧約聖書にある「規則だから捧げる」という、未成年の未熟な考えではなく、大人の考えがイエス様の教えにはあります。大切な事は「神様が御子を捧げられた。」という愛への応答です。具体的な指針を示せばよいのかもしれませんが、律法から解放された成人は愛の律法を知っていますから、愛によって神に仕えることができます。
ガラテヤ書に戻りますが、4節で「時が満ちる」のは、神様が御子キリストを、この世に捧げられた時ですが、神様は人間と同じように、女性の人のお腹から、人間と同じように律法の下に置かれた者として、イエス様を送ってくださいました。それは、その時が満ちたからでした。イエス様はどうして2000年前の地中海の東にあるパレスチナ地方に来られたのか?と前回の説教でも話しましたが、人間の罪がもうどうにも、のっぴきならない状態になって、神様は御子を送る事を成されたのが、この時だったのです。
さらに、バビロン捕囚の後、広範囲な地域でユダヤ人が住むようになっていました。ローマ帝国の支配がはじまり「全ての道はローマに通じる」と言われているように、ローマ全体を網羅する整えられた道が造られました。それからギリシア語という、とても精密な言語が共通語として広がっていました。パウロ達がローマにまで広がる福音宣教を実現したのは、ローマ帝国が築いた道を使い、公用語のようになっていたギリシア語をパウロが話し、散らばったユダヤ人のいるシナゴーグを巡る事で、宣教が進んだ、まさしくこの時代であったからこそできたものです。

Ⅲ.相続権のある「養子」という特権

その目的は、5節後半にあるように、「わたしたちを神の子となさるためでした。」でした。私たちが「神の子」という地位を獲得できるように、イエス様は来られたのです。5節の「神の子」という箇所は、英語の聖書で「養子」という単語が使われていました。ギリシア語で[フィオセシア]というパウロが特別に使った言葉です。日本の聖書はこの[フィオセシア]を、昔から「神の子」と訳してきました。
アメリカでは、養子縁組は一般的なことだそうです。子どもが出来ないから養子をもらうという人もいますが、それよりもよくあるのが、ミックスしたパターンで、自分の子どもがいたとしても、さらに養子をもらうそうです。多くの家庭は、親とは違う人種の養子をもらって、子どもたちの肌の色や髪の色がそれぞれ違います。小さい頃から親とは血筋が違うことを明らかにして、養子であることをオープンにして育てるそうです。
養子縁組というのは、養子となる子どもが、将来有望であるとか、かわいいからとか、親が何か得するからという理由で行われるものではなくて、両親の一方的な愛情と意志によって決定されます。養子となる子どもはそれまでおかれていた不安定な状況から、全く新しい、愛情あふれる家族へと一瞬にして、新しく変えられます。
私たちクリスチャンもそうですね。洗礼を受けてまったく変えられます。私たちは罪の奴隷となっていて、神様の目から全く何のとりえもない者ですが、神様の一方的な愛情と恵みによって「養子」とされます。私たちはただイエス・キリストを信じることによって、「子」とされ、全く新しい、永遠の命、復活の希望、神の家族、祝福された人生というアブラハムの遺産相続へと、導かれます。イエス様がこの世に来られた目的は、神様が約束された「相続を受け取れる養子」としての、愛の関係を得させるためです。

Ⅳ.未成年への後戻り

それなのに、ガラテヤ教会の信徒たちが、なぜ以前の状態に戻ってしまったのか、パウロは幼稚な未成年の状態に戻ってしまう愚かさに、8節以降で注意を向けます。
ガラテヤの人たちは、本当の福音を知ることにより、かつての教えを捨て去ったはずです。パウロは注意深く9節で「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」と言っています。そうですね、私たちが自力で神を知ったという事ではなくて、それよりも、神様が私たちを初めから知っておられて、私たちの状態を知って憐れんでくださったのです。
ガラテヤ教会の人々は、10節にあるように、規則正しい信仰生活を守っていたかも知れません。古代世界においては、暦は重要な意味がありました。しかし、イエス様の教えでは主日と言われる日曜日でさえ、礼拝の日として絶対に守らなければならないとは言っていません。聖書のどこを探してみても週の最初の日、日曜日を礼拝の日と規定している教えは見当たりません。イエス様が、日曜日に復活されたことを弟子達が覚えたので、いわば自発的に集まって、礼拝を捧げるようになりました。私たちは神様に養子とされた者として、自ら礼拝を捧げ、聖霊に導かれて自由に生きる。それこそが、律法という後見人から解放された、キリスト者の本来の自由な生き方です。ガラテヤの信徒たちの失敗を繰り返すことなく、自由とされた者にふさわしく、さまざまな束縛、戒め、世間の目から解き放たれて自由になった者として、生きることです。ガラテヤ教会の為に労苦したことが無駄にならないようにパウロは心配していますが、まさしく、私たちもキリストの十字架のみわざ、十字架の死を無駄にしないような生き方を歩みましょう。この一週間も「しなければならない」という律法に縛られず、イエス様が私たちの為に、この世に来られ、苦しみを受けて、十字架に架かり、神様の子どもとして下さり、家族の一員とされた、この愛に自ら応答する歩みでありますように。

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ファミリーチャペル 主日共同の礼拝説教

しつけること

2016年11月13日
ファミリーチャペル 成長感謝礼拝
コロサイの信徒への手紙3章21節
松本雅弘牧師

Ⅰ.イエスは子どもたちを愛された

今日のファミリーチャペルは、成長感謝礼拝という特別な礼拝です。先ほど、子どもたちの成長を感謝し、神さまに、子どもたちの祝福を祈りました。
ある時、子どもたちが、大好きなイエスさまを見つけると、イエスさまめがけて走ってきました。弟子たちは、忙しいイエスさまには、この子どもたちは迷惑な存在だと思って、子どもたちがイエスさまの方に行って、まとわりつくのを阻止しようとしたのです。すると、イエスさまは、そうした弟子たちに対して憤られ、「子どもたちをわたしのところに来させなさい」と言って、走って来る子どもたち1人ひとりを「抱き上げ、手を置いて祝福された」、という出来事が聖書に記されています。
「抱き上げ、手を置いて祝福された」というこの言葉は、みどり幼稚園でも教会でも大切にしている聖書の言葉です。何故か、と言いますと、ここにイエスさまが身をもって教えてくださった、子どもとの接し方、子育ての基本が説かれているからです。
「抱き上げる」とはスキンシップのことですね。子どもたちはスキンシップが大好きです。2つ目の「手を置く」とは、別の言葉で表現したら、「祈る」ということです。そして3つ目は、「祝福する」ということ。これは、教会特有の用語かもしれませんが、意味は、その子の存在を認めて褒めることです。これらをひと言で表現すれば、「イエスは子どもたちを愛された」ということです。
教会や幼稚園のHPにも書かせていただきましたが、聖書のメッセージをひと言で言いあらわすと、「あなたは大切な人です」というメッセージになります。「祝福する」とは、まさにこのメッセージを伝えるということです。
高座教会では昨年の4月から、毎月第2週の9時の礼拝を、「ファミリーチャペル」として守ってきました。ここでは、子育てのこと、家族関係のこと、夫婦のことなどを取り上げながらお話ししています。
今年の4月からは、私たちが人として健やかに成長していく上で、何らかの仕方で満たされる必要のある、7つの基本的要素について学んできました。その7つとは、1)大切な存在であることを知らせること、2)安心感をもたせること、3)受けいれること、4)愛すること、愛されること、5)ほめること、6)しつけること、そして、7)神を教えること、です。
こうした基本的な必要が満たされない時に、私たちの心の内側に不安が募り、その不安を、あまり健全ではない仕方で満たして行こうとする結果、さまざまな問題が生じるということが言われます。今日は、その6回目、「しつけること」について、ご一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ.Kさんのこと

19歳の青年、Kさんのことをご紹介したいと思います。彼は、物凄い不安感に襲われ、助けを求めてカウンセラーのところにやって来ました。何度か面談を受けていく内に、Kさんについて幾つかわかってきたことがありました。
1つは、彼は全く幸せを感じていなかったということ。2つ目に、何度か、頑張って困難に立ち向かおうと努力するのですが、いつも弱気になって逃げ出してしまう傾向があること。
3つ目に未成年であったにもかかわらず、すでにアルコールに頼り始めていたこと。そして4つ目に、現在彼は、全くの行き詰まりを感じていたことです。
カウンセラーは、そうしたKさんの心の中にある叫びに気づいたと言っていました。その叫びとは、「安心感が欲しい/心に平安が欲しい」という魂の叫びでした。
さらに面談を重ねる中、Kさんは少しずつ自分の生い立ち、特に家庭のことを語り始めていきました。
彼は、家の中で両親が仲良くしている姿を一度も見たことがない、と言うのです。顔を合わせると、決まって口論が始まる、常に両親の間に緊張感がありました。
Kさんからすれば、母親も父親も自分にとっては大切な親です。その大切な母親と父親が不仲である。ピリピリしている。家庭の中は本当に居心地が悪かった。子ども心にKさんは、いつか両親は別れてしまうのではないか、と心配でたまらなかったのです。さらに彼の家庭にはもう1つの特徴がありました。それは引っ越しの多い家庭だったということです。仕事の関係で仕方ないと言えばそれまでですが、Kさんの心の中には、〈いつ引っ越すかも分からない〉ということで、落ち着いて友だちを作ることも出来ず、さらに「心のふるさと」と呼べる場所を持つことが出来なかったのです。
面談を重ねる中で、さらに、こんなことも分かってきました。それはKさんの中に、「していいことと、してはいけないこと」の「境界線/バンダリー」が曖昧だったのです。Kさんは「適切なしつけ」を受けずに育ってしまったことがその原因でした。それは、どういうことかと言うと、彼の両親は、自分の機嫌のいい時には何でも大目に見て甘やかせる、しかし、両親が険悪な状態の時には、その怒りの矛先がKさんに向かって来るのでした。

Ⅲ.しつけとは?―「躾け」と「仕付け」

「しつけ」とは結構難しい問題だと思います。「しつけ」という言葉を漢字ではどう書くでしょうか? パソコンで、「しつけ」と打って変換キーを押すと「躾」という字が出てきます。そしてその後に「仕付け」という漢字が出てきました。
「躾」と書くほうは和製漢字だそうです。漢字の作り方を見ても、これは「人からどう見られるか」が問題になる「躾」という字です。
「躾」は、どうしても人からの見た目を大事にします。私たち日本人が考える「しつけ」とはこちらの場合が多いのではないかと思われます。
よく耳にする言葉ですが、「そんなことをしたら、誰々さんに笑われるよ」というのは、正に「身に美しい」と書くしつけ方です。周囲の目をもって行動を抑制するわけです。
聖書が言うところの「しつけ」は、英語で言えば、弟子という言葉から来た「ディスプリン」という意味です。つまり弟子にするという意味の言葉です。
イエスさまの弟子とは、イエスさまに代わって遣わされて行き、その場で、師であるイエスさまに代って働きをした人のことを弟子と呼ぶわけです。
つまり周囲がどうであろうと、「やるべきことをやる」という人に育てることを、聖書は「ディスプリン」、すなわち「しつけ」と言うのです。決して、人の前にどう見られるかではなく、人が見ていても、見ていなくても自らの良心に正しいことをしていくことを目標にすることです。
逆説的に聞こえるかもしれませんが、子どもたちが確かな安全感覚や、また自分が大事に扱われているという実感を持つためには何らかの制約・ルールが必要で、そうしたルールを持たない家庭で育った子どもというのは、概して不安定であることが多いと言われます。
両親がそうしたルールや制約を設けてくれるということは、一見、不自由さや窮屈さを与える印象を持ちます。とくに子どもたちは、友だちの家と自分の家を比べて、親に要求を押し付けてくることがよくあります。しかし他方で、こうした、その家のルールがあることによって、子どもたちは、両親が自分に無関心ではなく、自分のことを真面目に考えてくれているという、そうした点で、「安心感」の意識を与えると言われています。これがしつけられた子の幸せです。

Ⅳ.神さまに愛されているように

ある専門家が「子育ての原則は2つだけ。何が正しいか何が正しくないかを分かるように教えることと、正しくないことをすればきちんとしかること。これだけをきちんとやれば、それでよい。子どもに対する愛情に負けて叱ることを控えるのは、子どもを憎むことだ」と語っていました。
大事なのは正しいことを首尾一貫して分かるように教えること。そのためにその場の親の気分で、ある時は許し、ある時は怒るとか、父親と母親の基準が違うことがないようにすることです。
私たちの日常の生活を見ていくと、クリスチャンであるなしに関係なく、多くの人たちが聖書の言葉を基準にしているという現実があるのではないでしょうか。そして、聖書の中には、正しいこと正しくないことの基準となる言葉があります。そして、その中に聖書の中の聖書と言われる言葉があるのです。それはヨハネによる福音書3章16節です。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」これが全ての基準です。この言葉こそ、子どもたちを、そして私たちを祝福される神さまからのメッセージです。
子どもたちがこのことを実感できるように。そして、そのためには、まず私たち親自身が神さまの愛を知ることができるように。それが全ての始まりとなります。
お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

キリストの言葉が豊かに宿る交わり


2016年11月 6日
松本雅弘牧師
コロサイの信徒への手紙3章12~17節

Ⅰ.はじめに

イエスさまはご自分と私たちとの関係を「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と表現されました。私たちが信仰生活を送って行く上で必要なことが、イエスさまのこの御言葉に凝縮されているように思うのです。
いつもお話することですが、私たちがすること、私たちに出来ること、それは、ぶどうの木である「キリストにつながる」ことです。その具体的なつながり方を、私たち高座教会では「信仰生活の5つの基本」と呼び、生活の中で大事にして歩んでいます。
そして2017年は「信仰生活の5つの基本」の4つ目、「主にある交わりに生きる」をテーマとして歩んでいきます。それは、具体的に言えば小グループや各世代別会、あるはまた奉仕のグループの輪に参加し、お互いのことを心にかけながら、信仰生活を送るということです。

Ⅱ.キリストの言葉が豊かに宿る交わり

来年の主題聖句はコロサイの信徒への手紙の3章16節で、次のような御言葉です。
「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」
この御言葉を見ますと、まず第1に、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」という勧めが目に飛び込んできます。これは、私たち信徒の交わりは、本来、キリストの言葉、羊飼いであるイエスさまの言葉を豊かに宿す交わりであり、またそのような交わりになるように祈り求めていくように、という教えの言葉です。

Ⅲ.主にある交わりの実際―ハイベルズ牧師と会社経営者との交わり

先週の木曜日、「グローバル・リーダーシップ・サミット」が行われました。その中で、私自身とても心に残った講演がありました。
それはビル・ハイベルズ牧師のお話です。ハイベルズ牧師は、「レガシー」、日本語では「遺産」という言葉を使いながら、私たちは、日ごろ周囲に何かを残しながら生きていることに注目し、こんなお話をされました。
ある時、ハイベルズ牧師の友人で、会社の社長として成功を収めたある人が、ハイベルズ牧師と話をしたいと言って来たのだそうです。会ってみると、その人はとても浮かない顔をしていました。そして彼は言いました。「自分の人生は妥協の連続だった」と。
それで、彼は主にある友であるハイベルズ牧師と話がしたいと思ったそうなのです。話し始めた彼は、話の途中で急に黙ったかと思うと、しばらく沈黙の後、「眠れない日々が続いているんだけど、その理由を知りたいかい?」と言って声を詰まらせ、「自分は、とてつもなく金を稼いだ男、としてだけ記憶されるのかと思うと…」とつぶやいたのです。「自分の結婚生活は失敗だった。子どもたちとも上手くいっていない。信仰も口先だけだった。友人に対しても最低で、全く友だちがいない男だった」と。そして、少し間をおいて、「でも、もしやり直すことができるのなら、何でもやりたい。どんな犠牲でも惜しまない」と言ったのです。
これを聞いたハイベルズ牧師は少し考え、こう言いました。「じゃあこうしてみよう。ここ5年、あるいは10年を振り返ってみて、君のエネルギーの使い方を円グラフに表わしてみて欲しい。」そう言われた彼は、すぐに円グラフを書いて見せました。
彼の描いた円グラフは、ほとんどの部分が仕事で占められていて、結婚生活、家庭生活、友人との関係、教会生活、神さまとの関係、これら全てが僅かの部分にギュウギュウに詰まっている、そのような円グラフでした。
それを見たハイベルズ牧師は、主にある兄弟として彼に助言しました。「過去を変えることはできない。でも、私たちはこれからのことを選び取っていくことができる。だから、家に帰って、祈り、この真っ白な新しい円グラフの中を、神さまがあなたに願っている配分で、もう一度、書き直してみたらどうか。そして、そのような生き方を今日から始めてみないか!」と。
彼は自分の人生を変えたいと思っていましたから、帰宅するとすぐに新しい円グラフに取り組みました。時間をかけて、神さまが彼に求めておられる、そして彼自身も心から願っているエネルギーの配分、そうした生き方を表わす新しい円グラフを書いたそうです。
その話をした後で、ハイベルズ牧師は、私たち聴衆に向かって、「あなたが今の職場や働きから退く時、後に残された人たちは、あなたをどのような人として記憶に留めるでしょうか? そしてもう1つ、あなた自身はそのように記憶されることを願っているでしょうか。」と言いました。
そして、友人に勧めたように、私たちに対しても、「今こそ、真っ白な円グラフの前で、神さまの御心を求めながら、神さまが願っている新しい円グラフを書き、そうした生き方を始める時なのではないでしょうか!」とチャレンジしてこられました。
ハイベルズ牧師は言いました。
聖書の中には、ずっと不本意な生き方をしてきて、人生の土壇場で、最後の最後のところでその、レガシーを書き直した、そのような人物が大勢います。その1人が、イエスさまと一緒に十字架に付けられた囚人です。彼は人生の最期の場面で命の道を選んだのです。信仰を選んだのです。イエスさまは、彼に対して「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」と宣言されました。
過去を書き直すことは、確かに不可能です。でもこれから、どう生きるかについて選び直すことができるのです。
私は、この話を聞いた時、思い出した説教がありました。それは、暗殺される前夜に語ったと言われるマーティン・ルーサー・キング牧師の説教の一節でした。「私の生涯の最後にあたって、あなた方の中の誰かが私の周りにいてくれたならば、私は長々とした葬式を望みはしません。そしてもし誰かが死者に対する賛辞を求められたとしても、私は長いスピーチを望みません。今であれ、その時であれ、私がその人たちに語ってほしいと思うことは、次のようなことです。私は、自分がノーベル平和賞を受けたことについて語ってほしいとは思いません。そんなことは重要ではありません。私がその他に、3百も4百もいろいろな賞を受けたなどということも語ってほしくはありません。そんなことは重要ではないのです。私の学歴について語ってほしいとも思いません。私は、その日、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアはその生涯を他の人々のためにささげようとしたと語ってほしいのです。その日、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは人々を愛するために生涯をささげようと努めたと語ってほしいのです。」
もし私たちが、「今の働きから退く時、後に残された人たちに、私がどのような人として彼らの記憶に残るのか。それでいいと、今のあなたは思っているのか」と訊かれ、「いや、そうであってほしくない」と思うのならば、ハイベルズ牧師の勧めに従い、もう一度、神さまに私自身の物語を書き換えていただくように祈り求めたいと思うのです。
私も説教を聞きしながら、キング牧師のように「人々を愛するために生涯をささげようと努めた」と記憶されるような人生を送りたいと改めて思わされました。
来年の主題聖句に、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」とあります。ハイベルズ牧師と友人との交わりの中に、まさに、このキリストの言葉を中心とした主にある交わりが起こったのです。
私たちの交わりがキリストの御言葉を中心とする交わり、それを豊かに宿す交わりである時に、それは、2つ目のポイントである「知恵を尽くして互いに教え、諭し合」う交わりとなるということです。
正に、ハイベルズ牧師と友人との主にある交わりの中で起こったこと。まさに、私たちがどのような「レガシー・遺産」を残すかという話題は、この聖句が示している「教え、諭し合い」が行われたのだということなのです。
そして第3に「主にある交わり」は私たちの心を引き上げ、神さまへの礼拝へと導く交わりとなることも教えています。「詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」とある通りです。

Ⅳ.宣教70周年を記念する年

さて、来年、2017年は、宗教改革500年ですが、私たち高座教会にとっては宣教70周年を迎える記念の年です。高座教会70年の歴史を振り返る時に、そこには「キリストの言葉が豊かに宿るような」交わりがありました。
「2人でも3人でもわたしの名によって集うところにわたしもいる」と約束された主イエス・キリストが、聖霊にあって共におられ、御言葉によって導いてくださった70年だと思います。
このことを記念して1月22日には、記念礼拝を捧げます。また来年末までには、『高座教会宣教70周年記念誌(仮称)』を発行する予定です。それらのことに期待をしながら、2016年の残された2か月を、今年のテーマである、「御言葉と祈りに生きる」ことを大事にして、2017年に向けての歩みを進めて行きたいと願います。お祈りします。