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アドベント 主日共同の礼拝説教

洗礼者ヨハネの証し

松本雅弘牧師
イザヤ書61章1-4節,8-11節、ヨハネによる福音書1章6-8節、19-28節
2019年12月8日

Ⅰ.ヨハネ福音書の降誕記事

ヨハネによる福音書は、4つある福音書の中で最後に書かれたものであると言われます。
ヨハネが福音書を書いた頃、イエスをキリストと告白する者がいれば、公式に会堂から追放することをユダヤ教側の人々が決めていた。そのようにクリスチャンたちにとって厳しい状況の中で、この福音書は書かれたものでした。そのように考えて今日の聖書の箇所を見ると、主イエスこそ救い主であること、主イエスが神の独り子であること、神さまによる恵みと真理が主イエスによって現されたことなどが強調されていることに、改めて気づかされるのです。

Ⅱ.証言者としてのヨハネ

「光」なる「言」のことを証言する人物として洗礼者ヨハネの名前が示されています。福音書記者ヨハネは、あくまでも主イエスこそがメシアであり、ヨハネ自身はメシアではないことを主張しました。
ところが、人々の中にはヨハネがメシアではないかと考える者もあったのです。これに対して、イザヤ書40章3節を引用し、ヨハネは自分の役割は主の道を整えることだと説明したのです。このように洗礼者ヨハネは主イエスについて「語る」ために神さまから遣わされました。
ギリシャ語で「語る」という言葉は、「見たことを証言する」と言う意味があります。ですからヨハネは証言者でした。

Ⅲ.人生に縦軸(神との関係)のある人ヨハネ

ある時、主イエスはヨハネを指して、「女の産んだ者の中で、最大の人物」と称賛されたことがあります。そのヨハネは理不尽極まりない仕方で殉教の死を遂げるのです。
時のユダヤの権力者ヘロデが、自分の兄弟から妻ヘロディアを奪い、彼女と結婚するという事件が起こりました。それを知ったヨハネが「その結婚は律法で許されていない」と主張し、ヘロデ王の罪を糾弾したからです。
しばらくしたある日、その日はヘロデの誕生日で妻となったヘロディアの連れ子、サロメが父親となったヘロデに誕生日のプレゼントということで踊りを披露します。
ヘロデは大いに喜び「欲しいものがあれば、何でも言いなさい。お前にやろう」と言ったのに対して、サロメが、母親ヘロディアに相談し、「洗礼者ヨハネの首」を求めたことでヨハネは殺されていきました。
福音書には、その後日談が出て来ます。主イエスの活躍の様子がヘロデの耳にも聞こえて来たとき、どういうわけか、主イエスのことを「自分が殺したヨハネの生まれ変わりだ」と勘違いし、物凄く不安になったというのです。
さてヨハネは主イエスの先駆けとして活動を始めて行くなか、ある程度、自分の死を予測できたのではないかと思います。ところが、福音書を読む限り、死と隣り合わせのところに置かれていたはずのヨハネが、恐怖に怯え、何かを後悔している形跡が全くないのです。むしろ、とても小気味の良い! 信じる道をまっすぐ歩き、びくともしないのです。
聖書が伝える洗礼者ヨハネの生涯を見るとき、本当に彼は自分自身に満足しています。自分を取り巻く状況は大変厳しいのですが、心は穏やかなのです。確信に満ち、恐れや不安から解放されていたのです。何故ならヨハネは、真に恐るべきお方である神さまを知っていたからです。正しくないことがあれば、ヘロデであろうが誰であろうが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とはっきり言うことが出来たのです。常に霊に燃え輝いていました。それに対し、権力を持つ側のヘロデは恐怖におののいていました。主客転倒が起こっているのです。
権力、地位、財産、支配の力は、表面的には強く見えても実質は無に等しい。しかも死と隣り合わせです。これに対して、優しさ、愛、良心、信じること、望みを抱くこと等は確かに弱く見えても、実は権力も太刀打ちできない強さがあるのです。
まさに福音書記者ヨハネが「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」(Ⅰヨハネの手紙4:18)とその手紙に記した通りです。
洗礼者ヨハネとヘロデの姿は好対照なものとして、この違いを、実に鮮やかに示しているように思います。洗礼者ヨハネの生き方、それをひと言で表現するならば、「人生に縦軸を持つ生き方」でしょう。
聖書は、私たち人間が的外れな生き方をしている場合、その生活の中に必ず「自己中心」と「虚栄心」として現れてくることを教えています。「自己中心」とは「自分が、自分が」という思いです。自分の願いを叶え、自分の欲望を満たすために人を利用するような思いです。
「虚栄心」とは「等身大の自分」を受け入れることが出来ないために、背伸びをして生きる心です。神しか満たすことの出来ない隙間がぽっかりと空いていて、それが大きいが故に必死になって「神の愛」以外の何かをもって満たそうとする。また心の深いところで「自分はダメな人間だ」と思っているので、背伸びし、自分をよく見せるようにして虚栄を張るのです。繰りかえしますが、本来、神に造られ愛されているはずの私たちが、造り主から離れて生きようとするとき、必ず自己中心となり、虚栄を張って生きるしかなくなると聖書は教えています。
それに対して、洗礼者ヨハネはそうした生き方から解放されていました。自分に満足できない人は決して他人にも満足できません。それがヘロデの問題であり私たちの問題でもあります。
これに対して、神の恵みと愛とを十分に実感するとき、自分自身に満足してくるのです。神から、このままの姿で受け入れられていますから、背伸びをする必要もない。人と比べることからも解放されていきます。「私は私でいい」と心の深いところに満足を覚えるようになります。
私たちに必要なのはこの恵みです。神さまに出会い、御言葉をいただき、心に栄養をいただくことが本当に必要なのです。
このようにして洗礼者ヨハネと王ヘロデを比較するときに、人生に縦軸を持っているかどうか、神さまを知っているかどうかが本当に問われてくるのです。

Ⅳ.「現代のヨハネ」として召されている私たち

ヨハネ福音書1章、6節以下に「証し」という語が3回も出て来ます。つまり洗礼者ヨハネは、まさに「光について証しをするために来た」証人なのだと福音書は伝えています。そしてもうひとつ、私たちが光である主イエスを証ししようとするときに、洗礼者ヨハネ同様に、光なる主イエスと向き合う必要があるということです。
パウロはコリントの信徒に宛てて、「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(Ⅱコリント4:5-6)と語りました。
私たちがキリストと向き合うときに、ちょうど月が太陽の光を身に受けて輝くように、光なる主イエスの素晴らしさを反映し、私たち自身が、洗礼者ヨハネのように証し人として輝かせていただけるのです。
ある意味、洗礼者ヨハネも困ったようです。人々に洗礼を授け、悔い改めを勧めていたのですが、多くの人が、洗礼者ヨハネが救い主ではないかと言い出したからです。ですからヨハネは、「そうではないのです。救い主について証しをするために来たのです」と、自分の役割をそのように受けとめているのですが、周囲の人々は身勝手なことを言いました。
それだけヨハネが光り輝いていたからだと思うのですが、そうした人々に対してヨハネが「声を張り上げて」主イエスを証しする姿が紹介されています。何故そこまでしたかと言えば、他の誰でもなく主イエスを見つめることが大切だから、これこそが、私たちが輝く唯一の道だから。それは洗礼者ヨハネ自身が経験したことであり、それを伝えたかったのです。
主イエスを見つめると、私たちは自らの罪に、闇に気づかされる。でも罪や闇に気づくことは、私たちにとって本当に必要な第一歩でしょう。何故なら、そのことを知った者は光を求めるからです。罪からの救い主、主イエスを求め始めるからです。闇の中に光が灯されるとき、その光の周りからスーッと闇が消えて行きます。私たちの心の中に暗闇があることに気づき、その闇を追い出そうとしても出来ない。どうすればよいか? そこに光を招き入れるときに初めて、そこから闇が消滅するのです。私たちの人生に主イエスをお迎えするということはそういうことです。
「まことの光」として「すべての人を照らす」お方として、キリストはおいで下さいました。光なるお方と向き合って生きるときに、キリストは、罪深い私たちをも、その光を反射させる者、光の証し人としてくださるのです。お祈りします。

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主の道を備えるために

松本雅弘牧師
イザヤ書40章1-11節、マルコによる福音書1章1-8節
2019年12月1日

Ⅰ.主の再臨を待ち望むために

今年も待降節がやって来ました。待降節はキリストの降臨であるクリスマスの恵みを思い巡らすと共に、そのキリストの「再降臨」、約して「再臨」を待ち望む季節でもあります。

Ⅱ.あらすじ

福音書記者マルコは、前置きに時間を費やすことをせずに「神の子イエス・キリストの福音の初め」と切り出します。
マルコは、イエス・キリストの到来こそ、その方の存在こそが、「福音」、「良き音信そのもの」なのだと大胆に宣言するのです。そして預言者たちの言葉を引用しながら、荒れ野に出現し「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えるヨハネこそが、メシアの先駆けとして遣わされた者であることを明らかにし、彼の宣教活動の様子を報告するのです。
ヨハネは、自分の後に本当に「優れた方」が来られると伝えます。そして自分がしていることはそのお方のために道を備えることなのだというのです。その具体的な道備え、それこそが、主イエスに洗礼を授けることであったのだ、と福音書記者マルコは語っているのです。

Ⅲ.「あなたはわたしの愛する子、心に適う者」という御声を祈り求める

今日は洗礼式が行われます。洗礼者ヨハネが、主イエスの道備えの最初の務めとして洗礼を授けたように、今日の方たちも洗礼を受け、新しい歩みをスタートするわけです。
では受洗するとは一体どのような意味があるのでしょう。ここで洗礼者ヨハネは、「その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と言いました。
ヨハネから洗礼を受けた主イエスの上に、聖霊が鳩のように降って来られ、天から次のような声がありました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1:11)。
これはどういうことでしょうか。受洗は、主イエスの命である聖霊をいただくことの目に見える印ですが、同時に私たちの心の深いところで「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神さまの御声をしっかりと聞きとることでもあるのです。
ところが現実には、受洗後も神の愛を実感できないでいることがあります。その理由は、私たちの中にある「偽りの物語」が原因しているからだと言えるでしょう。
一般に私たちは、人間の価値はその人が成し遂げたことによって決まるという物語を信じているようです。先日、テレビを見ていましたら「ハイスペック男子」とか、「スペックの高い人」という言葉が使われていました。本来の「スペック」とはパソコンや機械などの客観的に判定、評価できる構造や性能を意味する言葉ですが、それが人に転じて「能力が高い」という意味で使われるようになったようです。ですからスペックの高さとは、その人の価値に比例するという風潮があるようです。これは主イエスの時代の「律法主義」です。神さまに愛され、喜ばれるためには、愛されるに値する、喜ばれるに値する理由を私の側にたくさん積み上げる必要があると言う考え方です。
同じ出来事を記したルカ福音書では、主イエスが「洗礼を受けて祈っておられると」という表現があることに心が留まりました。「洗礼を受けて祈っておられると」、父なる神がその祈りに応えるようにして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という御声をかけてくださったとあるのです。
これは本当に大事なことを教えているように思わされます。つまり私たちが神さまに愛されていることを実感する恵みは、ちょうどこの時の主イエスがそうなさったように、私たち一人ひとりも、神に祈り求めるべき恵みであるということです。
私は自分の今までの歩みを振り返る時に、本当にマイナスの言葉を浴びるようにして大人になって来たなとつくづく思うことがあります。我が子に対してもそのようにしてしまっている自分を情けなく思うことがよくあります。
その結果、特に自分の中のマイナスの面、弱いところと上手く向き合うことができない。例えば弱さや足りなさを見せつけられるような場面に出くわすとどうするか、見て見ぬ振りをし、場合によっては競争や競い合いを始めるのです。いちじくの葉っぱ」を貼って、他人よりも自分を大きく見せようとします。でも、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。あなたは大切な人です」という言葉に触れると、不思議と「自分は自分でよい/私は私」という思いにさせられるのです。
あるクリスチャンは、こう語っていました。
「私たちは愛されている者です。両親や教師、結婚相手や子どもや友人が、私たちを愛したり、傷つけたりする、そのはるか以前から、私たちは深く愛されています。これが私たちの人生の真理です。その真理を、あなたも受け取っていただきたい。それは『あなたはわたしの愛する子』という言い方で語りかけてくれる真理です。
しっかりと心の耳を澄ませてその声に聴き入ると、私の存在の中心から、こう語りかける声が聞こえてきます。『私は、はるか以前からあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの、私はあなたのもの。あなたは私の愛する者、私はあなたを喜ぶ。私はあなたを地の深いところで仕組み、母の胎の内で組み立てた。私は手のひらであなたを形造り、私の懐に抱いた。私はあなたを限りない優しさで見つめ、母がその子を慈しむ以上に親しくあなたを慈しむ。私はあなたの頭の毛をすべて数え、あなたの歩みを導く。あなたがどこに行こうと、私はあなたと共に歩み、あなたがどこで休息しようと、あなたを見守り続ける。…』」と。
一日が終わって、床に就く時、その日一日を振り返って後悔することがあります。〈何故、あんなこと言ってしまったのだろう。あのような事をしなければよかったな。〉〈あの時、ああ言えばよかった。〉
結構、幾つも幾つも心に浮かんできます。でも、そうした時に、主の御前に静まり、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、主のこの語りかけに耳を澄まします。すると不思議な力や慰めをいただく。どんな失敗をしたとしても神の子としての私の価値に傷がつくことなどない、ということを知らされるからです。
洗礼を受けたということは、そのことをはっきりと自分のこととして聞くことであり、神さまを信じて歩み始めるということは、常にそのように語りかけてくださるお方の前に立ち返っていくことなのです。

Ⅳ.ぶどうの木であるキリストにつながり続ける

主イエスは十字架につかれる直前に、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネ15:5)。
そうお語りになった後「父のところから助け主なる聖霊を遣わすのだ」と約束されました。
受洗し、神の愛の語りかけを聞き続け、本当の意味で喜びに満ちた信仰生活を送ることを願うならば、ぶどうの木であるキリストに繋がることが大切です。たとえ洗礼を受けても主イエスから離れるならば、聖書で約束されている様々な恵みは絵に描いた餅です。何故なら「私を離れてはあなたがたは何もできないからだ」と言われるからです。
真の意味で私たちの信仰生活を恵みで満たし、教会を豊かにするものは何かと言うならば、それはキリスト教的活動が活発になることではなく、主イエスとの生きた関係がそれだけ太くなるか、親しくなるかにかかっている、ということなのです。
洗礼を受けるということは、主イエスの命である聖霊が、私たちの心に宿られることを表わしていることを、覚えたい。この「宿る」ということは、単に「お客さまとして滞在する」のではなく、「住みつづけ、生活を共にする」という意味の言葉です。
結婚して感じたことですが、他人同士が生活を共にすることによって何が起こるでしょうか。似てくるのです。場合によっては顔つきまで似てきます。それはともかくとして、主イエスの霊である聖霊が宿って下さり、聖霊と共に暮らすならば、次第にキリストに似てくるのです。
私たちには幾つもの生活の場があります。〈この顔は見せたくないので、イエスさま、ちょっと向こうをむいていてください〉と言いたくなることもあるかもしれない。
でも信仰生活はこの逆なのです。ぶどうの木に繋がったり離れたりしていては、実を結ぶ暇もありません。聖霊は私たちの内側に宿られるお方ですから御言葉を通し、心の扉を開くようにと語り続けて下さる。生活の全領域で、聖霊なる神さまと共に生きることを願っておられる。
私たちは、そのようにして聖霊に満たされていくのです。置かれている状況が厳しくても、そこに主イエスが共におられる時、本当の平安が心を包み込むように、どんな環境にあっても聖霊が共におられるので、本当に心強い。
「キリストにつながる」とは、そういうことです。そのように、主が私にとっての道となってくださるように祈り求めていきたいと願います。
お祈りします。

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救い主への捧げもの

2018年12月16日
第3アドベント
松本雅弘牧師
イザヤ書63章15節~64章8節
マタイによる福音書2章1~12節

Ⅰ.クリスマスに喜び?

街のあちこちでクリスマスが語られる時、それは喜びを映し出しています。テレビのどのチャンネルを観ても、そこにあるのは「喜び一杯のクリスマス」です。でも、今日お読みしたマタイによる福音書2章1節から12節では、喜びと正反対の出来事や言葉が溢れています。
ヘロデ王の心に不安がよぎり、それが殺意に発展し、その結果さらなる不安、恐れ、悲しみが拡がっていきました。そうした暗闇のような空気が満ち満ちているのが、今日の聖書箇所です。しかし、その中でかろうじて1カ所だけ、「喜び」という言葉を見つけることができました。「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(10節)。
単なる「喜び」ではありません。「溢れるような喜び」がここに語られているのです。これはどういうことでしょう。

Ⅱ.占星術の学者たちと、溢れる喜び

ここに1つ、決して見落としてはならないポイントがあります。それは喜んだのが「東の方から…来た」占星術の学者たちだったということです。(1節)
「東の方」と書かれています。具体的な国名は出て来ません。この時代、ユダヤの人々が「東」という言葉を聞くとどんなことをイメージしたのでしょう。歴史を知るユダヤ人であれば即座にアッシリア、バビロン、ペルシャと、自分たちイスラエルを脅かしてきた国々を思い浮かべたに違いありません。
預言者ヨナに、「アッシリアの首都ニネベに行って神の言葉を伝えるように」と、主の言葉が与えられた時、ヨナは「神さま、それだけは勘弁してください」と、主なる神に仕える預言者であったにもかかわらずに、東方のアッシリアとは正反対の、西の方角へと逃亡を企てた出来事がありました。それほどまでに、東の国アッシリアは、イスラエルにとって憎むべき敵国だったのです。
歴史を紐解けば、北イスラエル王国はアッシリアによって滅ぼされ、男たちはアッシリアが征服した別の地域に連行されます。すると、他の被征服地からも他民族の男たちが連れて来られます。そのようにして民族混交政策をとったのがアッシリアでした。
その後、同じ東方の国バビロンが、南ユダ王国を滅ぼします。この時、捕囚とされたのは男性だけではありません。男性も女性も、イスラエルの多くの民が東の国バビロンに連行されました。このように「東の方」とは、自分たちを捕え滅茶苦茶にした国々なのです。まことの神である主を信じない異教徒の国々、それがこの時、彼ら学者たちがやってきた東の国でした。
さらに悪いイメージは続きます。ユダヤ人にとって「東」とは、アラビアの砂漠がどこまでも続く所で、暑さと乾燥のために植物が全く育たない不毛の地です。「東から風」が吹くと草木は一斉に枯れ、泉は干上がり、イナゴの大群を運んで来るのが「東風」と言われ、人々は本当に恐れていました。それが「東」です。「東の方からきた占星術の学者たち」とは、まさに、その「東」からやって来たのだとマタイは伝えるのです。
ところで、1節の「占星術の学者たち」という言葉をギリシャ語原文で見ますと、「マゴスたち」が来たと書かれていました。これは英語の「マジック(魔法)」の語源となった言葉だと言われます。言ってみれば魔術師、「星占いの先生」といったところでしょう。
ただ、この占い自体は、旧約聖書の時代から神によって厳しく禁じられた行為でした。ここでマタイが伝えていること、それは父なる神が、御子の礼拝者として最初に招いたのが、ユダヤ人が忌み嫌っていた東方から、しかも旧約の時代から禁じられていた占いの先生たちだった、ということです。
この時、占いの先生たちだけが、御子イエスに会うことが出来たのです。当時のユダヤ人たちが、救われるはずがないと考えていた異邦人、救いの枠外に居た異邦人、しかも星占いを仕事とする人々が誰よりも先に、救い主イエスの礼拝者として招かれたのです。そして彼らこそ、主イエスの誕生を知って、喜びにあふれたのだ、と伝えているのです。

Ⅲ.御子の礼拝に最初に招かれた人々

もう少し、この時の学者たちのことを考えてみましょう。彼らはユダヤまでやって来ましたが、救い主がお生まれになった場所が分からず、方々探しまわりました。でも見つかりません。
ユダヤ人の王としてお生まれになったのだから、当然、宮廷に居るだろうと考え、ヘロデのところを訪問したのです。
実は、その時はじめてヘロデは事実を知らされました。そして急に不安になったのです。すぐさま祭司長たち、律法学者たちを招集し、「メシアはどこに生まれることになっているのか」と問いただしたところ、彼らは「ユダヤのベツレヘムです」と即座に答えました。それも預言者ミカの言葉を引用しながら。しかし、自由自在に聖書を引用し、すぐに答えを出せた彼らですが、そこで動こうとしないのです。あの羊飼いたちが、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(ルカ2:15)と言ったように、急いで出て行こうとしないのです。本当に不思議としか言いようがありません。
私は次のような言葉を思い出しました。「というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです」(へブライ4:2)。
聞いた言葉が役に立たなかった。その言葉が、それを聞いた人々と信仰によって結びつかなかったからだというのです。あくまでも他人事、自分のこととして受けとめていません。受けとめられないでいたのです。
彼ら祭司長、律法学者たちとはユダヤの信仰、伝統を守る人たちです。「これは一大事、すぐに行きましょう」と行動に出てもよかったはずです。でも誰一人動かない。立ち上がろうともしていません。
そして、皮肉にも行動に出たのがヘロデなのです。「わたしも行って拝もう」と言っていますが、その逆で、実は殺そうと考えていました。地位を脅かす原因となるイエスを、赤ん坊の内に殺してしまおうと考えていたのです。
ヘロデが一番熱心に聖書を調べさせ、メシア誕生に関心を示した。ところが、そうした熱心なヘロデとは全く対照的に、ユダヤの指導者たちは全く無関心だったのです。福音書を書いたマタイは、クリスマスの出来事をこのように見ているのです。

Ⅳ.だれのためのクリスマス?

先日、銀座の教文館に行ってきました。銀座はクリスマス一色でした。でも、そうしたクリスマスを見ながら、心のどこかで私は、〈彼らははしゃいでいるけど、本当のクリスマスを知らない。本当のクリスマスは教会にあるのに・・・〉と、ふと、そんなことを思いました。
高校生の時はじめて教会のクリスマス会に出たあと、〈これが本当のクリスマスだ。本当の意味でお祝いできるのは信仰を持っている、この人たちだよなぁ〉と考えたことを思い出します。
でも、果たしてそうなのだろうかと思います。ここに登場する祭司長たち、律法学者たちのように、聖書の知識があっても、それによって、信仰者たちは動きだしたり立ち上がったりしているだろうか。また逆に、聖書を読みながら、聖書が教えることと正反対のことを平気で考えるヘロデのようになっていないだろうか。
占星術の学者たちが味わった大きな喜び、マタイをして、「大きな喜びを、この上もなく喜んだ」、「非常な喜びにあふれた」と表現させるほどの喜びが、クリスマスの意味を知っていると告白してはばからない、私たちの心の中に、また教会の中に、果たしてあるのだろうかと思わされるのです。
喜びは自分で作れるものではなく、神が与えてくださるものなのだと、ある人が語っていましたが、占星術の学者たちは、神から喜びをいただいた、受け取ったのです。救い主と本当に出会ったからです。
救い主と出会った彼らはその後、どうしたでしょう。黄金、乳香、没薬を主に捧げました。これらは占星術をする時の商売道具だと言われています。それを入れてあった「宝の箱」とはリュックのような袋を意味する言葉だそうです。リュックのような袋に商売道具の黄金、乳香、没薬を入れて持ち歩き、旅をし、仕事をしていたのです。その生活の手立てを、リュックごとみんな幼子イエスの前に差し出してしまったのです。言い換えれば、〈もう役に立たない、必要ない〉と、彼らは思ったのです。
ある人の言葉を使えば、自分たちの間違いを認めた。星占いから足を洗ったのです。
ちょうど歴史がキリストの誕生を境に紀元前と紀元後に分かれるように、救い主イエスとの出会いが、彼らのその後の人生を方向づけて行ったのです。その証拠に、神さまは彼らのために、「別の道」(12節)を備えてくださいました。
アドベントは、講壇に、悔い改めを表す紫の布を掛け、もう一度、私たち自身の信仰生活を吟味する季節です。私たちは来週、いよいよクリスマス礼拝を迎えます。今朝もう一度、神さまからいただいている恵み、いただいている救いを覚えて感謝したいと思います。もう一度、私たちの心の飼い葉桶に、救い主イエス・キリストをしっかりとお迎えしたいと願います。
お祈りします。

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困惑の中に

先週講壇

2018年12月9日
第2アドベント
松本雅弘牧師
イザヤ書9章2~7節
マタイによる福音書1章18~25節

Ⅰ.夢-困惑の中に

日曜日の前日に、私はよく夢を見ます。心理学によれば、夢は、人に隠しているもの、心の奥深くにしまい込んである願い、心配、課題が表れてくるものだと言われます。
ここに登場するヨセフも夢を見ました。彼は、それほどまでに大きな悩みを抱え、追い詰められていたからです。

Ⅱ.ヨセフが直面した危機

誰にも相談できず悩みを抱えていたヨセフでした。その悩みとは、婚約中のマリアが、ヨセフにとっては身に覚えのない子を身ごもっていたことです。
この時のヨセフとマリアとは婚約期間中でした。ユダヤの習慣によれば、この婚約期間中は、性的な関係以外は、ほとんど夫婦と同じような生活が許されていました。ですから、この期間に他の男性や女性と性的な関わりを持ったとすれば、結婚後の姦淫の罪と同じような重罪と見なされました。
そうした中で、マリアが妊娠していることが発覚したのですから、ヨセフはどれだけ傷ついたことでしょう。
彼は「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心」(マタイ1:19)しました。ただヨセフの身になって考えるならば、理屈で整理できても、心が付いて行かなかったことだと思います。
マリアは愛する人です。彼女の存在は大きな喜び、生きがいになっていたことでしょう。そのマリアを失う。彼女のお腹に身に覚えのない命が宿ったのです。ですからヨセフにしてみれば彼女を失うだけでなく、彼女との間に今までのような愛を見出すことが出来なくなっていた。もう一緒に生きることができないのだという思いを抱かざるを得なかったのです。
そうした深い悩み、しかも、このことを誰にも話すことが出来ないという苦しみの中に置かれたのです。クリスマスとは、そうした人間の本当に深い魂の悩みの中で起こった出来事なのです。

Ⅲ.ヨセフへの召し

そのようなヨセフに、神は夢の中で御使いを通してお語りになったのです。「あなたは、この娘と離縁してはならない。きちんと自分の妻として迎えなさい」と。
言わば、その子を自分の子として引き受けるように。つまり身に覚えのないその子の父親になってくれるかと、神さまが天使を通して頼んでおられるのです。
ヨセフはどうしたでしょうか。彼はそれを引き受けていきました。この後、ヨセフの歩みを見ていく時に、神からの依頼、イエスの父親としての召命に一生懸命に生きていくヨセフの姿を、私たちは見るのです。
ヨセフからすれば、イエスの父親になることは神さまからの召命に応えることでした。そして、それは見方を変えると、神の協力者、神の同労者として生きることの決断でもありました。
福音書の記者マタイは、神は他でもないこのヨセフに、御子の父親としての大切な働きを委ねたと伝えます。ヨセフの側からすれば、思いもよらない深い悩みでした。しかし、苦悩という魂の一番深いところで、神はヨセフに語りかけられたのです。その一番深いところで神の御言葉を聞くことから、ヨセフの新しい歩みは始まりました。
そしてどうでしょう。これは私たちの人生にも当てはまるのではないだろうか。一人ひとりに与えられた人間関係、責任や役割、今一度、神からの召しとして受け取り直すようにと促されているのではないだろうかと思うのです。

Ⅳ.神さまの招きに応答する

聖書を通してヨセフの人物像に迫る時、ヨセフが登場する場面はごく僅かであることに気づきます。しかも、クリスマスに関連した場面以降、彼は福音書から姿を消していくのです。
多分、ヨセフは若くして召された人だったのでしょう。しかし、ヨセフは自分に託されたイエスの父親として、マリアの夫としての大切な召しを、不平も言わずに引き受けていった、そうした姿に私たちは感銘を受けるのです。
羊飼いや博士たちが押しかけて来ても、ヨセフは決して迷惑がりはしませんでした。むしろ、待ち望んできた救い主である息子イエスの誕生を、みんなと一緒に喜んでいる姿を私たちは見るのです。
そしてまた敬虔な信仰者として、息子イエスに対して、旧約聖書で決められている通りに割礼を受けさせ、神殿参りをしています。そのように親として、神に対し、また息子に対する務めをしっかりと果たしています。
エジプトへ避難し、再びパレスチナに戻ってくる、あの大変な砂漠の旅にしても、聖書を読む限り、大きな問題があったという記録を見つけることはできません。つまり、ヨセフは、家族を不自由や危険な目に合わせないように父親としての務めを立派に果たしたのではないかと思います。こうした父親ヨセフの姿が、何よりも、息子イエスさまに大きな影響を与えていきました。
あるとき主イエスは「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」(マタイ7:9-10)と語っています。
主のこの言葉は、主から見てヨセフがどんな父親であったかを雄弁に語っています。父親ヨセフは、パンを欲しがる自分の子どもに石を与え、魚を欲しがる子どもに蛇を与えるような父親ではなかったのです。
主イエスが父なる神を語る時、地上の父親の存在をもって紹介されたのは、それは取りも直さず、ヨセフが天の父なる神の義と愛を体現する者として幼いイエスさまの目に映っていたからでしょう。
ルカによる福音書に記されている受胎告知の出来事の数か月前、洗礼者ヨハネの誕生が、祭司ザカリアに伝えられた時、天使が語った言葉の中に、主イエスの先駆けとして誕生する、後の洗礼者ヨハネがいったいどのような人物で、どういう働きをするのかが告げられています。その中に、「父の心を子に向けさせ」(ルカ1:16)る、という恵みが起こると語られます。
そう言えば、旧約聖書は最初の人の堕落後の罪の姿を、カインがアベルを殺害するという「兄弟殺し」で始めます。つまり、人間の罪の姿を「家庭の崩壊」の中に見ているのが聖書です。
その聖書は、旧約聖書の最後の書「マラキ書」において、エリヤが再び来る時、「彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる」(マラキ3:24)ことで、家庭に平和と喜びが回復すると預言するのです。
私もヨセフのように父親としての召しをいただいている者ですが、これは結構、父親にとって大きなチャレンジなのではないでしょうか。ともすると私たちは、「子どもの心が父親である私の方に向かう」ことばかりを考えてしまうからです。
しかし聖書はまず、親の心が子どもに向かい、次に、初めて子どもの心が親に対して開かれていく。そのようにして本来の人間の姿が回復されていくと伝えています。つまり、神の働きは、まず私から始まる、ということです。父親ヨセフから始まったのです。
私たちは、子どもが変るのが先だと考えます。相手の人が変ってその後に私が変わると考えます。でも神のお働きは、まず私から始まるのです。
逆に、神を知っているはずのこの私が、神を知らない者のように生きていることが実は、家族にとって、また周囲の人々にとっての一番の躓きとなっているのです。
神さまの救いはまず私から始まる。この地域社会の回復は、まず神の民である私たち自身が取り扱わ
れるところから始まる、というのが福音のメッセージです。
ヨセフは立身出世をした人物ではありませんでした。英雄的存在でもない。ごく普通の大工さん、私たちと同じです。でもそのごく普通のヨセフが、神の御心を選択したが故に、主はヨセフを祝福し、ヨセフを通して大切な御業をなさったのです。
「選択」ということを考える時、人生は日々小さな「選択」の連続、言いかえれば「小さな決心」の連続だということに気づきます。
1つの選択によって、その後の人生が定まっていくだけでなく、家族や周囲の人々の人生にも大きな影響を与えることがあります。
今日の聖書箇所には、ヨセフにとっての大きな決心、イエスの父としての自分、マリアの夫としての自分を受け取る、あるいは受け取り直すという決心が記されています。
そして、ここにもう1つの選択、もう1つの決心があったことを、私たちは忘れてはなりません。それは「神さまの選択」、「神さまの決心」です。
その神の決心、神の決意についてカール・バルトは、「神はイエス・キリストにおいて、永遠に罪人とともにあることを決意された」と語りました。
今日ご一緒に見てきたヨセフの決心も、この神さまの選択、神の決意を知り、その愛に圧倒されて、マリアと共に生きることを選んだゆえの決心だったのです。
23節を見ますと、男の子の名はインマヌエルと呼ばれる、この名は「神は我々とともにおられる」という意味だと書かれています。
クリスマスとは、神が私たちと共に生き、私たちを生かして用いようとされる神の愛の選択、「インマヌエルの決心」の出来事だったのです。
神の側で手を差し伸べてくださっている。そして私の手を取って、神の同労者として招いてくださっている。私たちはその招きに応答するのです。
お祈りします。

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アドベント 主日共同の礼拝説教

救い主の系図

2018年12月2日
第1アドベント
松本雅弘牧師
創世記11章31節~12章9節
マタイによる福音書1章1~17節

Ⅰ.待降節(アドベント)と紫の布

今日からアドベント、キリストの御降誕を待ち望む待降節の季節に入り、緑から紫に典礼色が変わりました。
教会の暦でこの紫の布が、再び講壇に掛けられるのは、主の御苦しみを覚える受難節ですが、今は、クリスマスを待ち望む、ある意味で楽しい季節です。けれども教会は、悔い改めを促す紫の布を礼拝堂に掲げながら、この季節を過ごしていきます。

Ⅱ.救い主の系図

「社会鍋」で有名な救世軍の創始者山室軍平が、若い時、聖書に出会い、感動してクリスチャンになりました。この感動を、独り占めしては申し訳ないと思って、聖書を1頁々々バラバラにし「是非、読んで欲しい」と一枚ずつ友人に配ったそうです。後日、ある学生が、その話を聞いて、「その第1頁をもらった人は、全く興味がわかなかっただろうに」と呆れ顔で言ったそうです。
「その第1頁」が今日のマタイ福音書1章1節から始まる系図です。最近、NHKの番組で「ファミリー・ヒストリー」というものがあります。自分たちのルーツ、自分って一体どういう者なのかを探る中で、いつの間にか、どこに足場を定め、どう生きていかねばならないのかを考えさせられるように思いました。
そのような役割を担ってきたのが、ここにある系図です。日本においても同様の時代がありましたが、イスラエルにおいては、特に大事にされてきました。
旧約聖書のバビロン捕囚後に書かれたものには系図が多く出てきます。歴代誌の初めなどを見ますと、そこに出てくるのは、名前の羅列や系図です。
このように大事なリストに自分の名前が出てくるかどうかは大きな問題でした。そうした歴史的、文化的背景のなかで、福音書記者マタイは、ここで真面目に系図を語っているのです。そして、そうした思いをもって、この系図と向き合う時、改めて様々なことを教えられます。

Ⅲ.系図の中の特別な人々

まず、第1に注目したいことは、この系図に4人の女性の名前が出て来ることです。
3節の「タマル」、5節の「ラハブ」、同じく5節に「ルツ」、そして4人目は、6節にある「ウリヤの妻」、名前は「バテシェバ」です。
実は、系図の中に女性が登場すること自体が当時のユダヤ人にとって驚きでした。何故なら、ユダヤ人が血筋を語る時、それは男が作るもので、女性が作るものではないと考えていたからです。系図は男性の血が絶えないように、それがどう続いているか、そのことを明らかにするためのものでした。ですから長男が生まれそうもない場合、男性には2人でも3人でも妻をめとる権利が与えられた時代がありました。
何故なら長男が生まれることが一番大事なことだったからです。ですから、当時のユダヤ人にとっての妻、また女性は、嫌な言い方になりますが、自分たちの血筋を作っていくために必要な存在でしかなかったのです。
だとすれば、マタイが記した系図に女性の名前が入っていること自体が異例中の異例です。4人も入っているのです。しかも彼女たち4人は悪い意味で特別な女性ばかりでした。
3節のタマル、「ユダはタマルによって、ペレズとゼラを」とありますが、ユダとはタマルの舅です。夫との間に子がなく、今後も期待できませんでしたので、タマルは遊女に扮して、通りかかった舅のユダを誘惑して子をもうけたのです。
2人目のラハブは正真正銘の遊女です。そして3人目はルツ。彼女は素晴らしい信仰の女性でしたが異邦人なのです。それも、ユダヤ人が結婚を禁じられていたモアブ民族の女性です。
この後に、マタイ福音書に記されている、御子を拝むために東方からやって来た博士たちが訪れたユダヤの領主ヘロデ大王、彼は、救い主の誕生の知らせを聞いた時、ベツレヘム付近の2歳以下の幼子を虐殺する命令を出した人でした。
彼は、自分の血筋に異邦人の血が流れていることをひた隠しに隠して来ました。そのために、証拠隠滅を図り、役人を殺したり、他人の系図まで抹殺しようとして権力を振るったと言われます。この時代は、それほどまでに純血性が問題とされたのです。
そうした視点で主イエスの系図を見る時、系図に女性が含まれていることだけでも異様であるのに、それに加えて異邦人、しかも、最も忌み嫌うモアブ人の血が流れていたのだと、マタイはこの系図を綴っていくのです。
そして、6節の「ウリヤの妻」、バテシェバ。バテシェバは、ウリヤと夫婦関係にありながら夫ウリヤを裏切った女性です。夫を裏切った上に、ダビデとの間に罪を犯し、子をもうけた女性です。
説教の準備をする中で、あるドイツの注解者のコメントを知りました。
「ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父」とマタイ福音書に書いている。ここにはバテシェバという名前は出てこない。なぜそうなのか。このウリヤが異邦人であったことを伝える意図もマタイにあったのではないか、というのです。
そしてダビデが、「ウリヤの妻」であって、ダビデの妻ではなかった女性によって、子をもうけたことも併せて伝えている。
とすれば、この系図は女性の罪の物語ではなく、男性も罪を犯している、そのことを示しているのです。そして、ダビデ以降、この系図はイスラエルの王家の系図となるのです。
この系図に登場する名前の人物を旧約聖書で調べてみると、主なる神さまの国イスラエルの王たる者が、どうして、と呆れてしまうような出来事の連続です。
預言者ホセアは、主なる神を捨てて、別の神々に走る人々の姿を、自分の妻の不貞と重ね合わせ、姦淫の罪として糾弾しましたが、イスラエルの歴代の王たちは、女性関係で節操を欠いただけではなく、神との関係において、著しく節操を欠く歴史でした。
ある人の言葉を使えば、「信仰についても浮気の歴史」がここに出て来るのです。その行きつく果てが、バビロン捕囚でした。
ですからそれ以降、系図に出て来る名前を旧約聖書の中で見つけ出すのは難しくなります。何故なら、ダビデ王家の血筋が言わば無名の人々へと落ち込んで行くからです。
そして、やがてその血筋に生まれたヨセフはナザレの大工だったとマタイは語ります。大工が王様に出世していく成功物語ではなく、王の末裔が没落して大工となったファミリー・ヒストリーがここにあるのです。
大工仕事は王さまの血筋を誇る者が喜んでするような仕事ではなかったでしょう。そうした没落の道筋がこの系図によって明らかにされていきます。その大工ヨセフの子として、イエスさまが誕生したのだ、とマタイは伝えるのです。
素晴らしい王家の血筋を引いていると思っていた者でも、「叩けば埃が出る」と言われますが、重なれば重なるほど、次第に見えて来るものがあります。ごまかしもあるでしょう。
私たちの救い主イエスは、そうした私たちの営み、歩みの只中に入り込んで来てくださったのです。そして、どこまで入り込んで来られたか、と言えば、あの十字架の死に至るまで入り込んでくださったのです。
ですから、これから始まるマタイ福音書は、この王家没落の系図が、大工の子で終わるのではなく、その大工の子が十字架で犯罪者として処刑されていく、そうしたスト―リーなのです。
当時のユダヤの人の物の考え方からすれば、後に、この系図の16節と17節の間に、「ヨセフからイエスが生まれた、このイエスは死刑になった」と書き続けられてもおかしくないでしょう。
もしそうだとすれば、人目から一番隠しておきたい名前が、ここに出てきてしまった状態の系図だと言えるのです。でもこれが私たち人間の現実ではないでしょうか。

Ⅳ.系図と私たち

この後マタイは、その先駆けとして洗礼者ヨハネの登場を伝えます。ヨハネは、自分たちがアブラハムの血を受け継ぐ正当な民族で、「生まれながらのアブラハムの子孫で、他の民族とはわけが違う」と誇るユダヤ人に向かって、「よく聴くように! 神は石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことがおできになる!」 と断言したのです。
今日はキリストの系図を見て来ましたが、この系図はヨハネの言葉を使えば石ころだらけの系図でしょう。
「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」と立派なタイトルが付いていますが、蓋を開ければ、人間の罪、弱さや悲しみ、傲慢や妬み、そうした罪がドロドロ流れているような系図です。
でも、マタイは言うのです。神には力があります!と。この石ころがゴロゴロ転がる系図の中から、神が約束された通りに、アブラハムの子ダビデの子、イエスを救い主メシアとして起こしてくださったではありませんか。そして、その同じ御力をもって、あなたたちにも神は必ず御力を表わしてくださいます、と。
たとえ私のファミリー・ヒストリーがどれほど貧しく、汚されたものであっても、またファミリーだけではない、自分自身の歩みにどれほどの暗い現実や経歴があったとしても、その私を救い出すために、御子は飼い葉桶に降りてくださった。しかも、私の罪を贖うために、十字架の死にまで至る道を歩んでくださったのです。
私たちの喜びの源は、主イエスに愛されていることです。飼い葉桶に生まれ、十字架に命を捨てるほどに愛してくださっている、その愛によってです。そして、その愛とは赦しの愛です。
アドベントは、飼い葉桶の主を待ち望む時。このお方を私たちの心の、人生の、一番の中心にお迎えしたいと願います。お祈りします。