カテゴリー
アドベント 主日共同の礼拝説教

優れた方が来られる

松本雅弘牧師
ゼファニア書3章14-20節
ルカによる福音書3章7-18節
2021年12月19日

Ⅰ. ヨハネのメッセージ

主イエスの先駆けとして登場した洗礼者ヨハネは悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。この時代のユダヤ教では、アブラハムの子孫かどうかが大問題でした。そうした中でヨハネは、「そうではない!血肉のユダヤ人なんか、そこらに転がっている石ころからでも生み出すことができる」と断言したのです。その結果、ヨハネのメッセージに心打たれたれた人々が続々、「私たちはどうすればよいのですか」と、洗礼者ヨハネの許にやって来たのです。

Ⅱ.ヨハネのメッセージと主イエスのメッセージの間の連続と非連続

ヨハネが取り次いだメッセージは、一言で言えば「神の国が来るということは、裁きが来る」というものでしたが、そのヨハネが、「私はあなたがたに水で洗礼を授けているが、私よりも力ある方が来られる。私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない」と、後に来られると証言した主イエスの語ったメッセージには新しさがありました。つまり、ヨハネが「罪人が裁かれる」と言ったのに対して、主イエスは、「その罪人が赦される」という、「罪人にとっての福音のメッセージ」を取り次いだのです。
思い出していただきたいのですが、自分は正しい人間だとうぬぼれ、他人を見下している人々に向かって主イエスは、祈るために神殿に上ったファリサイ派の人と徴税人についての譬えをお語りになりました。自他ともに認める立派な人間をもって任じていたファリサイ派の人が神の前で祈った時に、貪欲、不正、姦淫をせず、逆に断食し祈る人間である自分を感謝したのに対し、もう一人の徴税人はうつむきながら「罪人の私を憐れんでください」と祈ったと語り、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。」と譬えを締めくくられたのです。
また、別の機会に主は、民の長老たちに向かって、「よく言っておく。徴税人や娼婦たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入る。」(マタイ21:31)とまで言ったほどでした。

Ⅲ.主イエスキリストの福音の新しさ

ところで、ヘロデ・アンティパスの結婚を非難したことで投獄されていた洗礼者ヨハネの心の中に、「イエスさまをどう理解したらよいか」についての一種の迷いがあったことを聖書は伝えています。ヨハネは何をしたかと言えば、弟子たちを主イエスの許に派遣し、「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」と尋ねさせたのです。つまり、獄中で洗礼者ヨハネの耳に届く、主イエスによるメッセージ、そして、語ったメッセージ通りの生き方をしていた主イエスを受けとめ切れずにいたのではないかと思うのです。
確かにヨハネのメッセージと主イエスのメッセージは連続する部分も多くありました。ただ非連続の部分、主イエスのメッセージには新しさがあったのです。それがヨハネにとっては躓きだったのでしょう。
ともすると私たちは、何か自分の中に基準があって、その基準に値しない者だから、自分はクリスチャンになんかなれない、洗礼なんて考えられない、と思っておられる方もおられるのではないでしょうか。あるいは、神さまの一方的な恵み、無条件の愛を信じ切れずに、クリスチャンになった後も、心のどこかで〈自分は足りない、自分はダメだ〉と感じ、場合によっては洗礼を受けたことを後悔すらしている人もおられるかもしれません。でも、そもそも私たちは、どのようにして救いに与ったのでしょう?何か立派なことをしたからでしょうか?あるいは、立派な人間になることを堅く心に誓ったことを条件に罪を帳消しにしていただいたのでしょうか?
そうではないのです。私たちの救いの根拠は、私の外側にある、クリスマスの出来事から始まる、キリストの生涯、十字架、復活という一連の、主イエスの御業に根拠が置かれているのです。
洗礼者ヨハネは「裁きが来るから悔い改めなさい」と説きました。「罪が処理されていなければ裁かれる」と説いたのです。勿論、それは正しい。何故なら、「罪の支払う報酬は死です」(ローマ6:23)。
でも、主イエスのメッセージは、さらに進み、「罪人が赦される。そのために私は人間となり飼い葉桶に生まれ、あなたの痛みや病いを負い、あなたの罪の支払いを引き受ける」。その、キリストによって実現される救いの御業を担保に、「私たちに罪の赦しを宣言するメッセージ」を語ってくださった。それが福音です。
イエスさまは、「すべて(疲れたままで)、重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい」と招かれる(マタイ11:28)。その招きに応じてイエスさまの許に救いを求めてやって来る私たちを、そのまま、あるがままの姿で受け入れ、罪を赦し、新しい命を与えてくださる。ただ、そのように私たちが本当に無条件の神の愛を味わう時に、必ず、その恵み、その神さまの愛に応えて生きていきたいと願う私たちに変えられていく。「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです」ということが、私の生活のなかで実現する。つまり、私がイエスさまのように愛の人へと成長させられていくのではないでしょうか。

Ⅳ.優しい方が来られる

今日お読みした出来事から遡る事、30年前、あのベツレヘムで野宿していた羊飼いたちに、天使が現れ、「今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」とのメッセージが伝えられました。
ルカ福音書によれば、クリスマスのメッセージを歴史上最初に知った人々、いや、神さまがクリスマスのメッセージを最初に知らせたいとお選びになった人々が、羊飼いであったと伝えています。
イエスさまがお生まれになった時、マリアとヨセフは生まれたばかりのイエスさまを飼い葉桶に寝かせました。「宿屋には彼らの泊まる所がなかったから」(ルカ2:7)。そして当時の羊飼いたちも主イエスと全く同じ扱いを受けていた人たちでした。
この時、人口調査の勅令がローマ皇帝から出されました。マリアも出産が間近に迫る中で大きなお腹を抱えて旅しなければならなりませんでした。一方、羊飼いたちはと言えば、いつもと変わらず、野原で羊の群れの番が出来ていたのです。それはとりもなおさず、彼ら羊飼いたちが人口調査の対象外、初めから数に数えられていない人たちだったからです。
世間からそう扱われ続けていましたから、今で言うところの自尊感情の本当に低い、そうした人々の代表が羊飼いだったと思います。しかし神さまは、イエスさまの誕生の知らせを、彼らを選んで伝えたのです。
赤ん坊の誕生、受験の合格、就職の内定が出たりした時に、最初に誰に伝えるでしょう?本当に大事な人、共に喜んでくれる人に知らせるものです。神さまから見て羊飼いたちはそうした人たちだったのです。それは彼らこそが救い主イエスさまを誰よりも一番必要とする人たちだったから。あのぶどう園の収穫の時に5時に雇われた労働者に最初に賃金を渡して安心させたいと思われる私たちの神さまは、まず羊飼いたちに喜びの知らせを伝えたかったのです。何と優しいお方なのでしょう!
在日朝鮮人作家、高史明(コサミョン)さんが書いた、『生きることの意味について』という自叙伝を読んだことがあります。かつて小学生時代に優しい眼差しを注いでくれた日本人教師を思い出しながら、「優しさ」の中身についてしみじみと語り、「優」の字は、「憂いの傍らに人が立つ」と書く。これこそが、優しさの本当の姿だというのです。
11世紀のカンタベリーのアンセルムスという大神学者が居ましたが、彼は、「クール・デウス・ホモ」、訳すと「何故、神は人となられたのか」という有名な命題によって、罪を贖うために人となられた神というクリスマスの意味を説き明かしました。しかし、これに対し、ハービー・コックスという現代のアメリカの神学者は、私たちはもう一歩踏み込んで、「クワル・デウス・ホモ/神はどういう質の人となられたか」と問うべきなのではないだろうか、と主張したのです。
クリスマスの出来事を思い巡らす時、主イエスはまさに優しい方として来られた。人となられた神は優しいお方である、と私たちは知らされるように思うのです。
飼い葉桶に誕生されたイエスさまの生涯は、「人を迎え入れる」人生でした。羊飼いたちのように、世間の基準からしたら「小さく、取るに足りない者たち」、憂いを持つ人たちをことさら愛し、「あなたは大切な人です」と伝え生きる歩みをなさった。そのようにして私たちも、この神の国の交わりの中に迎え入れられた者同士なのです。
このお方が来られ救いを届けてくださった。そして再び来られ、神の国を完成してくださる。そのことを心に留め、「主よ、御国を来たらせたまえ」と祈りつつ歩む私たちでありますようにと願います。
お祈りします。

カテゴリー
アドベント 主日共同の礼拝説教

罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼

松本雅弘牧師
マラキ書3章1-4節
ルカによる福音書3章1-6節
2021年12月5日

Ⅰ. 主の再臨を待ち望むために

教会の暦ではアドベントから新しい年が始まります。そしてアドベントの期間、講壇の布も緑から紫、ちょうど主イエスのご受難を覚える受難節と同じ色、悔い改めを迫る色に変わりました。歴史の教会は、クリスマスを待ち望むこの季節、私たち信仰を持つ者に対し悔い改めを促してきたのです。今日、第二アドベントの朗読の箇所は、老ザカリアとエリサベトの間に生まれたヨハネが成人し、罪の赦しを得させる罪の悔い改めの洗礼を宣べ伝え始めた時のことが語られています。

Ⅱ.洗礼者ヨハネの宣教

時はローマの皇帝がティベリウスの治世15年とあります。そして私たちに馴染みのポンテオ・ピラトの名も出て来ます。クリスマスの出来事の直後、ベツレヘム周辺で、幼児大虐殺を決行したヘロデ大王は死に、その後、次々と問題が起こっていたユダヤを治めるために、ローマ皇帝ティベリウスによって派遣されていたのが総督ポンテオ・ピラトでした。
この時代、ユダヤでは誰が何をしていたかと言えば、1節に「ヘロデ」という名前が出て来ますが、これはベツレヘムで大虐殺を決行したヘロデ大王ではなく、その息子ヘロデ・アンテパスという人物です。彼が領主としてガリラヤを治めていました。さらにヘロデの兄弟フィリポが、イトラヤとトラコン地方を治め、リサニアという領主がアビレネを統治していた時代でした。一方、宗教界では表向きはカイアファが仕切っているように見えましたが、実は陰で彼を操っていたのが舅のアンナスであったことを福音書記者ルカは見逃しませんでした。そのような時代に、洗礼者ヨハネが登場したのだ、と語るのです。
登場したヨハネは、ユダヤの荒れ野に現れ、「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えます。そのヨハネの言葉に人々の心は強く動かされました。ヨハネの説教によって、自らの人生の土台が脅かされる恐怖を経験し、洗礼を授けて欲しいと求めたのです。
この時代のユダヤ教では、民族的にユダヤ人であるかどうかが神の民の条件でした。ところがヨハネは、「そうではない!血肉のユダヤ人なんか、そこらに転がっている石ころからでも生み出すことができる」と断言したのです。聞いたユダヤ人たちは、お尻に火が付いたかのように、これは一大事と思ったのでしょう。その数は膨れ上り「群衆」となった。彼らはヨハネの許にやってきて、「では、私たちはどうすればよいのですか」と尋ねたというのです。その中に複数の兵士たちもいて、群衆と全く同じ問いかけ、「この私たちはどうすればよいのですか」と尋ねています。これに対してヨハネは、「自分の給料で満足せよ」と語っています。私は、このヨハネの言葉が心に響きました。人生にしっかりとした土台を持つ者がいただく幸いを示している言葉として心に聞こえてきたからです。このヨハネこそ、実に、「深い満足を経験していた人」だったのではないかと思うのです。

Ⅲ.ヨハネの対極にいる人物―サウル王の場合

ところで、現在、木曜会ではサムエル記を共に読んでおりますが、洗礼者ヨハネのことを覚える時に、対極にいる人物としてサムエル記に登場する、イスラエルの初代の王サウルのことを思い出すのです。
サウルは家柄も良し、見た目も良しの申し分のない人物で、イスラエルの民が彼を、イスラエル初代の王として担ぎ上げたのも十分理解できます。ところが彼は、と言うと、劣等感の塊のような男だったのです。サムエル記を読みますと、子どもほど歳の離れた部下のダビデを「ライバル視」し、本当に心休まることのない人生を送った人です。
こんなことが起こります。若いダビデがペリシテの巨人ゴリアトと戦って勝利したのです。最初、ダビデを抜擢したのがサウル王さま自身でしたので、それを喜んだのですが、ダビデが出陣するたびに、戦いに勝利し、手柄を上げ戻って来る。しかも、民衆もあからさまに「サウルは千を討ち/ダビデは万を討った」と歌い踊り、喜んでいる。そうしたことを知ったのをきっかけに、サウル王はダビデを妬むようになっていきます。
人の成功は、必ずしも全ての人から喜ばれるものではない。祝福されるものではないことを、私たちは歳を重ねる中で経験してきます。多少なりとも人の失敗には共感できても、他人の喜びに共感することがとても難しい。すぐに妬みの思いが湧いてしまうのが私たちの実態でしょう。サウルがそうだったのです。
彼はイスラエルの王です。最高権力者です。当時の人々が欲しいと思うモノを全て手中に収めていたような人物です。ところが、心の中は妬みで一杯。ダビデの存在の故に不幸となり、不機嫌になり、妬み、憎み、「あいつさえいなければ…。あいつがいるから…」とダビデを呪うようにして毎日を過ごす。でもどうでしょう。たとえダビデがいなくなったとしても、そのようなサウルには、「第二のダビデのような存在」がすぐに現れて来たと思います。何故なら、問題はダビデにあったのではなくて、サウルの心の在り方にあったからです。さて、これはサウルだけの問題でしょうか。

Ⅳ.神さまとの関係で自分を取り戻す

もう一度、ルカ福音書に戻りましょう。洗礼者ヨハネは、今お話ししましたサウル王とは対極にいた人物でした。ヨハネは、領主ヘロデによって殺されていくのですが、その直接の原因について聖書は、「ヨハネがヘロデの結婚を非難したから」と伝えています。「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とはっきり言ったので、ヨハネは逮捕されたのです。
ところが、その出来事を伝える聖書の箇所を読む時、殺される側のヨハネは実に堂々としているのに対し、殺す側のヘロデはびくびくしているのです。
今日の3章1節で、時のローマ皇帝と共に名を連ねるようなユダヤの権力者の一人がヘロデ・アンテパスでした。豪華な宮廷に住み、贅沢の限りを尽くしていた。軍隊に守られ、律法を破ってさえ、欲しいと思うものを手に入れようとする男でした。好き放題振舞うことができた人物が、このヘロデです。ところが、聖書によれば殺されるヨハネが生き生きと輝いていたのに対し、殺す側のヘロデが恐怖におののいていた。まさに「主客転倒」が起こっているのです。
ある集会で若者が、「みんな僕よりかっこよく、スポーツができ、優秀だと思ってしまうんです。それに比べ、自分なんかって感じです。どうしたらいいでしょう…。」と質問しました。講師は「あなたが人と比べ続ける限り、ずっと悩み続けますよ。」と答えたそうです。確かに講師のアドバイスは頭では分かります。しかし、それでも、人と比べてしまう。何でも周りの人を意識してしまうのでしょう。聖書はその問いかけに、しっかりと答えています。それは、本当に気にかけるお方の眼差しを忘れているから。それが答えです。
箴言に、「主を畏れることは知識の初めである」(箴言1:7)と書かれていますが、人は、まことの神さまを神さまとしないでいると、必ず、別の何かを「カミ様」のように大事にするという誘惑に陥ります。まことの神を神としないときに、お金がカミ様になったりします。地位や名誉がカミ様になり、自分の欲望や願い、また周囲の人々からの評価が自分を支える何かになってします。私を虜にしたりするわけです。
今日、御一緒に注目した、この洗礼者ヨハネは、「神さまと自分との関係」。「人生の縦軸」をしっかりと持っていた。慈しみ深い神さまのご支配、すなわち「神の国」に生きていました。神がその知恵をもってお許しにならないこと、良いことのためにお用いになることのできないことは、現実の自分に対して何も起こらないことを知っていた。その結果、ヨハネの心の底には神から来る平安があったのです。
ですから、王であろうが、ローマ総督であろうが、権力者であろうが、財界であろうが、神以外を畏れていませんから、だれに対しても率直で大胆に振舞うことができました。
洗礼者ヨハネは、神さまとの関係の中で、そのお方の愛を実感しながら生きていました。私たちも、ヨハネが勧めるように、神さま抜きの、他人との比較で右往左往する生き方に別れを告げて、悔い改めて、神を神とする生き方に方向転換し、主をお迎えする備えをさせていただきたい。
アドベントの季節、真に畏れるべきお方との縦の関係をもう一度見直し、すでに救いの恵みをいただいている者としての歩みを進めてまいりたいと願います。お祈りします。

カテゴリー
アドベント 主日共同の礼拝説教

身を起こして頭を上げなさい

和田一郎副牧師
エレミヤ書33章14-16節
ルカによる福音書21章25-36節
2021年11月28日

Ⅰ. 隠された大いなること

今日はアドベント第1主日です。3週間後にはクリスマスを迎えることになります。イエス様がお生れになる400年以上遡った旧約聖書の時代に、神様によって、これからイエス様がお生れになる、そのことが告げられていました。それが旧約聖書の預言書です。それ以外の旧約聖書全体がイエス・キリストという方を指し示しているのですが、まさしくこれから救い主が来られると語られているのが預言書です。
旧約聖書の時代、イスラエル王国というのは、ダビデやソロモン王が繁栄を極めた後、内部分裂が起こって北イスラエルと南ユダ国に分かれました。その後、唯一の真の神様以外に、さまざまな偶像の神を信じるという不信仰が続いていったのです。当然、国は衰え、争いは絶えず、北イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、残された南ユダ国も滅亡の危機にありました。エレミヤは、ついに南ユダ国も滅びてしまうという厳しい時代を生きた預言者でした。ですからエレミヤは「涙の預言者」とも呼ばれるのです。エレミヤは、神様からの大切な預言を語っても人々から無視され馬鹿にされ、お前の言っていることは「死刑に当たる」と裁判にかけられ牢獄に入れられました。暗殺計画まで持ち上がりました。エレミヤはそれを力強くはねのけるタイプの預言者ではありませんでした。泣いたり、もう預言者は辞めたいと口にする人間味のある預言者でもありました。それでも神様がエレミヤに告げた通りに、裁きと悔い改めの言葉を隠すことなく語り続けた、真の預言者です。
そのようなエレミヤがいる、南ユダ国はバビロンという巨大な国に滅ぼされようとしていました。エルサレムの都が包囲されてしまった時、エレミヤは不思議な提案を受けました。今日の聖書箇所の一つ前の章32章6節です。彼は言いました「私の畑を買い取ってください」と言うのです。戦争の真っ最中に「畑を買い取ってください」と。土地を買うというのは、その土地に価値があるから買うのです。その土地に住むとか、畑として使うなど生活の糧になる、価値が見込めるから買うものです。しかし、その土地は今まさに滅びてバビロンに占領されようとしている土地です。とんでもないことです。しかし、エレミヤはこの奇妙な提案に対して「私はこれが主の言葉であると知った」と受け取ったのです。それはもう信仰でしかありません。エレミヤには預言者としての確信があったのです。この不思議な提案には意味がある、つまり、今は国が滅びようとしている、しかし、かねてから「その日が来る、あなたたちと新しい契約を結ぶ」(エレ31:27-31)と語りかけていた神様。目の前の状況は最悪の時でしたが、神様は試練と裁きで終わる方ではない、私たちを苦しみの中へ放っておく方ではない。その先には、逃れの道と希望がある。これには何かメッセージがあるとエレミヤは受け取ったのです。
エレミヤは土地を購入する手続きを、エルサレムの都で、ユダの人々全員が注目する中で行いました。彼らは「いったいエレミヤは何て馬鹿なことをしているのだろう」と思ったでしょう。しかし、エレミヤは言ったのです。この土地は、家、畑、ぶどう園として、再び買い取られるであろうと(エレ32:15)。
この事があって続いて33章で神様の言葉があるのです。33章3節「私を呼べ。私はあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる」。ここには「あなたの知らない」つまり、人には分からない隠された大いなることがある、と言うのです。当時の人々の望みとは、目の前の脅威から逃れることでした。ユダは小さな国でしたから、近隣にある大国であるエジプトに助けを求めるべきか?バビロンに素直に屈した方がいいだろうか?といったものです。しかし、「隠された大いなること」とは、そのどちらでもないことでした。
今日の聖書箇所33章15節「その日、その時、私はダビデのために正義の若枝を出させる。彼は公正と正義をこの地に行う」と神様は宣言されました。「若枝」というのは、預言書に出てくる救い主を示す言葉です。人々の願いはエジプトなのかバビロンか、どちらを頼れば国を守れるだろうか、AなのかBなのかといったものでした。しかし、神様のこたえはAでもBでもない、ウルトラCという恵みでした。その日、その時、新しい歴史、新しい世界という扉を開いてくださる、救い主メシアというウルトラCが起こされるというものです。
神様というお方は、不思議なことをされる方です。戦争中に「土地を買いなさい」と言ったり、思いがけない恵みを与えてくださる。そのような経験をされた方もいるのではないでしょうか。

Ⅱ. 我が家のウルトラC

私にも、思いがけないウルトラCという恵みの経験があります。私たちが結婚して、すぐに妻は妊娠したのです。初めて町の小さな産婦人科の病院に行きました。普通の病院は病気やケガで重々しい顔をした人が多いけれど、産婦人科は幸せばかりだな、と何も分かっていない私は漠然と思っていました。しかし、残念ながら妻は流産したのです。そのことを知らされた診察のあと、幸せばかりだと思っていた待合室にも、痛みを持った人がいたのだと現実を知りました。年齢的なこともあって、私たちは不妊治療をすることにしました。しかし、不妊治療の難しさは「期待」と「落胆」に何度も心を揺さぶられることでした。不妊治療が上手くいかなかったので、しばらくしてから里親や養子縁組のことを祈り始めました。児童相談所に行って、講習会や研修を受けるといった手続きと、養子縁組をサポートする団体への登録や研修にも行きました。そのすべての手続きが済んで、あとは養子となる子どもとのマッチングを待つだけになった時に、自然の妊娠をしたのです。今度は流産から守られて無事に息子が生まれました。不妊治療なのか里親か養子縁組か、AだろうかBだろうかと神様に祈っていた先にあったのは、どちらでもないウルトラCという恵みだったのです。
「あなたは前から、うしろから私を取り囲み御手を私の上に置かれました。そのような知識は私にとってあまりにも不思議。あまりにも高くて及びもつきません」
(詩篇 139篇 5〜6節 新改訳2017)
エレミヤ書に書かれている「あなたの知らない、隠された大いなること」とは、33章15節に書かれている「正義の若枝」イエス・キリストのことでした。旧約聖書の時代にメシアを待ち望む期待はありました。メシアとは「油注がれた者」という意味です。ダビデやソロモンのような「偉大な王」をイメージするものでした。またいつの日か、ダビデのような力強い王が現れて欲しい、そうした期待の中で現れてくださったのが、家畜小屋の飼い葉桶にお生れになったイエス・キリストであったのです。

Ⅲ. 象徴的行為

預言書には象徴的行為と呼ばれるものがあります。一見「奇妙だな」と思わせることを預言者に命じるのですが、そこに神様の御心を示すメッセージが含まれています。神様の言葉だけでなくて、象徴的な出来事によって神様のメッセージを人々に伝えました。例えばエレミヤには「陶器士の家に行って土の器を買い、それを割りなさい」とか、「牛につける軛を、自分の首につけなさい」といった、奇妙なことを命じるのです。
「土の器を割りなさい」という行為には、砕かれた器のようにエルサレムはなるだろうといメッセージ。
「軛を首につけなさい」というのは、自分たち首を差し出してバビロンに服従しなさい、という神様のメッセージ。戦争で滅びゆくユダの土地を買うというのは、その土地には新しい時代に救い主が来てくださる、新しい契約がなされる土地となるという希望のメッセージが込められていました。それが象徴的行為の意味です。つまり、聞く耳をもたない人々に奇妙な行動を通して注目を集め、奇妙な行為の中で神様の御心を伝えたのです。
そのような神様からの象徴的行為は、イエス様が地上に来られてからもあったのではないかと思うのです。旧約の人々は、力強い王や国を豊かにしてくれるメシアをイメージしていました。しかし、そのどちらでもない、イエス様は何の権力もない貧しい夫婦の子どもとして、家畜小屋でお生まれになりました。宿屋には彼らの泊まる余地がなかったからです。どの宿も満員で、出産まじかの妊婦を泊める「ゆとり」がなかった。それは人々の心が自分の欲望でいっぱいで、神様の言葉を受け入れる余地が無かったのです、聞く耳を持たなかった。家畜小屋の飼い葉桶はその象徴です。そして、それから30年経っても人の心は同じでした。またもや神様に、聞く耳をもたない人々が、イエス様を十字架につけて殺したのです。十字架がその象徴です。飼い葉桶と十字架は、神の言葉に聞く耳をもたない人々の、心の頑なさを現わすものでした。イエス様を自分の心の中に迎えようとしない、頑なな心です。頑なな人々をご覧になった神様が与えてくださったのは、それを強引に打ち砕く王ではなかった。へりくだり、謙遜、犠牲を通して、ご自分のもとに引き上げてくださるメシアだったのです。聞く耳をもたない人々も含めて、すべての人に愛を示してくださった、その象徴が飼い葉桶と十字架でした。
自己中心という頑なな心を持っている私たちの為に、クリスマスにお生まれになったイエス様を、心の中にお迎えする、その備えをすることがアドベントの礼拝です。

Ⅳ. 人の役に立つヒーロー

私が子どもの頃は、悪者をやっつける正義の味方がヒーローでした。しかし、今の子どもたちのヒーローは「人の役に立つヒーロー」が多いようです。うちの息子は消防車がお気に入りでお風呂で遊んでいます。どんな事でもいいのですが、神様と人の役に立つことを願っています。そして、全人類のウルトラC、キリストという救い主が、エレミヤの預言どおりに来られました。隠された大いなることを成してくださいました。その喜びの出来事を、3週間後の礼拝で共に祝いたいと思います。
「その時、人の子が力と大いなる栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの救いが近づいているからだ」(ルカによる福音書21章27-28節)。お祈りいたします。

カテゴリー
アドベント 主日共同の礼拝説教

厳しい現実の中で

松本雅弘牧師
詩編147編1-11節
ルカによる福音書1章39-56節
2020年12月13日

Ⅰ.アドベントの主役としてのマリア

しばらく前の話ですが、幼稚園のクリスマス会を翌日に控えた年長さんが、虹の部屋の前で遊んでいました。通りかかった私に、「明日は、クリスマスなんだ。劇をやるんだ」と話しかけてきました。「誰の役?」と尋ねますと、「マリアさん」とその女の子は答えました。そして、もう1人の女の子に「あなたは?」と訊きますと、その子も「私もマリアさん」と答えました。〈さすが、みどり!〉と心の中で嬉しくなりながら、「マリアさんは何人いるの?」と尋ねますと、「8人かな、でもイエスさまは3個しかないの」と答えが返ってきたのです。お人形のイエスさまが3つしかない、という意味でしょう。改めて私は、降誕劇の主役はマリアさんなんだなぁ、と思ったことでした。

Ⅱ.喜びに溢れるマリア

今日もそのマリアさんが登場します。受胎告知を受けたマリアには婚約者ヨセフがいました。まず彼のところに急いで行って話を聴いてもらってもよかったかもしれません。あるいは家族か、もしくはナザレの会堂長のところに出掛けて行くことも考えられます。ところが、ルカ福音書は、マリアがエリサベトの許に急いだことを伝えています。
何でそんなにも急いで向かう必要があったのでしょうか。例えば、ふと気づくと急ぎ足で歩いている自分を発見するようなことがあります。そのような時、心の中に何か急き立てるような思いがあることに気づきます。不安や焦りであったり、何か落ち着かない気持ちだったり。でも、それとは全く逆のこともあります。向かった先に楽しみが待っているような場合です。「少しでも早く、そこに行ってみたい」という思いから急いでしまう。この時のマリアはそうだったのではないでしょうか。彼女の心の内はどのようなものだったのでしょうか。それを解く鍵が「マリアの賛歌」の歌い出し、「わたしの魂は主をあがめ」にあると思います。この「あがめる」という動詞の形は現在形で書かれていて、ニュアンスを込めて訳すならば、「わたしの魂は主であるあなたを、今もずっとあがめ続けています」という意味です。この時、マリアはすでに喜んでいた。不安だったので確かめようとしてエリサベトの許に急いだのではありません。喜びに急き立てられていたからです。それが、ここでルカが伝えようとしていることなのです。

Ⅲ.マリアのエリサベト訪問

さて喜び溢れたマリアを迎えたのが親戚のエリサベトでした。エリサベトのところに行って、喜びを感じている者同士、神さまの恵みを数えながら、共に賛美し、祈りをしたいと願ったからです。そして本当に不思議なのですが、エリサベトと会う時点まで、マリアの心の中にあった喜びは歌になってはいません。エリサベトに挨拶され、そして共に抱き合って喜んだ時、その時初めて賛美の歌が生まれたのです。そのようにして歌われたのが「マリアの賛歌」でした。
ところで学者によれば、マリアは全く白紙の状態から、この賛歌を歌い上げたのではなく、幾つもの聖書の言葉が、この「マリアの賛歌」にはちりばめられていることを指摘しています。そう言えばマリアは祭司アロンの子孫エリサベトの親戚でしたから祭司の家だったかもしれません。幼い頃から詩編を唱え祈る家庭の中で信仰を育まれてきたに違いない。ですからマリアは、自分だけの言葉で歌を歌おうとはしなかった。神の御子イエスを生むという恵みを独り占めしようとは思わなかったのでしょう。むしろ旧約聖書で歌い継がれた神さまの恵みに自らも与っている一人の信仰者としてエリサベトと共に、与えられた恵みを感謝しながら恵みの歌を歌おうとしている。ちょうど、みどり幼稚園に、「マリアさん」がたくさんいたように、「私だけではない、あなたにも、このような神さまの恵みが与えられている」と、その恵みを数えながら、信仰の歌を、それも昔からの歌を、新たな思いを込めて歌ったのが、この「マリアの賛歌」だったのです。このようにして歌われたのが「マリアの賛歌」でした。

Ⅳ.厳しい現実の中で

14世紀のイギリスに「ノリッチのジュリアン」と呼ばれるクリスチャン女性がいました。30歳の時、大病を患い、死線をさまよう中、神さまの特別な取り扱いを経験します。後に、それを「神の愛の16の啓示」という本にまとめました。その中で彼女は、こんなことを語っています。「神に示すことのできる最高の敬意とは、神に愛されていることを知ることにより、私たちが喜んでいきることである。」長年、信仰生活を送る中、私たちが導かれる思い、境地は、まさにジュリアンが語るこの言葉に表されているように思うのです。「神の愛を実感し、神を喜んで生きること」。ですから新共同訳も口語訳も、「喜ぶ」という、この言葉を少し膨らませるようにして、「喜びたたえる」とか「たたえる」と訳しているのだと思うのです。
今年はコロナ禍で礼拝も限定的、未だに動画中心です。この動画をご覧になっている方たちはいつ、またどのように礼拝を捧げておられるだろうかと気になることがあります。ある方が、「いつも動画を観ています。横になりながらでも見れるので便利です」と言われ、その方は笑い話で言われたのでしょうが、私は笑うことが出来ませんでした。むしろ悲しい思いにさせられたことです。今まで、毎週、礼拝に集っておられた方々、あるいは定期的に礼拝に出席された方たちの礼拝生活のリズムは大丈夫だろうか、と心配になることがあります。確かに礼拝動画ですので、私たちの都合に合わせていつでも、どこでも、どのような姿勢でも動画を観ることは可能でしょう。でも、今まで大事にしてきたクリスチャンとしての優先順位がいつの間にか乱れて来ていないでしょうか。実は、コロナ禍にあって、私たちはそうした厳しい現実の中に立たされている。
礼拝は本当に大切であり、クリスチャンとしての生命線です。神さまが、独り子イエスさまを飼い葉桶に誕生させ、イエスさまが十字架にかかって下さったのは、私たちを罪の奴隷状態のような生活から自由にし、その与えられた自由をもって、礼拝の民として生きるためだと、はっきりと教えられています。いや、私は会社員です。主婦や学生ですと言われるかもしれません。確かに、そのような者として一週間、この世へ派遣されます。しかし、聖書によれば、私たちは会社員以前に神の子であり、主婦以前に、神を礼拝する民なのです。学生以前に、神の愛するいとし子なのです。それが最後まで私から取り去ることの出来ない身分なのです。
牧師が皆さん教会員の祈りに支えられながら、「みことばに仕える」という務めを果たすために説教と取り組み、時間や健康の管理をするように、信徒も神を礼拝するために召された者として、日曜日には礼拝に集えるように祈り、健康管理をし、スケジュールを調整する。すると不思議と恵みに満たされ、必ず神を喜ぶ者へと整えられていくはずです。何故なら、礼拝を守ることは、喜びの源泉である、ぶどうの木であるキリストにつながることであり、そのことこそ「恵みの手段」と呼ばれる、神さまが私たちを成長させるために用いられる、祝福の手段だからです。
マリアは、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌います。神さまを礼拝することは、神さまを喜ぶことだ。神さまを礼拝することにより、私たちの心に喜びが満たされるからです。マリアの喜びの源泉はここにありました。身分でもない、性別でもない。今まで偉大な神さまだから、偉大な人々にしか目をお留にならないと思っていたのに、そうではなかった。この私に目を留めてくださった。そして偉大なことをしてくださった。そのようにして神さまは、この私を愛してくださった。マリアはそれを実感したのです。そして、そのことが、彼女にとっては驚きであり、そしてまた大きな喜びとなったのです。
今日、ここに礼拝に集った私たちも、マリアやエリサベトと一緒に主を賛美し礼拝して、生きることが許されている。教会には、私と共に喜びや悲しみを分かち合える信仰の友エリサベトがいる。この恵みの中、クリスマスに向けて歩む私たちでありたいと願います。
お祈りします。

カテゴリー
アドベント 主日共同の礼拝説教

信仰の冒険

松本雅弘牧師
イザヤ書30章15-22節
ルカによる福音書1章26-38節
2020年12月6日

Ⅰ. できないことは何一つない神が、なぜ?

今日の聖書箇所、「受胎告知」を示すこの箇所にはたくさんの恵みが隠されています。その一つが「神にできないことは何一つない」という御言葉です。ただ、コロナ感染症に襲われた私たちにとってこの御言葉を聞くことは、時に苦痛を伴うものなのではないでしょうか。
コロナ禍のため職を失ったり収入が激減する。DV(ドメスティックバイオレンス)に関する報道も後を絶ちません。いま第三波に不安を募らせながら生活しています。そうした中、ふと「このコロナ禍において、神はどこにおられるのか」と思います。先月、ゲッセマネの園での祈りを御一緒に学びました。あの時の主イエスは実に無力です。あっという間に逮捕されてしまう。あの時の主イエスにとって、またコロナ禍の中で大変な思いをする一人ひとりにとって「神にできないことは何一つない」という、この天使の言葉をどう聞いたらよいのか、戸惑いさえ感じてしまう。
信仰者は神が全能のお方であることは分かっています。逆に全能でないならば神の名に値しないと考えます。だからこそ戸惑ってしまう。神さまが全能であるならば、何でこんなひどいことがこの世界に起こるのか。とても複雑な思いにさせられるのです。
ところで、この天使の言葉を私なりに訳してみますと、「神にとっては、その語られた全ての言葉は不可能ではない、不可能になるようなことは決してない」と訳せるように思います。つまり、この御言葉は元々、「神の語られた言葉は不可能ではない」という意味として理解できるのです。そのようにして今日の箇所をもう一度読み返しますと、天使を通してマリアに語られた言葉は何かと言えば、それはとても具体的な言葉です。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」という「神の約束」の言葉です。
創世記18章にアブラハムのことを心にかけていた主の独り言が残っています。「わたしが行おうとしていることを、アブラハムに隠す必要があろうか」とご自身が自らの心に問いかける御姿が出て来ますがその時と同じです。若いマリアに対し神さまはご計画を打ち明け、その計画に参与するようにと招かれ、打ち明けられた方は大変だったと思う。でも彼女は「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えた。このマリアの姿は、信仰者として実に潔く、そして本当に美しく思いました。今、コロナ禍にあって、信仰を持っているがゆえに、「なぜ」「どうして」と問う私たちです。そうした私たちに、マリアと神から遣わされた天使とのやり取りは、少なくとも二つの大切なメッセージを示しているのではないかと思います。残された時間、そのことを御一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ.「お手伝い」へと招く神

一つ目は、マリアは自分のことを「主のはしため」と呼んだ点です。この言葉は、「僕」という言葉の女性形です。今日の箇所から改めて教えられたことは、神さまのご計画、お働きは必ず、私たち主の僕、はしためたちの参加を必要としているということです。「あなたのご計画通り私をお用い下さい、生かしてください。私たちを通してあなたの御心が実現しますように」という祈りに導かれて初めて、神さまのご計画が動きだして行く。誤解を恐れずに言えば、マリアのようなはしためたちや僕たちの「お手伝い」を必要としている。「お手伝い」なしに、神のご計画は実現しないと言えるかもしれません。
先週、祭司ザカリアに起こった出来事を学びました。ザカリアの人生に直接神さまが介入し、ザカリアの老後の生活が大きく変更を迫られたのです。マリアも同様です。彼女の人生に神さまが介入なさった。そしてマリアは「あなたのなさる通りで結構です」と答えた。言葉を添えるならば、「私も自分の人生に自分なりの計画を思い描いて来ました。でも主よ、あなたが私のためにと準備してくださったご計画の方が、私にとって最善のものです。ですから、あなたのなさる通りで結構です。」そう告白し明け渡していったのです。しかしそう祈ったがゆえに、その後のマリアのことは、皆さんもよくご存じだと思います。それが今日の二つ目のポイントです。「お言葉どおり、この身に成りますように」という祈りが、その後の展開を甘んじて受ける覚悟/責任を伴うということです。

Ⅲ.「おめでとう!あなたに喜びがありますように!」

さて、私たちの日常は何かを選ぶことの連続です。人生の節目々々で選択を繰り返し生きています。そして当然、選択にはある種のリスクが付き物です。ところで「危険を冒して何かをすること」を「アドベンチャー/冒険」と呼ぶわけですが、その「アドベンチャー」という言葉はラテン語の「アドベント」から来ています。「飼い葉桶と十字架は初めから一つである」と言われますが、神さまの冒険の結果が飼い葉桶であり十字架でした。とすると、私たちが信じ従うイエス・キリストの神さまはアドベントの神。ですから、そのお方に従う時、私たちも冒険をさせられることもありうるということでしょう。
マリアも、このアドベントの神に従いつつ、信仰の冒険を始めたのです。マリアにとってヨセフも知らないのに子どもを授かってしまう。それは想像もつかないような世界に足を踏み入れる「信仰の冒険」でした。まずはヨセフが信じてくれるかどうか。家族に受け入れて貰えるだろうか。ナザレの村の会堂の親しい仲間、そして村人達から何と言われるか分からない。考え始めたら怖くなったに違いありません。でも聖書を読む限り、マリアは実に自由に神さまに心を開き、その御心を選び取っています。そしてよくよく考えてみれば、彼女のこの決断、「お手伝い」があったからこそ、私たち全世界の救いのご計画が大きく動き出して行ったのです。ではなぜ、そうした自由さを持つことが出来たのでしょう。
ここで天使はマリアに向かって、「おめでとう。恵まれた方」と呼びかけています。この「恵まれた方」とは「既に恵みを受けた方」という意味です。この「呼びかけ」は、既に神さまがマリアをお選びになっていること、マリアの決断に先立って、もうすでに神さまの決断があったことを示す言葉なのだと語っている人がいました。「おめでとう」というこの言葉も、ギリシャ語を直訳すれば、「喜びなさい」という意味です。「おめでとう!あなたに喜びがありますように。」という意味です。辞書によれば、日本語の、この「めでる」という言葉は、「実際に自分の目で見て本当にいとおしい」という意味がある言葉ですが、神さまがマリアを、すでに慈しみをもって、いとおしいと感じながら見ていてくださっている。マリアはこのように神さまが慈しみをもって選び、めでられた女性だったのです。御子を宿すことは、この時のマリアにとっては必ずしも喜びであったとは思えません。さらに、この後ルカ福音書を読み進めていくと、その2章でシメオンという老人が登場し、赤ちゃんイエスさまを連れてお宮参りにやって来たマリアとヨセフを待ち構えるように、マリアにとっては有難くないような預言を伝えます。聞かされたマリアは複雑な気持ちにさせられたことでしょう。ところが、福音書を記したルカは極めて明るいのです。そのことをよく知った上で、マリアが「神さまの愛の中に選ばれている者」であった、だから「マリア、神さまの愛の中に選ばれている者よ、おめでとう。あなたも喜びなさい」と、天使の「喜びなさい」という、その言葉を、それだけの思いを込めて、このところに記録しているのだと思うのです。神さまの恵みの決断、喜びを知らせる決断が、まず最初にあった。そして、それを受けるように、私たち信仰者が、そうした神さまの恵みに応答して信仰の冒険に足を踏み出していく。

Ⅳ.神の慈しみのなかで

神さまが始め、手を付けられたお働きは、神さまの定めた時に、必ず実現する。世界の片隅で始まった小さな幼子の物語、これが世の終わりまで揺らぐことなく続いて行く。そして救いの完成にまで至る。その最初の一頁、おとめマリアの決断をもって、神さまは救いの実行に移られたのです。神さまがマリアをめでるように、私たちをご覧になり、その私たちに御言葉を用意し、私たちの家庭や学校、職場、そして地域にあって、神さまの救いのご計画の一端に参加するように召してくださるのです。ですから私たちもマリアに倣って、「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と応え、それぞれに与えられている信仰の冒険へと踏み出す選択、決断をしていきたいと願います。お祈りします。