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アドベント 主日共同の礼拝説教

マリアの賛歌

<第4アドベント>
松本雅弘牧師
詩編147編1-11節
ルカによる福音書1章39-56節
2022年12月18日

Ⅰ. 喜びに溢れるマリア

先週「受胎告知」の箇所をご一緒に読みました。若い娘のマリアが、幼子イエスさまの母親として召された出来事を思い巡らしたことです。
「受胎告知」はマリアにとって「大事件」だったと思います。マリアには婚約者ヨセフがいました。まず彼のところに急いで行って話を聴いてもらってもよかったかもしれません。あるいは家族か、彼女の属するナザレの村の会堂長でもいいでしょう。ところが、ルカ福音書は、そうしたことを一切伝えずエリサベトの許に急いだことを伝えています。
私もふと気づくと急ぎ足で歩いている自分を発見するようなことがあります。そのような時、何か急き立てるような思いが心の内側にあることに気づきます。でも、全く逆の場合もあります。向かった先に楽しみや喜びが待ち受けているような場合です。「少しでも早く、そこに行きたい」、そうした思いからつい急ぎ足になってしまう。この時のマリアはそうだったのではないでしょうか。

Ⅱ. エリザベトとの再会

マリアは山里に向かって急いでいます。何が彼女を急がせたのでしょう?それを解く鍵が、46節から始まる「マリアの賛歌」の歌い出しにあります。「私の魂は主を崇め」。
この「崇める」という動詞は原文を見ると現在形で書かれていて、「私の魂は主をずっと崇め続けています」という意味です。一方、「私の霊は救い主である神を喜びたたえます」の「喜びたたえる」は不定過去形で「私の霊は救い主である神を喜んでいた」、「もう喜んだ」という訳になります。
マリアはすでに喜んでいたのです。不安だったので確かめようとしてエリサベトの許に急いだのではありませんでした。喜びに急き立てられていたから、足が小走りになっていたのです。それが、ここでルカが伝えようとしているマリアの姿でした。

Ⅲ. マリアの賛歌

喜び溢れた、そのマリアを迎えたのが親類のエリサベトでした。エリサベトのところに行って、喜びを感じている者同士、神の恵みを数えながら、共に賛美し、祈りを捧げたいと願ったからです。そして不思議なのですが、エリサベトと会う時点までマリアの心の中にあった喜びはまだ歌になってはいません。エリサベトと挨拶を交わし、互いに抱き合って喜んだ時、その時初めて賛美の歌が口からあふれ出た。そのようにして歌われたのが「マリアの賛歌」でした。
この「マリアの賛歌」ですが、聖書の専門家たちは、この時のマリアは全く白紙の状態から「マリアの賛歌」を歌い上げたのではない。幾つもの聖書の言葉が、この「賛歌」にはちりばめられている、と語っています。
1章5節によれば、エリザベトは「アロン家の娘の一人」です。そのエリザベトの親類がマリアだとしたら、彼女も家も祭司だった可能性が高いでしょう。マリアは子どもの頃から詩編を唱え、祈る家庭の中で、信仰を育まれてきたのではないかと思います。
賛美礼拝でお話したことがありますが、こんな思い出もあります。ヨベル館に行こうとする私に、「あした、クリスマスの劇やるんだ」と嬉しそうに話しかけてきた年長さんの女の子がいて、私が「誰の役?」と訊くと、「マリアさん」と答えると、隣にいた子が「私もマリアさん」と嬉しそうに言った。そして私が「マリアさん何人?」て訊いたら、「八人。でもイエスさまは三個しかないの」と答えた。みどり幼稚園らしくて大好きです!
その年の劇に八人のマリアさんが居たように、実のマリアも自分一人で与えられた恵みを独占しなかったのです。「私だけではないあなたにも、このような神さまの恵みが与えられている」と、その恵みを数えながら「信仰の歌」を、それも旧約聖書の昔からの歌い継がれた賛美の歌を、新たな思いを込めて歌った。それがこの「マリアの賛歌」でした。

Ⅳ. 主を喜ぶことは力となる

ところで、今日も私たちは神を礼拝しに集まって来ました。この礼拝で賛美歌を歌い、神をほめたたえます。そして「マリアの賛歌」から私たちは、神を礼拝すること、ほめたたえることとはイコール、神さまを喜ぶことだと知らされます。でも果たして礼拝に集う私たち、賛美歌を歌う私の心の中に、どれだけの喜びがあるのだろうか、神さまを喜んでいるだろうか、と考えさせられます。喜ぶことは当たり前のようで、実はそう簡単ではないことに気づかされます。
ある牧師が、「神の存在を十分に信ずることができる理由を捜すより、神の存在を疑わせる理由を捜す方がたやすい」と記していました。自分自身の内側、教会員の方たちの生活、そして世界に目をやっても「なぜ?」と訴えたくなるような現実や出来事の方が多いからです。そのような日々を送りながら、七日たつと主をほめたたえる日、主を喜ぶ日が再び巡って来るのです。
静岡県の牧ノ原にある榛原教会は、重い知的障がいを持つ子ども達の施設「やまばと学園」を創設して運営しています。そこに元理事長の長沢巌という牧師がおられましたが、お姉さんも知的障がいを持つ人だったそうです。長沢牧師は「精薄者の姉をもつ私」という文章の中でこう語っています。
「このような姉と二人姉弟でこの世に生を受けたということが、私の人生に決定的な意味を与えたと思われます。まず、私は、精薄として生まれたのが姉であって、私ではないということに恐れを感ずるのです。…この事実から、私は自分たちの知能が神から与えられたものであって、それによって誇ったり、人を見下げたりする理由がまったくないことを思わされます。…私はこういう『伴侶』を与えられた為に、少年時代から苦悩の意味について考えないではいられなかったのです。現在もなお考え続けているのであって、それが完全に分かったといえる日は、地上にある限りこないでしょう。ただ一つ言えることは、イエス・キリストの十字架に、苦悩の問題を解く鍵があるということです。イエスはこの世に苦難が存在する理由を説明されはしなかったのですが、ご自分の身をもってその苦難を負われました。…私たち人間の真に意味のある生き方も、やはり苦難を負うところにあることを、キリストの十字架から教えられます。神から与えられた賜物を、苦しむ者たちと共に分け合う時に、私たちは初めて神の愛の内に生きたということができるでしょう。」
抱え切れないような悩み、担え切れない苦しみ、呻かざるを得ないような痛みがあったからこそ、私たちに代わって苦しむ為に生まれてこられ、十字架にかかり復活された、イエス・キリストの愛が分かったという証しです。
説教の準備をしながら、もうお一人のことを思い出しました。今年の4月末に101歳で天に召されたK姉のこと、その姉妹の大好きな聖句の一つが「主を喜ぶことはあなたがたの力です」という御言葉だったということです。
葬礼拝の準備のために、ご遺族からいただいたK姉の半生を綴った文書を読みますと、喜びも多かったのですが、それ以上に様々な辛い経験をされたことが分かります。ご自分の病、家族の病、そして何よりも愛する息子を五十代の若さで天に送らなければなりませんでした。そうしたK姉だったからこそ、「主を喜ぶことはあなたがたの力です」という御言葉で自分を支え、そして主に支えられて生きて来られたのでしょう。
ある人が、「神に示すことのできる最高の敬意とは、神に愛されていることを知ることにより、私たちが喜んで生きることである」と語っていましたが、ケイコさんも長い信仰生活を通して、まさに神さまに愛されていることをことあるごとに確認し、その結果、神を喜んで日々を送っておられたと思います。私たちもそのような証人に囲まれながら、今、この時、信仰生活を送っているのだとつくづく思わされました。
マリアは、「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌います。神さまを礼拝することは神さまを喜ぶこと。神さまを礼拝することにより私たちの心に喜びが満たされるからです。
マリアの喜びの源泉はここにありました。身分でもない、性別でもない。今まで偉大な神さまだから、偉大な人々にしか目をお留にならないと思っていたのに、そうではなかった。身分の低い、この私に目を留めてくださった。そして偉大なことをしてくださった。神さまは、そのように、この私を愛してくださった。マリアはそれを実感した。そしてそのことが、彼女にとっては驚きであり、そしてまた大きな喜びとなったのです。
そしてどうでしょう。私たちも、その同じ神さまの恵みを数えることができる。その神さまに目を留めていただいている現実の中に置かれている。
私たちに必要なことは、この恵みの現実の中に自分自身をしっかりと置いて、その恵みが、つま先や髪の毛の先まで浸透し実感することができるようになることです。何故なら、「神に愛されていることを知ることにより、私たちが喜んでいきる」からです。
マリアとエリサベトはこの神さまの愛を深く受け止めた。それゆえに喜びに満たされた。喜べない厳しい現実、悲しい出来事に囲まれていたとしても、神さまに愛されている恵みに浸り、その恵みに立ち続けようとした。
そして今日、ここに礼拝に集った私たちも、マリアやエリサベトと一緒に主を賛美し礼拝して生きることが許されている礼拝に集う時、教会には、私と共に喜びや悲しみを分かち合える信仰の友エリサベトがいる。この恵みの中、クリスマスに向けて歩む私たちでありたいと願います。
お祈りします。

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神のご計画

<第3アドベント>
松本雅弘牧師
イザヤ書30章15-22節
ルカによる福音書1章24-38節
2022年12月11日

Ⅰ. 「神にできないことは何一つない」?

先週、新聞を読んでいましたら、「ロシア本土攻撃か―ウクライナ戦闘激化の恐れ」という見出しの記事が載りました。ロシア国内の二つの空軍基地が、ウクライナ軍のドローン攻撃を受け、三人が死亡、軍用機二機が破損したと発表された。その結果、戦闘激化への懸念が強まっている、という記事の内容でした。ロシア軍によるウクライナ侵攻が開始され、すでに十か月弱が過ぎました。なかなか出口が見えない状況が続きます。そして依然、コロナ感染症も完全には収まらず、現在、私たちは第八波に襲われています。「神にできないことは何一つない」という御言葉と、この現実を私たちはどのように折り合いをつけたらいいのでしょう。
先日、日本中会の会議に挨拶に来られたTCU学長の山口陽一先生は、停滞期に入っていた日本のキリスト教会は今や衰退期に突入した、という衝撃的な発言をされました。そうした教会の現状にある中、今日の「神にできないことは何一つない」という言葉はどのような意味を持つ言葉なのだろうか、と改めて考えさせられました。
私たち信仰者は、神さまは全能のお方であることは分かっています。当たり前のことのように受けとめています。逆に、全能でない神ならば、それは神の名に値しないと考えるでしょう。だからこそ私たちは、神さまが全能であるならば、何でこんなひどいことがこの世界に、社会に、いや私や私の家族、子どもたちの上に起こるのか、と複雑な思いにさせられるのだと思います。
この時、天使ガブリエルはマリアに現れ、「神にできないことは何一つない」(37節)と語るわけですが、そのメッセージを通して神さまは何をなさろうとしていたのだろうか、と思います。今日は、そのあたりからご一緒に考えてみたいと思います。
ところで、37節の「神にできないことは何一つない」という言葉を原文で読みますと、もう少し丁寧に訳すべき言葉であるように思わされました。私なりに訳してみますと、「神にとっては、その語られた全ての言葉は不可能ではない、不可能になるようなことは決してない」という意味です。この時、天使を通して必ず実現する言葉として語られたのは31節の非常に具体的な言葉です。「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」という、この言葉です。そうした「神のご計画」、「神さまのお約束」と呼んでもよいかもしれません。これに対してマリアは、「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」(38節)と答えました。この「お言葉どおり」の「お言葉」とは、31節の言葉、「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」という、神のご計画を言い表す言葉です。
打ち明けられたマリアは大変でしたが、それでも「自分は主なる神さまの仕え女です。神さまに従う者です。ですから、あなたがなさいました決断、あなたが立てられたご計画に、私はひとりの仕え女として、それに加わり、そこに生きていきたいと願います」と答えたのです。ある人が、このマリアの言葉こそ、「信仰と献身の崇高な表現である。彼女はそれの意味する犠牲をも甘んじて受け入れようとしている」と解説していましたが、まさにマリアは腹をくくった。神さまから打ち明けられた計画に参加することを受け入れたのです。残された時間、マリアのこの姿勢に学んでみたいと思います。

Ⅱ. マリアが示した信仰者としての模範―主のはしためとして生きる

まず注目したいのは、彼女が自分を「主の仕え女」と呼んだ点です。「仕え女」とは、「僕」という言葉の女性形のギリシャ語です。
改めて教えられたのは、神さまのご計画、神さまの御働きは必ず主の僕、仕え女の参加を必要としているということでしょう。「あなたのご計画通り私をお用い下さい、生かしてください。私たちを通してあなたの御心が実現しますように」という祈りに導かれて初めて、神さまのご計画が実現する道が拓かれていく。誤解を恐れずに言えば、マリアのような仕え女や僕たちの参与なしに、ご計画は実現しないと言えるかもしれません。マリアはそのようにして、私たち信仰者の先駆けとなった女性です。
先週、洗礼式がありました。洗礼の時に、イエスさまを罪から私たちを救い出してくださるお方としてだけではなく、救い出された後、「人生の導き手」、つまり「主人なるお方」として従っていきますか、という問いかけますが、それは、イエスさまに対して自分は「僕、仕え女」であることを告白することであり、もっと言えば、「主よ、お言葉どおり、この身になりますように」、「生活の全ての領域であなたの御心がなりますように」と献身を表明する告白でもあるのです。ここにマリアが示してくれた信仰者としての模範があるように思います。
先週、祭司ザカリアの人生を神が妨害されたことを観ました。十か月の沈黙を経て、ザカリアはその出来事を恵みとして受け留めることができました。。マリアも同様なのです。彼女の人生に邪魔が入った。神さまが邪魔されたのです。そしてマリアは「あなたのなさる通りで結構です」と答えた。「私も自分の将来を思い描いて来ました。でもあなたが私のためにと準備してくださったご計画の方が、私にとって最善のものです。ですから、あなたのなさる通りで結構です」と告白し、自らを神に明け渡したのです。その結果マリアは、自分の思い通りにならない経験を幾つもしていくことになります。「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」と、最善の神さまのご計画が自分の人生を通して実現するようにと祈ったからです。

Ⅲ. 信仰の冒険

そして二つ目のことは、この祈りは、大きな犠牲を伴うものだったということです。
私たちカンバーランド長老教会の「信仰告白」では、リスクを伴う信仰の決断のことを「信仰の冒険」と呼んでいます。
マリアは神に従いつつ信仰の冒険を始めたのです。冒険というのは一から十、全てが分かって踏み出すのではありません。冒険に招かれる神さまだけを信頼して招きに答えることでしょう。マリアはそうしたのです。その結果、全人類のための救いの計画が大きく動き出して行くことになりました。
さて天使はマリアに向かって、「おめでとう。恵まれた方」と呼びかけています。「恵まれた方」とは「既に恵みを受けた方」という意味です。
ある人がこんなことを語っていました。この時すでに恵みを受けているということは、この時すでに神がマリアをお選びになっていた、彼女の決断に先立って、すでに神さまの側での決断があったことということ。何かの賞を受賞する時のように、まずは選ばれることが先。そのあとに受賞が決まったその人に、私たちは「おめでとう」と祝福の挨拶を送るものです。
この「おめでとう」という言葉も、ギリシャ語を直訳すれば、「喜びなさい」という意味です。「おめでとう!あなたに喜びがありますように。」
「おめでとう」、日本語のこの「めでる」という言葉は、「実際に自分の目で見て本当にいとおしい」という意味がある言葉ですが、神さまがマリアを、すでに慈しみをもって、いとおしいと感じながら見ていてくださっている。このようにマリアは、神さまが慈しみをもって選び、めでられた女性だったのです。
ただ一般常識からすれば、御子を宿すことは、この時のマリアにとっては喜びであったとは言い切れなかったと思います。この後ルカ福音書を読み進めていくと、2章でシメオンという不思議な老人が登場し、御子を連れて宮参りにやって来たマリアを待ち構えるように、「苦しみと悲しみの預言」とも呼ばれる不吉な言葉を伝えています。
そうした預言を聞き、マリアは本当に複雑な思いにされたことでしょう。それが頭を離れない中で子育てを始めなければなりませんでした。でも、この福音書を記したルカは、そうしたことをよく承知の上で、いや、そうであったとしても、今日のところで、「マリア、神さまの愛の中に選ばれている者よ、おめでとう。あなたも喜びなさい」と、その天使の「喜びなさい」という言葉を、それだけの思いを込めて、このところに記録しているのだと思います。
神さまの恵みの決断、喜びを知らせる決断が、まず初めにあって、それを受けるように、私たち信仰者が、そうした神さまの恵みに応答して信仰の冒険に足を踏み出していく。たとえどのような決断をする時にも、38節のマリアの表現を使えば、まずは「神の言葉」が先だって在る。その「お言葉」を心の耳を澄ませて聞いた者が、「あなたのお言葉どおり、この身に成りますように」と心からの祈りをもって応答していくのです。

Ⅳ. 神さまの決断に支えられ

神さまが始めてくださった、神さまが手を付けられたお働きは、神さまの定めた時に、必ず実現する。世界の片隅で始まった小さな幼子の物語、これが世の終わりまで揺らぐことなく続いて行きます。そして救いの完成にまで至る。その最初の一頁、おとめマリアの決断をもって、神さまは救いの実行に移られました。
神さまがマリアを見るように、私たちをご覧になっている。すでに慈しみをもって、いとおしいと感じながら見ていてくだる。そして私たちのために御言葉を用意し、私たちも、私たちの家庭や学校、職場、そして地域にあって、神さまの救いのご計画の一端に参加するように召されています。私たちも「私は主の仕え女、私は主の僕です。お言葉どおりこの身になりますように」とマリアのように、神さまの召しに心から応答する者として生かされて行きたいと願います。
お祈りします。

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沈黙の恵み

<第2アドベント>
松本雅弘牧師
詩編77編1-21節
ルカによる福音書1章5-23節
2022年12月4日

Ⅰ. ザカリアに起こった出来事

ザカリアが一人、神殿の奥に入り、祭司として神に奉仕している時でした。突然、天使が現れ、「恐れることはない。ザカリア、あなたの祈りは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ」と伝えられたのです。それを聞いたザカリアは戸惑います。いや、それ以前に天使自体に驚愕したのでしょう。
これまで長い間「子を授けてください」と祈り、その祈りが成就しようとする時、そう祈っていたザカリアの口から飛び出した言葉が、「どうして、それが分かるでしょう。私は老人ですし、妻も年を取っています」(18節)。皮肉ですね。この後、彼はいっさい話すことが出来なくなりました。

Ⅱ. 沈黙の恵み

沈黙を強いられた期間は十か月。結構な長さです。その間、一言も発話できないわけですから。福音書によればザカリアは神の前に正しい人で主の戒めと定めとをみな落ち度なく守って生活していた人です。ところが祭司としての経験や知識が全く役に立たない。世間の人から、「ザカリアさん、何かしでかしたのでは。ばちが当たったのでは」と噂され陰口も聞こえてきたかもしれません。ザカリアはそうした中に置かれたのだと思います。「人から生まれた者の内で彼ほど偉大な者はいない」と主イエスが紹介するほどの洗礼者ヨハネの誕生に際しザカリアに与えられた務めは沈黙すること。それだけだったのです。
さて福音書は、「その後、妻エリサベトは身ごもったが、五か月の間は身を隠していた」(24節)と伝えています。まだ子どもは生まれていない。ザカリアとエリザベト二人っきり。この老夫婦、元々エリサベトはとてもお話好きな女性であったかもしれません。でも話し相手、聞き上手の夫が何も話せなくなった。神殿から出てくるなり一言もしゃべることができません。そして直後に「お婆さん」の自分が妊娠したことに気づく。驚きであり恥ずかしかったかもしれません。そのエリサベトもまた、「主は今、こうして、私に目を留め、人々の間から私の恥を取り去ってくださいました」(25節)と語り、五カ月間身を隠す。口語訳聖書では「引きこもる」という言葉を使っていました。
さて、今日の説教題は「沈黙の恵み」です。この時のザカリア夫婦はすぐに、この出来事を恵みと受けとめ切れなかったと思います。でも、ゆっくりと流れる時間の中、不思議と相手との会話に反比例するように、自らの魂との対話が始まり、それから神との対話も始まっていったに違いありません。
エリクソンという心理学者がいました。彼は人生の四季折々、私たちのライフサイクルには八つの課題があり、最後の時期を「人生の統合期」と呼んでいます。そこで誰もが問われる課題は「あなたは人生に感謝できますか?」ということだと語っています。
私は、この夫婦が、この沈黙の期間、どんなに深く神さまの恵みを味わったことかと思います。その証拠に、この十カ月にわたる黙想の日々の後、ザカリアの口から飛び出した第一声、それは、「ほめたたえよ」という言葉です。賛美の言葉です。
「教会の礼拝は、私たちの知恵が黙る時。教会は私たちが沈黙を学ぶところだ」とある牧師が語っていましたが、この夫婦の子どもヨハネが成人し洗礼者として世に現れ、続くように主イエスも公の生涯を始めました。イエスさまは多くの教えをお語りになったわけですが、その教えを一言で言えば、「神の御心がなるように」ということです。自分の願うところではなく、神さまの願うことが成就するということでした。
先日、高座教会の礼拝堂で定期中会会議が行われました。私たち長老教会は会議を重んじる教会です。でも教会は「ああでもない、こうでもない」と知恵を絞り合う場ではなく、「二人でも三人でもわたしの名によって集うところに私もいる」と約束し、実際にそうした交わりの只中に共におられる主イエスの御心を問いながら交わり、おしゃべりをし、会議する場です。そのために大切なことは私たちの側で黙ること。立ち止まって、共におられる主の御心を尋ねることでしょう。
ある人が、「神の前で沈黙を知る者だけが、有益な言葉を語ることができる。自分がしゃべり続けるということは、不信仰のしるしでもある」と語っていました。正にこの時ザカリアは、本当に大切な言葉を語ることができる者、神の御心に生きる者とされるために、しゃべることができなくなった。沈黙を強いられたのです。

Ⅲ. 想定外の出来事

ところで、この時代、ユダヤには一万八千人から二万人の祭司がいたと言われています。人によっては一度もこの務めを果たさずに召されていく祭司もいたかもしれません。現にこの時のザカリアも、この歳になるまで一度も経験したことがありませんでした。
くじを引いた、たった一人だけが一日、神の御前に出、大切な務めに与る。大変光栄な務めであったと共に、かなり緊張する務めだったのではないでしょうか。その緊張感は「間違いのないよう、一つひとつの儀式を順序正しく滞ることなく執り行うことができるように」というところから来ていたのでしょう。
私は牧師をしていますので、少し分かるような気がします。この後、洗礼式があります。「一つひとつの式を順序正しく滞ることなく執り行うことができるように」ということの中で、名前を間違えないように、ということも大事です。洗礼式の時に、別の方の名前で洗礼を授けたら、大変なことになりますから。頭に手を置き、お顔を確認し、洗礼式を行います。
ザカリアは祭司でしたから律法に定められた通り、順序正しく、落ち度なく行わなければなりません。ある意味で、それが祭司の仕事、決まったことを決まった通りに行う仕事です。そのようにして祭司ザカリアが、今ここで、生ける神さまの御前に出ていたのです。祭司ですから当然、「間違いがないように、順序正しく滞ることなく執り行うことができるように」と神経を遣い緊張感を持って務めを果たしていたのでしょう。ところが、その時のことです。ザカリアが予定どおり行かないことが起こった。11節。「すると、主の天使が現れ、香をたく祭壇の右に立った」。続く12節、「ザカリアはこれを見てうろたえ、恐怖に襲われた」と、彼の反応をそう伝えています。
私はここを読み、この時どうしてうろたえ恐怖の念に襲われたのかを考えさせられました。彼がそうなるのはよく分かります。しかも「間違いがないように順序正しく滞ることなく執り行うことができるように」というのが、この場面での一番の願いであり、神経を集中していた事柄でしたから、うろたえ恐怖を感じたのは当然だと思います。考えてみれば、これもまた皮肉な話なのではないでしょうか。
ある人は、この場面のザカリアの様子を「ザカリアの手順が狂った。神が邪魔をされた」と語ったそうです。その通り、ザカリアは神さまに邪魔されたので慌てたのです。順序正しく、滞ることなくやろうとしていた。ザカリアが自分で慌てて墓穴を掘ったのでもない、他の祭司が妨害したのでもありません。何と神さまが入り込んで来られた、というのです。ここでザカリアは慌て戸惑った。何十年と神に仕えてきたベテラン祭司のザカリアが、神さまのリアルな働きに触れ、不安になり、おじ惑っているのです。何か滑稽です。
でも彼を笑えるでしょうか。いや、これは私たちに関わる問題のように感じるのです。今日も礼拝に来ました。だいたい一時間から一時間十分で終わります。一つひとつの式順に従って礼拝は進みます。そうした礼拝、あるいは日常のクリスチャン生活はどこか決まりきったもの、もっと言えば、この時のザカリアのように、誰からも邪魔されたくない、邪魔され不安にさせられたら困るという思いが、私たちにないだろうか、と思わされるのです。

Ⅳ. 沈黙の恵み―自分のシナリオを神に明け渡す

ところで、私たちは自分の人生のシナリオを書きます。でもクリスチャンになった後、一つの不安のような心配のような思いが生じる。それは「果たして、私が描くシナリオは、神さまが私のために描くシナリオと同じかどうか」という思いです。
もしそうした問いを心深くに持つならば、あるいはその問いに気づいたならば、一度、自分で描いたシナリオ通り、滞りなく、手順通り、物事が進むようにという私の思いや計画を神さまの前に明け渡すことが必要になるかもしれない。実は、神がザカリアに求めたことこそが、それだったのではないでしょうか。そしてそのことのために、神さまの前に静まり御心を聞く時、生活の中の余白を必要とします。場合によっては十か月が必要かもしれません。
「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である。」(箴言16:9、口語)とある通り、私たちの側に神さまの介入を受け入れる余白を備えることです。教会もそうです。
カール・バルトという神学者は「われわれ人間の自然の営みが、神によって妨害されない限り、それは癒されることはない」と語りました。神さまに妨害された時、すなわち神さまの介入が起こった時に初めて、私たちの本来の恵みの生活が始まる。そして、すでにそれが始っていることを心に留めながら、今年のアドベントの歩みを進めて行きたいと願います。
お祈りします。

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アドベント 主日共同の礼拝説教

その日が来る

和田一郎副牧師
エレミヤ書33章14-16節
マタイによる福音書26章47-52節
2022年11月27日

Ⅰ. アドベント

今日からアドベントに入ります。アドベントはラテン語で「到来」という意味です。旧約聖書の時代から救い主が到来すると約束しておられた。今日のエレミヤ書の言葉もその一つです。イエス様の誕生を祝うクリスマスを待ち望み、やがて、再びイエス様が来られる再臨の到来を心に覚える期間としております。

Ⅱ. メシアとはどんなお方なのか

エレミヤ書33章12節「万軍の主はこう言われる。人も獣もいない荒れ果てたこの場所が・・・」とあります。エレミヤの時代ユダの国はバビロン帝国に滅ぼされます。しかし12節後半「そのすべての町が、再び羊の群れを伏させる羊飼いの牧場となる」との言葉を告げるのです。そして14節「その日が来る。
私は、イスラエルの家とユダの家に語った恵みの約束を果たす」と、救い主を与えてくださるという約束です。
15節「その日、その時、私はダビデのために正義の若枝を出させる」。ダビデのために、とはダビデ王に告げた「ダビデ契約」と呼ばれる祝福の約束を果たすために、「正義の若枝を出させる」というのです。この「正義の若枝」というのがイエス・キリストを指す言葉です。つまり、その日がベツレヘムの家畜小屋で起こったイエス様の誕生です。「彼は公正と正義をこの地に行う」とあるように、イエス様はこの地上の生涯において公正と正義を行いました。人々を癒し、教え、十字架という犠牲を私たち人間の罪の身代わりとして受けてくださった出来事は「公正と正義」の御業です。さらに33章6節に「私はこの都に回復と癒やしをもたらし、彼らを癒やして、確かな平和を豊かに示す」とあり、これもイエス・キリストが救い主として、この地上でなさることを指しています。
平和というのはヘブライ語でシャロームです。神様による罪の赦しがもたらす、心の平和のことですし、もっと広い意味で人間関係の平和、政治的な平和、社会や環境を含めた被造物における平和など、広い意味でシャロームという言葉は使われます。
しかし、待ちに待った救い主は、人々が想像するような強い力を誇るメシアではなかったのです。イエス様がエルサレムに入城された時、小さな子ロバに乗って、ゆっくり向かわれたのです。そして、今日の聖書箇所では、武器を携えた群衆を前にした言葉でした。相手が剣を持ってやって来た、イエスの弟子たちも剣を手にして応戦します。しかしそこで「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)。それが、「公正と正義」の御業、「確かな平和を豊かに示す」救い主の姿でした。しかし、イエス様が地上で活躍されていた時に、平和な社会が実現したかといえばそうではありませんでした。イエス様自身は暴力によって捕らえられ、十字架に架かられたのです。それを逃れることは出来たでしょう。
「私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。」(53節)と、武力をもって武力を封じることができましたが、そうはなさらないお方です。またノアの洪水の出来事のように、一気に世の中を変えることもできたでしょう。しかし、そうではなくて私たち自身を平和を作る者として下さったのです。
「平和を造る人々は、幸いである/その人たちは神の子と呼ばれる」とキリストから受けた平和を、今度は私たちが、この世で実現させる働きです。

Ⅲ. キリスト教と戦争

ところが、イエス様の時代の後も、人類は争い続けました。戦争のなかった時代はほとんどありませんでした。それどころかクリスチャンによる戦争さえありました。十字軍、魔女狩り、ユダヤ人迫害、キリスト教を背景としたアメリカでも、南北戦争があり、イラクやアフガニスタンに、正義の名のもとで軍事介入がありました。
ロシアという国も、ロシア正教というキリストを主と信じる信仰をもつ国です。その国がウクライナを侵略しているではないか?今、世界では、軍事力の増強が盛んに行われています。しかし、あくまでもイエス様の選択は、剣を取って逆らうことではありませんでした。
2004年サッカーヨーロッパ選手権での事。フーリガンに対する従来の警備体制は、機動隊や装甲車を投入して力でねじ伏せるやり方でした。しかし強硬な姿勢をとることは敵対感情を助長することになると考え、別の体制を敷きました。警備隊は従来の制服ではなく明るい色の服を着て、出場チームやファンについて勉強し、ファンとコミュニケーションがとれるようにした。彼らが道路でサッカーボールをけり始めても、すぐには介入しない。つまり敵対関係を作らない警備体制を敷いたのです。その結果この地域では暴動が起こらなかったのです。
第二次世界大戦の後、日本は戦争を放棄すると決めました。つまり武器を捨てて周辺諸国と敵対関係を作らないと宣言をしました。その時、田中耕太郎という文部大臣が発言しました。
「つまり戦争放棄をなぜ致しましたかと申しますと・・剣を以って立つ者は剣にて滅ぶという原則を根本的に認めるということ・・しかしながら、・・不正義を許すのではないかというような疑問を抱く者があるかもしれない・・不正なる力に負けてしまうというようなことになりはしないか・・不正義をそのまま容認するという風に、道義的な感覚を日本人が失うということになっても困るのではないか・・。しかし、決してそうではない。不正義は世の中に永く続くものではない。剣を以って立つ者は剣にて滅ぶという千古の真理に付いて、我々は確信を抱くものであります」(1946/7/15 衆議院憲法改正案委員会)。
戦争を放棄し、剣を鞘に納めようとした背景で、聖書の御言葉が用いられていました。しかし、この大臣の意向は守られませんでした。聖書の教えは「平和を作る者は幸いである」と明確で普遍的なものですが、それを守る人間の側に問題があるのです。宗教があるから戦争が起こる、キリスト教は個人主義だから戦争が起こるという声を耳にします。しかし「剣を鞘に納めなさい」「平和をなす者は幸いである」という御言葉を守れなかった人間の側の問題なのです。

Ⅳ. 「止まらなかったね」

守らなければならない事を守れないのは、私も反省することがあります。うちの息子がテレビでパトカーを見ると、「パパ、止まらなかったね」と言うのです。数年前ですが住宅街の道を車で走っている時、減速をしたのですが一時停止をしなかった時に、ミニパトカーがいて切符を切られました。私はすっかり忘れていました。なぜかというと忘れようとしていたからです。私は罰金をすぐその日にでも支払って忘れようとするのです。ですから、止まらなかった事を忘れていました。守らなければいけない事を忘れているのです。
人は大切な真理であっても、自分の都合の良いように捻じ曲げたり、忘れてしまったりします。イエス様の教えは明確であるのに、守ることができない弱さを人はもっています。戦争で私たちは、剣を振り上げたが故に、剣で取り返しのつかない犠牲を負わせ、自らも犠牲を負いました。ですから、もう剣を持ちませんと宣言したのですが、剣を持つことを止めなかった。キリスト教であるが故に戦争を起こしたのではないのです。聖書の御言葉に力がないのではありません。キリストの教えに背いてしまう、人間の罪の性質が戦争を起こしているのです。
平和の主であるイエス様を待ち望むアドベント。2022年という一年を、私たちはどのように振り返るべきでしょうか。
お祈りいたします。

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アドベント 主日共同の礼拝説教

優れた方が来られる

松本雅弘牧師
ゼファニア書3章14-20節
ルカによる福音書3章7-18節
2021年12月19日

Ⅰ. ヨハネのメッセージ

主イエスの先駆けとして登場した洗礼者ヨハネは悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。この時代のユダヤ教では、アブラハムの子孫かどうかが大問題でした。そうした中でヨハネは、「そうではない!血肉のユダヤ人なんか、そこらに転がっている石ころからでも生み出すことができる」と断言したのです。その結果、ヨハネのメッセージに心打たれたれた人々が続々、「私たちはどうすればよいのですか」と、洗礼者ヨハネの許にやって来たのです。

Ⅱ.ヨハネのメッセージと主イエスのメッセージの間の連続と非連続

ヨハネが取り次いだメッセージは、一言で言えば「神の国が来るということは、裁きが来る」というものでしたが、そのヨハネが、「私はあなたがたに水で洗礼を授けているが、私よりも力ある方が来られる。私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない」と、後に来られると証言した主イエスの語ったメッセージには新しさがありました。つまり、ヨハネが「罪人が裁かれる」と言ったのに対して、主イエスは、「その罪人が赦される」という、「罪人にとっての福音のメッセージ」を取り次いだのです。
思い出していただきたいのですが、自分は正しい人間だとうぬぼれ、他人を見下している人々に向かって主イエスは、祈るために神殿に上ったファリサイ派の人と徴税人についての譬えをお語りになりました。自他ともに認める立派な人間をもって任じていたファリサイ派の人が神の前で祈った時に、貪欲、不正、姦淫をせず、逆に断食し祈る人間である自分を感謝したのに対し、もう一人の徴税人はうつむきながら「罪人の私を憐れんでください」と祈ったと語り、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。」と譬えを締めくくられたのです。
また、別の機会に主は、民の長老たちに向かって、「よく言っておく。徴税人や娼婦たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入る。」(マタイ21:31)とまで言ったほどでした。

Ⅲ.主イエスキリストの福音の新しさ

ところで、ヘロデ・アンティパスの結婚を非難したことで投獄されていた洗礼者ヨハネの心の中に、「イエスさまをどう理解したらよいか」についての一種の迷いがあったことを聖書は伝えています。ヨハネは何をしたかと言えば、弟子たちを主イエスの許に派遣し、「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」と尋ねさせたのです。つまり、獄中で洗礼者ヨハネの耳に届く、主イエスによるメッセージ、そして、語ったメッセージ通りの生き方をしていた主イエスを受けとめ切れずにいたのではないかと思うのです。
確かにヨハネのメッセージと主イエスのメッセージは連続する部分も多くありました。ただ非連続の部分、主イエスのメッセージには新しさがあったのです。それがヨハネにとっては躓きだったのでしょう。
ともすると私たちは、何か自分の中に基準があって、その基準に値しない者だから、自分はクリスチャンになんかなれない、洗礼なんて考えられない、と思っておられる方もおられるのではないでしょうか。あるいは、神さまの一方的な恵み、無条件の愛を信じ切れずに、クリスチャンになった後も、心のどこかで〈自分は足りない、自分はダメだ〉と感じ、場合によっては洗礼を受けたことを後悔すらしている人もおられるかもしれません。でも、そもそも私たちは、どのようにして救いに与ったのでしょう?何か立派なことをしたからでしょうか?あるいは、立派な人間になることを堅く心に誓ったことを条件に罪を帳消しにしていただいたのでしょうか?
そうではないのです。私たちの救いの根拠は、私の外側にある、クリスマスの出来事から始まる、キリストの生涯、十字架、復活という一連の、主イエスの御業に根拠が置かれているのです。
洗礼者ヨハネは「裁きが来るから悔い改めなさい」と説きました。「罪が処理されていなければ裁かれる」と説いたのです。勿論、それは正しい。何故なら、「罪の支払う報酬は死です」(ローマ6:23)。
でも、主イエスのメッセージは、さらに進み、「罪人が赦される。そのために私は人間となり飼い葉桶に生まれ、あなたの痛みや病いを負い、あなたの罪の支払いを引き受ける」。その、キリストによって実現される救いの御業を担保に、「私たちに罪の赦しを宣言するメッセージ」を語ってくださった。それが福音です。
イエスさまは、「すべて(疲れたままで)、重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい」と招かれる(マタイ11:28)。その招きに応じてイエスさまの許に救いを求めてやって来る私たちを、そのまま、あるがままの姿で受け入れ、罪を赦し、新しい命を与えてくださる。ただ、そのように私たちが本当に無条件の神の愛を味わう時に、必ず、その恵み、その神さまの愛に応えて生きていきたいと願う私たちに変えられていく。「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです」ということが、私の生活のなかで実現する。つまり、私がイエスさまのように愛の人へと成長させられていくのではないでしょうか。

Ⅳ.優しい方が来られる

今日お読みした出来事から遡る事、30年前、あのベツレヘムで野宿していた羊飼いたちに、天使が現れ、「今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」とのメッセージが伝えられました。
ルカ福音書によれば、クリスマスのメッセージを歴史上最初に知った人々、いや、神さまがクリスマスのメッセージを最初に知らせたいとお選びになった人々が、羊飼いであったと伝えています。
イエスさまがお生まれになった時、マリアとヨセフは生まれたばかりのイエスさまを飼い葉桶に寝かせました。「宿屋には彼らの泊まる所がなかったから」(ルカ2:7)。そして当時の羊飼いたちも主イエスと全く同じ扱いを受けていた人たちでした。
この時、人口調査の勅令がローマ皇帝から出されました。マリアも出産が間近に迫る中で大きなお腹を抱えて旅しなければならなりませんでした。一方、羊飼いたちはと言えば、いつもと変わらず、野原で羊の群れの番が出来ていたのです。それはとりもなおさず、彼ら羊飼いたちが人口調査の対象外、初めから数に数えられていない人たちだったからです。
世間からそう扱われ続けていましたから、今で言うところの自尊感情の本当に低い、そうした人々の代表が羊飼いだったと思います。しかし神さまは、イエスさまの誕生の知らせを、彼らを選んで伝えたのです。
赤ん坊の誕生、受験の合格、就職の内定が出たりした時に、最初に誰に伝えるでしょう?本当に大事な人、共に喜んでくれる人に知らせるものです。神さまから見て羊飼いたちはそうした人たちだったのです。それは彼らこそが救い主イエスさまを誰よりも一番必要とする人たちだったから。あのぶどう園の収穫の時に5時に雇われた労働者に最初に賃金を渡して安心させたいと思われる私たちの神さまは、まず羊飼いたちに喜びの知らせを伝えたかったのです。何と優しいお方なのでしょう!
在日朝鮮人作家、高史明(コサミョン)さんが書いた、『生きることの意味について』という自叙伝を読んだことがあります。かつて小学生時代に優しい眼差しを注いでくれた日本人教師を思い出しながら、「優しさ」の中身についてしみじみと語り、「優」の字は、「憂いの傍らに人が立つ」と書く。これこそが、優しさの本当の姿だというのです。
11世紀のカンタベリーのアンセルムスという大神学者が居ましたが、彼は、「クール・デウス・ホモ」、訳すと「何故、神は人となられたのか」という有名な命題によって、罪を贖うために人となられた神というクリスマスの意味を説き明かしました。しかし、これに対し、ハービー・コックスという現代のアメリカの神学者は、私たちはもう一歩踏み込んで、「クワル・デウス・ホモ/神はどういう質の人となられたか」と問うべきなのではないだろうか、と主張したのです。
クリスマスの出来事を思い巡らす時、主イエスはまさに優しい方として来られた。人となられた神は優しいお方である、と私たちは知らされるように思うのです。
飼い葉桶に誕生されたイエスさまの生涯は、「人を迎え入れる」人生でした。羊飼いたちのように、世間の基準からしたら「小さく、取るに足りない者たち」、憂いを持つ人たちをことさら愛し、「あなたは大切な人です」と伝え生きる歩みをなさった。そのようにして私たちも、この神の国の交わりの中に迎え入れられた者同士なのです。
このお方が来られ救いを届けてくださった。そして再び来られ、神の国を完成してくださる。そのことを心に留め、「主よ、御国を来たらせたまえ」と祈りつつ歩む私たちでありますようにと願います。
お祈りします。