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アドベント 主日共同の礼拝説教

厳しい現実の中で

松本雅弘牧師
詩編147編1-11節
ルカによる福音書1章39-56節
2020年12月13日

Ⅰ.アドベントの主役としてのマリア

しばらく前の話ですが、幼稚園のクリスマス会を翌日に控えた年長さんが、虹の部屋の前で遊んでいました。通りかかった私に、「明日は、クリスマスなんだ。劇をやるんだ」と話しかけてきました。「誰の役?」と尋ねますと、「マリアさん」とその女の子は答えました。そして、もう1人の女の子に「あなたは?」と訊きますと、その子も「私もマリアさん」と答えました。〈さすが、みどり!〉と心の中で嬉しくなりながら、「マリアさんは何人いるの?」と尋ねますと、「8人かな、でもイエスさまは3個しかないの」と答えが返ってきたのです。お人形のイエスさまが3つしかない、という意味でしょう。改めて私は、降誕劇の主役はマリアさんなんだなぁ、と思ったことでした。

Ⅱ.喜びに溢れるマリア

今日もそのマリアさんが登場します。受胎告知を受けたマリアには婚約者ヨセフがいました。まず彼のところに急いで行って話を聴いてもらってもよかったかもしれません。あるいは家族か、もしくはナザレの会堂長のところに出掛けて行くことも考えられます。ところが、ルカ福音書は、マリアがエリサベトの許に急いだことを伝えています。
何でそんなにも急いで向かう必要があったのでしょうか。例えば、ふと気づくと急ぎ足で歩いている自分を発見するようなことがあります。そのような時、心の中に何か急き立てるような思いがあることに気づきます。不安や焦りであったり、何か落ち着かない気持ちだったり。でも、それとは全く逆のこともあります。向かった先に楽しみが待っているような場合です。「少しでも早く、そこに行ってみたい」という思いから急いでしまう。この時のマリアはそうだったのではないでしょうか。彼女の心の内はどのようなものだったのでしょうか。それを解く鍵が「マリアの賛歌」の歌い出し、「わたしの魂は主をあがめ」にあると思います。この「あがめる」という動詞の形は現在形で書かれていて、ニュアンスを込めて訳すならば、「わたしの魂は主であるあなたを、今もずっとあがめ続けています」という意味です。この時、マリアはすでに喜んでいた。不安だったので確かめようとしてエリサベトの許に急いだのではありません。喜びに急き立てられていたからです。それが、ここでルカが伝えようとしていることなのです。

Ⅲ.マリアのエリサベト訪問

さて喜び溢れたマリアを迎えたのが親戚のエリサベトでした。エリサベトのところに行って、喜びを感じている者同士、神さまの恵みを数えながら、共に賛美し、祈りをしたいと願ったからです。そして本当に不思議なのですが、エリサベトと会う時点まで、マリアの心の中にあった喜びは歌になってはいません。エリサベトに挨拶され、そして共に抱き合って喜んだ時、その時初めて賛美の歌が生まれたのです。そのようにして歌われたのが「マリアの賛歌」でした。
ところで学者によれば、マリアは全く白紙の状態から、この賛歌を歌い上げたのではなく、幾つもの聖書の言葉が、この「マリアの賛歌」にはちりばめられていることを指摘しています。そう言えばマリアは祭司アロンの子孫エリサベトの親戚でしたから祭司の家だったかもしれません。幼い頃から詩編を唱え祈る家庭の中で信仰を育まれてきたに違いない。ですからマリアは、自分だけの言葉で歌を歌おうとはしなかった。神の御子イエスを生むという恵みを独り占めしようとは思わなかったのでしょう。むしろ旧約聖書で歌い継がれた神さまの恵みに自らも与っている一人の信仰者としてエリサベトと共に、与えられた恵みを感謝しながら恵みの歌を歌おうとしている。ちょうど、みどり幼稚園に、「マリアさん」がたくさんいたように、「私だけではない、あなたにも、このような神さまの恵みが与えられている」と、その恵みを数えながら、信仰の歌を、それも昔からの歌を、新たな思いを込めて歌ったのが、この「マリアの賛歌」だったのです。このようにして歌われたのが「マリアの賛歌」でした。

Ⅳ.厳しい現実の中で

14世紀のイギリスに「ノリッチのジュリアン」と呼ばれるクリスチャン女性がいました。30歳の時、大病を患い、死線をさまよう中、神さまの特別な取り扱いを経験します。後に、それを「神の愛の16の啓示」という本にまとめました。その中で彼女は、こんなことを語っています。「神に示すことのできる最高の敬意とは、神に愛されていることを知ることにより、私たちが喜んでいきることである。」長年、信仰生活を送る中、私たちが導かれる思い、境地は、まさにジュリアンが語るこの言葉に表されているように思うのです。「神の愛を実感し、神を喜んで生きること」。ですから新共同訳も口語訳も、「喜ぶ」という、この言葉を少し膨らませるようにして、「喜びたたえる」とか「たたえる」と訳しているのだと思うのです。
今年はコロナ禍で礼拝も限定的、未だに動画中心です。この動画をご覧になっている方たちはいつ、またどのように礼拝を捧げておられるだろうかと気になることがあります。ある方が、「いつも動画を観ています。横になりながらでも見れるので便利です」と言われ、その方は笑い話で言われたのでしょうが、私は笑うことが出来ませんでした。むしろ悲しい思いにさせられたことです。今まで、毎週、礼拝に集っておられた方々、あるいは定期的に礼拝に出席された方たちの礼拝生活のリズムは大丈夫だろうか、と心配になることがあります。確かに礼拝動画ですので、私たちの都合に合わせていつでも、どこでも、どのような姿勢でも動画を観ることは可能でしょう。でも、今まで大事にしてきたクリスチャンとしての優先順位がいつの間にか乱れて来ていないでしょうか。実は、コロナ禍にあって、私たちはそうした厳しい現実の中に立たされている。
礼拝は本当に大切であり、クリスチャンとしての生命線です。神さまが、独り子イエスさまを飼い葉桶に誕生させ、イエスさまが十字架にかかって下さったのは、私たちを罪の奴隷状態のような生活から自由にし、その与えられた自由をもって、礼拝の民として生きるためだと、はっきりと教えられています。いや、私は会社員です。主婦や学生ですと言われるかもしれません。確かに、そのような者として一週間、この世へ派遣されます。しかし、聖書によれば、私たちは会社員以前に神の子であり、主婦以前に、神を礼拝する民なのです。学生以前に、神の愛するいとし子なのです。それが最後まで私から取り去ることの出来ない身分なのです。
牧師が皆さん教会員の祈りに支えられながら、「みことばに仕える」という務めを果たすために説教と取り組み、時間や健康の管理をするように、信徒も神を礼拝するために召された者として、日曜日には礼拝に集えるように祈り、健康管理をし、スケジュールを調整する。すると不思議と恵みに満たされ、必ず神を喜ぶ者へと整えられていくはずです。何故なら、礼拝を守ることは、喜びの源泉である、ぶどうの木であるキリストにつながることであり、そのことこそ「恵みの手段」と呼ばれる、神さまが私たちを成長させるために用いられる、祝福の手段だからです。
マリアは、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌います。神さまを礼拝することは、神さまを喜ぶことだ。神さまを礼拝することにより、私たちの心に喜びが満たされるからです。マリアの喜びの源泉はここにありました。身分でもない、性別でもない。今まで偉大な神さまだから、偉大な人々にしか目をお留にならないと思っていたのに、そうではなかった。この私に目を留めてくださった。そして偉大なことをしてくださった。そのようにして神さまは、この私を愛してくださった。マリアはそれを実感したのです。そして、そのことが、彼女にとっては驚きであり、そしてまた大きな喜びとなったのです。
今日、ここに礼拝に集った私たちも、マリアやエリサベトと一緒に主を賛美し礼拝して、生きることが許されている。教会には、私と共に喜びや悲しみを分かち合える信仰の友エリサベトがいる。この恵みの中、クリスマスに向けて歩む私たちでありたいと願います。
お祈りします。

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信仰の冒険

松本雅弘牧師
イザヤ書30章15-22節
ルカによる福音書1章26-38節
2020年12月6日

Ⅰ. できないことは何一つない神が、なぜ?

今日の聖書箇所、「受胎告知」を示すこの箇所にはたくさんの恵みが隠されています。その一つが「神にできないことは何一つない」という御言葉です。ただ、コロナ感染症に襲われた私たちにとってこの御言葉を聞くことは、時に苦痛を伴うものなのではないでしょうか。
コロナ禍のため職を失ったり収入が激減する。DV(ドメスティックバイオレンス)に関する報道も後を絶ちません。いま第三波に不安を募らせながら生活しています。そうした中、ふと「このコロナ禍において、神はどこにおられるのか」と思います。先月、ゲッセマネの園での祈りを御一緒に学びました。あの時の主イエスは実に無力です。あっという間に逮捕されてしまう。あの時の主イエスにとって、またコロナ禍の中で大変な思いをする一人ひとりにとって「神にできないことは何一つない」という、この天使の言葉をどう聞いたらよいのか、戸惑いさえ感じてしまう。
信仰者は神が全能のお方であることは分かっています。逆に全能でないならば神の名に値しないと考えます。だからこそ戸惑ってしまう。神さまが全能であるならば、何でこんなひどいことがこの世界に起こるのか。とても複雑な思いにさせられるのです。
ところで、この天使の言葉を私なりに訳してみますと、「神にとっては、その語られた全ての言葉は不可能ではない、不可能になるようなことは決してない」と訳せるように思います。つまり、この御言葉は元々、「神の語られた言葉は不可能ではない」という意味として理解できるのです。そのようにして今日の箇所をもう一度読み返しますと、天使を通してマリアに語られた言葉は何かと言えば、それはとても具体的な言葉です。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」という「神の約束」の言葉です。
創世記18章にアブラハムのことを心にかけていた主の独り言が残っています。「わたしが行おうとしていることを、アブラハムに隠す必要があろうか」とご自身が自らの心に問いかける御姿が出て来ますがその時と同じです。若いマリアに対し神さまはご計画を打ち明け、その計画に参与するようにと招かれ、打ち明けられた方は大変だったと思う。でも彼女は「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えた。このマリアの姿は、信仰者として実に潔く、そして本当に美しく思いました。今、コロナ禍にあって、信仰を持っているがゆえに、「なぜ」「どうして」と問う私たちです。そうした私たちに、マリアと神から遣わされた天使とのやり取りは、少なくとも二つの大切なメッセージを示しているのではないかと思います。残された時間、そのことを御一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ.「お手伝い」へと招く神

一つ目は、マリアは自分のことを「主のはしため」と呼んだ点です。この言葉は、「僕」という言葉の女性形です。今日の箇所から改めて教えられたことは、神さまのご計画、お働きは必ず、私たち主の僕、はしためたちの参加を必要としているということです。「あなたのご計画通り私をお用い下さい、生かしてください。私たちを通してあなたの御心が実現しますように」という祈りに導かれて初めて、神さまのご計画が動きだして行く。誤解を恐れずに言えば、マリアのようなはしためたちや僕たちの「お手伝い」を必要としている。「お手伝い」なしに、神のご計画は実現しないと言えるかもしれません。
先週、祭司ザカリアに起こった出来事を学びました。ザカリアの人生に直接神さまが介入し、ザカリアの老後の生活が大きく変更を迫られたのです。マリアも同様です。彼女の人生に神さまが介入なさった。そしてマリアは「あなたのなさる通りで結構です」と答えた。言葉を添えるならば、「私も自分の人生に自分なりの計画を思い描いて来ました。でも主よ、あなたが私のためにと準備してくださったご計画の方が、私にとって最善のものです。ですから、あなたのなさる通りで結構です。」そう告白し明け渡していったのです。しかしそう祈ったがゆえに、その後のマリアのことは、皆さんもよくご存じだと思います。それが今日の二つ目のポイントです。「お言葉どおり、この身に成りますように」という祈りが、その後の展開を甘んじて受ける覚悟/責任を伴うということです。

Ⅲ.「おめでとう!あなたに喜びがありますように!」

さて、私たちの日常は何かを選ぶことの連続です。人生の節目々々で選択を繰り返し生きています。そして当然、選択にはある種のリスクが付き物です。ところで「危険を冒して何かをすること」を「アドベンチャー/冒険」と呼ぶわけですが、その「アドベンチャー」という言葉はラテン語の「アドベント」から来ています。「飼い葉桶と十字架は初めから一つである」と言われますが、神さまの冒険の結果が飼い葉桶であり十字架でした。とすると、私たちが信じ従うイエス・キリストの神さまはアドベントの神。ですから、そのお方に従う時、私たちも冒険をさせられることもありうるということでしょう。
マリアも、このアドベントの神に従いつつ、信仰の冒険を始めたのです。マリアにとってヨセフも知らないのに子どもを授かってしまう。それは想像もつかないような世界に足を踏み入れる「信仰の冒険」でした。まずはヨセフが信じてくれるかどうか。家族に受け入れて貰えるだろうか。ナザレの村の会堂の親しい仲間、そして村人達から何と言われるか分からない。考え始めたら怖くなったに違いありません。でも聖書を読む限り、マリアは実に自由に神さまに心を開き、その御心を選び取っています。そしてよくよく考えてみれば、彼女のこの決断、「お手伝い」があったからこそ、私たち全世界の救いのご計画が大きく動き出して行ったのです。ではなぜ、そうした自由さを持つことが出来たのでしょう。
ここで天使はマリアに向かって、「おめでとう。恵まれた方」と呼びかけています。この「恵まれた方」とは「既に恵みを受けた方」という意味です。この「呼びかけ」は、既に神さまがマリアをお選びになっていること、マリアの決断に先立って、もうすでに神さまの決断があったことを示す言葉なのだと語っている人がいました。「おめでとう」というこの言葉も、ギリシャ語を直訳すれば、「喜びなさい」という意味です。「おめでとう!あなたに喜びがありますように。」という意味です。辞書によれば、日本語の、この「めでる」という言葉は、「実際に自分の目で見て本当にいとおしい」という意味がある言葉ですが、神さまがマリアを、すでに慈しみをもって、いとおしいと感じながら見ていてくださっている。マリアはこのように神さまが慈しみをもって選び、めでられた女性だったのです。御子を宿すことは、この時のマリアにとっては必ずしも喜びであったとは思えません。さらに、この後ルカ福音書を読み進めていくと、その2章でシメオンという老人が登場し、赤ちゃんイエスさまを連れてお宮参りにやって来たマリアとヨセフを待ち構えるように、マリアにとっては有難くないような預言を伝えます。聞かされたマリアは複雑な気持ちにさせられたことでしょう。ところが、福音書を記したルカは極めて明るいのです。そのことをよく知った上で、マリアが「神さまの愛の中に選ばれている者」であった、だから「マリア、神さまの愛の中に選ばれている者よ、おめでとう。あなたも喜びなさい」と、天使の「喜びなさい」という、その言葉を、それだけの思いを込めて、このところに記録しているのだと思うのです。神さまの恵みの決断、喜びを知らせる決断が、まず最初にあった。そして、それを受けるように、私たち信仰者が、そうした神さまの恵みに応答して信仰の冒険に足を踏み出していく。

Ⅳ.神の慈しみのなかで

神さまが始め、手を付けられたお働きは、神さまの定めた時に、必ず実現する。世界の片隅で始まった小さな幼子の物語、これが世の終わりまで揺らぐことなく続いて行く。そして救いの完成にまで至る。その最初の一頁、おとめマリアの決断をもって、神さまは救いの実行に移られたのです。神さまがマリアをめでるように、私たちをご覧になり、その私たちに御言葉を用意し、私たちの家庭や学校、職場、そして地域にあって、神さまの救いのご計画の一端に参加するように召してくださるのです。ですから私たちもマリアに倣って、「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と応え、それぞれに与えられている信仰の冒険へと踏み出す選択、決断をしていきたいと願います。お祈りします。

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沈黙を通して見えたもの

松本雅弘牧師
詩編77編1-21節
ルカによる福音書1章5-25節
2020年11月29日

Ⅰ. ザカリアに起こった出来事

ザカリアは「神に覚えられている人」という意味の名を持つ祭司でした。その名前の通りに、神さまはザカリアを御心に留め、その祈りを覚えておられ、そしてそのザカリアの祈りに応え、天使を通し彼とその妻エリサベトに念願の子どもをお与えになるという出来事が成就した、と今日の御言葉は伝えています。

Ⅱ.沈黙の恵み

およそ10か月間余りザカリアは沈黙を強いられました。祭司という仕事柄、大変なことでした。経験したこともないような不自由さが続く。でもこれはザカリアだけではなく、私たちも同様の経験をすることがあるのではないかと思います。失敗や過ち、病気など思いがけない状況に出あう時、モノを言う元気すらなくなってしまう。それまで自信を持って語って来たのに。ところが一転、厳しい現実に直面し沈黙するしかないのです。
妻のエリサベトも同じでした。「妻エリサベトは身ごもって、5か月の間身を隠していた」(24)とあります。「身を隠す」を口語訳は「引きこもる」と訳しています。彼女も夫と共に沈黙し引きこもったのです。ゆっくりとした時間の中で二人とも黙っている。すると不思議と自らの魂との対話が始まり、神さまとの対話も始まっていったのです。
私は、この夫婦がこの沈黙の期間、どんなに深く神さまの恵みを味わったことかと思います。その証拠に10カ月にわたる黙想の日々の後、ザカリアの口から飛び出した第一声、それは、「ほめたたえよ」という言葉でした。ザカリアはこの沈黙の期間、天使の言葉の一字一句を味わったに違いない。妻と共にその恵みの時を共有した。ある牧師が、「教会の礼拝は、私たちの知恵が黙る時であり、教会とは私たちが沈黙を学ぶところだ」と語ったそうです。なるほど、と思いました。彼らの息子ヨハネが成人し、洗礼者ヨハネとして世に出た後、それに続くようにイエスさまも公生涯を始めます。イエスさまは多くの教えをお語りになったわけですが、その教えを一言で言えば、「神の御心がなるように」ということです。自分の願うところではなく、神さまの願うことが成就するということでした。

Ⅲ.礼拝を守っているのに、礼拝のリアルな恵みを期待していない?

この時代、ユダヤには1万8千人から2万人の祭司がいたと言われています。その中からたった一人が当番に選ばれるのは物凄く低い確率でしょう。それがザカリアに起こりました。そしてこの務めはとても重要で、なおかつ光栄なものでした。だからこそ緊張する務めでもありました。「間違いのないよう、一つひとつが順序正しく滞ることなく執り行うことができるように」というところから来る緊張です。私は牧師をしていますので少し分かるような気がします。このように考えますと、ある意味で祭司という務めは決まったことを決まった通りに行う仕事です。それゆえ保守的にならざるを得ません。ですから当時、祭司は型通りのやり方しかできない人というレッテルを貼られ批判されることもあったようです。
そうした祭司ザカリアが緊張感をもって儀式を進めていた時、天使が現れたのです。それを見た彼は不安になり恐怖の念に襲われました。考えてみれば、これは皮肉な話です。この時ザカリアは、目に見ることは出来ませんが、生ける神の御前に出ていたはずです。その祭司たるザカリア先生が、生ける神さまの臨在に触れた時に、不安になったのですから。
ある人は、この場面のザカリアの様子を「ザカリアの手順が狂った。神が邪魔をされた」と語ったそうです。神さまに邪魔されたので慌ててしまった。順序正しく滞ることなくやろうとしていた。ところが間違いをしでかしたので慌てたのではありません。誰かに邪魔されたからです。他でもない神さまが入り込んで来られたからなのです。ここでザカリアは慌て戸惑っています。何十年と神に仕えてきたベテラン祭司のザカリアが、神のリアルな働きに触れ、おじ惑っている。本当に滑稽です。でも私たちは、こうしたザカリアを笑えるでしょうか。これは私たち一人ひとりに関わる問題だと思うのです。
私たちは今日も礼拝に招かれてきました。今はコロナ禍で、40分前後で全てが終わります。1つひとつの式順に従って礼拝は進みます。でも、そうした礼拝、日々のディボーションの時でも結構です。私たちは礼拝を守り、日々の御言葉と祈りの時を大切にしているかもしれませんが、もしかしたらただそれだけ、ザカリアのように外から介入されたくない、それによって不安にさせられたら困るという思いが、私たちにないだろうか、と思わされるのです。でもよくよく考えるならば、私たちが礼拝に集い、日々、ディボーションの時を守っているのは、その礼拝で、そのディボーションの時に、神さまに触れていただきたい、神さまに、今の私の人生に介入していただきたいからなのではないだろうか。それが私たちの本当の願いなのではないだろうか。この時、神さまは、ザカリアのその願いに応えるように、彼の人生に介入なさった。ところが、そうした神の直接介入は、ザカリアにとっては驚きであり、不安であり、恐怖でもあったのだ、ということなのです。

Ⅳ.沈黙を通して見えたもの

このことは裏を返したら、私たちの生活が神さまに介入されたら困るような生活になっていないだろうか、と考えさせる出来事のように思います。
私たちは自分で自分の人生を設計したいと思います。学生の頃、一般企業に就職する時も困らないようにと、一応、それなりの成績だけは残しておこうと努力しました。でもその頃、神学校に行くことが分かっていたら、もっと別の時間の使い方をしていたのではないかと思います。神学校で学んでいた頃、もっと勉強を続けたいという希望がありました。でも神さまは、卒業後にすぐに教会に仕えるようにという別の計画を用意しておられました。
私たちは自分の人生を自由に設計しようとするわけです。でも信仰を持ち神さまとの交わりが深まる中、心の中に一つの不安のようなものが生じることです。それは「私の願い、私の計画が、果たして神さまが願われることなのかどうか。私のために立てた計画と同じかどうか」という問いが起こるからです。そうした問いがあるのに気づいたならば、一度立ち止まり、神さまの語りかけに耳を傾ける必要があります。手順通り物事が進むようにという思い、いやその手順それ自体を、もう一度神さまの御前に差し出し吟味することが必要になります。この時、神さまがザカリアになさったのは、そのことだったのではないでしょうか。
先日お話しました創世記のヨセフもそうでした。ヨセフは計画を思い描きました。牢屋にいた給仕役の長の夢の解き明かしをし、その通りに牢屋から解放された時に、その給仕役の長がヨセフの身の潔白を証明することで、ヨセフが牢屋から解放されるという計画を思い描いていました。ところが神のご計画はもっと壮大だった。仮に彼の計画通りに解放されたら、二年後にファラオの夢の解き明かしは実現しなかったかもしれない。そして、ファラオとの出会いがなければ、彼が総理大臣になることも、そしてもっと大事なことですが、ヤコブの家をはじめ、エジプト全土、その周辺諸国の人々の救済も難しかったでしょう。もう絶妙なタイミング。これが神さまのご計画でした。
神さまは、私たちが握りしめている宝より、もっと素晴らしい計画を用意しておられる。預言者エレミヤは「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(エレミヤ29:11)と語りましたが、そのことを受け止めるために、一度、動きを止める、ザカリアのような10か月が必要かもしれません。箴言に「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である。」(箴言16:9、口語)とあります。私たちの側に神さまの介入を受け入れる余地が必要なのです。
カール・バルトは、「われわれ人間の自然の営みが、神によって妨害されない限り、それは癒されることはない」と語りました。神に妨害され、神のご介入が起こった時はじめて、私たちに本来の恵みの生活が始まる。実はすでに始まっている。沈黙し立ち止まり、神が用意しておられる新たな計画をしっかりと受けとめることができますように。お祈りします。

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洗礼者ヨハネの証し

松本雅弘牧師
イザヤ書61章1-4節,8-11節、ヨハネによる福音書1章6-8節、19-28節
2019年12月8日

Ⅰ.ヨハネ福音書の降誕記事

ヨハネによる福音書は、4つある福音書の中で最後に書かれたものであると言われます。
ヨハネが福音書を書いた頃、イエスをキリストと告白する者がいれば、公式に会堂から追放することをユダヤ教側の人々が決めていた。そのようにクリスチャンたちにとって厳しい状況の中で、この福音書は書かれたものでした。そのように考えて今日の聖書の箇所を見ると、主イエスこそ救い主であること、主イエスが神の独り子であること、神さまによる恵みと真理が主イエスによって現されたことなどが強調されていることに、改めて気づかされるのです。

Ⅱ.証言者としてのヨハネ

「光」なる「言」のことを証言する人物として洗礼者ヨハネの名前が示されています。福音書記者ヨハネは、あくまでも主イエスこそがメシアであり、ヨハネ自身はメシアではないことを主張しました。
ところが、人々の中にはヨハネがメシアではないかと考える者もあったのです。これに対して、イザヤ書40章3節を引用し、ヨハネは自分の役割は主の道を整えることだと説明したのです。このように洗礼者ヨハネは主イエスについて「語る」ために神さまから遣わされました。
ギリシャ語で「語る」という言葉は、「見たことを証言する」と言う意味があります。ですからヨハネは証言者でした。

Ⅲ.人生に縦軸(神との関係)のある人ヨハネ

ある時、主イエスはヨハネを指して、「女の産んだ者の中で、最大の人物」と称賛されたことがあります。そのヨハネは理不尽極まりない仕方で殉教の死を遂げるのです。
時のユダヤの権力者ヘロデが、自分の兄弟から妻ヘロディアを奪い、彼女と結婚するという事件が起こりました。それを知ったヨハネが「その結婚は律法で許されていない」と主張し、ヘロデ王の罪を糾弾したからです。
しばらくしたある日、その日はヘロデの誕生日で妻となったヘロディアの連れ子、サロメが父親となったヘロデに誕生日のプレゼントということで踊りを披露します。
ヘロデは大いに喜び「欲しいものがあれば、何でも言いなさい。お前にやろう」と言ったのに対して、サロメが、母親ヘロディアに相談し、「洗礼者ヨハネの首」を求めたことでヨハネは殺されていきました。
福音書には、その後日談が出て来ます。主イエスの活躍の様子がヘロデの耳にも聞こえて来たとき、どういうわけか、主イエスのことを「自分が殺したヨハネの生まれ変わりだ」と勘違いし、物凄く不安になったというのです。
さてヨハネは主イエスの先駆けとして活動を始めて行くなか、ある程度、自分の死を予測できたのではないかと思います。ところが、福音書を読む限り、死と隣り合わせのところに置かれていたはずのヨハネが、恐怖に怯え、何かを後悔している形跡が全くないのです。むしろ、とても小気味の良い! 信じる道をまっすぐ歩き、びくともしないのです。
聖書が伝える洗礼者ヨハネの生涯を見るとき、本当に彼は自分自身に満足しています。自分を取り巻く状況は大変厳しいのですが、心は穏やかなのです。確信に満ち、恐れや不安から解放されていたのです。何故ならヨハネは、真に恐るべきお方である神さまを知っていたからです。正しくないことがあれば、ヘロデであろうが誰であろうが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とはっきり言うことが出来たのです。常に霊に燃え輝いていました。それに対し、権力を持つ側のヘロデは恐怖におののいていました。主客転倒が起こっているのです。
権力、地位、財産、支配の力は、表面的には強く見えても実質は無に等しい。しかも死と隣り合わせです。これに対して、優しさ、愛、良心、信じること、望みを抱くこと等は確かに弱く見えても、実は権力も太刀打ちできない強さがあるのです。
まさに福音書記者ヨハネが「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」(Ⅰヨハネの手紙4:18)とその手紙に記した通りです。
洗礼者ヨハネとヘロデの姿は好対照なものとして、この違いを、実に鮮やかに示しているように思います。洗礼者ヨハネの生き方、それをひと言で表現するならば、「人生に縦軸を持つ生き方」でしょう。
聖書は、私たち人間が的外れな生き方をしている場合、その生活の中に必ず「自己中心」と「虚栄心」として現れてくることを教えています。「自己中心」とは「自分が、自分が」という思いです。自分の願いを叶え、自分の欲望を満たすために人を利用するような思いです。
「虚栄心」とは「等身大の自分」を受け入れることが出来ないために、背伸びをして生きる心です。神しか満たすことの出来ない隙間がぽっかりと空いていて、それが大きいが故に必死になって「神の愛」以外の何かをもって満たそうとする。また心の深いところで「自分はダメな人間だ」と思っているので、背伸びし、自分をよく見せるようにして虚栄を張るのです。繰りかえしますが、本来、神に造られ愛されているはずの私たちが、造り主から離れて生きようとするとき、必ず自己中心となり、虚栄を張って生きるしかなくなると聖書は教えています。
それに対して、洗礼者ヨハネはそうした生き方から解放されていました。自分に満足できない人は決して他人にも満足できません。それがヘロデの問題であり私たちの問題でもあります。
これに対して、神の恵みと愛とを十分に実感するとき、自分自身に満足してくるのです。神から、このままの姿で受け入れられていますから、背伸びをする必要もない。人と比べることからも解放されていきます。「私は私でいい」と心の深いところに満足を覚えるようになります。
私たちに必要なのはこの恵みです。神さまに出会い、御言葉をいただき、心に栄養をいただくことが本当に必要なのです。
このようにして洗礼者ヨハネと王ヘロデを比較するときに、人生に縦軸を持っているかどうか、神さまを知っているかどうかが本当に問われてくるのです。

Ⅳ.「現代のヨハネ」として召されている私たち

ヨハネ福音書1章、6節以下に「証し」という語が3回も出て来ます。つまり洗礼者ヨハネは、まさに「光について証しをするために来た」証人なのだと福音書は伝えています。そしてもうひとつ、私たちが光である主イエスを証ししようとするときに、洗礼者ヨハネ同様に、光なる主イエスと向き合う必要があるということです。
パウロはコリントの信徒に宛てて、「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(Ⅱコリント4:5-6)と語りました。
私たちがキリストと向き合うときに、ちょうど月が太陽の光を身に受けて輝くように、光なる主イエスの素晴らしさを反映し、私たち自身が、洗礼者ヨハネのように証し人として輝かせていただけるのです。
ある意味、洗礼者ヨハネも困ったようです。人々に洗礼を授け、悔い改めを勧めていたのですが、多くの人が、洗礼者ヨハネが救い主ではないかと言い出したからです。ですからヨハネは、「そうではないのです。救い主について証しをするために来たのです」と、自分の役割をそのように受けとめているのですが、周囲の人々は身勝手なことを言いました。
それだけヨハネが光り輝いていたからだと思うのですが、そうした人々に対してヨハネが「声を張り上げて」主イエスを証しする姿が紹介されています。何故そこまでしたかと言えば、他の誰でもなく主イエスを見つめることが大切だから、これこそが、私たちが輝く唯一の道だから。それは洗礼者ヨハネ自身が経験したことであり、それを伝えたかったのです。
主イエスを見つめると、私たちは自らの罪に、闇に気づかされる。でも罪や闇に気づくことは、私たちにとって本当に必要な第一歩でしょう。何故なら、そのことを知った者は光を求めるからです。罪からの救い主、主イエスを求め始めるからです。闇の中に光が灯されるとき、その光の周りからスーッと闇が消えて行きます。私たちの心の中に暗闇があることに気づき、その闇を追い出そうとしても出来ない。どうすればよいか? そこに光を招き入れるときに初めて、そこから闇が消滅するのです。私たちの人生に主イエスをお迎えするということはそういうことです。
「まことの光」として「すべての人を照らす」お方として、キリストはおいで下さいました。光なるお方と向き合って生きるときに、キリストは、罪深い私たちをも、その光を反射させる者、光の証し人としてくださるのです。お祈りします。

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アドベント 主日共同の礼拝説教

主の道を備えるために

松本雅弘牧師
イザヤ書40章1-11節、マルコによる福音書1章1-8節
2019年12月1日

Ⅰ.主の再臨を待ち望むために

今年も待降節がやって来ました。待降節はキリストの降臨であるクリスマスの恵みを思い巡らすと共に、そのキリストの「再降臨」、約して「再臨」を待ち望む季節でもあります。

Ⅱ.あらすじ

福音書記者マルコは、前置きに時間を費やすことをせずに「神の子イエス・キリストの福音の初め」と切り出します。
マルコは、イエス・キリストの到来こそ、その方の存在こそが、「福音」、「良き音信そのもの」なのだと大胆に宣言するのです。そして預言者たちの言葉を引用しながら、荒れ野に出現し「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えるヨハネこそが、メシアの先駆けとして遣わされた者であることを明らかにし、彼の宣教活動の様子を報告するのです。
ヨハネは、自分の後に本当に「優れた方」が来られると伝えます。そして自分がしていることはそのお方のために道を備えることなのだというのです。その具体的な道備え、それこそが、主イエスに洗礼を授けることであったのだ、と福音書記者マルコは語っているのです。

Ⅲ.「あなたはわたしの愛する子、心に適う者」という御声を祈り求める

今日は洗礼式が行われます。洗礼者ヨハネが、主イエスの道備えの最初の務めとして洗礼を授けたように、今日の方たちも洗礼を受け、新しい歩みをスタートするわけです。
では受洗するとは一体どのような意味があるのでしょう。ここで洗礼者ヨハネは、「その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と言いました。
ヨハネから洗礼を受けた主イエスの上に、聖霊が鳩のように降って来られ、天から次のような声がありました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1:11)。
これはどういうことでしょうか。受洗は、主イエスの命である聖霊をいただくことの目に見える印ですが、同時に私たちの心の深いところで「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神さまの御声をしっかりと聞きとることでもあるのです。
ところが現実には、受洗後も神の愛を実感できないでいることがあります。その理由は、私たちの中にある「偽りの物語」が原因しているからだと言えるでしょう。
一般に私たちは、人間の価値はその人が成し遂げたことによって決まるという物語を信じているようです。先日、テレビを見ていましたら「ハイスペック男子」とか、「スペックの高い人」という言葉が使われていました。本来の「スペック」とはパソコンや機械などの客観的に判定、評価できる構造や性能を意味する言葉ですが、それが人に転じて「能力が高い」という意味で使われるようになったようです。ですからスペックの高さとは、その人の価値に比例するという風潮があるようです。これは主イエスの時代の「律法主義」です。神さまに愛され、喜ばれるためには、愛されるに値する、喜ばれるに値する理由を私の側にたくさん積み上げる必要があると言う考え方です。
同じ出来事を記したルカ福音書では、主イエスが「洗礼を受けて祈っておられると」という表現があることに心が留まりました。「洗礼を受けて祈っておられると」、父なる神がその祈りに応えるようにして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という御声をかけてくださったとあるのです。
これは本当に大事なことを教えているように思わされます。つまり私たちが神さまに愛されていることを実感する恵みは、ちょうどこの時の主イエスがそうなさったように、私たち一人ひとりも、神に祈り求めるべき恵みであるということです。
私は自分の今までの歩みを振り返る時に、本当にマイナスの言葉を浴びるようにして大人になって来たなとつくづく思うことがあります。我が子に対してもそのようにしてしまっている自分を情けなく思うことがよくあります。
その結果、特に自分の中のマイナスの面、弱いところと上手く向き合うことができない。例えば弱さや足りなさを見せつけられるような場面に出くわすとどうするか、見て見ぬ振りをし、場合によっては競争や競い合いを始めるのです。いちじくの葉っぱ」を貼って、他人よりも自分を大きく見せようとします。でも、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。あなたは大切な人です」という言葉に触れると、不思議と「自分は自分でよい/私は私」という思いにさせられるのです。
あるクリスチャンは、こう語っていました。
「私たちは愛されている者です。両親や教師、結婚相手や子どもや友人が、私たちを愛したり、傷つけたりする、そのはるか以前から、私たちは深く愛されています。これが私たちの人生の真理です。その真理を、あなたも受け取っていただきたい。それは『あなたはわたしの愛する子』という言い方で語りかけてくれる真理です。
しっかりと心の耳を澄ませてその声に聴き入ると、私の存在の中心から、こう語りかける声が聞こえてきます。『私は、はるか以前からあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの、私はあなたのもの。あなたは私の愛する者、私はあなたを喜ぶ。私はあなたを地の深いところで仕組み、母の胎の内で組み立てた。私は手のひらであなたを形造り、私の懐に抱いた。私はあなたを限りない優しさで見つめ、母がその子を慈しむ以上に親しくあなたを慈しむ。私はあなたの頭の毛をすべて数え、あなたの歩みを導く。あなたがどこに行こうと、私はあなたと共に歩み、あなたがどこで休息しようと、あなたを見守り続ける。…』」と。
一日が終わって、床に就く時、その日一日を振り返って後悔することがあります。〈何故、あんなこと言ってしまったのだろう。あのような事をしなければよかったな。〉〈あの時、ああ言えばよかった。〉
結構、幾つも幾つも心に浮かんできます。でも、そうした時に、主の御前に静まり、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、主のこの語りかけに耳を澄まします。すると不思議な力や慰めをいただく。どんな失敗をしたとしても神の子としての私の価値に傷がつくことなどない、ということを知らされるからです。
洗礼を受けたということは、そのことをはっきりと自分のこととして聞くことであり、神さまを信じて歩み始めるということは、常にそのように語りかけてくださるお方の前に立ち返っていくことなのです。

Ⅳ.ぶどうの木であるキリストにつながり続ける

主イエスは十字架につかれる直前に、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネ15:5)。
そうお語りになった後「父のところから助け主なる聖霊を遣わすのだ」と約束されました。
受洗し、神の愛の語りかけを聞き続け、本当の意味で喜びに満ちた信仰生活を送ることを願うならば、ぶどうの木であるキリストに繋がることが大切です。たとえ洗礼を受けても主イエスから離れるならば、聖書で約束されている様々な恵みは絵に描いた餅です。何故なら「私を離れてはあなたがたは何もできないからだ」と言われるからです。
真の意味で私たちの信仰生活を恵みで満たし、教会を豊かにするものは何かと言うならば、それはキリスト教的活動が活発になることではなく、主イエスとの生きた関係がそれだけ太くなるか、親しくなるかにかかっている、ということなのです。
洗礼を受けるということは、主イエスの命である聖霊が、私たちの心に宿られることを表わしていることを、覚えたい。この「宿る」ということは、単に「お客さまとして滞在する」のではなく、「住みつづけ、生活を共にする」という意味の言葉です。
結婚して感じたことですが、他人同士が生活を共にすることによって何が起こるでしょうか。似てくるのです。場合によっては顔つきまで似てきます。それはともかくとして、主イエスの霊である聖霊が宿って下さり、聖霊と共に暮らすならば、次第にキリストに似てくるのです。
私たちには幾つもの生活の場があります。〈この顔は見せたくないので、イエスさま、ちょっと向こうをむいていてください〉と言いたくなることもあるかもしれない。
でも信仰生活はこの逆なのです。ぶどうの木に繋がったり離れたりしていては、実を結ぶ暇もありません。聖霊は私たちの内側に宿られるお方ですから御言葉を通し、心の扉を開くようにと語り続けて下さる。生活の全領域で、聖霊なる神さまと共に生きることを願っておられる。
私たちは、そのようにして聖霊に満たされていくのです。置かれている状況が厳しくても、そこに主イエスが共におられる時、本当の平安が心を包み込むように、どんな環境にあっても聖霊が共におられるので、本当に心強い。
「キリストにつながる」とは、そういうことです。そのように、主が私にとっての道となってくださるように祈り求めていきたいと願います。
お祈りします。