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クリスマス礼拝 主日共同の礼拝説教

救い主到来の宣言

<クリスマス礼拝>
松本雅弘牧師 説教要約
ミカ書5章1-4節a
ルカによる福音書1章39-55節

2021年12月19日

Ⅰ.喜びに溢れるマリア

クリスマス、おめでとうございます。主イエスのお母さんとして召されたマリアは、天使ガブリエルから信じられないような御告げを受けました。いわゆる「受胎告知」です。若いマリアが母親として召された。それも救い主イエスのお母さんです。マリアにとって、とてつもない大きな出来事でした。
当時、マリアには婚約者ヨセフがいました。まずヨセフのところに急いで行って話を聴いてもらってもよかったかもしれません。あるいは家族か所属するナザレの会堂長のところに出掛けて行ってもよかったでしょう。しかし、マリアはそうせず、「受胎告知」という大事件の余韻が冷めやらぬ間に、立ち上がって、大急ぎで山里に向かったのです。
ところで、ふと気づくと急ぎ足になっている自分を発見することがあります。そのような時、一度立ち止まり、「そもそも何で急いでいるのだろう?」と考えるようにしています。すると心配や恐れがあることに気づかされます。それが原因で気持ちが急いでしまっている。あるいは逆に向かう先にある楽しみへの期待感が急がせていることもあるでしょう。
この時のマリアはどうだったのでしょう?「マリアの賛歌」の冒頭に「私の魂は主を崇め」とあります。この「崇める」という動詞が継続を表す現在形で書かれています。「私の魂は主であるあなたを、今もずっと崇め続けています」という意味です。これに対し続く「私の霊は救い主である神を喜びたたえます」の「喜びたたえる」という動詞は、過去の動作を意味する形で、「私の霊は救い主である神を喜んでいた」となります。つまり、すでにこの時、マリアは喜んでいた。不安だったので、確かめようとしてエリサベトの許に行ったのではありません。彼女が急いでいたのは、その喜びに急き立てられていたから。それが、ここでルカが強調していることなのです。

Ⅱ.マリアとエリサベトとの出会い

喜び溢れたマリアを迎えたのが親戚のエリサベトでした。そして本当に不思議なのですが、エリサベトと会う時点まで、マリアの心の中にあった喜びがまだ歌になっていなかった。挨拶をかわし抱き合って喜んだ時、初めてマリアの口に賛美の歌が溢れたのでしょう。こうして歌われた賛歌が後の人が「マリアの賛歌」と呼ぶようになった歌でした。
ところで、旧約聖書を読んでいますと詩編147編やサムエル記上2章にある「ハンナの祈り」などがこの「マリアの賛歌」と実によく似ていることに気づかされます。専門家によれば、マリアはゼロからこの「マリアの賛歌」を歌い上げたのではなく、幾つもの聖書の言葉を用いて賛美しただろうと言います。
ですから、ここで注目したい点は何かと言えば、マリアが自分だけの言葉で歌を歌おうとはしなかったことです。御子イエスさまを出産するという恵みを独り占めしようとは思わなかった。むしろ旧約で歌い継がれた神さまの恵みに、自らも与っている一人の信仰者として、今こうしてエリサベトと一緒になって、互いに与えられた恵みを確認し、感謝しながら、それを歌にして歌おうとしている。「私だけではない、あなたにも、神の恵みが与えられている」と、信仰の歌、それも昔からの歌を、新たな思いを込めて歌ったのが、この「マリアの賛歌」だったということです。

Ⅲ.厳しい現実の中で、主を賛美することができる

このようにして歌われた「マリアの賛歌」の冒頭に「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。」とあります。
この「喜びたたえます」の原文を確認すると「喜ぶ」という言葉だけでした。直訳すれば、「私の霊は救い主である神を喜びます」となります。ただ、聖書の教えによれば、神さまをたたえる/賛美することは、イコール神さまを喜ぶことなのです。まさにノリッチのジュリアンが、「神に示すことのできる最高の敬意とは、神に愛されていることを知ることにより、私たちが喜んで生きることである。」と語ったとおりです。ですから聖書は、「喜ぶ」という意味を持つギリシャ語の言葉を少し膨らませるようにして、「喜びたたえる」とか「たたえる」と訳しているのだと思うのです。
ところで、今日はクリスマス礼拝です。神を礼拝することはイコール神を喜ぶことだと今一緒に確認したわけですが、実際、礼拝に集う私たち心の中に喜びがどれだけあるのだろうか、自分に正直に心の内を探った時に、果たしてどれだけ、神さまを喜んでいるのでしょうか?そう考える時、「喜ぶこと」は当たり前のようで、実は、必ずしもそう簡単ではないことに気づかされる。神の御前に吟味し、「喜びがあるか」と問われると、下を向いて黙るしかない状況があるかもしれません。
私は牧師ですので、毎週、説教の準備をします。日曜日ごとに講壇に立ち、御言葉の取次ぎをします。そうした私たち牧師にとっての難しさの一つは、私たち自身がいつも信仰豊かに喜びに溢れているかと言えばそうではない。正直言って、それが現実でしょう。教会の方たちからのお話、寄せられる祈りの課題や様々な情報、厳しさや不安や痛みが伝えられながら、それに対して何も出来ない、時に心が揺さぶられる経験もいたします。また自分自身の弱さや誘惑、家族や家庭のこともあります。目を外に向ければ、様々なニュースで心が揺れ動きます。まさに「神さまがおられるのに、何故?」と訴えたくなるような出来事に囲まれています。そうした一週間を過ごし、再び、主を喜ぶ日曜日がやって来るのです。
でも、いつも思うのですが、一週間かけて御言葉と取り組む中で不思議と恵みに与り、日曜日の朝になると、いただいた恵みを皆さんと一緒に分かち合いたい、喜びたいという思いにさせられる。まさにそれは「強いられた恩寵」なのだと思います。そして、これは牧師だけではありません。私たちすべての人に、「強いられた恩寵」がある。それは「礼拝を守る」ことです。礼拝を守り続ける。そのために時間を調整し、健康管理や様々な工夫をするのです。そうしたプロセス全てが私たち一人ひとりに与えられている「強いられた恩寵」、神が用いられる「恵みの手段」なのではないでしょうか。
コロナが完全に収まっていない今、礼拝動画が中心です。礼拝動画やズーム配信があるので地方に行かれた方たちも動画を通して礼拝を捧げることができると、喜びの声を聞かせていただきました。それは本当に感謝なことです。しかし一方で、いつでもどこでも見ることができるという便利さが信仰生活の緩みにつながることも大いにあるのではないかと思いうのです。独り子イエスさまが飼い葉桶に生まれ、十字架にかかり、復活されたのは、神が本来意図された、本当に人間らしい生活、神との関係という人生の縦軸をしっかりといただき、神を神として生きるため。一言で言えば、礼拝の民の一員として生きるためでしょう。

Ⅳ.さんさんとふりそそぐ神の愛の光の中での「日向ぼっこ」

最後にもう一度マリアの賛歌に戻りますが、ここでマリアは「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたたえます」と主なる神さまを礼拝しているのです。彼女の喜びの源泉はそこにありました。ところで、井上洋治という神父が、祈りについてこんな風に語っていました。「私にとって祈りとは、何よりも、さんさんとふりそそぐ神の愛の光の中での『日向ぼっこ』である。」私は、井上神父の「祈り」という言葉を礼拝と置き換えてもよいのではないかと思いました。「礼拝とは、何よりも、さんさんとふりそそぐ神の愛の光の中での『日向ぼっこ』である。」
身分でもない、性別でもない。今まで、偉大な神さまは偉大な人々にしか目をお留にならないと思っていたのに、そうではなかった。「さんさんとふりそそぐ神の愛の光の中で」、マリアの言葉を使うならば、「卑しい仕え女」に過ぎないこの私に目を留めてくださったことに気づいた。そして偉大なことをしてくださったことを知らされた。そのようにして、この私を愛してくださっている。マリアはそうした一つ一つの恵みを受け取り直したのでしょう。そうした一つひとつの恵みが、彼女にとっては驚きであり大きな喜びであったのです。
私たちに必要なことは「さんさんとふりそそぐ神の愛の光の中」、すなわち、慈しみ深い神さまの御前に自分自身を置き、光に照らし出された、生活の中ですでにいただいている一つひとつの神の恵みに気づくことなのではないでしょうか。
今日は、マリアにもたらされたクリスマスの恵みを共に味わうことを通し、実は、すでに私たちにも、神の恵みが与えられている。礼拝を通し、神の御前に共に私たち自らを置くことを通して、クリスマスの恵み、そして再び来られる主に期待できることを、心から感謝したいと願います。お祈りします。

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神に栄光、地に平和

松本雅弘牧師
イザヤ書25章1-9節
ルカによる福音書2章1-20節
2020年12月20日

Ⅰ.信仰を持つことの不思議さ

私たちの信仰は、イエスというお方に深く関わりを持つ信仰です。そして最近つくづく思うことですが、ほんとうに信仰を持ってよかった。信仰を持っていなかったら、今頃、どんな生活をしていたことだろうと思うことがあります。クリスチャンになることは、イエスさまを愛する者になることであり、そのお方の愛の中にあることを確信しながら日々生かされることでしょう。ただ、クリスマスを迎え、改めて思いますのは、信仰を持つということはとても不思議なことなのではないでしょうか。クリスチャンになるとはイエスさまを愛する者になることであり、そのお方と関わりを持つことです。ところが、そのイエスさまは2千年前に生きた人物です。しかも遠く離れたパレスチナで活動した方です。そのような方と時空をはるかに超え、場合によっては家族よりも深いかかわりの中に生きる。これは本当に不思議です。

Ⅱ.世界で最初のクリスマスを祝ったのは父なる神だけ

今日の箇所でルカは淡々と事実を伝えているように見えますが、実はとても大切なことを伝達しようとするルカ自身の意図が伝わって来るように思うのです。それは、ヨセフが向かって行ったベツレヘムは「ダビデの町」だったということです。ヨセフはダビデの家系に属する人でした。ですからベツレヘムはヨセフにとっての故郷、そこに住民登録のため戻ってきた。そしてイエスさまがお生まれになった。ここでルカが語っているのは「ダビデの町」と呼ばれたベツレヘムで生まれたイエスこそ真の王なのだということです。
もう一つ、ルカが伝えようとしていることは、イエスの誕生を当時の人々は誰も知らなかったという事実です。勿論この後、羊飼いが御子の誕生の知らせを受けるわけですが、それはあくまでも例外、世間一般の人々は誰一人、イエスの誕生を知らなかった。ですから祝いもしなかった。もっと言えば、お祝いしたのは父なる神さまだけだったのです。
さて、イエスさまのこうした誕生をルカはさらに別の視点でとらえ、「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」と伝えています。アウグストゥスの時代には、長きにわたって平和が続きました。一般に「アウグストゥスの平和」と呼ばれます。人々は、「戦争のない、こうした平和な状態が続くのは、皇帝アウグストゥスのお蔭なのだ」と語り、彼を「救い主」と呼び、「神」と崇めた人々も出たそうです。そうした彼の誕生日を「福音」と呼んだ人々もいました。元々は「良き知らせ」という意味するのですが、それをアウグストゥスに当てて使っていたというのです。
そうした上で11節を見ますと、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と語り、皇帝アウグストゥスを呼ぶ時に使った「救い主」の呼称をイエスさまに当てて使っている。天使は飼い葉桶の赤ん坊を指しながら、「アウグストゥスではない、こちらのお方こそがまことの救い主なのだ。ダビデの町に誕生し、布にくるまって飼い葉桶の中に寝かされている乳飲み子こそ、真の救い主なのだ。最強の王、名君と褒め称えられた皇帝アウグストゥスの治世に、実は、もう一人の王が誕生した。そして、この方こそメシア/キリスト・イエスなのだ」、そう確信を持って記しているのです。

Ⅲ.世界の片隅に生まれた救い主

ところで、本を読んでいますと、時々目に留まることがあります。それは、イエスの誕生が当時のローマの歴史にほとんど記録がない、一般の世界史には記録されていないということです。そのような意味で、ルカ福音書2章1節と2節に出て来る記録自体の信憑性が疑問視されてきた経緯がありました。18世紀以降、ヨーロッパを中心とする聖書学者たちの間で、いわゆる科学的、歴史的と言われる福音書研究が始まる中、特にイエスという存在に批判的な立場をとる学者たちが最初に問題視したのが、このルカ福音書2章の1節と2節の記述だったと言われます。この箇所はイエスさまの誕生の出来事と一般の歴史の出来事が交差する場面です。ですので、学者たちはこぞって、ルカの記述とローマ史の記録とを比較検討したのです。その結果、多くの聖書学者が、福音書記者ルカが書いていることは歴史的に正確なものとは言えないと結論づけ、さらにそうした議論の延長線上で、そもそも「イエス」などという人物も実在しなかった、それはキリスト者のでっち上げに過ぎないと言った主張さえも出て来ました。
ところが、その後、大きく学説は変わっていくことになります。考古学の発掘や、エジプト、その他の地域で発見された碑文などの研究が盛んに行われるようになったのです。その結果、これまでの学説が一つひとつひっくり返されていきます。そして今では、福音書記者ルカの記述の正しさが立証されて行くことになったからです。こうしたことを踏まえ、私たちがこの福音書を読む時に、決して見落としてはならないルカが私たちの目を向けさせようとしている点があります。それはアウグストゥスによる世界規模の歴史的人口調査が実施される最中に、世界の片隅の、ほんとうにひっそりとした夜に、もう一人の王、いや真の王である救い主イエスが誕生した。当時の世間では誰も知らない。それ故、誰からも祝われない仕方で誕生しました。ある人の言葉ですと、それを歴史的出来事としてスクープした新聞記者のように、自らの興奮を抑えつつ、しかし確信を持って、「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」と記録するのが福音書記者ルカだったのです。

Ⅳ.「神に栄光、地に平和」

さらにルカのスクープは続きます。その知らせを受けた最初の人が羊飼いたちでした。羊飼いとは、初めから住民登録の対象外の人でした。だから世間が人口調査でごった返している最中にベツレヘムの野で羊の番をすることが出来ていたのです。ではなぜ神さまは、羊飼いたちにまず御子の誕生を知らせたのでしょうか?結論を言えば、だれよりも彼らこそイエスさまを必要とする人たちだったからでしょう。
ところでルカは、主イエスの誕生に飼い葉桶が使われたことを伝えています。その理由は「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったから」とあります。「場所がなかった」とは、「迎え入れてはくれなかった」ということです。実はこれこそ羊飼いたちが経験していたことです。「お前なんか居ても居なくてもいい」と人々から扱われ、深く傷つく経験を何度もさせられていた。その彼らに、神さまは御子誕生の最初の知らせを伝えてくださったのです。
イエスさまがおられた場所はきっと臭かったでしょう。ただその「臭い」こそ羊飼いが身にまとっていた「香水」なのです。羊飼いたちからしたら全く自然な臭い、むしろホッとできるような香りだった。羊飼いたちが恐れることなく近寄ることができるように、しっかりと「野原の香水」をたっぷり浴びるようにして飼い葉桶に生まれてきてくださった。しかも赤ん坊の姿で生まれてきてくださった。神さまって何と優しいお方なのでしょう!
イエス・キリストはひっそりとお生まれになりました。それは、ひっそりと生きることしかできない人、片隅にしか居場所を見つけることができない人の救い主になるために、忘れ去られるような仕方で、本当に静かに生まれてくださったのです。そして、羊飼いたちに喜びの知らせを告げた天使たちは、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と歌ったのです。クリスマスの夜に、飼い葉桶の中に、オムツにくるまって、誰に認められることもなく、産声をあげているイエスさま。そのお方の誕生によって神の恵みの支配がこの世界に始まった。全ての人の救い主となり、まさに全ての顔から涙を拭おうとする神さまの闘いが、この時から始まったのです。私たちは、この王なるイエスさまの平和を実現する闘いに参与するように招かれています。その光栄と喜びを今日、もう一度、共に確認し、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」と賛美しながらの歩みを進めて行きたいと願います。
お祈りします。

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真のいのちをもたらすために

松本雅弘牧師
イザヤ書62章6-12節、ルカによる福音書2章1-20節
2019年12月22日

Ⅰ.あらすじ

ルカ福音書2章1節以下には、イエスの誕生について、2つの場面設定の中で記録されています。
第1の場面は1節から7節で、ルカはイエスの母マリアと父ヨセフがナザレに住んでいたのに、何故イエスがベツレヘムで誕生したのかの理由を説明しています。それは住民登録のためでした。ヨセフの家系はダビデ王の子孫でしたのでベツレヘムへ帰省しなければならなかったわけです。その距離、約120キロ、クネクネ道を計算に入れると160キロと言われます。マリアは住民登録で訪れたベツレヘムでイエスを出産しました。第2の場面は8節からです。イエスさま誕生の知らせがどのようにして伝えられていったのかが出て来ます。
天使たちは、この幼子誕生の興奮を抑えることができなかったのでしょう。天使たちに天の大軍が加わり、神を賛美して歌い出しました。さらに話は続きます。羊飼いたちは天使の知らせを信じ、確かめるためにベツレヘムへと向かったのです。そしてイエスを見つけ、天使たちが語ったこと全てをマリアとヨセフに伝えました。
このように彼ら羊飼いたちこそが、イエスが長く待ち望まれた救い主であると告げ知らせる最初の人々となったのです。

Ⅱ.羊飼いのクリスマス

実は、羊飼いたちは人口調査の対象外の人々です。ですから人口調査で世の中がごった返している最中、いつもと同じように、野で羊の番をしていたのです。
ルカ福音書によれば、神が最初に御子の誕生の喜びを伝えたいと思ったのは、他でもない、人口調査対象外の羊飼いたちだったのです。それは、他の誰よりも、彼らこそがイエスを必要とする人たちだったからなのではないでしょうか。神は、羊飼いたちこそクリスマスの良き知らせを誰よりも必要としているとお思いになられたのです。
このような中で誕生された御子が、成人した時に語られた「ぶどう園と労働者のたとえ」を思い出しました。朝からずっと待って午後5時になって、やっと雇われた労働者がいました。彼らはぶどう園に呼ばれてやって来たものの、働き始めてすぐに外は暗くなり作業は終了です。
さっきまで「今日、仕事を貰えなかったらどうしよう」と心配して広場に居たのですが、やっと与えられた仕事も1時間も経たない内に切り上げなければならない。「1時間しか働かせて貰えなかった。賃金はもらえるのだろうか」と別の心配で心が一杯になったのです。
ぶどう園の主人にたとえられている神は、最後に雇われた労働者をまずご自分の前に立たせ「ご苦労様。これが約束の賃金、1デナリオン。あなたと家族に祝福があるように」と、みんなと同じように祝福してくださったのです。
これがイエス・キリストの神であり、そうした神だからこそ、クリスマスの喜びの知らせを、この時代、一番必要としていた羊飼いたちに伝えてくださったのです。それは、彼らが神に愛されている尊い者として胸を張って生きて行って欲しかったからです。
そのために、イエス様は羊飼いたちが一番近づき易い家畜小屋に誕生されたのです。きっと動物臭かったと思います。使用中の飼い葉桶に寝かされたわけですから。でも考えてみればその「香り」こそが、羊飼いが身にまとっていた「香水」です。彼らにとって馴染みの匂い。ホッとできるような香りです。
この時、ベツレヘムの羊飼いたちが育てていた羊は、エルサレム神殿で奉納物として捧げられる羊であったと言われていますから、よくよく考えてみるならば、羊飼いたちは人間扱いせず嫌がっていた人々のために汗を流し、野宿をし、大事に育てていたのだから、本来ならば感謝されてもおかしくないはずなのに、嫌がられ、排斥されていたのです。
恐れを感じている羊飼いたちが、そして、私たちも恐れることなく近寄ることができるように、御子イエス・キリストは、このように赤ん坊として生まれてきてくださったのです。羊飼いがやって来た時に、「場違いなところに来たなあ…」と感じないように、しっかりと「田舎の香水」「野原の香水」をたっぷり浴びるようにして、家畜小屋の飼い葉桶に誕生されたのです。何と優しい神さまなのでしょう!
人は、優しくされ、大事にされていることを実感すると、初めて自分と向き合う力が与えられ、自分を大事にすることが出来ます。
たびたびお話しすることですが、子どもたちが人生の土台を据える大切な時期に、一人ひとりが、自分は神さまから愛されている存在なのだ。友達も、みんな神さまから大事にされているお友達なのだ。そのことを、家族の触れ合いの中で。教師との触れ合いなどを通して実感して欲しいのです。そうすれば決して自分を粗末にしませんし、お友達を大切にする人になります。そして、自分を心から愛してくださる神さまを愛する子どもとして成長するのです。そのことを聖書から教えられるからです。
本当に不思議ですが、私たちは愛されていることを知ると人に優しくなれます。逆に冷たくされると相手を恨み、叩かれたら叩き返したくなる。殴られたら〈いつか見ていろよ!〉と復讐心に燃え、そこから悪の連鎖が始まり闇は深まるのです。民族や国家のレベルでも同じです。

Ⅲ.闇の中に飛び込んで来られたイエス・キリスト

「クリスマス」と言うと、何か牧歌的なイメージがあります。でも「現実は?」と言えば、イエスさまの時代も、正に激動の時代だったと思います。冷静になって考えてみればすぐ分かります。皇帝の勅令で、身重の女性も有無も言わせず長旅を強いられる時代です。旅先で生まれた嬰児が飼い葉桶に寝かされるような時代です。
マタイ福音書では、時の為政者ヘロデの心に生じたちっぽけな「不安」のために幼児大虐殺が行われ、イエスさまの家族も「政治難民」としてエジプトに避難しなければならない時代でした。そのような意味で闇の深い時代だったのです。
その深い闇の只中に御子は誕生されました。このことをヨハネは彼の福音書の冒頭で、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ1:5)と書いています。「闇は光に打ち勝たなかった」のです。
クリスマスの時期になると、時々、思い出すお話があります。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』です。芥川は、地獄の底で多くの罪人がうごめいている中にカンダタという男がいたと語り始めます。彼は人殺しや放火をした大罪人でしたが、一度だけ蜘蛛を殺さずに助けたことがあったので、お釈迦様がこのことを思い出し、彼を救うために地獄の底に蜘蛛の糸を垂らしたというのです。
でも真の神は、糸だけ垂らし、それで善しとする方ではなく、神自らが赤ん坊の姿をして闇の中に飛び込まれたのです! カンダタのような私たちを救い、共に生きることを決意し、地獄のようなこの闇深き世界に飛び込み、喜びと悲しみを分かち合い、十字架の死と復活をもって救いの道を拓いてくださったのです! その始まりの祝いがクリスマスです。

Ⅳ.真のいのちをもたらすために

十字架の出来事の前日、主イエスは弟子たちの足を洗い、過ぎ越しの食卓を囲み、一連の説教を語った最後に、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)と勝利宣言をされました。
私たちは、イエスさまの弟子として、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈り、そのように生活するようにと励まされている者たちです。確かに、この社会の現実、私たちの生活には、神さまの御心とは程遠い現実があります。様々な苦闘があり、苦戦を強いられます。でも、そうしたことを含め全てをご存じのイエスさまが、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と勝利宣言をしてくださっているのです。
あの預言者イザヤが、預言者エレミヤが、そして預言者ミカが預言したとおりに、2千年前のクリスマスに、ベツレヘムに、ヨセフの家系に、マリアの胎を通し、イエスという名のメシアをお送り下さった。聖書の預言、聖書の約束が実現したのです。そして、これからも、主御自身が聖書に記されている一つひとつの約束を必ず実現してくださる。そのことが必ず起こっていくのです。私たちは、2019年を後にし、2020年に向かって行きますが、神の御心が少しでも私たちの周りや家庭に、私たち自身のうちに実現する方向に選び取る生き方を求めて行きたいと願います。
来週が今年最後の礼拝となります。その三日後から新しい年が始まります。
新しい年、何が起こるか予測不可能かもしれません。でも、最終的に歴史を支配されているお方は、私たちの天のお父さんです。そのことを心に留め、安心して新しい年をそのお方の御手から恵みとして受け取らせていただきたいと願います。
お祈りいたします。

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悲しみの中でのクリスマス

 

2018年12月23日
クリスマス礼拝
松本雅弘牧師
エレミヤ書31章15~21節
マタイによる福音書2章13~23節

Ⅰ.クリスマスの恵みのなか1年を締めくくる

クリスマスおめでとうございます。毎年のことですが、1年の終わり近くにクリスマスを迎え共に礼拝を捧げます。改めて、そのことは深い恵みだと思うのです。なぜなら、御子のご降誕の出来事を覚えながら、その光の中で1年の歩みを振り返ることができるからです。福音書の記者ヨハネは、クリスマスの出来事を「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)と表現しました。
1年を振り返る時、ある人にとっては苦しいこと、悲しいことが多く、まさに深い闇を行くような日々だったかもしれません。
私にとっては、共に信仰生活を、また教会の奉仕を担って来た信仰の友を、次々と天に送ったのが今年である、というのが実感です。
一方で、手ごたえを感じ、将来の見通しに明るさを覚える、そんな年として2018年を振り返っている方もおありかも知れません。
ただ、私たちの心の中にある一人ひとりの思いを超えて共通するのは、主イエスの光、恵みと憐みの中で1年間を生かされてきたという実感なのではないでしょうか。
クリスマスの主イエス・キリストは「インマヌエル(神は我々と共におられる)」という名で呼ばれるお方なので、生活の全ての領域に、実は主が共にいてくださったのです。
信仰の目をもって見る時、そこにインマヌエルの主がおられた。そこに、光なる神を見出すことができる。そのことを今朝も感謝したいと思います。

Ⅱ.悲しみの中でのクリスマス

さて、私たちは今年、マタイ福音書を中心に、アドベントの季節を過ごしてまいりました。
先週の第3アドベントでは、主イエスの誕生に際して、喜んでいいはずのユダヤの人々は無関心、無感動であったのに対し、救いの枠外と考えられていた東方からやって来た異邦人、しかも星占いを職業とする者たちだけが、大きな喜びに満たされ、御子を礼拝したことを学びました。
その礼拝の翌日の月曜日、「心揺さぶられました」という件名で一通のメールが届きました。教会員の方からのメールです。
その方は、数年前、自分は大きな病を患った。病院の無菌室棟で、体力がゼロ、全く何も出来ない状態の中で、その時はじめて、神さまはこのままの私を愛してくださっている、ということを知らされ、それが実感として迫ってくる経験をしたのだそうです。そして、神さまの恵みの中、病が癒され、体力も少しずつ回復していった。ところが、時の経過と共に、その時、自分の心の中にあった神さまへの感謝の思い、感動が少しずつ薄らいで、こうして信仰が与えられていることが何か当たり前のようになっている自分を突きつけられ、気づかされた、と綴られていました。
説教の中で私は、ヘブライ人への手紙4章の御言葉を引用しました。
「その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。」(ヘブライ4:2)
預言者が遣わされ、神の言葉を与えられる、という特権に与っていたユダヤの人々の現実です。
聖書に関する質問をされれば、たちどころに正解を述べることの出来る、律法学者、祭司長たちが、ヘロデ王の「メシアはどこに生まれることになっているのか」という質問に対して、即座に「ユダヤのベツレヘムです」と答え、しかも預言者ミカの言葉を正確に引用しながら丁寧に説明できたのです。ところが、それで御終いです。
彼ら律法学者たちは、〈これは一大事! 私たちの救いの問題だから、東の国からやって来た、それも占いの教師たちなどに任せておくことなどできない。さあ、すぐに行きましょう〉と言って立ち上がってもよかったのです。
ところが、立ち上がることも動くこともしませんでした。聞いた言葉が役に立たなかった典型的な例です。そうした彼らの姿を通して私たちは、もう一度、自らの信仰の自己吟味を迫られたことです。
ところで、ルカ福音書のクリスマスストーリーは、数々の賛美の歌や喜びの場面が繰り広げられ、喜びという色彩が強いように思います。それに対して、マタイが記した福音書は、ルカ福音書とは対照的に、喜んだのは東からやって来た星占いの先生たちだけでした。「イエス・キリストの系図」、「ヨセフの葛藤」、そして、占星術の学者たちから得た情報によって、ヘロデ王の心に不安がよぎる、と続きます。
そうした中で誕生されたイエスさまたちはどうしたかと言えば、ヘロデ王の幼児虐殺を免れ、エジプトへと避難します。そこでの難民生活も大変だったと思います。そして、再びガリラヤのナザレへの引っ越しです。次から次へと困難と危険に襲われます。しかも、どの出来事1つを取っても、幼子の成長にとってネガティブなものばかりです。
このように、クリスマスの出来事とは、喜びや明るさというよりも、悲しみや暗さに覆われているということを、改めて知らされます。このことを考える時、私は、その中に私たち人間の、イエスに対する拒絶というものがあるからなのではないかと思うのです。
それは、自分が自分の王様、自分が自分の主人として生きている、それが私たちだからです。ですから王の王、主の主として来られた御子を受け入れることに対して、私たちは当然、物凄い抵抗感を覚えるのです。
「拒絶」という視点でクリスマスにまつわる聖書の記述を見ていくと、一つの流れとして読めて行けるのではないかと思います。
生まれた時から、いやマリアの胎の中に宿る時から拒絶がありました。誕生してからは本当に激しい拒絶の連続です。エルサレムの人々をはじめ律法学者や祭司長たちの無関心、ヘロデに至っては、拒絶の究極である殺意を抱き、幼子の命を抹殺しようと実行に移すのです。
そしてもう1つ、聖書全体の視点から御子の誕生を見る時に、飼い葉桶の時から主イエスの歩みは苦難の僕としての歩みでありました。まさに飼い葉桶と十字架は初めから1つだったのです。
教会学校で、生徒たちが聖誕劇をやる場合、誰が何の役をするかでもめるということをよく聞きます。なかでも最後までの決まらないのがヘロデ王役だと言われます。ではヘロデは一体何をした人なのでしょう。
学者たちにだまされたことを知って、ヘロデ王は幼児虐殺というほんとうに残忍な行為に出たのです。実は、ヘロデは身内の者、我が子をも殺した人物として有名です。ヘロデに目をつけられたら殺されるのです。
ところが聖書は、これほどまでに残忍なヘロデの手から、幼子イエスは逃れることができたと伝えます。

Ⅲ.ヨセフを支えた神の御手の確かさ

勿論、そのために大切な役割を果たしたのがヨセフであったことを忘れてはなりません。幼子の命が守られるために、ヨセフは立派に父親としての召しに生きたからです。躊躇なく神に従い、愚直なまでに御言葉に従う、このヨセフの姿に、同じ信仰者として学ぶところが大きいと思うのです。
ただ、ここで決して忘れてはならないことがあります。それは、こうしたヨセフを超えて、彼をしっかりと導いた神がおられたこと。その導きの確かさがあったのだ、ということです。

Ⅳ.インマヌエルと呼ばれる主が共におられる

イザヤ書にこのような御言葉があります。「わたしの手は短すぎて贖うことができず、わたしには救い出す力がないというのか」(イザヤ50:2)
そんなことはない、と神は言われるのです。神の確かな御手、力強い確かな御腕が歴史を導き、私たち一人ひとりの上にも伸ばされている。その御手の導きの中で、ヨセフもマリアも、そして幼子イエスさまも守られたのだ。
そして私たち一人ひとりも例外ではない。この2018年を振り返ってみる時に、いや、今までの人生の歩みを顧みる時、そこには、神の力強く、そして優しい御手の導きがあったのです。
そのことを、信仰者である私たちは感謝をもって告白することが許されているのです。
マタイはそのことを私たちに伝ています。御子イエスの名が、「その名はインマヌエルと呼ばれる」/「神は我々と共におられる」(1:23)と記すのです。
神がインマヌエル、神は我々と共におられるお方ならば、私たちの人生における全ての出来事、私たちの生活の全ての領域、そこにも主イエスが共にいてくださるということです。
不意を突くような場面でも、実は神さまが共におられた。そのことを私たちは信じ、期待して生きることが許されている。いやもっと言えば、主イエスが共にいてくださるから、大丈夫だ、と私たちは聖書を通して、神から、そのようなメッセージをいただいているのです。
私たちは、その御言葉の約束を、信仰によって自分自身に結び付けるようにして聴かせていただきたいのです。
どのように激しい苦痛があっても、悲痛なことがあっても、神が、主イエスにおいて私たちと共にいてくださる。だとすれば、すべてのことを神さまがご存じであり、万事が相働いて益となるように導いておられる。(ローマ8:28)そう確信してよいということです。
インマヌエルと呼ばれる主イエス・キリストによって、そのような神との確かな結びつきが始まっています。
来る2019年も、都エルサレムから主イエスを締めだしたユダヤ人のようにではなく、自分の心の王座に、主イエス・キリストを唯一の主としてお迎えして、主が始められた、闇に光を灯す働きのために、それぞれの賜物に応じて用いられるものでありたいと願います。お祈りします。

カテゴリー
クリスマス礼拝 主日共同の礼拝説教

まことの命をもたらすために

2017年12月24日
クリスマス礼拝
松本雅弘牧師
イザヤ書62章6~12節
ルカによる福音書2章1~20節

Ⅰ.あらすじ

今日の朗読箇所は2つに分けて読むことが出来ます。この福音書を書いたルカは、前半で、元々はナザレに居住していた妊婦マリアが、何故ベツレヘムで出産することになったのかの理由を説明しています。住民登録がその理由でした。第2の場面では、御子誕生の知らせがどのようにして伝えられ外の世界に拡がっていったのかが出て来ます。羊飼いたちがその知らせの担い手となりました。

Ⅱ.羊飼いのクリスマス

羊飼いは、初めから人口調査の対象外でした。ところが福音書を書いたルカは、神が御子の誕生の喜びを最初に伝えたいと思ったのは他でもない彼ら羊飼いたちだったと伝えるのです。それは、彼ら羊飼いこそが、誰よりもイエスさまを必要とする人たちだったからです。
数にも数えられない人、「お前なんか、居ても居なくてもいい」と人々から見られ、それ故、深く傷つく経験を何度もしてきた羊飼いたちに、神は、御子誕生の出来事を最初に知らせてくださいました。羊飼いたちこそクリスマスの良き知らせを誰よりも必要としているとお思いになられたからです。
イエスさまは、羊飼いたちが近づき易い家畜小屋に誕生されました。
知らせを受けた羊飼いたちは、「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」のです。ルカはイエスさまの誕生に飼い葉桶が使われた理由として、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と伝えています。「場所がなかった」とは「迎え入れてくれなかった」ということです。飼い葉桶のある家畜小屋、それは羊飼いたちにとって馴染みの臭いのする、ホッとできるところだったでしょう。
「近寄りがたい」という言い方があります。それは、相手がそうしたオーラを出しているということもあるでしょう。しかし、近寄る私たちの側に「引け目」や「恐れ」の思いがある時、なかなか近寄ることが出来ないものです。この時の羊飼いもそうでした。住民登録の対象外とされていた人たちでした。もし人々に近寄ったら「お前たち、臭いな! あっちへ行け!」と言って追い返されるような存在でした。
しかしこの時、ベツレヘムの羊飼いたちが育てていた羊は、神殿で奉納物として捧げられる羊でしたから、羊飼いたちは、自分たちを排斥している人々のために汗を流し、野宿をして羊を育てていました。本来ならば感謝されてもおかしくないはずなのに、嫌がられ排斥されていたのです。
御子イエス・キリストは、そうした「引け目」や「恐れ」の中にいる羊飼いたち、そして私たち誰もが、恐れることなく近寄ることができるように、赤ん坊として生まれてきてくださったのです。しかも、羊飼いがやって来た時に、恐れを感じなくてよいように、「田舎の香水」「野原の香水」をたっぷり浴びるようにして、家畜小屋の飼い葉桶に誕生されたのです。何と優しい神さまなのでしょう!
人は優しくされ、大事にされていることを実感する時、初めて自分と向き合う力が与えられ、自分を大事にすることが出来るのです。みどり幼稚園でよくお話しすることですが、子どもたち一人ひとり、人生の土台を据える大切な時期に、自分は神さまから愛されている存在なんだ、お友達も、みんな神さまから大事にされている一人ひとりなんだ、と知ること。そのことを、教師との触れ合いの中で、日々の保育を通して実感して欲しいと願っているのです。そうすれば決して自分を粗末にしませんし、お友達を大切にする人になります。そして、自分を心から愛してくださる神さまを愛する子どもとして成長していくのです。
そのことを今日の御言葉からも教えられます。神様は弱さや引け目を覚えるような私たちが恐れを感じないで近づくことができるように小さな赤ちゃんとして生まれ、その愛を示してくださいました。
繰り返しますが、本当に不思議です。私たちは愛されていることを知ると、人に優しくなれます。逆に冷たくされると相手を恨み、叩かれたら叩き返したくなる。殴られたら〈いつか見ていろよ!〉と復讐心に燃え、そこから悪の連鎖が始まり、闇は深まるのです。民族や国家のレベルでも同じです。

Ⅲ.闇の中に飛び込んで来られたイエス・キリスト

今年ほど、戦争を身近に感じた年はありませんでした。隣国の北朝鮮の動き、また、トランプ大統領の言動にはいつもハラハラさせられます。そして「平和憲法」と呼ばれ、私たちにとって本当に大切で、誇りでもある日本国憲法の改正の声が大きくなってきています。
今年、中会主催の平和講演会で学びましたが、自民党の憲法改正草案を見る時、国家権力を縛る目的で制定された「憲法」が、国民の権利を制限する内容になっているのです。本当に驚きを覚えます。本末転倒です。
新年度の防衛費も過去最高を記録しました。「抑止力」という言葉を耳にしますが、早い話、ピストルを突きつけて相手を脅し、動けなくしているに過ぎません。恐怖心、猜疑心、腹の探り合いです。
しかし聖書の神さまは、「剣を鋤とし、槍を鎌とし、洪水のように、正義を流せ」とお語りになります。隣国との軍拡競争の土俵から「一抜けた!」と降りてしまい、丸腰になって、相手の真実な心に忍耐強く訴えて行け、と語るのです。
まさに、そのようにして私たちの主イエスさまは、自ら剣や強さを身にまとう代わりに、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカ2:11-12)とある通り、御子は布にくるまっていたのです。この布とは「おしめ」だと言われます。それが救い主メシアのしるしだ、と天使は羊飼いに告げたのです! このお姿の中に、平和の君なるイエスさまが示された、平和の道のモデルが表されているように思います。
「クリスマス」と言うと、何か牧歌的なイメージがあります。でも「現実は?」と言えば、イエスさまの時代も、まさに激動の時代だったと思います。冷静になって考えて見ればすぐ分かります。皇帝の勅令で、身重の女性も有無を言わせず長旅を強いられる時代です。旅先で生まれた嬰児が飼い葉桶に寝かされるような時代です。
また、時の為政者ヘロデの心に生じたちっぽけな「不安」のために幼児大虐殺が行われ、イエスさまの家族も「政治難民」としてエジプトに避難しなければならないような時代でした。そのような意味で闇の深い時代だったのです。その深い闇の只中に御子は誕生されました。
このことをヨハネは彼の福音書の冒頭で、「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:5新改訳)と書いています。

Ⅳ.まことの命をもたらすために

私たちの信じているお方は、「できないことなど、何一つないお方」です。イエスさまが十字架におかかりになる前日、ある家の2階座敷で、弟子たちの足を洗い、過ぎ越しの食卓を囲み、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」「わたしにつながっていなさい。」「ぶどうの木から離れては、何も出来ないのだから」。そして「互いに愛し合うように」と一連のお話をなさいました。そしてその終わりに、イエスさまは次のように言われたのです。
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33) イエスさまによる「勝利宣言」です。
私たちは、イエスさまの弟子として、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈り、そのように生活するようにと励まされている者たちです。確かに、この社会の現実、私たちの生活には、神さまの御心とは程遠い現実があります。様々な苦闘があり、苦戦を強いられます。でも、そうしたことを含め、全てをご存じのイエスさまが、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と勝利宣言をしてくださっているのです。
あの預言者イザヤが、預言者エレミヤが、そして預言者ミカが預言したとおりに、2千年前のクリスマスに、ベツレヘムに、ヨセフの家系に、マリアの胎を通し、神さまはイエスという名のメシアをお送り下さいました。聖書の預言、聖書の約束が実現したのです。
そして、これからも、主御自身が聖書に記されている1つひとつの約束を必ず実現してくださる。そのことが必ず起こっていくというのです。
2017年を後にして、私たちは新しい年に向かって行くのですが、神さまの御心が、少しでも私たちの周りに、家庭に、私たちのうちに実現する方向に選び取る生き方を求めて行きたいと願います。
来週が今年最後の主の日の礼拝、その翌日から新年です。新しい年、何が起こるか予測は不能です。でも最終的に歴史を支配されるのは、私たちの天のお父さんです。そのことを心に留め、安心して、新しい年を、そのお方の御手から恵みとして受け取らせていただきたいと願います。お祈りいたします。