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十字架の死

ヨハネによる福音書19章16節後半−30節
宮城献副牧師

1. 十字架の彼ら

 

今日は、キリストが十字架にかけられ、亡くられたことを覚える受難日です。教会にとって、大切な一日です。そして、キリストの死を覚えるために、高座教会でも、歴史の教会に倣って、講壇や聖餐卓の上を、受難日は、黒の布で覆っています。今年は、ともに礼拝堂に集まることが出来ませんが、実際の礼拝堂では、黒の布で覆いました。
確かに、私たちは、今、ともに、私たちのその身をもって、礼拝堂に集まることは出来ません。だから、礼拝堂の様子が変わろうとも、だから、どうしたのだと思うかもしれません。そして、何より、私たちは、今、日常と違った日々を送らなければなりません。ですので、この先行きが見えない中、この後、世界はどうなってしまうのかと不安に思ってしまいます。
でも、そのような中で、今、立ち止まって覚えたいことは、昨年と同じように、今日も、高座教会の礼拝堂を黒の布が覆っています。そして、今、この教会に連なるお一人おひとりが、それぞれの場所で、ともに心を合わせて、キリストの十字架を覚えているのです。私たちは、たとえ、その肉体が離れていようとも、主の十字架を見あげることで、一つになれるのです。そして、それは、高座教会だけのことでもありません。今、この病で、全世界が分断されてしまいました。でも、全世界の教会が、今日、ともに、主の十字架を見あげます。私たちは、十字架にあって一つなのです。この十字架の慰めを覚えながら、今日のみ言葉をともに聞いていきましょう。
19章16節以降では、まず、具体的な人が出てこないことに気づかされます。他の福音書では、イエス様の代わりに十字架を背負ったキレネ人のシモンが登場しますが、ヨハネでは、出てきません。また、16節では、イエス様を十字架に架けるために引き取った「彼ら」、18節でも、イエス様を十字架につけた「彼ら」とあって名前は記されていません。さらに、他の福音書では、イエス様とともに十字架に架かった二人は、強盗と紹介されていますが、ヨハネでは、「他の二人」とだけ記されています。
では、なぜイエス様の十字架に関わった人たちが、このように簡潔に語られているのでしょうか。それは、ヨハネの強調点が、イエス様の十字架は、具体的な誰だれ、ということではなく、全ての人が関わる問題なのだ、ということにあります。イエス様の十字架は、ユダヤ人だけではなく、また、ローマ人だけではなく、祭司だけによるものでもなく、ピラトだけによるものでもなく、全ての人が関わる出来事なのだということです。そして、それは、今、このみ言葉を聞く、私たちにも関わる出来事だ、ということでもあります。

2. 兵士と女性

 

そして、このヨハネの強調点に立って、今日は、23節以降も捉えていきたいと思います。確かに、23節以降、十字架に関わった人々の具体的な輪郭が示されていきます。ヨハネは、十字架のもとにいる二つのグループを描いているのです。ヨハネは、印象的に、四人の兵士と、四人の女性を記しています。けれど、十字架の前にいる彼らの姿を見ていきますと、彼らを通して、不思議と、私たちも、キリストの十字架の前に立たされていることを覚えるのです。
兵士たちは、イエス様を十字架に架けた後、イエス様の服をむしり取り、それを四等分に分けた、というのです。世界の救い主が、今、十字架で死のうとしている。そんなことは自分に関係ない。衣服を奪い取り、私腹を肥やすことにしか関心が無い。十字架を前にした哀しい人間のあり様です。
でも、彼らだけではないのです。今日は、主の十字架を見あげる受難日です。でも、それにも関わらず、自分のことにしか関心が持てない、自分の生活のことしか考えられない。確かに、今、私たちは不安で押しつぶされてしまいそうです。でも、それでも、彼らの姿を通して、私も今、十字架の主の苦しみから目を離しているのではないかと問われます。
一方、ヨハネは、十字架の前で、十字架を見つめ続けた、四人の女性たちを描いています。もちろん、ここで、イエス様の愛する弟子、このヨハネ福音書を記したヨハネ自身ではないかと言われていますが、一人の男性の弟子も登場します。でも、他の男性の弟子たちは、一人もいません。そして、ここで、四人の兵士と四人の女性が対になっているように、十字架を見あげ続けた「女性」に焦点が向けられています。今この様な中でも、十字架を見上げる続けるご婦人たちの敬虔な姿を、私は思わされます。
また、その中で、イエス様は、母であるマリアに対して、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です。」(26節)さらに、イエス様は、愛する弟子に向かって、「見なさい。あなたの母です。」(27節b)とおっしゃられました。そして、27節の最後で、「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(27節c)とあります。残される年老いた母を思い、信頼に置く弟子に、その母の世話を託した、イエス様の愛が麗しく描かれています。
ただ、今日は、そのようなイエス様の愛の姿に視点を向けるだけではなく、主の十字架を通して、この出来事を覚えたいのです。イエス様と母マリアとのやり取りは、ヨハネの福音書では、まず、カナの婚礼で描かれています。イエス様が、結婚式の中で、水をぶどう酒に変えられた奇跡の場面です。せっかくですので、その一節を開きたいと思います。2章4節です。新約聖書の165頁です。お手元に聖書がある方は、ぜひお開き下さい。ヨハネによる福音書2章4節、新約聖書の165頁です。お手元に無い方は、私が、ゆっくり読みますので、どうぞお聞き下さい。お読みします。

イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

ぶどう酒が無くなって困る、母マリアに対して、イエス様は、素気ない態度を取られているなと思わされます。でも、今日の箇所と重ねて読んでいきますと、気づかされることがあります。2章4節では、「わたしの時がまだ来てい」ない、とイエス様は、おっしゃられていますが、その時とは、十字架の時です。そして、その時が来たら、新しいかかわりが生まれる。それは、十字架によって、神の家族が生み出される、ということです。マリアは、十字架の前で、愛する弟子のヨハネと神の家族になったのです。
そして、これは、マリアとヨハネだけのことではありません。十字架の前に集う私たちは、もともとこの世での繋がりはありませんでした。けれど、キリストの十字架の御前で、私たちは、教会という神の家族が与えられたのです。
では、私たちを一つにする十字架とは、どういったことを意味しているのでしょうか。

3. 究極的な愛の実現

 

30節にありますように、十字架上で、最後、イエス様は「成し遂げられる」と語られています。そして、この「成し遂げられる」という言葉は、「終わり」や「究極」といった意味の「テロス」という言葉がもとになっています。そして、その言葉が、ヨハネの福音書では一回だけ出ています。この祈祷会の初日の箇所、最後の晩餐が描かれた13章1節に、です。この言葉を、新しい聖書(聖書協会共同訳)が、とても良く訳していましたので、そちらをお読みしたいと思います。ゆっくりとお読みしたいと思いますので、注意してお聞き下さったらと思います。

過越祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた。

今、お読みした後半、「最後まで愛し抜かれた」の「最後」に、その「テロス」という言葉が用いられています。そして、この箇所の後、イエス様は、弟子たちの足を洗われ、弟子たちを愛されたのです。でも、その後、ユダの裏切りが語られます。けれど、それでも、互いに愛し合うようにという掟を示されました。そうして、イエス様は、十字架に架かったのです。そうやって、成し遂げられたのです。何をでしょうか。それは、テロスに至る愛、つまり、究極的な愛をです。
では、誰を愛されたというのでしょうか。それは、弟子たちを。私たちを。そして、この世界の全ての人を。そうして、この愛ゆえに、つまり、イエス様が、友を愛するがゆえに、命を捨て、血を流され、私たちの罪が洗い清められたのです。そうやって、私たちを、イエス様は、最後まで愛し抜かれたのです。これが、十字架の意味です。

4. 愛の勝利

 

また、説教を備えながら、ヨハネの福音書が語る十字架の壮大さに驚きを覚えました。イエス様が、十字架の意味について語る箇所が、12章32節に記されています。新約聖書の193頁になります。どうぞお開き下さい。また、お手元にない方は、ゆっくり私が読みますので、お聞き下さい。新約聖書193頁、ヨハネによる福音書12章32節です。

わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

イエス様は、十字架の御前に、全ての人を招かれているというのです。招かれているのは、弟子たちだけでないというのです。十字架を見あげていた、四人の女性たちだけでもありません。十字架の前で、十字架を見つめなかったローマの兵士も招かれているのです。なぜなら、全ての人の罪を赦すために、イエス様は、十字架に上げられたからです。もちろん、この十字架が自分のためだったと信じるか信じないかは別のことです。けれど、それでも、十字架は、全世界の全ての罪人を招いている。そして、その中に、私たちもいるのです。そうやって、私たちは、十字架の御前に招かれた罪人として、けれども、十字架ゆえに、罪赦された罪人として、私たちは、一つにされたのです。
今、私たちは、礼拝堂に共に集うことが出来ず、神の家族が離ればなれになってしまったと思うかもしれません。また、世界の国境は閉じられ、この世界も分断されてしまった様に思えてしまいます。けれど、そのような中で、今日のひと日、覚えたいことは、イエス様は究極的な愛を「成し遂げられた。」のです。もう既に、十字架によって、私たちは、イエス様のみもとに招かれ、一つにされたのです。この十字架の恵みに、堅く立って、どうぞ、イースター礼拝まで、それぞれが、それぞれの場所で、一つ思いになって、主の十字架を見あげて参りましょう。それでは、お祈り致します。

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大祭司の祈り

2020年4月9 日
ヨハネによる福音書17章1-26節
和田一郎副牧師

1、大祭司の祈り

 

今日の聖書箇所17章は、イエス様がお祈りしている箇所です。ヨハネ福音書における「最後の晩餐」(13~17章)は、イエス様が弟子の足を洗うという模範と、そのあとに続く「決別の説教」、そして、説教の締めくくりとして今日の箇所「祈り」が記されています。この祈りは、聖書に記されているイエス様の祈りの中で最も長い祈りです。その内容から「大祭司の祈り」と呼ばれています。御子であるイエス様が、父なる神様に私たちのために執り成してくださっている祈りだからです。イエス様は、神様と人間との間に立って祈っていて、人間の罪を担って神様に執り成しをされました。イエス様は、真(まこと)の神であり真(まこと)人でありましたが、この神様と人間との間に立たれるという大祭司の役割は、まさしく、神であり人というイエス・キリストには変えられない祈りです。

2、イエス様ご自身のための祈り

 

大祭司であるイエス様は、ご自身の十字架の死を前にして何を祈られたのでしょうか。1節に「父よ時が来ました」と言われました。この「時」というのは、十字架の時であり、その後に続く復活とペンテコステの時です。イエス様が地上にお生まれになってから、ずっとここを目指して歩んできた、その「時」です。さらにさかのぼると、天地が造られる前から定められていた神様の救いの御業が、長い年月を経て成される「時」です。その時がついに来ました。

イエス様は、「栄光を与えてください。」と、1節と5節で祈り求めています。イエス様が十字架を前にして、求めていたものとは、何よりもこの栄光です。そしてこの栄光は、神の独り子であるキリストが、父なる神様と共に天においてもっておられた栄光です。地上に来る前に持っていた栄光であり、天に昇られたイエス様が、神の右において持っておられる栄光です。このキリストの栄光は、父なる神様と一つの栄光ですから、父なる神様の御心と一つでもあるのです。イエス様は、十字架を目前にして、自ら十字架に架かることによってその栄光を現すのだ、と受け止めておられるということです。地上の生涯においては、真(まこと)の人として、栄光とはほど遠い姿で歩まれました。しかし、真(まこと)の神として、天において持っておられた栄光を十字架で現すのです。

イエス様は3節で、永遠の命について、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と言われます。

永遠の命とは、父なる神様とイエス・キリストを知ることだというわけです。ここでいう「知る」という言葉は、知識としてあの人を知っている、というような意味の「知る」ではありません。知るというのは、人格的な関係を意味しています。人格的に深く交わること、その方との深い信頼において、その方無しには自分本来の命はないと知ることです。それは「愛する」と、一言で言い換えてもよいと思います。父なる神様とイエス様を、深い人格的な愛の関係において生きる。それが永遠の命に生きるということです。

父なる神様とイエス様との深い交わりがあり、そこに私たちも加わることができる、その交わりこそが「永遠の命」なのだと言うのです。

3、弟子たちのための祈り

 

9節では「彼らのためにお願いします。世のためではなく、私たちに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです」と記されています。イエス様は、「私たちに与えてくださった人々のためにお願いします」と祈っているのですが、これは弟子たちのことを指しています。「世のためではなく」と、あえて言われてますが、ヨハネによる福音書の中で「世」と言った場合、それは神など必要としない、と思っている人々のことを指しています。しかし、それは決して「世」はどうでも良い、としていたのではないのです。順序として、まずは弟子なのです。これは、救いの秩序と言っても良いことです。神様は、いきなり世のすべての人を救うのではなく、まず弟子たち、それから弟子によってイエス様を信じるようになる人々、その人々が増え続けることによって「世」を救おうとされました。また、この祈りは、現代において、弟子たちの働きを担っている、私たちのために祈られた祈りとも言えます。

15節では「私たちがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」とあります。イエス様はご自身が十字架に架かって世を去ることを意識しており、そうなった時に、残された弟子たちの行く末を案じていました。

もし、弟子たちが信仰から離れてしまうというようなことになれば、誰が福音を福音として、この世に広めるのでしょうか。この重要な役割を与えられていたのが、最後の晩餐の席にいた、弟子たちです。ですから、イエス様は彼らのために「守られるように」と祈ったのです。

4、弟子たちの働きを通して救われる人々のための祈り

 

20節では、「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によって私たちを信じる人々のためにも、お願いします」と始まります。20節以降でイエス様は、弟子たちによって、イエス・キリストを救い主として信じるようになった人々のために祈りました。弟子たちによって彼らの言葉や、彼らの働きによって、イエス様を信じるようになった人々への祈りですから、教会のために祈られた祈りとも言えます。ここで分ることは、イエス様が私たちのために祈ってくださった、自分は祈られている者だ、ということ、そして、その祈りは、今現在においても祈られていると、知ることができるのです。

21節では、「父よ、あなたが私たちの内におられ、私たちがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私たちたちの内にいるようにしてください」と記されています。イエス様は、教会に繋がる兄弟姉妹が一つであることを祈ってくださっています。そして、三位一体である、父なる神様と独り子イエス・キリストの一体性を示しつつ、父なる神様と子なるキリストが一つであるように、教会を一つにしてくださいと言うのです。

三位一体の父なる神様と独り子キリストの一致は、まさに神秘的な統一性にありますが、「彼らも私たちの内にいるようにしてください」と続いているように、私たちが一つになるというのは、この三位一体の神秘的な一致の中に、父なる神様と独り子キリストとの、永遠の交わりの中に、私たちも入れられるという、これ以上にない恵みを示しています。先ほど、父なる神様とイエス・キリストを知ることは、人格的な愛の関係を生きる、それが永遠の命だと話しました。まさしく三位一体という愛の関係の中に、私たちも招かれている、素晴らしい恵みに与っているということなのです。

まとめ

 

今日のイエス様の祈りは、大祭司なるイエス様が、ご自身の祈りから始まって、私たち教会、私たち信徒一人一人を、父なる神様に執り成す祈りでありました。いつの時代でも、教会が一つになるところから、その愛が外に向かって溢れていきます。地域にいる困難を覚えている人、孤独な人、子どもたち、福音を必要とする人に向かっていきます。そのような教会の一致は、世の中に光を照らします。私たちが一つになって役割を担う姿を見ながら、世の中の人は、神様がイエス・キリストをこの世に送ってくださった意味をしることになります。救い主が、今も生きておられることを知るようになるのです。

イエス・キリストは、父なる神と、罪深い私たちとの間に立たれて、執り成してくださる方です。救いの御業のその時の為に大いなる犠牲を担ってくださいました。

その、主のご受難を覚えて、この一週間の日々を歩んでいきたいと思います。

お祈りをします。

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わたしは世に勝っている

2020年4月8日
ヨハネによる福音書16章25節-33節
松本雅弘牧師

Ⅰ.ヨハネ16章33節のキリストの勝利宣言

 

ヨハネ福音書16章25節から33節までで、ここには「キリストの勝利宣言」が記録されています。それを一言でまとめた、結論部分が33節です。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

ここで主イエスは、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである」と言われ、そして、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい」とおっしゃっています。

月曜日からヨハネ福音書を通し主イエスの受難の道行きを共に歩んでまいりました。この時、弟子たちはかなり追い詰められた状況にあったと思います。ですから1四章の冒頭で、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と弟子たちに向かってお語りになったということは、裏を返せば彼らが心騒がせていたからでしょう。

さらに、その直前に、ペトロと主イエスとのやり取りが書き記されています。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」という弟子のヨハネの投げかけに対し、主イエスは、「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは3度わたしのことを知らないと言うだろう」ときっぱりとペトロの要求を退けるのです。たぶん、そのようなやり取りを見聞きしながら、今、自分たちの主イエスさまが、ただ事ではない状況に立たされていることを、そこにいた誰もが感じ取っていたのではないでしょうか。そして、そのお方と一緒にいる自分たちの足元にも、実は大きな危険が及んでいることを感じていたのだと思うのです。そのよう場面です。そのような場面において、いったいどうして「平和を得られる」のでしょうか。「勇気を出せる」のでしょうか。その問いかけに対する主イエスの答えは「わたしは既に世に勝っている」ということ、つまり主イエスの勝利の事実がある。その現実に基づく平和であり勇気なのです。

Ⅱ.現在、私たちが直面している状況―コロナウイルス感染症拡大

 

この時の弟子たちもそうでした。そして私たちもそうです。私たちを取り巻く状況は、今、本当に大変な状況です。3月25日の夜、東京における新型コロナウイルス感染者が急増し、小池都知事が会見しました。翌26日には隣接する神奈川・千葉・埼玉・山梨県知事の会見、さらに翌日は愛知、岐阜の知事の会見が続き、爆発的感染拡大(オーバーシュート)の重大局面を迎えているとのことで、週末の外出自粛が強く要請されました。そして日本政府も対策本部を設置し、21日間の外出制限を伴う緊急事態宣言を発令する検討に入っています。つい1か月前まではなかなか自分のこととしてとらえることが出来なかったように思います。でも社会に景色が一変してしまったように思います。個人で事業をなさっている方が資金繰りに難しさに頭を抱える。3月に入った途端、就職の内定の取り消しの通知を受け、途方に暮れる学生のインタビューもありました。本当に大変なことです。まさに主イエスがおっしゃるように、「あなたがたには世で苦難がある」のです。しかもこれが日本社会だけではなく、全世界を覆っている現実です。

でも、どうでしょう。33節に「しかし」と形勢の逆転を告げる言葉の後に、「勇気を出しなさい」と、主イエスさまは励ましておられるのです。そしてそれは空元気ではなく実体のある勇気です。何故なら「わたしは既に世に勝っている」というのです。

Ⅲ.なぜ、勇気を持てるのか

 

主イエスは、私たちが心の目をもって見るべき現実を示しておられます。最終的には、主イエスにあって勝利が約束されているという現実です。そして主が勝利された相手とは、「世」です。それは神抜きの「この世」、その世界をつかさどる価値観や物の考え方、またそうした価値観や考え方に拠って立つところの権威の総称として使われている言葉です。

私は、この主イエスの勝利宣言を考えるときに、常に心に浮かぶイメージがあります。それは、あのオセロゲームです。黒と白のチップをゲームボードの上に並べ、自分の色で相手を挟むと、それが自分の色に変わり、最終的に多くを獲得した方が勝利者となる、そのゲームです。オセロゲームは、いかに四隅を自分の色のチップで固めるかでゲームの勝敗は決まります。ゲームの途中で劣勢に見えたとしても、四隅をしっかりと自分の色で押さえていれば、最後には不思議とほとんどのチップが自分の色にひっくり返って来る。

主イエスが、「わたしは既に世に勝っている」という言葉は、まさに私たちの人生の四隅にキリストが立ってくださっている。ですから、その序盤、中盤、終盤で劣勢のように見えるようであったとしても、最終的にキリストの勝利に与ることが出来る。私たちのうちに始めてくださった善い業はキリスト・イエスの日に完成させられると確信している、とパウロが語ったように、全てのものの回復、神の国の完成は時間の問題に過ぎない。何故ならば、主イエス・キリストご自身が、「わたしは既に世に勝っている」と宣言されているからです。

ですから、私たちに出来ることは何かと言えば、その御言葉を信じて、またその御言葉をお語りになったお方を信頼して、この厳しい時期にあっても、顔を上げて、勇気を出して生きる。行き詰っていても、最後は勝利するわけですから、私たちは真剣な中にも心のどこかに余裕やゆとりを持ちながら、歩んでゆくことができるのです。

このことをカール・バルトという神学者は、「究極の一つ手前の真剣さで」、「最後から一つ手前の真剣さ」で生きるという表現を使っていました。これが全てと思ったら、私たちは最高の真剣さで、その働きに取り組まなければならないでしょう。私の努力に全てがかかっているとしたら、必死にならざるを得ません。場合によっては、限界を超えて燃え尽きてしまうだってあるかもしれない。しかし、キリストは、「わたしは既に世に勝っている」、と言ってくださる。ですから、最後から一つ手前の真面目さ、真剣さで、神さまが生きるようにと遣わしてくださっている、家庭や学校や職場において、神さまからの召しとして一生懸命生きるのですが、その働きを最終的に完成へと導かれるのは主なる神さまですから、そのことを信じて、「究極の一つ手前の真剣さで」、事柄と向き合って生きていくのです。そこにおいて、神さまのお働きのお手伝いをさせていただいているからです。

Ⅳ.究極の一つ手前の真剣さで生きる

 

私たちは、このチャンスをものにしなければ、この試験に合格しなければ、この商談をまとめなければ、そうしたことに命がかかっているように錯覚することがあります。そのような錯覚をさせる判断の基準が、先ほどの「世」の意味でしょう。子どもの頃、受験生の時代は、社会のそうした価値観を鵜呑みにし、どこがエリート高校であるとか、一流企業であるとか、世間的な評価が高いか、ということ自体が、あたかも絶対的価値であるかのように受け入れていた時代があります。昔でしたら、全国画一の共通テストによって番付けに張られた、その秩序が、永久不変の価値を示すかのような、そんな価値観に縛られていたことがありました。世に勝つ信仰、キリストによって勝利された信仰に生きる私たちは、ある人の言葉を使うならば、そうした、この世的な価値基準や法則から自分を切り離し、独立宣言をすることなのです。そして私の本当の価値は、キリストの中に隠されていて、キリストが私の価値を発見してくださっている。神に造られたこと自体の中に、生きる価値が与えられている。言い換えれば、私たちの人生、この世における生活そのものが、すでにイエス・キリストの勝利によって担われ、支えられているからです。

今日の聖書箇所を読みますと、この時点で、主イエスが勝利を宣言されたということは、先ほども少し触れましたが、神さまが始めてくださった働きは、神さまが必ず完成してくださるという約束の中で生きることが許されている、ということです。

洗礼によって神の子とされた。いや、母の胎に居る時から、神さまに守られている。この私自身がキリストに似た者に変えられていくという計画、またその私たち高座教会を通して、この世界に神の国が拡がっていくという壮大な御計画は、表面的にはなかなか進んでいないように見えるときでも、しかしキリストはすでに勝利された。この世界の四隅に復活のキリストが立っておられる。

ヘブライ人への手紙には、主イエス・キリストを指して、「信仰の創始者であり、完成者であるお方」と告白しています。キリストこそが創始者であり完成者である。だから、ご自身が手を付け始めてくださったお働きは、定められた時に、必ず完成させられるからです。

確かに今、私たち自身を見ても、教会を見ても、そしてこの社会全体を見ても、課題の大きさ、多さに圧倒されてしまいます。コロナウイルス感染はいったいいつになったら収まるのでしょう。世界の誰一人として予測できる人はいません。

でも、神はその独り子をお与えになるほどに、ご自身がお創りになった、この世界、私たち人類を愛しておられるのです。だとするならば、すでにこの状況からの救いのために、主は着手しておられる。そして主が手を付けてくださったのなら、手が付けられた働きは必ず完成する。ですから私たちは、勝利を信じて、宣言されたお方を信頼し、究極の一つ手前の真剣さで、主に託されているキリスト者としての自分の命、また責任を引き受けて歩んでいきたい。いや、引き受けて生きることができる。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。お祈りいたします。

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心を騒がせるな

2020年4月7日
ヨハネによる福音書14:1−21
宮城献副牧師

1.心騒ぐ中で

 

「心を騒がらせるな。」というみ言葉が、受難週祈祷会の二日目、私たちに、与えられました。日々、新型コロナウィルスの報道を聞き、心を騒ぐ、この時に、この御言葉か、と、説教の備えをしながら思わされました。けれど、この御言葉を聞いた時の弟子たちも、同じような心持ちだったのではないでしょうか。ヨハネによる福音書の14章の舞台は、13章から続く、最後の晩餐の席上になります。そして、昨日、和田先生の説教でともに見て来ましたように、13章では、イエス様が、弟子たちの足を洗われました。続いて、イスカリオテのユダの裏切りを予告し、そして、互いに愛し合うようにと、新しい掟を、弟子たちに語られました。それとともに、イエス様は、「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」(13:33)と、十字架による弟子たちとの別れを語っています。もちろんこの時、弟子たちは、十字架の意味やイエス様が十字架で死んでしまうことは分かっていません。でも、イエス様が、自分たちに別れを宣言されている。弟子たちは、動揺し、心が騒ぎ立ちます。その中で、一番弟子のペトロは、命を捨てでも、あなたについていくと、断言するのです。すると、イエス様は、こう語られました。今日の箇所の直前の13章の38節です。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」これを聞いた、ペトロは、衝撃を受けたと思います。まさか、と。そして、ペトロだけではありません。弟子たち、みんな動揺しました。愛するイエス様と離ればなれになってしまう。さらには、一番弟子であるはずの、ペトロが、イエス様を、裏切ってしまう。

けれど、そんな心かき乱された、そのただ中で、イエス様は、こう語るのです。「心を騒がせるな。」ただ、ここで、イエス様は、何も、不動の心を持つのだ、と語っているわけでもありません。私たちの心は、誰であっても、かき乱され、騒ぎ立ってしまいます。また、説教の準備をしながら、教えられたのですが、ヨハネの福音書で「心を騒がせる」といった言葉は、他の箇所では、イエス様自身の心をあり様を語る際に用いられていました。イエス様は、十字架に架けられることを前もって語られた12章27節で、「今、わたしは心騒ぐ」とおっしゃっています。ですので、イエス様は、弟子たちが、心を騒ぐということも知っていたのです。でも、そのことを受け止めて、弟子たちに、それでも「心を騒がせるな」と語られていたのです。そして、同じように、今、心が騒ぎ立つ私たちのことも、イエス様は、その一切を受け止めて下さった上で、「心を騒がせるな」と語られているのです。

では、なぜ、イエス様、このように語られたのでしょうか。続く、御言葉を見ていきましょう。

2.父と子の一体

 

1節の後半です。「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」神様とイエス様を信じるように、とおっしゃられるのですから、何か、二つのものを信じることのように思えます。けれど、ここで、イエス様は、神様を信じることとは、イエス様を信じること抜きには考えられないのだと教えて下さっているのです。父なる神様と子なるイエス様は、一体である。だから、神様とイエス様を信じることは、同じだというのです。そして、父なる神様と子なるイエス様を同じように信じるように、というのです。

先ほどお読みしました9節でも、イエス様は、「わたしを見た者は、父を見たのだ。」と、イエス様を見ることと、神様を見ることは、同じだと語られていました。また、11節でも、イエス様は、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」と、父なる神様とイエス様が、愛において一つの交わりにあり、一体である、と語られていたのです。

3.父の家には住む所がたくさんある

 

そして、イエス様は、2-3で次の様に語られます。

わたしの父の家には住む所がたくさるある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

このみ言葉は、葬礼拝でよく耳にします。その中で、語られた時、本当に慰めを覚えます。主のもとに召され、この地上での生活を終えた先人たち、そして、将来の私たちにも、天に住む場所があるのだ、と確信が与えられます。かの日の希望を頂き、心に平安が与えられます。

ただ、今日は、わたしたちの用意される、この天の住処について、葬礼拝などで語られる意味とは違った意味について、思い巡らしてみたいと思います。それは、ここで、イエス様が、将来、私たちに備えられている天の住処について、語られていることの意味を否定するのではありません。このことは、イエス様が語って下さった真理であり、本当の慰めです。ですが、それとともに、今日、覚えたいことは、この天の住処が、今のわたしたちにも与えられるものだ、とも語られていたことを受け取っていきたいのです。

ここで、弟子たちに語られていた文脈をもう一度考えてみましょう。イエス様は、一人十字架の道を歩まれると、弟子たちに語られていました。ですので、2-3節で、「あなたがたとは」、まず弟子に向けて語られた言葉です。そして、イエス様は、あなたがた弟子たちのための場所を用意するために「行く」とおっしゃられています。ですので、ここで、イエス様は、十字架の道を通って、天に「行く」と語られているのです。そして、戻って来て、あなたたちを私のもとへ迎える。だから、心を騒がせるな、と語られていました。

弟子たちは、愛するイエス様が、いなくなってしまう、不安で心配だ。でも、戻ってくる。だから、イエス様は、18節でも、「わたしは、あなたがたをみなしごにしてはおかない。あなたがたの所に帰ってくる」とおっしゃられているのです。でも、そうは言っても、待っている方は、心配ですね。いつ、どうやって、イエス様は、戻ってくるのか、と思ってしまいます。だから、イエス様は、18節の前の16- 17節でこう語っておられたのです。

わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

イエス様は、「弁護者」「真理の霊」、つまり、聖霊を通して、弟子たちのもとに戻ってこられるというのです。そして、その聖霊を通して、イエス様は、弟子たちと、ともにおられる、と語られていたのです。

では、そのようにイエス様に迎えられた、弟子たちは、どういったところに住む、というのでしょうか。2節で「住む所がたくさるある」の「住む所」という言葉は、今日の箇所の少し先14:23でも使われています。

イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。

ここで、「一緒に住む」の「住む」にあたる言葉が、2節の「住む所」という言葉と同じです。そして、ここで、弟子たちが、守る「わたしの言葉」とは、互いに愛し合いなさい、というイエス様の教えです。ですので、弟子たちが、イエス様を愛し、イエス様の愛に倣い、互いに愛し合う。次に、その弟子たちを、父なる神様は、愛される。そうして、その弟子たちの愛の共同体に、神様と、イエス様が共にお住まいなるというのです。神様とイエス様は、先ほど、見て来ましたように、愛において、一つの交わりにあるように、一体です。そして、同じ様に、愛の交わりの中にある弟子たちと、神様とイエス様は、共におられる、というのです。

もちろん、最後の晩餐のこの時、弟子たちは、イエス様がこのように語られていることの意味は、よく分かりませんでした。そして、迫り来るイエス様の別れの中で、不安で心が押しつぶされそうでした。けれど、イエス様が、十字架で亡くなり、復活し、さらに昇天され、ペンテコステの出来事が起こり、そして、聖霊で彼らが満たされた時に、イエス様が、ここで、語られたことを思い返したと思います。そうして、彼らの共同体が、愛で満ちた時、イエス様と神様が、ともにおられると、強く覚えたのです。ですので、このヨハネの福音書のみ言葉を通して、イエス様は、天の住処をこの地に作られる、つまり、愛の交わり生きる天の住処を、この地に教会として、建て上げられるのだと、語られていたのです。そうして、心を騒がせるな、とイエス様は、語られていたのです。

また、ここで、私たちが、特に、心に留めておきたいことは、愛の交わりにある教会が誕生した時、実際の教会も、心が騒ぎ立っていた、ということです。彼らは、イエス様を主と信じるゆえに、迫害にさらされる時代に生きていました。特に、このヨハネの福音書を執筆したヨハネを中心とするグループは、ユダヤ教から、迫害を受け、会堂を追放されていたと考えられています。そして、この地上において、自分たちは、みなしごではないかと、心が騒ぎ立っていたのです。それは、今、このような状況の中で、礼拝堂に、ともに集えず、ヨベル館の中で、ともに交わることの出来ない、私たちと同じような状況です。

でも、イエス様は、こう語られているのです。「心を騒がせるな。」「わたしは、あなたがたをみなしごにしてはおかない。あなたがたの所に帰ってくる」「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」

愛のある交わりへと私たちを連れ戻してくださる。私たちを教会に戻してくださる。イエスさまは、わたしたちをみなしごにしておかないからです。だから、「心を騒がせるな。」と、イエスさまは語られているのです。そして、このために、イエス様は、十字架の道を歩まれたのです。

どうぞ、心さわぎ立つ、日々の中にあっても、私たちを受け止め、私たちの手を離さず、教会へと迎えてくださる、イエス様を見上げ、「心を騒がせるな。」というイエス様のみ言葉を、ともに聞いて参りましょう。そして、今、受難週の日々です。この地に、私たちの天の住処を建て上げて下さるために、イエス様が「十字架」へと歩まれた受難を見つめつつ、自分の罪に悔い改め、この世界の苦難を覚え、ともに祈りの手を合わせていきましょう。それでは、お祈り致します。

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祈祷会

弟子の足を洗う

和田一郎副牧師

2020年4月6 日
ヨハネによる福音書13章1-17節

1、過越の祭りと最後の晩餐

今日の聖書箇所は、最後の晩餐の場面です。イエス様が弟子達の足を洗うという出来事は、この最後の晩餐の中で行われた事です。この出来事は、他の3つの共観福音書では「過越の食事」と記されています。ですから、今日の聖書箇所には「過越祭の前」とありますが、最後の晩餐は「過越の食事」としてイエス様が弟子達と一緒に食事をとったのです。そして、最後の晩餐が「過越の食事」であることは、とても大切なことです。「過越の食事」は出エジプトの出来事があってから、イスラエルの人々にとって、自分たちの災いを過ぎ越してくださったことを忘れないための、大切な儀式でした。かつてイスラエルの民が、エジプトで奴隷とされていた時に、神様がモーセを指導者として立てて、10の災いを通して、イスラエルをエジプトから救い出しました。その時、最後の10度目の災いは、すべての家の初子、家畜の初子はさばかれて死ぬというものでした。しかし、家の戸口に子羊の血を塗るなら、神のさばきはその家を過ぎ越し、その家の中にいる初子は救われます。イスラエルの民は命じられたとおり子羊の血を塗ったのです。しかし、エジプト人は血を塗らなかったので、神のさばきによって彼らの初子はすべて死に、エジプト全土に災いがくだりました。そして、この神のさばきを通して、イスラエルの民はエジプトから救い出されました。過越の出来事は、さばきと救いの出来事です。イスラエルの民が、この出来事を忘れないように、毎年行われていたのが、過越の祭りです。
神様の計画は、過越の祭りの時に、独り子であるイエス・キリストが十字架に架けられ死ぬということでした。そして、人々が救われるためには、過越の出来事と同じように、子羊の血が必要でした。イエス様はそのほふられる子羊となって血を流し、その血によって私たちは神のさばきから救われます。エジプトで起こった過越の出来事は、始めからイエス・キリストの十字架を示していました。そして、最後の晩餐は、イエス様がみずからが過越の羊となられることを、後に弟子や主に従う者たちが思い起こせるように意図されました。過越の食事を、救いの主に在る食卓へと置き換えたのです。
さて、この食事は1節にあるように、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とあって、そして、この過越の食事がはじまったことが分かります。この最後の晩餐で成されたことの、一つ一つにイエス様の愛が示されています。

2.弟子の足を洗われる

イエス様は突然立ち上がり、上着を脱いで手拭いを腰にまとって、そして弟子たち一人一人の足を洗われました。当時の人々の履物はサンダルのようなもので、足は埃でとても汚れていました。その足を洗うのは、当時では召使いがする仕事でした。この時この家には召使いがなかったようです。12人の弟子達の足は汚れたままで、その足をイエス様が洗いはじめたというのです。 ペトロはイエス様に足を洗ってもらうことなんて、もったいないという思いから「わたしの足など、決して洗わないでください」。と頼みます。それは率直なペトロの言葉でしょう。しかし、イエス様は「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われました。ペトロはそれだったら「主よ、足だけでなく、手も頭も」と頼みます。イエス様は彼に言われました。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」、と言って、イエス様は弟子たち全員の足を洗ったのです。
「全身清い」というのは、洗礼を現していると考えられています。私たちは洗礼を受けることによって、イエス様との新しい繋がりが与えられます。イエス様が差し出してくださる、救いの恵みに与るだけです。イエス様が私たちを生かすために、召使いのように仕えてくださったのですから、この救いの恵みを感謝をもって、受け入れていきたいと思うのです。

3、互いに足を洗い合う

イエス様は、弟子の足を洗った後に言われました。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わねばならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」。(14-15節)これは、イエス様によって足を洗っていただいた者、つまりイエス様の十字架による罪の赦しに与った者は、互いに足を洗い合いなさい、ということです。
しかし、16節に「はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない」とあるように、私たちが互いに足を洗い合うといっても、イエス様のように、完全な罪の赦しを与え合うことなど出来ません。しかし、私たちは互いに罪を赦し合い、互いに支え合うという、神の家族を作るために召されているのです。
ここで、イエス様が「互いに足を洗い合わねばならない」、と言われた教えの「互いに」という言葉に注目したいと思います。イエス様が私たちの足を洗ってくださったから、「私も赦す」ということは相応しいことです。しかし、イエス様が言われているのは「互いに」とあります。つまり、私は赦す者でもあるし、時として赦してもらう必要もあるのです。私たちの心のどこかで「赦してやろう」といった、上から目線の思いが隠れているように思います。そうではなく、自分も赦してもらわなければならない。そういう者である。私たちは神様に赦していただかなければならない者ですし、隣人にも赦してもらわなければならない者です。
そもそも、私たちは塵の土から生まれ、土に帰っていくにすぎない者でした。ところが、神様がイエス様をこの世に送ってくださり、苦難と十字架の死を受けて下さったことで、神様のとの繋がりが回復しました。そして、キリストに従う者たち同士が、互いに繋がることを求めてられています。互いに足を洗い合い、互いに仕え合い、互いに赦し合う、神の家族に加わる者として召されています。
イエス・キリストは、その神の家族という繋がりを築くために、大きな犠牲をはらってくださいました。主のご受難を覚えて、この一週間の日々を歩んでいきたいと思います。
お祈りをいたします。

受難週の日々、今日も与えられている命に感謝いたします。
今、わたしたちは新型コロナウィルスの感染の恐れの中にいます。どうか、世界に広がる感染の恐れを取り除いてください。この町の人々の安全を守ってください。この恐れの最前線にいる医療従事者を、あなたが守ってくださいますように。
健康に不安を抱える人を支えてください。命を司る神様、あなたの力に依り頼みます。
わたしたちに先立って、痛みと苦しみを受けてくださったイエス様の受難を覚えつつ、
主イエス・キリストの名前で祈ります。