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あなたは私に従いなさい―ペトロの再献身

<イースター>
松本雅弘牧師
ヨハネによる福音書21章15-25節

2022年4月17日

Ⅰ.ペトロの挫折

ペトロ、主イエスが十字架にお架かりになる前夜、「主よ、なぜ今すぐ付いて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」(13:37)と威勢の良いことを語っていたのですが、そのペトロに対し主イエスは、「私のために命を捨てると言うのか。よくよく言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」(13:38)とお語りになりました。この予告どおり、ペトロは三度にわたって、「イエスを知らない」と告白してしまう。大きな挫折を経験してしまうのです。

Ⅱ.「作業途中」のペトロ

さて、今日の聖書の箇所は、そうした挫折を経験した弟子のペトロと、復活の主イエス・キリストが再会した時のことを伝えています。
場面は、ティベリアス湖畔。「ティベリアス」とはガリラヤ湖の別名です。そこは元々漁師であったペトロが生まれ育った湖畔です。思えば三年前、この湖で漁をしている時、「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と主イエスに声をかけられ(マタイ4:19)、弟子としてスタートを切った、その出発点が、このティベリアス湖でした。ある意味で、弟子としての原点とも言える記念の場所だったのです。
そうした思い出ぶかい場所で、復活の主イエスが「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛しているか」(21:15)と問われたのです。
この時、主イエスは「ペトロよ」とは呼ばず、「ヨハネの子シモン」と呼びかけています。御自身がお付けになった名前でなく、敢えて元の名前で問われたのは、この同じ場所で「私に付いて来なさい」との招きに応えた時の初心に立ち返ることを促されたのではないでしょうか。三年前、「私に付いて来なさい」と招かれ、網を捨て、イエスさまに従って来た。ところが、いつの間にか、新鮮さが色あせて来て、逆に、この三年の間に犯した数々の失敗、そして何よりもつい先日、予告通り、愛しているはずの主を三度も「知らない」と否んでしまった。これまで自分は何のために主イエスに従って来たのか、その全ての営みが水の泡となってしまうような決定的な挫折を経験していたのが、この時のペトロだったのです。
でも復活の主イエスは、「取り返しのつかない失敗」をしてしまったと思うどん底状態にあったペトロに対し、「その“取り返しのつかない失敗”を取り返す、その失敗を償うためにこそ、私は十字架にかかり復活した。あなたは、私の赦しの愛の中でもう一度、いや何度でも、やり直してごらんなさい」。そのように、主イエスの方から手を差し伸べてくださっているのです。
イザヤは、「私たちは粘土、あなたは陶工。私たちは皆、あなたの手の業です。」(イザヤ64:7)と語ります。主イエスさまも弟子のペトロに対して、そのように関わってこられたのではないでしょうか。様々な出会いや出来事を通し、どっしりとした、岩のような信仰の人ペトロへと練り上げようとして来られたと思うのです。
この時のペトロは、〈もう駄目だ。取り返しがつかない〉と、この世の終わりが来たような思いでいたのではないかと思いますが、主イエスはペトロをそうは見ておられなかった。もっと長い目で私たちを見ていてくださる。「私たちは粘土、あなたは陶工。私たちは皆、あなたの手の業」だからです。
パウロはフィリピの信徒への手紙(1章6節)で、「あなたがたの間で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までにその業を完成してくださると、私は確信しています。」と語りました。主イエスが、あることを始めたならば、必ずそれを完成される。イエス・キリストってそういうお方なのだという約束の言葉です。先ほどの陶工と粘土の関係で言い表すならば、ティベリアス湖で「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と招かれたイエスさまが、その時、シモンをいう名の粘土を、人間をとる漁師に造り上げるための「作業」を開始してくださった。そしてそのお方は始めたことを完成される方ですから、必ず完成へと導かれるのです。
この時のペトロも作業途中なのです。ところが、どういう訳か自分を完成品のように錯覚してしまった。そして傲慢にも、「私はどこまでも付いて行きます。いや、行けます。あなたのためなら命を捨てることもできます。その覚悟があります」と豪語したのです。その結末を私たちは知っています。
ただ、私たちの主イエスは、こうした失敗の出来事も用いて、ペトロという粘土をさらに練り上げ、完成作品へと導いて行くこともできるお方でした。それが、「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛しているか」という、今日の箇所、15節の主イエスの問いかけの狙いでしょう。これに応答する時、自らの内側に始めてくださっている、主の御業の進展に協力することになるのです。

Ⅲ.あなたは、私に従いなさい

さて、この個所を読むたびに〈本当に面白いな〉と思うことがあります。日ごろ、私たちも経験することでしょうが、一つの問題をクリアすると、不思議とまた、新たな心配や思い煩いに直面することがあります。そのようにして、いつも心配や思い煩いに悩まされる。実は、この時のペトロもそうだったのです。この時、ペトロからしたら、愛するイエスさまとの関係が回復したわけですから、その恵みを喜び感謝していればいいところでしょう。ところが早速、彼の心の隙間に誘惑の手が伸びたのです。新しい歩みをしようとした矢先、振り向くと、そこに「イエスの愛しておられた弟子」の姿が目に飛び込んできた。弟子のヨハネ、この福音書を書いた使徒ヨハネです。前から彼のことが気になっていた。そして今ふたたび、ヨハネの存在が気になってしまったのです。
そういう人、いませんか?職場や学校に。いや、教会の中にも居てもおかしくないでしょう。こういうことを、私たちもよく経験すると思います。その人が気になってしようがない。どう云う訳か、自分と比較し、何か上手くやっているように見えて、私だけが損をしているようで、その人の一つ一つの言動が鼻につく。気になってしょうがないのです。
でも、そのように思うペトロに対し主はこう言われる。「私の来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい。」それぞれに負うべき「十字架」がある、とおっしゃるのです。
主の赦しの愛の中で、その人に託された人生を引 き受け、一生かけてキリストに似たペトロ、キリストに似たヨハネ、キリストに似た私へと、陶工である主は、その手の業を進めておられるのです。だとするならば、ペトロの傍に、気になるヨハネが置かれていること。そうしたヨハネとの出会い、ヨハネとの葛藤も実は、神さまがペトロを成長させるために、いやヨハネと一緒に成長するようにと、用意してくださった、大切な交わり、主にある交わりだということでしょう。

Ⅳ.献身をあらたに

最後にもう一つだけ、注目して終わりにしたいと思います。ここで主イエスが焚き火を用意しておられたのです。ペトロは、焚火にあたりながら何を考えたでしょう。大祭司の中庭で主を否んだ時の、あの情けない自分のことも心に浮かんできたかもしれません。あの時も焚き火に当たっていましたから…。
そして火の上には魚が載せてあってパンもありました。振り返ってみれば主イエスと共なる三年間を懐かしく思い起こしたのではないかと思います。そう言えば、あの「五つのパンと二匹の魚の給食」も、同じ湖近くで起こった出来事だったと、しみじみ思い浮かべていたのではないかと思います。
あの奇跡の時は、自分たちは宣教旅行から帰って来た直後で、心身共に疲れ果てていた。群衆の存在はいい迷惑だった。でも、疲れた体を押してパンと魚を配る中、人々の顔に笑みがこぼれる。「ペトロさん、ありがとう!」という感謝の言葉が返って来た。いつの間にか我をも忘れ真剣に配給していた。そして終わってみると、十二の籠が一杯になる程のパンの残りにあずかった。「十二」とは、まさに自分たち十二弟子の数だった。
ペトロは、イエスさまに従うことこそ、本当の祝福の道なのだということを、あらためて思い起こし、ここで再献身したのではないでしょうか。
今日、主は、私たちのためにも食卓を整えてくださいました。パンとぶどう液に与ることを通して、ペトロや弟子たち同様に、主イエスに付いていくことこそ、実は本当に恵まれた道なのだということを、今までの歩みを振り返りつつ、思い起こしたい。
そして、「あなたは、私に従いなさい」と私たち一人ひとりに声を掛けておられる。その招きに、「主よ、あなたはご存知です」と応答し、主を愛し主に従う決心を新たにしていきたいと願います。
お祈りいたします。

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復活を信じます - 使徒信条⑧

松本 雅弘 牧師
マタイによる福音書28章1~20節
2021年4月4日

Ⅰ.死の事実

先週は受難週祈祷会で主イエスの十字架への道程をたどってまいりました。しかし昨年来、コロナの関係でどこか静かなイースターの朝です。例年ですと、金曜日の受難週祈祷会の終了を合図に、翌日土曜日は、朝から数百個もの玉子茹でが始まり、教会はイースター一色、その準備で活気づきます。受難節の期間中、講壇の布は紫、そして木曜日の晩から講壇には真っ黒な布が掛けられる。ですから土曜日は真っ黒なのです。あの二千年前のイースターの朝、前々日に起こった十字架の出来事を経験した弟子たちの心は「黒い布」が示すように真っ暗だった。恐怖と興奮でここ二日ばかり一睡もできず、あまりにも目まぐるしく移り変わる出来事、しかも衝撃的な出来事を経験し、振り返る余裕もなく、何を感じ、何を考え、何をしたかについて、まったく記憶が飛んでしまう二日間を過ごしていたように思います。その証拠に、福音書を読んでも十字架の後の弟子たちの動向については、はっきりとは伝えられていません。そうした中、唯一と言ってもよいかもしれません。弟子たちの様子を知る手がかりが「あなたがたより先にガリラヤに行かれる」と語る天使の言葉に隠されているように思いました。この時の弟子たちの心にあったのは、少しでも早くガリラヤに帰ることでしょう。そうした彼らの思いを受けとめるように「あなたがたより先に」と天使が語ったと理解できます。普通の神経の持ち主でしたら十字架の直後は何も考えられなかったでしょう。エルサレムは過ぎ越しの巡礼で訪れた場所で滞在地に過ぎません。〈すぐにも逃げ出したい。戻るとすれば、どこ?〉。咄嗟に浮かんだ風景は故郷ガリラヤでした。〈ガリラヤに戻ろう、そこで一からやり直したい〉と思ったのではないでしょうか。ある説教者が語っていました。「ここにははっきりと、一つの死の事実がある」と。そうです。彼らにとって主イエスはすでに死んでしまった人。それが弟子たちを包み込む決定的な状況だったように思うのです。

Ⅱ.「死んだらお終い」という物語

今年になって、多くの方たちが天に引っ越しをされました。牧師になって何年も経ちますが、このような年は初めてです。死の現実を繰り返し見せつけられています。この時の弟子たち、そして二人のマリアも同様でした。特にマグダラのマリアは、主イエスによって七つの霊を追い出してもらった女性でした。その彼女を苦しみから解き放たれたのが、他でもないイエスさまです。主イエスは命の恩人、そのお方のお蔭で「人生のやり直し」を経験できた。その主イエスが死んでしまったのです。この時、彼女は墓を訪ねています。復活を確認するためではなく遺体の前で泣きたいだけ泣くためにやってきたのです。二人のマリアも弟子たちも、みんな、「死んだらお終い」という「死の物語」に捕らわれていた。この物語に心が支配されている時、私たちは不安を抱きます。いつ死がやってくるのか分かりませんから。
でもどうでしょう。そうした私たちに、ここで聖書が宣言するのです!「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」マタイによれば不意打ちをくらわすのは死ではありません。主イエスの復活の方なのです。「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』これこそ聖書が、歴史の教会で「使徒信条」にまとめ上げ、告白し続けてきた、キリストの復活です。信者、未信者問わず、誰の心の奥深くにインストールされている、「死の恐怖」「死の絶対」「お墓が終着駅」という物語に対する挑戦であり、そして取って変わるべき、新しい喜びの物語なのです。

Ⅲ.死の物語を書き換える復活の物語

ここで改めて気づかされたことがありました。ガリラヤに行く以前にすでに復活の主が二人のマリアに出会ってくださっていることです。それも墓場を出たばかりの、ある人の表現を使うならば、「正に死に取り囲まれている所から飛び出して来たばかりのところ」で、です。9節でマタイは「すると、イエスが行く手に立っていて」と記していますが、原文では「すると」と訳されている言葉は「見よ」と訳せる言葉、「見よ、イエスが行く手に立っていた」ということでしょう。さらに彼女たちに「おはよう」と声をかけます。これはギリシャ語の命令形、「喜べ」と訳せる言葉です。主イエスは彼女たちを出迎え、「喜びなさい」と言ってくださったのです!そして、「恐れることはない。行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこで私に会えるだろう」とお語りになったのです。
〈本当にありがたい〉と思いました。「きょうだいたち」という言葉は、ギリシャ語の原文には、「私の」というギリシャ語が添えられています。これまでは、「弟子たち」と呼ばれていた彼らです。でもここで主は「私のきょうだいたち」と呼んでおられます。
それだけではありません。この事実はさらに深い恵みを私たちに伝えています。調べてみますと、歴史の教会は、詩編22編との関連で、この呼び換えの意味を理解していることが分かりました。十字架上で主イエスは、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ/わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。この叫びは詩篇22編冒頭の御言葉を苦しみの中で主イエスは唱えようとされたと言われます。その詩篇を読み進めていき23節に来ますと、「私は兄弟たちにあなたの名を語り伝え/集会の中であなたを賛美しょう」とあるのです。十字架の上でたったお独り、深い絶望の中で歌い始められた詩篇の歌を、復活の後、今この時、彼女たちに語りかけながら、「きょうだいたち」の歌としてくださったのです。「お前たちは、私の苦しみを全く理解してくれなかった。私の復活も信じなかった。だから、この詩篇を歌う権利はない。これは私一人の歌だ」と主は決しておっしゃらなかったのだ、とある牧師はそう語っていました。二人のマリアは、主から預かったこの言葉をペトロやヤコブやヨハネ、トマスらの前に立ちながら、「主イエスが先だって待っていてくださるのだから、さあ、ガリラヤに行きましょう。先生はあなたがたのこと、私たちのことを、もはや『弟子』とだけお呼びにならず、『きょうだい』、それも『私の兄弟』とも呼んでいてくださっています。そして私たちを迎えるためにガリラヤへ先回りするとおっしゃいました。ですから、さあ、立って行きましょう」と言ったに違いない、とそうコメントするのです。

Ⅳ.「復活の主を信じます」

このようにしてガリラヤで弟子たち、いや兄弟姉妹と会ってくださった復活の主イエス・キリストが、彼らにお与えになった約束が福音書の最後に出て来る、18節以下の御言葉です。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。主イエスは一方的に命令だけをなさるのではないのです。御言葉に生きる力をも与えて下さる。何故なら主イエスこそ「天地の一切の権能を授かっているお方」であり、世の終わりまで、いつも私たちと共にいてくださるからです。そう言えば、マタイは天使がヨセフにイエスの誕生を告げた時、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」と語り、この名は「神は私たちと共におられる」という意味である、その言葉でもって福音書を書き始めています。そして福音書の締めくくり、最後のところで、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。「マタイ福音書は『神が共におられる』『キリストが共におられる』という二つの約束にサンドイッチされた福音書なのだ」と言われる通りです。この約束は信仰を持たない人にとっては愚かな言葉でしょう。復活を疑う人は常にいます。拒否する人もいます。でも愚かに思える、その言葉を疑いつつも信じ、主イエスの弟子になる決心をして歩み始める時、私たちの人生の中で何かが、私たちの世界で何かが変わり始める。「死んだらお終い」の物語が復活という希望の物語に書き換えられ、死は新しい命への旅立ち、それ故、天での再会の望みへと私たちを導くからです。マタイは「イエスの復活が作り話だった」という話が有名で、「今日に至るまで広まっている」と正直に記しています。今日でも大勢の人々が復活を作り話だと疑う人もいる。でも私は、この二つの話のうちどちらを受け入れるか、です。私たちは復活を信じ、イエス・キリストの弟子となり、洗礼を受け、主の教えを守り、「キリストは私たちと共におられる」という約束と共に、歩んで行きたいものです。お祈りします。

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復活の主イエスに出会った最初の人

松本雅弘牧師
ヨハネによる福音書20章11―18節
2020年4月12日

Ⅰ.週の初めの日に起こった出来事

主イエスが、「渇く!」と言われ、「成し遂げられた!」とおっしゃって、十字架の上で息を引き取られたのは金曜日の午後三時頃でした。翌日の安息日が明けた翌朝、朝早く、まだ暗いうちにマリアが墓に向かいました。すると墓を塞いでいた石が取り除けられていたのです。彼女は急いで引き返し、再びペトロとヨハネとで墓に向かうのです。確かにマリアの言った通り、ペトロもヨハネも全く理解せずに、同時に怖れと驚きで心満たされながら仲間の弟子たちのところに戻ったのです。しかしマリアは残り、墓の外に立って泣いていました。

Ⅱ.マグダラのマリア

さて福音書はマリアを「マグダラのマリア」と紹介しています。「マグダラ」とはガリラヤ湖の西岸にある町の名です。そこは商業都市に通じる主要道路が通っていて、いかがわしい歓楽街としても有名な町でした。ですから当時「マグダラ」という地名にはよくないイメージが込められていたと言われます。マグダラのマリアは主イエスによって7つの霊を追い出していただいた女性でした。その7つの霊のために多くの問題を抱え、悩み、打ちひしがれ、絶望的な人生を送っていたのがマリアです。そのマリアがイエスさまと出会い生まれ変わったのです。「多く赦された者は、多く愛するようになる」と主は言われましたが、まさにマリアは多く愛されたことを実感したが故に、他の誰にも勝って主イエスを多く愛する弟子として、この時まで従い続けてきたのです。そのマリアが泣いている。自らの人生に革命をもたらしたお方が、三日前に死んでしまったからです。
さて泣きながら身をかがめ中を覗いてみると白い衣を着た2人の天使が座っていて「婦人よ、なぜ泣いているのか」と尋ねたと書かれています。彼女は訴えるようにして答えます。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
この時のマリアにとって、こんなやり取りはどうでもよかったにちがいない。ですから彼女の方から会話を中断します。目の前にポッカリ口を空けた墓も、そこには「想い出」はあっても、生きる希望、生きる力はない、絶望のどん底なのです。

Ⅲ.復活が信じられなかったマリア

さて今日は主イエスの復活を祝うイースター礼拝です。でも聖書を見ますと、マリアをはじめ誰一人として、主イエスが復活することを期待していなかったことが分かるのです。そんなマリアの背後から声がしました。墓を覗くことをやめて後ろを振り返ると、そこにイエス・キリストが立っておられた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と訊かれます。でも気づいていないのです。アリマタヤのヨセフの園を預かる番人だと勘違いしています。消えてしまったイエスさまの遺体を取り戻したい。そして大変皮肉なのですが、一番求めている、そのお方、復活の主が目の前におられるのに、彼女が問題にしているのは、主の亡骸、生ける主ご自身ではなくて、あくまでも「遺体」のことだったのです。
でもその人から、「マリア」と呼ばれた時、その語りかけによって彼女の心の目が開かれていきます。いつも礼拝の中で、聖書朗読の前に「照明を求める祈り」を祈りますが、私たちは神さまに心を開いていただかなければ、暗い心を照らしてくださらなければ、自分でキリストを見ようとしても見ることはできないからです。語り掛けてくださったお方が、主イエスだと分かったマリアは、「ラボニ/先生」と応答したのです。きっといつもマリアが主をお呼びするときの呼びかけ方だったにちがいない。即座に主だと分かって、足に縋りついたマリアに対して、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と、優しい語りかけだったと思います。

Ⅳ.「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」

ところで「わたしにすがりつくのはよしなさい」との言葉に対し、いつも腑に落ちない思いを持っていました。と言いますのは、この後、主イエスはトマスに向かって、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と触れるように、さわるようにと促しています。マタイ福音書にも復活の主に出会った女性たちがその足を抱いたことが出てきます。でも何でマリアに対してだけは、「わたしにすがりつくのはよしなさい」とおっしゃったのでしょうか。「すがりつく」という言葉を調べますと、単に触るとか、確かめるために触れるということではなく、「対象物を失わないで、所有し続けることを願って、それを捕まえている」という意味のある言葉であることが分かりました。主イエスの墓が空になって遺体が行方不明。主イエスとの絆の最後の証しでした遺体が失われてしまった。ちょうどその時、「マリア」と語りかけられ、そのお方が、主イエスだと分かったのです。ですから、「もう決して離しません」と言わんばかりに、しっかり摑まえ離さないのです。主イエスと弟子たちのお世話をしながら、宣教旅行を一緒にしてきたのでしょう。一緒に語り、共に食事をし、御言葉の説き明かしをしてくださった。そうした主イエスとの交わり、前と同じような主イエスとの関わりを、もう決して失いたくないと思って、一瞬のうちにそう決意したのだと思います。そのマリアに対し、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と、主イエスは言われたのです。実はその理由が、その後の17節の主イエスの言葉に出てきます。「イエスは言われた。『わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」と』。」ここで主イエスが繰り返し語っていることは、「父のもとへ上る」ということでした。だからすがりつくのは止めなさいと言われたのです。
信仰告白の言葉を使うならば、「昇天」です。主イエスが復活されたのは、天に昇るためであった。決して地上の生活に戻るためではない。父なる神の許に昇って行くための復活です。宗教改革者のカルヴァンが「キリストの復活は、主イエスが天にのぼり、父なる神の右に座したもう時まで、十分で完全ではなかった」と語るのは、そうした理由からです。
そういえば、この日の4日前、十字架の前夜、最後の晩餐の席上で、主イエスは弟子たちにお話されました。「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(16:7)。この約束を実現するために自分は、この復活の体をもって昇天していく。確かに肉眼で私の姿を見ることはできなくなる。でも、「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」。つまり、遥かに勝る恵みの現実を見るように、味わうようにと、主イエスはマリアに対し、そして私たちに対してしっかりと語られた。それはイエスの霊である聖霊が注がれるという現実です。父なる神さまの右の座にお着きのキリストご自身が聖霊によって教会の生命そのものとして、私たちの交わりの只中に今も生きて働いておられること。私たち教会と共にいてくださり、教会を生かし、御言葉を悟らせ、御言葉によって養い育て、教会を守り導いてくださる。私たちは、マリアのような誤りを犯しがちです。でも主イエスは復活され、天に昇り、そして約束どおり弁護者/助け主である聖霊を送ってくださった。そのことによりマリアが味わった、弟子たちが経験した、地上での主にある交わりよりもはるかに親しい交わりの中に私たちを置いていてくださっている。
先週の70年史の原稿を新教出版社に届けました。私は作業に携わらせていただき、神さまの私たちに対する熱い情熱を強く感じたことです。高座教会の歴史を振り返ると様々な課題がありました。現在もそうです。そして今、教会はコロナウイルスによるパンデミックという嵐の中に置かれている。でも、聖霊において主イエス・キリストが共にいてくださるのです。教会の歴史を振り返るとどんなときにも聖霊が教会に、私たち一人ひとりのうちにおられ働きを始めてくださった。そのお方はその働きを必ず完成してくださる。昇天の時、主イエスは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されました。どこにあっても、どんなときも主イエスと離れることはない。私たちと共にいてくださる。その恵みに支えられて、復活の主イエスを心から賛美しようではありませんか。お祈りします。

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復活の祝福―エマオのキリスト

 

松本雅弘牧師
2019年4月21日
イースター礼拝
列王記上19章1~13節 ルカによる福音書24章13~32節

Ⅰ.「エマオへの道」

“エマオに向かう/足の重い二人の弟子に/復活のイエスは加わった/それとは知れず/互いに/話はアネモネの花のように心にはずみ/虫ばまれた丸木橋の上では/イエスが一番先に渡り/また三人で並んで旅をいった”
(島崎光正作 「エマオ途上」)
高座教会にも来られたことのあるクリスチャン詩人、島崎光正の「エマオ途上」と題する詩です。アネモネは復活の命の象徴であると言われています。そのアネモネと対照的に「虫ばまれた丸木橋」が「死の象徴」として出て来ます。その橋を主イエスが先頭に行かれる。だから続く者たちは丸木橋から落ちることはありません。
島崎はイエスに続く者たちを、冒頭で「足の重い二人の弟子」と表現しています。そう言えば教会に来られた島崎先生は、足に障がいを抱えていて、講壇にのぼる時、重そうに足を引きずっておられたことを思い出します。島崎光正は死を超えるいのちの旅を、なお主と共に歩む復活の信仰の喜びとうたいました。詩ばかりではありません。多くの画家がこの場面を描いています。

Ⅱ.暗い顔をした2人の弟子たち

さて物語の語り出しに注目しましょう。「ふたりの弟子」が登場します。「弟子」と聞けばペトロ、ヨハネ、ヤコブといった12弟子を思い浮かべます。でも福音書記者のルカは、ちがった見方をしているようです。続編の使徒言行録で、ルカは弟子たちを一般的なクリスチャンを指す言葉として使っているからです。
弟子とは受洗し教会員となった者。特別な人たちではなく私たちのことです。そう考えるとこの「ふたり」も私たちと同じ普通のクリスチャンでしょう。そのうちの1人がクレオパという名の弟子でした。クレオパの名が出て来るのは聖書でここだけです。どんな人だったのか、昔から様々に想像されてきました。その1つに、クレオパともう1人の弟子は夫婦だったのではないか、との解釈があります。
ヨハネ福音書に、十字架の傍にいた人々の名前が出て来ますが、そこに「クロパの妻マリア」とあります。この「クロパ」と「クレオパ」が同一人物だったのではないかと昔から言われてきました。
エルサレムからエマオに向けて歩いている。エマオの村に着くとこの2人は同じ家に入り、主イエスに、お泊りになるようにと願っています。同じ家に住んでいる男女と言えば夫婦である可能性は高いのです。ただ、2人の弟子を男女として描いた絵など見たことはありません。
以前、ある長老が、「自分たち夫婦は、よく夫婦喧嘩をする。口論をする。それは決まって教会のこと。どちらか一方がクリスチャンでも教会員でもなければ、こんなに喧嘩することはなかったと思うことがよくあるんです」と嬉しそうに話してくださったことを思い出します。
教会のことを真剣に考えると、やはり熱くなります。イエスさまのことを熱心に思うあまり議論にもなる。そばにいる者からしたら夫婦喧嘩のように見えるかもしれない。でもご安心ください。そうではないのです。
2人の弟子たちもそうでした。エマオに住んでいた彼らは、不思議な導きで主イエスを知った。主イエスの言葉に心惹かれるようになった。そして今年の過越祭、主イエスにお目にかかるために都に行ったのです。
ところが思いがけない出来事に遭遇します。十字架です。ただそれで終わりません。3日後の早朝、仲間の婦人から「主は生きておられる」という知らせを聞かされた。何が何だか訳が分からない。そうした混乱の中、エマオに戻る途中だったのです。「二人は暗い顔」(17節)をしています。顔の表情は心のバロメーターです。
4月になって始めた新生活も、3週間が経過した今、〈こんなはずでは…〉と立ち尽くす時があるかもしれません。顔は暗くなります。
先週の月曜日、ノートルダム大聖堂が火事になり、何度も流されたニュースの映像を見ながら不思議な失望感を味わい暗い心で過ごしました。また、親しいはずの友からがっかりするような言葉を聞かされたりすれば、私たちの顔は暗くなるのです。
この時の2人もそうでした。主イエスが十字架で殺されたからでしょうか。いや理由はもっと複雑です。彼らの顔を暗くさせる直接の理由はもっと別のところにありました。仲間の婦人たちが持ち帰って語った言葉、「イエスは生きておられる」(23節)という言葉を聞いたからなのです。
不思議です。そして何と皮肉なことでしょう。彼らは主の弟子です。その彼らが主イエスの甦りの知らせ、「イエスは生きておられる」と聞いて喜び溢れたのではなく、逆に暗い顔になったのです。こんなことって、あるのでしょうか。でも私は思いました。これが現実なのではないだろうかと。私たちも主イエスの復活を聞いています。そう信じているはず、いや信じています。しかしそれが喜びに繋がっていない現実がある。知っていても表情は暗い。
さらに滑稽なことが起こります。暗い顔をして立ち止まったクレオパが、「あなただけは、ご存知なかったのですか」と、なかば呆れ顔になり、主に向かって尋ねるのです。
確かに誰もが知っていたことです。過越祭には数えきれない人々がエルサレムに来ていました。今の時代とは違いますから、巡礼者が出来事の一部始終把握するのは不可能です。
そうだとしても、この時だけは違うのです。それは祭の最中、それも都のど真ん中で起こった出来事なのですから。イエスの死、その3日後、墓が空っぽになったという事件。そこに居た誰もが聞かされたことです。目撃者もいました。そうしたことを何も知らない、この人は!
ですから呆れて、「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」(17節)と、言ったのです。
でも、どうでしょう。このやり取りの中で気づかされることがあるのです。それは、私が知っていることを主イエスが知らない訳がないということ。本当の意味で知っているのは私の方ではなく、主なのです。

Ⅲ.真実をご存じの主イエス・キリスト

いよいよここから幸いな時間がやって来ます。「聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(27節)のです。2人の弟子、あるいは夫婦だったかもしれない。都からエマオに行く途中話し続け、夫婦で議論していました。2人の心は、主イエスの死、主イエスの甦りの話題で占領されてはいたのでしょうが、皮肉なことに彼らの心には、生ける主ご自身、その復活の命はなかったのです。
私たちも知恵に基づいて聖書を論じることがあります。しかし、それがどんなに熱心で興味深い話であっても喜びが起こらないことがあるのです。それは、その議論の中に主イエスがおられないからです。
私たちは知らされます。ルカが伝えようとした復活とは、主が現れてくださるということ。主が生きて、今も私たちを訪れ続けてくださることです。時には叱り、御言葉を悟らせてくださる主イエスさまです。

Ⅳ.復活の祝福

こうしてエマオにやって来ました。そこで2人は主イエスを引き止め、一緒に食事をすることを願いました。それに応えてくださり、主イエスはパンを取り賛美の祈りを唱え、それを分け始めます。食卓での一連のこの行為は当時、その家の主人、本来クレオパがすべきことでした。でも、どういうわけか主がすべてしてしまわれたのです。
もう1人の弟子がクレオパの妻であったなら、彼女が大急ぎで用意した食卓でしたが、主は彼女に対しても、「ここに座りなさい。この食卓は私があなたがたをもてなすのだから」とおっしゃるのです。「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(31節)のです。そうです。主イエスの姿が見えなくなった。でもそれだけです。主イエスは彼らと共におられたのです。
主イエスが彼らに現われてくださった、その証拠に2人の弟子、この夫婦はすぐに立ちあがり、12キロの道のりを引き返しています。すでに夜なのに、疲れていたのに。休むこともせずエルサレムに戻って行きます。光の中を、暗い顔をして帰って来た彼らが、今度は真っ暗な夜道を喜びに溢れ、光り輝く顔をしながら急いでいるのです。
2014年に礼拝堂をリニューアルした時、「エマオへの道」という名の廊下を作りました。この日、弟子たちは「エマオの道」を歩き、食卓でパンが裂かれた時に主イエスだと分かった。ですから私たちも毎週、「エマオへの道」を通り、復活の主にお会いする思いで礼拝堂に入り、主が備えてくださる食卓を囲む交わりに導かれていくのです。
歴史の教会は聖餐を祝うごとに、この時の出来事を思い起こしてきました。目で見ることは出来ません。でも「イエスは生きておられる」のです! だからこそ彼らは明るく輝く顔で暗い夜道を引き返せたのです。
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽せないすばらしい喜びに満ちあふれています。」 (Ⅰペトロ1:8)
お祈りします。

カテゴリー
イースター礼拝 主日共同の礼拝説教

復活と派遣

2018年4月1日
イースター礼拝
松本雅弘牧師
ハバクク書3章8~19節
マタイによる福音書28章1~20節

Ⅰ.イエスの死に圧倒されていた弟子たち

世界で最初の受難日、主の十字架の翌日の土曜日、またそれ以降、弟子たちは何を考え、何をしていたのでしょうか。主イエスの十字架の後、弟子たちを包む空気はこれまでと全く違っていたと思います。福音書を読んでも、はっきりとは伝えられていませんが、1つの手掛かりとして、天使が、「あの方は…、あなたがたより先にガリラヤに行かれる」(28:7)と語っていることに気づきます。
一連の厳しい出来事を経験した彼ら弟子たちは、ガリラヤに帰ろうとしていたのです。天使は、そうした彼らの思いを受けるように「あなたがたより先に」と語ったと理解できます。
では何故、ガリラヤなのでしょう。聖書を読む限り、この時の弟子たちは、復活の望みに生かされてガリラヤに行こうとしたのではありません。むしろその逆です。
普通の神経の持ち主でしたら、十字架の直後は何も考えられなかったに違いありません。弟子たちにとって、エルサレムは過ぎ越しの巡礼で訪れた場所、あくまでも滞在地に過ぎません。主イエスの十字架の死に出会って、〈戻るとすれば〉と、咄嗟に浮かんだのはガリラヤの風景だったでしょう。あのガリラヤの海、緑に囲まれた、美しく、自然豊かなあの土地、故郷ガリラヤです。ですから直感的に、〈ガリラヤに戻ろう、そこで一からやり直したい〉と思ったのではないでしょうか。ただ「やり直す」と言っても、すでに主イエスは死んでしまいました。ですからもっと以前、主イエスと出会う前まで遡ります。ペトロ、ヤコブ、ヨハネやアンデレは皆、元は猟師です。〈漁に戻るしかない〉、そう思って〈ガリラヤに帰ろう〉と考えたと思われます。
ある説教者が語っていました。「ここには、はっきりと1つの死の事実がある」と。彼ら弟子たちにとって、主イエスは死んでしまった。それが彼らを包み込む、決定的な出来事だったのです。

Ⅱ.圧倒的な力をふるう

「死んだら御終い」という物語
私を導いてくださった宣教師は「私は死ぬのが怖くありません」と胸を張って語りました。高校生だった私にとってその言葉は衝撃でした。「死んだら御終い」と思っていましたから。
科学万能の今の時代では、「死んだら御終い」と考えることが、よほど人間らしく合理的な考え方だと思われるのではないでしょうか。「健康至上主義」が花盛り、「アンチエイジング」などという考え方がありますが、それはひっくり返せば死の恐怖に怯える人間の姿です。
この時、弟子たちの心を支配していたのも同じ思いでした。そしてまた、今日の聖書箇所の冒頭に登場する2人のマリアもそうでした。彼女たちが、墓に主イエスを訪ねたのは、復活の主にお会いするためではなく、主イエスの遺体の前で思う存分嘆き、悲しみ、泣きたいだけ泣くためでした。
主イエスは、生前、復活の約束の言葉を語っていましたが、十字架の後に、主の約束のその言葉を口にしたのは、弟子たちやマリアたちではなく、皮肉なことに、イエスを十字架にかけた側の人々でした。彼らには、復活を否定する「動かざる証拠」として、イエスの遺体がありましたから、そこに番兵を配置します。遺体が盗まれでもして、「ほら、イエスの予告通り、復活した。だから墓が空っぽなのだ」となったら厄介だと思ったからです。
そのように、彼らは復活の約束を覚えてはいました。ただ正確に言えば、覚えてはいたが信じてはいなかったのです。「お墓が人生の終着駅」という物語に生きていたのです。
弟子たち、そして2人のマリアと同じです。〈主イエスは先に逝ってしまわれた。やがて、自分も死んでいく〉、そうした思いです。
そうした「死の物語」が私たちの心の奥深く、既に根付いてしまっているのです。
この物語に心が支配されている時、私たちは不安を覚えます。いつ死が訪れるのか分かりませんから…。10年先ですか、あるいは2、3年先ですか……。そうしたことを、いつでも考えていなければならないのです。
ある人は、そうした私たちの心を、「死に不意打ちされるのではないかと脅えている状態」と表現していました。明日にでも、死によって不意打ちをくらい、死んでしまうかもしれないという不安です。
これに対して聖書は、主イエス・キリストの復活を宣言します。不意打ちをくらわすのは死だけではなく、復活の主でもあると語るのです。
「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」(6節)。そして7節。「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』」
これこそ聖書と歴史の教会が証言し続けてきたキリストの復活です。信者、未信者を問わず、私たちの心の奥深く埋め込まれている「死の怖さ」「死の絶対」「お墓が人生の終着駅」という物語に対する挑戦であり、それに取って変わるべき新しい喜びの物語でもあるのです。

Ⅲ.死の物語を書き換える

主イエスの復活の物語
復活の主が私たちを不意打ちするために、ガリラヤに先回りしていてくださると、天使は告げています。ガリラヤとは弟子たちにとっての日常です。私たちにとっての南林間のような場所、家庭や学校や、慣れた職場のようなところです。
今日の箇所では、この時すでに復活の主イエスご自身が2人のマリアに出会ってくださっています。ガリラヤに行く以前にです。そしてここでも、「ガリラヤに行ったら私に会える」と語っておられるのです。
彼女たちが主と出会ったのは、主が約束されたガリラヤではなく、今、墓場を出たばかりの所です。ある人の表現を使うならば、「正に死に取り囲まれている所から飛び出して来たばかりのところ」でした。「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、」(8節)と書かれています。
彼女たち2人は、ついさっき、墓の中で経験した不思議な出来事に怖れを抱きつつ、一方、主イエスが生きておられるという、天使の言葉に、すでに喜びを感じながら走っていた、その時です。「すると、イエスが行く手に立っていて」(9節)と記されています。
原文を読むと、「すると」と訳されている言葉はもっと強い「見よ」、英語では「behold」という言葉が使われています。
「走って行った、すると見よ」、「見よ、イエスが行く手に立っていた」、「イエスが迎えに来られていた」という意味です。
この時、彼女たちの頭の中にあったのは、自分の経験した出来事を誰が信じてくれるだろうかという心配でした。そうした思いの中で走り始めました。すると突然、主イエスが現れ、彼女たちを迎えてくれたのです。仲間の弟子たちではありません。先ほどの天使でもない。復活の主イエスご自身でした。
そのお方が、誰よりも先に彼女たちを待ち構え、「おはよう」と言って出迎えてくださったのです。
「おはよう」の意味は「喜びなさい」です。こうして復活の主と出会った彼女たちは、主との出会いの喜び、そして、この喜びがガリラヤにおいては、みんなのものになる、という興奮に満たされたのです。
そして、天使からではなく直接、主イエスから預かった、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに遭うことになる」という大切なメッセージを、仲間の弟子たちに伝えるために走ったのです。
この時、主イエスは弟子たちのことを「わたしの兄弟たち」と呼んでいるのです。私は、今回初めてそのことに気づかされ、〈本当にありがたい〉ことだと思わされました。

Ⅳ.「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」

このようにして、ガリラヤで弟子たち、いや兄弟姉妹と会ってくださった復活の主イエス・キリストが、彼ら「キリストの教会」に与えて下さった御言葉が、マタイの福音書の最後、28章18節以下に出てくるのです。
主イエスは3つの命令を語られました。そして、一方的に命令をなさるだけでなく、天地の一切の権能を授かっている主ご自身が、世の終わりまでいつも共にいてくださると約束されました。
この福音書を書いたマタイは、天使がイエス・キリストの誕生を告げた時、「『その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(1:23)と書き始め、そして、最後に、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20)という主の約束で締めくくっています。
「マタイ福音書は『神が共におられる』『キリストが共におられる』という2つの約束にサンドイッチされた福音書なのだ」と、ある牧師は言いました。正にその通りだと思います。
この約束は神を信じない人々にとっては、愚かな言葉でしょう。でも、愚かに思える言葉を疑いつつも信じ、主イエスの弟子になる決心をして歩み始める時、私たちの人生で、私たちの生きる世界で、何かが動き始めます。
「死んだら御終い」の物語は、復活という希望の物語に書き換えられ、「死は新しい命への旅立ち」となるのです。それ故に、天での再会の望みへと私たちは導かれるのです。
私たちは復活を信じ、「神は我々と共におられる」という約束と共に歩んで行きましょう。
お祈りします。