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ファミリーチャペル 主日共同の礼拝説教

心のパン

 

松本雅弘牧師
マタイによる福音書4章1~4節
2019年9月8日

Ⅰ.子どもの話は面白い

今日の箇所は聖書の中でも最も有名な言葉の1つではないでしょうか。主イエスの言葉です。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」
この言葉を子どもたちと読むと面白い反応が返ってきます。「そうだね、ハンバーグも食べるし。ご飯も食べるし」と、いやに納得してしまう子どもがいるものです。しかし、そういう意味ではありません。人はパンなしで生きることは勿論不可能ですが、同時にまたパンだけで生きるものでもないわけです。
ここで主イエスは、「心のパン」である聖書の言葉によって心が養われ、支えられ、生かされるのが、人にとって大切なことなのだと語られたわけです。

Ⅱ.生きる「マニュアル」としての聖書

第1に、なぜ、人はパンだけで生きるものではないのかということについて考えてみたいと思います。最近は、生き方について説く様々な本があります。
イリノイ大学で哲学を教えていたモアヘッドという名の先生が『生きる意味とは』という書物を書きました。現代を代表する著名な哲学者、科学者、作家100人を選び「あなたは、人生に意味があると思うか。あるとしたら、それは何か」と、彼は質問したのです。戻ってきた答えをまとめて完成したのがこの本でした。結果は大きく3つに分かれました。1つは「正しいかどうか分からないが、私はこう考える」と、した上で「人生には意味がある」と答えたグループ。2つ目は「自分にとって人生の意味を、自分自身でこのように決めて、そして生きている」という人々。そして3つ目は「人生に意味などない」とはっきり答えた人々です。
せっかちな私は、パソコンが作動しなくなると、色々なキーを押したり、様々な事を試みます。本来でしたら「取扱説明書」を手に操作すべきでしょう。パソコンでも電子レンジでも新しい機械や家電を買えば、「必ずお読みください」という「取扱説明書」がついてきます。そこにはその機械が何のために作られ、どう動くのか、注意点はどこにあるのかが書かれています。
例えば映画に登場する発明家の実験室に置かれている機械などは説明を聞かなければ分からないような姿、形をしています。いくら機械とにらめっこしても、機械独自の目的や意味は分からないものです。どうしてもそれを発明した人に尋ねなければ分かりません。
同様に、私が生きているのは、実は生かされているのであり、その背景には、愛の神さまのお働きがあったというのが聖書の根本的なメッセージなのです。
主イエスが「人は……、神の口から出る一つひとつの言葉によって生きる」と言われる、それは、私自身を知る上で、私が生き生きと生きる上で、「必ずお読みください」という「マニュアル」のようなもの、それが聖書なのです。その言葉によって、そこに私の存在意義を見出すのです。

Ⅲ.本当の幸せを約束するいのちのパン

2つ目に、神の言葉である聖書を読むと何が起こるのかについて考えてみましょう。結論から言えば、本当の幸せを手にすることができるということです。
以前、ある教会員が私に「もっと礼拝で十戒を繰り返し説くべきなのではないでしょうか」と助言くださったことがありました。確かに長老派の伝統の1つに、礼拝の中で十戒を唱えることもあります。
十戒とはイスラエルの民がエジプトから脱出した後、モーセを介して神から与えられた10の戒めのことを指します(エジプト記20章)。
この十戒の目的は何かと言えば、「~してはならない」という、行動を禁止し束縛することにあるのでなく、逆に本当の幸せを授けるために与えられているものです。
そして「十戒」を初めとする聖書に出て来る掟の意味を説き明かしたのが、主イエスによって語られた「山上の説教」でした。ですからこうした箇所を深く学び直すことは本当に大切なことだと思います。
ただ牧師をしていて、また信仰生活をしていて感じることは、それだけでは足りないということなのです。
何故、子どもたちが非行に走り、簡単に自分を安売りするのかという問題を考える時、それは、盗んだり、姦淫したり、嘘をつくことが悪いことであると知らないからということもあるでしょうが、それに加えて、もっと深いところに原因があるのではないかと思われるのです。
それは、私たちの心の内に自分が価値ある存在なのだという実感に乏しいということにあるように思うのです。自分の価値に気づいていなければ、「それを大事しなさい」と言ったところで不可能なのではないでしょうか。
何か難しいことが起これば投げやりになる。元々生きる「かい」がないわけですから、好き嫌い、損得、快不快が行動基準となる。今後、この傾向が加速されていくように感じます。
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つひとつの言葉によって生きる」と語る聖書は、私の「製作者」である神だけが、私を造られた目的を持っておられ、知っておられる。その御心を言葉にした聖書を読むことで、創られた存在である私自身が、〈ああ、そうか。こういう目的をもって生かされているのだ。このように生きることで、私の心は満たされる。元々、そのように造られている。しかも、そのように造られている私は、造り主である神さまから見て、どれだけ大切な存在なのか。〉
聖書にはこうしたことが繰り返し、しかも「これでもか、これでもか」という感じで説かれていくのです。
先週から洗礼入会準備会が始まりました。1回目はベトザタの池にいた、38年間病で苦んでいる人と主イエスとの出会いについて学びました。
重い病に苦しむ、その人に向かって、主イエスは「良くなりたいか」と尋ねました。ところが、その人から素直な答えは返って来ませんでした。返ってきた答えは、いかに周囲の人たちが不親切なのか、自己中心なのかを主イエスに向かって訴えたのです。あなたは、病気が治りたかったから、ここに来たのではないのですか、と聞かれるまで、彼自身が、そこにいた理由が、自分自身でも分からなくなってしまったのです。
その説明をするために、私は「ウサギとカメ」のイソップの話をしました。元々、ゴールを目指して歩き始めたウサギとカメでしたが、次第にウサギにとって歩く目的が曖昧になってしまった。ウサギにとって歩く目的はカメに負けないことが目的になったからです。これに対してカメはゴールを目指すことが目的でしたからウサギよりも前にいるか後ろに居るかは大きな問題とはなりませんでした。
隅谷三喜男先生を招きした時、「人生の座標軸」という講演をされました。私たちは横との比較で、本当の意味での自分の位置を見出すことができないのです。他者と自分を比べ、どこかで劣等感や優劣感と結びつくからです。では、どうしたらよいのでしょうか。隅谷先生は、人生に神との関係、すなわち縦軸が必要だと言われました。
人生に縦軸が入った時に初めて、この世界で、この歴史において、私しか立つことのできない1点を見つけることができる。それが生きて行く上で何よりも大切なのだ、と語られたことを思い出します。カメにあって、ウサギになかったもの、それがこの縦軸、神さまとの関係でした。
「心のパン」である聖書を読み、親しんで行く時に、「私は本当にユニークで掛け替えのない存在なのだ」ということを知らされます。十戒の1つひとつによって、その都度、自分に問い、自分を責め、あるいは、自らを安売りする、そんな必要がなくなるのです。何故なら、自分自身であることに満足を覚えるからです。
世の中を見回す時、友人や周囲を見る時に、羨ましいと思える人が沢山存在します。でも、神さまが私たち一人ひとりに願っている生き方、幸いを手にする生き方は、羨ましいと思える人に近づくように生きなさい、というのではなく、あなたはあなたとして生きること、「松本雅弘」として完全燃焼して生きることです。その時に、本当の意味で充足を経験するのだと、心の糧なる聖書は教えているのです。

Ⅳ.御言葉を聞きつづける

最後の3番目、どのように「心のパン」である聖書を、そして説教を聞けばよいのかということです。結論から言えば自分のこととして読む/聞くということです。礼拝の後、「今日のお話は、私に語られた言葉として聞えました」という感想を話して出て行かれる方があります。その時、私は、「あなたが働いてくださいました」と天を指さしたくなります。説教の準備をする際に、その人を想定して準備したわけではないことを、私は知っているからです。でも、神さまがその人に語りかけてくださったから、心に響く言葉となったのだと思います。ある時、主イエスは「聞く耳のあるものは聞きなさい」といわれました。これは、《聞く耳を持つ者と聞く耳を持たない者がいる》ということでしょう。ですから、大事なことは、《聞く耳をもって聞く》、分かり易く言えば、《自分に当てはめて聞く》ということです。そうすると、今日の御言葉、「人はパンだけで生きるのではなく。神の口から出る1つひとつの言葉によって生きる」ということが、その人の人生において現実のものとなっていくことです。そして、私たちを《生かす力》となるのです。お祈りします。

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「何をしてほしいのか」と問われたら

2019年3月10日
松本雅弘牧師

マタイによる福音書20章29~34節

Ⅰ.2人の盲人

この時、主イエスは十字架で贖いの死を遂げるためにエルサレムに向かっていくところでした。そのエルサレムに向かう最後の宿場町がエリコだといわれています。
そこに2人の盲人が「道端」に座って物乞いをしていたのです。目の見える人にとって、「目が見える」ということは「普通のこと」と考えます。でも「普通でない」2人の盲人のために、当時のユダヤ社会が提供した居場所が、普通、人は通らない「道端」でした。
ところが突然、彼らは「道端」から街道のど真ん中に立ち、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫び始めたのです。
その途端に周囲の人々は盲人たちを叱りつけ、黙らせようとしました。このように当時のユダヤ社会には「道端」にいる人間は、そこに居続けるようにと仕向けるシステムやルールがあったのです。
実は、似たようなことが、今を生きる私たちの周囲にもたくさんあります。その社会を作りだし、容認しているのが私たちですから、知らず知らずの内に、そのようなシステムを維持し強化する一端を、担っているかもしれません。
明日は3月11日です。私はこの説教の準備をしながら福島の原発のこと、そしてまた、先日、県民投票が行われましたが、あの沖縄の基地のことなどを思い出しました。それらのことも、今日の聖書の出来事と相通じるところがあるのではないかと思います。そうした中で、「道端」を居場所としてあてがわれた少数の弱い立場の人々が、とても辛く、さびしい思いをしてしまう。ここに登場する2人の盲人は、そうした辛さや悲しさ、生きづらさを感じている人々の代表のような人たちだったわけです。

Ⅱ.主イエスとの出会い

ある日、急に大勢の人の足音と話し声が近づいて来たのでしょう。
ルカによる福音書には「これは、いったい何事ですか」と、行き交う人に訊ねたことが出てきます。すると、いつもは道端に座っている人など相手にしないはずなのに、その質問に、「ナザレのイエスのお通りだ」と答えてくれる人がいました。
この時に初めて主イエスが来られることを彼らは知りました。たぶん彼ら盲人は、人通りの一番多い場所を見計らって座っていましたから、目が見えない分、通りを行き来する人々の話し声、また、さまざまな話が、耳を通してたくさん届いて来ます。そうした情報の中に、病を癒し、盲人の眼を開く奇跡をなさってこられた、イエスという男の噂話も聞いたことでしょう。
その主イエスが自分たちの前を通り過ぎる群衆の中におられるということを知った途端に、居ても立ってもいられなくなって道端から立ち上がり、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだのです。
人々はその彼らを叱りつけ黙らせようとします。本来の居場所である「道端」に引きずり戻そうとします。でも「勇気を出すとするならば、今、この時しかない」と彼らは思ったのでしょう。体の中のありったけの勇気と力を振り絞り、どこにいるとも分からない主イエスというお方めがけて「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫び続けながら歩き始めたのです。そして、とうとうその求め、訴えが主イエスに届きました。
「イエスは立ち止まり、二人を呼んで、『何をしてほしいのか。』と言われた」と聖書に書かれています。

Ⅲ.何をしてほしいのか?

私は、この「何をして欲しいのか」という主イエスの問いかけは本当に大事だと思います。もし主イエスからそう問われたとしたらどう答えるでしょう。考えてみたいと思うのです。
彼らにとっての、叫び訴えることは、私たちにとっては、祈り求めることと同じです。私たちは祈りの中で何を求めているのでしょうか。本音の部分の祈りって何でしょう。
この出来事の前、主イエスは弟子たちを呼び集め十字架での贖いの死についてお話しなさいました。その受難の予告と、この盲人の癒しの間に挟まれるように紹介されている出来事があります。それはヤコブとヨハネが母親と共に密かに主イエスにお願いにやってきたことです。
その彼らに向かって主が語った言葉と、必死になって「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫び求めた盲人たちに対して投げかけた問いが全く同じ「何が望みか/何をして欲しいのか」(21節/32節)という言葉なのです。
その時、母親が求めたことは息子たちが「偉くなること」、「出世すること」でした。それも他の10人の弟子たちを差し置いて息子たちだけが偉くなることです。これに対して主イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」とお答えになりました。
そして「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」と語られたのです。
私たちは、「何をしてほしいのか」と主イエスから訊かれたら何と答えるでしょう。「偉くなることです」と出世を求めるでしょうか。あるいはお金が儲かるとか、私たちの全ての願いが叶って幸せになるとか。問題は、そうしたことに主イエスが答えてくださるかどうか、ということです。
ヤコブとヨハネの母親が「主イエスが王さまになられる時に、右に左においてください」ということをずっと祈ったとしてもそれは叶わないことでした。でも、その後、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」(マタイ20:26-28)という、主イエスの御心に触れ、その御心の中で願う時に、主は私たちの祈りに応えてくださるのです。
もう一度、今日の聖書の箇所に戻りたいと思います。この盲人たちは主イエスの「何をしてほしいのか」という問いかけに対して「主よ、目を開けていただきたいのです」とはっきりと答えました。それに対して主イエスはどうなさったのでしょうか。「イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。」とあります。その結果、「盲人たちはすぐに見えるようになり、イエスに従」いました。
ルカ福音書では、「これを見た民衆は、こぞって神を賛美した」(ルカ18:43)と、その時の周囲の様子も記録に残されています。
ここで注意したいのですが、道端に居た彼らが、見えるようになった結果、道路の真ん中に出て行った。つまり、この時代のいわゆる「普通の人」の生活が出来るようになった、ということではなく、また喜び躍り上がって家に帰り元の生活に戻ったというのでもありません。そうではなく、「イエスに従った」のです。ともすると 私たちは、救いによって、道端から道のど真ん中を、それも胸を張って歩くような人生が得られることを思い描くかもしれません。でも神さまの救いとは、道の中心、中央に向かって豊かになり偉くなっていくのではなく、あくまでも主イエスに従う歩みなのです。

Ⅳ.解放としての救い

ある時、主イエスは、「メシアのしるし」について次のように御語りになりました。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」(マタイ11:5)
見えなかった者が見えるようになる。立てなかった者が立って歩み、貧しい者が福音を聞かせられる、というのです。「見えなかった人が見える」というのは、それは「覚醒」と言い換えても良いかもしれません。また、「立てなかった人が立って歩く」というのは「自立、主体性の回復」ということでしょう。
そして「貧しい人は・・・」とは、奴隷、抑圧されている者たちに福音が聞かされる。すなわち「解放が宣言される」ということです。
つまり、2人の盲人の「見えるようになることです」という願いは、まさに主の御心通り、聖書でいうところの「人間の回復/神の像の回復」ということでしょう。
マルコ福音書10章を見ますと、この2人の内の1人はバルティマイという名の人でした。それまでの彼は、他人に手を引かれて歩き、頭を下げて物乞いをし、それこそ道端に押しやられていた厄介者や無資格者のように扱われていましたが、今や自分からイエスに従っていく、実に堂々とした人物へと解放されて行ったのです。
主体的な自由人、それも「自分だけ、私だけ」という世界ではない、主イエスの福音に応答したバルティマイも、そしてもう1人の盲人も、「わたしたちを憐れんでください」(31節)と、「自分1人ではない、私たちも共に」という連帯の祈り、「主の祈り」の世界です。そのような意味で、人間らしく、バルティマイらしく、本当の自分へと解放されていったのです。そのようにして自分たちが変えられていった。いや、本来の自分たちを回復していただいた。それがイエスというお方との出会いにおいてなされた奇跡なのです。
主イエスはそのようなお方として、私たちと出会ってくださるのです。それが今日のメッセージです。お祈りしましょう。

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愛されて愛する

音声は11時礼拝の説教です。

2018年11月11日
成長感謝礼拝  ファミリーチャペル
松本雅弘牧師
ヨハネの手紙一 4章7~12節、19節

Ⅰ.されたようにする

教会と牧師館を行き来する時に幼稚園の中を通ります。私を見つけると、子どもたちは手を振ったり、また、声をかけて来ます。もちろん、一生懸命、もう夢中になって遊んでいる子どももあります。そんな子どもたちの姿を見るのが楽しみです。
子どもたちが大人に向かって話しかけてくる。子どもたち同士が挨拶しあう。それは、そうする子どもが誰かから話しかけられて育っているからです。お父さんやお母さんから「おはよう」、幼稚園の先生から「おはよう」と、語りかけられて一日を始めたからだと思うのです。
今日ここに私の宝物を1つ持ってきました。息子が幼稚園の時、私に贈ってくれた誕生日プレゼントです。私の似顔絵と「40さいになって、よかったね」と、可愛い字でメッセージが添えられています。
この贈り物を眺めながら〈40歳になって良かったことって何だったろう〉と考えてみました。20年も前のことですから思い出すことはできないのですが、ただ〈30代から40代になってしまった〉と思わされた誕生日にちがいなかったでしょう。でも息子からこう言われますと、「ああ、息子がそう言うんだから、40歳になってよかったね」と思えたのだと思います。
実はこの「40歳になって、よかったね」という表現は、お誕生日になった時に、幼稚園で子どもたちを祝福する時の言葉です。息子も幼稚園の先生からそう言われて嬉しかったんだと思います。その嬉しかった言葉を私にも伝えたかった。そのメッセージが「40歳になって、よかったね」という言葉です。私たちはされたようにする、育てられたように育てる、そのことの良い例です。

Ⅱ.「わたしってだれ?」の問い

青山学院大学の先生で、精神科医師の古荘純一先生が、日本の子どもたちの自尊感情が他の国の子どものそれに比べ、とても低いことの原因を究明する本を書いています。幾つかの国の子どもたちを対象に調査したところ、日本の子どもの幸福度は世界最低レベルだったという結果を、衝撃をもって伝えていました。
そうした子どもたちが生活をする家庭や社会を作っているのは私たち大人です。先ほど、「私たちはされたようにする」、「育てられたように育てる」ということをお話しましたが、そうした連鎖、循環のメカニズムからすれば、この結果は、まさに私たち大人自身の自尊感情が乏しく、幸福感を感じられないで生きていることの現れなのかもしれません。
人はあるがままの自分を肯定できない時に、何かが出来る人になれるように、何かを持っている人になれるように、という思いが強くなると言われます。その結果、子どもに対してもそう求めてしまいます。当たり前のことですが、私たちが生きる上で、この自己肯定感は不可欠です。
そこで人は「自分が自分のままであってよいか?」を自問します。そのことに確かな答えや確信が得られない時に不安を感じると言われます。時には、「自分になんか、何の価値もない」と思って、自暴自棄になることさえあります。実は、この「自分が自分のままであってよいか?」という問いに、最初に出会うのが幼稚園の時代なのだそうです。
一般に、3歳の子たちは天真爛漫と言われます。何をするにしても、ちょっとくらい友だちのように出来なくても気にしません。逆にできたら得意顔です。でも、こうした天真爛漫さが4歳頃には消える。何故か? その頃から周囲が見え始めるからだそうです。世界の中心は自分でないと気づく。自分も、大勢いるみんなの中の1人に過ぎないと分かって来る。そしてこの頃から、先ほどの問い、「自分が自分のままであってよいか?」という問いが始まるのだそうです。
つまり、この時期あたりから、人間は「自分は自分でいい」という「自己肯定感」を得たいと求めるようになるというのです。
私たちが「自分は自分のままでいいのか?」という問いを持ち、心配になった時に、一番して欲しいことは「大丈夫、あなたを愛しているよ」という家族や周囲からの肯定的なメッセージです。
「いいんだよ、あなたはあなたで」という《受容》のメッセージを、子どもたちは求めています。そのメッセージで子どもは安心します。これが幼児期の自己肯定の確認方法です。
周囲の人、特にお母さん、あるいはお母さんに代わる人からの自己肯定の保証が、その子の一生の生きる力として人格の中に深く蓄えられると言われます。ただ、現実はどうかと振り返る時「それじゃだめ」とか、「もっとこうでなくちゃ」とか、場合によっては、「なんであなたは、誰々ちゃんのように出来ないの」と、お友達との比較の言葉でダメだしされることもあるでしょう。これでは子どもは救われません。自己肯定が必要な子どもに自己否定を強いてしまうのです。

Ⅲ.子育ての難しさ?

ある時、主イエスは、「パンを求める子に石を与える親はいない」と教えてくださいました。子どもたちがパンを求めるように、「自己肯定して欲しい」と求めたら、私たちは素直に、「大丈夫、あなたを愛しているよ」とか、「いいんだよ、あなたはあなたのままで」と言ってあげたいし、言ってあげることが大事です。
しかし、現実はどうかと言えば、子育てに大切なことは分かっていても、それを実行することはなかなか難しく、そのようにできない自分との闘いです。
では、こうした心の内側にある闘いとどう向き合ったらよいのか、最後に、そのことに触れてお話の締めくくりとしたいと思います。

Ⅳ.愛のメカニズム―愛されて愛する

幼稚園が認定こども園になった時に、福島から講師を迎え講演会を開きました。冒頭、講師の先生が、アメリカで子どもを持つお父さんを対象に行われたアンケート調査のお話をされました。
それは「もう一度、父親をやり直せたら」というアンケートです。結果としてダントツに多かった答え、それは「妻をもっと愛することをすればよかった」、「家族をもっと大切にすればよかった」でした。
それを聞いて、私は深くうなずかされました。「妻をもっと愛する」、「家族をもっと大切にする」、それはまさに「大丈夫、あなたを愛しているよ」、「いいんだよ、あなたはあなたのままで」と語りかけるのと同じこと、「愛する」ということでしょう。
意識的にこうした会話をすると、家庭に温かな空気が流れてくるでしょう。それがいつの間にか、その家庭の文化になっていくのです。そうした家庭の空気を吸って生活する子どもは、自分に対しても温かな目で見ることが出来るでしょうし、友だちに対してもそう接するに違いありません。
私たちは人にほめてもらうから、人をほめることができるようになります。自分が受け入れられているという実感ができてくると、人を受け入れることができるようになってくる。自分の良さを見つけてもらって育つから、人の良さも見つけることができるのです。
ですから、まず子どもたちをたくさん愛してあげて欲しいと思います。そうしたら必ず子どもは人を愛することができる人になります。すると、不思議なことにお母さんやお父さん自身も、我が子から愛をもらっていることに気づくようになるでしょう。愛は決して一方通行のものでなく、キャッチボールのように返って来るものだからです。
そしてもう1つ、私たち人間は、されたようにする存在です。愛される経験があるから愛する力が生まれます。これが愛のメカニズムです。そしてこのメカニズムを働かせるには、まず自分が愛されている存在だと実感できることがとても大事です。それが人を愛する力になるからです。
ただ1つ問題があります。正しい知識を持っていることと、その知識に従って行動できるかどうかは別問題だということです。
「愛のメカニズム」によれば、自分の中にあるものしか相手に提供できません。私たちの「心のタンク」が満たされていなければ肯定的なアプローチを与えることは難しいのです。素直に「大丈夫、あなたはあなたのままで」と言ってあげたいのにそうできないのです。どうしたらよいのでしょう?
その秘訣がヨハネの手紙1の4章19節にあります。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」
聖書は、誰よりも先にまず神が、ありのままのあなたを愛してくださっていると教えます。神があなたをご覧になり、「大丈夫、あなたを愛しているよ」、「いいんだよ、あなたはあなたのままで」と肯定しておられます。それが分かって来ると子どもたちや他の人に対してそうできるようになるのです。素晴らしいことだと思います。
そして、こうした神さまからの愛を確認する場、それがこの礼拝の時なのです。聖書を通して語りかけてくださる神さまの愛の言葉に耳を傾け、心のタンクを満たしていただきましょう。そのようにして、子どもたちや周りの人たちと接していきたいと願います。お祈りします。

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愛のつづりは―T-I-M-E

音声は11時礼拝の音声です。

2018年9月9日
ファミリーチャペル
松本雅弘牧師
コリントの信徒への手紙一 13章1~7節

Ⅰ.ある父親の体験

あるお父さんの話です。彼には大きな悩みがありました。子ども同士のけんかです。女の子同士のけんかです。取っ組み合いをしたり、叩いたりはしないのですが、3歳のお姉ちゃんが妹をいじめるのです。
あまりにも度が過ぎるので、お姉ちゃんを呼んで叱ったのです。「お姉ちゃんなのだから、弱い者いじめをしてはいけません」と。
そして最後に、「わかったか」とダメを押すと、しょんぼりしたお姉ちゃんは、こっくりと頷きます。ところが5分も経たないうちに、また「妹いじめ」が始まるのです。
お父さんは自分の無力さに途方に暮れ、そして、こう考えました。〈この子は私に似ないで悪い子になってしまったのだから仕方がない〉。
彼は、お姉ちゃんに「悪い子」というレッテルを貼り、納得しようとしたのです。レッテルを貼られた方は大変だったと思いますが、貼った方のお父さんも、それに縛られることとなっていきました。
しかしある時、ふと考えました。妹が生まれるまでは、自分ひとりで母親を独占していたのです。お膝もお乳も、全て自分一人のものでした。
母親と歩いているときに、知り合いのおばさんと出会えば、「かわいいお嬢ちゃんね」と、頭を撫でて貰っていたのです。でも下の子が生まれた途端に事態は一変しました。みんな妹に取られてしまいました。知り合いのおばさんに会っても、「ああ、何てかわいい赤ちゃんでしょう」と言う。乳母車のそばに立っている自分に向かって、「かわいいお姉ちゃんね」と言ってくれなくなった。妹が生まれてから、そうした経験をずっとしてきたのです。そのように考えてきたら、彼は、急にお姉ちゃんが不憫に思えてきました。しかも、「悪い子」などというレッテルまで貼って、半ば諦めてしまっていたのです。
お父さんは考えました。そして、「おいで、抱っこしてあげよう」と言ったのです。お姉ちゃんはびっくりした顔になって、でも恥ずかしそうに抱っこされにきました。
母親の柔らかい膝とは比べようもありません。けれど、この時は叱ったりせず、優しく話をし、お姉ちゃんの話を聞いてあげることができました。
その結果、あれほど父親をイライラさせたいじめは、その時からバッタリと止んだのです。奇跡のようだった、とその父親は証ししていました。

Ⅱ.「愛がなければ…」

「愛の賛歌」と呼ばれる御言葉があります。コリントの信徒への手紙第1の13章です。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。」(コリントⅠ 13:1)とパウロは言っています。たとえ、天使の言葉のような素晴らしい言葉を語ったとしても、そこに愛がなければ、どんな言葉も相手に通じません。
愛とは、ひと言で言えば相手を信じること。相手の可能性を、それが、今の時点では明らかになっていなくても、そのことを信じて待つこと。それが、聖書の教える愛です。
これは、私たちにとって、ほんとうに痛いところを突く言葉だと思います。お父さんは、「強い者が弱い者をいじめていいのか」と言ってお姉ちゃんに説教をしました。「強い者が弱い者をいじめてはならない」というのは正論です。正しいことを言っています。でもその正しい言葉は、その子に通じませんでした。5分も経たないうちにいじめは繰り返され、むしろ、もっと陰湿なかたちになっていきました。ですからお父さんは悩んだのです。
これは、私たちが日常よく経験することなのではないでしょうか。
自分の言っていることは絶対に筋が通っている。それなのに、相手がそれを聞こうとしない。相手に伝わらないのです。
ですから、先ほどのお父さんのように「それはその子が悪い子だから」とレッテルを貼り、自分を納得させようとします。場合によっては、相手がひねくれているからだ、とか、このことを理解する能力がないからだ、などと言って、相手のせいにしてしまうことがあるのではないでしょうか。
でも、言葉が伝わらない理由は、相手が、「私は愛されていないと思ってる」だけのことです。自分自身のことを振り返れば分かることですが、自分のことを愛し、受け入れてくれる人の言葉でなければ、それがどんなに素晴らしい言葉であっても、私たちは聞きたいと思わないし、耳を傾けようともしないものです。
この時の、このお父さんのように、お姉ちゃんの行動が理解できない時、私たちはどうするでしょうか。自分のこととして考えてみると、このお父さんは賢いな、と思わされます。
最初は、レッテルを貼り、納得しようとしましたが、ふと「何か理由があるかもしれない」と思ったのです。実はそれが、聖書の教える「信じる」ということです。
「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(7節)とあります。この主語は「愛」です。「相手を信じる」とは「愛」の1つの現れ方、愛情表現の仕方なのです。
「もしかしたら何か理由があるかもしれない」と思ったということは、言い換えれば、「私はこの子をもう一度信じてみよう」ということです。それは愛する心の姿勢でしょう。すると不思議なことに確かに理由が見えてきたのです。

Ⅲ.「レタスの話」を思い出す

以前、礼拝でお話した「レタスの話」を思い出しました。どうしても理解できない行動を取る人に出会ったら、その人のことをレタスに置き換えて考えてみなさい、というアドバイスです。
レタスを育てるために、一生懸命に世話をしましたが上手く育たなかった場合、私たちはレタスに「何でうまく育たなかったのか!」と責めたり叱ったりはしません。むしろ「何でそうなったのか?」と、レタスを理解しようとするのではないだろうか、という話です。
愛することが難しい相手である場合、あるいは好きになれる理由を見つけることが出来ないような場合、レタスを見るように、その人が育った背景、受けてきた教育、家庭環境などを理解しようとするのではないか、あるいは、今置かれている状況を見て行こうとするのではないか。すると、不思議なことに、その人に対する見方が変わり、少しずつ優しくすることが出来るようになるというのです。

Ⅳ.愛のコミュニケーション

ある方が、「子どもは親の愛を食べて育つ」と語っていました。「子どもは親の愛を食べて育つ。たびたび親の心の扉を叩いて、『ボクを愛してくれていますか』と確かめるのだ」と。確かに、そうかもしれません。
小さな子どもだけでなく、思春期を迎える若者も同じです。親や大人は、彼らの問いかけに答えてあげなければならないと思います。「私を愛してくれていますか」という問いかけにです。
問いかけの仕方は、年齢によって、また一人ひとり様々ですが、それをキャッチして、どうやってそれに応えていくか、どのように愛を伝えようかと、その方法を考え、苦心するということが多くなると思います。
愛を必要としているのは、子どもだけでなく、親も、また伴侶もそうでしょう。「私を愛してくれていますか」という思いは、人間、誰もが持っている根本的な問いでしょう。それに応えてもらいたいというニーズは誰にでもあるのです。それらにおいても、愛を伝える努力は必要なのです。
このことを考えるためにもう一度、今日の聖書の御言葉に戻りましょう。「愛は・・・、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(13:4-7)
ここで、「愛している」ということは、「相手を信じることだ」と教えています。そして、「すべてを望み」とありますから、まさに、その「信じる」ということは、「希望を失わないこと」でもあるのです。
「この子はもう、しょっちゅう妹をいじめているから、悪い子なんだ」と言ってレッテルを貼ったり、「悪い子なんだから、悪いことをやるのはしょうがない」と諦め、見切りを付けるのではなく、相手を信じ、待つことが、愛することです、と聖書は教えています。そして「すべてに耐える」と続きます。つまり、私たちが信じて、希望を失わないでいようと思ったら、その時必要なことは、忍耐だからです。ですから、聖書は、「愛はすべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」と語るのです。
「信じる」ことは盲信とは違う、という説明を聞いたことがあります。盲信は、相手の現実を見ていない、だから信じることと盲信ははっきりと違うのだ、と。現実は正しく見なければならない。そうした時に、そこに、足りないところが見えてくるかもしれない。勿論、悪いところも見えて来るでしょう。ずるいところさえも見えてくる。現実を正しく見るとは、そうしたことすべてを見た上で、その人を信じるということ。そして希望を失わない、だから忍耐する、これが愛だ、これが神の愛だ、というのです。
私たちは、このように愛の中で見ていただく時に、その相手の語る言葉が、その思いが必ず心に伝わってくるのです。言葉が通じていくのです。何故でしょうか。そこに愛があるから、です。
お祈りします。

カテゴリー
ファミリーチャペル 主日共同の礼拝説教 成長感謝礼拝

きみは愛されるため生まれた

2017年11月12日
成長感謝礼拝・ファミリーチャペル
松本雅弘牧師
マルコによる福音書10章13~16節

Ⅰ.子どもの祝福を祈り求めて

先日、園庭を歩いていましたら幼稚園のお母さまに、「先生、息子が先生にお会いしたって、言っていました」と声をかけられました。その息子さんはプレイズチャペルに出席し、その後のファミリーバーベキューにも参加したそうです。その時、私と同じテーブルを囲んだのです。中3になり、背が高くなっていましたが、その顔を見た瞬間に〈ああ、この子のこと、覚えている〉と思ったのです。顔はその時のまま。まん丸の可愛いお顔をしていました。「久しぶりだね。本当に嬉しい…」としばらく話した、その子のことでした。その日帰宅するなり、お母さんに「今日、松本先生と会った。先生、大きかったけれど、小さくなっちゃった」と言っていたそうです。

Ⅱ.弟子たちを憤られるイエスさま

人々が自分の子どもたちを連れてイエスさまのところにやってきました。どこの親でも子どもの幸せを考えます。彼らも同じでした。様々な奇跡をし、教えをし、働いておられるイエスさまが近くに来ておられると聞き、わが子に触れていただきたいと御許に連れてきたのです。
しかし弟子たちは許しませんでした。その人々を叱ったのです。考えてみれば「叱る」とは強い言葉です。何故弟子たちはそうしたのでしょう。1つには、子どもたちは「役に立たない存在」と見たからだと思います。〈子どもなんか主イエスの高尚な教えを理解しない。うるさくて迷惑をかける〉。そう考えた。だから叱ったのです。
ところが、これに対するイエスさまの対応には、もっと厳しい言葉が使われています。イエスさまは、弟子たちを「憤られた」のです。あの優しい、柔和なイエスさまが「憤り」をあらわにされたのです。弟子たちの行為は、それほどにイエスさまの意に反するものだったのでしょう。
何が問題だったのでしょうか。弟子たちが子どもたちの存在を「役に立たない存在」と見ていたのに対して、イエスさまは全く違った視点でご覧になっていたということです。
それは「存在の喜び」という視点です。確かに子どもたちは大人から見て、何もできない存在かもしれません。時にやっかいなことを仕出かすこともあるでしょう。でもイエスさまというお方は子どもの存在を、そのまま喜んでおられるということなのです。

Ⅲ.存在の喜び

以前、友人の牧師が幼稚園の教育講演会に来てくださいました。講演の最後に、講師の先生は一枚のお札を高く上げて、「みなさん、欲しいですか?」と尋ねました。
戸惑っている皆を見て、今度は、それをクチャクチャにして靴の裏で踏みつけ、皺くちゃになったお札を広げて再び同じ質問をしました。「欲しいですか?」。
その時、見ていた人は誰もがハッとしました。いくら皺くちゃになって汚れが付いていたとしても、その価値に変わりはないのです!
私たちは、一生懸命皺がないように、また汚れないように生きようとします。勿論、綺麗な方がいいかもしれません。しかし、私たち人間の価値は、表面的な姿かたち、あるいは持ち物などによらないのです。もっと本質的なところで、すでに私たちは尊い者として生かされているのです。神さまに愛されるために生まれた者として。

Ⅳ.きみは愛されるため生まれた

私たちは「愛されるため生まれた」ということを、聖書ははっきりと語っています。そのことを、しっかりと受け止め、互いに伝えあい、祝福しあって生活していけたら、どんなに幸いでしょう。
今日の聖書の一番終わりのところには、イエスさまが、「子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された」と記されています。
これは聖書が教える「子育ての3つの基本」と呼ばれているものです。
「抱き上げる」とは、スキンシップをすること、子どもを触ることです。教育の専門家は、抱き上げることを通して、子どもには人を信頼する能力が培われるのだと語っていました。この世界は信頼できる世界である。人を信頼してよいのだ、と。だから、自分を預けてもよいのだ、という信頼感です。そのように信頼する力が与えられて、はじめて冒険心がわいてきます。そして、自分を発揮していくことができるのです。
第2にイエスさまは、子どもたちの上に「手を置」かれました。これは「祝福」ということと関係しているのですが、手を置くということは、祈るということです。
聖書の中に、「私は種を蒔き、アポロが水を注いだ。しかし、成長させたのは神です」という言葉があります。子どもたちを愛する神さまは、その子の成長を願うと共に、その子を成長させる力をもお持ちのお方です。
私たちは親として出来ることを果たしていきます。けれでも、どんなに頑張っても、時として出来ないことも起こるのです。場合によっては、子育てで行き詰まってしまうこともあるでしょう。そうした時に、この「成長させてくださるのは神さまです」という聖書の言葉を思い出していただきたいのです。そして「手を置いて」、子どもたちを愛し、守り、そして成長させてくださるご意思と力をお持ちの神さまに祈るのです。それが私たちに出来る事です。
子育ての基本の3番目は「祝福する」ということです。これは「褒める」ことです。何かを見つけて褒める。その子が、その子であることを認めることです。何故でしょう? その子は、「神さまに愛され、人に愛されるために生まれてきた尊い存在だから」です。
この時、イエスさまのこうした子どもへの接し方を見ていた周りの大人たちも、様々なことを感じたことでしょう。今、私たちは、イエスさまの姿からこのように大切なことを教えられるのです。
1970年12月の「みどり会報」の中に、みどり幼稚園の先生だったSさんの、子どもたちとのやりとりを書いた「アンテナ」という題の素敵な文章がありましたのでお読みします。

アンテナ

「末っ子モーリー」というイギリスの昔話を読んであげた日のことです。お弁当を食べ終わった何人かの子どもたちがこんなことを話し始めました。「僕、末っ子だよ」、「僕は次男で末っ子だよ」、「○○ちゃんは長女だよ。先生も長女でしょ」。年長組になって、自分と家族とのつながりもはっきり分かり、友達の家族にも関心を示すようになってきた子どもたちです。
私は、子どもたちの話しをしばらく聞いた後で、こんなふうに問いかけてみました。「ねえ、みんな! みんなは1人ひとり名前も違うし顔も違うでしょ。でもね、本当はみんな神さまを信じる人は、みんな兄弟ですよって、聖書に書いてあるの」。
子どもたちはびっくりしたように、「へぇー」と顔を見合わせて言いました。するとその中の1人が、「ああ、そうか。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である、だものね。イエスさまが一番上で、僕たちは下につながっているんだよね。だから兄弟なんでしょ。」と。大発見でもしたように、嬉しそうに言いました。
私は驚きました。この聖句はヨハネによる福音書15章5節で、一年前に、一房のぶどうをみんなで分け合いながら覚えたのです。この聖句が子どもの心の中に生きていて、このような会話の中に適切に、言葉になって出て来たのです。
幼い子どもの心は素直に何でも受け入れていきます。大人が意識的に、または無意識に与えるものすべてを。この大人にはない素直さは素晴らしいことで、ある時には羨ましさを覚えることもあります。しかしそのことは実に怖いことであることも思わずにはいられません。
子どもたちは私たち大人の言葉に耳を傾け行うことをよく見ています。また、時には心の動きを敏感に感じとることもあります。まさにアンテナです。そのことを思う時、神さまの前にあっては私たち大人も罪深い者であり、間違いを犯す者であることをも伝えなければなりませんが、それと共に、本当によいものをたくさん子どもたちに与えて行かなくてはならないと思うのです。
物質的な面でも精神的な面においても、豊かに多くの物がある中で、子どもにとって本当に必要な大切なものを、私たち大人は正しく選んで与えて行かなければならないと思うのです。大人は、子ども以上に、多くのことを敏感に感じ取ることの出来るアンテナでなくてはいけないかもしれません。

私は、この文章を読み、「幼子のようにならなければ、神の国に入ることは出来ません」と言われた主の言葉を思い出しました。大人である私たちに向かって言われた主イエスさまの言葉です。
今日は成長感謝礼拝ですが、聖書は私たち人間のことを「神の子」と表現します。神さまは大人になった私たちに対しても同じように、抱き上げ、手を置き、祈り、そして祝福してくださっています。そのことを経験するのが、日曜日の礼拝です。この礼拝の中で、私たちに対する、この神さまの愛を確認させていただきたいと願います。
お祈りいたします。