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主日共同の礼拝説教 敬老感謝礼拝

キリストと共に旅する喜び―敬老感謝礼拝

松本雅弘牧師
イザヤ書46章3-4節
ペトロの手紙一2章1-12節
2022年9月18日

Ⅰ. 敬老感謝礼拝とは

聖書は、私たち一人一人が、天国を目指した旅人であると教えています。ただ、ともすると目まぐるしく移り行く現代社会の中、時として教会もそうした波に飲み込まれることもあるかもしれませんが、しかしここ二年半は、コロナに見舞われ、否が応でも立ち止まらざるを得ない経験をしています。
そのような私たちにとって、聖書が教える、「私たちは旅人である」というメタファーはとても大切なことを気づかせてくれるのではないかと思うのです。その一つが、旅とは「行くべきところ」であり、場合によっては「帰るべきところ」と言い換えることが出来るかもしれません。
以前、日銀の総裁を務めた速水優さんが退任の記者会見で取材した記者が、「私にとって、この小柄な老人は、日銀総裁としてよりもキリスト者として強く記憶された。そして速水さんを取材すればするほど、『帰るべきところ』をもつ人なのだと感じ入ることになる」。速水さんのことを「帰るべきところを持つ人」と表現したことが、私の心に残りました。「帰るべきところ」というのは、神の御前ということでしょう。速水さんの総裁室には小部屋があって、そこに聖書が置かれ、難しい決断をする時に、そこに入って祈りを捧げたと言われます。そこ、すなわち神の御前が、速水さんにとって「帰るべきところ」だったのでしょう。でも、そのことをもっと膨らませて考えるならば、天の御国、と表現してもよいかもしれません。

Ⅱ. 旅人であり寄留者である私たち

使徒ペトロは、「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから…」(新共同訳による)と語り、私たちが、この地上にあっては、旅人であり仮住まい、寄留者である事実を思い起こさせています。では、私たちが天国を目指す旅人である、あるいは旅人としての私たち、ということはどういうことなのでしょう。
今年六月に、総会に参加した際、帰国直前のPCR検査で妻がコロナに罹患しているのが判明し、その後、私もコロナに罹ってしまいました。教会の皆さんにご心配をおかけしましたが、およそ二週間遅れで戻って来ることができました。帰って来てから妻とよく話しますが、帰るところがあるから旅は楽しいのだ、と。逆に行く先が分からなくてどこかに連れていかれるとしたら、本当に心配です。でも南林間に住まいがあるから、安心してアメリカでも、どこにでも行くことが出来る。そしてコロナに罹っても、ここに戻って来れると思うから、静かに療養できたと思います。
旅人とは、旅先に居る者、目的地を目指して途上に居る者ということでしょう。言い換えれば、この地上は、あくまでも「旅先」であるという理解です。
何十年、一つのところに住んだとしても、それは旅先であることに変りはない。本当の自分の故郷は天であり、この地上にあっては、あくまでも「仮住まいの身」、別の訳の聖書では「寄留者」であるという理解です。さらに、聖書によれば、主なる神さまは、旅の途上にあって人生の四季折々の喜びを備え、楽しませてくださるお方です。
先日、妻と驚いたのですが、だれも教えてもいない、誰も呼びかけてもいないのに、ちょうどこの時期になりますと、牧師館の庭に彼岸花がツツツツッツーと伸びて花を咲かせる。六月に、サンフランシスコのホテルに隔離されていた時、日本人教会の方が、ピンク色の紫陽花を花瓶に入れて持って来てくれましたが、それを眺めながら、南林間の牧師館に咲く紫陽花のことを本当に懐かしく思い出していました。
私たちの人生は旅ですから、超特急列車に飛び乗ってただ目的地に向かって突っ走るだけではありません。周りの風景を楽しみ、そこで出会わせていただいた人々と同伴する。時には同じ経験を分かち合うような、極めて人間らしい生き方です。
何十年も牧師である夫を支え教会のために尽くしてきた、ある牧師夫人が、若い牧師夫人たちが集う修養会で、「人生の四季折々を楽しむように」と熱く語っている講演を聴いたことがあります。子どもが小さい時、なかなか子育てを楽しむことができません。ただ過ぎ去ることだけを願う。新幹線にでも乗って、あっという間にそこを通過して、目的地に少しでも早く到着することだけを願う。でも、少し旅をしてきた者にとっての実感はどうだろう?〈もっと、ゆっくり、その時、その時を味わえばよかった〉〈あの時が本当に懐かしかった〉としみじみ思い起こすものだ、と語っていました。
人生は「旅」ですから、当然、目的地があります。ただそこに行くのにスピードを競っているのではない。その人その人のペースがある。一人ひとりの誕生日が違うように、一人ひとりの旅のペースもそれぞれなのです。ただ、今朝も覚えておきたいのですが、私たちの旅には、最良の同伴者である主イエスが共に旅をして下さっているという事実です。そのことをはっきりと語っているのが、今日の旧約聖書の朗読箇所、イザヤ書の御言葉なのではないでしょうか。これは、本当に慰めの言葉です。疲れて歩けなくなっても大丈夫。「私が背負う」と約束しておられるのです。私たちに向かって主なる神さまは、「母の胎を出た時から私に担われている者/腹を出た時から私に運ばれている者よ」と呼びかけておられる。
「あなたがたが年老いるまで、私は神。/あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。/私が造った。私が担おう。/私が背負って、救い出そう。」
勿論、実際には様々な人々の手を借りたり、介護されたりしてて支えられるのですが、そうした人々を遣わし、時宜にかなった様々な出来事や事柄を通し、神さまは最後の最後まで旅を導きますよ、と約束しておられる。ですから私たちは、そのお方に背負ってもらえばいい。まだ歩けるときは、イエスさまの後に従えばいい。そのお方に繋がりながら導いていただければいい。そのお方に励まされ慰めていただきながら旅を続けるのです。

Ⅲ. 「空手(くうしゅ)」

何年か前ですが、敬老感謝の祝いの歳を迎えた教会員の方から、「空手」と書いて「くうしゅ」と題された詩をいただきました。
《空手》
“いつだったか、何でだったか忘れたけど、この言葉を耳にし、また目にした。この言葉が心に残った。読んで字のごとしで手には何もない。「から」である。改めで、どういう意味なんだろう、と考えてた。
私の聞き取り違いか、見違いか分からないけれど、〈そうか〉と納得した。
それは、人は何も持たずに生まれてきた。そして、何も持たずに死んで行く、ということのようだ。
長年生きて来て、世の中の様々なしがらみに汚されてきた。その生涯が長ければ長いほど、身についたしがらみは大きい。
知恵や知識、名誉、知名度、財産、そうしたしがらみを脱ぎ捨ててはじめてかの地に迎えられる。
これこそ「浄化」と言えるのかもしれない。「浄化」されて初めて人は安らかになる。
この言葉と前後してまた新しい言葉が目に入った。「70歳からのひとり暮らし・・遠藤順子」のなかに「70歳すぎたら、おつりの人生」とあった。おつりの人生とは余分なおまけの人生という意味ではない。70歳という長い歳月を、自然から、動植物から恵みを受け、たくさんの人々に支えられ、守られて生きて来た。
70歳を機におつりの人生をどう送ればよいのだろうか。物を買った時、余計に払ったらおつりを返してもらうでしょう。人から与えられた分と人に与えた分の差額をおつりとしてお返しすることです。
誕生から今までどれほど多くのものを与えられて来たことだろう。それに比べて人に与えたことが何と少ないことかと思い知らされる。おつりとはボランティアとして社会に愛のお返しをすること。肉体的に働くことだけではない、ゆっくりと相手の話を聞くこともある。食事を共にすることも、手紙を送ることも、そうしているうちに自分も年を重ねて動けなくなる時がくる。
返しそびれたおつりはたくさん残っているかもしれないが、残りは残りで、その時はその分を周りに甘えるのも返すおつりかもしれない。そして、生涯のすべてを神に感謝して祈りの生活で終わる。こんな老いの生き方はどうだろう。一つひとつお返しして、身に付いているものを脱いで軽くなって、綺麗になってかの地に行きたいものである。“
この方が、最初に出合った「空手(くうしゅ)」という言葉、そして次に遠藤順子さんの「おつりの人生論」を頼りに、今一度、「与えられたもの」に目を留めることによって、その「与えられたもの」を与えてくださった恵みの神さまへの感謝と祈りへと導かれていきたい、という思いが伝わってきました。

Ⅳ. 同伴者・主イエスと歩む旅

冒頭でご紹介した速水さんですが、退任記者会見で、「キリスト教に関係のない方にとっては、何言っているんだ、という話かもしれないが」、と前置きをした上で次のようなことを語られました。
“イザヤ書という中に、『怖れるな、我は汝と共にある』という言葉がある。『主、共にいます』ということ。これが一つであり、神さまはいつでも私のそばに付いていてくれている。
二つ目は、「主、我を愛す」、これは、幼稚園の時に歌った歌だが、神さまは私を愛してくれているということ。
三つ目はやはり、「主、全てを知りたまう」、神さまは、どんなことがあっても全てのことを知っており、全てを知った上で正しい判断を行い、正しい事をやっていれば、神さまは守って下さるということ。そういう極めて単純な信仰を持って、事にあたって来たつもりだ。“
そして、この時、この話を聞いた記者が、説教の冒頭で紹介した言葉、「私にとって、この小柄な老人は、日銀総裁としてよりもキリスト者として強く記憶された。そして速水さんを取材すればするほど、『帰るべきところ』をもつ人なのだと感じ入ることになる」としみじみと語ったとおりです。「帰るべきところを持つ人」、私の心に残った表現です。
速水さんは、この分厚い聖書を執務室に置き、大切な決断をする時に読み、また手を置き祈られたと思いますが、つねに三つのことを覚えながら過ごしたと証ししています。第一は「主、共にいます」、第二は「主、我を愛す」、そして三つ目は、「主、全てを知りたまう」。この証しを聞いて以来、私も小さな手帳に、この三つを書き留め、時々、手帳を開いては、確認しながら毎日過ごしています。
「主、共にいます」、「主、我を愛す」、そして「主、全てを知りたまう」。このお方が、私たちの人生の旅を導き、ご自身が造ったがゆえに、担い、背負い、救ってくださる。この恵みの中に、今、私たちが生かされていることを覚えつつ、とくに一つの区切りとして75歳を迎えられた方々の上に、主からの祝福を祈り求めたいと思います。
お祈りします。

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私を強めてくださる方のお陰で―敬老感謝礼拝

松本雅弘牧師
イザヤ書46章3-4節
エフェソの信徒への手紙2章19-22節
2021年9月19日

Ⅰ.歳を重ねることの意味を聖書からとらえ直す

私たちは天国に向けての旅人、巡礼者同士です。お互いのペースで天国への旅をしています。決して歩く速さを競い合っているのではないのです。ゴールに着いて主と直接まみえる日を待ち望みつつ、そしてまた先に天に召された、愛する家族や親しい仲間たちとの再会を楽しみにしながら、巡礼の旅を味わい歩むのです。
そこには私たちにとって、もう一つの楽しみが待っています。ヨハネの黙示録を見ますと、ゴールにおいて、神は、私たちそれぞれに新しい名を用意して待っておられると書かれている御言葉があるのをご存じでしょうか。黙示録2章17節です。
「耳のある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。(次ですね)また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほか誰も知らない新しい名が記されている。」(黙示録2:17)
名前、それはその人にしか与えられないものです。アブラムにアブラハムという新しい名前、サウルにパウロという新しい名前が神さまに用意されたように、私のための名前、実は、巡礼の歩み、この地上でのクリスチャン生活は、その名にふさわしい正体へと信仰の成長をいただくためのプロセスでもあったでしょう。聖書によれば、私たちは最後の日に、新しい名をいただく。キリストに似た松本雅弘に変えられる。小石に記された新しい名をいただくということは、その名が表す新しい正体に変えられる、ということでしょう。
どんなに歳を重ねて、若い時のように体が言うことを聞かなくなってきたとしても、あるいは、様々な責任を若い者に譲り、具体的な働きが亡くなって行ったとしても、神に愛されている子としての私の身分は誰も取り去ることはできない。
聖書によるならば、私たちの価値とは、その人が何を持っているか、他人がその人を何と言っているかで決まるのではなく、一人ひとりは御子イエス・キリストの命と引き換えに神の子とされた尊い存在なので す。勿論、旅の最後には多少疲れも出て来ます。身体的な色々な部分も傷んでくるでしょう。しかし、最後、死を通して復活のキリストと同じように、新しい体に甦る時に、そこにあってすべてが新しくなることを覚えたいと思うのです。ですから、不都合なこと、それはもう少しの辛抱です。
私たち高座教会では、毎年この時期に、敬老感謝礼拝を捧げますが、歳を重ねることを聖書から、神さまの視点でとらえ直すことに敬老感謝礼拝の意義があるように思うのです。そして、敬愛する信仰の先輩、人生の先輩が、これからも健やかに、与えられた信仰の旅路をまっとうすることができるように、祝福を祈り求めることをしています。
今日、敬老感謝礼拝のために選びました聖書箇所から、神さまの目に映っている私たちの本質。自分が自分をどう評価しようと、神さまがあなたや私をどのような存在として愛しておられるのか、ということに焦点を絞って見ていきたいと思います。

Ⅱ.私たちは「聖なる者たちと同じ民」

19節をご覧ください。パウロはここで、あなたがたは「よそ者/外国人でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民である」と言いました。これは、キリストの十字架と復活を通して救いの恵みに与り、神の国の市民となった私たちが、もはや外国人専用の列ではなく、神の国の民の列に並ぶことが許され、「お帰りなさい。お疲れさま」と、無審査、無条件で神の国への入国が認められる存在とされたのだ、ということを言わんとしているのです。しかも、この地上にあって、すでに国籍を天に持つ者として、プライドを持って生きることが許されている。そして、もう一つ、「聖なる民」とあります。聖書で「聖なる」とは、「神さまのもの/神さまの所有になった」ということです。それが私たちです。

Ⅲ.神の家族、神の住まい

第2番目は何でしょうか。19節の続きを見ますと、そこでパウロは私たちのことを「神の家族の一員」と呼んでいます。
聖書が教える家族とは何でしょう。それは「ありのままの自分で居ていいところ」、何故なら、神さまが私たちをありのまま、そのままで受け入れ、愛してくださっているからです。色々な弱さや欠けを持ち、傷や痛みを抱える私たち一人ひとりの居場所、一人ひとりが大切にされる場、それが神の家族が集う教会という家庭。もっと言えば、面倒をかけたり、かけられたりすることが許されるところです。
「神の家族」には子どもも居るでしょう。若者たちも当然、居ます。働き盛りの現役世代、一線を退いたご高齢の兄弟姉妹。教会という神の家族は、そのような意味で、四世代ですから、各世代のニーズや興味関心も異なるでしょう。様々な意味で違う者同士の私たちが、教会の中でどのように交わるのか。そのことで、高座教会という「神の家族」の真価が問われているように思います。今、まさにKMOが取り組んでいる課題です。
そして3番目に、パウロはクリスチャンのこと、教会のことを「神の住まい」と呼んでいます。そして、その住まいの土台が、「使徒や預言者」、つまり新約と旧約からなる聖書が土台、さらに「隅の親石」が「キリスト・イエスご自身」だとパウロは教えています。
建物にとって土台は重要です。少なくとも次の2つの点で、そう言えます。第一に、土台が重要なのは、いざとなる時に物を言うから。そして第二に、土台は建物全体の将来を決定づけるから大事です。つまり土台を見れば、工事中の建物でも、完成時にどの程度の規模の建物になるのかを知ることが出来ます。
ところが、残念ながら、そんな大切な土台に私たちはあまり関心を払わないのですが、パウロは、「人目からは見えない隠された生活」、言い換えれば、「使徒や預言者」つまり、その人がどれだけ御言葉に根ざした生活の土台を持っているのかに注目し、なおかつ大事に考えています。
そして、「隅の親石」がキリストです。これは土台の角に置かれる大きなもので建物の方向性と大きさを左右する石です。その石がキリストですから、「ぶどうの木であるキリストと、どのような関係にあるか」が私たちの歩みの方向性、またその豊かさを、大きく左右するということでしょう。そして私たちは「神の住まい」です。神さまが私の心に、また私たちの交わりの中心に臨在しておられる。そのお方と共に生きる生活をどう楽しむのか、味わうのかが私たちクリスチャンに与えられた特権なのではないでしょうか。21節を見ますと、「神の住まい」という言葉に代わって「主の聖なる神殿」という表現が出て来ます。私たちは何者なのか。そうです!聖なる民、神の家族、そして聖霊が宿る神の住まいなのです。

Ⅳ.「心の目を開いてください」との祈り

最後になりますが、この時のパウロは、ローマの獄中にいました。ですから囚人です。しかも病を患っていた。肉体的にも精神的にも不自由を経験し、不満や不平を言い出したら切りがないような状況に置かれていたわけですが、不思議とパウロは不平や不満の塊ではなかったのです。なぜなのでしょう?結論から言えば、彼は囚人である以前に天に国籍がある神の国の市民であり、病人以前に神の家族に属する神の子としての誇りが心を支配していたからです。
神の子であり、神の民であり、神の住まいであることが、パウロにとっての第一義的アイデンティティ、囚人である以前に、そうした一つひとつのことが、全てに優先していたのです。この時、パウロは60歳を過ぎていたと言われます。当時、60歳というと、敬老のお祝いをされる年齢だったそうです。しかしパウロは、神さまの力を受けて霊的にみずみずしく若々しく、老人である以前に愛されている神の子、囚人である以前に神の恵みの全財産の相続者として生きていた。
私たちは年を重ねるにしたがって、様々な不自由を経験するでしょう。色々なところでの痛みや弱さを覚えます。ある人は頭角を現してきた若者を見て、自分が脅かされるような不安を経験するかもしれません。しかし、パウロと同じように、そうした1つひとつのことを、祈りを通して、神さまに委ねていきましょう。神さまが、私たちのことを心にかけていてくださるからです。
パウロは、エフェソの信徒への手紙の中で「心の目が照らされ、神の招きによる希望がどのようなものか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか、また、私たち信じる者に力強く働く神の力が、どれほど大きい物かを悟ることができますように。」(エフェソ1:18-19)と祈りましたように、何よりも神さまに心の目を照らしていただきたい。そしてこの恵みがいかに大きいものなのか、生活の中で味わいたいと思います。本日、敬老のお祝いを迎えられた御一人ひとりの上に主の祝福が豊かでありますようにとお祈り申し上げます。

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主は羊飼い

松本雅弘牧師
イザヤ書46章3―4節
ヨハネによる福音書10章7―14節
2020年9月13日

Ⅰ.敬老感謝礼拝の意義

今年はコロナの影響で、普段のような敬老感謝礼拝ができませんが、しかし、このようにオンライン礼拝ではありますが、私たちの信仰の先輩、人生の先輩方のことを覚えながら、礼拝を捧げることが出来る恵みを感謝しています。

ところで聖書にはたくさんの若者が登場します。モーセやヨシュア、そして士師記の時代に入りますと、ギデオン、サムソン、エフタといった指導者、さらにダビデも若き日の活躍が記録されています。新約に入っても主イエスの12弟子も若い時代に召され、パウロやテモテも青年の時にイエスとの出会いを経験した者たちです。しかし一方でまた、聖書には実に多くの重要な場面で年を重ねた人々が登場し大切な役割を果たしていることを知らされます。罪と悪とがはびこった時代に恵みを受けつぐ者として選ばれたのは年老いたノアでした。アブラハムとサラが祝福を受け約束の子イサクを授かったのも老人になってからです。確かにモーセは若い日に召命を受けましたが実際に出エジプトの大事業の担い手として用いられたのは80歳の時です。少年ダビデを見いだし油を注いだのは既に年老いた預言者サムエルでした。新約の時代に入り御子イエスの誕生を喜ぶ輪の中にはザカリアとエリサベトの老夫婦がおり、年を重ねたシメオンやアンナもおりました。確かに聖書は「天国は幼子のような者の国だ」と幼子性の大切さを教えますが同時に、教会は長老を敬うことによって成り立つ共同体であることを明確に説いています。

Ⅱ.背負ってくださる神さま

今日、選びました聖書個所は有名なイザヤ書46章3節と4節です。「わたしに聞け、ヤコブの家よ。イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」
この個所は「老後」に関しての教えというよりも、「神さまがどのようなお方なのか」ということについて語っています。私たちは、主の日に集い、神を礼拝し、「私たちが信じ、従う神さまは、このようなお方なのだ」と1週間を始めます。実際、今はコロナ禍で共に集って礼拝を捧げることができず、各家庭で動画を観ての礼拝となっていて大変残念なのですが、それでも日曜日に時間を聖別して、神さまをほめたたえる時を持つ。一週間の慌ただしい日々の生活のなかで、いつしか私を取り巻く出来事や生活のなかに起こって来る心配や問題の方が、神さまよりもっと大きなものに見えてしまう誘惑がある中で、もう一度、チャンネルを合わせるように、神さまに心のチャンネルを合わせ、新しい1週間をスタートするためにも、日曜日の礼拝は本当に大切な時間なのです。
詩編には、「神をほめたたえなさい!」とか「神さまを礼拝しなさい!」と勧める言葉がたくさん出て来ます。それは、神さまが礼拝されるにふさわしいお方であると同時に、「主をあがめることは、あなたの力です。賛美をささげることは、あなたの力です」と賛美しますように、礼拝することが生きる上での力になるからなのです。
日々の生活で、様々なことが起こります。健康の不安、経済的な問題、職場での人間関係、進路の問題、子育ての問題、もうありとあらゆる問題が、いつの間にか神さまよりも大きくなってしまう。心の全体を支配してしまう。まるで神の力の範囲を越えているかのように思えてしまい、神さまに期待せずに、自分でどうにかしようと思い煩いの淵に落ち込んで行ってしまう。ですから、主イエスは、こうした思い煩いの中に沈み込む私たちに向かい、「思い悩むな」とおっしゃるのです。
「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈りいれもせず、倉に収めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。あなたがたの天のお父さんは、そういうお方だから、思い悩まないでいいとおっしゃるのです。
主イエスと3年間、寝食を共にしたペトロも、「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけてくださるからです」と勧めていますが、何故、お任せできるのか、お任せしてよいのか。それは神さまがあなたのことを本当に心配していてくださる方だからです。しかも心配するだけでなく、問題から逃れる道を備えてくださる方だからです。その神さまが、「あなたたちの老いる日まで、白髪になるまで背負って行こう」と約束しておられるということなのです。ここに「負う」とか、「担う」とか「背負う」という言葉が出てきます。3つとも違う単語です。でも意味は同じようなものです。今日の新約の朗読箇所にもありますが、イエスさまが私たちの羊飼いとして、羊を養ってくださる。迷子になったら肩に背負って連れ戻してくださることが約束されているのです。
神さまは、私たちが小さい時に経験する、両親や家族に「抱かれ、おぶわれた」と同じように、私たち1人ひとりを背負ってくださるお方だ、と教えるのです。 この礼拝動画をご覧になっている75歳以上の兄弟姉妹が多くおられることと思います。年齢を重ね体力の衰えを感じる時に、神さまによって背負われるという信仰を持つことが出来たら、何と素晴らしいかと思います。

Ⅲ.「足あと」

こうしたテーマの説教をすると、いつも心に浮かぶのが、「足跡」という詩です。
「ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に2人のあしあとが残されていた。1つはわたしのあしあと、もう1つは主のあしあと。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには1つのあしあとしかなかった。わたしの人生で一番辛く、悲しい時だった。このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。『主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生の一番辛い時、1人のあしあとしかなかったのです。一番あなたを必要とした時に、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしには分りません。』
主は、ささやかれた。『わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとが1つだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた』」
神さまは背負ってくださる。共におられるだけではなく、歩けなくなる時、背負ってくださる。私に代わって、しっかりと大地を踏みしめて歩んでくださる。ですから本当に安心なのです。

Ⅳ.主は羊飼い

今日の説教に、「主は羊飼い」と付けました。でも聖書をよく読みますと、「わたしは羊飼い」とだけおっしゃったのではなく、「わたしは、…羊のために命を捨てる」とまで言われるのです。
「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(Ⅱコリント8章9節)使徒パウロの言葉です。
詩編23編を見ますと、私たちの羊飼いである神と共に歩む時、試練や苦しみの時期も含め、「死の陰の谷を行くときも・・わたしは災いを恐れない」とあるように、人生全体が善いものであり、憐みそのものとして見ることができる。私の羊飼いである、主イエス・キリストの神に、これからもずっと導かれ歩んで行きたいと願います。「わたしに聞け、ヤコブの家よ。イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」お祈りいたします。

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主にあって集い喜び分かち合う交わりの中で

松本雅弘牧師
ゼカリヤ書8章3~4節  使徒言行録2章14~21節
2019年9月15日

Ⅰ.敬老感謝礼拝とは

今日は敬老感謝礼拝です。今年の週報を見ますと、75歳以上の方たちのお名前がぐっと増えたように感じるのは私だけでしょうか。
テレビのコマーシャルを見ると世界には若者しかいないかのような錯覚に襲われます。でも、そうではありません。4世代が共に集い礼拝する教会では普通は経験できない、世代を超えた交わりがあります。そうした交わりのことを、「主を囲む交わり」、今年の主題である「主にあって集い喜び分かち合う交わり」と呼んでもよいのではないかと思います。
これからも信仰の先輩、人生の先輩が、主イエスの恵みと平安の内、健やかに信仰の旅路をまっとうされますようにと、感謝と祈りを捧げるのが、この敬老感謝礼拝の時です。今日は、そのようなことを覚えながら、御言葉を学んでいきたいと思います。

Ⅱ.預言者ゼカリヤの遣わされた時代

今日のために選んだ御言葉はゼカリヤ書です。この預言をしたゼカリヤは、今から2500年程前に活躍をしていた預言者でした。
ゼカリヤの活躍した時代は、ちょうど、世界を治めたペルシャのキュロス王の時代でした。彼は諸国の栄枯盛衰の歴史に学び、1つの結論に到達しました。それは、国が滅びるには理由があるということ。その理由とは、征服した国の人々が拝んでいた神を大事にしなかったからだ。故に、〈ペルシャの国が今後安泰であるためには、諸国の神々を怒らせ、敵に回してはならない〉ということでした。
そこでキュロスは、ユダヤ人達をバビロン捕囚から解放し、祖国に戻し、神殿を再建させ、そこでペルシャ帝国の繁栄と安寧を祈るようにと命令を出したのです。
ところがエルサレムに帰還したユダヤ人を待ち受けていたのは荒廃した都エルサレムと再建不可能なほどメチャメチャに破壊された神殿でした。ですから、再び絶望の底に落とされるような経験をしたのです。そうした時に、エルサレムの町の復興と再建を預言したのが、今日、取り上げたゼカリヤという預言者だったのです。
さて、ここでゼカリヤは、「エルサレムの広場には、再び、老爺、老婆が座するようになる」(ゼカリヤ8:4)と預言しています。
考えてみるとこれはたいへん不思議な内容です。今日はお歳を召した方々も大勢いらっしゃいますので多少失礼にあたるかもしれませんが、聞いていただきたいのです。普通、国や町の復興のために力となるのは老人パワーというよりも若い人の力でしょう。ところがゼカリヤは長寿のゆえに手に杖を持つ老人や老女たちが、道端に座っている姿を預言しているのです。
問題は、神さまの御心はどこにあったのかということですが、その手がかりとして、アモス書の次の言葉を思い出しました。「それゆえ、知恵ある者はこの時代に沈黙する。まことに、悪い時代だ」(アモス5:13)
「知恵ある人々が、黙り込んでしまう」というのです。理由は、「悪い時代だからだ」というのです。聖書は終始一貫して、老人は知恵ある者の代表として描かれています。お年寄りは家族や部族の中で、人生経験豊かであるがゆえに尊敬され、尊ばれてきました。ところが、その知恵ある年長者が沈黙する。
何故でしょう。「沈黙する」とは言い換えれば、知恵を語る場がなくなること。その時代の人々が聞く耳を持たなくなる、ということでしょうか。確かに、知恵者の知恵が時代の流れについていけなくなる、時代遅れとなるということも理由の1つかも知れません。
同時に、若者の側に、へりくだった思いが薄れ、知恵者に耳を傾けなくなって来る、と言った理由もあるかもしれません。どちらが先か分かりませんが、いずれにしても、老人が沈黙してしまう。年寄りの声が聞えなくなってくる。聖書によれば、「それは悪い時代の特徴だ」と教えるのです。
こうしたことを踏まえた上で、今日のゼカリヤ書の御言葉にもう一度注目したいのです。ゼカリヤは言います。「エルサレムの広場には、再び、老爺、老婆が座するようになる」と。神さまの恵みが行き届き、神さまの赦しの恵みが支配し、神さまの平安が覆っている世界にあって、まず老人が生き生きとして、広場に居場所が確保されているのです。
ここに「座する」という言葉が出て来ますが、もう若い人と同じように立っていなくてもいいのです。しゃがんでいてもよい。ゆっくりとした時間の流れの中で座る場所がある。そして皆で集まって語る。
そこの交わりの中に若い人が入って来て、何かを得ていくかどうかは、それは若い人の問題です。しかし、たとえそうでなくても、「エルサレムの広場には、再び、老爺、老婆が座するようになる。」つまり、そこに「オアシス」があったということです。

Ⅲ.オアシスとしての教会

ここでゼカリヤは、青年たちや元気な人々、軍人たちの姿にエルサレム再建の希望を見たのではありません。むしろ、道端に座りこみ、その日、その時を、何もしないで過ごしているように見える「老人や老女たち」の中に、再建されるエルサレムの姿を見ていたのです。
何故なら私たち人間はそのままで受け入れられる時に、不思議な力を経験する。喜びが湧いてくるからです。子どもたちやお年寄りが、神さまからすっぽりと受け入れられ、温かく大きな御手に守られて生きている姿を通し、周囲の人々は自分のことのように安心するからなのです。
会社で現役の人、子育て真っ最中のお母さん、お父さんは、今、まさに忙しく動きまわらなければならない年齢かもしれません。そして毎日、やることが一杯ある、若者たちは、一線を退かれた人生の先輩、信仰の先輩の方々が、最後の最後まで喜んで生きる姿を通して、その背後におられる神さまの恵みに触れて、自分の心も癒され、潤いをいただいていくのです。

Ⅳ.主にあって集い喜び分かち合う交わりの中で

ポール・トルニエは、『老いの意味』という本、その他たくさんの本を書いています。その中に『人生の四季』という本があります。
トルニエによれば、人生にも、この自然界同様に、春夏秋冬という四季がある、と言います。
「春」は「種まきの季節」です。「春」の時期に生きる人は、「種まきという生き方」が求められる。そして、その「春」に蒔いた種が育つのが「夏」です。夏は「収穫の秋」に向けて一生懸命、汗を流す季節です。そして「実りの秋」を迎えて、「冬」へと移行していきます。
そのように、「私たちの人生には四季があり、その時期にふさわしい生き方がある」と、トルニエは聖書から説いていました。4世代が集う教会の交わりに居ますと、その4つのシーズンを同時並行して見ることができる幸いに与れます。
子育て最中の人は、思春期の子どもたちを抱えている兄弟姉妹の姿を見て学ぶことができます。「今が一番よ」という先輩の言葉を、ちょうどその先輩が語ってくださった年齢に自分もなった時に、初めてその意味の深さを噛みしめるものでしょう。そして、先輩たちがどのように締めくくっていかれるのかを、年若い者たちが見せていただけるのも、教会の交わりの中にいることの特権だと思います。
先ほど「人生の諸段階」、そしてその「季節」にあった生き方があるのだ、と聖書は教えている、とお話ししましたが、現実の自分自身の歩みを振り返ってみる時、必ずしも、自分は「春」になすべきことが出来ていなかった。その「しわ寄せ」が「夏」に持ち越され、そして「秋」へと引き継がれ、正に今の自分がここにいる。まさに「蒔いた負の種の刈り入れ」をすることもたくさんあるように思います。
でも、どうでしょう。私たちの神さまは信仰の創始者であると共に、完成者でもあると聖書は教えています。つまり、私たちの人生で始めてくださったことを、必ず完成へと導いてくださるご意思と御力をお持ちのお方が神さまだ、というのです。
自分自身を振り返りますと、実に中途半端で、種蒔きも、働きも、その人生の諸段階で十分には出来ていないような負い目を感じることがあります。でも、そうした私に対して聖書は次のように語ります。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(フィリピ1:6)
神さまは、私の中に始めてくださった善き業を、必ず完成させてくださるお方であることを、このみ言葉は思い起こさせているのです。
今日は、「主にあって集い喜び分かち合う交わりの中で」というタイトルを付けさせていただきましたが、私たちの交わりの中に、私たちの人生の中に、主イエスがいてくださる時、そのお方は、その交わりの中で、またその交わりに与る私たちの中に、善き業を始め、それを必ず完成へと導いて下さる。そのお方が、高座教会の交わりのただ中に、そしてご高齢の方々、とくに人生の一区切りとして75歳を迎えられた方々の生活の中に居てくださるのです。
その恵みを、心から味わい、感謝したいと願います。お祈りします。

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主日共同の礼拝説教 敬老感謝礼拝

主イエスはわたしの羊飼い

2018年9月16日
敬老感謝礼拝
松本雅弘牧師
イザヤ書46章3~4節
ヨハネによる福音書10章7~14節

Ⅰ.敬老感謝礼拝の意義

お母さんのマリアと兄弟たちが、イエスさまを呼びにやって来た時のことです。大勢の人にとり囲まれているので、そこに居た人に呼びに行ってもらいました。
「母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、それに対して主イエスはおっしゃったのです。「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか。・・見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マルコ3:32-34)
「神の御心」とは主イエスを信じ従うようになることです。そうした人こそが自分にとってお母さんであり兄弟・姉妹なのだと、イエスさまは大切な真理をお話しされました。
そのように考えると、今日、週報に名前が掲載されている方々は、私たちにとってのお父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃん、そしてまた、兄弟姉妹ということになるでしょう。こうしてお祝いできますことを、本当にうれしく思います。
今日は敬老感謝礼拝です。高座教会では、信仰の先輩、人生の先輩である75歳以上の方々を、守り、導き、祝してくださる神様を共に礼拝し、これからもお一人お一人に祝福があるようにと、このような特別礼拝を行なっています。

Ⅱ.過去・現在・未来の私を背負ってくださる神さま

イザヤは次のような神の言葉を取り次ぎました。「わたしに聞け、ヤコブの家よ。イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46:3,4)
これは老後について教えているというより、神がどのようなお方なのかについて語っています。「あなたたちの老いる日まで、白髪になるまで背負って行こう」と、神さまが約束しておられるということなのです。
ところで、ここに「負う」とか、「担う」とか「背負う」という言葉が繰り返し出てきます。一つひとつ異なる言葉ですが、同じような意味があります。
新約聖書にも、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。・・・わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(ヨハネ10:10-14)とあるように、主イエスが私たちの羊飼いとして羊を養ってくださる。迷子になったら肩に背負って連れ戻してくださることが約束されています。
私は、イザヤ書のこの聖句を読むたびに子どもの頃の感覚が甦ってきます。母親や父親の背におぶさった時の記憶です。本当に心地良い。信頼して委ねれば家まで連れて行ってくれる。目覚めると布団の上にいるのです。
神さまは私たちが小さいころに経験した、両親や大人の人に「抱かれ、おぶわれた」と同じように、私たち一人ひとりを背負ってくださるお方だ、と聖書は教えているのです。
たった2節の短い聖書個所で、3節と4節も同じ内容の繰り返しのように読めます。でも注意して読むと1つ大きく違う点があることに気づきます。
それは3節が「神が今までしてくださったこと」を語っているのに対し、4節は「神がこれからの私の人生においてなそうと約束してくださっていること」が語られているということです。3節は今までのこと。4節はこれからのことです。
神さまは今まで何をしてくださったのでしょうか。これを思い巡らしたいと思うのです。そして、こうした恵みを数えることは、私たちの信仰に確かさを与えるのです。
就職の時、病気の時、子育て真っ最中の時、また、75歳以上の方は、皆さん、戦前、戦中、そして戦後を生きてこられましたから、大変な時に、思いもしなかったような形で、神さまに「背負われる」経験をされたでしょう。3節にあるように、「生まれた時から私を背負い、お母さんの胎を出た時から、担ってきてくださった」ということです。
聖書を読んでいくと、《今までになしてくださった神さまの御業》が、あらゆるところに出てきます。聖書の中に満ち満ちています。神により頼む者に対して、神さまがどんなに慈しみに満ちたお方であるか、そのことが繰り返し、繰り返し語られていくのです。
旧約聖書に記される神の民の歴史、彼らが神さまに対してどれほど反発し、神を無視してきたか。そして、「神の民、イスラエル」と呼ばれるに全くふさわしくない不信仰な歩みをしてきたのです。でも神さまは、そのイスラエルを愛し通されました。新約の時代になれば、そのイスラエルに与えた約束を、御子イエスさまの誕生という形で実現してくださったのです
そして4節です。最初に「同じように」と語られます。これは、「今までそうだったように」ということです。今までもそうだったように、これからも「あなたが老いて、髪の毛が真っ白になるまで、おんぶし続けますよ」というのが、ここで言われていることです。

Ⅲ.「あしあと」

「神さまに背負われる」とは《神さまが最終的に責任をとってくださる》ということでしょう。「あしあと」という詩をご存知でしょうか。こんな詩です。
「ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に2人のあしあとが残されていた。1つはわたしのあしあと、もう1つは主のあしあと。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには1つのあしあとしかなかった。わたしの人生で一番辛く、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。『主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生の一番辛い時、1人のあしあとしかなかったのです。一番あなたを必要とした時に、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしには分りません。』
主は、ささやかれた。『わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとが1つだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた』」
今日の御言葉で預言者イザヤは言うのです。神さまが私を背負ってくださる。共にいてくださるだけではなく、歩けなくなる時、主が私たちを背負ってくださる。そして、私に代わって、しっかりと大地を踏みしめて歩んでくださるというのです。ですから、本当に安心です。

Ⅳ.主イエスはわたしの羊飼い

今日は、「主イエスはわたしの羊飼い」と説教題をつけました。でも後になって考えたのですが、主イエスは、「わたしは羊飼い」と言われただけでなく、「わたしは、…羊のために命を捨てる」とまでおっしゃったのです。
パウロは、そのお方のことを、こんな風に表現しました。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(コリントⅡ 8:9)
羊飼いなる神は、豊かに与えてくださる気前のよいお方です。ですから私たちにとって欠けはありませんし、むしろ豊かにされるのです。
そして、そのお方は私たちを憩いへと招き、そこで私たちは回復し、活力を取り戻します。痛みを伴うような、最も苦しい場面においてさえも、羊飼いなる神さまは、私たちを導き、逃れの道を用意してくださるのです。いつも、どんな時も私たちと共に居てくださるので、私たちは恐れることなく生きることができるのです。
「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。」(詩編23:5)
私たちに危害を加えようとする者たちの前にあったとしても、羊飼いなる神さまは、私たちのために、何と「食卓」さえも準備してくださるのです。私たちの必要を満たしてくださるだけではなく、必要以上に豊かに施してくださり、私たちの杯を溢れさせてくださるのです。さらに、「死の陰の谷を行くときも・・わたしは災いを恐れない」(4節)とあるように、私たちの羊飼いである神さまが共に歩んでくださる時、試練や苦しみに遭う、そのような時期をも含めて、人生全体が善いものであり、主の憐みそのものとして見ることができるというのです。
なぜなら、主イエスこそ、私の羊飼いなるお方だからです。その羊飼いに導かれ歩んで行きたいと心から願います。
「わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」
お祈りいたします。