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主日共同の礼拝説教 敬老感謝礼拝

主にあって集い喜び分かち合う交わりの中で

松本雅弘牧師
ゼカリヤ書8章3~4節  使徒言行録2章14~21節
2019年9月15日

Ⅰ.敬老感謝礼拝とは

今日は敬老感謝礼拝です。今年の週報を見ますと、75歳以上の方たちのお名前がぐっと増えたように感じるのは私だけでしょうか。
テレビのコマーシャルを見ると世界には若者しかいないかのような錯覚に襲われます。でも、そうではありません。4世代が共に集い礼拝する教会では普通は経験できない、世代を超えた交わりがあります。そうした交わりのことを、「主を囲む交わり」、今年の主題である「主にあって集い喜び分かち合う交わり」と呼んでもよいのではないかと思います。
これからも信仰の先輩、人生の先輩が、主イエスの恵みと平安の内、健やかに信仰の旅路をまっとうされますようにと、感謝と祈りを捧げるのが、この敬老感謝礼拝の時です。今日は、そのようなことを覚えながら、御言葉を学んでいきたいと思います。

Ⅱ.預言者ゼカリヤの遣わされた時代

今日のために選んだ御言葉はゼカリヤ書です。この預言をしたゼカリヤは、今から2500年程前に活躍をしていた預言者でした。
ゼカリヤの活躍した時代は、ちょうど、世界を治めたペルシャのキュロス王の時代でした。彼は諸国の栄枯盛衰の歴史に学び、1つの結論に到達しました。それは、国が滅びるには理由があるということ。その理由とは、征服した国の人々が拝んでいた神を大事にしなかったからだ。故に、〈ペルシャの国が今後安泰であるためには、諸国の神々を怒らせ、敵に回してはならない〉ということでした。
そこでキュロスは、ユダヤ人達をバビロン捕囚から解放し、祖国に戻し、神殿を再建させ、そこでペルシャ帝国の繁栄と安寧を祈るようにと命令を出したのです。
ところがエルサレムに帰還したユダヤ人を待ち受けていたのは荒廃した都エルサレムと再建不可能なほどメチャメチャに破壊された神殿でした。ですから、再び絶望の底に落とされるような経験をしたのです。そうした時に、エルサレムの町の復興と再建を預言したのが、今日、取り上げたゼカリヤという預言者だったのです。
さて、ここでゼカリヤは、「エルサレムの広場には、再び、老爺、老婆が座するようになる」(ゼカリヤ8:4)と預言しています。
考えてみるとこれはたいへん不思議な内容です。今日はお歳を召した方々も大勢いらっしゃいますので多少失礼にあたるかもしれませんが、聞いていただきたいのです。普通、国や町の復興のために力となるのは老人パワーというよりも若い人の力でしょう。ところがゼカリヤは長寿のゆえに手に杖を持つ老人や老女たちが、道端に座っている姿を預言しているのです。
問題は、神さまの御心はどこにあったのかということですが、その手がかりとして、アモス書の次の言葉を思い出しました。「それゆえ、知恵ある者はこの時代に沈黙する。まことに、悪い時代だ」(アモス5:13)
「知恵ある人々が、黙り込んでしまう」というのです。理由は、「悪い時代だからだ」というのです。聖書は終始一貫して、老人は知恵ある者の代表として描かれています。お年寄りは家族や部族の中で、人生経験豊かであるがゆえに尊敬され、尊ばれてきました。ところが、その知恵ある年長者が沈黙する。
何故でしょう。「沈黙する」とは言い換えれば、知恵を語る場がなくなること。その時代の人々が聞く耳を持たなくなる、ということでしょうか。確かに、知恵者の知恵が時代の流れについていけなくなる、時代遅れとなるということも理由の1つかも知れません。
同時に、若者の側に、へりくだった思いが薄れ、知恵者に耳を傾けなくなって来る、と言った理由もあるかもしれません。どちらが先か分かりませんが、いずれにしても、老人が沈黙してしまう。年寄りの声が聞えなくなってくる。聖書によれば、「それは悪い時代の特徴だ」と教えるのです。
こうしたことを踏まえた上で、今日のゼカリヤ書の御言葉にもう一度注目したいのです。ゼカリヤは言います。「エルサレムの広場には、再び、老爺、老婆が座するようになる」と。神さまの恵みが行き届き、神さまの赦しの恵みが支配し、神さまの平安が覆っている世界にあって、まず老人が生き生きとして、広場に居場所が確保されているのです。
ここに「座する」という言葉が出て来ますが、もう若い人と同じように立っていなくてもいいのです。しゃがんでいてもよい。ゆっくりとした時間の流れの中で座る場所がある。そして皆で集まって語る。
そこの交わりの中に若い人が入って来て、何かを得ていくかどうかは、それは若い人の問題です。しかし、たとえそうでなくても、「エルサレムの広場には、再び、老爺、老婆が座するようになる。」つまり、そこに「オアシス」があったということです。

Ⅲ.オアシスとしての教会

ここでゼカリヤは、青年たちや元気な人々、軍人たちの姿にエルサレム再建の希望を見たのではありません。むしろ、道端に座りこみ、その日、その時を、何もしないで過ごしているように見える「老人や老女たち」の中に、再建されるエルサレムの姿を見ていたのです。
何故なら私たち人間はそのままで受け入れられる時に、不思議な力を経験する。喜びが湧いてくるからです。子どもたちやお年寄りが、神さまからすっぽりと受け入れられ、温かく大きな御手に守られて生きている姿を通し、周囲の人々は自分のことのように安心するからなのです。
会社で現役の人、子育て真っ最中のお母さん、お父さんは、今、まさに忙しく動きまわらなければならない年齢かもしれません。そして毎日、やることが一杯ある、若者たちは、一線を退かれた人生の先輩、信仰の先輩の方々が、最後の最後まで喜んで生きる姿を通して、その背後におられる神さまの恵みに触れて、自分の心も癒され、潤いをいただいていくのです。

Ⅳ.主にあって集い喜び分かち合う交わりの中で

ポール・トルニエは、『老いの意味』という本、その他たくさんの本を書いています。その中に『人生の四季』という本があります。
トルニエによれば、人生にも、この自然界同様に、春夏秋冬という四季がある、と言います。
「春」は「種まきの季節」です。「春」の時期に生きる人は、「種まきという生き方」が求められる。そして、その「春」に蒔いた種が育つのが「夏」です。夏は「収穫の秋」に向けて一生懸命、汗を流す季節です。そして「実りの秋」を迎えて、「冬」へと移行していきます。
そのように、「私たちの人生には四季があり、その時期にふさわしい生き方がある」と、トルニエは聖書から説いていました。4世代が集う教会の交わりに居ますと、その4つのシーズンを同時並行して見ることができる幸いに与れます。
子育て最中の人は、思春期の子どもたちを抱えている兄弟姉妹の姿を見て学ぶことができます。「今が一番よ」という先輩の言葉を、ちょうどその先輩が語ってくださった年齢に自分もなった時に、初めてその意味の深さを噛みしめるものでしょう。そして、先輩たちがどのように締めくくっていかれるのかを、年若い者たちが見せていただけるのも、教会の交わりの中にいることの特権だと思います。
先ほど「人生の諸段階」、そしてその「季節」にあった生き方があるのだ、と聖書は教えている、とお話ししましたが、現実の自分自身の歩みを振り返ってみる時、必ずしも、自分は「春」になすべきことが出来ていなかった。その「しわ寄せ」が「夏」に持ち越され、そして「秋」へと引き継がれ、正に今の自分がここにいる。まさに「蒔いた負の種の刈り入れ」をすることもたくさんあるように思います。
でも、どうでしょう。私たちの神さまは信仰の創始者であると共に、完成者でもあると聖書は教えています。つまり、私たちの人生で始めてくださったことを、必ず完成へと導いてくださるご意思と御力をお持ちのお方が神さまだ、というのです。
自分自身を振り返りますと、実に中途半端で、種蒔きも、働きも、その人生の諸段階で十分には出来ていないような負い目を感じることがあります。でも、そうした私に対して聖書は次のように語ります。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(フィリピ1:6)
神さまは、私の中に始めてくださった善き業を、必ず完成させてくださるお方であることを、このみ言葉は思い起こさせているのです。
今日は、「主にあって集い喜び分かち合う交わりの中で」というタイトルを付けさせていただきましたが、私たちの交わりの中に、私たちの人生の中に、主イエスがいてくださる時、そのお方は、その交わりの中で、またその交わりに与る私たちの中に、善き業を始め、それを必ず完成へと導いて下さる。そのお方が、高座教会の交わりのただ中に、そしてご高齢の方々、とくに人生の一区切りとして75歳を迎えられた方々の生活の中に居てくださるのです。
その恵みを、心から味わい、感謝したいと願います。お祈りします。

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主イエスはわたしの羊飼い

2018年9月16日
敬老感謝礼拝
松本雅弘牧師
イザヤ書46章3~4節
ヨハネによる福音書10章7~14節

Ⅰ.敬老感謝礼拝の意義

お母さんのマリアと兄弟たちが、イエスさまを呼びにやって来た時のことです。大勢の人にとり囲まれているので、そこに居た人に呼びに行ってもらいました。
「母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、それに対して主イエスはおっしゃったのです。「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか。・・見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マルコ3:32-34)
「神の御心」とは主イエスを信じ従うようになることです。そうした人こそが自分にとってお母さんであり兄弟・姉妹なのだと、イエスさまは大切な真理をお話しされました。
そのように考えると、今日、週報に名前が掲載されている方々は、私たちにとってのお父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃん、そしてまた、兄弟姉妹ということになるでしょう。こうしてお祝いできますことを、本当にうれしく思います。
今日は敬老感謝礼拝です。高座教会では、信仰の先輩、人生の先輩である75歳以上の方々を、守り、導き、祝してくださる神様を共に礼拝し、これからもお一人お一人に祝福があるようにと、このような特別礼拝を行なっています。

Ⅱ.過去・現在・未来の私を背負ってくださる神さま

イザヤは次のような神の言葉を取り次ぎました。「わたしに聞け、ヤコブの家よ。イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46:3,4)
これは老後について教えているというより、神がどのようなお方なのかについて語っています。「あなたたちの老いる日まで、白髪になるまで背負って行こう」と、神さまが約束しておられるということなのです。
ところで、ここに「負う」とか、「担う」とか「背負う」という言葉が繰り返し出てきます。一つひとつ異なる言葉ですが、同じような意味があります。
新約聖書にも、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。・・・わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(ヨハネ10:10-14)とあるように、主イエスが私たちの羊飼いとして羊を養ってくださる。迷子になったら肩に背負って連れ戻してくださることが約束されています。
私は、イザヤ書のこの聖句を読むたびに子どもの頃の感覚が甦ってきます。母親や父親の背におぶさった時の記憶です。本当に心地良い。信頼して委ねれば家まで連れて行ってくれる。目覚めると布団の上にいるのです。
神さまは私たちが小さいころに経験した、両親や大人の人に「抱かれ、おぶわれた」と同じように、私たち一人ひとりを背負ってくださるお方だ、と聖書は教えているのです。
たった2節の短い聖書個所で、3節と4節も同じ内容の繰り返しのように読めます。でも注意して読むと1つ大きく違う点があることに気づきます。
それは3節が「神が今までしてくださったこと」を語っているのに対し、4節は「神がこれからの私の人生においてなそうと約束してくださっていること」が語られているということです。3節は今までのこと。4節はこれからのことです。
神さまは今まで何をしてくださったのでしょうか。これを思い巡らしたいと思うのです。そして、こうした恵みを数えることは、私たちの信仰に確かさを与えるのです。
就職の時、病気の時、子育て真っ最中の時、また、75歳以上の方は、皆さん、戦前、戦中、そして戦後を生きてこられましたから、大変な時に、思いもしなかったような形で、神さまに「背負われる」経験をされたでしょう。3節にあるように、「生まれた時から私を背負い、お母さんの胎を出た時から、担ってきてくださった」ということです。
聖書を読んでいくと、《今までになしてくださった神さまの御業》が、あらゆるところに出てきます。聖書の中に満ち満ちています。神により頼む者に対して、神さまがどんなに慈しみに満ちたお方であるか、そのことが繰り返し、繰り返し語られていくのです。
旧約聖書に記される神の民の歴史、彼らが神さまに対してどれほど反発し、神を無視してきたか。そして、「神の民、イスラエル」と呼ばれるに全くふさわしくない不信仰な歩みをしてきたのです。でも神さまは、そのイスラエルを愛し通されました。新約の時代になれば、そのイスラエルに与えた約束を、御子イエスさまの誕生という形で実現してくださったのです
そして4節です。最初に「同じように」と語られます。これは、「今までそうだったように」ということです。今までもそうだったように、これからも「あなたが老いて、髪の毛が真っ白になるまで、おんぶし続けますよ」というのが、ここで言われていることです。

Ⅲ.「あしあと」

「神さまに背負われる」とは《神さまが最終的に責任をとってくださる》ということでしょう。「あしあと」という詩をご存知でしょうか。こんな詩です。
「ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に2人のあしあとが残されていた。1つはわたしのあしあと、もう1つは主のあしあと。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには1つのあしあとしかなかった。わたしの人生で一番辛く、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。『主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生の一番辛い時、1人のあしあとしかなかったのです。一番あなたを必要とした時に、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしには分りません。』
主は、ささやかれた。『わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとが1つだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた』」
今日の御言葉で預言者イザヤは言うのです。神さまが私を背負ってくださる。共にいてくださるだけではなく、歩けなくなる時、主が私たちを背負ってくださる。そして、私に代わって、しっかりと大地を踏みしめて歩んでくださるというのです。ですから、本当に安心です。

Ⅳ.主イエスはわたしの羊飼い

今日は、「主イエスはわたしの羊飼い」と説教題をつけました。でも後になって考えたのですが、主イエスは、「わたしは羊飼い」と言われただけでなく、「わたしは、…羊のために命を捨てる」とまでおっしゃったのです。
パウロは、そのお方のことを、こんな風に表現しました。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(コリントⅡ 8:9)
羊飼いなる神は、豊かに与えてくださる気前のよいお方です。ですから私たちにとって欠けはありませんし、むしろ豊かにされるのです。
そして、そのお方は私たちを憩いへと招き、そこで私たちは回復し、活力を取り戻します。痛みを伴うような、最も苦しい場面においてさえも、羊飼いなる神さまは、私たちを導き、逃れの道を用意してくださるのです。いつも、どんな時も私たちと共に居てくださるので、私たちは恐れることなく生きることができるのです。
「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。」(詩編23:5)
私たちに危害を加えようとする者たちの前にあったとしても、羊飼いなる神さまは、私たちのために、何と「食卓」さえも準備してくださるのです。私たちの必要を満たしてくださるだけではなく、必要以上に豊かに施してくださり、私たちの杯を溢れさせてくださるのです。さらに、「死の陰の谷を行くときも・・わたしは災いを恐れない」(4節)とあるように、私たちの羊飼いである神さまが共に歩んでくださる時、試練や苦しみに遭う、そのような時期をも含めて、人生全体が善いものであり、主の憐みそのものとして見ることができるというのです。
なぜなら、主イエスこそ、私の羊飼いなるお方だからです。その羊飼いに導かれ歩んで行きたいと心から願います。
「わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」
お祈りいたします。

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人生を完成へと導かれる神

2017年9月17日
敬老感謝礼拝
松本雅弘牧師
イザヤ書43章1~5節前半
フィリピの信徒への手紙1章3~11節

Ⅰ.敬老感謝礼拝の意義

高座教会では、75歳以上の、信仰の先輩、人生の先輩の方々を守り、導き、祝してくださる神さまを礼拝し、また、これからもお一人ひとりに祝福があるようにと願って敬老感謝礼拝を行なっています。今日はその敬老感謝礼拝です。
ある時、イエスの母マリアと兄弟たちが、主イエスを呼びにやって来ました。大勢の人たちが集まっていましたので、すぐに会うことができません。そのために近くにいた人に呼びに行ってもらいました。頼まれた人はイエスさまにそのことを伝えます。するとイエスさまは「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか。・・見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と言われたのです。「神の御心」とは、人がイエスさまを信じ従うようになることです。そうした「神の御心を行う人」が、自分にとってお母さんであり兄弟なのだと、イエスさまは大切な真理をお話しされました。
ですから、イエスさまの教えによるならば、キリストを信じる者同士は、血縁の家族を超えて、霊で結ばれた神の家族の一員になったということです。今日の週報にお名前が掲載されている方々は、私たちにとってのお父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃん、ということになるでしょう。そして、こうしてお祝いできますことを、本当に嬉しく思うのです。
私は牧師をしていますので、色々な機会に教会員の方たちの「家族の物語」を聞く機会に恵まれています。そして「家族の物語」は、主にある物語でもあるわけですから、必ず「神の家族の物語」につながり「聖書の物語」と響き合うのです。
聖書には、年を重ねることに関する示唆深い言葉がたくさんあります。その1つが、箴言16章31節です。「白髪は輝く冠、神に従う道に見出される」。またレビ記19章32節には、「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である」とあり、聖書は、高齢者に対する固有の美しさや価値を語っています。
聖書が教えていることで、特に心に留めたいこと、それは、人生には四季があり、四季にふさわしい生き方があるという教えです。

Ⅱ.賛美することは、私の生きる力

さて、今日も私たちは、キリストの復活を記念する「主の日」に集い、神さまをあがめ、「私たちが信じ従う神さまは、このようなお方なのだ」と確信して、新しい1週間の歩みを始めます。このようにして、健康が守られ、ゆるされて主の日の礼拝に集うことが出来る、これは、どんなに豊かな恵みかと思います。
聖書の詩編には、「神をほめたたえなさい!」とか、「神さまを礼拝しなさい!」という勧めの言葉が多くあります。それは、神さまが礼拝されるにふさわしいお方であると同時に、「主をあがめ、賛美することが、私たちの生きる力になる」からです。
イエスさまと3年間寝食を共にしたペトロは、「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけてくださるからです」と勧めています。
私たちは、1週間の最初の日に、こうして神さまの御前に礼拝をささげるために集うこと、そして、日々の生活のどこかで、神さまの前に静まって、神さまはいったいどのようなお方で、今、自分が抱えている問題、直面している困難や課題にどう関わってくださるお方なのかを思い巡らすこと、そして、神さまをあがめ、賛美をささげることを大切にしていきます。
それがペトロの教える、「神の力強い御手の下に自分を低くし、思い煩いを何もかも神さまにお任せする」ということです。何故、お任せできるのでしょう。それは、私たちの神さまが、私たちのことを心にかけてくださるお方だからです。

Ⅲ.神はどのようなお方? その神にとって私はどのような存在?

2つ目のことに移りたいと思います。聖書は、神さまがどのようなお方なのか、神さまにとって私たち一人ひとりはどのような存在なのかについて教えています。
今日、お読みしたイザヤ書は、神さまのことを「あなたを創造された主」、「あなたを造られた主」と呼んでいます。そして、そのお方は、私たちの名前を呼んでくださり、また「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる」、だから、「大河の中を通っても、あなたは押し流されない」し、また、そのお方が共にいてくださるが故に、「火の中を歩いても、焼かれ」ることはなく、「炎はあなたに燃えつかない」とあります。このようなお方が、私たちの主なる神さまです。
今日は敬老感謝礼拝ですから、75歳以上の兄弟姉妹が多く集まっておられます。今年の名簿には新たに22名の方たちが加わりました。
人生の先輩のお一人ひとりが、これまでの歩みを振り返る時に、水の中を通るような経験、また火の中を通るような経験を味わってきたという方もおられることでしょう。いや、先輩だけでなく、どの年齢の人にとっても、日々の生活の中で、私たちは、水の中や火の中を通るような出来事に遭遇ことがあるかもしれません。そうした難しい出来事に遭遇すると、当然、恐れをなし、尻込みしてしまうのが私たちです。そして、その季節にふさわしい生き方をするようにと言われても、そうできない。あるいはできてこなかったかもしれません。しかし神さまは、そうした私たちに対して「恐れるな。恐れることはない。私はあなたを離れることなく、いつも共にいるのだから。そして救い出すのだから」と言われるのです。
今日のイザヤ書の御言葉は、そのような意味で、とても励ましに満ちた聖書の箇所ではないでしょうか。イザヤ書43章のこの御言葉は、神さまがどのようなお方なのか、また神さまにとって私たち一人ひとりはどのような存在なのかについて教えています。そのことが4節によく表現されています。この個所を、新改訳聖書は次のように訳しています。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
神さまはこの私をご覧になり、「あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言われます。どれほど愛しているかと言えば、「だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ」。それほど愛しているというのです。
もし、この事実を私たちの心の深いところで悟り、常に受け止めることができたら、どんなに心安らかでしょう。
そして、どうでしょう。事柄に着手されるお方は、事柄を完成されるお方でもある、と聖書は教えています。創造者なる神は、被造物を完成へと導かれる御意思と御力を持ったお方なのです。ですから、私たちは、このお方に、安心して私の今を、これからのこと、私の家族のこと、仕事のこと、子どもたちのこと、1つひとつを委ねることができるのです。

Ⅳ.人生を完成へと導かれる神

聖書は、私たちに「人生の諸段階」、もしくは「時期」にあった生き方があるのだと教えているということをお話させていただきました。
今、自らの歩みを振り返ってみる時、私たちは、「春」になすべきことが出来ずにいたために、その「しわ寄せ」が「夏」に持ち越され、そして「秋」へと引き継がれ、今がある。まさに「蒔いた種の刈り入れ」をすることがたくさんあるのではないでしょうか。
しかし、どうでしょう。私たちの神さまは創造主なるお方です。事を始めると共に、事を完成へと導いてくださる意思と力をお持ちのお方である、ということです。
私たちは不完全で、種まきも、刈り入れも、その働きそのものが人生の諸段階で十分には出来ていないという負い目を持っております。しかし、創造主なるそのお方は私たちを造り、そして完成へと導いておられるお方であります。
フィリピの信徒への手紙1章6節に次のような言葉がありました。
「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」
時として、私たちは、自分の人生に納得いかないこと、あるいは、現実の年齢を受け入れることに困難さを覚えることなどがあるのではないでしょうか。
しかし、私たちは主にあっていつしか完成される、「工事中」、「プロセス途中」のものであるということ。そして、完成してくださる、創造者なる神さまが、共におられることを信じたいと思うのです。
この恵みの中に生かされていることを覚えつつ、一つの区切りとして、75歳を迎えられた方々の上に、主からの祝福を祈り求めたいと思います。
お祈りします。

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聖書に学ぶ―歳をとることの意味

2016年9月11日 敬老感謝礼拝
松本雅弘牧師
詩編90編1~12節
コリントの信徒への手紙二 3章18節

Ⅰ.お誕生日カードを書きながら思うこと

高座教会の牧師の務めの1つに、教会員の皆さまにお誕生日カードを書くというものがあります。1歳になった赤ちゃんから、ご高齢の方に至るまで、たぶん、毎月100枚ほどのカードを書かせていただいていると思います。そのカードには「お誕生日、おめでとうございます」と初めから印刷されているのですが、ふと私は、自分のことと重ねあわせながら考えることがあります。「お誕生日、おめでとうございます」と他人から言われることは嬉しいのですが、でも歳を重ねることがおめでたいことと思えない自分を発見し、カードを書きながら少し複雑な思いになることがあります。それは歳を重ねるということは、一体どういう意味なのだろうかと最近思うからです。
今日は敬老感謝礼拝です。聖書から「歳をとることの意味」について、ご一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ.聖書における子ども・若者と年長者

聖書全体を眺めてみるとき、そこにはたくさんの若者が登場します。例えば、モーセは若くして神さまの召しを感じました。その後継者のヨシュアもそうです。ダビデについては言うまでもありません。若き日の彼らの活躍が聖書に記録されています。新約の時代に入っても、12人の弟子たちも若い時代に召された者たちばかりですし、パウロもテモテも若い時にイエスとの出会いを経験した者たちばかりです。
しかし一方でまた聖書は実に多くの重要な場所で老人を描いていることも否定できません。洪水の直前に選ばれたのは既に年老いたノアでした。アブラハムとサラが祝福を受け、約束の子イサクを授かったのは夫婦ともに老人になってからです。
少年ダビデを見いだし、将来必ずイスラエルの王になるべき器として油を注いだのは、既に年老いた預言者サムエルです。新約の時代に至っては、幼子イエスの誕生を喜ぶ輪の中にはザカリアとエリサベトの老夫婦がおり、年を重ねたシメオンやアンナもイエスの誕生を祝福している姿が出て来ます。
私たちカンバーランド長老教会は長老派の教会ですが、私たちの教会における「長老」の職務は、特に初代教会の時代から尊ばれ、その職務に就く人を敬うという伝統がありました。「長老」とはギリシャ語で「プレスビテロス」という言葉ですが、それは単に「歳を重ねた者」というだけではなく、信仰の年輪を刻み、信仰の経験を深めている者を呼ぶ呼び名であったことは間違いないようなのです。
さらにこの「長老」という言葉が出てくる箇所を調べれば、「町ごとに長老たちを立ててもらうためです」(テトス1:5)とか「弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し」(使徒14:23)などの聖句があり、こうした聖句を通して教えられることとは、牧師や伝道者の主なる務めが、実に町々に長老を立て、そのようにして教会という信仰共同体を形成することにあったことが分かるのです。
教会は、「天国は幼子のような者の国だ」と、幼児性の大切さを教えられつつ、同時にもう一方で、教会とは長老を敬うことによって成り立つ共同体であるということを、聖書は明確に説いているように思います。パウロもコリントに宛てた手紙で、「悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。」(Ⅰコリント14:20)と勧めています。さらに「信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります」(Ⅰコリント2:6)と言って、歳を重ねるということは「信仰に成熟」していく道を進むことなのだと教えるのです。
このような聖書の教えの中に、私たち信仰者が歳を重ねていくことの意味や目的が教えられているように思うのです。

Ⅲ.聖書における歳をとることの意味

ところで、ここで1つ考えてみたいことがあります。それは、歳を重ねることが、信仰に成熟していく道だとしても、それがなぜ一足飛びに実現するのでなく、1年1年というプロセスを経ながら起こって来ることなのかという点です。
この問いかけに対する結論から言うならば、それは私たちの主イエスさまご自身が、この地上において1年1年と歳を加えて歩んでいかれたから。それがイエスさまの歩まれ方だったからだ、というのが聖書の答えです。
例えばヘブライ人への手紙5章8節に、イエスさまが地上での年月を歩まれたことの意義を示す御言葉が出て来ます。「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」。こうした聖句を読む時に、そこにはイエスさまが一瞬に、あるいは一足飛びにではなく、日々、あるいは1年1年というプロセスを経ながらその歩みを深めて行かれた様子が出て来ているように思います。
つまり、イエスさまは年齢を増しつつ、「多くの苦しみによって従順を学ばれ」た。それも十字架に至るまで従順を学び通されたわけです。ですから、ある人が語っていましたが、イエスさまのご生涯、イエスさまの人生は、クリスマスから一気に十字架に飛躍するのではなく、そこには1日1日、1月1月、1年1年という、年月を刻みつつ深まっていくご生涯があったのです。そして、イエスさまにあってもそうだったとすれば、私たちの人生も、このプロセスを経ての成熟ということが当てはまるのではないか、ということなのです。

Ⅳ.「今」と「そのとき」の間をキリストに倣って生きる

そのようにしてイエスさまに倣う私たちの歳の取り方について、いや、歳を重ねていく意味について、ある人の表現、「1年1年と年月をかけながら一生を通してする仕事」を借りるならば、それについて、使徒パウロは、次のように言い表わしているのです。それが今日お読みしました、コリントの信徒への手紙第2の3章18節に出てくる教えです。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:18)
ここでパウロは、「1年1年と年月をかけながら一生を通してする仕事、神さまから与えられている仕事・務め」とは、「主と同じ姿に造りかえられていくこと」だ、と語っているのです。
そうです! 年月をかけて、キリストに似た私へと変えられていくこと、それが歳を重ねていくことの意味であり、私たち1人ひとりに神さまから与えられている、一生を通して取り組むべき仕事なのです。
繰り返しますが、信仰は一度に完成するのではなく、1日1日、1年1年、イエスさまと共に歩む歩みを通しながら、イエスさまに学び、イエスさまに支えられて取り組んでいくのです。
有名なイザヤ書46章4節に「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」とありますように、場合によっては、イエスさまにおんぶしていただきながら、キリストに似た者へと成長させていただく、それが、私たちが1年ごとに歳を重ねていくことの目標なのです。使徒パウロは、そのプロセスを次のように教えています。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」(Ⅰコリント13:12)。
パウロは、ここで「今」と「そのとき」と2つの時を表わす言葉を使っています。パウロによれば、まさに私たちは、この「今」と「そのとき」の間の一瞬一瞬、1日1日、1年1年を生きているのです。そして、「今」私たちは神さまに愛され、神さまに知られていて、そこには喜びや成功や勝利もあるかもしれませんが、それと同じくらい失敗や恐れや悩み、不安もあります。そうしたときは、例えてみれば、絨毯の裏側から眺めているようで、1つひとつの出来事の意味も分からず、それがどこにつながるかも分からずに、不安や心配の心が募ります。
しかしパウロが言う「そのとき」が来ると、それまでは鏡におぼろに映ったようなもの、一部しか分からないようなものも、その時には、はっきりと知るようになるというのです。
神さまの用意されたご計画、神さまが書いてくださった「シナリオ」の素晴らしさ、豊かさに震えるような感激、感動をもって感謝する時が必ず来る。
まさに、そのようなプロセスを経て、私たちは、神さまの愛の中で、キリストに似た私たちへと造りかえられているのです。このことこそ、私たち、信仰を持つ者たちに与えられている、歳をとることの意味、歳を重ねることの目標なのです。
そのような意味で、クリスチャンは、召されるその時まで、生涯現役なのです。今日も明日もキリストに従い、キリストに倣って歩んで行きたい。そのようにして、キリストに似た私へと、日々、導いていただきたいと願います。お祈りいたします。