松本雅弘牧師
エゼキエル書37章1-14節
ヨハネによる福音書16章4b-15節
2022年6月5日
Ⅰ.ペンテコステは教会の誕生日
ペンテコステ、おめでとうございます。過ぎ越しの祭りから50日を数える「五旬祭」、ギリシャ語で「ペンテコステ」と呼ばれるお祭りの日に、主イエス・キリストの弟子たちの上に聖霊が降りました。使徒言行録第2章に、その日の出来事が次のように伝えられています。
「五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」(使徒2:1-3)まさに「視覚や聴覚など五感に感じられる経験として描かれて」います。そして続く4節に、「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。」
本当に奇妙で奇跡的な現象が起こりました。ただ注意すべきは、その不思議さよりも、使徒言行録は、「彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っている」とあるように、神の国の福音を語り始めた。そうです!ここから福音の宣教がスタートしたのです。そうです。ペンテコステは教会の誕生日なのです。
Ⅱ.神から遣わされる弁護者(助け主)
さて、今日、選びました聖書の箇所は、ヨハネ福音書16章4節後半からのところで、ここで主イエスは、ペンテコステの出来事、すなわち聖霊降臨の恵みの出来事を予告しておられることが分かります。実は、これが語られたのは、主イエスの十字架の前夜でした。場所は、最後の晩餐の席です。次の日に命を捧げるわけですから、この場面での主の言葉は、弟子たちにとっては「遺言」と言ってもよいような内容だったと思います。
ひとつ前の15章には有名な「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」という教えも出て来ますし、13章には「新しい戒め」としてクリスチャン同士が互いに愛し合うようにと勧められています。いずれにしても、受難週の木曜日の晩に語られたメッセージであったことが分かります。
さて、共におられたイエスさまが去って行かれるということは、彼らにとって大きな試練だったでしょう。しかしそれが「あなたがたのためになる」ことだ、と主イエスはおっしゃるのです。なぜなら、弁護者なる聖霊が送られるからでした。
では、聖霊なる神さまは具体的に何をしてくださるのでしょう。一言で言えば、聖霊を通して、私たちの罪が示され、神さまの御心が明らかにされていく。言い換えれば、私たちの証し、宣教を導くお方でもあるといことでしょう。
Ⅲ.約束された聖霊を待ち望む
聖霊は宣教を導く霊です。この宣教ということを考え、神の国の福音を、満遍なく世界の人々に伝える、ということを考えた場合、教育機関を作り人材育成を進めたり、インターネットを活用し個人的な接点を増やして伝道する方法を考えたり、多くの人たちとネットワークを組み、組織的な宣教の働きも可能でしょう。ところが、聖書を見ますと、イエスさまはそうしたことを一切なさらなかった。
イエスさまがなさったことは何か、と言えば「無学な普通の人」と呼ばれた元漁師の人たちと徹底的に生活を共にしたことでした。それによって彼らがイエスさまに似た者になることを求められたからです。そのために、どうしてもイエスさまと生活を共にし、イエスさまの御言葉によって直接養われる必要があったのです。しかし結果はどうだったか。イエスさまが心を砕いて訓練し生活を共にした結果、本当に素晴らしい弟子たちになったかと言えば、残念ならが必ずしもそうではなかったわけです。主イエスが十字架にお掛になった時に、一人残らず、主イエスを捨てて逃げてしまったのが12弟子たちです。これが三年にわたって主イエスと生活を共にした弟子たちの現実でした。
そうした現実を予測してお語りくださった約束の言葉が、今日のヨハネ福音書16章の御言葉であり、十字架、そして復活の後、この約束にもとづいてお語りくださった御言葉が、「エルサレムを離れず、私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」という使徒言行録1章4節に出てくる御言葉でした。そして、この「父の約束されたもの」というものこそが聖霊であり、今日の御言葉の6節と7節にありますように、「あなたがたの心は苦しみで満たされている。しかし、実を言うと、私が去って行くのは、あなたがたのためになる。」とは、信じた者と共にいて下さる聖霊なる神さまのことを指した約束の言葉なのです。
この後、弟子たちの歩み、そして初代教会の歩みを聖書の言葉から辿って行くとするならば、結局、弟子たちは約束の聖霊をいただくことによって変えられていった。そして幸いなことに私たちにも、この聖霊が与えられている。従って、私たちが祈り求めていくべき方向というのは、すでにいただいている聖霊が、私たちの内側に大きく広がっていく方向です。
Ⅳ.聖霊の命が拡がる方向を選んで生きる
ある時、イエスさまは、わざわざ遠回りをしてサマリアを通られることがありました。それは心がカラカラに渇いていた一人の女性を救いへと導くためでした。
この女性はイエスさまとの出会いを通して、そしてイエスさまが「私の与える水はその人の内で泉となって、永遠の命に至る水が湧き出る」と言われたことで、キリストとの関係が回復し、キリストと親しい交わりの中で、聖霊の満たしを受ける、という約束をいただいたのです。それがイエスさまの導き方、私たちを導くイエスさまのやり方なのです。
神さまとの関係が回復し、その神さまとの関係の中で私たちを祝福へと、つまり神さまのお働きに参与する私へと引き上げてくださる。ですから、信仰生活の入り口はまず、神さまとの生きた関係に招く、というところから始まるわけです。
アダムもエバもそうでした。アブラハムも、モーセも、ダビデも、イザヤも、エレミヤも、ペトロも、パウロも、みんなそうです。彼らから神さまを求めたのではありません。神さまが彼らを求めてくださったのです。イエスさまの方から「あなたは私に従いなさい」と招かれたのです。私たちの言葉で言えば、ぶどうの木であるイエスさまにつながるようにと、まず私たちをイエス・キリストの神さまとの愛の関係に招いてくださるのです。
祝福された信仰生活の大原則は「神さまのために何かしてやろう」ということから始まるのではありません。そのように始めると必ずエネルギー切れで疲れてしまいます。
あるいはまた、神さまに愛されるために「立派なクリスチャンにならなければ」という、あの放蕩息子のお兄さんのようなところから出発するわけではないのです。そのようなことは、決して長続きしません。必ず息切れしてしまいます。
そうではなく、まず神さまとの生きた親しい関係から入るのです。キリストが「ぶどうの木」であり、私たちは「その枝」だからです。「良い枝になってからつながりなさい」と主は決して言われませんでした。むしろ、「疲れている者、重荷を負って苦労している者は私のところに来なさい。私が休ませてあげよう」と言われたのです。そのままの枝の状態で、私のところに来て繋がりなさい。そうすれば、癒しという実をいただける、というのです。
いつもお話していることですが、最初は元気がないように見える枝でも、ちゃんとぶどうの木につながれば、この聖霊が樹液のように流れて、やがて命がみなぎり実を結ぶのです。つながれば、そうした結果になるのです。このことを実現するために聖霊が与えられることを約束した御言葉が、今日のヨハネ16章に出てくる御言葉なのです。
使徒言行録の初めに紹介されているエルサレムの教会は、本当に生き生きしていました。でも、最初からそうだったのではありません。彼らに聖霊が降り、彼らがぶどうの木であるイエスさまにつながり続けた結果、聖霊の樹液がいつも彼らに流れ拡がって行ったので、そうなったのです。
キリストの体である教会につながり、聖書を読み、祈ることを通してつながり、聖餐式を守り、礼拝することにおいてつながり、神さまを証しし、与った恵みを御心のとおりに管理することを通して、キリストにつながった結果、いただいた聖霊の命が体の隅々にまで浸透していった結果なのですね。そのようにして、キリストに堅くつながる枝とされていったのです。そこに「恵みの循環」があったからです。
私たちも同じ聖霊をいただいている教会として、この聖霊の命が拡がる方向を選び取りながら歩んで行きたいと願います。
お祈りします。