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ペンテコステ礼拝 主日共同の礼拝説教

交わりの回復を求めて―ペンテコステの恵み

松本雅弘牧師
使徒言行録2章1―13節
2020年5月31日

Ⅰ.ペンテコステに起こった聖霊降臨の出来事

ペンテコステ、おめでとうございます。2章1節の「五旬祭」は「50日目の祭り」という意味で、ギリシャ語では「ペンテコステ」という言葉が使われています。2千年前の、このペンテコステの日に、弟子たちの上に聖霊が降りました。私たち教会が聖霊を宿す神殿になった瞬間です。
仮に私たちがこの場に居合わせたなら、弟子たち同様に身体全体で実体験できた驚き衝撃の出来事だったことでしょう。さらに不思議な現象が続いて起こりました。彼らが「ほかの国々の言葉で話しだした」のです。
ただ注意すべきは色々な国の言葉で彼らが語り出したことではなく、何を語ったかの方です。彼らが語り出したこと、それは「神の偉大な業」、神の国の福音です。ここから福音宣教がスタートしたのです。

Ⅱ.復活の主の証人として

先ほどペンテコステは「50日目の祭り」だとお話しましたが、いつから数えて50日目かと言えば、過越の祭りから数えて50日後なのです。この年の過ぎ越しに何があったのかと言えば、主イエスの十字架です。細かく言うならば十字架の後の復活から数えて50日目、主イエスの昇天から数えたら僅か10日後の出来事がペンテコステです。
ところで50日前と言えば、私たちにとっては緊急事態宣言が発出された時期です。人によって感じ方は違いますが、確かに長かったと思います。でも客観的に見たら50日前は遠い昔ではなくつい先日のことです。つまり弟子たちからしたら十字架のショックがまだ覚めないような時期、〈次に捕まるのは、この私〉という思いで戸を締めてじっとしていました。勿論、その3日後、復活の主に出会うまでは、です。ただ福音書を丁寧に読む限り復活の主に出会った後でさえも外の世界に向かっては閉じられたままです。
彼らが都に踏み留まることが出来たのは復活の主から「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた父の約束されたものを待ちなさい」と命じられていたからです。でも本音の部分は身の危険を感じ、怖れで一杯だったのではないでしょうか。しかしそうした彼らの心配や都合にお構いなく聖霊が降り注がれた。その結果が使徒言行録2章に出て来たとおりなのです。
ですから弟子たちは語りたかったから語ったのではありません。本音は逃げ出したかった、怖かったのです。でも聖霊降臨の結果、「霊が語らせるままに」とあるように、彼らに注がれた聖霊が語らせたので語ったのです。そして使徒言行録2章41節を見ますと、この日、3千人もの人々がクリスチャンになり、エルサレムにキリスト教会が誕生したことが分かります。ある人の言葉を使えば、「物凄く劇的で華々しいスタート」でした。
ただこの後の教会の歩みは決して順風満帆ではありませんでした。あまり時間を置かず様々な問題が教会を襲ってきました。教会の中心メンバーのアナニアとサフィラ夫妻が献金をごまかす事件が起こります。教会員数が増加したことは恵みだったのですが、ヘブライ語を話すユダヤ人信者の、ギリシャ語を話す信者への愛のなさが、不公平な配給として表面化しました。そして目を教会の外に移せば、ユダヤ人による激しい迫害の嵐です。殉教者も出はじめるのです。
でも不思議なことに1つひとつの問題を契機に福音宣教の働きが拡がっていく。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」、この主の約束が確実に実現していくのです。

Ⅲ.バベルの塔の出来事とペンテコステの出来事

今日は、「交わりの回復を求めて―ペンテコステの恵み」という題をつけました。旧約はバベルの塔の箇所を選びました。聖霊降臨の出来事が言葉の問題と深く関係しているからです。バベルの塔の出来事は端的に、人間が神抜きの自己実現をはかろうとした出来事です。その結果、言葉が通じなく、心が通い合わなくなった。その後の人類の歴史はこの時の混乱をそのまま引きずっています。
ところが、使徒言行録2章を見ますと、ペンテコステの日に聖霊が降ると、彼らが様々な言語で話し始めました。その様々な言葉をもって「神の偉大な業」、神の国の福音を語っていたのです。

Ⅳ.交わりの回復を求めて

公生涯の最初、主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになりました。すると天が割け、聖霊が鳩のように主イエスに注がれた。聖霊の油注ぎをいただき、メシアとしての歩みが始まりました。まずナザレで説教なさった。そこで洗礼の時に受けた聖霊の油注ぎの意味をお語りになったのです。「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれ人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるため」。そのために「わたしは油注がれ、メシアとされたのだ」。これが神の国の姿、私たちが既に与っている恵みの現実なのです。
福音書を見ますと宗教指導者たちに向かって「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」と断言なさる。天地がひっくり返るような発言です!町の四つ辻に立って、「見かけた者はだれでも、片っ端から連れて来なさい」と神は招いておられる。その招きに応じてやって来た全ての人に、無条件に、「主イエスを着なさい」と救いの礼服を着せてくださる。そのようにして私たちを神の国へ、救いへと導かれるのが主イエスなのです。そしてペンテコステの日に、主に注がれた同じ霊である聖霊が弟子たちの上に注がれた。そして今を生きる私たちの上にも豊かに注がれている。主イエスの始めた回復の働きのバトンが私たちに手渡され、今も継続しているということなのです。
バベルの塔を建てようとした人々の心の中にあった望みは何でしょう?神からの自立、神抜きの自己実現です。ただ問題になるのは、「自立して何になりたいのか、何を実現するのか」ということでした。誰でも私たちは自分を実現したいという願いを持ちます。でもその願いが強ければ強いほど、〈願いがかなわないのではないか〉、〈願いを実現するには力不足なのではないだろうか〉と不安を抱えます。そしてふと周りを見れば私と同様の願いを持つ人たちを発見する。そしていつの間にか他人との競争の中に立たされている自分に気づくのです。
「私は一体誰なのか」、これは人間として根本的な問いです。でもその答えを周囲との比較の中に見出さざるを得ない。その結果、手を携えながら共に生きていくべき周囲の人々を、友や仲間ではなく競争相手、場合によっては敵としてしか見ることが出来ないのです。バベルの塔建設に携わった人間たちの心を支配していた「高さ」や「大きさ」や「強さ」を求める心は、こうした思いだったのではないだろうかと思います。
しかし神さまは人間を愛し、時満ちるに及んで御子を遣わしてくださった。そしてご自身を指し示し人生に神がおられることの幸い、人生に「神との関係という縦軸」がどうしても必要なことを示されたのです。そして人生に「神との関係という縦の軸」をいただくとき、私にしか立つことのできないユニークな立ち位置を初めて発見することができ、本当の意味で安心し満たされた思いを経験する。そして人との比べ合いから自由にされ、隣人と手を携えて生きる準備が私の側に出来てくる。主イエスがそうであったように不思議と「低さ」や「小ささ」や「弱さ」に目が向き、互いに受け入れ支え合えるような横との関係が建て上げられていくのです。
私たちは神さまのもの、神さまのご支配の中に生かされている者です。神と和解させられ、自分とも仲直りし、そして隣人との平和の中に置かれている。この恵みのしるしとして、聖霊が与えられています。聖書によれば、私たちが主イエスを信じることができるのも、聖書をもっと知りたい、祈りを深めたいという願いを持つのも、それは聖霊が働いていることの証拠だと教えています。
この聖霊の恵みの力を私たちがしっかりといただくために、私の側でできること、それは「信仰生活の5つの基本」を通して、ぶどうの木であるキリストにつながることです。そうすれば、ぶどうの木であるキリストを通して、聖霊の樹液が私たちに注がれ、私たちを通して、神の恵みの実が実っていくのです。
今日から始まる1週間も、この聖霊なるお方が共にいてくださり、私たちを通して、豊かに働いてくださることを祈り求めていきたいと願います。お祈りします。

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使徒言行録2章の教会と私たち

松本雅弘牧師
2019年6月9日
ペンテコステ礼拝

エゼキエル書37章1~10節 使徒言行録2章42~47節

Ⅰ.ペンテコステの恵みにあずかるために

ペンテコステ、おめでとうございます。2千年前のこの日にキリストを信じる弟子たちに聖霊が降り、私たち教会が神殿となった出来事がペンテコステの出来事です。主のご臨在なさる場がエルサレムの誇る神殿ではなく、キリストを主と信じる教会という共同体、教会に繋がる私たち一人ひとりが、主が共におられる神殿となったのです。

Ⅱ.聖霊を宿す神殿となった私たち

イエス・キリストを信じ、私たちは洗礼を受けました。それは私たちの内側に聖霊なる神さまが住んでくださる神殿となったということです。そのように私たち自身が聖霊を宿す神殿になったという事実を今朝もう一度覚え、味わいたいと思います。
パウロは、聖霊を与えられている現実を、その手紙の中で繰り返し説いています。
エフェソの信徒への手紙の1章にこういう御言葉があります。「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」(エフェソ1:13-14)
これがペンテコステ以降の私たちの現実、聖霊が宿っている、ということです。ところが、私たちの内に、すでに聖霊をいただいているにもかかわらず、そのことに心の目が開かれていない状況があります。パウロは、そのことについてこんなことを語っています。
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント6:19-20)
パウロは、第1に、私たちが真に救われクリスチャンとなっているのなら、聖霊が宿ってくださっているという霊的現実があることを教えます。第2に、そのような現実があるにもかかわらず、聖霊を宿す神の宮になったという霊的な現実に、私たちの心の目が開かれていないということを語るのです。
数年前のクリスチャン新聞の統計によれば、日本のクリスチャンの平均寿命は3年弱だと言うのです。大変ショッキングな事実です。洗礼を受けて3年経つと色々な理由で教会を離れてしまう。「卒業クリスチャン」という言葉が日本のキリスト教界にはあるほどです。
それほどに、サタンの誘惑は強く巧みであるということ。サタンは神さまから私たちを引き離そうと躍起である、ということでしょう。
イエスさまも、洗礼を受け、聖霊が降り、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3:7)という天からの声を聞くという大きな経験をされた直後、サタンの誘惑を受けました。イエスさまさえもサタンの誘惑にあったのです。
では、どうしたらよいのでしょうか。それは、「ぶどうの木につながり続ける」という大原則にいつも立ち帰ることです。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ15:5)と主が言われているからです。
聖霊をお与えになった後、神さまが私たちに願っておられることは、聖霊の命が私の内側に生活の様々な場面で大きくなるような方向を歩み続けていくということです。
では、そのためにはどうしたらよいでしょうか。ペトロはこの点について次のように語っています。「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」(Ⅰペトロ2:2)混じりけのない霊の乳で、空っぽの心を満たすということでしょう。その直前の1節に、「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、」とあるのです。「みな捨て去って」心の中にスペースを作るということ。そして聖霊にとって代わっていただくためです。
そのために私たちは、今のありのままの姿で主の御前に出て、祈ることから始めること。そして、祈りつつ御言葉の水を注ぐことです。
「主よ、私の中にこのような問題があります。私の中にこのような欲深さもあります。私の中にこのような怒りもあります。私の中にこのような傷もあります。聖霊なる神さま、どうぞ働いてください。そして、私の中の空間を聖霊で満たしてください。私の持っている偽りと罪を全て追い出してください。」と祈っていくのです。

Ⅲ.ぶどうの木につながれば実を結ぶ

ペンテコステの出来事の中で、聖霊が臨んだ彼らの様子を、何か奇妙なものでも見るかのように、少し距離を置いて観察していたエルサレムのユダヤ人に向かって、この時ペトロは説教しました。
その中で、この出来事は、旧約聖書のヨエル書の預言の成就であることを人々に伝えました。
「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子や娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」(ヨエル2:17)
聖霊が降ると、「あなたたち」を基点に、「あなたたちの息子と娘」、「若者」、そして「老人」と4世代の者たちが聖霊によって熱心に主を証しする共同体になるとの約束が語られています。聖霊が降ると、「4世代からなる教会」が形成される、というのです。さらに、その「4世代からなる教会」の日常生活の姿が使徒言行録2章40節以下に出てきます。
聖霊降臨によって誕生したキリストの教会は、まさに「信仰生活の5つの基本」を土台に「高座教会の3つのめざすもの」に現された、主からの使命に生かされた延長線上にある教会の姿であることを改めて教えられます。この恵みは、あの2千年前のペンテコステの日に誕生したエルサレム教会ばかりではなく、同じ聖霊なる神さまを内側に宿す私たち「高座教会」にも現れる恵みであることを、今朝、もう一度、覚えたいと思うのです。
ここで注意したいことがあります。使徒言行録の著者ルカは、ペンテコステの日に聖霊を宿した群れの様子をレポートして、「教会はこうあるべきだ、クリスチャンはこうでなければならない」と主張しているのではありません。聖霊降臨の結果を淡々と報告しているのです。
神さまは、私たちがイエスさまの弟子として生かされるために、聖霊をくださっているのです。聖霊に導かれ、「もしイエスさまが私だったら、きっとこのように私の人生を生きるだろう」という日常的な生き方を、聖書を通して学ぶのです。弟子にとっての日常的な生き方こそ「信仰生活の基本」なのです。そして、「信仰生活の基本」を通して、ぶどうの木であるキリストに繋がり続けるということです。

Ⅳ.使徒言行録2章の教会と私たち

ぶどうの木であるキリストにつながり、キリストとの関係が回復し、親しい交わりの中で聖霊の満たしを受ける。このことこそ、神さまが私たちを導く導き方です。入り口は、私たちをまず、神さまとの生きた関係に招くということです。断絶していた関係をキリストの十字架によって回復し、神様につながれていくのです。
祝福された信仰生活の大原則は「神さまのために何かしてやろう」とか「立派なクリスチャンにならなければ」というようなところから出発しません。まずイエスさまと親しい交わりに入るところがスタートです。
ある時、仮庵の祭に集まっていた人々に対して、「イエスは立ち上がって大声で言われた」とヨハネ福音書に出てきます。
祭が盛り上がり、みんな興奮していたのでしょう。祭りやイベントで盛り上がりますが、その後、どっと疲れが押し寄せることがあります。主はそれをご存知でした。そうした彼らに聞こえるように、主イエスは、「『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」(ヨハネ7:37-39)と言われたのです。
ですから私たちは、このお方の招きに応えることです。使徒言行録2章に紹介されているエルサレム教会は生き生きしていましたが最初からそうだったのではありません。いただいた聖霊に満たされるためにぶどうの木であるイエスさまにつながっていったのです。そのようにして「恵みの循環」が始まっていきました。
私たちも同じ聖霊をいただいている教会です。この聖霊の命がいよいよ成長し、この地域の人々に福音をもって仕え、キリストの福音で満たすために、私たち一人ひとりが「信仰生活の5つの基本」を通してキリストに結ばれて生きていきたいと願います。お祈りします。

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ペンテコステ ― 四世代が喜び集う教会の誕生

2018年5月20日
ペンテコステ礼拝
松本雅弘牧師
ヨエル書3章1~5節
使徒言行録2章1~21節

Ⅰ.バベルの塔の出来事

ペンテコステと聞くと、私はバベルの塔の出来事(創世記11章)を思い出します。言葉が混乱した出来事です。あの時、人間は「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」(4節)と思い上がり、計画を実行し始めますが、それを喜ばれなかった神は言葉を混乱させます。
その結果、心が通い合わなくなり、人々は全地に散らされて行ったのです。
17年前、私はブラジルのサルバドールにあるマッタ・デ・サンジョアンの集会を訪問したことがあります。ポルトガル語が全く分かりません。「オブリガード」という、「ありがとうございます」のポルトガル語だけを覚えてブラジルにまいりました。
「言葉がわからない」ということは、本当に心細いものです。サンパウロまでは国際線でしたから英語のアナウンスがありますが、サンパウロからは国内線で、そこは正真正銘のブラジルでした。
やっとサルバドールに到着。空港で出迎えてくださったマッタの教会員の方たちが、日本語で話しかけてくれた時に、なんとも言えない安心感を覚えました。しかも、その時、案内されたレストランの名前が「やまと」でした。大和市民の私にとって、これまた馴染みのある名前で、ホッとしました。
ところで私たちは今でも、同じ日本語を使いながら、日常の生活において心が通じ合わない経験をすることがあります。一番親しい関係においてもそうです。つまり日常的に「バベルの塔の出来事」を経験しているのではないでしょうか。
ヘブル語で「バベル」とは、「混乱」を意味する「バーラル」という言葉から来ています。私たちの周りでは、今現在も、そして世界のあちらこちらで、絶えることなく、そうした混乱が起きています。

Ⅱ.ペンテコステの出来事

ペンテコステの日に起こった出来事は、バベルの塔の出来事と深く関係しています。2千年前のペンテコステには、ちょうどバベルの塔の出来事と正反対の出来事が起こっているのです。
その日、「一同が聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」(使徒2:1)とあります。
聖霊をいただいた弟子たちはガリラヤ出身の人々でした。その日、エルサレムには、祭のために世界中から集まって来た人々がいましたが、弟子たちが彼らの言語を語りだしたのです。
バベルの塔の出来事同様に「言葉の奇跡の出来事」が起こりました。ただ、この2つの出来事の間には大きな違いがありました。
ペンテコステのこの日、種々雑多な言語によって語られた内容は1つだったのです。
「奴らは酒によっているだけだ」と言って無視する人々もいました。そこでペトロが立ち上がり、「そうではない。この現象は、聖霊が私たちに与えられ、旧約聖書の預言者ヨエル書の預言が成就したことの結果なのです」と言って、この出来事の原因である聖霊が降ったこと、そしてその聖霊が降ったことの意味、つまりペンテコステの出来事の意味を説き明かしたのです。
聖霊の恵みが行き届く時、そこに集まる人々が、たとえ多くの言語に分かれているような状況にあったとしても、それが単なる混乱や分裂では終わらないというのです。
子どもや若者、壮年や高齢者という複数の世代、世代の違いがあったとしても、共に夢を見、幻を見て将来への希望を共にすることができる。違いを乗り越えて、神にあって互いに通じ合う世界が生み出されて行くのです。
まさに、多様性と統一性が聖霊の働きの中で調和を保つというのです。
私たちも聖霊に導かれ、聖霊に満たされて行く時に、言葉や文化の違いがあっても、同じ神さまに愛され生かされている1人ひとりであることを知らされるのです。そして互いに必要とし合う者同士であることを経験させられていきます。
さらには、神の民である私たちの教会に、このペンテコステの出来事を通して、「キリストの福音の言葉」という、「新しい共通語」が与えられたという恵みを発見するのではないでしょうか。
バベルの塔の出来事以来、人間に与えられている言葉という賜物が、罪によって誤用され、他者を傷つけ、醜く争い、騙し、嘲り、本当に惨めな結果を生み出してきました。それが私たちの歴史でしたが、神は「キリストの福音の言葉」という共通言語を、再び人類に与えてくださったのです。そして、それを大胆に語り伝えるようにと聖霊を与えてくださったということなのです。これが聖霊の降臨によって起こった出来事、ペンテコステであり、その時以来、私たちもこの恵みに与って生かされている、ということでもあるのです。

Ⅲ.コリント教会の信徒が忘れていた霊的現実

ペンテコステの出来事以来、パウロは、主イエスを信じる全ての者に与えられる聖霊について語り、また、教会宛てに記した手紙によって、繰り返し思い起こさせていきます。
ところが一方で、罪や弱さ故に、この現実に心の目が閉ざされている人々もおりました。コリント教会の兄弟姉妹がそうでした。パウロはそうした彼らに向かって、「新しい霊的現実」に生かされていることを教えたのです。
暫く前のクリスチャン新聞に、ある調査結果が出ました。「日本人クリスチャンの平均寿命は3年弱」というものです。大変ショッキングな数字でした。これが事実とするならば大変なことですが、1つ言えることがあります。それほどサタンの誘惑が巧みである、ということです。
神さまから私たちを引き離そうとする力が、常に私たちの周りで働いているのです。そういえば、主イエスも受洗直後に悪魔の誘惑に遭っています。

Ⅳ.聖霊の命が生き生きする方向を選び取る

では、どうしたらよいのでしょうか。
「ぶどうの木につながり続ける」という大原則にいつも立ち帰ることです。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15:5)と、主が言われているからです。
高座教会では「信仰生活の5つの基本」を大切にし、それをもってぶどうの木であるキリストにつながろう、と互いに励まし合いながら歩んでいます。
「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」(2:41、42)
このように、聖霊降臨の出来事に与った弟子たち、初代エルサレム教会の人々の信仰生活の様子が使徒言行録に記されています。
私たちの教会が大事にしている、「信仰生活の5つの基本」は、まさにここに出て来る、彼ら初代教会の兄弟姉妹の歩みそのものなのです。
受洗後勉強会で次のようなお話をします。魚は何故、水の中をスイスイと泳ぐことが出来るのか。それは魚の命を持っているからでしょう。なぜ鳥は空を自由自在に飛ぶことが出来るのか。鳥の命を持っているからです。
ただ、鳥の命を持っていてもヒナ鳥は簡単に羽ばたくことができません。けれども、鳥の命が大きく成長すると、大空を自由に羽ばたく日がやって来ます。魚もそうです。魚の命があっても、誕生したばかりの魚は、最初は物陰や岩の陰に隠れているだけでしょう。流れに逆らい、勢いよく上流に向かって泳いだり、滝を登ったりすることはできません。しかし、やがて大きな魚になると滝を登り、自由自在に泳ぎまわることが出来るようになる。何故でしょうか。魚の命が成長していくからです。
私たちクリスチャンも同じです。聖霊をいただいている私たちが、「信仰生活の5つの基本」を通して、ぶどうの木であるキリストにつながることで、ぶどうの木であるキリストから枝である私たちに、聖霊の命が流れてくるのです。それによって、私たちは聖霊の実を結ぶ者とされていくのです。
そして、その聖霊の働きの1つの側面が、今日の説教題とした「4世代が喜び集う教会」が実現する、ということです。それが、使徒言行録2章16節から21節に出てきます。
「わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」(17b)
聖霊が降り、聖霊の命が行きわたる時に、「あなたたち」を基点に、「あなたたちの息子と娘」、「若者」、そして「老人」と4世代の者たちが愛し合い、主を証しする共同体になるとの約束が語られています。新しい命が成長し、共同体は「4世代からなる教会」が形成されていくのです。
4世代という多様性がありつつも、そこには聖霊による一致があるのです。
使徒言行録2章に登場する初代教会は生き生きしていました。彼らは聖霊をいただき、聖霊に満たされ、その満たしを常に経験するために、ぶどうの木であるキリストにつながり続ける中でそうなっていったのです。キリストにつながり、つながり続ける「恵みの循環」が始まっていきました。
同じ聖霊が私たちにも与えられています。聖霊による命がいよいよ成長し、この地域の人々をキリストの福音で満たすために、私たちは福音をもって仕えていきます。
私たち一人ひとりが、「信仰生活の5つの基本」を生活の土台にすえてキリストにしっかりと結び付き、「3つのめざすもの」を活動の柱として仕えていきたいと思います。
ぞれぞれの世代が、キリストにあってその違いを乗り越え、初代教会のように、共に喜び集える高座教会を、主が御建てくださるようにと祈り求めていきたいと願います。お祈りします。

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あなたがたは力を受ける


2016年5月15日  ペンテコステ礼拝
松本雅弘牧師
ヨエル書3章1~5節
使徒言行録1章6~14節、2章1~4節

Ⅰ.はじめに

ペンテコステ、おめでとうございます。2千年前の過ぎ越しの祭に、世の罪を取り除く神の小羊イエスさまが、十字架の上で贖いの死を遂げ、その3日の後に復活なさったのです。その後、40日間にわたって弟子たちに姿を現し、昇天されます。
今日の聖書個所には、昇天される直前の、イエスさまと弟子たちとの間で交わされた会話、そして、イエスさま昇天後、ペンテコステまでの10日間の弟子たちの姿が記録されています。
彼らは、「父なる神さまの約束」を、主の教えの通りに待ち望んでいました。このようにして、2千年前のペンテコステに、父なる神さまが約束された聖霊がくだり、そして、私たちが霊を宿す神殿となりました。こうして私たちは、復活の主の証人となったのです。

Ⅱ.一民族国家であるイスラエル王国の復興

ではなく神の国の実現のために
弟子たちは昇天前の主に尋ねています。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と。考えてみれば、この質問は、単に彼らの個人的な関心ではなく、国家を失って以来、すでに数百年経っていた、イスラエル民族の「悲願」を代弁する「問いかけ」でした。
この質問に対する復活の主イエスさまの答え、 それはイスラエル民族国家の復興ではなく、今までイエスさまが宣べ伝えて来られた「神の国の到来」だったわけです。
福音書を読む時、イエスさまは、この神の国の到来の福音を伝えるためにやってこられたことが分かります。マルコによる福音書の1章15節に、公生涯の最初にイエスさまが語られた、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉があります。
この「福音」という言葉は「良き知らせ」という意味です。ただ、ここで改めて〈「良き知らせ」とは何を意味するのか〉という素朴な疑問を持つのではないでしょうか。
ある人は、「福音」とは十字架の出来事の意味を語ることだと考えます。しかし、イエスさまがこの「福音」という言葉を用いた時には、もう少し広い意味で使われたように思います。このことを考える上で、マルコが、イエスさまのメシアとして第一声(マルコ1:15)を記す直前に記録している2つの出来事を覚える必要があると思うのです。
その1つは、洗礼を受けられた時に、天から語られる神さまの声を聴き、イエスさまご自身が、神さまの愛を体験したということです。そして、この出来事に続く40日間、断食の祈りを通して、イエスさまは神さまと親しく交わる経験をしました。これらの体験によって、ご自身に対する神さまの愛を深く味わい悟られました。イエスさまは、これを公生涯の始まりになさったのです。
そして2つ目のこととは、神さまのご自分に対する無条件の愛をもって、イエスさまは悪魔の誘惑に勝利したのだ、ということです。つまり、マルコによる福音書は、イエスさまの、メシアとしての第一声の前に、「神さまはわたしを愛してくださっている」ということ、そして「神の愛によって悪魔に勝利した」、この2つの出来事を記しているのです。
ですから、私たちは、主キリストに倣う者として、キリストのこの2つの体験を追体験していくこと、そのことが、私たちキリスト者にとって、大切なクリスチャンとして歩みとなるということです。
まずは、イエスさまが父なる神さまの無条件の愛を、深く感じたように、私たちも神の愛を深く味わうことができるように。そして、その愛に満たされることで、様々な誘惑から自由にされる経験をすることです。
もう一度、マルコによる福音書1章15節に戻ります。ここでイエスさまは、「悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。「悔い改める」というギリシャ語は「メタノイア」という言葉です。「ノイア」というのは「考え・考え方」のことです。「メタ」というのは「ひっくり返す」という意味です。「メタノイア」、すなわち、「考えを変える」、「今、自分が持っている信仰や信念をひっくり返す」。そうした上で、神さまの無条件の愛を、また、神さまの憐みによって悪魔に打ち勝つ力を与えられるという恵みを、言い換えれば〈「福音」を信じなさい〉、とイエスさまは招いておられるということなのです。

Ⅲ.聖霊が与えられていることの恵み

 しかし、ここでもう1つ、大きな課題がありました。それは私たち人間に備わった自然の力では、こうした歩みを進めることができないということです。そのために神さまが用意してくださったことがあります。それが、聖霊を私たちに与える、という聖霊のプレゼントです。
ヨハネによる福音書16章には、父が約束された聖霊のお働きについて、イエスさまが丁寧に説明された言葉があります。「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」(ヨハネ16:7~15)
 私たちがイエスさまを信じ、クリスチャンとして生きていく力を与え、また、聖書の言葉を悟らせ、自分のものにできるようにしてくださるのが、この聖霊なる神さまの働きなのだ、とイエスさまは教えてくださっていたのです。先ほどの言葉を使うならば、私たちが父なる神さまの無条件の愛を深く味わうことができるようにし、そしてまた、この愛に満たされることで様々な誘惑から自由にされる経験を、導き支えてくださるお方、それが聖霊なる神さまなのです。さらに言えば、パウロは、コリントに宛てた手紙の中で、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(Ⅰコリント12:3)と語っていますように、この聖霊によって、初めて私たちは「イエスさまを主」と告白できるのです。そしてまた、この聖霊の働きによって、主の御心を求めるような私に変えられていく。「御心のままに望ませ、行わせておられる」のも、私たちに与えられている聖霊のお働きだからです。
 さらに、パウロはフィリピ教会に宛てた手紙の中で、次のように語っています。「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(フィリピ1:3~6)
 聖霊は、私たちの中で善い業を始め、なおかつ、その業を成し遂げてくださる、完成してくださるのだ、自分はそのことを確信している、とパウロは語っているのです。そして、その善い業の完成のプロセスにおいて、私たちが、ぶどうの木であるイエスさまにつながる時に、聖霊の恵みの樹液が流れて来て、私たちの内側に、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制という聖霊の実を結び(ガラテヤ5:22~23)、キリストに似た私たちへと導いて行かれるのも、この聖霊のお働きによるのです。
このように考えていくと、本当に、この聖霊のお働きというのは、救いの始まりから完成に至るまで、私たちの全てを覆い尽くすほどのお働き、いや、私たちをキリスト者として育て成長させるお方であることを教えられます。

Ⅳ.私たちにも与えられている聖霊

 ペンテコステとは、この聖霊が与えられた日です。そして、今もなお、イエス・キリストを救い主、主として信じた者に与えられる、神さまからのプレゼントです。
プレゼントをいただきながら、そのことを知らないでいたコリントの教会の兄弟姉妹もいました。パウロはその人たちに対して語りました。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント6:19~20)
 この聖霊が私たちにも与えられています。イエスさまが、聖霊に導かれて神さまの無条件の愛を深く感じたように、私たちも、この聖霊に導かれて神さまの愛を深く味わうことができるように。その愛に満たされることで、様々な誘惑から自由にされ、力を受けて、復活の主の証人として、神さまの素晴らしさを証ししていく私たち、聖霊が豊かに息づく教会として育てていただきたいと願います。
お祈りします。