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ペンテコステ礼拝 主日共同の礼拝説教

神さまから遣わされた助け主―ペンテコステを祝う

松本雅弘牧師
エゼキエル書37章1-14節
ヨハネによる福音書16章4b-15節
2022年6月5日

Ⅰ.ペンテコステは教会の誕生日

ペンテコステ、おめでとうございます。過ぎ越しの祭りから50日を数える「五旬祭」、ギリシャ語で「ペンテコステ」と呼ばれるお祭りの日に、主イエス・キリストの弟子たちの上に聖霊が降りました。使徒言行録第2章に、その日の出来事が次のように伝えられています。
「五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」(使徒2:1-3)まさに「視覚や聴覚など五感に感じられる経験として描かれて」います。そして続く4節に、「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。」
本当に奇妙で奇跡的な現象が起こりました。ただ注意すべきは、その不思議さよりも、使徒言行録は、「彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っている」とあるように、神の国の福音を語り始めた。そうです!ここから福音の宣教がスタートしたのです。そうです。ペンテコステは教会の誕生日なのです。

Ⅱ.神から遣わされる弁護者(助け主)

さて、今日、選びました聖書の箇所は、ヨハネ福音書16章4節後半からのところで、ここで主イエスは、ペンテコステの出来事、すなわち聖霊降臨の恵みの出来事を予告しておられることが分かります。実は、これが語られたのは、主イエスの十字架の前夜でした。場所は、最後の晩餐の席です。次の日に命を捧げるわけですから、この場面での主の言葉は、弟子たちにとっては「遺言」と言ってもよいような内容だったと思います。
ひとつ前の15章には有名な「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」という教えも出て来ますし、13章には「新しい戒め」としてクリスチャン同士が互いに愛し合うようにと勧められています。いずれにしても、受難週の木曜日の晩に語られたメッセージであったことが分かります。
さて、共におられたイエスさまが去って行かれるということは、彼らにとって大きな試練だったでしょう。しかしそれが「あなたがたのためになる」ことだ、と主イエスはおっしゃるのです。なぜなら、弁護者なる聖霊が送られるからでした。
では、聖霊なる神さまは具体的に何をしてくださるのでしょう。一言で言えば、聖霊を通して、私たちの罪が示され、神さまの御心が明らかにされていく。言い換えれば、私たちの証し、宣教を導くお方でもあるといことでしょう。

Ⅲ.約束された聖霊を待ち望む

聖霊は宣教を導く霊です。この宣教ということを考え、神の国の福音を、満遍なく世界の人々に伝える、ということを考えた場合、教育機関を作り人材育成を進めたり、インターネットを活用し個人的な接点を増やして伝道する方法を考えたり、多くの人たちとネットワークを組み、組織的な宣教の働きも可能でしょう。ところが、聖書を見ますと、イエスさまはそうしたことを一切なさらなかった。
イエスさまがなさったことは何か、と言えば「無学な普通の人」と呼ばれた元漁師の人たちと徹底的に生活を共にしたことでした。それによって彼らがイエスさまに似た者になることを求められたからです。そのために、どうしてもイエスさまと生活を共にし、イエスさまの御言葉によって直接養われる必要があったのです。しかし結果はどうだったか。イエスさまが心を砕いて訓練し生活を共にした結果、本当に素晴らしい弟子たちになったかと言えば、残念ならが必ずしもそうではなかったわけです。主イエスが十字架にお掛になった時に、一人残らず、主イエスを捨てて逃げてしまったのが12弟子たちです。これが三年にわたって主イエスと生活を共にした弟子たちの現実でした。
そうした現実を予測してお語りくださった約束の言葉が、今日のヨハネ福音書16章の御言葉であり、十字架、そして復活の後、この約束にもとづいてお語りくださった御言葉が、「エルサレムを離れず、私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」という使徒言行録1章4節に出てくる御言葉でした。そして、この「父の約束されたもの」というものこそが聖霊であり、今日の御言葉の6節と7節にありますように、「あなたがたの心は苦しみで満たされている。しかし、実を言うと、私が去って行くのは、あなたがたのためになる。」とは、信じた者と共にいて下さる聖霊なる神さまのことを指した約束の言葉なのです。
この後、弟子たちの歩み、そして初代教会の歩みを聖書の言葉から辿って行くとするならば、結局、弟子たちは約束の聖霊をいただくことによって変えられていった。そして幸いなことに私たちにも、この聖霊が与えられている。従って、私たちが祈り求めていくべき方向というのは、すでにいただいている聖霊が、私たちの内側に大きく広がっていく方向です。

Ⅳ.聖霊の命が拡がる方向を選んで生きる

ある時、イエスさまは、わざわざ遠回りをしてサマリアを通られることがありました。それは心がカラカラに渇いていた一人の女性を救いへと導くためでした。
この女性はイエスさまとの出会いを通して、そしてイエスさまが「私の与える水はその人の内で泉となって、永遠の命に至る水が湧き出る」と言われたことで、キリストとの関係が回復し、キリストと親しい交わりの中で、聖霊の満たしを受ける、という約束をいただいたのです。それがイエスさまの導き方、私たちを導くイエスさまのやり方なのです。
神さまとの関係が回復し、その神さまとの関係の中で私たちを祝福へと、つまり神さまのお働きに参与する私へと引き上げてくださる。ですから、信仰生活の入り口はまず、神さまとの生きた関係に招く、というところから始まるわけです。
アダムもエバもそうでした。アブラハムも、モーセも、ダビデも、イザヤも、エレミヤも、ペトロも、パウロも、みんなそうです。彼らから神さまを求めたのではありません。神さまが彼らを求めてくださったのです。イエスさまの方から「あなたは私に従いなさい」と招かれたのです。私たちの言葉で言えば、ぶどうの木であるイエスさまにつながるようにと、まず私たちをイエス・キリストの神さまとの愛の関係に招いてくださるのです。
祝福された信仰生活の大原則は「神さまのために何かしてやろう」ということから始まるのではありません。そのように始めると必ずエネルギー切れで疲れてしまいます。
あるいはまた、神さまに愛されるために「立派なクリスチャンにならなければ」という、あの放蕩息子のお兄さんのようなところから出発するわけではないのです。そのようなことは、決して長続きしません。必ず息切れしてしまいます。
そうではなく、まず神さまとの生きた親しい関係から入るのです。キリストが「ぶどうの木」であり、私たちは「その枝」だからです。「良い枝になってからつながりなさい」と主は決して言われませんでした。むしろ、「疲れている者、重荷を負って苦労している者は私のところに来なさい。私が休ませてあげよう」と言われたのです。そのままの枝の状態で、私のところに来て繋がりなさい。そうすれば、癒しという実をいただける、というのです。
いつもお話していることですが、最初は元気がないように見える枝でも、ちゃんとぶどうの木につながれば、この聖霊が樹液のように流れて、やがて命がみなぎり実を結ぶのです。つながれば、そうした結果になるのです。このことを実現するために聖霊が与えられることを約束した御言葉が、今日のヨハネ16章に出てくる御言葉なのです。
使徒言行録の初めに紹介されているエルサレムの教会は、本当に生き生きしていました。でも、最初からそうだったのではありません。彼らに聖霊が降り、彼らがぶどうの木であるイエスさまにつながり続けた結果、聖霊の樹液がいつも彼らに流れ拡がって行ったので、そうなったのです。
キリストの体である教会につながり、聖書を読み、祈ることを通してつながり、聖餐式を守り、礼拝することにおいてつながり、神さまを証しし、与った恵みを御心のとおりに管理することを通して、キリストにつながった結果、いただいた聖霊の命が体の隅々にまで浸透していった結果なのですね。そのようにして、キリストに堅くつながる枝とされていったのです。そこに「恵みの循環」があったからです。
私たちも同じ聖霊をいただいている教会として、この聖霊の命が拡がる方向を選び取りながら歩んで行きたいと願います。
お祈りします。

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あなたがたは力を受ける

<ペンテコステ礼拝>
松本雅弘牧師
ヨエル書3章1-5節
使徒言行録1章6-14節、2章1-4節
2021年5月23日

Ⅰ. はじめに

使徒言行録1章6節に、昇天の直前に復活の主キリストと弟子たちの間で交わされた会話、そして昇天後ペンテコステまでの10日間、主イエスのご命令どおり「父の約束されたもの」を祈りつつ待ち望んでいた、彼ら弟子たちの姿が記録されています。そうした弟子たちの上に聖霊が降臨した。そして彼らが聖霊を宿す神殿となり復活の主の証人とさせられていったという出来事が使徒言行録2章の初めに記されているのです。今日はそれを記念するペンテコステ礼拝です。

Ⅱ. 一民族国家であるイスラエル王国の復興ではなく神の国の実現のために

聖書は寡黙です。それを踏まえた時、弟子たちの口から出た「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」という問いこそ、国家を失い、すでに数百年が経過していた彼らイスラエル民族にとっての悲願の問いかけだったと思うのです。
サムエル記や列王記には神の国イスラエルの栄光と崩壊の歴史が綴られています。神の国イスラエル統一王国の分裂、北イスラエルの滅亡、そして南ユダのバビロン捕囚と神殿の破壊です。以降、イスラエルは再び国家を持つことがありませんでした。イエスさまの時代も、人々はローマ帝国の支配下にありました。これがこの時のユダヤの人々が置かれていた状況です。
ところで、ここ数週間、パレスチナにおけるイスラエル軍とパレスチナ自治区ガザ地区の武装勢力との軍事衝突が激しさを増して来ていています。それがいつから始まったかと言えば、第二次世界大戦後の1948年に、ホロコーストに対する西側諸国の思いもバックに、そこに居住していたパレスチナ人の地に強制的にイスラエル国家を建設してしまったからでしょう。余談ですが、今でも一部のクリスチャンは、イスラエル民族が乳と蜜の流れる地である、現在のパレスチナに戻ることが聖書の約束の成就として受けとめ、強硬に支持を表明しています。そうしたことを考えると、6節の問いは極めて現代的な問題のように感じるとともに、現代に生きる私たちも、この問いに対する主イエスの答え(8-9)に耳を傾けなければならないと思います。ここで主イエスの答えはイスラエル民族国家の復興ではなく、これまで宣べ伝えてきた神の国の到来だったからです。

Ⅲ. 神の国のビジョンに生きる―「御国を来たらせたまえ」と祈りつつ

思い出していただきたいのですが、公生涯のはじめ、主イエスはヨハネからヨルダン川において洗礼をお受けになりました。その直後、悪魔の試みを受け、そしてガリラヤに戻り、宣教を開始されたのです。今日お読みしている使徒言行録が続編というならば、その前編にあたるルカ福音書を見ますと、主イエスは最初にナザレに行かれ会堂に入って説教なさいました。イザヤ書の巻物が手渡され、そこには「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目に見えない人に視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」と書かれていました。読み終えた主は、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言された。言わば、このイザヤ書に書かれたことを行うために、自分は「油注がれメシアとして聖別された」とお語りになったのです。
「主の恵みの年」というのはヨベルの年のことで、借金の帳消し、土地の返還、奴隷の解放が起こる年です。ただこれは貧しい側の人々にとっては恵みですが、富んでいる側の人々にとっては恵みでも何でもありませんでした。ですから学者の間では実際にヨベルの年が行われたかどうかは疑わしいとされています。しかし大切なことは、神の国のイメージ、主イエスがもたらす福音によって実現しようとなさった神の国での救いのイメージが、このヨベルの年にあらわされているという点です。格差のない、平等かつ分かち合う社会を主イエスは願っておられたのです。ですからこの後、主イエスは、「神の国はこのようなものである」と神の国の福音を宣べ伝え、実際に神の国の福音に生きて行かれました。

Ⅳ. 一方的な恵み

ところで、エクササイズの第1巻に、17世紀のイギリスで牧師をしていたジョージ・ハーバートが書いた「愛」という詩が紹介されています。翻訳家の中村佐知さんの訳でご紹介します。

“愛”が私をあたたかく招き入れてくださったのに、私の魂はしりぞいた。
ちりと罪にまみれていたから。
しかし敏い目をお持ちの”愛”は、私のためらいに気づかれた。
私が戸口に入ったそのときから。
私に近づき、優しくたずねてくださった。
何か足りないものがあるのか、と。
ここにふさわしい客人がいないのです、私は答えた。
“愛”は言われた。おまえがその客なのだよ。
薄情で恩知らずな私がですか? ああ、愛しい方よ。
私にはあなたに目を向けることもできません。
愛”は私の手を取り、微笑みながらお答えになった。
誰がその目を造ったのか、わたしではないか?
そのとおりです、主よ。しかし私はそれを汚してしまいました。私は恥を
受けるにふさわしい者です。
おまえは知らないのか、”愛”は言われた。だれがその咎を負ったのかを。
愛しい方よ、では私があなたにお仕えいたします。
“愛”は言われた。おすわりなさい、そして私の食事を味わいなさい。
そこで私はすわり、それをいただいた。

この詩は、神の愛、神の国に招かれるとはどういうことなのかについて伝えています。ここで、「愛」は神さまを指しています。愛なる神さまは私を招いてくださるのですが、自分の罪や醜さを知っている者として、なかなか聖なる義なる神さまの御前に、そのままの姿で招きに応じるのをむずかしく感じてしまう私がいるのです。しかしにもかかわらず神は私を優しく導いてくださる。自分はあなたに招かれるようなふさわしい客人ではないと話す私に、あなたこそ、客としてふさわしい、と伝えてくれるのです。

アウグスティヌスは、「私たちを愛することによって、神は私たちを、愛を受けるにふさわしい器とされる」と語りますが、まさにそういうことでしょう。それでも私は、自分の内なる汚れや罪を示されているので再び躊躇するのですが、それに対し「おまえは知らないのか、”愛”は言われた。だれがその咎を負ったのかを。」と語り、主イエスの十字架を示すのです。「イエスがあなたの責めを負ったのです。私の息子があなたの恥を身に受けたので、もはやあなたの負うべき恥はなくなりました」と語られる。そして最後に「“愛”は言われた。おすわりなさい、そして私の食事を味わいなさい」と語りかける。帰還した放蕩息子の罪の告白の言葉を遮り、「急いで、いちばん良い衣を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足には履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう」。そう言って喜びの宴会を催す父親の姿そのもの。これこそが神の国、福音の世界なのです。

Ⅴ. 聖霊の力によって

1章8節に、「ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」とありますが、この力は私たちの頑なな心を砕く力です。主イエスの福音をそのまま受け止めるよう導く力です。そしてまた、神を愛し人を愛する宣教の力なのです。この聖霊が私たちにも与えられています。この聖霊に導かれ、イエスさまが父なる神さまの無条件の愛を深く感じたように私たちも神の愛を深く味わうことができるように。そして、その愛に満たされることで様々な誘惑から自由にされ、逆に、復活の主の証人として、神さまの素晴らしさを証ししていく私たち、聖霊が豊かに息づく教会として育てていただきたいと願います。
お祈りします。

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交わりの回復を求めて―ペンテコステの恵み

松本雅弘牧師
使徒言行録2章1―13節
2020年5月31日

Ⅰ.ペンテコステに起こった聖霊降臨の出来事

ペンテコステ、おめでとうございます。2章1節の「五旬祭」は「50日目の祭り」という意味で、ギリシャ語では「ペンテコステ」という言葉が使われています。2千年前の、このペンテコステの日に、弟子たちの上に聖霊が降りました。私たち教会が聖霊を宿す神殿になった瞬間です。
仮に私たちがこの場に居合わせたなら、弟子たち同様に身体全体で実体験できた驚き衝撃の出来事だったことでしょう。さらに不思議な現象が続いて起こりました。彼らが「ほかの国々の言葉で話しだした」のです。
ただ注意すべきは色々な国の言葉で彼らが語り出したことではなく、何を語ったかの方です。彼らが語り出したこと、それは「神の偉大な業」、神の国の福音です。ここから福音宣教がスタートしたのです。

Ⅱ.復活の主の証人として

先ほどペンテコステは「50日目の祭り」だとお話しましたが、いつから数えて50日目かと言えば、過越の祭りから数えて50日後なのです。この年の過ぎ越しに何があったのかと言えば、主イエスの十字架です。細かく言うならば十字架の後の復活から数えて50日目、主イエスの昇天から数えたら僅か10日後の出来事がペンテコステです。
ところで50日前と言えば、私たちにとっては緊急事態宣言が発出された時期です。人によって感じ方は違いますが、確かに長かったと思います。でも客観的に見たら50日前は遠い昔ではなくつい先日のことです。つまり弟子たちからしたら十字架のショックがまだ覚めないような時期、〈次に捕まるのは、この私〉という思いで戸を締めてじっとしていました。勿論、その3日後、復活の主に出会うまでは、です。ただ福音書を丁寧に読む限り復活の主に出会った後でさえも外の世界に向かっては閉じられたままです。
彼らが都に踏み留まることが出来たのは復活の主から「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた父の約束されたものを待ちなさい」と命じられていたからです。でも本音の部分は身の危険を感じ、怖れで一杯だったのではないでしょうか。しかしそうした彼らの心配や都合にお構いなく聖霊が降り注がれた。その結果が使徒言行録2章に出て来たとおりなのです。
ですから弟子たちは語りたかったから語ったのではありません。本音は逃げ出したかった、怖かったのです。でも聖霊降臨の結果、「霊が語らせるままに」とあるように、彼らに注がれた聖霊が語らせたので語ったのです。そして使徒言行録2章41節を見ますと、この日、3千人もの人々がクリスチャンになり、エルサレムにキリスト教会が誕生したことが分かります。ある人の言葉を使えば、「物凄く劇的で華々しいスタート」でした。
ただこの後の教会の歩みは決して順風満帆ではありませんでした。あまり時間を置かず様々な問題が教会を襲ってきました。教会の中心メンバーのアナニアとサフィラ夫妻が献金をごまかす事件が起こります。教会員数が増加したことは恵みだったのですが、ヘブライ語を話すユダヤ人信者の、ギリシャ語を話す信者への愛のなさが、不公平な配給として表面化しました。そして目を教会の外に移せば、ユダヤ人による激しい迫害の嵐です。殉教者も出はじめるのです。
でも不思議なことに1つひとつの問題を契機に福音宣教の働きが拡がっていく。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」、この主の約束が確実に実現していくのです。

Ⅲ.バベルの塔の出来事とペンテコステの出来事

今日は、「交わりの回復を求めて―ペンテコステの恵み」という題をつけました。旧約はバベルの塔の箇所を選びました。聖霊降臨の出来事が言葉の問題と深く関係しているからです。バベルの塔の出来事は端的に、人間が神抜きの自己実現をはかろうとした出来事です。その結果、言葉が通じなく、心が通い合わなくなった。その後の人類の歴史はこの時の混乱をそのまま引きずっています。
ところが、使徒言行録2章を見ますと、ペンテコステの日に聖霊が降ると、彼らが様々な言語で話し始めました。その様々な言葉をもって「神の偉大な業」、神の国の福音を語っていたのです。

Ⅳ.交わりの回復を求めて

公生涯の最初、主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになりました。すると天が割け、聖霊が鳩のように主イエスに注がれた。聖霊の油注ぎをいただき、メシアとしての歩みが始まりました。まずナザレで説教なさった。そこで洗礼の時に受けた聖霊の油注ぎの意味をお語りになったのです。「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれ人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるため」。そのために「わたしは油注がれ、メシアとされたのだ」。これが神の国の姿、私たちが既に与っている恵みの現実なのです。
福音書を見ますと宗教指導者たちに向かって「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」と断言なさる。天地がひっくり返るような発言です!町の四つ辻に立って、「見かけた者はだれでも、片っ端から連れて来なさい」と神は招いておられる。その招きに応じてやって来た全ての人に、無条件に、「主イエスを着なさい」と救いの礼服を着せてくださる。そのようにして私たちを神の国へ、救いへと導かれるのが主イエスなのです。そしてペンテコステの日に、主に注がれた同じ霊である聖霊が弟子たちの上に注がれた。そして今を生きる私たちの上にも豊かに注がれている。主イエスの始めた回復の働きのバトンが私たちに手渡され、今も継続しているということなのです。
バベルの塔を建てようとした人々の心の中にあった望みは何でしょう?神からの自立、神抜きの自己実現です。ただ問題になるのは、「自立して何になりたいのか、何を実現するのか」ということでした。誰でも私たちは自分を実現したいという願いを持ちます。でもその願いが強ければ強いほど、〈願いがかなわないのではないか〉、〈願いを実現するには力不足なのではないだろうか〉と不安を抱えます。そしてふと周りを見れば私と同様の願いを持つ人たちを発見する。そしていつの間にか他人との競争の中に立たされている自分に気づくのです。
「私は一体誰なのか」、これは人間として根本的な問いです。でもその答えを周囲との比較の中に見出さざるを得ない。その結果、手を携えながら共に生きていくべき周囲の人々を、友や仲間ではなく競争相手、場合によっては敵としてしか見ることが出来ないのです。バベルの塔建設に携わった人間たちの心を支配していた「高さ」や「大きさ」や「強さ」を求める心は、こうした思いだったのではないだろうかと思います。
しかし神さまは人間を愛し、時満ちるに及んで御子を遣わしてくださった。そしてご自身を指し示し人生に神がおられることの幸い、人生に「神との関係という縦軸」がどうしても必要なことを示されたのです。そして人生に「神との関係という縦の軸」をいただくとき、私にしか立つことのできないユニークな立ち位置を初めて発見することができ、本当の意味で安心し満たされた思いを経験する。そして人との比べ合いから自由にされ、隣人と手を携えて生きる準備が私の側に出来てくる。主イエスがそうであったように不思議と「低さ」や「小ささ」や「弱さ」に目が向き、互いに受け入れ支え合えるような横との関係が建て上げられていくのです。
私たちは神さまのもの、神さまのご支配の中に生かされている者です。神と和解させられ、自分とも仲直りし、そして隣人との平和の中に置かれている。この恵みのしるしとして、聖霊が与えられています。聖書によれば、私たちが主イエスを信じることができるのも、聖書をもっと知りたい、祈りを深めたいという願いを持つのも、それは聖霊が働いていることの証拠だと教えています。
この聖霊の恵みの力を私たちがしっかりといただくために、私の側でできること、それは「信仰生活の5つの基本」を通して、ぶどうの木であるキリストにつながることです。そうすれば、ぶどうの木であるキリストを通して、聖霊の樹液が私たちに注がれ、私たちを通して、神の恵みの実が実っていくのです。
今日から始まる1週間も、この聖霊なるお方が共にいてくださり、私たちを通して、豊かに働いてくださることを祈り求めていきたいと願います。お祈りします。

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使徒言行録2章の教会と私たち

松本雅弘牧師
2019年6月9日
ペンテコステ礼拝

エゼキエル書37章1~10節 使徒言行録2章42~47節

Ⅰ.ペンテコステの恵みにあずかるために

ペンテコステ、おめでとうございます。2千年前のこの日にキリストを信じる弟子たちに聖霊が降り、私たち教会が神殿となった出来事がペンテコステの出来事です。主のご臨在なさる場がエルサレムの誇る神殿ではなく、キリストを主と信じる教会という共同体、教会に繋がる私たち一人ひとりが、主が共におられる神殿となったのです。

Ⅱ.聖霊を宿す神殿となった私たち

イエス・キリストを信じ、私たちは洗礼を受けました。それは私たちの内側に聖霊なる神さまが住んでくださる神殿となったということです。そのように私たち自身が聖霊を宿す神殿になったという事実を今朝もう一度覚え、味わいたいと思います。
パウロは、聖霊を与えられている現実を、その手紙の中で繰り返し説いています。
エフェソの信徒への手紙の1章にこういう御言葉があります。「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」(エフェソ1:13-14)
これがペンテコステ以降の私たちの現実、聖霊が宿っている、ということです。ところが、私たちの内に、すでに聖霊をいただいているにもかかわらず、そのことに心の目が開かれていない状況があります。パウロは、そのことについてこんなことを語っています。
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント6:19-20)
パウロは、第1に、私たちが真に救われクリスチャンとなっているのなら、聖霊が宿ってくださっているという霊的現実があることを教えます。第2に、そのような現実があるにもかかわらず、聖霊を宿す神の宮になったという霊的な現実に、私たちの心の目が開かれていないということを語るのです。
数年前のクリスチャン新聞の統計によれば、日本のクリスチャンの平均寿命は3年弱だと言うのです。大変ショッキングな事実です。洗礼を受けて3年経つと色々な理由で教会を離れてしまう。「卒業クリスチャン」という言葉が日本のキリスト教界にはあるほどです。
それほどに、サタンの誘惑は強く巧みであるということ。サタンは神さまから私たちを引き離そうと躍起である、ということでしょう。
イエスさまも、洗礼を受け、聖霊が降り、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3:7)という天からの声を聞くという大きな経験をされた直後、サタンの誘惑を受けました。イエスさまさえもサタンの誘惑にあったのです。
では、どうしたらよいのでしょうか。それは、「ぶどうの木につながり続ける」という大原則にいつも立ち帰ることです。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ15:5)と主が言われているからです。
聖霊をお与えになった後、神さまが私たちに願っておられることは、聖霊の命が私の内側に生活の様々な場面で大きくなるような方向を歩み続けていくということです。
では、そのためにはどうしたらよいでしょうか。ペトロはこの点について次のように語っています。「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」(Ⅰペトロ2:2)混じりけのない霊の乳で、空っぽの心を満たすということでしょう。その直前の1節に、「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、」とあるのです。「みな捨て去って」心の中にスペースを作るということ。そして聖霊にとって代わっていただくためです。
そのために私たちは、今のありのままの姿で主の御前に出て、祈ることから始めること。そして、祈りつつ御言葉の水を注ぐことです。
「主よ、私の中にこのような問題があります。私の中にこのような欲深さもあります。私の中にこのような怒りもあります。私の中にこのような傷もあります。聖霊なる神さま、どうぞ働いてください。そして、私の中の空間を聖霊で満たしてください。私の持っている偽りと罪を全て追い出してください。」と祈っていくのです。

Ⅲ.ぶどうの木につながれば実を結ぶ

ペンテコステの出来事の中で、聖霊が臨んだ彼らの様子を、何か奇妙なものでも見るかのように、少し距離を置いて観察していたエルサレムのユダヤ人に向かって、この時ペトロは説教しました。
その中で、この出来事は、旧約聖書のヨエル書の預言の成就であることを人々に伝えました。
「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子や娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」(ヨエル2:17)
聖霊が降ると、「あなたたち」を基点に、「あなたたちの息子と娘」、「若者」、そして「老人」と4世代の者たちが聖霊によって熱心に主を証しする共同体になるとの約束が語られています。聖霊が降ると、「4世代からなる教会」が形成される、というのです。さらに、その「4世代からなる教会」の日常生活の姿が使徒言行録2章40節以下に出てきます。
聖霊降臨によって誕生したキリストの教会は、まさに「信仰生活の5つの基本」を土台に「高座教会の3つのめざすもの」に現された、主からの使命に生かされた延長線上にある教会の姿であることを改めて教えられます。この恵みは、あの2千年前のペンテコステの日に誕生したエルサレム教会ばかりではなく、同じ聖霊なる神さまを内側に宿す私たち「高座教会」にも現れる恵みであることを、今朝、もう一度、覚えたいと思うのです。
ここで注意したいことがあります。使徒言行録の著者ルカは、ペンテコステの日に聖霊を宿した群れの様子をレポートして、「教会はこうあるべきだ、クリスチャンはこうでなければならない」と主張しているのではありません。聖霊降臨の結果を淡々と報告しているのです。
神さまは、私たちがイエスさまの弟子として生かされるために、聖霊をくださっているのです。聖霊に導かれ、「もしイエスさまが私だったら、きっとこのように私の人生を生きるだろう」という日常的な生き方を、聖書を通して学ぶのです。弟子にとっての日常的な生き方こそ「信仰生活の基本」なのです。そして、「信仰生活の基本」を通して、ぶどうの木であるキリストに繋がり続けるということです。

Ⅳ.使徒言行録2章の教会と私たち

ぶどうの木であるキリストにつながり、キリストとの関係が回復し、親しい交わりの中で聖霊の満たしを受ける。このことこそ、神さまが私たちを導く導き方です。入り口は、私たちをまず、神さまとの生きた関係に招くということです。断絶していた関係をキリストの十字架によって回復し、神様につながれていくのです。
祝福された信仰生活の大原則は「神さまのために何かしてやろう」とか「立派なクリスチャンにならなければ」というようなところから出発しません。まずイエスさまと親しい交わりに入るところがスタートです。
ある時、仮庵の祭に集まっていた人々に対して、「イエスは立ち上がって大声で言われた」とヨハネ福音書に出てきます。
祭が盛り上がり、みんな興奮していたのでしょう。祭りやイベントで盛り上がりますが、その後、どっと疲れが押し寄せることがあります。主はそれをご存知でした。そうした彼らに聞こえるように、主イエスは、「『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」(ヨハネ7:37-39)と言われたのです。
ですから私たちは、このお方の招きに応えることです。使徒言行録2章に紹介されているエルサレム教会は生き生きしていましたが最初からそうだったのではありません。いただいた聖霊に満たされるためにぶどうの木であるイエスさまにつながっていったのです。そのようにして「恵みの循環」が始まっていきました。
私たちも同じ聖霊をいただいている教会です。この聖霊の命がいよいよ成長し、この地域の人々に福音をもって仕え、キリストの福音で満たすために、私たち一人ひとりが「信仰生活の5つの基本」を通してキリストに結ばれて生きていきたいと願います。お祈りします。

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ペンテコステ礼拝 主日共同の礼拝説教

ペンテコステ ― 四世代が喜び集う教会の誕生

2018年5月20日
ペンテコステ礼拝
松本雅弘牧師
ヨエル書3章1~5節
使徒言行録2章1~21節

Ⅰ.バベルの塔の出来事

ペンテコステと聞くと、私はバベルの塔の出来事(創世記11章)を思い出します。言葉が混乱した出来事です。あの時、人間は「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」(4節)と思い上がり、計画を実行し始めますが、それを喜ばれなかった神は言葉を混乱させます。
その結果、心が通い合わなくなり、人々は全地に散らされて行ったのです。
17年前、私はブラジルのサルバドールにあるマッタ・デ・サンジョアンの集会を訪問したことがあります。ポルトガル語が全く分かりません。「オブリガード」という、「ありがとうございます」のポルトガル語だけを覚えてブラジルにまいりました。
「言葉がわからない」ということは、本当に心細いものです。サンパウロまでは国際線でしたから英語のアナウンスがありますが、サンパウロからは国内線で、そこは正真正銘のブラジルでした。
やっとサルバドールに到着。空港で出迎えてくださったマッタの教会員の方たちが、日本語で話しかけてくれた時に、なんとも言えない安心感を覚えました。しかも、その時、案内されたレストランの名前が「やまと」でした。大和市民の私にとって、これまた馴染みのある名前で、ホッとしました。
ところで私たちは今でも、同じ日本語を使いながら、日常の生活において心が通じ合わない経験をすることがあります。一番親しい関係においてもそうです。つまり日常的に「バベルの塔の出来事」を経験しているのではないでしょうか。
ヘブル語で「バベル」とは、「混乱」を意味する「バーラル」という言葉から来ています。私たちの周りでは、今現在も、そして世界のあちらこちらで、絶えることなく、そうした混乱が起きています。

Ⅱ.ペンテコステの出来事

ペンテコステの日に起こった出来事は、バベルの塔の出来事と深く関係しています。2千年前のペンテコステには、ちょうどバベルの塔の出来事と正反対の出来事が起こっているのです。
その日、「一同が聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」(使徒2:1)とあります。
聖霊をいただいた弟子たちはガリラヤ出身の人々でした。その日、エルサレムには、祭のために世界中から集まって来た人々がいましたが、弟子たちが彼らの言語を語りだしたのです。
バベルの塔の出来事同様に「言葉の奇跡の出来事」が起こりました。ただ、この2つの出来事の間には大きな違いがありました。
ペンテコステのこの日、種々雑多な言語によって語られた内容は1つだったのです。
「奴らは酒によっているだけだ」と言って無視する人々もいました。そこでペトロが立ち上がり、「そうではない。この現象は、聖霊が私たちに与えられ、旧約聖書の預言者ヨエル書の預言が成就したことの結果なのです」と言って、この出来事の原因である聖霊が降ったこと、そしてその聖霊が降ったことの意味、つまりペンテコステの出来事の意味を説き明かしたのです。
聖霊の恵みが行き届く時、そこに集まる人々が、たとえ多くの言語に分かれているような状況にあったとしても、それが単なる混乱や分裂では終わらないというのです。
子どもや若者、壮年や高齢者という複数の世代、世代の違いがあったとしても、共に夢を見、幻を見て将来への希望を共にすることができる。違いを乗り越えて、神にあって互いに通じ合う世界が生み出されて行くのです。
まさに、多様性と統一性が聖霊の働きの中で調和を保つというのです。
私たちも聖霊に導かれ、聖霊に満たされて行く時に、言葉や文化の違いがあっても、同じ神さまに愛され生かされている1人ひとりであることを知らされるのです。そして互いに必要とし合う者同士であることを経験させられていきます。
さらには、神の民である私たちの教会に、このペンテコステの出来事を通して、「キリストの福音の言葉」という、「新しい共通語」が与えられたという恵みを発見するのではないでしょうか。
バベルの塔の出来事以来、人間に与えられている言葉という賜物が、罪によって誤用され、他者を傷つけ、醜く争い、騙し、嘲り、本当に惨めな結果を生み出してきました。それが私たちの歴史でしたが、神は「キリストの福音の言葉」という共通言語を、再び人類に与えてくださったのです。そして、それを大胆に語り伝えるようにと聖霊を与えてくださったということなのです。これが聖霊の降臨によって起こった出来事、ペンテコステであり、その時以来、私たちもこの恵みに与って生かされている、ということでもあるのです。

Ⅲ.コリント教会の信徒が忘れていた霊的現実

ペンテコステの出来事以来、パウロは、主イエスを信じる全ての者に与えられる聖霊について語り、また、教会宛てに記した手紙によって、繰り返し思い起こさせていきます。
ところが一方で、罪や弱さ故に、この現実に心の目が閉ざされている人々もおりました。コリント教会の兄弟姉妹がそうでした。パウロはそうした彼らに向かって、「新しい霊的現実」に生かされていることを教えたのです。
暫く前のクリスチャン新聞に、ある調査結果が出ました。「日本人クリスチャンの平均寿命は3年弱」というものです。大変ショッキングな数字でした。これが事実とするならば大変なことですが、1つ言えることがあります。それほどサタンの誘惑が巧みである、ということです。
神さまから私たちを引き離そうとする力が、常に私たちの周りで働いているのです。そういえば、主イエスも受洗直後に悪魔の誘惑に遭っています。

Ⅳ.聖霊の命が生き生きする方向を選び取る

では、どうしたらよいのでしょうか。
「ぶどうの木につながり続ける」という大原則にいつも立ち帰ることです。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15:5)と、主が言われているからです。
高座教会では「信仰生活の5つの基本」を大切にし、それをもってぶどうの木であるキリストにつながろう、と互いに励まし合いながら歩んでいます。
「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」(2:41、42)
このように、聖霊降臨の出来事に与った弟子たち、初代エルサレム教会の人々の信仰生活の様子が使徒言行録に記されています。
私たちの教会が大事にしている、「信仰生活の5つの基本」は、まさにここに出て来る、彼ら初代教会の兄弟姉妹の歩みそのものなのです。
受洗後勉強会で次のようなお話をします。魚は何故、水の中をスイスイと泳ぐことが出来るのか。それは魚の命を持っているからでしょう。なぜ鳥は空を自由自在に飛ぶことが出来るのか。鳥の命を持っているからです。
ただ、鳥の命を持っていてもヒナ鳥は簡単に羽ばたくことができません。けれども、鳥の命が大きく成長すると、大空を自由に羽ばたく日がやって来ます。魚もそうです。魚の命があっても、誕生したばかりの魚は、最初は物陰や岩の陰に隠れているだけでしょう。流れに逆らい、勢いよく上流に向かって泳いだり、滝を登ったりすることはできません。しかし、やがて大きな魚になると滝を登り、自由自在に泳ぎまわることが出来るようになる。何故でしょうか。魚の命が成長していくからです。
私たちクリスチャンも同じです。聖霊をいただいている私たちが、「信仰生活の5つの基本」を通して、ぶどうの木であるキリストにつながることで、ぶどうの木であるキリストから枝である私たちに、聖霊の命が流れてくるのです。それによって、私たちは聖霊の実を結ぶ者とされていくのです。
そして、その聖霊の働きの1つの側面が、今日の説教題とした「4世代が喜び集う教会」が実現する、ということです。それが、使徒言行録2章16節から21節に出てきます。
「わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」(17b)
聖霊が降り、聖霊の命が行きわたる時に、「あなたたち」を基点に、「あなたたちの息子と娘」、「若者」、そして「老人」と4世代の者たちが愛し合い、主を証しする共同体になるとの約束が語られています。新しい命が成長し、共同体は「4世代からなる教会」が形成されていくのです。
4世代という多様性がありつつも、そこには聖霊による一致があるのです。
使徒言行録2章に登場する初代教会は生き生きしていました。彼らは聖霊をいただき、聖霊に満たされ、その満たしを常に経験するために、ぶどうの木であるキリストにつながり続ける中でそうなっていったのです。キリストにつながり、つながり続ける「恵みの循環」が始まっていきました。
同じ聖霊が私たちにも与えられています。聖霊による命がいよいよ成長し、この地域の人々をキリストの福音で満たすために、私たちは福音をもって仕えていきます。
私たち一人ひとりが、「信仰生活の5つの基本」を生活の土台にすえてキリストにしっかりと結び付き、「3つのめざすもの」を活動の柱として仕えていきたいと思います。
ぞれぞれの世代が、キリストにあってその違いを乗り越え、初代教会のように、共に喜び集える高座教会を、主が御建てくださるようにと祈り求めていきたいと願います。お祈りします。