2016年5月15日 ペンテコステ礼拝
松本雅弘牧師
ヨエル書3章1~5節
使徒言行録1章6~14節、2章1~4節
Ⅰ.はじめに
ペンテコステ、おめでとうございます。2千年前の過ぎ越しの祭に、世の罪を取り除く神の小羊イエスさまが、十字架の上で贖いの死を遂げ、その3日の後に復活なさったのです。その後、40日間にわたって弟子たちに姿を現し、昇天されます。
今日の聖書個所には、昇天される直前の、イエスさまと弟子たちとの間で交わされた会話、そして、イエスさま昇天後、ペンテコステまでの10日間の弟子たちの姿が記録されています。
彼らは、「父なる神さまの約束」を、主の教えの通りに待ち望んでいました。このようにして、2千年前のペンテコステに、父なる神さまが約束された聖霊がくだり、そして、私たちが霊を宿す神殿となりました。こうして私たちは、復活の主の証人となったのです。
Ⅱ.一民族国家であるイスラエル王国の復興
ではなく神の国の実現のために
弟子たちは昇天前の主に尋ねています。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と。考えてみれば、この質問は、単に彼らの個人的な関心ではなく、国家を失って以来、すでに数百年経っていた、イスラエル民族の「悲願」を代弁する「問いかけ」でした。
この質問に対する復活の主イエスさまの答え、 それはイスラエル民族国家の復興ではなく、今までイエスさまが宣べ伝えて来られた「神の国の到来」だったわけです。
福音書を読む時、イエスさまは、この神の国の到来の福音を伝えるためにやってこられたことが分かります。マルコによる福音書の1章15節に、公生涯の最初にイエスさまが語られた、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉があります。
この「福音」という言葉は「良き知らせ」という意味です。ただ、ここで改めて〈「良き知らせ」とは何を意味するのか〉という素朴な疑問を持つのではないでしょうか。
ある人は、「福音」とは十字架の出来事の意味を語ることだと考えます。しかし、イエスさまがこの「福音」という言葉を用いた時には、もう少し広い意味で使われたように思います。このことを考える上で、マルコが、イエスさまのメシアとして第一声(マルコ1:15)を記す直前に記録している2つの出来事を覚える必要があると思うのです。
その1つは、洗礼を受けられた時に、天から語られる神さまの声を聴き、イエスさまご自身が、神さまの愛を体験したということです。そして、この出来事に続く40日間、断食の祈りを通して、イエスさまは神さまと親しく交わる経験をしました。これらの体験によって、ご自身に対する神さまの愛を深く味わい悟られました。イエスさまは、これを公生涯の始まりになさったのです。
そして2つ目のこととは、神さまのご自分に対する無条件の愛をもって、イエスさまは悪魔の誘惑に勝利したのだ、ということです。つまり、マルコによる福音書は、イエスさまの、メシアとしての第一声の前に、「神さまはわたしを愛してくださっている」ということ、そして「神の愛によって悪魔に勝利した」、この2つの出来事を記しているのです。
ですから、私たちは、主キリストに倣う者として、キリストのこの2つの体験を追体験していくこと、そのことが、私たちキリスト者にとって、大切なクリスチャンとして歩みとなるということです。
まずは、イエスさまが父なる神さまの無条件の愛を、深く感じたように、私たちも神の愛を深く味わうことができるように。そして、その愛に満たされることで、様々な誘惑から自由にされる経験をすることです。
もう一度、マルコによる福音書1章15節に戻ります。ここでイエスさまは、「悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。「悔い改める」というギリシャ語は「メタノイア」という言葉です。「ノイア」というのは「考え・考え方」のことです。「メタ」というのは「ひっくり返す」という意味です。「メタノイア」、すなわち、「考えを変える」、「今、自分が持っている信仰や信念をひっくり返す」。そうした上で、神さまの無条件の愛を、また、神さまの憐みによって悪魔に打ち勝つ力を与えられるという恵みを、言い換えれば〈「福音」を信じなさい〉、とイエスさまは招いておられるということなのです。
Ⅲ.聖霊が与えられていることの恵み
しかし、ここでもう1つ、大きな課題がありました。それは私たち人間に備わった自然の力では、こうした歩みを進めることができないということです。そのために神さまが用意してくださったことがあります。それが、聖霊を私たちに与える、という聖霊のプレゼントです。
ヨハネによる福音書16章には、父が約束された聖霊のお働きについて、イエスさまが丁寧に説明された言葉があります。「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」(ヨハネ16:7~15)
私たちがイエスさまを信じ、クリスチャンとして生きていく力を与え、また、聖書の言葉を悟らせ、自分のものにできるようにしてくださるのが、この聖霊なる神さまの働きなのだ、とイエスさまは教えてくださっていたのです。先ほどの言葉を使うならば、私たちが父なる神さまの無条件の愛を深く味わうことができるようにし、そしてまた、この愛に満たされることで様々な誘惑から自由にされる経験を、導き支えてくださるお方、それが聖霊なる神さまなのです。さらに言えば、パウロは、コリントに宛てた手紙の中で、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(Ⅰコリント12:3)と語っていますように、この聖霊によって、初めて私たちは「イエスさまを主」と告白できるのです。そしてまた、この聖霊の働きによって、主の御心を求めるような私に変えられていく。「御心のままに望ませ、行わせておられる」のも、私たちに与えられている聖霊のお働きだからです。
さらに、パウロはフィリピ教会に宛てた手紙の中で、次のように語っています。「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(フィリピ1:3~6)
聖霊は、私たちの中で善い業を始め、なおかつ、その業を成し遂げてくださる、完成してくださるのだ、自分はそのことを確信している、とパウロは語っているのです。そして、その善い業の完成のプロセスにおいて、私たちが、ぶどうの木であるイエスさまにつながる時に、聖霊の恵みの樹液が流れて来て、私たちの内側に、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制という聖霊の実を結び(ガラテヤ5:22~23)、キリストに似た私たちへと導いて行かれるのも、この聖霊のお働きによるのです。
このように考えていくと、本当に、この聖霊のお働きというのは、救いの始まりから完成に至るまで、私たちの全てを覆い尽くすほどのお働き、いや、私たちをキリスト者として育て成長させるお方であることを教えられます。
Ⅳ.私たちにも与えられている聖霊
ペンテコステとは、この聖霊が与えられた日です。そして、今もなお、イエス・キリストを救い主、主として信じた者に与えられる、神さまからのプレゼントです。
プレゼントをいただきながら、そのことを知らないでいたコリントの教会の兄弟姉妹もいました。パウロはその人たちに対して語りました。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント6:19~20)
この聖霊が私たちにも与えられています。イエスさまが、聖霊に導かれて神さまの無条件の愛を深く感じたように、私たちも、この聖霊に導かれて神さまの愛を深く味わうことができるように。その愛に満たされることで、様々な誘惑から自由にされ、力を受けて、復活の主の証人として、神さまの素晴らしさを証ししていく私たち、聖霊が豊かに息づく教会として育てていただきたいと願います。
お祈りします。