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主日共同の礼拝説教 歓迎礼拝

たったの一人は尊い一人

和田一郎副牧師
ルカによる福音書15章1-7節
2022年10月23日

Ⅰ. 聖書に聞く

キリスト教は言葉の宗教と言われます。ヨハネによる福音書は、「初めに言(ことば)があった」という一文から始まっています。天地万物が造られる前、まず神様がそこにおられました。その神様を言葉と表現しているのです。「初めに言(ことば)があった」と。
その神様は「光あれ」と言って、言葉であらゆるものを創造されました。ですから私の名は一郎と言いますが、「一郎あれ」といって、この命が与えられたわけです。
神様の言葉は今も聞くことができます。この聖書に記されている言葉が神様の言葉だからです。ところが、ある神学者が、聖書は神の言葉であるけれど、「聖書を読む」ことと「神に聞く」ことは違うと言っておりました。どういう意味かというと、「聞く」ためには、相手がいなければ聞けませんよね。「聞く」ことで主導権をもっているのは語っている相手の人です。しかし「読む」となったらどうでしょう。「読む」のは一人の行為になってしまいます。「聞く」ことで主導権をもっているのは話し手ですが、「読む」と主導権は自分になるわけです。「『聞くこと』は人格と人格の間で交わされる行為である」とその神学者は言いました。ですから教会では「聖書に聞く」と言ったりします。それは神の言葉を聞くことなのですね。
「文字は殺し、霊は生かす」(2コリント 3:6)という言葉もありますから、聖書の言葉を文字として読んでいても知識としては増しますが、神様との関係を作るには、あくまでも神の声として受け止めて、「神様の声を聞く耳」を持つようにしたいと思うのです。

Ⅱ. 聞く耳のない人たち

ところが、今日の聖書箇所には、聞く耳を持つ人と、聞く耳を持てない人たちがでてきます。
先程、朗読したのはルカ福音書15章でしたが、その直前の箇所では「聞く耳のある者は聞きなさい」(ルカ 14:35)とイエス様は言っているのです。イエス様は他のところでも何度も言うのです「聞く耳のある者は聞きなさい」と。そこで集まってきた人は、徴税人や罪人と呼ばれていた、世の中から疎外されて肩身の狭い思いをしていた人たちでした。彼らはイエス様の話しを「聞きに来た」のです。一方でファリサイ派や律法学者と呼ばれる特権階級の立派な人たちもやって来ました。しかし彼らは「文句を言った」とあるのです。
いつの時代にも、聞く耳を持つ人と、持たない人がいるのです。そこでイエス様は、ある譬え話しを始めました。

Ⅲ. 羊飼い(神様)の思い

百匹の羊を持っている人がいて、その中のたったの一匹ですが、いなくなったのです。別の箇所では「迷い出た」とありましたから、一匹の羊が迷子になっていなくなったのです。それを知った羊飼いは、そこにいる九十九匹を荒れ野に残して(おそらく他の羊飼いが見ていてくれたのでしょう)、見失った一匹を見つけ出すために捜し歩くだろうと言うのです。
私たちだったらどうでしょう?羊1匹くらいいなくなってもあと99匹もいるし、別にいいか、と考えるかもしれません。合理的に考えれば、当時のユダヤの荒れ野というのは危険な場所がありましたから、たった一匹のために、時間を割いて危険な場所を探しに行くなんて合理的ではないと計算するかも知れません。最近の言葉で言えばコスパが悪いのです。
しかし、この羊飼いは神様に譬えられています。合理的ではないことでも、神様は違います。神様はいなくなった1匹を見捨てず必死で探されるお方なのです。神様にとって私たち人間は、一人の例外もなく大切で愛おしい存在だからです。聖書には「神はその独り子をお与えになるほどに、世を愛された」という言葉があります。自分の独り子を犠牲にしてまでも、この世の私たち人間を愛してくださっているのです。なぜでしょうか?
最初に、神様は言葉であらゆるものを創造されたと話しました。私たち人間、それぞれの命を創造されました。神様がご自分で命を与えた、ご自分の大切なものだからです。ご自分のものとして大切に思って下さり、迷い出たなら、捜しに行って、見つけ出し、ご自分のもとに取り戻そうとして下さるのだ。ということなのです。
自分のものは大切にする、失くしたら必死に探す。誰の中にも当然あるこの思いに目を向けさせようとして、イエス様はこの譬え話しを話されました。この話を聞いていた徴税人や罪人と呼ばれ、肩身の狭い思いをしていた人たちも、神様は放ったらかしにしない。自分のものとして大切にしてくださるのだ。神様とは、そのようなお方なのだと教えてくださったのです。

Ⅳ. 道に迷った羊の思い

一方で、迷い出した羊に目を向けたいと思います。この羊は迷子になって、どんな思いでいたでしょうか。群れからはぐれて、自分がどこにいるのかも分からない。不安と心細さと恐れでいっぱい。喉はカラカラ、おなかはペコペコ。足は疲れて重いし、周りはどんどん暗くなって行く。もう泣きそうでボロボロだったでしょう。迷子になった羊は、自分で羊飼いのもとに帰ったのではありません。そもそも羊にはそんなことはできないのです。羊は、群れの中で養われなけれる動物です。一旦、迷子になってしまったら、自分で道を見つけて戻ることはできないのです。
私も最近、この羊のように道に迷う経験をしました。家族3人で山に登りました。5歳になる息子でも登れて麓から片道1時間ぐらいの登山です。その日、私は心も体も疲れが残っていたので、登り始めるのが遅くなってしまったのです。でも、とにかく登り始めました。ところが、歩いてもなかなか登り道にならないのです。道を間違ってしまったのです。道を戻りながら、日が暮れ始めていたので、「まずいな」と思い始めました。携帯電話の電波も届かない所だったので目的地の山小屋にも電話ができない、位置情報も見れずに不安になっていたのです。そこで、「私はこのまま登るのは危ないから山に登るのは止めて帰ろう」と言いました。それを聞いた息子は大泣きです。しかし、息子の声を振り切って麓の駐車場まで戻ったのです。今思うと、私は心身共に疲れていて、心が折れていたのです。麓には売店があって妻がいろいろ話しをしていました。妻は売店からは山小屋に電話がつながるから話してみてはどうか?と言うのです。電話で山小屋の人が言うには、子どもの足でも、まだ日没には間に合うことと、登りやすいルートも教えてくれたのです。結局、登ることにして、無事に日没前に山小屋に到着しました。素晴らしい夕日を家族で見る事ができた。楽しい思い出となったのです。
その夜、山小屋の寝床についた時、息子がおもむろに「今日学んだこと」と言うのです。いったい何だと思いました。すると「今日学んだこと。人に聞くこと!」と言うのです。これには夫婦そろって大笑いしながら驚きました。そうです、私は「まずいな」と思ったあたりから、周りの声が聞こえなくなっていたのです。妻が言った言葉も耳に入っていませんでした。自分は登山の経験があるのに道に迷ってしまったという負い目、疲れ、日の傾き、焦り、心を閉ざして聞く耳をもてなかったのです。周りには行き交う登山者も家族もいたのに、心を閉ざして勝手に孤独感を感じていました。耳があるのに聞く耳をもっていなかったのです。
イエス様は「聞く耳のある者は聞きなさい」と言いました。それは何を聞きなさいと言っているかというと、神様の声を聞くことです。つづいて愛する隣人の声を聞くこと、さらに自分自身の心の声も聞く必要があるのです。聖書全体が教えていることは、神を愛しなさい、そして隣人を自分のように愛しなさいと教えています。言い換えると神様の声を聞くこと、隣人の声を聞くこと、さらに自分の心の声を聞くということです。
聖書では、人間は誰もが神様の前では一人残らず罪人であると教えます。犯罪を犯した罪人ではありません。神様から離れて自分勝手に歩んでいる罪人です。神様の声も、隣人の声も、自分本来の声すら聞こえなくなってしまった人を、罪人と呼びます。それは道に迷った一匹の羊です。自分一人では何もできない羊です。しかし、そんな不安で心を閉ざしている罪人の、心の呻きや、叫びを、聞いてくださっているのは神様です。なぜなら、たったの一匹であっても、いつも探してくださっているからです。決してあきらめない。「恐れるな。私があなたを贖った。私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの」(イザヤ43:1)。

Ⅴ. 問いかけ
そして最後に、見失った羊を見つけ出した羊飼いは、「喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう」(ルカ15:5,6)とあります。
迷い出てしまった罪人を、自分の大切なものとして必死に探し、ようやく見つけた人は、大いに喜んでくださるのです。迷子になった羊ではなくて、探していた羊飼いの喜び、つまり神様の喜びです。神様の声に、聞く耳をもたなかった人が、神様のもとに立ち返ることを、神様は誰よりも喜んで下さるのです。
しかし、この譬え話は、私たちに対する問いかけでもあります。つまり私たちは、あの徴税人や罪人たちのように、イエス様のもとにその話を聞こうとして近寄って来るのか、それともあのファリサイ派や律法学者たちのように、イエス様に聞く耳を持たずに、自分が言いたい文句を言うのか?という問いです。
神様の声を聞くって、簡単そうで難しいのかも知れません。私は息子の言葉をきっかけとして悔い改めました。きっと息子の知恵というより神様が働かれたのだと思います。
人は誰でも罪人、誰もが聞く耳をもたずに生れました。神様はそのために、ご自分の独り子をこの世に遣わして下さいました。神の独り子イエス・キリストが、迷子になってしまっている私たちを探し出し、見つけ出して神様のもとに連れ帰って下さる、まことの羊飼いです。イエス様が私たちの羊飼い。何も欠けるものはありません。
お祈りいたします。

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偶然ではない人生

松本雅弘牧師
マタイによる福音書25章14-30節
2022年10月16日

Ⅰ. 私たちの悩み

私たちの悩みの一つは、自分で選んだのではない条件で生きていかなければならない、ということにあるかと思います。しかも、そうした条件が、しばしば私たちにとって悩みの種になることが多いように思います。
さて、今日、お読みしました、「タラントンのたとえ」は主イエスの譬えの中でも大変有名な話ですが、今お話したような悩みを抱える私たちに、大切な方向性を示す主イエスの教えのように思います。では、譬え話のあらすじから見ていきたいと思います。

Ⅱ. タラントンの譬え話

ある人が旅に出かけるにあたって、その家で仕える僕たちを呼んで、一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントンを預けて旅に出た、というところから譬え話は始まります。
ここに出てくる「タラントン」とは、元々は重さの単位です。ただそれが転じて貨幣単位として用いられるようになりました。テレビに出てくる才能に恵まれた人のことを「タレント」と呼びますが、その言葉は、聖書の「タラントン」が語源となっています。
調べてみますと、1タラントンは6千デナリオン。6千デナリオンとは健康な労働者6千日分の賃金です。安息日を除いて年間300日働いたとすれば、何と20年分の賃金に相当するのが、この1タラントン。かなりの大金です。
今日の譬え話によれば、5タラントン、2タラントン、そして1タラントンと、預けられる額に違いがあります。でも、一番少ない1タラントン預かった人でも、実際には本当に大きな額。つまり、誰もが、多くの賜物を預けられ、この世に生かされている存在なのだ、ということを教えられます。
ただそうは言っても、この譬えを聴く時、預けられたタラントンの違いが気になるものです。こうした違いはどこから来るのでしょうか。15節を見ていただきたいと思います。ここに見落としてはならない表現が出て来ます。「それぞれの力に応じて」と書かれています。確かに重さ10キロ
しか持つことの出来ない人が、常に50キロの荷物を抱えながら生きていかなければならなかったとしたら、とてもシンドイでしょう。
ここで主イエスは、私たちのことを、持ち物の量によって区別したり、評価したりはしておられない。むしろ、「それぞれの力に応じて」タラントンの量が違っているとおっしゃるのです。
そうした中、19節に次のように書かれています。「さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた」とあります。その続きの20節からの箇所には、5タラントン預けられた人は5タラントン儲け、2タラントン預けられた人は2タラントン儲けたのですが、1タラントン預けられた人は、「地の中に隠しておいた」というのです。そして結果的にその僕は、外に追い出されてしまったという結末です。
さて、少し戻り、14節に注目したいのですが、ここに譬え話のポイントが説明されているように思います。「天の国は、ある人が旅に出るとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けるようなものである」と言った上でこの譬えが語られているからです。
「天の国」、別の言い方をすると「神の国」です。それは死んだ後に行く場所を指して、「天の国」とおっしゃったのではありません。先週の表現を使うならば、「神さまの御翼の陰/神さまの守りの中」という意味です。そのような意味で「神の国」とは「神さまの御思い」、聖書では「御心」と呼びますが、そうしたものが行きわたっている領域。しかも、その御心とは愛の御心です。そして、そうした神の御心は聖書の中に示されているわけですから、14節で「天の国は~のるようなものである」と言った上で、「タラントンの譬え話」を語られたということは、この譬えの中に、愛なる神さまの御心、聖書のものの見方が表されている、ということでもあります。
そうしたことを踏まえて、もう一度この譬え話に戻りたいと思うのですが、何も儲けることのできなかった1タラントン預かった者が外に追い出された。そのことだけを取り上げて解釈するならば、私たちの価値がその人の働きや成果にかかっている。そうしたことを教えている譬え話だと理解されてもおかしくないかもしれません。
あるいは「働かざる者、食うべからず」ではありませんが、働かなかった者は切り捨てられる、といったように読めなくもない。そうなると神の国もこの世界も結局、同じ価値観が支配しているではないか、と思われるかもしれません。
ここで「成果」を挙げた人に注目したいと思うのです。5タラントンの人は5タラントン儲けましたし、2タラントンの人は2タラントンを儲けたのです。成果主義で考えるならば、5タラントンの人は2タラントンの人よりも3タラントン多く儲けています。全体の合計で言えば、5タラントンの人は10タラントンになり、2タラントンの人は4タラントンですから、両者の差は6タラントンに拡がっています。
でも、どうでしょう。とても興味深いことが分かります。それは、主人がこの二人に対して、全く同じことを言っているという事実です。「よくやった。良い忠実な僕だ。お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の祝宴に入りなさい。」、新共同訳では「主人と一緒に喜んでくれ」となっています。ギリシャ語を見ても、一字一句全く同じです。成果の違いによって評価は変わっていない。全く同じなのです。

Ⅲ. ちがいが強み

ところで、この譬え話を読む時、私たちの注意はどちらかと言うと5タラントンと2タラントンの人、すなわち働いた人、成果を上げた人に向きがちだと思います。それに対して1タラントン預かったのに、何もせずに土の中に埋めた人を、いわゆるダメ人間というレッテルを貼ってしまうことがあるかもしれない。
このことについて少し考えてみたいのですが、なんで土の中に埋めたのかを語る、この人の言い分にもう一度耳を傾けてみたいと思います。24節と25節をご覧ください。
「ご主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出て行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。」
ここに、この人の本音が出ています。主人に対する恐れ、恐怖です。預かったお金をなくしたり、減らしたりしたら、とんでもない目に遭う。何とか無難に持ちこたえたい、という恐れでした。こうした考え方は、当時のユダヤ教の指導者たちの考え方、律法学者、ファリサイ派の人たちの考え方だったと言われます。
神さまを信頼し、神さまを愛しているから何かする、あるいは何かをしないというのではなく、やったり、やらなかったりすることの動機は、落ち度がないように、人から批判されないように、人の目を恐れる人間の姿があります。さらに突き詰めて考えてみるならば、神なんかはいない。自分で自分の人生を何とかしなければならないという生き方であり、人生の主はまさに自分自身であるという物語でしょう。
そうした物語/ものの考え方に対しこの譬え話は、この世界には慈しみ深い神がおられ、私たちはそのお方の守りの中で、それぞれの力にふさわしく生きるのですよ、と語っているのです。ただ、そうだとしても、タラントンのちがいは何なのだろうかという問題は残ります。
ワールドカップでMVPを獲得した澤穂希(さわほまれ)さんがテレビに出演していました。彼女はリズム音痴なのだそうですが、その悩みを専門家に相談していました。その内のひとりの専門家が興味深いことに気づいたのです。「澤さん、それがあなたの強みだ」と話すのです。その人曰く、人とちがう微妙なタイミングのズレがあるからこそ、一対一の場面で相手をかわしてシュートできる。だから本人が弱点と感じている、そのズレを修正するのではなく、むしろそれを強みとして生かすように、とのアドバイスだったのです。
コリントの信徒への手紙第1の12章18節に次のような言葉があります。「そこで神は、御心のままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。」
私が私に造られたのは、慈しみ深い神さまの御心によるものだというのです。ちがいを恐れる必要など全くない。もっと言えば、現時点で弱点と感じることも含め、私自身の抱える私の一部、もちろん、それがこの先、どう生かされるのか、現時点では受けとめられないかもしれません。でもこの聖書の言葉によるならば、その弱点と思える部分も含め、神さまが良しとしておられる、というのです。
ですから、私たちがすべきことは三つある。一つは、神さまが私に預けておられる賜物や個性を発見すること。二つ目に、それを神さまからあなただけに預けられたものとして、努めて磨き大事にしていくこと。そして最後、三番目のことは、それを用いて人々に仕えることです。決して、使わずに地の中に隠してしまうのではありません。用いることです。
5タラントンの人と、2タラントンの人に向けて語られた主人の言葉をもう一度見て見たいのです。「よくやった。良い忠実な僕だ。お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の祝宴に入りなさい。」
つまり主人が私たちにタラントンを預けた大きな目的は何かと言えば、主人の喜びを共にする、ということでしょう。神さまは全知全能のお方です。ご自分ですべてのことをなさることができる。しかし、神さまは、喜びを分かち合おうと、私たちを招き、タラントンを預け、生かして用いるようにしてくださった。
小さな子どもが、台所で、お母さんのお手伝いをする時、本当に満足をする。大きな喜びで満たされる。お母さん一人でしてしまえば、時間もかからず、おいしく仕上がる料理ですが、あえて、子どもに手伝わせると手間もかかります。効率もよくないかもしれません。でも、そうする。何故?作る喜び、作った物を家族が食し、喜び合う幸せを子どもと一緒に分かち合うためです。

Ⅳ. 偶然ではない人生-「ボクがボクになる」という目標

今日の説教のタイトルに「偶然ではない人生」とつけました。「偶然」でなければ、運命なのでしょうか。そうではなく、聖書はそのことを「摂理(せつり)」と呼びます。英語で“providence”という言葉は“provide”すなわち「用意する/調達する」という動詞からできた言葉です。「神さまが備えておられる/神さまが準備しておられる」ということです。
カトリックのシスターの渡辺和子さんが、50歳でうつ病にかかり悩まされていた時に、診察した医師が彼女に「運命は冷たいけれども、摂理は温かい」という言葉をかけたそうです。それ以来、人格的な神さまの配慮、備えの中で、今、自分が生かされていることを信じて歩んでこられたそうです。
預けられているタラントンや賜物は一人ひとりが皆ちがうのです。神さまから預かった命を生きる。精いっぱい生きる。
「大きくなったら何になりたいと聞かれて/大きくなっても何にもならないよ/ボクはボクになるのだ」。五歳の子が、こうした詩を作ったそうです。
確かに、どんなつもりで書いたのか分からないですが、でもとっても大切なことを言い当てた詩だと思いました。「ボクはボクになる―自分が自分になる」。これはある意味で、私たち全ての者に与えられている、大切な生きる目的、人生の目標なのではないでしょうか。
この世界は偶然が支配しているのでも、運命が支配しているのでもない。この世界は神がおられ、神さまが摂理の御手をもって私を生かしておられる。その神さまのお守りの中で日々を生きることが許されている。それは何と幸いなことだろうかと思います。
お祈りします。

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招きはあなたにも届いています

松本雅弘牧師
ルカによる福音書14章7―11節
2022年10月9日

Ⅰ. はじめに

ある日、主イエスが、ファリサイ派に属するユダヤの宗教指導者の家に行き、同じように招かれた客たちが、上席を選ぶ様子をご覧になってお語りになったのが、「客と招待する者への教訓」と私たちの聖書には小見出しがついていますが、この譬え話です。
今日は、説教に「招きはあなたにも届いています」という題を付けましたが、主イエスが語られた、この譬え話に耳を傾けて行きたいと思います。

Ⅱ. 私たちにとっての席順

結婚式の披露宴での席順ほど頭を悩ませるものはない、と聞いたことがあります。私には4人、子どもがおりますが、その内の3人が、コロナ前に結婚しました。そしてそれぞれ披露宴を行いました。詳しくフォローできていませんが、あの安部元首相の国葬の席順でも、主催者である政府は本当に気を使ったことだと思います。同じように公式の会議での座席の配列もそうでしょうし、記念写真の時に立つ位置もそうです。私たちの身の回りでも、いろいろな順番を巡る争いや苦労話を聞かされることがあるのではないでしょうか。
今日の譬え話を見ますと、主イエスの時代のユダヤでも、そうしたことが日常的に問題となっていたようです。「婚礼の祝宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたより名誉ある人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うだろう。その時、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。」(8,9節)
披露宴での席順なんて、考えてみればどうでもいいことなのですが、でも当事者になった時、やはり問題となります。何故かと言えば、それによって「自分の評価が示される」と感じるからです。
私が小学校五年生の時、大学出たての先生がクラスの担任になりました。当時、私は、帰宅すると、ランドセルを放り投げ、ベーゴマ、メンコ、野球などに熱中し、夕食直前まで真っ黒になって遊んでいました。ところが、その先生が担任になった結果、クラスの中に大きな変化が起こりました。
その先生が私たちの「主要四科目」、国語・算数・理科・社会のテストの平均点を学期末に表にして配布したのです。それだけではありません。四科目の平均点でクラス全員を成績順に「序列化」しました。子ども心にショックを受けたことを覚えています。
その結果、お互い見る目が変わってきました。泥だらけになって遊んだ仲間も同じ思いを持ったに違いありません。成績によって全てが決まり、多少おおげさな言い方かもしれませんが、成績によって「人間のランク付け」がなされたような妙な感覚を持ったことを思い出します。しかも、国語・算数・理科・社会が「主要四科目」と呼ばれ、大切なものがそれしかなく、音楽や図工、ましてや体育などは他の教科に比べ大事ではないかのような印象を子ども心に刻み込まれました。「主要四科目」ですから。つまり私たちの間に、一種の「競争」が始まったのです。競争心に火がついたのです。私も負けん気が強いほうでしたから一生懸命競争しましたし、その後、中学に進学し、それが加速されました。
実は、こうした「競争」には一つの「落とし穴」があるように思うのです。勉強を例にとれば、「何のために勉強しているか分からなくなる」という落とし穴です。人よりいい成績をあげること、人よりも一点でもよい点数を取ること自体が目的となります。受験でしたら偏差値が問題となり、いい学校の基準も偏差値の高い学校がいい学校となる。そして社会に出れば、先週の話ではありませんが、その人の社会的影響力や、その人の稼いだお金の額などが大きな問題となってしまう。様々なことが数値化され、いつの間にか競争が始まってしまうのです。
聖書に戻りますが、7節を見ますと、ここで主イエスがお語りになった譬え話は、主イエスが、婚宴に招かれた客が上席を選ぶ様子に気づいて話されたのだ、とそのきっかけについても伝えています。
一般に私たち日本人は、自分から上席に座ることは「はしたない」と考えます。でも心の中では、ある程度、自分はどの辺に座るのが適当かを考えている。ただ結果的に、その通りに配慮されないと不愉快になったり、ましてや「下」と思っていた人間が良い席に着いたりしたら、私たちの心は大いにざわついてしまうのです。

Ⅲ. ヘンリ・ナウエンの言葉を手掛かりに

さて、今週の木曜日に女性会の修養会が行われます。その時に、ヘンリ・ナウエンというクリスチャンが書いた文章を紹介しながら、お話ししようと思っているのですが、説教を準備しながら、ナウエンの言葉と響き合う内容なので、今日もご紹介したいと思うのです。ナウエンはこのような私たちの状況を次のように描写しています。
「今日の世界では、わたしたちはみな、何かを成し遂げたいという強い願望を持っていることは明らかです。ある人は社会に劇的な変革をもたらしたいと考えています。他の人は、家を建てることさえできたら、本を一冊でも書けたら、機械を一つでも発明できたら、あるいは一回でもトロフィーを獲得できたらと願っています。またある人は、誰かのために何か価値あることさえできたら満足すると思っているようです。
じつのところわたしたちはみな、自分自身の人生の意味や価値を、自分のこのような貢献度によって測ろうとしています。すると、年を取ってくると、わたしたちの幸福感や悲哀感は、自分がこの世界とその歴史に、どれだけ影響を与えたと感じられるかによって左右されるようになります。」さらにナウエンは次のように続けます。
「…何か意味のあることをしたいとする願望は、それだけに終わらず、自分がしたことの結果を、自分の価値を測る物差しにしてしまうことが多いのです。そうすると、何かを成し遂げたと言うだけでなく、自分の成し遂げたことを自分自身だと思うようになってしまいます。…すなわち、人生とは、わたしたちの価値を決めるポイントを誰かが書き込んでいる大きなスコアボードである、と。…つまり、色々な点で成功しているから、わたしたちには価値があるということになります。そして、わたしたちの業績―したことの結果―を、自分の価値を決める物差しにしてしまえばしまうほど、わたしたちの心も魂も、いつもびくびくして暮らすようになります。それまでの自分の成功によって作られた期待を裏切らないでいられるかどうか心配します。成功するに従って思い煩いが募るという、悪魔的とも言える連鎖にとらえられて暮らしている人は実に多いのです…」
このあたりで止めておきますが…。私たちのしたこと/できること、英語で表現するならば“doing”が私たちの人としての価値を決める、という考え方です。

Ⅳ. 招きはあなたにも届いています

さて、このような物語に支配されている私たちに対して、主イエスは、今日の譬え話をお語りになったのです。実は、イエスさまはよく、婚宴や宴会をたとえに用いられました。「神の国は宴席のようなものだ」と言われるのです。「神の国」というのは、聖書に馴染みのない方は分かりにくいかもしれませんが、神さまへの信仰を持って生きるときに経験する「神さまの守り」と言い換えてもよいかもしれません。そして私たちは、恵み深く慈しみに満ちた神さまの守りの中にある時に深い平安を覚えることができるわけです。
ヘンリ・ナウエンの文章の中に、私たちの人生とは、私たちの価値を決めるポイントを誰かが書き込んでいる大きなスコアボードのようなものだ。いつの間にか自分の人生の意味や価値を自分がしたこと、出来た事によって決める。doingがその人の価値を決めるという「偽りの物語」に動かされているが、究極の物差しをお決めになる方、究極の価値なる神さまがおっしゃるのは、私たちの存在そのものが価値ある存在である。doingが決めるのではなく、あなた自身のbeingが既に価値ある存在なのだ、ということを繰り返し繰り返し語っているのです。そのことを聖書は、「あなた私の目に貴く、重んじられる。私はあなたを愛する」(イザヤ43:4)という表現で現しています。
確かに私たちは、日々の生活で上手く行かないことが多いかもしれません。なかなか陽の目を見ることができない。全てのことが上手くいかないと、悲運をかこつ人もいるでしょう。しかし、イエスさまがおっしゃるのは、全ての人たち、私たちは婚宴に招かれている。神の国、神の守りの中に招かれている。だとしたら、自分は選ばれていると言って高ぶり誇る者たちよりも、むしろ招かれていることに気づかずにいる人たち、いや招かれるにふさわしくないと思っている人たちが、実は、神の恵みの招きの豊さを本当に知ることが出来る人たちなのではないだろうか。そこではもはや序列や席の上か下かは問題ではなく、招かれた喜びが満ち溢れることでしょう。
この譬え話の結論部分で、「誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)とおっしゃったのは、そのような意味なのです。
メンフィス神学校での学びをさせていただいた時、高座教会にも二度ほど来られた、ポール・デカー教授の教会に連れて行っていただいたことがありました。その教会も、礼拝堂の前に主の食卓、聖餐卓が置かれているのですが、このように四角い食卓ではないのです。円卓なのです。円卓の善さは、どこが上座か下座かの区別がつかない点です。そのことを意識して四角いテーブルではなく、丸テーブルにしたと話してくださいました。
私たちはみな招かれている。私たちに価値があるのは、私たちが何かができるとか、何かを成し遂げたからではなく、「あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(新改訳2017-イザヤ43:4)と神さまが言ってくださるので、私たちは価値のある者であるのです。誰もが瞳のように尊い存在なのです。それが聖書の教えです。
私たち一人ひとりは、その神の国、信仰を通していただく神の守りの中に招かれている。招きはあなたにも届いていることを覚えて欲しいと願います。
お祈りします。

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生きる拠りどころを求めて

松本雅弘牧師
マタイによる福音書7章24-29節
2022年10月2日

Ⅰ. はじめに

今日から秋の歓迎礼拝が始まりました。今年は、「招きはあなたにも届いています」というテーマで、主イエスの譬えに耳を傾けて行きたいと思っています。
今日、お読みしましたイエスさまの教えは、「山上の説教」と呼ばれる、一連の説教の中で語られた、一つの譬えです。この「山上の説教」は、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」というたいへん有名な教えでもって始まる説教です。今日の聖書の言葉は、その説教の結論部分に出て来るイエスさまの教えです。

Ⅱ. 二つの生き方

ここでイエスさまは、二つの生き方を比較検討します。砂の上に家を建てるような生き方と、岩の上に家を建てるような生き方です。まずその二つの生き方に共通する点があります。当たり前のことですが、「自分の家を建てた」ということです。
私が小学校の低学年の頃でした。父が家を新築した時のことを今でも覚えています。父は商店を経営していましたから、比較的、時間に融通が利くので、毎日、何度も建築現場に行っては大工さんの仕事を嬉しそうに見ていました。そしてまた大工さんが一日の仕事を終わると、その現場を本当にきれいに掃除していました。
一日も早く新しい家が完成するのを待ちわびる一方で、毎日、現場に行っては大工さんの仕事ぶりをただただ見ている父親の姿から、その喜びが伝わってきていましたので、子ども心に、何か少しでも長くこうした幸せな時が続いて欲しい。そのため、ずっと工事が続いて欲しいとの思ったことを覚えています。
考えてみれば、家を建てるというのは人生に一度あるかないかの大事業です。父も銀行からの借入をして、家を建てたわけですが、そこにかなりのものを投じて初めて家が建つのだと思います。
ここに登場する賢い人も愚かな人も、二人とも「家を建てた」のです。それも聖書を丁寧に読めば、「他人の家」ではない、あくまでも「自分の家を建てた」のです。そうしますと、これまた二つ目の共通点が起こります。新築のそれぞれの家に対し、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲った」のです。
ところが、正反対なことが起こります。片方はびくともしないで「倒れなかった」わけですが、もう片方

は倒れた。しかもその「倒れ方がひどかった」、とその「倒れ方」までも丁寧に説明されています。
二つの家の、一体どこが違っていたか、と言えば、それは「土台」でした。片方は「岩を土台として」家を建て、もう片方は、「砂の上に家を建てた」からだ、というのです。
ここでイエスさまは、私たちの一度限りの人生を、家を建てることにたとえてお話されました。賢い人は岩の上に人生設計する人であり、逆に愚かな人とは、砂の上に人生という家を建てる人のことだと語っています。そして岩を土台とした生き方を、24節を見ますと、誰にも分からないとは言わせない程にはっきりと、「私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と語っています。
いかがでしょう。イエスさまは「山上の説教」の締めくくりに当たって、私たちの人生という家が建っているところの土台、つまり、普段は目に見えないところでの生活、人の目から隠れている部分にスポットライトをあてているように思います。
牧師をしていますと、新築のお家に招かれて祝福のお祈りを捧げる機会があります。そのお家の方は、中を案内してくださるわけです。間取り、壁紙、インテリア。一つひとつ、とても素敵です。でも土台のことはほとんど話題にのぼりません。土台は見えないからです。
ところが、イエスさまは、目には見えてない土台を問題にしておられる。どこに土台を置くのか。砂の上ではなく、岩の上に土台を据えるように、と私たちに熱心に説いておられます。
普段、何もない時には問題がありません。しかし何か起こる時、イエスさまの言葉を使えば、「雨が降り、川が溢れ、風が吹く」ようなことは、誰の生活にも起こってきます。そうした時に、その外側からの出来事をどのように受け止めていくのか。その時に、普段は目に隠れている土台そのものの真価が問われる。
ではここで、イエスさまが言われる「岩の上に土台を置く生き方」とは具体的にはどのようなことかと言えば、「私のこれらの言葉を聞いて行う」ということです。そして、この「私のこれらの言葉」というのは他でもない、ここまでイエスさまが語ってこられた「山上の説教」全体であり、「聖書」と言い換えてもよいかもしれません。

Ⅲ. ベンとジョン

ところで、「エクササイズ」の二年目のテキストにベン・ジェイコブとジョン・ウーデンという名の二人の人物の実話が紹介されていました。
今日の譬えのように二人には幾つもの共通点がありました。生まれた年は同じで、二人とも二十五歳の時に仕事を始めています。そしてある意味、二人とも成功を収めています。ところが、人生の締めくくりのところで、二人は対照的なのです。確かにベンは、使いきれないほどの蓄えがありましたが、家族から相手にされず、一人娘も彼には近寄らず、周囲から煙たがられ、疎んじられ、訪ねて来る友人もなく、本当に寂しい人生を送っていました。自分は成功を手に入れたと思っていたのですが、「成功の定義」が間違っていたことに気づき始めたのが、75歳の時でした。
一方、ジョンもベン同様に二十五歳で仕事を始めるのですが、その時、決心したことがありました。それは、自分の人生を聖書の教えを土台とすることだったのです。確かに彼は、UCLAの伝説のバスケットボール・コーチとして成功を収めるのですが、それ以上に、本当の意味で祝福された人生を送って行きました。私生活では、53年間、妻のネリーさんと連れ添い、75歳になった時に先立たれますが、天に引っ越した妻との再会を楽しみにしながら日々を送っています。彼の所には、教え子たちが入れ替わり立ち代わり、彼を慕って訪ねてきていたそうです。改めて、私は、75歳になった時、ジョンのようでありたい、と切に願わされたことでした。

Ⅳ. 賢い方の生き方を選び取りなさい

実は、そのために私が出来ること、イエスさまが勧める、私自身が選び取るべき生き方があることを、今日の譬えは私たちに教えているのではないでしょうか。それは聖書を人生の土台とすることです。
私たちは、聖書という岩を土台にして人生設計をしていくのか、それとも別のものを頼りに生活の安定を図るのか、それは私たち一人ひとりが選択すべきこと。私たちの側の責任、私の側で出来ることです。
繰り返しになりますが、私は、やはりジョンのようでありたい、と思います。そしてイエスさまも、岩を土台とする生き方を選び取るように、と切に勧めているのです。
さて、最後に、キリストの言葉を土台として選ぶことをしなかったベンに触れて終わりにしたいと思います。実は、このベン、本当に幸いなことに、75歳の時に、イエス・キリストを信じ、そのお方に従って生きる決心をしたそうです。つまり、75歳の時に、岩を土台とする生き方を選び直したのです。
その後、88歳で亡くなるまでの13年間、彼は本当に変えられた人生を送りました。仲たがいしていた娘とも和解したそうです。娘さん曰く、「晩年の父は、別人のようだった」ということでした。
ベンにとっての最初の75年間は、確かに世間の物差しでは成功を収めたことでしょう。でも、当の本人はそうした感覚はなかったようで、焦りや不安、敵意や怒りで心が休まる暇もない、暗い人生でした。
しかし、放蕩息子であった彼が75歳になった時に、ようやく、父なる神さまの許に立ち返ることができた。そして最後の13年間は、本当に変えられた人間らしい豊かな人生を送ることができた。何故?キリストの言葉を土台とすることを決心したからです。
「エクササイズ」のテキストにもありましたが、ベンのことを考える時、信仰を持つのに遅すぎることはないということに、改めて気づかされます。
何故なら、「死んだら御終い」ではない、「今が恵みの時、今が救いの日」だからです。キリストの言葉に生きることに努めた13年という年月は、確かに88年の生涯の内では、ほんの僅かな期間、十分の二にも満たないような年月だったでしょう。でも、永遠というスパンで考えるならば、75年間も13年間もあまり変わらない。いや、遅すぎることなど決してないからです。
確かに、過去を変えることはできません。やったことをやらなかったことにすることは出来ないからです。でも、これからのことについて、これからどう生きるかについては、ある意味で私たちの選択にかかっています。その選択の結果、どのようにでも変わり得るわけですから。
イエスさまは、権威をもっておっしゃる。
「賢い方の生き方を選び取りなさい。私のこれらの言葉を聞くだけであってはならない。聞いて行う者になりなさい。それこそ岩の上に家を建てた賢い人なのだ。」と。
お祈りいたします。

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主日共同の礼拝説教 歓迎礼拝

生きる意味ってなんだろう

和田一郎副牧師
ルカによる福音書15章11-24節
2022年4月24日

Ⅰ.はじめに

イエス様は今日の聖書箇所で「神様がどんな方なのか」それを譬え話しで教えてくださっています。 今月の歓迎礼拝ではルカ福音書15章から、3つの譬え話を続けて見てきました。3つに共通しているテーマは「あなたがいなくなったら、熱心に探してくださるのが神様。そして見つかったら心から喜んでくださる。聖書の神様はそのような方ですよ」と、イエス様は伝えているのです。
今日の譬え話しは、とんでもないドラ息子でも、いなくなったら神様は探してくださっている、自分にそっぽを向いて、どこかに行ってしまっても、また自分のもとにもどって来ることを諦めない、そんな神様の性質が描かれています。また、この話には二人の息子がでてきて、前半と後半に分けることができます。今日は前半だけをお話ししますが、前半は弟、後半は兄を通して、わたしたち人間が自己中心的な罪の性質をもっていることが短い話の中に織り込まれています。

Ⅱ.放蕩息子のたとえ話

弟は、とんでもないドラ息子で、兄は父の仕事を手伝う真面目な人でした。ある日弟が言うのです「お父さん、私に財産の分け前をください」と。まだ元気に働いている父親がいるのに、関心があるのは父が死んだ後に分けられる遺産のことでした。それを先に欲しいという。失礼なことを言う、とんでもないドラ息子だと思うのです。しかし、彼の姿は私たちの姿と重なるのではないでしょうか。私たちは、心の底で自分の人生は自分のものだと思っています。だから自分の思い通りにして何が悪いだろうと思いながら生きています。しかし、聖書は天地万物を造られた神様が、わたしたちひとり一人を造られたと告げています。わたしたちは自分の力や意思で、この世に生れてきたのではありません。人生における時間も、出会いも、神様に与えられた物です。しかも、いつかこの世の人生は終わってしまう、神様のもとに帰る時がくるのです。ですからこの地上の人生は神様から預かっている貴重な時間なのです。弟が父親に、「わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と言いました。それは、神様から預かっている貴重な預かり物を自分勝手に使いたいという、人間の自己中心という性質を表しているのです。
しかし、この父は弟息子の望み通りに財産を与えるのです。すると彼は、それを全部お金に換えて、父のもとを離れて、自分勝手に生活しはじめたのです。
彼はそこで放蕩をつくして、一文無しになってしまい、ついに豚の世話をするようになりました。豚の飼育というのはユダヤ人にとって最もしたくない仕事の代表です。弟はどん底の生活まで落ちてしまったのです。その時、彼には友達が一人もいませんでした。お金があった時には、いろんな人が集まってきました。しかし、お金もなく、家畜の世話で食いつなぐ生活をしている彼を助けようとする友は一人もいなかった。そこまで追い詰められた時、彼は「我に返った」とあります。自分は取り返しのつかないことをしてしまった。自分が本当に生きることのできる場所はあの父の家だった。父の所に帰ろうと決意します。しかし、今さら帰っても門前払いで、「お前など息子ではない」と言われるかも知れない。自分は息子と呼ばれる資格はない、だから雇い人の一人にしてください、とでも言おう、もうそうする他ないと思ったのです。弟息子は身も心もボロボロになって帰って行きます。
一方で、彼の姿を、まだ遠く離れていた父は見つけました。そして走り寄って来た。首を抱き接吻したのです。「まだ遠く離れていたのに見つけた」ということは、この父がいつも息子の帰りを待っていて、常に息子が出て行った方角を、見つめていたと分かるのです。そんな慈愛に満ちた父のもとに帰ることができた。父は弟息子のために良い服を着せ、靴を履かせ、美味しい食事の用意をしてくれます。そのようにしてくださるのが聖書の神様です。天地万物を造られた唯一の神様は、私たちのことを、いつも待っていて下さり愛する子として歓迎して下さる。神様の愛に触れた時、そこに私たちの救いがあります。この神様の愛の中で生きる時、人生は変わっていきます。
この聖書箇所には見出しに「いなくなった息子」とあります。「いなくなった」というのは「神様のもとから離れている」という意味なので、まだ神様を信じていない、信仰をもっていない人のことも含めて、いつも探してくださり、神様のもとに来るのを、まだかまだかと待っていてくださる、帰ってきたら温かく迎え入れてくださる神様です。この放蕩息子の話を読んで、神様の愛の大きさ、憐れみ深さを知って欲しいというのが、この譬えを話された、イエス様の思いなのです。

Ⅲ.『赤毛のアン』

わたしが最近読んでいる本の主人公も、神の愛に触れて人生が変わった人だと思いました。それが小説「赤毛のアン」の主人公のアンです。数年前に「花子とアン」という朝ドラが話題になりましたが、赤毛のアンを書いた、著者モンゴメリという人は、厳格なクリスチャンの祖父母に育てられ、後に牧師と結婚した人です。牧師夫人として教会学校で聖書を教え、多忙な教会奉仕をしながら「赤毛のアン」シリーズを書いた人なので、物語の中にはキリスト教の要素が沢山あります。「赤毛のアン」の主人公アン・シャーリーも、神様の愛に触れて人生が変わった人だと思います。
アンは生れてすぐ両親を病気で亡くしてしまって、孤児院で育ちました。孤児院の生活はひどいもので、愛を感じる家族的な関係もなく、教会や信仰とも無縁の生活でした。神様から見れば、放蕩息子がどん底にいた時のような環境で育ちました。アンが11歳の時、カナダのプリンスエドワード島に、マシュウと、その妹のマリラという年老いた兄妹がいて、二人は畑仕事を手伝ってくれる男の子を養子にしようと考えていました。ところがちょっとした手違いで、やってきたのは、11歳の赤毛の女の子、アンでした。最初は孤児院に返そうと思っていたのですが、極端に恥ずかしがり屋で口下手なマシュウは、アンの明るさ、率直なおしゃべりに、何か惹かれるものを感じて、アンを家族として受け入れるのです。
アンはそれまで、ありのままの自分を受けいれられることがありませんでした。ですから自分が自分でいるために想像力を働かせて、よくしゃべりました。赤毛のことをからかわれると、猛然と立ち向かいました。でも年老いたマシュウはありのままのアンを受けいれたのです。マシュウと妹のマリラは、町にある長老教会の信徒でした。アンに「この家にいる間はお祈りをしなければなりませんよ」と言って、形式を気にせず自分の言葉で祈ることを勧めたのです。はじめて祈ったアンのお祈りが、「・・・二つだけ大事なお願いを申し上げます。どうか私をこの家に置いてください。それから私が大きくなったら美人にしてください。かしこ。あなたを愛するアン・シャーリーより」と祈るのです。クリスチャンでしたら、「かしこ」ではなくて「アーメン」と言わなければいけないところなので、聞いたマリラはビックリするのですね。「この子はお祈りもしたことがないのか?」と。アンの祈りはいつも率直でした。そして、マリラは「主の祈り」をアンに教えて、アンはそれを気に入って暗唱できるようになっていきます。
赤毛のアンの第1巻は、アンが11歳から16歳までの成長が書かれています。その中で著者モンゴメリは、アンがキリスト教の信仰によって変わっていったという描き方はしていません。孤児院では得られなかった「愛」を体験して変わっていった様子が描かれています。しかし、神様の愛は人を通して働かれるものです。神様はアンを探していたと思うのです。自分が自分でいるために、想像力の翼を広げてがんばっていたアンに愛を知ってもらいたいと働きかけていたと思うのです。プリンスエドワード島の町に来て、祈る人になって、神を愛する人たちの中で成長して欲しい。彼女はそれを受けいれました。なぜなら自分が、まず受け入れられたからです。アンは成長するにつれて以前の半分もしゃべらなくなり、大げさの言葉遣いもしなくなったのです。自分が、ありのままで受け入れられる幸せを知ったからです。
そんなアンにも悲しみの別れがやってきます。第1巻の終わりに、いつも静かに優しく受け入れてくれた、育ての父とも言えるマシュウが突然亡くなります。物静かなマシュウの愛情にはムラがなかった、いつも同じようにアンを受けいれる人でした。まるで放蕩息子を待つ父のような人、変わらぬ愛、父なる神様を思わせるような人でした。口下手でしたが、ありのままを受けいれる、それがマシュウの愛でしたが、その人を失ってしまった。それでも、ここまで成長してきたアンの心の中には、見えない将来に希望を持てる力がありました。信じるという心は、目に見えないものを受けいれる謙虚な心です。それがマシュウが残してくれた愛の力でした。次の将来に一歩踏み出そうとするアンはつぶやきます。「神は天に在り、この世はすべてよし」。最初に出版された村岡花子訳では、「神、天にしろしめし、世はすべてこともなし」という訳でした。「神様は天におられる、この世はすべてこともなし、すべてよし」。人生はいろいろあります。それでも神様は天におられる、この世はすべてこともなしと信じる人に、アンは成長していました。

Ⅳ.神の愛

ところで、放蕩息子のその後はどうなったでしょうか。最後は、「あの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び祝うのは当然ではないか」と、父親が言って終わるのです。放蕩息子は、自分のことを受け入れて喜び祝ってくれる、父の愛に触れて変えられていったと思うのです。
神様の視点から見れば、放蕩息子も赤毛のアンも、神の愛から離れてしまっている者たちでした。神様はいつも探しておられる、神のもとに来るように待っておられ、彼らをありのままで受け入れてくださる、そのような神様であることを物語は表しています。
今月の礼拝は歓迎礼拝として、教会に初めて来られる方、ふだんは礼拝に来ていない方々を歓迎したいという思いでメッセージをしてきました。それはメッセージをする者だけではなく、教会員の皆さんの思いでもあります。しかし、誰よりもこの教会に来て下さる方を歓迎しているのは神様でしょう。その神様を一人でも多くの人に知っていただきたいと願います。
お祈りいたします。