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主日共同の礼拝説教 歓迎礼拝

生きる意味ってなんだろう

和田一郎副牧師
ルカによる福音書15章11-24節
2022年4月24日

Ⅰ.はじめに

イエス様は今日の聖書箇所で「神様がどんな方なのか」それを譬え話しで教えてくださっています。 今月の歓迎礼拝ではルカ福音書15章から、3つの譬え話を続けて見てきました。3つに共通しているテーマは「あなたがいなくなったら、熱心に探してくださるのが神様。そして見つかったら心から喜んでくださる。聖書の神様はそのような方ですよ」と、イエス様は伝えているのです。
今日の譬え話しは、とんでもないドラ息子でも、いなくなったら神様は探してくださっている、自分にそっぽを向いて、どこかに行ってしまっても、また自分のもとにもどって来ることを諦めない、そんな神様の性質が描かれています。また、この話には二人の息子がでてきて、前半と後半に分けることができます。今日は前半だけをお話ししますが、前半は弟、後半は兄を通して、わたしたち人間が自己中心的な罪の性質をもっていることが短い話の中に織り込まれています。

Ⅱ.放蕩息子のたとえ話

弟は、とんでもないドラ息子で、兄は父の仕事を手伝う真面目な人でした。ある日弟が言うのです「お父さん、私に財産の分け前をください」と。まだ元気に働いている父親がいるのに、関心があるのは父が死んだ後に分けられる遺産のことでした。それを先に欲しいという。失礼なことを言う、とんでもないドラ息子だと思うのです。しかし、彼の姿は私たちの姿と重なるのではないでしょうか。私たちは、心の底で自分の人生は自分のものだと思っています。だから自分の思い通りにして何が悪いだろうと思いながら生きています。しかし、聖書は天地万物を造られた神様が、わたしたちひとり一人を造られたと告げています。わたしたちは自分の力や意思で、この世に生れてきたのではありません。人生における時間も、出会いも、神様に与えられた物です。しかも、いつかこの世の人生は終わってしまう、神様のもとに帰る時がくるのです。ですからこの地上の人生は神様から預かっている貴重な時間なのです。弟が父親に、「わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と言いました。それは、神様から預かっている貴重な預かり物を自分勝手に使いたいという、人間の自己中心という性質を表しているのです。
しかし、この父は弟息子の望み通りに財産を与えるのです。すると彼は、それを全部お金に換えて、父のもとを離れて、自分勝手に生活しはじめたのです。
彼はそこで放蕩をつくして、一文無しになってしまい、ついに豚の世話をするようになりました。豚の飼育というのはユダヤ人にとって最もしたくない仕事の代表です。弟はどん底の生活まで落ちてしまったのです。その時、彼には友達が一人もいませんでした。お金があった時には、いろんな人が集まってきました。しかし、お金もなく、家畜の世話で食いつなぐ生活をしている彼を助けようとする友は一人もいなかった。そこまで追い詰められた時、彼は「我に返った」とあります。自分は取り返しのつかないことをしてしまった。自分が本当に生きることのできる場所はあの父の家だった。父の所に帰ろうと決意します。しかし、今さら帰っても門前払いで、「お前など息子ではない」と言われるかも知れない。自分は息子と呼ばれる資格はない、だから雇い人の一人にしてください、とでも言おう、もうそうする他ないと思ったのです。弟息子は身も心もボロボロになって帰って行きます。
一方で、彼の姿を、まだ遠く離れていた父は見つけました。そして走り寄って来た。首を抱き接吻したのです。「まだ遠く離れていたのに見つけた」ということは、この父がいつも息子の帰りを待っていて、常に息子が出て行った方角を、見つめていたと分かるのです。そんな慈愛に満ちた父のもとに帰ることができた。父は弟息子のために良い服を着せ、靴を履かせ、美味しい食事の用意をしてくれます。そのようにしてくださるのが聖書の神様です。天地万物を造られた唯一の神様は、私たちのことを、いつも待っていて下さり愛する子として歓迎して下さる。神様の愛に触れた時、そこに私たちの救いがあります。この神様の愛の中で生きる時、人生は変わっていきます。
この聖書箇所には見出しに「いなくなった息子」とあります。「いなくなった」というのは「神様のもとから離れている」という意味なので、まだ神様を信じていない、信仰をもっていない人のことも含めて、いつも探してくださり、神様のもとに来るのを、まだかまだかと待っていてくださる、帰ってきたら温かく迎え入れてくださる神様です。この放蕩息子の話を読んで、神様の愛の大きさ、憐れみ深さを知って欲しいというのが、この譬えを話された、イエス様の思いなのです。

Ⅲ.『赤毛のアン』

わたしが最近読んでいる本の主人公も、神の愛に触れて人生が変わった人だと思いました。それが小説「赤毛のアン」の主人公のアンです。数年前に「花子とアン」という朝ドラが話題になりましたが、赤毛のアンを書いた、著者モンゴメリという人は、厳格なクリスチャンの祖父母に育てられ、後に牧師と結婚した人です。牧師夫人として教会学校で聖書を教え、多忙な教会奉仕をしながら「赤毛のアン」シリーズを書いた人なので、物語の中にはキリスト教の要素が沢山あります。「赤毛のアン」の主人公アン・シャーリーも、神様の愛に触れて人生が変わった人だと思います。
アンは生れてすぐ両親を病気で亡くしてしまって、孤児院で育ちました。孤児院の生活はひどいもので、愛を感じる家族的な関係もなく、教会や信仰とも無縁の生活でした。神様から見れば、放蕩息子がどん底にいた時のような環境で育ちました。アンが11歳の時、カナダのプリンスエドワード島に、マシュウと、その妹のマリラという年老いた兄妹がいて、二人は畑仕事を手伝ってくれる男の子を養子にしようと考えていました。ところがちょっとした手違いで、やってきたのは、11歳の赤毛の女の子、アンでした。最初は孤児院に返そうと思っていたのですが、極端に恥ずかしがり屋で口下手なマシュウは、アンの明るさ、率直なおしゃべりに、何か惹かれるものを感じて、アンを家族として受け入れるのです。
アンはそれまで、ありのままの自分を受けいれられることがありませんでした。ですから自分が自分でいるために想像力を働かせて、よくしゃべりました。赤毛のことをからかわれると、猛然と立ち向かいました。でも年老いたマシュウはありのままのアンを受けいれたのです。マシュウと妹のマリラは、町にある長老教会の信徒でした。アンに「この家にいる間はお祈りをしなければなりませんよ」と言って、形式を気にせず自分の言葉で祈ることを勧めたのです。はじめて祈ったアンのお祈りが、「・・・二つだけ大事なお願いを申し上げます。どうか私をこの家に置いてください。それから私が大きくなったら美人にしてください。かしこ。あなたを愛するアン・シャーリーより」と祈るのです。クリスチャンでしたら、「かしこ」ではなくて「アーメン」と言わなければいけないところなので、聞いたマリラはビックリするのですね。「この子はお祈りもしたことがないのか?」と。アンの祈りはいつも率直でした。そして、マリラは「主の祈り」をアンに教えて、アンはそれを気に入って暗唱できるようになっていきます。
赤毛のアンの第1巻は、アンが11歳から16歳までの成長が書かれています。その中で著者モンゴメリは、アンがキリスト教の信仰によって変わっていったという描き方はしていません。孤児院では得られなかった「愛」を体験して変わっていった様子が描かれています。しかし、神様の愛は人を通して働かれるものです。神様はアンを探していたと思うのです。自分が自分でいるために、想像力の翼を広げてがんばっていたアンに愛を知ってもらいたいと働きかけていたと思うのです。プリンスエドワード島の町に来て、祈る人になって、神を愛する人たちの中で成長して欲しい。彼女はそれを受けいれました。なぜなら自分が、まず受け入れられたからです。アンは成長するにつれて以前の半分もしゃべらなくなり、大げさの言葉遣いもしなくなったのです。自分が、ありのままで受け入れられる幸せを知ったからです。
そんなアンにも悲しみの別れがやってきます。第1巻の終わりに、いつも静かに優しく受け入れてくれた、育ての父とも言えるマシュウが突然亡くなります。物静かなマシュウの愛情にはムラがなかった、いつも同じようにアンを受けいれる人でした。まるで放蕩息子を待つ父のような人、変わらぬ愛、父なる神様を思わせるような人でした。口下手でしたが、ありのままを受けいれる、それがマシュウの愛でしたが、その人を失ってしまった。それでも、ここまで成長してきたアンの心の中には、見えない将来に希望を持てる力がありました。信じるという心は、目に見えないものを受けいれる謙虚な心です。それがマシュウが残してくれた愛の力でした。次の将来に一歩踏み出そうとするアンはつぶやきます。「神は天に在り、この世はすべてよし」。最初に出版された村岡花子訳では、「神、天にしろしめし、世はすべてこともなし」という訳でした。「神様は天におられる、この世はすべてこともなし、すべてよし」。人生はいろいろあります。それでも神様は天におられる、この世はすべてこともなしと信じる人に、アンは成長していました。

Ⅳ.神の愛

ところで、放蕩息子のその後はどうなったでしょうか。最後は、「あの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び祝うのは当然ではないか」と、父親が言って終わるのです。放蕩息子は、自分のことを受け入れて喜び祝ってくれる、父の愛に触れて変えられていったと思うのです。
神様の視点から見れば、放蕩息子も赤毛のアンも、神の愛から離れてしまっている者たちでした。神様はいつも探しておられる、神のもとに来るように待っておられ、彼らをありのままで受け入れてくださる、そのような神様であることを物語は表しています。
今月の礼拝は歓迎礼拝として、教会に初めて来られる方、ふだんは礼拝に来ていない方々を歓迎したいという思いでメッセージをしてきました。それはメッセージをする者だけではなく、教会員の皆さんの思いでもあります。しかし、誰よりもこの教会に来て下さる方を歓迎しているのは神様でしょう。その神様を一人でも多くの人に知っていただきたいと願います。
お祈りいたします。

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あるがままの私を

<受難節第6主日>
松本雅弘牧師
ルカによる福音書15章8-10節
2022年4月10日

Ⅰ.はじめに―「残りの日々を数えるすべを教え」

今日は歓迎礼拝ということで旧約聖書からの朗読はしなかったのですが、でも、一か所、旧約聖書の言葉にふれてから、今日のお話をしたいと思います。詩編第90編です。
「あなたは人を死の眠りに落とされる。/人は朝に萌え出づる草のよう。朝には咲き誇り、なお萌え出づるが/夕べにはしおれ、枯れ果てる。」(5-6)とあります。ここで詩人は、しみじみと、私たちの人生のはかなさを歌っています。さらに、9節の後半から10節には、「私たちは吐息のように年月を終える。私たちのよわいは七十年/健やかであっても八十年。/誇れるものは労苦と災い。/瞬く間に時は過ぎ去り、私たちは飛び去る。」とあります。
つまり「うつろいやすい」だけではなく「吐息のように、ため息のように」あっという間に七十年、八十年経ってしまう。それが、この詩編90編を書いた詩人の実感でした。あっという間に過ぎてしまう人生ですから、詩人は真剣になって神に祈りを捧げるのです。その祈りが、12節、「残りの日々を数えるすべを教え/知恵ある心を私たちに与えてください。」です。
今日は、2022年4月10日です。考えてみれば、今日は、私の残りの生涯の最初の日です。しかも、私の人生の中で一番若い日でもあります。明日になったら一日、歳を取ってしまうわけですから…。でも心配なさらないでください。明日になりましたら、明日が私の人生の中でもっとも若い日であり、残りの人生の最初の日です。「残りの日々を数えるすべを教えてください/生涯の日を正しく数えるように教えてください」という祈りは、まさに今日、この日を、どのように受け止め、どのように生きるかを教えてください、という祈りです。実は、この祈りに応えてくれるのが、聖書に出てくる知恵であり主イエスの教えなのです。今日も、人生の日を正しく数えることができるように、悔いのない日々を送るための知恵の言葉をいただきたいと思います。

Ⅱ.背景

当時のユダヤ社会にあって、「罪人」扱いされていた徴税人等と共に時間を過ごしていた主イエスを見た、ファリサイ派の人々や律法学者たちが、主イエスを指さし、「この人は罪人たちを受け入れ、一緒に食事をしている。けしからん!」と非難していたというのです。そこで主イエスは、そうした彼らに対し立て続けに三つの譬え話を話されました。それが先週の「見失った羊の譬え」、今日の「無くした銀貨の譬え」、そして、「いなくなった息子の譬え/放蕩息子の譬え」でした。では「無くした銀貨の譬え」を共に読み進めていきましょう。

Ⅲ.無くした銀貨の譬え

あるところに、一人の女性がいました。十枚の銀貨を持っている女性です。ところが、どういうわけか、大切な銀貨の一枚を無くなってしまったのです。
すると彼女は本当に必死になって無くした一枚の銀貨を捜し始めます。薄暗い家の中でしたので、まず灯りをともし見つけようとします。次に、ほうきを引っ張り出してきてテーブルがあればそれをどかし、箪笥があれば、その下にほうきを突っ込んで掃き出そうとします。つまり、灯をともして目で捜し、ほうきを手に持って、そこいら中を掃きながら、ひょっとすると無くなった銀貨がほうきの先にひっかかるかもしれない。そして「チャリン!」と音でもしないかと、手と耳に神経を集中して捜すのです。そうです。全身を使って見つけるまで念入りに捜すのです。何故、ここまでするのでしょう?
ところで、このドラクメ銀貨ですが、一デナリオンの価値があると言われます。労働者一日分の賃金に相当する額です。だとすれば、結構な値打ちです。無くしたら、当然、探します。ただ、ここまで必死になって捜す理由が実はもう一つありました。当時、ユダヤでは、花嫁が嫁いでいく時に、十枚のドラクメ銀貨を髪飾りのように用いたと言われます。そう考えると、今でいう結婚指輪のようなものだったかもしれません。
私も、この指輪、丸38年もはめています。結婚当初はピカピカでツルツルで、とても綺麗でした。しかし今はもう表面はザラザラで光ってはいません。でもどうでしょうか。「新しいものと交換しよう」と思うでしょうか。「買った時と同じ値段で引き取りますから譲ってください」と言われて手放すでしょうか。そうしない。いや出来ないと思います。あの時、あの場面で交換した指輪であることに価値があるからです。つまり、他のもので代用することはできないものだからです。
彼女にとって無くした銀貨も同じでしょう。「あと九個残っているし」と気持ちを切り替えることなどできません。十個揃っていて初めて意味がある。いや、一つひとつに、今まで歩んで来た、その日々を象徴するような品物だった。だから彼女は必死になって捜しているのです。

Ⅳ.見出される喜び

ところで、説教の準備をしていて興味深い発見がありました。3節に「イエスは次のたとえを話された」とありますが、この「たとえ」と訳されたギリシャ語の言葉が単数形で書かれているのです。厳密に訳すならば「次の一つのたとえ」となります。このため専門家の間では3節の「次のたとえ」とは、「見失った羊の譬え話」だけを指すのか、それともその後に続く二つの譬え話も含むのかと議論が分かれています。ただ私は、この「一つのたとえ」という「一つ」ということにヒントをいただいたように思ったのです。
実は、先週の「見失った羊の譬え話」の中の「見失う」という言葉、「アポルーミ」というギリシャ語ですが三つの譬え話に共通して使われていることが分かりました。今日の8節では「無くした」という言葉が「アポルーミ」、放蕩息子の譬えの中では24節の「いなくなっていた」と訳されている言葉が「アポルーミ」です。三つの譬えそれぞれに出て来る単語です。
数学的に考えるならば、最初は百分の一の価値、無くした銀貨は十分の一の価値。そして最後の譬えでは、二人兄弟の物語ですから二分の一の価値となることでしょう。しかし、その分母が大きい小さいにかかわりないのです。「多くの中の一つ」「幾つかある中の一つ」、英語で言えば、「ワン・オブ・ゼム」ではない。そうではなく、私たち一人一人は神さまの目から見たら、見失ったり、無くなったり、いなくなったり、すなわち「アポルーミ」されては困る、掛け替えのない宝物、「オンリー・ワン」。そのような存在なのだ、ということを共通して伝えようとしている。ですから、捜し当てた神さまは大喜びなのです。
そしてもう一つ、この銀貨が見つかった時、どのような状態で見つかったでしょうか。見つけられる前に、お風呂に入って、シャワーを浴びて、綺麗になってから見つけて欲しいと、銀貨がそう思って小奇麗にしていたでしょうか。そんなことはありません。今日の説教のタイトル「あるがまま/そのままの姿」で見つかったのです。当時のユダヤの家の床は「石地」ですから埃だらけ、真っ黒だったと思います。
神さまは、ここにいる私たちを捜しておられる。それも必死になって!私たちが探し求める呼び掛けの声がする方向に向き直った時、そこに居てくださるお方の懐に、あるがままの姿で飛び込んでいけばいいのです。
水野源三、という名の詩人がいました。「まばたきの詩人」と呼ばれていました。その源三の詩の中で、私自身大好きな詩があります。
たくさんの星の中の一つなる地球/たくさんの国の中の一つなる日本/たくさんの町の中の一つなるこの町/たくさんの人間の中のひとりなる我を/御神が愛し救い/悲しみから喜びへと移したもう
源三は九歳の時に赤痢にかかり、高熱で脳性まひになって、見ることと聞くこと以外の機能を全部失ってしまいました。しかし十三歳の時、自分を捜しておられる神さまの呼びかけに気づいたのです。それ以来、お母さんの作った、「あいうえお」の書かれた「50音表」を、まばたきで合図しながら、一つずつ言葉を拾いながら詩を作りました。
たくさんの星の中の一つなる地球/たくさんの国の中の一つなる日本/たくさんの町の中の一つなるこの町/たくさんの人間の中のひとりなる我を/御神が愛し救い/悲しみから喜びへと移したもう
源三は、どうにもならない《自分の小ささ》という自分のありように、圧倒されていたのだと思います。でも、そのような自分をあるがままに愛して捜し出してくださった神さまに出会い、心の中の悲しみが大きな喜びへと変えられていくことを経験した。そんな時に歌った詩がこの詩なのです。
私たち誰もが、神さまに捜されている、神さまの宝物です。そのお方に出会う時、初めて百分の一、十分の一に過ぎない私ではなく、掛け替えのない私であることを知らされるのです。
お祈りします。

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ほんとうに求めていた生き方

松本雅弘牧師
マタイによる福音書6章19~24節
2019年10月13日

Ⅰ.人生を動かすこころの物語

『きっと、うまくいく』を観ました。インド屈指の難解工科大学に通う学生たちの生活を描いた作品です。入学式で学長がカッコー鳥のはく製を、巣の上に乗せて、新入生たちの前に立って演説するシーンが出て来ます。
「諸君、この鳥は何か分かるかね? カッコーだ。カッコーは巣を決して巣を作らない。他の鳥の巣に卵を忍ばせるんだ。ヒナが生まれる時に、彼らが始めてやることが分かるか?」と言って、巣にあった本物の卵を地面に落とすのです。
当たり前のこと、落ちた卵はグチャグチャに割れてしまいます。それを見て驚いている新入生に向かって間髪入れずに、「いいか。こうして他の鳥の卵を蹴落とすんだ。それで競争は終わり。カッコーの人生は殺しで始まる。戦うか、死ぬか。それが自然の法則だ」と語り、「人生は競走なのだ」と。
こんなシーンもありました。学長が学生に「月面に初めて立った人物は誰かね」と質問します。学生の1人が「ニール・アームストロングです」と答えます。それを受けて「紛れもなくアームストロングだ。これは誰もが知っていることだ。でも2番目に月面に立った人物を君たち覚えているかね。2番目の人物なんて誰も覚えてやしないものだ」と語るのです。
このように「人生は競争」、そして「競争するからには1番にならなければ意味がない」という物語を学生たちの心に植え付けていくのです。その映画を観ながら、日本の私たちにとって、私たちを動かしている物語・価値観って何だろうか、と考えさせられました。日本人と共通する「物語」があったからだと思うのです。

Ⅱ.平安の根拠は?

今日の聖書の箇所には、ダヤ社会にはびこっていた「お金がすべて、蓄えさえあれば安心」という物の考え方に対して主イエスがチャレンジしています。ここで主イエスは「あなたがたは地上に富を積んではならない。むしろ、その富は天に積みなさい。…あなたの富のあるところに、あなたの心もある」と言われました。
別訳聖書では「富」が「宝」と訳され、「あなたの宝物があるところに、あなたの心があるものだ」とおっしゃったのです。
ところで、ここにある「富」とは元々は「宝箱」を意味する言葉が使われていて、使い古した思い出の万年筆や、ましてや息子が作った土団子のようなものではなく、実際にお店に並べたら、しっかりと高値がつくような、貨幣価値がある財産を意味するものです。
しかも、元々のギリシャ語では、わざわざ複数形で書かれていますので、価値あるものがたくさん詰まっている宝箱、たいへんな財産、という意味でしょう。ここで主イエスは、そうした富や宝を、「地上に富を積んではならない」と教えています。理由は、「そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」から。つまり、どんなに価値ある物も、ずっとそのままの価値を保つことなどありえない。富みには限界があり、最終的に頼りになるものではないのだ、と主イエスは教えるのです。

Ⅲ.富に関わる「新しい物語」

富に関して主イエスが話された次のたとえ話を思い出します。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(ルカ12:16-21)
ここで主イエスは富に頼ることの愚かさに加え、「神の前に豊かになる生き方」を説いています。先週、「油」の話をしました。本当の意味で大事なもの、「神の前に豊かになる生き方」とは、「本当に大事なことを大事にする生き方」と言い換えてもよいかと思うのです。
私たちの周りには様々な良き物で溢れています。聖書は、それら1つひとつは、神からの贈り物であると教えます。
この美しい自然、豊かな食物、家族や友、私たちの手元にある様々な品物も全てが神さまからの贈物です。
ある男女が婚約したとします。婚約のしるしに男性はダイヤの婚約指輪を贈り、女性は高価な時計をプレゼントします。大切な相手から贈られた記念の品です。ところが、男性が婚約者の女性以上に時計を大事にしたとすればどうでしょう?本末転倒になります。時計、あるいは指輪も、婚約者に対する愛を表わすシンボルであって、いくら高価な品物であっても婚約者にとって代わるものでは決してないからです。
以前、『人生の四季を生きる―教会のおとなたちに贈る34のワーク集』というテキストを読んでいましたら、そこにこんなワークシートがありました。「あなたは、持ち物を全部船に乗せ、『人生洋』という大海原を航海しています。『春の海』を出帆して、楽しい海の旅が続きました。ところが、予想もしなかった大嵐に遭遇! あなたの船は、大波にもまれて今にも沈みそうです。あなたの生命を守るために、船を軽くすることが必要です。あなたが大切にしている積み荷を、どれから順に海に投げ捨てるか決めてください。捨てた荷物は、二度とあなたのものにはなりません。」
そして「積み荷のコンテナは、10あります」とあって、その10が、「①健康、②生きがい、③若さ、④魅力、⑤家族、⑥名誉、⑦仕事、⑧能力、⑨快適な生活、そして⑩財産。」これは究極の選択だと思いました。
みなさんは、どうお応えになりますか?
ここに挙げられた10項目はどれも大切です。しかも、これらには共通点がある。それはこのいずれも神からの贈物、そしていつか神にお返しする時が必ずやって来るということです。ですから、ある種の距離感を持って生きる。握りしめずに、いつでも手放すことができるような距離感が必要だということでしょう。
何故なら本当の意味で私を支えてくれるのは、ここにある10の事柄ではなく、それを与えて下さる神ご自身だからです。ですから「距離感を持って生きる」という生き方は主イエスの賢い生き方であり、正に贈り物の与え主である、神さまのことを覚える生き方だ、と主イエスは説いておられます。

Ⅳ.新しい福音の物語

『きっと、うまくいく』に、印象的なシーンがあります。自殺した学生を葬る場面です。死んだ学生は「競争に勝つ、それも1番になる」という「物語」で救われませんでした。当然ですが、学生が100人居たら救われるのはその内の1人だからです。他の99人は救われない。その証拠に、映画には学生が自ら命を絶とうとする場面が2回もあり、「90人に1人が自殺する」というような、現代インドの学生事情を表わすセリフもありました。明らかに学生はその物語に縛られ苦しんでいる。その苦しみとは救われない苦しみもさることながら、本当に心の底から求めている人間らしく生きることの出来ない苦しみでしょう。ただ埋葬シーンで、ハッとしたのですが、十字架の刺繍のあるストールを掛けた牧師の姿が出て来るのです。古くからのカースト制、他人よりも多くモノを獲得しお金を稼ぎ出世することが幸せと考える物語に代わる新しい物語を求めている、現代インドの若者を描くこの映画の中で、今までの延長線上ではない何か新しい物の見方、価値観を伝える場面のように見えました。
確かにお金は必要です。仕事も大切です。でも「死の床で、どれだけの人が『人生をもっと職場で過ごしたかった』と思うだろうか。『もっとお金を貯めたかった』と考えるだろか」という言葉を読んだことがあります。
聖書は、私たち人は、神のかたちに造られ、神にしか満たすことの出来ない隙間、神にしか癒すことの出来ない渇きがある、と教えます。そのような意味で、私自身が深いところで憧れる生き方、私を生かす新しい物語を必要としている。今、これまで自分を動かしてきた物語に代わる、新しい物語を聞くことを私の心は切に求めているのではないだろうか。聖書はその物語のことを「福音の物語」と呼びます。福音の物語とは人の価値はその人が成したことによらない。神は私という存在をそのあるがままの私を愛しておられるというメッセージです。
ぜひ歓迎礼拝に来られたことを機会に、この新しい福音の物語を心にいただき、それを心の内に響かせながら歩んでいけたらと願います。
お祈りします。

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大切な問題を後回しにしていませんか?

松本雅弘牧師
マタイによる福音書25章1~13節
2019年10月6日

Ⅰ.「天の国」とは?

「天国」という言葉を見たり聞いたりすると何を思い浮かべるでしょうか。「死んだ後、行くところ」とか「空の遥かむこうの世界」ということを想像することが多いように思います。
それに対して、聖書が教える「天の国」、別の言い方をすると「神の国」は、天地万物をお造りになった神が王として支配されている領域、世界を意味しています。
神さまの愛の御心、その愛の御心は聖書の中に示されていますので、言い方を変えるならば、聖書の価値観が基準となっている世界を「天国」と呼びます。聖書は、神さまが教える価値、聖書の価値観が基準となっている世界のことを、「天国」と呼んでいます。
今日の箇所を読みますと、主イエスは、天の国の価値観、天国の価値基準はこのようなものですよ、と言って、今日の箇所の小見出しにありますように、「十人のおとめのたとえ話」をお語りになったわけです。

Ⅱ.「十人のおとめ」のたとえ

このたとえ話は婚宴の始まりの場面から語り出されていきます。婚宴の始まりにともし火を持って花婿を迎えに行くとは大変美しく喜ばしい光景です。
選ばれた十人のおとめたちは、結婚式の中でもとても大切な務めを果たす役割が与えられています。ところが十人のおとめたちには2種類の人たちがいました。それは愚かなおとめと、賢いおとめでした。愚かな5人のおとめたちの「愚かさ」がどこにあったかと言えば、「備えが出来ていなかった」ということです。
花婿が到着するのが遅れたために、到着した時には、愚かなおとめたちのともし火は消えてしまいました。そのため賢いおとめたちに油を分けてくれるように頼んだのですが、彼女らは「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」と、見方によっては冷たくあしらったのです。
結婚式とは本当に幸いな時、2人の新しい門出を祝福し喜びを共にする時です。この十人はそうした結婚式の中で大切な役目を担わされていました。その役目とは「ともし火を灯し、花婿を迎える」ということです。ですから、仲間のおとめが油を切らしたなら、余分に持っている者たちが協力し、この場を乗り切ることはできなかったのかと思います。でも、そうしませんでした。
こうして油を分けてもらえなかった愚かなおとめたちは、賢いおとめたちのアドバイスに従い、町に油を買いに出かけます。幸い、店で手に入れることができました。そして急いで祝宴会場に戻ります。ところが主人は扉を開けてくれないのです。「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」と言って締め出されてしまいます。
主イエスは、そういうたとえ話をここで語っておられます。このたとえ話を繰り返し読んでみると、一つのことに気づかされます。それはイエスさま御自身が、この時の賢いおとめたちの言動を否定せず、むしろ肯定している点です。ここに、たとえ話を説き明かすヒントが隠されているように思うのです。

Ⅲ.大切なことを大切にする生き方

数年前、興味深い本が出版されました。『聖書に学ぶ子育てコーチング』という本です。内容は、ひと言で表現するならば、「子離れ・親離れ」の本です。
子どもが生まれて間もない時は、食事から始まり、排せつ、服の着せ替え、一から十まで親がかりです。でも成長するに従い、自分で食べるようになり、トイレに行くようになり、服も着たり脱いだりするようになります。
でもよくよく考えてみますと、実はそれは錯覚で、ミルクを作り子どもの口元まで持っていくのを、飲むかどうかは子ども自身がすることで、誰であっても子どもに代わってやって上げることのできない領域です。その1つに排せつもあります。排せつし易いようにオムツを替えることがあっても、実際に排せつできるのは本人だけで、親が代わることはできないのです。つまり、親子であっても夫婦であっても、お互いは、代わることのできない存在だからです。
ここでイエスさまは、この十人のおとめに与えられた責任や役割は、本当に晴れがましく、しかも大切なものであることを確認する一方で、他の人が代わり得ない重要な役割なのだということを教えているのです。
賢いおとめが余分な油を持っていたなら分けてあげてもよかったのではないかと思う、と申しましたが、でも現実は、初めから余分なものなどないのです。人から譲り受けてどうにかなるのではなく、自分で準備しなければならない「油」というものが、私たちの人生にはある、ということを教えているように思うのです。
例えば会社や家庭、地域社会の中で、他の人が代わることのできない役割をそれぞれがお持ちなのではないでしょうか。その務めに精一杯生きることが求められ、しかもそうした務めに生きるということは、ある意味で婚宴の喜びを共にするように、人生で1回限りの掛け替えのない時でもあります。
私たちは、実はそうした時を、日々生きているのだと思うのです。ここで主イエスは、私たち一人ひとりが、このような大切な時を逃してしまうことほど、愚かしいことはないのだと教えているのです。言い換えれば、本当に大切なことを大切にする生き方をするようにと説いておられるのです。

Ⅳ.後回しにしてはならない大切な課題

ともし火は目立つものです。それに対し油は周りからは見えません。でも見えない油がなくなると途端に灯りは消えてしまう。油がなければ灯も、いざという時に役に立たないのです。まさに「油断大敵」です。
私たちは人々の目に映るところで日常生活を営みます。会社で一生懸命働き、子どもを育て、あるいは地域社会において活動をします。
それは、ともし火のように、周囲から見える部分でしょう。でも、その見える部分を支えているのが、実は外からは見えない油の存在。しかも見えないだけでなく、今日のたとえ話が教えるように、他の人が私に代わって用意できないものです。
私たちに当てはめるならば、そうした油とは何に相当するのでしょう? その一つは、「関係」だと思います。具体的には夫婦の関係、親子の関係、家族の関係、そして職場や学校での人間関係です。場合によっては「自分自身との関係」ということもあるでしょう。自分の心や体をどうメンテナンスしているか。自分が抱える心配事や悩みとどう向き合っているか、そうした意味での「自分自身との関係」があります。そして、さらに聖書は、大切な油の1つとして、「神さまとの関係」についても教えています。
こうした「油」は周囲からは見えません。でも私たちの働きや活動、日常の営みという、「ともし火」を灯し続ける大切な油なのです。そうした油があるからこそやって行けるわけです。
以前、あるアメリカの牧師夫人がバプテスト教会の牧師の家族向けの講演会で語ったテープを聴いたことがあります。
その教派はとても大きな団体です。そこには何千、何万と言う教会があることでしょう。そこで働く牧師やスタッフの数もたいへんなものです。ところが毎年、何十人、いやそれ以上の数の牧師や教会スタッフがその働きから離れていく。今日のたとえ話のように、「油」を切らしたように一線を退いていく。その第1の理由が夫婦関係だそうです。
もっと正確な言い方をするならば、色々な意味でストレスの大きい働きに、連れ合いがギブアップしてしまう、というのです。外から見ていると牧師もしっかりやっている。言わば彼のともし火はしっかりと灯されている。でも、周囲から見えないところにおいて、実は少しずつ「油」が切れ出しているというのです。
いや、これは牧師だけではありません。子育て中の人も、また会社で働いていてもそうだと思います。ちょうど背広でも裏地があるので、この表の生地(きじ)がしっかりするのです。油というエネルギーがあるので、ともし火を灯すことができるのです。
でも油の備えがない時に、必ず行き詰る。場合によっては、大事な関係までも犠牲にし、見える世界での成功を求め、一生懸命にともし火を灯そうとしている。こうしたことってないでしょうか。
このたとえ話を通して、イエスさまは、そうした「油」、つまり夫婦や親子の関係、他の人が私に代わって準備することのできないもの、そうした部分で、自分の人生をどう生きるのか、これは後回しにしてはならない人生の課題であると、私たちに伝えていることを覚えたいと思うのです。
イエスさまは「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と教えてくださいました。
今日、礼拝に出席したことを機会に、私たちの心の糧、今日のたとえで言うならば、私たちがそれぞれに準備しておく油としてのエネルギーを、神さまからいただき続けていきたいと願います。お祈りいたします。

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主日共同の礼拝説教 歓迎礼拝

しっかりとした土台のある人生

2018年10月28日 秋の歓迎礼拝
和田一郎副牧師
マルコによる福音書9章14~27節

1、信仰のない時代

今日は歓迎礼拝ですが、はじめて教会に来た方に、「信仰には力があるのだ」ということを知って頂きたいと思いました。信仰というのは、何か神聖なものを信じることを言います。つまり、自力本願か他力本願かといえば、他の力を頼って生きる他力本願に力があるのだという話しになります。日本の中では他力本願という言葉は、ネガティブな意味で使われると思います。「他人に迷惑をかけてはいけない」という価値観が大きいと思います。他人の力に頼らないで、自立することを重んじる価値観があると思います。ですから、それと「信仰には力があるのだ」という価値観は正反対のように聞こえますが、今日はこの「信仰の力」について、そして、その信仰がしっかりとした人生の土台になっていく、ということを考えていきたいと思います。
イエス様の弟子達が群衆に取り囲まれて、なにかを議論している様子でした。そこでイエス様が、「何を議論しているのか?」と聞かれました。すると答えたのは群衆の中にいた人でした。「先生、うちの子どもが霊に取りつかれております。取りつかれると、地面に引き倒して、口から泡を出し、体をこわばらせてしまうのです。そこで、この霊を追い出してくださるように、あなたの、お弟子たちに申しましたが、できませんでした。」と言うのです。弟子達には、悪霊を追い出す権能を、イエス様から与えられていたのですが、それをできずにいたのです。ここでは「霊にとりつかれた」とありますが、マタイの福音書の同じ箇所では「てんかん」という病気で苦しんでいると書かれています。当時の病気は悪霊によるものだと信じられていたようですが、この父親のように、病気の家族や友人をもつ人達が、イエス様の所に押し寄せて癒してもらいたいと思ってやって来ました。勿論、イエス・キリストという方は病気を治すだけの方ではありません。悪と罪が広がるこの世の中に、愛をもって救いと希望を与えるために来られた方です。世界を変える力と、人の命を取り扱う力をもったかたでしたから、病気を治すことも当然できたのです。
ところで、日本の国に住んでいると、病気を治してくれる神様とか、交通安全の神様、商売の神様など、いろいろな神様があります。とても分かりやすい神様です。人間の願いごとの数だけ神様がありそうです。ある意識調査がありました。
「あなたは何か信仰を持っていますか?」という意識調査です。信仰を持っているという人は30%位で、同じ調査を昭和20年代に行った時は、60~70%の人が、何等かの信仰を持っていると答えたそうです。この70年で日本人の信仰心が半分以下になった一方で、日本は豊かになりました。食べ物やモノが不足している社会ではなくなりましたが、70年前には無かった、新しいカタチでの「孤独」という問題があると思います。しかし、その救いを「信仰」に頼る人は少ないと言えます。
今日の聖書箇所で、病気を治せなかった弟子の話しを聞いたイエス様は「なんと信仰のない時代なのか」と憤りましたが、わたしたちも信仰の無い時代、信仰の無い地域に住んでいるといえます。22節で「おできになるなら、私どもを憐れんで助けてください」と、この病気の子の父親は言いますが、大多数の日本人にとっては、聖書の言葉も「おできになるなら」と言った程度にしか関心がないでしょう。

2、悪霊を追い出す神様

その後、イエス様は、その子の病を癒されました。病気の息子の父親が「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」といった、イエス様への願いが、病を癒すことにつながったので、この父親の祈りが聞かれた、「御利益があった」ようにも聞こえます。先ほども話しました、商売の神様、健康祈願の神様といった、具体的に何かを目に見える形で叶えてくれるものを「ご利益信仰」と言います。「ご利益信仰」には、宝くじや賭け事などの当たりを期待するような、危うさがあります。また、お守りを買うから、これこれを叶えてくださいと、神様と取引をするようにも感じます。しかし、この時のイエス様は、そのようなご利益を叶えたのではありません。イエス様はそういう方ではないのです。

3、病者の祈り

あるクリスチャンの病気を治して欲しいという、願いをこめた祈りの詩があります。
「病者の祈り」
大事を成そうとして、力を与えてほしいと神に求めたのに、慎み深く従順であるようにと、弱さを授かった。
より偉大なことができるように、健康を求めたのに、よりよきことができるようにと、病弱を与えられた。
幸せになろうとして、富を求めたのに、賢明であるようにと、貧困を授かった。
世の人々の賞賛を得ようとして、権力を求めたのに、神の前にひざまずくようにと、弱さを授かった。
人生を享楽しようと、あらゆるものを求めたのに、あらゆるものを喜べるようにと、生命を授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りは、すべてかなえられた、私はあらゆる人々の中で、最も豊かに祝福されたのだ。
(ニューヨークのある病院の壁に書かれた詩)

この詩に書かれた、私たちが信じる神様は、力を与えてほしいと神に求めたのに、弱さを授ける方です。富を求めたのに、貧困を与える方です。何のご利益もありません。神様は私たちの、願いどおりに答えられるわけではありません。もし私たちが、自分では良いものだと思っていても、本当は良くないものであれば、神様はそれを与えません。自分の思いとは違う、本当に必要なものを与えてくださいます。詩の最後にあるように「求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた」とありますように、願いが聞かれないことで、願いが叶うということに、私達クリスチャンがもつ信仰があります。

4、心の中の言い表せない祈り

私達の信じる真の神様は、神様と出会うには、必要な時があるのだと言われます。恵みに与るためには、必要な時があるのです。命とは何か。病に罹った意味とは何か。病を通して神様と出会わせ、神の恵みに与らせることがあります。病を通して、その人の心の中にある、言い表せない祈りを聞くと言うのです。それは、その人がこの世に、命を受けて生まれてきた理由と重なります。神様はこの世に命を受けてきた人々に、それぞれの価値を与え、最善な人生を用意されました。しかし、人の性質には、生まれながらの罪があるので、人生を通してどこかで神と出会う必要があります。神様に罪を赦し助けてもらう必要が、人生のどこかで必要です。喜びの中で神と出会う人もいれば、悲しみの代償を払って神様と出会う人もいます。そうして神様と出会って、神に近づくことでその人の歩みが永遠に祝福されるという、恵みに与ることができます。この詩を書いた人は、病を治して欲しいと祈りながら、その一方で、神様と近づいていく恵みに感謝したと思うのです。
わたしがこの詩を知ったのは、母の日記に書かれていたからです。母は私が26歳の時に、病気で天に召されましたが、母の1年間の癌との闘病生活は、私にとって信仰を知るきっかけとなって、現在の私があります。母がその闘病生活の中で書いた日記の中に、この詩が書かれていました。この詩は、病気と闘った母が遺してくれた詩でもあります。母は私が信仰をもつことを願っていました。母が天に召された後になって、私はやっと信仰を持つことができました。神様は、本当に無駄なことはなさらないのです。ちっぽけな人間の願い事でも、大きく豊かな恵みをもって応えてくださるのです。
今日のイエス様の話しの中で、父親には「信仰のないわたしを、お助けください」という信仰がありました。しかし、それはとっても小さな信仰でした。けれども、それが信仰である限り、神は力を現わされるのです。信仰の力とは、信仰をもっている人の力ではないのです。神様が持っておられる力です。信仰を通して、神の力が私たちに届くのです。信仰が小さいかどうかは真の問題ではありません。問題は信仰が有るか無いか、その有無の問題です。信仰さえあればそれがどんなに小さくても、神の大きな力が働かれるのです。「からし種一粒ほどの信仰があれば…あなたがたに、できないことは何もない。」とイエス様はおっしゃいました。救い主イエス・キリストは、この後、苦しみを受けて十字架で死なれました。弟子達とはいつまでも、一緒にいられませんでした。しかし、復活をされて、天に戻られ、そこで私たちを見守っておられます。わたしたちは、この方が救い主であるという信仰をもっています。この「信仰には力があるのだ」ということを、今日は知っていただきたいと思います。お祈りをいたします。