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ほんとうに求めていた生き方

松本雅弘牧師
マタイによる福音書6章19~24節
2019年10月13日

Ⅰ.人生を動かすこころの物語

『きっと、うまくいく』を観ました。インド屈指の難解工科大学に通う学生たちの生活を描いた作品です。入学式で学長がカッコー鳥のはく製を、巣の上に乗せて、新入生たちの前に立って演説するシーンが出て来ます。
「諸君、この鳥は何か分かるかね? カッコーだ。カッコーは巣を決して巣を作らない。他の鳥の巣に卵を忍ばせるんだ。ヒナが生まれる時に、彼らが始めてやることが分かるか?」と言って、巣にあった本物の卵を地面に落とすのです。
当たり前のこと、落ちた卵はグチャグチャに割れてしまいます。それを見て驚いている新入生に向かって間髪入れずに、「いいか。こうして他の鳥の卵を蹴落とすんだ。それで競争は終わり。カッコーの人生は殺しで始まる。戦うか、死ぬか。それが自然の法則だ」と語り、「人生は競走なのだ」と。
こんなシーンもありました。学長が学生に「月面に初めて立った人物は誰かね」と質問します。学生の1人が「ニール・アームストロングです」と答えます。それを受けて「紛れもなくアームストロングだ。これは誰もが知っていることだ。でも2番目に月面に立った人物を君たち覚えているかね。2番目の人物なんて誰も覚えてやしないものだ」と語るのです。
このように「人生は競争」、そして「競争するからには1番にならなければ意味がない」という物語を学生たちの心に植え付けていくのです。その映画を観ながら、日本の私たちにとって、私たちを動かしている物語・価値観って何だろうか、と考えさせられました。日本人と共通する「物語」があったからだと思うのです。

Ⅱ.平安の根拠は?

今日の聖書の箇所には、ダヤ社会にはびこっていた「お金がすべて、蓄えさえあれば安心」という物の考え方に対して主イエスがチャレンジしています。ここで主イエスは「あなたがたは地上に富を積んではならない。むしろ、その富は天に積みなさい。…あなたの富のあるところに、あなたの心もある」と言われました。
別訳聖書では「富」が「宝」と訳され、「あなたの宝物があるところに、あなたの心があるものだ」とおっしゃったのです。
ところで、ここにある「富」とは元々は「宝箱」を意味する言葉が使われていて、使い古した思い出の万年筆や、ましてや息子が作った土団子のようなものではなく、実際にお店に並べたら、しっかりと高値がつくような、貨幣価値がある財産を意味するものです。
しかも、元々のギリシャ語では、わざわざ複数形で書かれていますので、価値あるものがたくさん詰まっている宝箱、たいへんな財産、という意味でしょう。ここで主イエスは、そうした富や宝を、「地上に富を積んではならない」と教えています。理由は、「そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」から。つまり、どんなに価値ある物も、ずっとそのままの価値を保つことなどありえない。富みには限界があり、最終的に頼りになるものではないのだ、と主イエスは教えるのです。

Ⅲ.富に関わる「新しい物語」

富に関して主イエスが話された次のたとえ話を思い出します。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(ルカ12:16-21)
ここで主イエスは富に頼ることの愚かさに加え、「神の前に豊かになる生き方」を説いています。先週、「油」の話をしました。本当の意味で大事なもの、「神の前に豊かになる生き方」とは、「本当に大事なことを大事にする生き方」と言い換えてもよいかと思うのです。
私たちの周りには様々な良き物で溢れています。聖書は、それら1つひとつは、神からの贈り物であると教えます。
この美しい自然、豊かな食物、家族や友、私たちの手元にある様々な品物も全てが神さまからの贈物です。
ある男女が婚約したとします。婚約のしるしに男性はダイヤの婚約指輪を贈り、女性は高価な時計をプレゼントします。大切な相手から贈られた記念の品です。ところが、男性が婚約者の女性以上に時計を大事にしたとすればどうでしょう?本末転倒になります。時計、あるいは指輪も、婚約者に対する愛を表わすシンボルであって、いくら高価な品物であっても婚約者にとって代わるものでは決してないからです。
以前、『人生の四季を生きる―教会のおとなたちに贈る34のワーク集』というテキストを読んでいましたら、そこにこんなワークシートがありました。「あなたは、持ち物を全部船に乗せ、『人生洋』という大海原を航海しています。『春の海』を出帆して、楽しい海の旅が続きました。ところが、予想もしなかった大嵐に遭遇! あなたの船は、大波にもまれて今にも沈みそうです。あなたの生命を守るために、船を軽くすることが必要です。あなたが大切にしている積み荷を、どれから順に海に投げ捨てるか決めてください。捨てた荷物は、二度とあなたのものにはなりません。」
そして「積み荷のコンテナは、10あります」とあって、その10が、「①健康、②生きがい、③若さ、④魅力、⑤家族、⑥名誉、⑦仕事、⑧能力、⑨快適な生活、そして⑩財産。」これは究極の選択だと思いました。
みなさんは、どうお応えになりますか?
ここに挙げられた10項目はどれも大切です。しかも、これらには共通点がある。それはこのいずれも神からの贈物、そしていつか神にお返しする時が必ずやって来るということです。ですから、ある種の距離感を持って生きる。握りしめずに、いつでも手放すことができるような距離感が必要だということでしょう。
何故なら本当の意味で私を支えてくれるのは、ここにある10の事柄ではなく、それを与えて下さる神ご自身だからです。ですから「距離感を持って生きる」という生き方は主イエスの賢い生き方であり、正に贈り物の与え主である、神さまのことを覚える生き方だ、と主イエスは説いておられます。

Ⅳ.新しい福音の物語

『きっと、うまくいく』に、印象的なシーンがあります。自殺した学生を葬る場面です。死んだ学生は「競争に勝つ、それも1番になる」という「物語」で救われませんでした。当然ですが、学生が100人居たら救われるのはその内の1人だからです。他の99人は救われない。その証拠に、映画には学生が自ら命を絶とうとする場面が2回もあり、「90人に1人が自殺する」というような、現代インドの学生事情を表わすセリフもありました。明らかに学生はその物語に縛られ苦しんでいる。その苦しみとは救われない苦しみもさることながら、本当に心の底から求めている人間らしく生きることの出来ない苦しみでしょう。ただ埋葬シーンで、ハッとしたのですが、十字架の刺繍のあるストールを掛けた牧師の姿が出て来るのです。古くからのカースト制、他人よりも多くモノを獲得しお金を稼ぎ出世することが幸せと考える物語に代わる新しい物語を求めている、現代インドの若者を描くこの映画の中で、今までの延長線上ではない何か新しい物の見方、価値観を伝える場面のように見えました。
確かにお金は必要です。仕事も大切です。でも「死の床で、どれだけの人が『人生をもっと職場で過ごしたかった』と思うだろうか。『もっとお金を貯めたかった』と考えるだろか」という言葉を読んだことがあります。
聖書は、私たち人は、神のかたちに造られ、神にしか満たすことの出来ない隙間、神にしか癒すことの出来ない渇きがある、と教えます。そのような意味で、私自身が深いところで憧れる生き方、私を生かす新しい物語を必要としている。今、これまで自分を動かしてきた物語に代わる、新しい物語を聞くことを私の心は切に求めているのではないだろうか。聖書はその物語のことを「福音の物語」と呼びます。福音の物語とは人の価値はその人が成したことによらない。神は私という存在をそのあるがままの私を愛しておられるというメッセージです。
ぜひ歓迎礼拝に来られたことを機会に、この新しい福音の物語を心にいただき、それを心の内に響かせながら歩んでいけたらと願います。
お祈りします。

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大切な問題を後回しにしていませんか?

松本雅弘牧師
マタイによる福音書25章1~13節
2019年10月6日

Ⅰ.「天の国」とは?

「天国」という言葉を見たり聞いたりすると何を思い浮かべるでしょうか。「死んだ後、行くところ」とか「空の遥かむこうの世界」ということを想像することが多いように思います。
それに対して、聖書が教える「天の国」、別の言い方をすると「神の国」は、天地万物をお造りになった神が王として支配されている領域、世界を意味しています。
神さまの愛の御心、その愛の御心は聖書の中に示されていますので、言い方を変えるならば、聖書の価値観が基準となっている世界を「天国」と呼びます。聖書は、神さまが教える価値、聖書の価値観が基準となっている世界のことを、「天国」と呼んでいます。
今日の箇所を読みますと、主イエスは、天の国の価値観、天国の価値基準はこのようなものですよ、と言って、今日の箇所の小見出しにありますように、「十人のおとめのたとえ話」をお語りになったわけです。

Ⅱ.「十人のおとめ」のたとえ

このたとえ話は婚宴の始まりの場面から語り出されていきます。婚宴の始まりにともし火を持って花婿を迎えに行くとは大変美しく喜ばしい光景です。
選ばれた十人のおとめたちは、結婚式の中でもとても大切な務めを果たす役割が与えられています。ところが十人のおとめたちには2種類の人たちがいました。それは愚かなおとめと、賢いおとめでした。愚かな5人のおとめたちの「愚かさ」がどこにあったかと言えば、「備えが出来ていなかった」ということです。
花婿が到着するのが遅れたために、到着した時には、愚かなおとめたちのともし火は消えてしまいました。そのため賢いおとめたちに油を分けてくれるように頼んだのですが、彼女らは「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」と、見方によっては冷たくあしらったのです。
結婚式とは本当に幸いな時、2人の新しい門出を祝福し喜びを共にする時です。この十人はそうした結婚式の中で大切な役目を担わされていました。その役目とは「ともし火を灯し、花婿を迎える」ということです。ですから、仲間のおとめが油を切らしたなら、余分に持っている者たちが協力し、この場を乗り切ることはできなかったのかと思います。でも、そうしませんでした。
こうして油を分けてもらえなかった愚かなおとめたちは、賢いおとめたちのアドバイスに従い、町に油を買いに出かけます。幸い、店で手に入れることができました。そして急いで祝宴会場に戻ります。ところが主人は扉を開けてくれないのです。「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」と言って締め出されてしまいます。
主イエスは、そういうたとえ話をここで語っておられます。このたとえ話を繰り返し読んでみると、一つのことに気づかされます。それはイエスさま御自身が、この時の賢いおとめたちの言動を否定せず、むしろ肯定している点です。ここに、たとえ話を説き明かすヒントが隠されているように思うのです。

Ⅲ.大切なことを大切にする生き方

数年前、興味深い本が出版されました。『聖書に学ぶ子育てコーチング』という本です。内容は、ひと言で表現するならば、「子離れ・親離れ」の本です。
子どもが生まれて間もない時は、食事から始まり、排せつ、服の着せ替え、一から十まで親がかりです。でも成長するに従い、自分で食べるようになり、トイレに行くようになり、服も着たり脱いだりするようになります。
でもよくよく考えてみますと、実はそれは錯覚で、ミルクを作り子どもの口元まで持っていくのを、飲むかどうかは子ども自身がすることで、誰であっても子どもに代わってやって上げることのできない領域です。その1つに排せつもあります。排せつし易いようにオムツを替えることがあっても、実際に排せつできるのは本人だけで、親が代わることはできないのです。つまり、親子であっても夫婦であっても、お互いは、代わることのできない存在だからです。
ここでイエスさまは、この十人のおとめに与えられた責任や役割は、本当に晴れがましく、しかも大切なものであることを確認する一方で、他の人が代わり得ない重要な役割なのだということを教えているのです。
賢いおとめが余分な油を持っていたなら分けてあげてもよかったのではないかと思う、と申しましたが、でも現実は、初めから余分なものなどないのです。人から譲り受けてどうにかなるのではなく、自分で準備しなければならない「油」というものが、私たちの人生にはある、ということを教えているように思うのです。
例えば会社や家庭、地域社会の中で、他の人が代わることのできない役割をそれぞれがお持ちなのではないでしょうか。その務めに精一杯生きることが求められ、しかもそうした務めに生きるということは、ある意味で婚宴の喜びを共にするように、人生で1回限りの掛け替えのない時でもあります。
私たちは、実はそうした時を、日々生きているのだと思うのです。ここで主イエスは、私たち一人ひとりが、このような大切な時を逃してしまうことほど、愚かしいことはないのだと教えているのです。言い換えれば、本当に大切なことを大切にする生き方をするようにと説いておられるのです。

Ⅳ.後回しにしてはならない大切な課題

ともし火は目立つものです。それに対し油は周りからは見えません。でも見えない油がなくなると途端に灯りは消えてしまう。油がなければ灯も、いざという時に役に立たないのです。まさに「油断大敵」です。
私たちは人々の目に映るところで日常生活を営みます。会社で一生懸命働き、子どもを育て、あるいは地域社会において活動をします。
それは、ともし火のように、周囲から見える部分でしょう。でも、その見える部分を支えているのが、実は外からは見えない油の存在。しかも見えないだけでなく、今日のたとえ話が教えるように、他の人が私に代わって用意できないものです。
私たちに当てはめるならば、そうした油とは何に相当するのでしょう? その一つは、「関係」だと思います。具体的には夫婦の関係、親子の関係、家族の関係、そして職場や学校での人間関係です。場合によっては「自分自身との関係」ということもあるでしょう。自分の心や体をどうメンテナンスしているか。自分が抱える心配事や悩みとどう向き合っているか、そうした意味での「自分自身との関係」があります。そして、さらに聖書は、大切な油の1つとして、「神さまとの関係」についても教えています。
こうした「油」は周囲からは見えません。でも私たちの働きや活動、日常の営みという、「ともし火」を灯し続ける大切な油なのです。そうした油があるからこそやって行けるわけです。
以前、あるアメリカの牧師夫人がバプテスト教会の牧師の家族向けの講演会で語ったテープを聴いたことがあります。
その教派はとても大きな団体です。そこには何千、何万と言う教会があることでしょう。そこで働く牧師やスタッフの数もたいへんなものです。ところが毎年、何十人、いやそれ以上の数の牧師や教会スタッフがその働きから離れていく。今日のたとえ話のように、「油」を切らしたように一線を退いていく。その第1の理由が夫婦関係だそうです。
もっと正確な言い方をするならば、色々な意味でストレスの大きい働きに、連れ合いがギブアップしてしまう、というのです。外から見ていると牧師もしっかりやっている。言わば彼のともし火はしっかりと灯されている。でも、周囲から見えないところにおいて、実は少しずつ「油」が切れ出しているというのです。
いや、これは牧師だけではありません。子育て中の人も、また会社で働いていてもそうだと思います。ちょうど背広でも裏地があるので、この表の生地(きじ)がしっかりするのです。油というエネルギーがあるので、ともし火を灯すことができるのです。
でも油の備えがない時に、必ず行き詰る。場合によっては、大事な関係までも犠牲にし、見える世界での成功を求め、一生懸命にともし火を灯そうとしている。こうしたことってないでしょうか。
このたとえ話を通して、イエスさまは、そうした「油」、つまり夫婦や親子の関係、他の人が私に代わって準備することのできないもの、そうした部分で、自分の人生をどう生きるのか、これは後回しにしてはならない人生の課題であると、私たちに伝えていることを覚えたいと思うのです。
イエスさまは「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と教えてくださいました。
今日、礼拝に出席したことを機会に、私たちの心の糧、今日のたとえで言うならば、私たちがそれぞれに準備しておく油としてのエネルギーを、神さまからいただき続けていきたいと願います。お祈りいたします。

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しっかりとした土台のある人生

2018年10月28日 秋の歓迎礼拝
和田一郎副牧師
マルコによる福音書9章14~27節

1、信仰のない時代

今日は歓迎礼拝ですが、はじめて教会に来た方に、「信仰には力があるのだ」ということを知って頂きたいと思いました。信仰というのは、何か神聖なものを信じることを言います。つまり、自力本願か他力本願かといえば、他の力を頼って生きる他力本願に力があるのだという話しになります。日本の中では他力本願という言葉は、ネガティブな意味で使われると思います。「他人に迷惑をかけてはいけない」という価値観が大きいと思います。他人の力に頼らないで、自立することを重んじる価値観があると思います。ですから、それと「信仰には力があるのだ」という価値観は正反対のように聞こえますが、今日はこの「信仰の力」について、そして、その信仰がしっかりとした人生の土台になっていく、ということを考えていきたいと思います。
イエス様の弟子達が群衆に取り囲まれて、なにかを議論している様子でした。そこでイエス様が、「何を議論しているのか?」と聞かれました。すると答えたのは群衆の中にいた人でした。「先生、うちの子どもが霊に取りつかれております。取りつかれると、地面に引き倒して、口から泡を出し、体をこわばらせてしまうのです。そこで、この霊を追い出してくださるように、あなたの、お弟子たちに申しましたが、できませんでした。」と言うのです。弟子達には、悪霊を追い出す権能を、イエス様から与えられていたのですが、それをできずにいたのです。ここでは「霊にとりつかれた」とありますが、マタイの福音書の同じ箇所では「てんかん」という病気で苦しんでいると書かれています。当時の病気は悪霊によるものだと信じられていたようですが、この父親のように、病気の家族や友人をもつ人達が、イエス様の所に押し寄せて癒してもらいたいと思ってやって来ました。勿論、イエス・キリストという方は病気を治すだけの方ではありません。悪と罪が広がるこの世の中に、愛をもって救いと希望を与えるために来られた方です。世界を変える力と、人の命を取り扱う力をもったかたでしたから、病気を治すことも当然できたのです。
ところで、日本の国に住んでいると、病気を治してくれる神様とか、交通安全の神様、商売の神様など、いろいろな神様があります。とても分かりやすい神様です。人間の願いごとの数だけ神様がありそうです。ある意識調査がありました。
「あなたは何か信仰を持っていますか?」という意識調査です。信仰を持っているという人は30%位で、同じ調査を昭和20年代に行った時は、60~70%の人が、何等かの信仰を持っていると答えたそうです。この70年で日本人の信仰心が半分以下になった一方で、日本は豊かになりました。食べ物やモノが不足している社会ではなくなりましたが、70年前には無かった、新しいカタチでの「孤独」という問題があると思います。しかし、その救いを「信仰」に頼る人は少ないと言えます。
今日の聖書箇所で、病気を治せなかった弟子の話しを聞いたイエス様は「なんと信仰のない時代なのか」と憤りましたが、わたしたちも信仰の無い時代、信仰の無い地域に住んでいるといえます。22節で「おできになるなら、私どもを憐れんで助けてください」と、この病気の子の父親は言いますが、大多数の日本人にとっては、聖書の言葉も「おできになるなら」と言った程度にしか関心がないでしょう。

2、悪霊を追い出す神様

その後、イエス様は、その子の病を癒されました。病気の息子の父親が「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」といった、イエス様への願いが、病を癒すことにつながったので、この父親の祈りが聞かれた、「御利益があった」ようにも聞こえます。先ほども話しました、商売の神様、健康祈願の神様といった、具体的に何かを目に見える形で叶えてくれるものを「ご利益信仰」と言います。「ご利益信仰」には、宝くじや賭け事などの当たりを期待するような、危うさがあります。また、お守りを買うから、これこれを叶えてくださいと、神様と取引をするようにも感じます。しかし、この時のイエス様は、そのようなご利益を叶えたのではありません。イエス様はそういう方ではないのです。

3、病者の祈り

あるクリスチャンの病気を治して欲しいという、願いをこめた祈りの詩があります。
「病者の祈り」
大事を成そうとして、力を与えてほしいと神に求めたのに、慎み深く従順であるようにと、弱さを授かった。
より偉大なことができるように、健康を求めたのに、よりよきことができるようにと、病弱を与えられた。
幸せになろうとして、富を求めたのに、賢明であるようにと、貧困を授かった。
世の人々の賞賛を得ようとして、権力を求めたのに、神の前にひざまずくようにと、弱さを授かった。
人生を享楽しようと、あらゆるものを求めたのに、あらゆるものを喜べるようにと、生命を授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りは、すべてかなえられた、私はあらゆる人々の中で、最も豊かに祝福されたのだ。
(ニューヨークのある病院の壁に書かれた詩)

この詩に書かれた、私たちが信じる神様は、力を与えてほしいと神に求めたのに、弱さを授ける方です。富を求めたのに、貧困を与える方です。何のご利益もありません。神様は私たちの、願いどおりに答えられるわけではありません。もし私たちが、自分では良いものだと思っていても、本当は良くないものであれば、神様はそれを与えません。自分の思いとは違う、本当に必要なものを与えてくださいます。詩の最後にあるように「求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた」とありますように、願いが聞かれないことで、願いが叶うということに、私達クリスチャンがもつ信仰があります。

4、心の中の言い表せない祈り

私達の信じる真の神様は、神様と出会うには、必要な時があるのだと言われます。恵みに与るためには、必要な時があるのです。命とは何か。病に罹った意味とは何か。病を通して神様と出会わせ、神の恵みに与らせることがあります。病を通して、その人の心の中にある、言い表せない祈りを聞くと言うのです。それは、その人がこの世に、命を受けて生まれてきた理由と重なります。神様はこの世に命を受けてきた人々に、それぞれの価値を与え、最善な人生を用意されました。しかし、人の性質には、生まれながらの罪があるので、人生を通してどこかで神と出会う必要があります。神様に罪を赦し助けてもらう必要が、人生のどこかで必要です。喜びの中で神と出会う人もいれば、悲しみの代償を払って神様と出会う人もいます。そうして神様と出会って、神に近づくことでその人の歩みが永遠に祝福されるという、恵みに与ることができます。この詩を書いた人は、病を治して欲しいと祈りながら、その一方で、神様と近づいていく恵みに感謝したと思うのです。
わたしがこの詩を知ったのは、母の日記に書かれていたからです。母は私が26歳の時に、病気で天に召されましたが、母の1年間の癌との闘病生活は、私にとって信仰を知るきっかけとなって、現在の私があります。母がその闘病生活の中で書いた日記の中に、この詩が書かれていました。この詩は、病気と闘った母が遺してくれた詩でもあります。母は私が信仰をもつことを願っていました。母が天に召された後になって、私はやっと信仰を持つことができました。神様は、本当に無駄なことはなさらないのです。ちっぽけな人間の願い事でも、大きく豊かな恵みをもって応えてくださるのです。
今日のイエス様の話しの中で、父親には「信仰のないわたしを、お助けください」という信仰がありました。しかし、それはとっても小さな信仰でした。けれども、それが信仰である限り、神は力を現わされるのです。信仰の力とは、信仰をもっている人の力ではないのです。神様が持っておられる力です。信仰を通して、神の力が私たちに届くのです。信仰が小さいかどうかは真の問題ではありません。問題は信仰が有るか無いか、その有無の問題です。信仰さえあればそれがどんなに小さくても、神の大きな力が働かれるのです。「からし種一粒ほどの信仰があれば…あなたがたに、できないことは何もない。」とイエス様はおっしゃいました。救い主イエス・キリストは、この後、苦しみを受けて十字架で死なれました。弟子達とはいつまでも、一緒にいられませんでした。しかし、復活をされて、天に戻られ、そこで私たちを見守っておられます。わたしたちは、この方が救い主であるという信仰をもっています。この「信仰には力があるのだ」ということを、今日は知っていただきたいと思います。お祈りをいたします。

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信頼から生み出される愛の恵み

2018年10月21日 秋の歓迎礼拝
宮城献伝道師
ルカ19章1~10節

Ⅰ.ザアカイの物語について

今回の説教で与えられました新約聖書のみ言葉は、ザアカイの物語です。教会で、とても良く聞く聖書のお話の一つです。高座教会の教会学校でも、何度もなんども、語られてきました。その分だけ、教会が、そしてイエス様を信じる私たちが、とても大切にしている聖書の物語です。
イエス様と出会い、変えられていったザアカイを通して、子どもの時であろうと大人になったとしても、いつであっても変われるのだ、と気づかされるのです。あのザアカイだって、イエス様と出会い、心から人を愛することが出来るようになった。そうして、その愛を形にするために、貧しい人に施しを、そして今までの過ちを取り返す働きをしよう。このように、あのザアカイだって変われたのだから、自分だって変わることが出来るのだと、励まされ勇気づけられるのです。
では、ザアカイは、なぜそのように変えられていったのでしょうか。

Ⅱ.徴税人で金持ちのザアカイ

ザアカイは、徴税人という仕事をしていました。それは、イスラエルを支配していたローマへの税金を集める仕事です。その仕事は、異国のために、同胞からお金を取り上げることで、卑しいものだと考えられていました。そうして、ザアカイを始め、その仕事に従事している人たちは、罪人だと言われ、同胞の人たちから、つまはじきにされていました。
けれど、そうやって仲間外れにされることで、彼らは自分たちが価値の無い者なのだ、と思わされていました。そのために、彼らは自分たちの価値を見出せるものを探さなければならなかったのです。それが、結局は自分たちの力で手に入れることの出来たお金だったのです。そうして彼らは、必要以上に税金を取り上げたのです。もちろん、その様にしていれば、また一層、仲間たちから嫌われてしまいます。
聖書でザアカイは、その「徴税人の頭」であり、そして、「金持ちであった」と紹介されています。徴税人の頭ですので、嫌われ者の中の嫌われる者であったこと。そして、みんなから嫌われてしまうことへの反動から、より多くの税金を取り、そのために金持ちであったこと。これらのことを聖書は示しているのです。

Ⅲ.ザアカイの友にならなければならない

そんなザアカイが住む町に、イエス様がやってこられるのです。イエス様は、その町に来る前にも徴税人たちの家に行かれ、食事もしていました。今でもそうですか、人のお家に上がり、食事をすることは、親しい友人関係でないとなされません。ですのでイエス様は、嫌われ者とも友になり、食事をともにされていました。このことは当時のイスラエルでは、衝撃的な出来事です。徴税人は罪人とされていたので、一緒に食事をした人も同じ罪人とみなされてしまうからです。けれどイエス様は、彼らの誘いに応えて彼らの家に出向き、食事をともにされていました。そうして、その出来事のインパクトゆえに、徴税人の一人であるザアカイのもとにもイエス様のことが耳に入っていたのでしょう。そして、ザアカイはそんなイエス様を一目でも見たい、と思い行動を起こすのです。
けれどザアカイの前には、大勢の群衆です。小柄なザアカイは、イエス様を見たくても見ることが出来ません。そして、この場面は、よく教会学校の絵本などでも登場しますが、ザアカイと、彼を取り巻く人たちの関係をうまく表現しています。その絵本では、小柄のザアカイの前に、群衆が壁のように立ちはだかっている様子が描かれています。彼らは、イエス様の方を見つめているので、誰もザアカイを見ていません。そうして、ザアカイが、仲間たちから、つまはじきにされているイメージが強く喚起されます。群衆が、ザアカイにそっぽを向いていることで、ザアカイはまるで存在してないかのように扱われていることが分かります。また、群衆という壁の外にザアカイが立たされることで、彼が仲間たちの中に入れていないことも明らかにされます。
そうしてザアカイは、その壁の前で誰にも構ってもらえず、行ったり来たり、うろうろと困っていたのでしょう。けれど、彼は、諦めの悪い人でした。いちじく桑の木にひょいと登って、イエス様を見ようとします。
こういったザアカイの必死な様子から、彼がぐっと身近な存在のように感じられてきます。私たちも何かに必死になっている時に、後から振り返るとそこまでするか、と思うことがありますが、そんな時の自分たちの姿は何かと滑稽ですが、その分だけ愛おしく思われることがあるのではないでしょうか。
そして、そんなザアカイに、イエス様は暖かな眼差しを送られるのです。イエス様は木の上にいるザアカイに近づき、こうおっしゃられました。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。家に出向き、食事をともにすることは友人の証です。しかも、ここでイエス様は自らザアカイの家に泊まるとおっしゃっています。普通は、家の主人が食事に招きます。けれど、イエス様から、ザアカイの家に出向くとおっしゃられています。厚かましいようにも思えますが、イエス様は、自分自身から、ザアカイの友になろうとされたのです。
それだけではありません。私たちの聖書では、「あなたの家に泊りたい」という訳になっています。ですが、聖書のもともとの言葉を見てみますと、ここでは、「あなたの家に泊まらなければならない」という意味のほうが、より相応しいものになります。そのために、英語の聖書では、「泊まらなければならない」という所には、mustという言葉が用いられています。そうしますと、ここで、イエス様は、「ザアカイの家に泊まらなければならない」とまで、おっしゃられていたのです。
ザアカイは罪人でみんなの嫌われる者です。だけどどうした。そんなこと関係ない。私は、「ザアカイの友にならなければならないのだ」と、イエス様はおっしゃられていたのです。

Ⅳ.変わることが出来る:友が与えられたので

この時、ザアカイは、始めて本当の友が与えられたのです。本当の友とは、その人が金持ちであるとかそうではないとか、周りの人に好かれているとか、そうではないとか、関係ありません。それはイエス様が生きておられた時代から、私たちが生きる今の時代まで変わらないことです。ただただ、その友が友であるがゆえに愛し、愛されるのです。
そうしてザアカイは、もう大丈夫だ。自分の価値をお金なんかから見出さなくていいのだ。イエス様が、自分の友になってくれたのだから。もう何も不安に思うこともない。ザアカイには、イエス様という心から信頼出来る友が与えられたのです。
そうして、彼に勇気が与えられたのです。今まで自分を支えてきた、そのお金を投げ捨てでも、困っている人を助けていく。それだけではありません。多くの人から必要以上に税金を取ってしまった自分の過ち。そのせいで、生活に困ってしまう人がいるかもしれない。だから、そういった人にはしっかりとお金を返していかなければならない。
そして私たちも、このザアカイのように、変われるのではないでしょうか。まっすぐに人を愛し、過去の過ちを悔い改め、そしてその愛を具体的な形にしていくことが出来るようになるのです。
もちろん、そうはいってもそんな簡単に人は変われないよ、と思うかもしれません。けれど、どうでしょう。人は変わることが出来ない、と誰よりも思い込んでいたのは、ザアカイ本人ではないでしょうか。彼は誰からも愛されていなかったので、自分には価値がないと思っていました。だから、そんな自分が変わっていくことなど、無理だと思い込んでいたはずです。
けれど、そんなザアカイにイエス様は「あなたの友にならければならない」とおっしゃられたのです。なぜでしょうか。その理由が10節にあります。イエス様は「失われたもの」を探して救い出すために、この世界に来られたというのです。仲間たちから罪人だとみなされ、仲間外れにされてしまい、神様から見放されてしまったと思われていたザアカイ。そのような「失われたもの」のために、イエス様は、この世界に来られたのです。
そうだとしましたら、私は変わることなんて無理だと、ザアカイと同じように思ってしまう。「失われた」ザアカイと私たちをも、探して、救い出すために、イエス様はこの世界に来て下さったのです。
そしてイエス様は、今、私たちにも「あなたの友にならなければならない」と語りかけて下さるのです。そうして私たちには、本当に信頼できる友がいるのだ、と気づくことが出来たなら、ザアカイのように今までの生き方を変えていく勇気が与えられるのではないでしょうか。そしてそれが、イエス様を信頼し、歩んでいく幸いです。

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神さまがおられるから、大丈夫ですよ

2018年10月14日
秋の歓迎礼拝
松本雅弘牧師
マタイによる福音書6章25~34節

Ⅰ.はじめに

 

今日から秋の歓迎礼拝が始まりました。今日初めて教会の礼拝に出席された方々もいらっしゃることでしょう。ほんとうにようこそお越しくださいました。心から歓迎いたします。
今日、お読みした「聖書」ですが、これはたいへん不思議な書物なのですね。
歴史上、最も迫害を受けた書物ですが、消滅せずに生き延びています。そして、今日に至るまで、多くの人に親しまれてきています。世界で一番多くの言語に翻訳されているのがこの「聖書」です。クリスチャンではない方のご家庭にも、必ず1冊はあると思います。読まれているか、読まれていないかは別として・・・。
「不思議な書物」である、とお話しましたが、この「聖書」の不思議さの1つは、その言葉に力があること、読む者に「心の糧」を与える、ということです。

Ⅱ.思い悩む私たち

今日の聖書の言葉は、マタイによる福音書6章25節から34節の御言葉です。ここで、イエスさまは、私たち、人はいかに思い悩む存在であるかを語っておられます。
この短い個所、数えるとちょうど10節ですが、ここに、「思い悩む」という言葉が、25節、27節、31節、そして、34節に2回と、合計5回出て来ます。つまり繰り返し語られているのです。
私もお話の原稿を作る時に、この「繰り返し」という手法を使います。ただこれは、度を越すと、聞く側からすれば、しつこい印象を与えかねません。まして、こんな短い箇所に5回も「思い悩む」という言葉が使われているのです。
たとえしつこいと思われたとしても、敢えて繰り返し、「思い悩むな」ということをお語りになりたかったイエスさまの思いが、ここに表されていると思います。主イエスの目に映る私たち人間は、それほどに思い悩むことの多い存在である、そのことに気づかせたかったのだと思います。
社会を見渡しますと、子どもたちの将来、日本の将来について、そして、私たちの目に飛び込む一つひとつのことを取り上げて考え始めると、時として物凄い不安に襲われることがあるのではないでしょうか。私たちを思い悩ませる材料が次々と出て来くるのです。

Ⅲ.思い悩みから離れ、切り替えていく

ここでイエスさまは、そうした「思い悩み」との「付き合い方」を説いているように思います。いや、単にどのように付き合うかということだけでなく、そこから解放されるためにはどうしたらよいのか、そのことを教えておられます。
それが、「空の鳥をよく見、野の花を注意して見る」という生き方です。思い悩むことの代わりに、空の鳥をよく見、また野の花がどのように育つのかを注意深く観察しなさい、とイエスさまは教えてくださっています。
空の鳥、そして野の花を注意深く観察する時に、何が見えてくるでしょうか。空の鳥が、種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない中で、健やかに生きている現実です。また野の花がどのように育つのかをも注意深く見てみると、そこに見えて来るのは「栄華を極めたソロモン王をしのぐほどに美しく飾られている様子」です。
さらに、このイエスさまの教えに耳を傾けていくと、空でさえずる小鳥、野原で美しく咲いている花に注がれている神さまの眼差しに私たちの心が向かいます。鳥を養い、花を装う神さまの優しい御手の動きが見えてくるのではないでしょうか。
空の鳥と野の花を観察したそのあなたの目をもって、あなた自身に注がれる神さまの眼差しを、そして、あなた自身の命を支えておられる神さまの御手の業を、注目して御覧なさいと主イエスは、教えるのです。「だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」、「今日生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」と。
空の鳥、野の花が健やかに生きている、それ以上に、私たちに生きるべき命を与え、健やかに生きるようにと支えておられる神さまです。
使徒パウロは「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」と語りました。確かに見える物は年を追うごとに変化していきます。
パウロの言葉を使えば、「見えるものは過ぎさ」るのです。そして、それが真理であるように、実は、「見えないものは永遠に存続する」のだと聖書は語るのです。
そうです。空の鳥、野の花、そしてイエスさまがおっしゃったように、私たちの上に注がれている神さまの愛の眼差し、神さまの温かな御手の働きは、すぐには目に見えません。心の目をもってよく観察してみないと見えてこないものですが、そうした「見えないもの」は決して過ぎ去ることがないというのです。そこにフォーカスし、そこに焦点を合わせる作業が、聖書を読んだり、賛美歌を歌うこと、日曜日ごとの礼拝の時なのです。
以前、鎌倉黙想の家に行った時に、祈りの指導をしてくださった先生が、こんな話をされました。ちょうど震災のあった2011年の頃でしたが、その先生が震災後、50日くらいして、被災地にボランティアに行ったそうです。そこは津波で流されたところですから当然、人は住んでいません。住めない状況でした。でも、そこに小さな花が咲いていたそうです。そして、空を見上げると、普段と同じように鳥がさえずり、舞っていたというのです。
その先生は、地震の4日後の3月15日に、同じ場所を訪れていました。その時には勿論、花は咲いておらず、空には鳥の姿すらみえなかったそうです。鳥のさえずりが途絶え、花は姿を消していました。
その状況は、今日のイエスさまの教えからすれば、ある種の危機的な状況です。なぜなら鳥がさえずり、花が咲いているということは、神さまがそれらを養い、装ってくださっていることの証拠、神さまが生きて働いておられることの動かぬ証拠だからです。鳥がさえずり、花が咲いていたら、そこに希望がある、ということだからです。
ここで主イエスは、「明日のことは思い悩むな」と言われ、「空の鳥、野の花をよく観察するように」と言われた後、34節で、「その日1日の苦労で十分である」とおっしゃいました。決して、「苦労などない」などと、非現実的なことを言われているのではありません。はっきりと、「その日1日の苦労はある」とおっしゃるのです。
確かに、毎日、苦労が絶えませんね。生きていく上では、様々な責任がつきものですから。家庭での責任は勿論、幼稚園や学校でのお役もあるかもしれません。お仕事をしている人でしたら職場での責任もあるでしょう。誰にでも「その日1日の苦労」は必ずあるものでしょう。
今日、取り上げた、このイエスさまの教えは、マタイ福音書5章から始まる、「山上の説教」と呼ばれている一連の教えの一部なのです。
この説教は、こういうイエスさまの言葉で始まっています。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。・・・」と、「8つの幸い」を説かれるところから始まっている教えです。
これは、主イエスの励ましの言葉なのです。この説教が誰に向かって話されたのか。それは、病人や貧しい人、様々な重荷を抱えていた人たち、勿論、そこには弟子たちもいました。そのように弱い立場の人たち、イエスさまに助けを求めて集まってきた多くの人々に向かって語られた説教でした。イエスさまの言葉を使うならば、思い悩みや思い煩いで心が一杯一杯の人たちです。その人たちを前に、主は、この「8つの幸い」を説かれたのです。
たくさんの苦労で一杯になっている人に向かって、「あなたたちは、幸いですよ」とおっしゃったのです。少し堅い表現ですが、これは、「大丈夫!」という意味です。
「天の国はみんなのものなのだから、大丈夫!」。重荷を負って悲しんでいる人も幸いですよ、とイエスさまは言われます。「今、悲しんでいるけど、あなたを慰める神さまがおられ、必ず涙をぬぐってくださるから、大丈夫!」と言ってくださっているのです。
あなたは独りぼっちだと思っているかもしれないけれど、神さまの温かい優しい眼差しがあなたに注がれている。その眼差しを感じながらやっていきましょう! と、主イエスさまは言われるのです。

Ⅳ.明日を主に委ねて生きる

何か壁にぶち当たるような時、今日のイエスさまの御言葉を思い出しましょう。
イエスさまが言われるように、顔を上げ、空を見上げ、空を飛ぶ小鳥たちを見つけましょう。また、道端に咲いている花を見つけましょう。
神さまがおられるから、そうした鳥は養われ、小さな草も花でもって装われていることでしょう。その神さまが、私を養い、装ってくださるのです。私や、私の家族を守ってくださる。だから「大丈夫です!」。
その主イエスさまの御声に心の耳を澄ませていきたいと思います。
お祈りします。