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わたしの願いと神さまの願い


2016年10月23日
秋の歓迎礼拝
松本雅弘牧師
マルコによる福音書10章46~52節

Ⅰ.願いを持って生きる私たち

私たちは誰もが願いを持って生きています。私たちが口にする願いや、心に浮かぶ願いとは、とても不思議なもので、よくよく考えてみますと、結構あいまいで、場合によっては、本当に何を願ったらよいかも分からないということもあるのではないでしょうか。

Ⅱ.バルティマイ

今日の箇所には盲人バルティマイが登場します。彼ははっきりとした願いを持っている人でした。ある日、イエスさまが歩いて行かれることが分かると、イエスさまに向かって、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と呼びかけ、叫び続けたのです。周りに居た人々は、そうしたバルティマイを叱りつけ、黙らせようとしています。ところが、そうされても彼はますます激しく叫び続けました。
いかがでしょう。こうしたバルティマイの姿は、悩みを持つ私たちに、もう一度、真剣になってイエスさまに向かって訴え続けるように、イエスさまに向かって祈りを捧げるように励ましを与えている姿のように思います。
今日もこうして礼拝に集いました。目に見ることはできませんが、私たちは、ここにご臨在なさる神さまに向かって賛美を捧げ、聖書の言葉と、説教を通して私たちに語りかける神さまに、心の耳を傾けるために集ってきたのです。そして同時に、私たちの心の中にある願い、それも切実な願いを、イエスさまに向けて祈るために集ってきたわけです。
確かに、私たちの捧げる祈りが、すぐに叶えられるかどうか、神さまによって聞かれるかどうかは分かりません。ただ、イエスさまがお教えくださっているように、私たちの側で出来ることがある。それは、熱心に求め続ける、門をたたき続け、探し求め続けることです。そのようにして、私たちの願いを神さまに知っていただくために、訴え続けることだと思うのです。
今日の聖書の箇所を見ますと、そのように訴え続ける時、場合によっては、そこに妨害や障害物が入り込むかもしれない、ということが知らされます。
「そんなに叫んで何になるのだ」という声が、周囲から聞こえて来るかもしれません。また、「教会に通って、また熱心に祈っても、結局、無駄なんじゃないか」とか、「それはあなたの自分勝手な願いでしょ」など。何も言わないでじっと見ている周囲の人々の心の中の声が、彼らの表情や態度を通して、私たちに語りかけてくるように感じてしまうことがあるのではないでしょうか。
私たちの心の中でも、「これは困った時の神頼みではないか。自分の勝手な願いのために、神さまを利用していいのだろうか」とか。本当に様々な声が心に響き、もうそれだけで疲れてしまうことがあります。
聖書が教える信仰とは、いわゆる「ご利益信仰」とは異質のものです。自分の必要をかなえてもらうための信仰ではありません。ただ、私たちが決して忘れてはならないこと、それは、弟子たちが「祈りを教えてください」と頼んだ時に、イエスさまは何と、「日ごとの糧を今日も与えて下さい」と、毎日の必要を祈るように教えてくださったということです。
バルティマイは目が見えないという苦しみの中にありました。ですから、「主よ、憐れんでください」と叫び求め続けたのです。多くの人々が彼を叱りつけ、黙らせようとしました。でも彼は負けません。祈り、訴え続けたのです。するとどうでしょう。イエスさまが立ち止まってくださったのです。
イエスさまはこのバルティマイの訴えに立ち止まって、ご自分の予定を変更してくださったのです。ご自分の時間をバルティマイのために使い、そして、「あの男を呼んで来なさい」と言われたのです。
呼ばれてイエスさまのそばに来た彼に向かって、イエスさまは「何をしてほしいのか」と聴いてくださいます。願い事があるならば、遠慮せず、隠すことをせずに、願うことを残らず話してごらんなさい、と励まし、促す言葉をお掛けになったのです。
バルティマイはそのイエスさまの眼差し、その励ましの言葉に背中を押されるようにして、「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えました。イエスさまは、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言って、彼はたちまち見えるようになったのです。

Ⅲ.「悩みの日にわたしを呼べ」

(詩編50:15、口語訳)
旧約聖書の詩編50編15節は、口語訳聖書では次のようになっています。「悩みの日にわたしを呼べ」。
バルティマイと出会ってくださったイエスさまのお姿がここに現われているのではないでしょうか。そして、神さまのお姿が現れているのではないでしょうか!
聖書は神さまの自己紹介の書です。今日の箇所で、イエスさまを通してご自身を示された神さまとは、まさに「悩みの日にわたしを呼べ」と言われるお方そのものでしょう。聖書が示している、私たちの神さまは、「悩みの時には自分のことを呼んでくれ、私が居ないかのようにして悩み続けるな。悩みの時にはわたしを呼ぶのだ」と、願い求めておられるのです。
時に、私の願いと神さまの願いがずれることがあります。ちょうど、子どもの願いと母親の願いがずれてしまうようにです。
でも、神さまは、聖書の中に神さまの願いをはっきりとあらわしておられます。それは、「悩みの日にわたしを呼べ」ということです。
悩みの日に、悩みの時に、あなたが本当に助けてもらいたいこと、してほしいことを、私に向かって祈れ、と言ってくださるのです。
「わたしを呼ぶ」、つまり、「神さま、主よ」と呼ぶということは、「祈る」ということです。あなたの心の中にある願いを、祈りとして表現しなさい。遠慮しないでいい、あなたの願いを私に向かって祈りなさい、と促しておられるのです。
何故、神さまは「悩みの日にわたしを呼べ」と言い、呼び求める者に、イエスさまが言われたように、「何をしてほしいのか」と、そのままに尋ねてくださるのでしょう。
祈る側の私の方に、その祈りを神さまに聞いていただくたけの資格はありませんし、神さまの側にも私の祈りを聞かなければならない義務もないはずです。それなのに、何故、神さまは、「悩みの日にわたしを呼べ」、「何をしてほしいのか」とわざわざ聴いてくださるのでしょうか?
この問いかけに対する聖書が語る答え、それはただ1つ、神さまが愛のお方だからだ、ということだけです。
神さまは、私たちを愛してくださっている。ご自身の独り子をさえ十字架にかけてくださるほどに、私たちを大切な者と受けとめてくださっている。それ以外に答えが見つからないのです。
ある人が語っていました。愛には理由がない、と。神さまは私たちの天のお父さんです。そのお方が「悩みの日にわたしを呼べ」と言ってくださいます。そして、私たちが本当に助けを必要とする時に、「主よ、わたしを憐れんでください」と呼ぶことが許されているのです。いや、神さまが呼ぶようにと願っておられるというのです。これこそが、神さまの願い、イエスさまの私たちに対する願いなのです。

Ⅳ.あなたの願いを祈りに変えて、主を呼び、主に従う人生

最後に、もう一度、今日の聖書箇所を見たいと思います。彼は「道端」にいたのです。社会が彼に与えていた居場所は、人が歩く道ではなく、その端っこでした。イエスさまを見つけ、道端から立ち上がり、「主よ、憐れんでください」と叫びながら道に立った途端、人々は彼を「道端」に引きずり戻そうとするのです。でもイエスさまは違っていました。社会が押し付けてきた「道端」から、道のど真ん中に招かれました。
人間の願いが、神さまの願いと1つになった時、彼の生き方に変化が起こりました。そして新しい、本当に人間らしい人生が始るのです。
盲目の彼が見えるようになったことそれ自体、大変なことなのですが、回復された目で、彼が何を見るか、それはもっと大切なことかもしれません。
この人は、その目でイエスさまを見たのです。道を進まれるイエスさまをしっかりと見て、そのお方から離れることなく、そのお方に従ったのです。
イエスさまに従う人生には、生きる意味があります。慰めと喜びがあり、使命が与えられます。それは、神さまの願いに応える人生であり、神さまの愛に守られる人生です。
あなたの願いを祈りに変えて、神さまに呼びかける人生を歩んでください。そしてイエスさまの歩かれる同じ道の上を、イエスさまに従って歩む人生を進んでください。
それが愛と恵みの神さまに良くしていただいた私たちに対する「神からの願い/神の願い」なのです。お祈りいたします。

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選ばれた人生を生きる

2016年10月16日
秋の歓迎礼拝
松本雅弘牧師
創世記13章8~18節
ヨハネによる福音書15章16節

Ⅰ.はじめに

私たちは毎日の生活の中で何かを選びながら生きています。そして選んだ結果、幸せな歩みとなったり、逆に困難に直面することも起こります。またもう一方で、自分で選んだのではない様々な条件や環境の下で生きていかなければならない現実もあります。

Ⅱ.アブラムとロト

ある時、アブラムは神さまから「わたしが示す地に行きなさい」と言われました。アブラムはその導きに従って旅立ち、カナンの地にやってきました。甥のロトも一緒でした。
アブラムも、そしてロトも、2人とも神さまによって「与えられた旅」を歩んできたのです。ところが突如、彼らの前に別れ道が出現します。その結果、ロトはロトなりに行く道を選び、アブラムは神の与えて下さった土地に留まるのです。

Ⅲ.ロト的な生き方

ロトは、神さまが「わたしが示す地」と言って与えて下さった土地ではない方を選び取りました。では、この後、2人はどうなったのでしょうか。
今日与えられた聖書個所、創世記13章の場面で、ロトは神さまが彼らのためにと用意された土地を捨て、自分の判断で別の土地に移って行ったことが記されています。
ロトは、カナンの土地が神さまによって示されていた土地であることを知っていました。ところが、創世記12章を読みますと、彼らは、そのカナンの土地にいたばかりに、ある時、飢饉を経験しました。つまり、神さまが与えられた土地であるにもかかわらず、そこで不都合な目に遭ったのです。
ですから、彼は考えました。飢饉に備えて、もっと水場に近い地域に居を移したほうが安心なのではないか、と。
その結果として彼は、神さまが彼に与えた土地を捨て、別のところに移り住むことになったのです。勿論ロトにはロトなりの理由がありました。しかし神さま抜きで、自分の判断を頼りにして、常に良い方を、良い方をと選びながら生きる生き方が最終的には行き詰り、破綻していくことを、この後、創世記は伝えていきます。

Ⅳ.選ばれた人生を生きる―アブラム的生き方

さて、一方アブラムはどうしたでしょうか? 彼にも紆余曲折がありました。しかし、最終的に神さまが示されたカナンの土地に最後まで留まっていきました。
アブラムが選んだ土地は、見方によればロトが捨てた残り物です。しかし、アブラムは世間の基準を超えて、神さまとの関係の中で捉えていくようにしました。つまり、最善を願う神さまが私や家族のためにと準備してくださった土地こそ、本当の意味で祝福された土地なのだ。アブラムはそのことを前提に歩みを進めて行ったのです。
先日、アップル社を立ち上げたスティーヴ・ジョブズの生涯を扱う番組がありました。その中で、彼は多くの大学生を前に、「ひとの人生を生きる暇なんかない。そんな暇があったら、自分の人生を受け取り直し、自分の人生を生きようではないか」というような意味の言葉を語っていました。若い人はスティーヴ・ジョブズにあこがれるでしょう。でも、彼は世界でたった一人なのです。もし私たちが自分の人生を生きずに、一生懸命、スティーヴ・ジョブズのようになろう、彼の生き方をなぞるように生きよう、としても、神さまは、私がスティーヴ・ジョブズのクローンになることを願ってはおられません。私が私であることを願っておられるのです。
洗礼・入会準備会の中で時々、次のようなお話しをしています。「リンゴとナシ、どちらが凄い?」と質問されたら、訊かれた方は一瞬戸惑うことでしょう。勿論、「リンゴとナシ、どちらが好きですか?」なら、「リンゴが好きです」とか、「私はナシの方がいいな」と言えるかもしれません。でも、「リンゴとナシ、どちらが凄い?」と質問されたら困るわけです。
神さまがリンゴに期待していることは、リンゴがナシのようになることではないのです。ナシに願っていることは、リンゴのようなナシになることではありません。リンゴは見事なリンゴになればいい。ナシもそうです。本当にナシらしい、ナシになればいいわけです。このことは私に対しても全く同じです。
聖書に戻ります。神がアブラムのために、と与えて下さった土地であることを受け止め、アブラムはそこに留まる決意をしました。
自分に選ぶ機会が与えられた時に、神が、私にと与えて下さった人生を、私の方も責任をもって選び取り直して生きるという生き方があるのです。神が与えて下さった道を、私も選び取って生きる生き方がある、聖書が示している生き方とは、そうした生き方です。まさに「与えられた人生を選ぶ」という生き方、自分の人生を引き受ける生き方ですね。
いかがでしょう。私たちの周囲を見渡しますと、激しい競争があります。人よりも抜きん出ることが求められる社会です。謙遜さとか誠実さとかは、問題にされないようなことも起こっているかもしれません。良い方、得な方、利益になる方を常に優先して選び続ける、まさに先ほどご一緒に見たような、「ロト的な選択」が称賛され、そうした選択をする人が得をするかもしれません。でも、もっと本当の、自分自身の人生があるのではないでしょうか。大きな繁栄、経済的な豊かさを追求するあまり、神さまが私のためにと与えて下さっている特別な、私だけの人生を捨てて、「一か八か」の競争の中に身を投じるという「ロト的な生き方」ではない生き方が。
神さまが与えて下さっている、その人なりのユニークな人生を、自分の方から選び取る生き方があるのだと、そのことを創世記は私たちに説いているように思います。
アブラムはロトが捨てた方の土地を受け取りました。何故でしょう? それは、神さまがアブラムに与えて下さった、特別な土地だったからです。神さまは、その直後のアブラムに本当に興味深い言葉をお与えになっています。創世記13章の14節から17節をご覧ください。
「主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。『さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。』」
これは、どういうことでしょうか。これはロトに代表される世間の目ではなく、神さまを信頼する目で、もう一度、選び取り直した場所、自分の生き方、自分の人生を見渡しなさい、というご命令です。神さまを信頼する者の足取りで、もう一度、あなた自身の人生を歩き直して御覧なさい、という導きです。
一見して取り残されたように見える人生、何か損をしているように見えてしまう歩みの背後に、実は、神さまの特別な選びの真実、また神さまの愛がある。それを決して見失わないように、という導きの言葉です。
ですから、アブラムはどうしたでしょう。彼はそこに「主のために祭壇を築いた」と書かれています。祭壇とは礼拝する場所です。そうです。礼拝の生活です。
確かにアブラムにとって、表面的な意味での、環境の好転はなかったかもしれません。でも、神さまが、この状況の中でどう働いてくださるのか、神様の前に静まることを通してそのことに気づき、神さまの真実な愛に触れる経験となったことでしょう。
今日、もう1つ、聖書の言葉を読ませていただきました。新約聖書のヨハネによる福音書 15章16節の御言葉です。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、……わたしがあなたがたを任命したのである。」
イエスさまは、私たちに人生を与えて下さっています。人生そのものを与えて下さったそのお方と共に生きる人生です。私の方からも人生を受け取り直して生きていく。そうした生き方へと、聖書は私たちを招いているのです。
こういう人生が、どこか他に見られるでしょうか。教会にはこういう人生があると思います。ご一緒に、神さまが与えて下さった人生を、私たちも選んで生きていきたいのです。そのことを通して、神さまの素晴らしさを味わい、証ししていきたいと願います。お祈りします。

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ファミリーチャペル 主日共同の礼拝説教 歓迎礼拝

ほめられることから来る力


2016年10月9日
ファミリーチャペル
松本雅弘牧師
マルコによる福音書10章13~16節

Ⅰ.生きる上で必要な、7つの基本的ニーズ

今日はファミリーチャペルです。この礼拝では、子育てのこと、家族関係のこと、夫婦のことなどを取り上げながらお話しています。
今年の4月からは、私たちが人として健やかに成長していく上で、何らかの仕方で満たされる必要のある7つの基本的要素があることを学んできました。
その7つとは、①大切な存在であることを知らせること/②安心感をもたせること/③受けいれること/④愛すること、愛されること/⑤ほめること/⑥しつけること/⑦神を教えること、です。
こうした基本的な必要が満たされない時に人は、心の内側に不安が募り、それを不健全な仕方で満たそうとします。その結果、さまざまな問題が生じるのだと言われます。
今日はその5つ目、「ほめること」について考えてみたいと思います。

Ⅱ.親たちに共通する過ちの1つ―子どもをほめないこと

ある心理学者が語っていました。私たち多くの親たちに共通する大きな過ちは、自分の子どもをほめないことだというのです。確かに、私たち自身の子ども時代を振り返ってもそのとおりではないでしょうか。何か失敗をすれば必ずと言ってよいほど叱られましたが、それに比較してほめられる経験は、意外に少なかったように思います。
アメリカで、母親が毎日の生活の中で、肯定的な言葉と否定的な言葉を子どもたちにどれくらいかけたか、という調査をしたところ、何と、否定的な言葉かけが、肯定的な言葉かけのおよそ 10倍であったという結果が出たそうです。そして、この調査を分析した学者によると、子どもにかけた1つの否定的な言葉の埋め合わせをするためには、4つの肯定的な言葉かけが必要だ、という結論が導きだされたというのです。
自分が認められていない、お母さんやお父さんに認めて貰えていない、そのように感じると、子どもは、そうした大人たちからの称賛を得るために、時に、奇をてらう行動に出ることがあります。場合によっては、本当に痛ましい行動へと駆り立てられてしまうということも起こるのです。

Ⅲ.イエスさまの子どもへの対応の仕方

今日はマルコによる福音書10章16節の御言葉をお読みしました。「そして、子どもたちを抱き上げ、手を置いて、祝福された。」
これは、みどり幼稚園の保育において、とても大切にしている言葉です。その理由はイエスさまが身をもって教えてくださった、子どもとの接し方、子育ての基本が説かれているからです。
ここには、子どもたちに対するイエスさまの接し方、その様子を表す3つの動詞が出てきます。「抱き上げる」、「手を置く」、「祝福する」ということです。
これは表現を換えれば、「イエスは子どもたちを愛された」、「子どものニーズに応えてくださった」ということで、その具体的表現が、抱き上げ、手を置き、祝福された、ということでしょう。
これは子育ての基本だと思います。「抱き上げる」とはスキンシップのことですね。子どもたちはスキンシップが大好きです。2つ目の「手を置く」とは、別の言葉で表現したら、「祈る」ということです。そして最後3つ目は、「祝福する」ということ。これはある意味で、教会特有の用語かもしれませんが、意味はその子の存在をほめることです。
こんな話がありました。毎日、お風呂にも入らず汗臭く、あまり清潔でない身体で登校する女の子がいたそうです。担任の先生は、この女の子が、手足が汚くてもそのままにしていることに気付き、この子の心を傷つけないように、ある時、こう言ったのだそうです。「あなた、ほんとうに綺麗な手をしているわね。洗面所で洗って来て、あなたの手がどんなに綺麗か、みんなに見せてあげたら?」と。
今まで、家族からそんな言葉かけを一度も聞いたことのなかった、いや、ほとんど家族に相手にされていなかったこの子は、先生から「あなた、ほんとうに綺麗な手をしているわね」と言われたことが、あまりにも驚きで、しかも嬉しかったのでしょう。すぐに手を洗いに行き、嬉しそうに戻って来て、誇らしげに両手を挙げてみんなに見せたそうです。先生もすかさず、「まあ、ほんとうに綺麗。ちょっとの石鹸と水で見違えるようになったわ」と言って、その子をギュッと抱きしめたそうです。スキンシップしたのです。
この出来事があってから、この子は少しずつ変わっていきました。大きな変化は、お風呂に入るようになり、自分の体を清潔に保つようになってきました。言い換えれば、自分を大切にしていくようになったのです。そして学校の中でも周囲から一目置かれる存在に変わっていきました。
何がこの子を変えたのでしょうか? 答えは簡単です。ほめられたから…です。いかがでしょう? 逆に「駄目だ、駄目だ」と言われて大きくなると、自分を粗末にする子になります。何故でしょうか? それは、自分を大切な存在と思えないからです。どうせ自分なんか大事じゃないと、周囲から刷り込まれた物語をそのまま信じると、そうなってしまうのです。
ところが、身近な家族から毎日「駄目だし」をされて育った子が、逆に、とても「良い子」になる場合もあるのです。どうしてかと申しますと、母親、父親からの承認を得ようと一生懸命になり、大人の顔色を伺い「良い子」を演じ続けることしか、強烈な「駄目だし」を封じ込める方法が見つからないからです。こうした頑張りは「背伸び」をした行動ですから、必ず疲れ、プツンと切れてしまうのは時間の問題でしょう。
聖書の言葉に戻ります。ここで、イエスさまは子どもたちを祝福されました。つまり、ほめたのです。聖書によれば、元々、私たちは尊く、かけ替えのない存在として造られています。だからこそイエスさまはほめたのです。ほめられた子どもは嬉しかったと思います。イエスさまからほめられ、承認されましたから、自分をそのような者として受けとめるきっかけが出来たことだと思います。言い換えれば、そのままの姿で自分を受容できるようになるのです。
イエスさまが子どもたちに対してなさった3つの動作、「抱き上げ」、「手を置いて祈り」、そして「存在を祝福し、ほめること」。子どもたちが人として健やかに成長していく上での大切な基本的な要素であることを、そして、子どもたちに対する私たち大人たちの姿勢であることを教えられます。

Ⅳ.ほめられることから来る力

幼稚園のカウンセラーの大西百合子先生とお話をした時、十数年前に天に召されたお連れ合いのことを、「彼はかっこよかった!」と、本当に自然な言い方でおっしゃるのです。感動しました。その場にいた妻も同じことを感じたようで、帰りの車で2人になった時に、「お父さんも、かっこいいよ!」と言ってくれたのです。普段言われ馴れていないので、照れくさく変な感じなのですが、でも嫌な気はしません。すると本当に不思議なのですが、私の心も大らかになり、妻の良さに目が留まる余裕が出て来ました。
私たちは人にほめてもらうから、人をほめることができる。逆に人からほめてもらえないと、人をほめることが本当に難しいのです。私たちは、「おはよう」と気持ちよく声を掛けてもらうと、「オハヨウ」と返すことができるようになります。
でも、ここで問題があります。それは、私たちの力には限界があるということです。つまり、こちらに余裕のない時には、相手をほめることが難しいのです。ではどうしたらよいのでしょうか。
誰かから「ビタミン愛」を補給してもらう必要があります。それが神さまの愛なのです。
今日、礼拝のはじまりのところで、司式の長老が読み上げてくださった聖書の言葉がそのことを教えています。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」(ヨハネの手紙一 4:19)
聖書は、誰よりも先にまず神さまが、ありのままのあなたを愛してくださっている、と伝えています。誰よりもまず神さまが、私たちをほめてくださっているのです。イエスさまがそうしてくださっています。あなたに向かって「大丈夫、あなたを愛している」と言っておられます。「あなたの髪の毛の数さえ数え」るほどにあなたを大切に思っている。
「あなたはあなたでいい!」と肯定してくださっているのです。それが少しずつ分かって来ると、子どもたちや他の人に向かってそうできるのです。本当に不思議です。
秋の歓迎礼拝が始まりました。聖書を通して語りかけてくださる神さまのご愛に耳を傾けながら、その同じ語りかけをもって、子どもたちや周りの人たちと接していきたいと思います。お祈りします。

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人生の歩き方


2016年4月24日 夕礼拝
和田一郎伝道師
ルカによる福音書19章1~10節

Ⅰ.徴税人という生き方

イエス様はエルサレムの都へ向かって旅をしていました。途中、エリコという町を通られました。エリコの町にはザアカイという男が住んでいました。ザアカイという名前の意味は「清い」とか「正しい」という意味です。彼の仕事は徴税人で少し特殊な仕事でした。ローマ帝国は、植民地であるユダヤから税金を徴収するのに、同じユダヤ人に税金を集めさせて、ローマに納めさせました。徴税人は、同じユダヤ人から税金を集めるために、威張ったり、脅したりして集めては、自分の懐に分け前を取ってローマに納めていました。ローマ帝国の手先となってお金を巻き上げる裏切り者、売国奴と見られていました。
どうして親がザアカイという「清い、正しい」という名前にしたのに、このような人生になってしまったのでしょうか? 3節を見ると、背が低かったとあります。しかも群衆に遮られたとありますから、意地悪もあったのでしょう。子どもの頃からコンプレックスを持っていたのかもしれません。「いつか見返してやる」そんな思いで、お金を稼ぐことに邁進して稼ぐためなら何したって構わない。人を裏切ろうが嫌われようが、結局この世は金なんだ。そんな思いで生きていました。そして財産の面では優越感に浸れました。
しかし、ザアカイには虚しさがあったのです。  3節に「イエスがどんな人か見ようとした」とあります。本当に満足していれば、イエス様を見たいなんて思わなかったでしょう。人より稼いでいれば優越感に浸れると思ったけど、そうではなかったのです。なんでも貧しい人間の所へ行って病気を治したり、困っている人を助けたりしているらしい。本来なら、そんな金儲けにもならないことに関心を持つような、ザアカイではなかったでしょう。しかし、気になったのですね。イエスという男はどんな人なのだ? なぜ気になったのか?「もしかしたら、こんな俺でも変えてくれるかもしれない」

Ⅱ.自分を変えてくれる人と出会う

通りに行くと、イエス様を一目見ようと人でいっぱいでした。このままじゃイエス様を見る事ができない。ザアカイが来ても、譲ってくれる人なんかいないわけです。そこで、ザアカイは近くにあった、いちじく桑の木を見てその木に登りはじめました。木の上からみんなを見下ろして、優越感さえあったかもしれません。「ほら見ろ、お前たちとは違うんだ、こっちの方がよく見える」という優越感。ここにもザアカイの生き方がよく出ています。ザアカイは優越感をもっている。一方で、周りは「なんだアイツ」と冷めています。このザアカイに見られるように、優越感は劣等感の裏返しです。常に人よりも上にいないと、落ち着かないのです。言うなれば、ありのままの自分を受け入れられない、そのままの自分を愛せない、そんな生き方をしてきた姿が、木に登ったザアカイから見ることが出来ます。
木の上の桑の葉のあいだから遠巻きに眺めていると、イエス様が突然とまって、木の上のザアカイを見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。」と言いました。神様が「私はあなたの名を呼ぶ」と言ったら、それは特別な招きです。「私はあなたのありのままを知っている。そしてあなたを受け入れる。」そんな意味があるのです。神様に指名された偉大な預言者や王たちも、名前を呼ばれ、受け入れて偉大な働きをしてきました。ザアカイが自分の名前を呼ばれて思い出したのは、オレの名前は「清い」という名のザアカイだった。降りて来なさいと言った言葉は、「あなたはその名を、取り戻しなさい」と受け取りました。そして続く言葉にさらに驚きます。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」とイエス様は言ったのです。ユダヤ人の社会では、目上の人からその家に泊まろうと言われれば、食事以上にゆっくり話しあって、特別な信頼関係を持とう、という意味が込められています。ザアカイは、急いで、木から降りていきました。

Ⅲ.イエス様を受け入れる

イエス様は、ザアカイが徴税人として、人を脅したりしてお金を取っていたことなども知っていましたが、その事は一切口にしていません。一方、ザアカイも、自分の家に招くわけですから、包み隠さずさらけ出したわけです。ありのままの日常の姿をさらけ出して、イエス様を受け入れたのです。
 これを見ていた人たちは噂しました。「イエス様は、よりによって、あの徴税人の家に泊まりにいった。だったらイエス様を信じるのをやめよう」と噂する人もいたのです。イエス様自身の評判を落とす事にもなったのです。しかし、そんなことも気にせずにイエス様は、たった一人の罪深い男、みんなから見下されて生きて来た一人の人の所に、あえて、来て下さった。イエス様を家に招いて、イエス様と過ごして、ザアカイは変わっていきました。8節「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。」それまでは、貧しい人から巻き上げる事だってしてきた。お金に囚われた、お金の奴隷でした。それが180度変えられました。続いて、「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」とまで言いました。ここで、ザアカイは自分の罪を認めているのです。税金をただ集める、徴収係だけでなくて、私は人を騙していました。そんな、自分のありのままの罪を、認めるまでになっていました。
なぜ、変えられたのでしょうか? もっと自分を変えたいと思うのは誰でも思います。この中でザアカイがしたことは、イエス様を受け入れた、ただそれだけです。「どうぞお入りください。」自分の、ありのままをさらけだして迎えた。イエス様を受け入れたたことで、変化が起こったのです。

この変えられたザアカイを見て、イエス様は9節でこう言います。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」神様はアブラハムに約束をしたのです。「地上の人々はすべて/あなたによって祝福に入る」という希望です。でも、ザアカイは、ユダヤ人の抱く希望なんて捨てていたのです。神様に祝福される人生なんて諦めていたのです。しかし、今日、救いが訪れた。ザアカイは諦めていたけど、イエス様の方では諦めていないのです。10節「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
イエス様は初めから、ザアカイと会う計画をしていたと話しました。神に背を向けて歩む人を、聖書では、「失われた人」と言います。「迷い子」とも言います。ザアカイのような、迷い子を探して下さるのがイエス様です。「迷い子」ですから、探す人がいないと戻って来れない人なんです。自分で自分は変えられない。わたしたちは変えてくれる人が来ないと、変われません。イエス様は、失われた者を、捜して救うために来たのです。
イエス様は「そういう事になっている」と言うのです。なぜか? みなさんが生まれる前から、捜しに来るというこの計画を、神様がされていたからです。その時、人生の歩み方が変わるか、変わらないか。その違いは「どうぞお入りください」・・・イエス様を受け入れるかどうか。それだけです。

Ⅳ.その後の人生の歩き方

10節でこの話しは終わっていますが、この後ザアカイはどうなったんでしょうか?
もう、徴税人の仕事など辞めて、イエス様の弟子になったのでしょうか? そうではないでしょう。ザアカイは、そのまま徴税人の仕事を続けた。財産の全部ではなくて、半分を施して、半分は残したのです。私たちも神様に従って生きて行こうと思った時、牧師や宣教師などの働きにでることが全てではありません。ある人はサラリーマン、またある人はパートや施設で働いている人、家の家事を担っている人、介護の世話をしている人、それぞれ持ち場があります。その与えられた持ち場で、祝福を分け与える拠点となって用いられていくのです。神様に用いられる人になって、祝福の源として生きる人生。自分が活かされて、周りを活かす人生になっていく。私たちの生きがいというのは、自分の持ち場で、神様に用いられている、というところに本当の生きがい、喜びがあります。
イエス・キリストは、十字架に架かり、死なれる、という形で、わたしたちに愛を示してくださいました。そして、復活して今も生きておられます。ここに、神様に招かれなかった人は、一人もいません。イエス様は今日、すべての人に対して、「疲れている人、重い荷物を負っている人は、わたしの所に来なさい。わたしがあなたを休ませてあげよう」と、一人一人を呼んで下さっています。

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あまりにも真面目すぎて


2016年4月24日 春の歓迎礼拝
松本雅弘牧師
ルカによる福音書15章25~32節

Ⅰ.弟息子の帰還

 今年の春の歓迎礼拝ではルカによる福音書15章の「放蕩息子のたとえ話」をご一緒に読んでいます。先週は父親の遺産を持って出て行った弟息子が、お金を使い果たし、どん底まで落ちたところで父親のことを思い出し、悔い改めて戻って来たお話しでした。父親は息子が帰ってきたことを本当に喜び、その喜びを、皆で分かち合おうと宴会まで催すわけです。
そこに仕事から帰ってきたのが、今日の主人公の兄息子でした。今日は、この兄息子にスポットライトを当ててみたいと思います。

Ⅱ.兄息子の不満

 兄息子は弟の帰還を祝う宴の最中に帰って来たようです。家の近くまで来ると普段と様子が違います。ところで、ここを読んだ時に、1つ不思議に思うことがあります。兄息子は家の近くで音楽や踊りのざわめきを耳にするまで何も知らなかったということです。
確かに、弟は前触れもなく突然帰って来ました。でも、たとえそうであっても祝宴が始まる時には誰かが兄を呼びに行ってもいいはずです。ところが誰もそうしていませんし、事実、兄は弟の帰還の事実を全く知りませんでした。
話を戻しますが、家の近くまで来ますと普段と様子が違っていて、「音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた」と、このたとえ話は語ります。聖書によれば、このお兄さんは、賑わいの原因を知らないだけでなく、わざわざ僕(しもべ)を家の外まで呼び寄せて問いたださなければ、何が起こっているのか、知ることが出来なかったようです。
問われた僕は出来事の成り行きを、かいつまんで説明しました。説明し始めた僕は、弟息子の帰還を喜んでもらえると思って兄息子に報告したのだと思います。ところが僕がひと言、「弟さんが帰って来られました」と言った途端に兄の顔色がサァーと変化したのです。気遣いの行き届く僕は普段から弟に対して良い感情を持っていない「兄の性格」を思い出し、すぐに声のトーンを落として、「無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです」と、「事実」だけを報告したのです。
するとどうでしょう。これを聞いた兄息子は怒って家に入ろうとしません。自分の殻に閉じこもってしまい、そのようにして無言の抗議を父親に対してしたわけです。
私はこのたとえ話を読むたびに、弟息子よりもこのお兄さんの方に共感を覚える自分を発見します。正直、このお兄さんが気の毒に思います。これまでの経緯を知っている者にとって、この時の「お祝い」は、弟にとっては、全くふさわしくないものでした。弟の今後のことを考えても、決してふさわしいことだとは思えないからです。弟息子は父親に反抗して自ら墓穴を掘ったのです。まさに自業自得です。
当時のユダヤ教からすれば法律違反を犯したわけですから、それなりの償いがあって初めて迎えられるべきであって、祝宴どころの騒ぎではないのです。
ところがどうでしょう? 子どもの前で正しく義なる存在でなければならないはずのユダヤの父親なのに、身上を食いつぶして帰って来た息子を、懲らしめもせずに迎え入れ、責任も取らせずに祝宴を設けているのです。父親の神経を疑いたくなる。それが、この時の兄息子の心境だったのではないかと思います。
兄は言いました。「あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」。この言葉には、この時のお兄さんの収まらない怒りが現れています。注意して読めば、お兄さんは「自分の弟」の事を「わたしの弟」とは言っていません。「あなたの・あの息子」と呼んでいます。口が裂けても「わたしの弟」とは言いたくなかった。自分とは全く関係の無いように、人を突き放すような言い方をしています。父親に対する怒りと、弟に対する軽蔑が込められています。
もう1つ、「娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来る」という言葉を見ると、兄の弟に対する憎しみの大きさが、もっと伝わって来るように思います。弟が、娼婦と一緒にいたかどうか、この時のお兄さんは知っていたのでしょうか? 確かに13節からすれば、そうだったかも知れません。しかし、これは一方的な兄の邪推であり、決めつけでしょう。実際に見ても聞いてもいないわけですから。弟の帰還を認めようとしない、いや、認めたくないという、弟に心を閉ざしている兄息子の気持ちが、このように言葉の端々に現れてくるのです。

Ⅲ.父親の愛情

 では、このようなお兄さんに対する父親の振る舞いに注目したいと思います。第1に、父親はまたもや家の外に出てこなければならなかったということです。父親はつい先ほどまで、来る日も来る日も弟息子が家出して行った方角を眺めては、彼の帰りを待っていました。弟のために何度も、いや何百回、何千回と父親は外に出たのです。そして今、どうでしょう。物凄い勢いで憤る兄息子の言葉の前で、祝宴どころではない、愛する「もう一人の息子」のために、ふたたび戸惑い、苦しむ父親が家の外に立っています。
第2に、父親は怒り狂う兄息子に対して、「子よ」と語りかけている点に注意したいと思います。「放蕩息子」と呼ばれる弟息子に対して父親は変わらずに「お父さん」であり続けました。それと全く同じように、嫉妬と怒りで荒れ狂う兄に対しても同様に「お父さん」であり続けているのです。
ちょうど、無くなった銀貨1枚を必死になって捜し求めた女性の手の中に同じく尊い9枚の残りの銀貨が握られていたように、怒りの納まらない兄息子もまた、この父親とっては愛する息子、大切な宝のような存在なのです。ですから、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに見つかったのだ」と語りかけているのです。
「あなたの・あの息子」と吐き捨てるように言った兄息子の言葉に父親は深く傷ついたことだと思います。でも怒りゆえに烈しい言葉を発してしまった兄息子に対して「お前の・あの弟」と優しく投げ返しています。自分の方から関係を絶ち、殻に閉じこもろうとする兄息子をなだめるために、必死になって外に飛び出す父親の姿は、まさに、弟を遠くから見つけて走り寄った、あの時の真剣な父親の姿と重ならないでしょうか。
 そして第3に、父親の最後の言葉に注目したいと思うのです。「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」
この父親の言葉は、私たちと共に在ること、私たちの存在自体を喜びとされる神さまの恵みを、何物にも勝って告げているのではないでしょうか。

Ⅳ.あまりにも真面目すぎて―もう一人の放蕩息子

私たちはここで大切な事実に目が開かれます。それは常に父親の近くにいたはずの兄息子の方が、もしかしたら遠い国に出かけて行った弟息子よりもはるかに遠く離れていたのかもしれないということです。実は、兄息子も「もう一人の放蕩息子」だったという事実です。
思い出していただきたいのですが、このたとえを聞いていた人々はファリサイ派の人々や律法学者たちです。ここで「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」という兄息子の言葉が紹介されていますが、これはまさに、彼らファリサイ人、律法学者の「自信」を表す発言とダブって聞こえます。
でも現実はどうでしょう。ファリサイ派の人々も律法学者たちも、人のことはとやかく言うのですが本当の意味で自分自身の心の中に喜びや満足、平安がなかったのではないでしょうか。
彼らは本当に真面目だったと思います。でも、そうした生き方を保つために、困難な事、責任を負うべきことを遠ざけ、間違いのないような手堅い所だけを行う生き方を選びとっていきました。
人の目を気にし、徴税人や罪人と言われていた人々に近づかない。何故でしょう? 汚れた者と言われたくないからです。彼らの表面的には品行方正な生き方は、神さまに対する愛、隣人に対する愛からではなく、「世間が自分をどう見ているか」という恐れから来るものでした。後ろ指をさされないように、人から批判されないように。つまり真に畏れるべきお方を畏れない結果、神さまでも何でもない、人々の目を気にする生き方しかできなくなっていたのです。
私たちはどうでしょう? これまで読んできた3つのたとえ話に当てはめるならば、安全な場所に残された99匹の羊、女性の手の中にある9枚の銀貨、そして今日の兄息子かもしれません。
洗礼を受け礼拝には来ていますが、いつしか心に喜びを失い、信仰生活が義務のようにしか思えなくなり、心の中が怒りや憤り、不平不満で満ちているとするならば、まさしく私たち自身がこの時の兄息子なのかもしれません。一見正しく立派に見える兄息子も、実は父親から遠く離れていた、もう1人の放蕩息子だったのです。
この後、兄息子がお父さんの招きに応じて家の中に入ったのかどうか、それは分かりませんが、私たちは、「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」という招きに応え、ぜひ神さまのふところに飛び込んで行きたいと思うのです。お祈りします。