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主日共同の礼拝説教 歓迎礼拝

決してあきらめない


2016年4月17日
春の歓迎礼拝
松本雅弘牧師
ルカによる福音書15章11~24節

Ⅰ.はじめに

 今日、お読みした聖書箇所に付けられた新共同訳聖書の小見出しには「放蕩息子のたとえ」と書かれています。でもこの話を注意深く読んでみますと、単に「放蕩息子」と呼ばれる弟息子の物語ではなくて、むしろその息子の父親の物語であり、その父親によってたとえられる神さまの愛についての物語であると思います。では、さっそく今日のたとえ話を詳しく見ていきましょう。

Ⅱ.息子を思い続ける父親

 たとえ話の最初を見ると、弟息子が父親の元気なうちに遺産を分けて欲しいと願い出たことを伝えています。「遺産」ですから、普通は父親の死後に相続されるものです。
この時代のユダヤの法律では、父親が元気なうちは、子どもは、財産について一切権利主張をすることは許されないと定められていましたから、見方によればこの息子は法律違反を犯していることになります。
 こうした息子の要求に対して、ここに登場する父親はその要求通りに財産を分けてやってしまうのです。そして財産を譲り受けた息子はすぐにそれを換金し、お金だけが物を言う「遠い国」に行ってしまったのです。
残された父親は何を考えたでしょうか。きっと後悔したのではないでしょうか。財産を要求されても、頑とした態度でそれを許さなければ、息子を失わなくて済んだのではないだろうか。あの場面で、息子にこう言っておけばよかった、ああすればよかった、と悔やんだと思います。しかし、このたとえ話のお父さんは全く動こうとしていないのです。
なぜ、ここまでなすがままにさせておくのでしょうか? 
私はそのところに父親の苦しみがあったのではないかと思います。親なら誰もが多少の経験を持つのではないでしょうか。「気持ちの無い」息子を力ずくで連れかえって来たとしても、すでに息子の心は父親から遠く離れてしまっている。ですから、きっと、また出て行ってしまうでしょう。父親には、どうすることもできないことが分かっていたのです。
子どもに対して、すべての権限を持つはずのユダヤの父親です。その父親が、息子と心通わせる事が出来ずに、無力さの中に立ち尽くしている状態が、この時のお父さんの姿だったのです。
父親としては、息子の心に向かって叫び続けることしかできない、メッセージを送り続けることしかできないのです。
本当にやるせないほどの激しい苛立ち、悲しみ、そして身を焦がすような苦しみがあったように思います。これがこの時のお父さんの心だったのではないでしょうか。

Ⅲ.放蕩息子の悔い改め

 次に息子の方に目を移してみたいと思います。彼は何もかも使い果たしてしまいます。実際、彼はどん底に落ちてしまいました。ところが、そんな中、本当に幸いなことですが、彼は「我に返った」のです。
彼は「祝福に満ちた父親の家を思い起こすこと」によって我に返ったのです。このことは私たちに大切なことを教えています。
貧しさや悲しみが人間を神さまに立ち返らせるのではない。時として、それは人の心をもっと頑なにさせたりするでしょう。けれども、この息子は、落ちぶれ果て、どん底の状態にあっても、そこで父親のことを思い出せたのです。そして、この時、彼は初めて悔い改めることができました。つまり方向転換をして父の元に帰る心へと導かれていったというのです。
 もう一度、父親にスポットライトを当ててみましょう。息子がどん底まで落ち、父親を思い出して悔い改めを決意した時、父親の方はどうしていたでしょうか。聖書には、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけ」た、と出て来ます。
私はこの言葉を読むたびに感動を覚えるのです。このお父さんは息子が家を出て行った日からこの時まで、息子の帰りを信じ、家出して行った方角をいつも見ていたのだと思います。来る日も来る日も外に立っていました。
今、「私は、この言葉を読むたびに感動を覚える」と申しましたが、何が私に感動を与えるかと言えば、息子が父親のことを思い出す、それより前に、実は、息子のことを一時も忘れることのない父親がいたのです。父親は、どうしようもない息子のことをいつも思い続けていたというのです。
あなたに対して、神さまはこのようなお方なのですよと、この時、イエスさまは教えてくださったのです。

Ⅳ.決してあきらめず、思い続けてくださるお方

私たちが自分をどのような者として受け止めているか、このことが私たちの生き方と大きく関係していると言われます。いわゆる、専門の言葉で「アイデンティティー」ということですが、これはとても大切なことです。
私が、神さまをどのようなお方として信じているか。そして同時に、私自身が、神さまからどのような者として知られているか。このことを心の深いところで、しっかりと受け止めることによって、私たちの生き方は確実に変わるのです。
こんな話がありました。アメリカのアリゾナ州フェニックスという町で、1つのセミナーが行われました。その集会には、大きな会社の経営者が800人あまり参加していました。講師は、有名な人間関係学の専門家であり、ビジネス書『ソロモン王の箴言』の著者であるゲリー・スモーリーでした。
彼は、バイオリンを手にとって皆に見せました。それはとても古く、ネックの部分が折れていて、弦がぶら下がっている、ひどいバイオリンでした。
スモーリーはそのバイオリンを、皆が見えるように、高く掲げ、そして聴衆に向かって「このバイオリン、いくらすると思いますか?」と尋ねたそうです。
 そうしましたら、そこにいた経営者たちのほとんどは、笑いながら、「せいぜい2~3千円でしょう」と答えました。
その時、スモーリーは、バイオリンの内側を覗き込み、そこに書かれている文字を大きな声で読み上げました。「1723年アントニオ・ストラディバリウス」
「アントニオ・ストラディバリウスのバイオリン」は、現在、世界に600本程しか残っておらず、値段は3億円から高いものですと30億円もするそうです。
聴衆が、そのバイオリンの価値に気づいた後で、スモーリーは、改めてそのバイオリンを取り上げ、最前列に座っているセミナー参加者に手渡しました。そのバイオリンを手にした人、そしてまた、それを見ていた人も、その価値を知りましたから、周囲の人々は息を呑んで見守り、手渡された人は、本当に大事に宝物を扱うようにしながら、そのバイオリンをまじまじと眺めたそうです。そのバイオリン自体は何も変化しなかったにもかかわらず、です。
いかがでしょう。私たちの周りの人たちが、私たちを見て、色々なことを言うかもしれません。「せいぜい、2、3千円くらいの価値でしょう」とか・・・。
でも、それは私たちの本当の価値を知らない者が言うことです。でも神さまは違います。神さまは、あなたを御覧になって、「あなたは高価で貴い。私はあなたを愛している」と語ってくださるのです。それだからこそ、今日のたとえ話に出てきた父親のように、息子の帰りを待ち続けてくださるのです。
バイオリンの本当の価値に気づいた時、セミナーに参加した人々の、その扱いが変わったように、私たちも、そこまでしてこの私を捜し続けてくださる神さまを知る時に、自分自身の見方が、それまでとはまったく違ったものになるのです。
神さまは、皆さんを捜しておられます。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(ヨハネ黙示録3:20)と言われます。
私たちの心には扉があるのです。でも、内側にしか「取っ手」がついていません。イエスさまは外に立って、私の心の扉をトントン、トントンと、叩いておられるのです。
私たちの意志を無視して、強引に力ずくで入ることはなさいません。私たちの人格を、私たちの心を大切にしておられるからです。
でも、その声に気づいて戸を開ける時、そのお方は、私たちの人生の同伴者になってくださり、私の助け主となってくださるのです。
ぜひ、主のみ声に応えていただきたいと願います。お祈りします。

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振り向くと光があった


2016年4月10日夕礼拝
春の歓迎礼拝
和田一郎伝道師
ルカによる福音書15章11~24節

はじめに

ルカによる福音書でイエス様が語られた「放蕩息子」の話は、主な登場人物は3人で、父と二人の息子です。11節を見ると、二人の兄弟がいました。そのうちの弟の方が、父にこう話しました。「お父さん、この沢山のお父さんの財産は、いつかお兄さんと私が相続するんでしょ? だったら今、私が頂くことになっている財産を先にくださいよっ!」と言うわけです。確かに父が亡くなるまで、何十年も経ってからもらうより、どうせもらえるなら、今もらったほうが得に決まっています。しかし、父親からすれば、自分の老後の世話もしないで、いなくなってしまったら困る、と普通は考えます。しかし、この父はとても寛容な父でした。12節後半を見ると、この弟と兄の二人に財産を分けてあげたのです。ここで一つのポイントは、兄にも弟にも二人に財産を分けたことです。そして、兄と弟とその財産の使い方が分かれたのです。この話しではお兄さんは、財産を分けてもらっても、そのまま父の元で仕事を続ける。一方、弟はもらった財産を全て現金に換えて遠い国へ旅立ちました。弟はさらにこの時、大飢饉がこの地方に襲いかかって、彼は二重の意味で苦しい境遇に陥りました。お金の無くなった彼を見て、食べ物をくれる人は誰もいませんでした。
この弟は、財産以外に、大事なものを3つ失ったと思います。一つ目、「人との関係を失った」。16節にあるように、飢えているこの弟を助けようとする人がまったくいなかった。人は一人では決して生きて行くことが出来ません。二つ目、「自分を見失った」。これも16節に、自分の民族的アイデンティティである、汚らわしいとされた豚。その豚の餌でさえ、「食べてしまおうか?」と思ってしまった。もはや、自分というアイデンティティを失った状態にありました。三つ目、「神との関係を失った」。13節で、この弟は父の元を離れました。実は、この譬え話しの父親は神の存在を表しています。ですからこの弟は神から離れた生活をしてしまったのです。二人の兄弟は私たち人間を表していますが、神様の近くに留まる兄のような人間と、神から遠くに離れて行った弟のような人間を対比しています。神の元にいれば、すべてが備わっている。一方で、神様から離れて、多くのものを失ってしまった弟の悲惨な生活。この三つの関係を保った人間を、聖書では「人間の本来の姿」であるとしています。キリスト教が教えている本来の姿とは、宗教だからといって、神様との関係だけを、大事にするということではありません。聖書は「あなたの隣り人を愛しなさい」と言います。この言葉通り、人と人との関係を、大切にしている事です。それだけでなく、聖書は自分を大切にすることを重んじています。たとえば「隣人を、自分のように愛しなさい」(ルカ10:27)とあるのです。「自分のように、隣り人を愛しなさい」ですから、まず、自分を愛せないと、他人も愛せない、という順番になるのです。日本人は「愛する」という言葉をあまり使いませんから、しっくりこない方もいるかもしれませんが、自分を愛することは、「ありのままの自分を受け入れる」ということです。自分を受け入れる事と、他人を受け入れることは連動しているのです。
しかし、苦難は往々にして、人を正気に戻します。弟は17節のところで、我に返りました。父の所には、あまりにも当たり前で気づかなかったけど、必要なものはそこにあった。あの頃は、父の近くにいるのが窮屈だと思った。しかし、失ったすべてのものは、みんな父の元にあった。そう気付いて、方向転換することができました。そう思った弟は18節で「父の所へ行こう。そしてこう言おう。私は罪を犯しました。罪というものが分かりました。こんな私はあなたの息子と呼ばれるような資格もない。でもあなたの元で、あなたに繋がる一人にしてください。」この節で「罪を犯しました」と弟は言いましたが、キリスト教では「罪」という言葉が良く出て来ます。その「罪」の本質は「神様に背を向ける」ことなのです。まず、しっかりとした神様との基盤がないと、人間関係に振り回されてしまう。自分を見失ってしまうわけです。20節で、父の元へ帰ろうとします。ですが、父の元に帰っても、父が受け入れてくれるかどうか、分からない。もらう物はもらって、勝手に出てきた弟ですから、いまさら戻っても、もう遅いかもしれないでしょう。
そのことが、20節以降の父親の姿に表されています。「まだ、遠くにいた息子を見つけた」とあります。なぜ見つけられたのか? それは・・待っていたからです。父は毎日待っていた。さらに、走り寄って来てくれたとあるように、ただ待つだけではなく、向こうから来てくださる。それが聖書の神様です。神様は待っている方、近づけば走り寄って来てくださる方。
さらに父は僕に言いました。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。」「服」は権威の象徴ですから、いちばんいい服、という「人の尊厳」を息子に回復させました。「履物」は「自由」を象徴します。息子も以前はそこで、履いていたはずです。奴隷は逃げられないように裸足でした。父は財産などに囚われたりしない「本当の自由」を与えました。「肥えた子牛を屠る」のは、特別な「時」を象徴しています。特別な時にしか子牛を屠ったりしませんから、この息子の帰りを特別な「時」だとしています。しかし、兄からすると、まじめに父の元にいたのに、何もしてくれない。勝手に出て行った弟の帰りを喜ぶのは、不公平にも見えます。しかし、正しい人ではなくて、自分には資格はないと思っているが、神に救いを求める人となって帰ってきた事を、「特別な時」だと喜んでくださった。
「自分には資格がない」と言った息子が戻った時、父は受け入れたのです。ありのままの息子をです。自分には資格がないと言った息子に、そのままで資格があると、受け入れたのです。弟が失った3つの大事なものの、まず「神様との関係」を、自分には資格はないと思っているが、神に救いを求めたことで、取り戻すことが出来ました。こんな自分勝手だった、罪だらけだった自分を、ありのままで受け入れてくれた。そのことが「自分を受け入れ」「隣り人を受け入れる」基盤となったのは、言うに及びません。神の愛が、私を受け入れてくれる。自分を愛せる。隣り人を愛せる。このことを聖書は何度も繰り返しています。
さて、戻った息子は、その後、どうなったでしょうか? 24節後半には、「そして、祝宴を始めた」とあります。また、宴会をしていました。無駄遣いしていた時も、父の元に戻って来ても、見た目は同じことをしている。しかし、神のいる宴会です。宴会が悪いのではない。楽しむことが悪いのでは決してありません。クリスチャンの人はみんな真面目そうで、堅苦しいと思っている方もいるのではないでしょうか。しかし、厳しい修行や、堅苦しい禁欲生活を求めるものではありません。むしろ、どんな人とも、それぞれの持ち場で、喜び祝い、世の中に光を放つ者であることです。それが目立たなくても、人には分からなくても、そうあるだけでいい。それが聖書が示す、本来の人の姿です。私たちが光をはなつことが、出来るのであれば、隣り人を受け入れ合う、愛のある世界が来るのです。
今日の説教の題名は「振り向くと光があった」としましたが、この光は神様の愛です。
今までの歩みから、くるっと向きを変えて、振り向くと、人生の風景が変わります。
今日の話しは、神様に背を向けた「放蕩息子」の譬え話しと、一般的に呼ばれていますが、息子の話しと言うよりは、実はありのままを受け入れて下さる神様の話しです。
この譬え話しを、聖書の中で話されたのは、イエスキリストです。私たちはこのイエスキリストを主として崇めています。この方は、十字架に架かかり、死なれる、という形で、わたしたちに愛を示してくださいました。そして、復活して今も生きておられます。
このことも、また、引き続き、礼拝の中で、受け取って頂きたいと思います。

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そのままの姿で


2016年4月10日
春の歓迎礼拝
松本雅弘牧師
詩編90編1~12節
ルカによる福音書15章8~10節

Ⅰ.はじめに―「生涯の日を正しく数えるように教えてください」

今日、お読みしました旧約聖書の言葉の中に、「あなたは眠りの中に人を漂わせ 朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい 夕べにはしおれ、枯れて行きます」(詩編90:5~6)とあります。私たちの人生を、瞬く間に飛び去っていくものとして表現しています。つまり「人生のはかなさ」をしみじみと歌っているのです。
さらに詩人は、「人生はため息のように消えうせます。人生の年月は70年程のものです。健やかな人が80年…」とあり、「移ろいやすい」だけではなく、「ため息のように」あっという間に過ぎ去っていく。この感覚が詩人モーセの実感でした。
こんなお話を聞くと、「教会に行って、励まされて帰って来たいと思ったのに、牧師さんは急に暗い話をし出した」と思われるかもしれませんが、もう少しご辛抱いただきたいと思います。
あっという間に過ぎてしまう人生ですので、詩人は真剣になって神さまに祈っているのです。その祈りの言葉は、「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」というものです。
それこそ「ため息のように」過ぎ去ってしまう人生の日々を、主にあって1日1日大切に過ごしていきたい。今日、この日を、どのように受け止め、どのように生きるかを教えてください、という祈りです。そして、この祈りに応えてくれているのが、この聖書の中に出てくる様々な教え、イエスさまの教えです。
少し前置きが長くなりましたが、私たちの人生の日を正しく数えることができるように、今日も、イエスさまの教えに心の耳を傾けていきたいと願っています。

Ⅱ.背景

今日のたとえ話も、徴税人や罪人と呼ばれる人々と一緒に食事をしていたイエスさまを批判する、ファリサイ派や律法学者に向けて語られています。
ここに出てくる「罪人たち」とは職業上、また様々な理由から社会からつまはじきにされ、誰からも相手にされない人々でした。ところが、そうした中で、イエスさまだけは、彼らを人として接しておられたのです。ですから、彼らは、彼らの方からイエスさまのところに行って、イエスさまと交流したい。イエスさまのお話を聞きたい。イエスさまと時間を共にしたい。そのような思いでやってきたわけです。
そのことが、当時の宗教指導者には気に入らないことだったのです。イエスさまは、それに対してどうなさったでしょう。「そこで、イエスは次のたとえを話された」のです。
イエスさまが語られたたとえ話とは、大きく分けて3つあります。「見失った羊のたとえ」、今日の「無くした銀貨のたとえ」、そして来週から2回に分けてお話します「放蕩息子のたとえ」、この3つのたとえ話です。

Ⅲ.無くした銀貨のたとえ

 イエスさまが語られたのは次のようなお話でした。あるところに1人の女性がいました。10枚の銀貨を持っている女性です。その彼女、どういうわけか、大切な1枚を失くしてしまいました。
このドラクメ銀貨の価値を調べてみましたら、当時の貧しい労働者1日分の賃金に相当する額だそうです。ですからそれなりの価値あるものですが、でも捜しても見つからなければ、〈いつかまた出てくるでしょう、あと9個残っているし〉と気持ちを切り替えてしまうこともあるかもしれません。ところが、この女性は、必死になって捜しているのです。
薄暗い家の中です。ユダヤの貧しい家屋ですから、窓がありません。ですから8節を見ますと「ともし火をつけ」必死になって捜したのです。自分の目でもって一生懸命無くなった銀貨を見つけようとします。でも残念ながら見つかりません。そこで彼女はほうきを持ち出して薄暗い家の隅々を掃きながら、テーブルがあればそれをどかして、その下を掃きます。
たんすがあれば、その下にほうきを突っ込んで掃き出します。あるいは、家具を移動して、一生懸命捜します。
このように、ともし火を点して、目を使い、今度はほうきを手に持って、そこいら中を掃きながら、ひょっとすると無くなった銀貨が「ほうき」の先にでも引っかかって、音でもたてないかと、耳に神経を集中して捜しているのです。つまり、彼女は無くなった1枚の銀貨を見つけるために、目で捜し、手で捜し、そして耳を使って捜す。つまり、全身で捜しているのです。
まさに「見つけるまで念を入れて捜さないだろうか」とイエスさまが言われるとおりです。
では何故、ここまでするのでしょうか。銀貨1枚です。周囲からすれば無意味に思える行為かもしれません。ある人にとっては価値がないとも思える銀貨です。でも、この女の人にとっては、価値があったのです。何故なら、それは彼女の宝物だったからです。
当時、イスラエルでは銀貨10枚に紐を通して、結婚のときに髪飾りとして持ってきたそうです。嫁入りの時の飾りでした。また、銀貨を用いたのは、持参金でもありました。もし何かどうしても必要な急場の時には、それを使うということもありました。つまり、彼女にとっての銀貨1つ1つは、思い出がこめられた宝物であり、大切なものだったのです。
私たちにたとえるならば、結婚の誓約のしるしとして交換した結婚指輪のようなものでしょうか。私も30年以上、同じ指輪をはめています。よく見てみますと随分と傷がついてきました。覚えていますが30年前はピカピカでツルツル、とても綺麗な指輪でした。でも今は色がくすんで表面はザラザラです。でも、どうでしょう。「新しいものと交換しよう」と思うでしょうか? 「買ったときと同じ値段を払いますから、売ってください」と言われて、売るでしょうか。そうしないですね! あの時、あの場面で交換した指輪であることに価値があるのです。
つまり、他のもので代用することはできない結婚指輪のようなもの、それが、この時、彼女が無くしてしまった1枚の銀貨でした。

Ⅳ.見出される喜び

 私はクリスチャンになる前、イエス・キリストというお方を知る前は、何か悪いことが起こると、また、嫌なことに出くわすと、自分に自信もないですから、「自分なんて、居ても居なくても良い存在だ」と真剣に思うことがありました。今日の聖書の箇所は、周囲の人々の扱いから、「自分なんて、居ても居なくても良い存在だ。」そうとしか感じることができないような人々に対して、イエスさまはこのたとえをお語りになり「そうではない! あなたは神さまから捜されている宝物なんだ!」と、必死になって伝えようとしているのです。
 私は、この説教を準備しながら、「まばたきの詩人」水野源三さんのことを思い出しました。
クリスチャンの詩人水野源三さんは、9歳の時に赤痢にかかり、高熱で脳性まひになって、見ることと聞くこと以外の機能を全部失ってしまいました。その水野さんが13歳のときに、自分を捜しておられる神さまを知って洗礼を受けてクリスチャンになりました。
それ以来、お母さんが作った、「あいうえお」の書かれた「50音表」を、まばたきで合図しながら、ひとつずつ言葉を拾い、詩の作品を作って証しをされた方です。その水野さんの作った詩の中で私の大好きなものがあります。

たくさんの星の中の一つなる地球
たくさんの国の中の一つなる日本
たくさんの町の中の一つなるこの町
たくさんの人間の中のひとりなる我を
御神が愛し救い
悲しみから喜びへと移したもう

 水野さんはどうにもならない「自分の小ささ」を実感していました。でも、そのような小さな者を愛して捜し出してくださった神さまに出会ってから、心の中の悲しみが、大きな喜びへと変えられていくことを経験したのです。
私たち誰もが、神さまが捜しておられる神さまの宝物です。私たちがそのお方に出会う時、初めて、人と比べて100分の1、10分の1に過ぎない私など、と思うことなく、掛け替えのない私を受け止めて生きることができるのです。
ぜひ、水野源三さんのように、この私を捜しておられる神さまと、喜びの出会いをさせていただきたいと願います。お祈りします。

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あなたの代わり(スペア)はありません


2016年4月3日
春の歓迎礼拝
松本雅弘牧師
ルカによる福音書15章1~7節

Ⅰ.徴税人と罪人

 皆さん、おはようございます。高座教会の歓迎礼拝にようこそお越しくださいました。心から歓迎いたします。これから聖書の言葉を通してお話をさせていただこうと思いますが、今日はまず、この「聖書」について簡単にお話したいと思います。
1つは、「聖書」という名称についてです。「聖書」とは英語で「ザ・バイブル」と言います。「バイブル」とは「本」という意味ですが、「ザ」がついていて、「Bible」のBが大文字になっているということは、「本の中の本だ」ということ、よく言われることは、「世界のベストセラーだ」ということですね。
数年前に橋爪大三郎さんのお書きになった『不思議なキリスト教』という本がベストセラーになりました。その頃から、聖書の知識があることは、これからの時代、世界で生きていく上での大切な条件であると言われ始めました。ビジネスであれ個人的な交流であれ聖書の知識があるかどうかによって会話の豊かさや判断力が変わってくると言われます。
2つ目。それでは聖書は誰が書いたのかということです。実は、この66巻が1つに綴じられている聖書は1500年にわたって書き継がれてきました。書いた人の人数は約40人です。それも様々な背景をもつ人々、また様々な職業の人々によって書かれたのです。ですから、ある人は「聖書をもって歩いているということは、その人は図書館を持って歩いているのと同じことだ」と語っていました。そして第3に強調したいのはメッセージの統一性です。聖書の言葉の中に、「聖書の中の聖書」と呼ばれる言葉があるのです。それは新約聖書のヨハネによる福音書3章16節の言葉です。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3章16節)
「マイ・バイブル」をお持ちの方は、ぜひ線を引いておいていただきたい大事な聖書の言葉です。
1500年間をかけて、その背景や、また職業などのまったく違う40人程の人々によって書かれた聖書ですが、どこをとっても最終的には、この「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という言葉に集約できるのです。ここに出て来る「独り子」というのはイエス・キリストのことです。そして、この言葉は、神さまはあなたを愛しておられるというメッセージです。
今日は、この聖書の統一性を表わすメッセージ、神さまの愛についてお話したいと思います。ルカによる福音書15章1節から2節をご覧ください。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。」とあります。
 最初に幾つかの言葉の説明をいたします。「徴税人」という言葉が出てきますが、これは、ローマ帝国のために税金を取り立てる人のことです。彼らの中には自分自身の私腹を肥やすためにローマの権力をバックにして、必要以上の税金を人々から巻き上げるような悪い人も確かにいました。ですから、そうした徴税人を当時は、十把一からげにして「罪人」と呼んでいました。このように聖書に登場するイエスさまの側には、当時の宗教的指導者や周りの人々から「罪人」とレッテルを貼られ周囲から疎外された人々、また、周りの人々から「居てもいないかのように扱われた人々」がいました。そうした人々が、「話を聞こうとしてイエスに近寄ってきた」とありますように、イエスさまの周囲に集まってきていたのです。
何故でしょう? それらの人々をイエスさまは相手にしてくださったからです。周囲からは相手にされない自分たちを、イエスさまだけは人として接してくれたのです。イエスさまは、自分に関心を持ってくれる、そのことが彼らには、ちゃんと分っていたからです。
私たち人間は、誰かから関心を寄せてもらえると、それで、それだけで生きることができるのです。イエスさまは、そのようにして私たちと接してくださるお方でした。

Ⅱ.不平

この時、いわゆる「罪人」と呼ばれていた人々が、このようにして自分たちの意思でイエスさまの側近くに行き、話を聞こうとしてイエスさまの周りに集まってきていました。そして、イエスさまは、彼らをまるで雌鳥が雛をその羽の下に抱きかかえるように、温かく迎え入れました。
ところが、そうしたイエスさまの行動に対して、「ファリサイ派の人々や律法学者」と呼ばれる、当時の宗教指導者、社会のリーダーたちが、不平不満をもらし、不平を言った、というのです。
そうしたファリサイ派の人々や律法学者の不平不満の具体的内容とは何だったのでしょうか。それは第1に、イエスさまが、自分たちが罪深いと見定めた人々と共にいることです。ましてや、食卓を囲むことなど、当時の規則に照らし合わせて絶対にあってはならないことだと考えていたことが挙げられます。第2に、神さまによる罪の赦しが簡単に与えられると吹聴する説教者だと、彼らがイエスさまを決め付けていたことを挙げることができます。2節を見ますと、イエスさまを指して、「この人」と言っています。この言い方の中には、こうした非難と中傷の気持ちが込められていたのだと思うのです。

Ⅲ.「見失った羊」のたとえ

 こうした頑ななファリサイ派の人々や律法学者に向かってイエスさまはたとえをお話になりました。「『あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。』」
ここでイエスさまは見失った一匹の羊を捜し求める羊飼いとして、神さまのことを教えています。迷子になったこの羊は、自分の失敗の故に、自分の愚かさの故に迷子になってしまったのです。でも神さまの側からすると、「見失った一匹を見つけ出すまで捜し回るほど」、いなくなっては困る尊い存在なのです。
ある人は、百匹いるから一匹くらいいなくなってもいいではないかと言われるかもしれません。けれども、イスラエルの羊飼いは、一匹一匹に名前をつけて我が子のように大切に養い育てたそうです。我が家にも犬がいますが家族の一員のような存在です。ましてや運命共同体のような羊飼いと羊にとってはなおさらだったと思います。その羊がいなくなれば、もうみつけるまで捜すでしょうとイエスさまは言われるのです。そこに居合わせたユダヤの人々は皆、うんうんとうなずいたと思うのです。

Ⅳ.見失われたものの大切さ―「あなたは高価で尊い」

 1人の人が失われる。それは神さまからしますと大きな喪失、痛みが伴う悲しみだとイエスさまは言われるのです。そして逆に、その人の回復は大きな喜びだ、と主は言われるのです。
 見つかるまで捜し求める羊飼いは、その1匹に利用価値があるから、あるいは損をしたので悲しんで捜しているのではありません。まだ小さいけれども、これから育てれば良い値で売れるからと言ったような意味で価値があるというのでもないのです。
ただ、そのまま、ありのままで大切な宝物だから、失ったことを悲しんでいるのです。つまり、悲しみの理由は、その羊に対する神さまの愛の心です。
今日のたとえ話を通して、イエスさまは、「自分なんて、居ても居なくてもいい存在だ」と言う心の叫びに対して、「そうではない! そうではない! あなたは、神さまから捜されている、尊い存在なのだ」と訴えているのです。
「自分なんて」と思う時、価値のない私が何で生きなければならないのか、と思うことがありますね。生きるということの意味、聖書の答えは何でしょうか。それは、「神さまに捜されているから」です。これが答えです。
 神への信仰とは何でしょうか。ある人が言っていました。「信仰とは、この自分も捜されている、主イエス・キリストによって、神の愛のうちに捜されているのだということを認めること、受け容れること」だと。
自分を振り返るとき、自分は神さまの愛からほど遠い生活をしていると思われるお方があるかもしれません。自分が身を置いているところには神さまなどやって来てはくれない、そのように言われるかもしれません。そんな時に、ぜひ、今日のたとえ話を思い出していただきたいのです。
私を捜し続けておられる神さまがおられるということ。今、そのお方は、私を、この私を捜しておられるということを、ぜひ心に留めていただきたいと願います。お祈りします。