カテゴリー
主日共同の礼拝説教 敬老感謝礼拝

私を強めてくださる方のお陰で―敬老感謝礼拝

松本雅弘牧師
イザヤ書46章3-4節
エフェソの信徒への手紙2章19-22節
2021年9月19日

Ⅰ.歳を重ねることの意味を聖書からとらえ直す

私たちは天国に向けての旅人、巡礼者同士です。お互いのペースで天国への旅をしています。決して歩く速さを競い合っているのではないのです。ゴールに着いて主と直接まみえる日を待ち望みつつ、そしてまた先に天に召された、愛する家族や親しい仲間たちとの再会を楽しみにしながら、巡礼の旅を味わい歩むのです。
そこには私たちにとって、もう一つの楽しみが待っています。ヨハネの黙示録を見ますと、ゴールにおいて、神は、私たちそれぞれに新しい名を用意して待っておられると書かれている御言葉があるのをご存じでしょうか。黙示録2章17節です。
「耳のある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。(次ですね)また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほか誰も知らない新しい名が記されている。」(黙示録2:17)
名前、それはその人にしか与えられないものです。アブラムにアブラハムという新しい名前、サウルにパウロという新しい名前が神さまに用意されたように、私のための名前、実は、巡礼の歩み、この地上でのクリスチャン生活は、その名にふさわしい正体へと信仰の成長をいただくためのプロセスでもあったでしょう。聖書によれば、私たちは最後の日に、新しい名をいただく。キリストに似た松本雅弘に変えられる。小石に記された新しい名をいただくということは、その名が表す新しい正体に変えられる、ということでしょう。
どんなに歳を重ねて、若い時のように体が言うことを聞かなくなってきたとしても、あるいは、様々な責任を若い者に譲り、具体的な働きが亡くなって行ったとしても、神に愛されている子としての私の身分は誰も取り去ることはできない。
聖書によるならば、私たちの価値とは、その人が何を持っているか、他人がその人を何と言っているかで決まるのではなく、一人ひとりは御子イエス・キリストの命と引き換えに神の子とされた尊い存在なので す。勿論、旅の最後には多少疲れも出て来ます。身体的な色々な部分も傷んでくるでしょう。しかし、最後、死を通して復活のキリストと同じように、新しい体に甦る時に、そこにあってすべてが新しくなることを覚えたいと思うのです。ですから、不都合なこと、それはもう少しの辛抱です。
私たち高座教会では、毎年この時期に、敬老感謝礼拝を捧げますが、歳を重ねることを聖書から、神さまの視点でとらえ直すことに敬老感謝礼拝の意義があるように思うのです。そして、敬愛する信仰の先輩、人生の先輩が、これからも健やかに、与えられた信仰の旅路をまっとうすることができるように、祝福を祈り求めることをしています。
今日、敬老感謝礼拝のために選びました聖書箇所から、神さまの目に映っている私たちの本質。自分が自分をどう評価しようと、神さまがあなたや私をどのような存在として愛しておられるのか、ということに焦点を絞って見ていきたいと思います。

Ⅱ.私たちは「聖なる者たちと同じ民」

19節をご覧ください。パウロはここで、あなたがたは「よそ者/外国人でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民である」と言いました。これは、キリストの十字架と復活を通して救いの恵みに与り、神の国の市民となった私たちが、もはや外国人専用の列ではなく、神の国の民の列に並ぶことが許され、「お帰りなさい。お疲れさま」と、無審査、無条件で神の国への入国が認められる存在とされたのだ、ということを言わんとしているのです。しかも、この地上にあって、すでに国籍を天に持つ者として、プライドを持って生きることが許されている。そして、もう一つ、「聖なる民」とあります。聖書で「聖なる」とは、「神さまのもの/神さまの所有になった」ということです。それが私たちです。

Ⅲ.神の家族、神の住まい

第2番目は何でしょうか。19節の続きを見ますと、そこでパウロは私たちのことを「神の家族の一員」と呼んでいます。
聖書が教える家族とは何でしょう。それは「ありのままの自分で居ていいところ」、何故なら、神さまが私たちをありのまま、そのままで受け入れ、愛してくださっているからです。色々な弱さや欠けを持ち、傷や痛みを抱える私たち一人ひとりの居場所、一人ひとりが大切にされる場、それが神の家族が集う教会という家庭。もっと言えば、面倒をかけたり、かけられたりすることが許されるところです。
「神の家族」には子どもも居るでしょう。若者たちも当然、居ます。働き盛りの現役世代、一線を退いたご高齢の兄弟姉妹。教会という神の家族は、そのような意味で、四世代ですから、各世代のニーズや興味関心も異なるでしょう。様々な意味で違う者同士の私たちが、教会の中でどのように交わるのか。そのことで、高座教会という「神の家族」の真価が問われているように思います。今、まさにKMOが取り組んでいる課題です。
そして3番目に、パウロはクリスチャンのこと、教会のことを「神の住まい」と呼んでいます。そして、その住まいの土台が、「使徒や預言者」、つまり新約と旧約からなる聖書が土台、さらに「隅の親石」が「キリスト・イエスご自身」だとパウロは教えています。
建物にとって土台は重要です。少なくとも次の2つの点で、そう言えます。第一に、土台が重要なのは、いざとなる時に物を言うから。そして第二に、土台は建物全体の将来を決定づけるから大事です。つまり土台を見れば、工事中の建物でも、完成時にどの程度の規模の建物になるのかを知ることが出来ます。
ところが、残念ながら、そんな大切な土台に私たちはあまり関心を払わないのですが、パウロは、「人目からは見えない隠された生活」、言い換えれば、「使徒や預言者」つまり、その人がどれだけ御言葉に根ざした生活の土台を持っているのかに注目し、なおかつ大事に考えています。
そして、「隅の親石」がキリストです。これは土台の角に置かれる大きなもので建物の方向性と大きさを左右する石です。その石がキリストですから、「ぶどうの木であるキリストと、どのような関係にあるか」が私たちの歩みの方向性、またその豊かさを、大きく左右するということでしょう。そして私たちは「神の住まい」です。神さまが私の心に、また私たちの交わりの中心に臨在しておられる。そのお方と共に生きる生活をどう楽しむのか、味わうのかが私たちクリスチャンに与えられた特権なのではないでしょうか。21節を見ますと、「神の住まい」という言葉に代わって「主の聖なる神殿」という表現が出て来ます。私たちは何者なのか。そうです!聖なる民、神の家族、そして聖霊が宿る神の住まいなのです。

Ⅳ.「心の目を開いてください」との祈り

最後になりますが、この時のパウロは、ローマの獄中にいました。ですから囚人です。しかも病を患っていた。肉体的にも精神的にも不自由を経験し、不満や不平を言い出したら切りがないような状況に置かれていたわけですが、不思議とパウロは不平や不満の塊ではなかったのです。なぜなのでしょう?結論から言えば、彼は囚人である以前に天に国籍がある神の国の市民であり、病人以前に神の家族に属する神の子としての誇りが心を支配していたからです。
神の子であり、神の民であり、神の住まいであることが、パウロにとっての第一義的アイデンティティ、囚人である以前に、そうした一つひとつのことが、全てに優先していたのです。この時、パウロは60歳を過ぎていたと言われます。当時、60歳というと、敬老のお祝いをされる年齢だったそうです。しかしパウロは、神さまの力を受けて霊的にみずみずしく若々しく、老人である以前に愛されている神の子、囚人である以前に神の恵みの全財産の相続者として生きていた。
私たちは年を重ねるにしたがって、様々な不自由を経験するでしょう。色々なところでの痛みや弱さを覚えます。ある人は頭角を現してきた若者を見て、自分が脅かされるような不安を経験するかもしれません。しかし、パウロと同じように、そうした1つひとつのことを、祈りを通して、神さまに委ねていきましょう。神さまが、私たちのことを心にかけていてくださるからです。
パウロは、エフェソの信徒への手紙の中で「心の目が照らされ、神の招きによる希望がどのようなものか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか、また、私たち信じる者に力強く働く神の力が、どれほど大きい物かを悟ることができますように。」(エフェソ1:18-19)と祈りましたように、何よりも神さまに心の目を照らしていただきたい。そしてこの恵みがいかに大きいものなのか、生活の中で味わいたいと思います。本日、敬老のお祝いを迎えられた御一人ひとりの上に主の祝福が豊かでありますようにとお祈り申し上げます。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

第一戒 決意の宣言 ― 十戒②

松本雅弘牧師
出エジプト記20章3節
マタイによる福音書22章35―40節
2021年9月12日

Ⅰ.十戒の二区分

ある日、ひとりの律法学者が主イエスのところにやって来て、「先生、律法の中で、どの戒めが最も重要でしょうか」と問うのに対して、「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ。」とお答えになりました。まさに十戒は、主イエスが語られた二つのこと、「神である主を愛すること」、そして「隣人を自分のように愛すること」、その二つを示していることが分かります。
このようにして、神さまとの関係という縦軸と、人間同士の横とのつながりという横軸とがしっかりと結び合うところに、私たち神の民とされた者が立つべき位置があることを、明確に示すのが、この十戒であると言えます。

Ⅱ.第一戒:「唯一神信仰」ではなく「拝一神信仰」を求める戒め

さて、主は第一の戒めでこう語られます。「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」これは2節の御言葉、「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」という宣言をもって、ご自身をあらわされた神さまが、イスラエルの民に向かって語られた最初の戒めの言葉です。
H.W.マロウ先生は『恵みの契約』で、出エジプトという奴隷状態からの解放の目的はイスラエルの民が神を礼拝する民として生きるということにあったと聖書から解き明かしています。それを踏まえて、第一戒を見ますと、この戒めは、「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」とご自身をあらわされた、ヤハウェなる神さまのみを礼拝するようにという「拝一神信仰」と取るべきである、と主張されるのが、以前YMCA主催の平和講演会でお話しくださった関田寛雄先生です。
確かに第一戒を唯一神信仰を求める戒めと捉えた場合、当然の帰結として、他宗教に対して排他的/非寛容になり、それがこの第一戒の中心メッセージなのだ、という理解になりかねない。しかし聖書に聴くならば、主なる神さまはそれとは正反対の御心を持ったお方であることが分かります。
前回、説教で触れた申命記を見ますと、落穂拾いにかかわる教え、穀物の収穫をする時に、自分の畑で実ったものを全部収穫してしまうようなことはするな、と教えています。収穫する当てもなく、ここに生きているやもめたちや身寄りのない子どもたち、外国から来た寄留者たちのために、自分たちが収穫した後、「さあ、どうぞいらっしゃい、あなたがたの取り分はここにありますよ」と、言ってあげなさい、と教えるのです。
聖書には、「名前は命」という考え方があり、名前はその名を持つ人の本質を表すと言われます。「ヤハウェ」というお名前を持つお方は、その名前が、「すべてを存在させ、すべての生きものに生きよと命じる者」という意味だとしたら正に申命記の教えに現わされた御心は、そのお名前と一致するわけです。名前と正体が一つになっているのです。
コロナ禍にあって、生活に行き詰まりを覚えておられる方が大勢います。生きるのが辛い、死にたいという声も届いて来ます。しかし聖書には、私たちの世界に「生きよ」と命じる声が実はいまも響いている。決してやむことなく聞こえて来る。
やもめたち、身寄りのない子どもたち、外国から来た寄留者たち、そこには他民族、他宗教の人たちも当然いたことでしょう。そうした人々をも含め、生きることを願い、「生きよ」とお命じになる。ですから、ある人の言葉を使うならば、ヤハウェなる聖書の神さまの御心とは、「生命を肯定する/共存・共生を願う御心」なのだ、というのです。確かに、旧約聖書の中などには、そう読めない個所もあります。しかし、その聖句の文脈、その行間を見ていくと、必ずと言ってよいほど、そこには神さまの痛みや悲しみ、嘆きがにじみ出てくると言われます。
こう考えますと、第一の戒め、「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」という戒めは、神は唯一である、神はお一人だということを中心に主張する「唯一神信仰」を求める戒めというよりも、むしろ「私とあなた」という関係へと招かれた神を礼拝するようにと求める、「拝一神信仰」を意味する戒めであると結論付けられると思うのです。そのように見て来ますと、5節の主なる神さまがご自身を「妬む神」だとおっしゃるのもうなずけるわけです。それは、主なる神さまが、イスラエルの民と、「私とあなた」という、いわば結婚関係を結ばれたからです。だとするならば、花嫁であるイスラエルの民を情熱的に愛するという、そうした主なる神とイスラエルの民という関係の中で、主なる神さまは「妬む神」であられる。こうしたことからも第一戒は、「拝一神信仰」を説いておられると考えて間違いない。
ご存じのように、この時、イスラエルの民が脱出したエジプトは多神教の地でした。そして今後遭遇するであろう、バビロニア、ギリシャもいずれも多神教の宗教文化を生み出していきます。それも極めて発達した宗教文化です。そうした中、主なる神さまは、エジプトや諸地域の神々に目を向けることなく、「私が主、私があなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者、私をおいてほかに神々があってはならない。私との関係に生きるように」。ここで、そう語っておられるのです。
宗教改革者のルターは、3節の、「私をおいてほかに」を「私と並べて」と訳しているそうです。神さまは、ご自身以外のものと「並べて」礼拝することを人間にゆるされませんでした。ホセア書1章2節などを見ますと、それは「淫行」を意味することだと、預言者は糾弾するほどです。父祖アブラハムへの契約を思い起こし、奴隷であったイスラエルの叫びを聞き、そしてエジプトから救出された、その恵みに踏み留まって生きるイスラエルにとって、救い主であるヤハウェに「並べて」拝する「神」など有りうるはずはないでしょう!この第一戒は、まさに、そうした神さまの愛のメッセージなのです。

Ⅲ.第一戒の目的―「ハイデルベルク信仰問答」から

「ハイデルベルク信仰問答」は、その第94の問答が、第一戒についての問答となっていて、「第一の戒めで、主は何を求めておられるのですか」という問いに続き、その「答え」において、「わたしは自分の魂の救いと祝福を失うことがないため」なのだ、と語っています。つまり、すでに救いと祝福がすでにもう私のものになっているのです。その前提で語っている。だから、すでにいただいている救いと祝福を失うことがないために、私たちは、「ただこの神だけを信頼し、できるかぎりの謙遜と忍耐をもって、この神だけに、あらゆる良きものを期待し、心底から神を愛し、畏れ、敬うこと」等々を求めていくのだ、と語るのです。
先週、何度もお話しましたが、律法がいつ与えられるかの順序が大事です。戒めを守ったので救われたのではありません。戒めを守った報いとして、「私とあなた」の関係に入ったのではなく、一方的な恵みによって、神さまが選んでくださった。主イエスも、「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)と語られました。そうしていただいたのが、この時のイスラエルの民であり、私たちなのです。そして、救われた私たちが、その恵みに応答する生き方、すでにいただいている救いと祝福を失わないために、この第一戒の「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」という律法が与えられているのです。

Ⅳ.主なる神の決意の宣言としての第一戒

先にご紹介した関田寛雄先生は、カール・バルトの次の言葉、「神はイエス・キリストにおいて永遠に人間と共にあることを決意された」。この言葉を引用し、「これ(バルトのこの言葉)が、第一戒の意味です」と語っておられました。
「神、我らと共にいる」とインマヌエルの神として、私たちと一緒に生きることを決意された。だから、「生きよ」とお命じになられる。それも永遠に私たちと共にあることを決意された。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。」と主イエスが語られているように、私たちは、その方から絶対に離れてはならない。「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」聖書の神さまは、人間との愛の関係性の中で存在しようと強く決意なさった。それは、私たちが救いと祝福に留まるためなのです。
お祈りします。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

神の恵みへの感謝の応答 ― 十戒①

松本雅弘牧師
出エジプト記20章1-17節
ローマの信徒への手紙12章1-2節
2021年9月5日

Ⅰ.三文書の中の十戒

歴史の教会は、「使徒信条」と共に、「十戒」、そして「主の祈り」の三つの文章を大切にしてきました。何を信じ、どのように生き、何を祈るのかを示す、この3つの文書を私たちキリスト教会は、礼拝において唱えることを大切にしてきました。
ところが、十戒は、なかなか私たちの信仰生活に定着しない。現に十戒を重んじる教派の流れにある私たち高座教会においても、長い歴史において礼拝式に十戒が取り入れられた時期はないように思うのです。
では、何故、そうなのか。やはりその大きな理由として考えられることは、十戒という呼び名から受ける印象にあるのではないでしょうか。

Ⅱ.十戒の区分

ところで、ほとんどのプロテスタント諸教会は、出エジプト記20章3節の「あなたは、私をおいてほかに神々があってはならない」のみを第一戒とし、続く4節から6節が第二戒、7節が第三戒、8節から11節が第四戒、そして12節が第五戒、13節が第六戒、14節が第七戒、15節が第八戒、16節が第九戒、そして17節が第十戒と考えます。
これに対しカトリック教会とプロテスタント教会の中でもルター派教会は、第一戒を3節から6節までと考えます。当然、番号が一つずつずれ、最後第九戒で終わってしまいますので、17節を二つの戒めに分けて考えるようです。
ただ今回は、プロテスタント教会、カンバーランド長老教会もその一つの肢ですが、3節のみを第一の戒めとする立場で一つひとつを見ていきたいと思っています。

Ⅲ.十戒が与えられた背景

ところで、礼拝で十戒を唱える時、いきなり第一の戒めに入る前に、その直前にある出エジプト記20章2節の言葉、「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」と唱え、その後続けて十戒の一つひとつの戒めを唱えることになっています。実はこのことこそ、礼拝の中で十戒を唱えるにあたり、キリスト教会が本当に大切にしてきたことなのです。それはこの2節の御言葉が、十戒がどのような戒めなのかの性格付けを決定する役割を果たしているからなのです。
ご存じのとおり、聖書は神の啓示の書です。ここで神さまは、「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」と、自己紹介なさっている。「私は主」の「主」とは固有名詞、神さまの実のお名前です。その「ヤハウェ」というお名前をお持ちのお方が、「あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」と自己紹介なさっているのです。そのことをまず明らかにした上で、言葉にはありませんが、「それゆえこのように歩みなさい」と十の戒めをお与えになった。それが十戒なのです。
ですから、これから学んでいく十戒は何かと言えば、今日の20章2節の御言葉、「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」この主なる神さまによる宣言に言い表されたように、十戒という律法が与えられるのに先立ち、「出エジプト」という、イスラエルの民の救済、神によってもたらされた恵み深い救いの御業があった。それをしてくださったのが、他の誰でもない、主なる神さま。しかも「あなたの神」と自己紹介されるように、「私とあなた」という人格的な関係の相手として、難しい言葉を使うならば、「恵みの契約関係」のもう片方の当事者として、イスラエルの民を救い出し選んでくださった。聖書はこの関係を結婚にもたとえていますが、そうした意味を込めて、「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」とご自身のことを宣言なさっているのです。
ここで主なる神さまは、一つひとつの戒めの言葉を語ろうとする前に、「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」と宣言される。「あなたがたが、これから語る十戒を守ったから、その報いとしてエジプトから贖い出したのではありません。」そもそもあの時にはまだ十戒も授けられてなかったからです。神さまは、そのようにおっしゃりたかったのではないかと思うほどです。
ここで主は、「奴隷の家」という言葉を使っています。「あなたがたイスラエルは、エジプトで奴隷として、どれだけ惨めな立場に置かれていた者たちだったのか。」
ご存じのように「奴隷の家」とは、イスラエルの人々にとって屈辱と辛さに満ちた涙の場所だったことでしょう。それは思い出すだけでも無残な経験だったと思います。そこから一方的な恵みによって、私はあなたがたを救い出したのです。しかも神である私が、他でもない「あなたの神」となった!「私とあなた」という人格的なかかわりを持つ、「業の契約」ではない、「恵みの契約」関係の当事者としてあなたを選んだのです、と宣言されるのです。
このように考えて来ますと、十戒に出てくる一つひとつの戒めとは、これを守らなかったら大変な目に遭ってしまうと言った、恐怖心に訴えてイスラエルの民を動かそうとするための道具ではないのです。いや、そもそもこの戒めを守ったから、彼らが神の民イスラエルになったのではありません。そうではなく、過ぎ越しの小羊の犠牲によって一方的な憐れみによってエジプトの隷属から救出された。あり得ない出来事でしょう。ですから、本当にありがたい、尊い救いを実現して下った。「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」という宣言は、そういう意味なのです。
その主なる神さまによって贖い出された奴隷の民、奴隷集団が、聖なる神さまの聖なる民、イスラエルとされた。ですから今度、彼らイスラエルは、その聖なる神の民にふさわしい装いをもって生きる。神に愛された者としてふさわしい生き方がある。
私たちに当てはめるならば、「キリストという礼服」を着せていただき、新しくされ、神のものとされた私たちに、神さまが前もって備えておられる、ふさわしい生き方がある。それが、この十戒に出てくる一つ一つの生き方。一言で言うならば、「神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する」という生き方です。そのことを禁止命令の表現をもって示されたものが十戒なのです。

Ⅳ.神の恵みへの感謝の応答としての生き方を示す「十戒」

シナイ山でモーセを通して十戒が与えられたおよそ40年後、ヨルダン川を渡って約束の地に向かう直前で、モーセが、再びイスラエルの民に向かって説教を語ります。それが申命記です。その中で再び十戒が語られていきます。
そうした申命記を見ますと、出エジプトという救いの恵みの出来事を経験したイスラエルの民に対して、その恵みを忘れないように、いつも思い起こすように、その恵みに留まり続けるようにと、モーセは繰り返し説いているのがとても印象的なのです。中でも24章19―22節にある、落穂拾いにかかわる教えです。ぶどうの実を摘み取って、もう一回歩き直して、残っている房を全部集めるとか、麦の穂を刈り取った後に、まだ残っている穂があるならば、全部それを拾い集めてしまうのではなく、むしろ敢えて残しなさい。何故なら、収穫する当てもなく、ここに生きているやもめたちや身寄りのない子どもたち、外国から来た寄留者たちのためのものだからです。
そのことをモーセは、「あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が、あなたをそこから贖い出されたことを思い起こしなさい。それゆえ、私はあなたにこのことを行うように命じるのである。」(申命記24章18節)と語るのです。
今日の20章2節も、そのことなのです。神さまの恵みを思い起こすこと、恵みを数えること。その恵みを思い巡らす中で、聖霊の働きにより、既に神の子、神の民とされた私たちが、神の子、神の民にふさわしい生き方を真剣に求める者へと変えられていく。つくり変えられ、成長させられていくのだ、というのです。
私たちが忘れてはならないのは、エジプトの隷属からの解放という、あの出エジプトの出来事の背景には、何千、何万もの小羊の犠牲があり、私たちにとっての出エジプト、罪の隷属からの解放、救いのために、世の罪を取り除く神の小羊、主キリストの十字架での贖いの死があったのです。
聖書は語ります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」御子の命と引き換えにしても惜しくない存在として私たちを愛してくださった。そのような者として生かされている。この恵みを思い起こしつつ生きる時、私たちの心は次第に感謝と喜びとに溢れていく。そして自らの意志で、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する道を求める者へと導かれていく。これから共に学んでいく十戒は、そうした私たちに与えられた、神の恵みへの感謝の応答としての生き方なのです。
お祈りします。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

永遠のいのちを信じます―使徒信条㉑

松本雅弘牧師
ヨブ記19章1-27節
コロサイの信徒への手紙3章1-11節
2021年8月29日

Ⅰ.はじめに

私たちカンバーランド長老教会の信仰告白の冒頭に、一つの聖句が掲げられています。皆さん、よくご存じのヨハネ福音書3章16節です。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
これは、聖書の中の聖書、聖書の急所と呼ばれる聖句で、カンバーランド長老教会に集う私たちにとっても大切な御言葉です。ここに「永遠の命」という言葉が出て来ます。今日は使徒信条の学びの最終回になるわけですが、「永遠の命に与る」ことは、どんな恵みであるのか。今日は、「わたしは永遠の命を信じます」と告白することの意味について、ご一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ.聖書が語る「永遠の命」とは

ところで新約聖書には「命」を表すギリシャ語が3つあります。「プシュケー」、「ビオス」、そして「ゾーエィ」という言葉です。例えば主イエスは、「体は殺しても、命(プシュケー:)を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、命も体もゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)と語られた時、ここに出てくる「命」という言葉が「プシュケー」というギリシャ語で、辞書を引くと「魂、息、心」という意味もあります。
2つ目は、「ビオス」というギリシャ語で、例えば第一ヨハネ2章16節に使われています。「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、見栄を張った生活(ビオス)は、父から出たものではなく、世から出たものだからです。」この「見栄を張った生活」の「生活」が「ビオス」という言葉です。辞書を引きますと、「生活、生涯、一生」という意味があります。
ところが、この2つに対して、3つ目の「ゾーエィ」というギリシャ語が、「永遠の命」という意味での「命」を指す時に使われています。今日のコロサイ3章3節に、「あなたがたはすでに死んで、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているからです」とある、この「あなたがたの命」の「命」が「ゾーエィ」というギリシャ語です。使徒信条が、「わたしは永遠の命を信じます」と告白する時の「命」です。
聖書が教える「永遠の命」とは、単に生物学的に現在の生が来世まで続くという、「生命維持の延長」ではない。ある人の言葉を使うならば「根本的な刷新」。ですから私たちを人間として生かす命は一度、終結し、葬られる。塵に帰る。しかしそれでお終いではない。その断絶の彼方に、神さまがお与えくださる「新しい命/永遠の命」に甦るという希望の約束を聖書は私たちに語っている。このことが、使徒信条の最後の部分、「わたしは永遠の命を信じます」と告白することの意味なのです。

Ⅲ.キリストと共に神の内に隠されている命としての「永遠の命」

さて、今日は、コロサイの信徒へ手紙第3章の1節からの箇所を読ませていただいたのですが、一般にコロサイ書第3章は、使徒信条の「永遠のいのちを信じます」という言葉を学ぶ時、ほとんど必ず読むと言われている聖書箇所でもあります。
ここを見ますと私たちが授かる、「ゾーエィ」と言われる「永遠の命」は、今現在は、神の右に座しておられるキリストと共に神の内に隠されている。そしてそのキリストが再臨なさる時に、隠されていたキリストが再び姿を現すように、隠されていた「ゾーエィ」と言われる「永遠の命」が私たち一人一人に明らかに与えられるのだ、と説かれています。そのことを確認する上で1節から4節をもう一度、お読みしたいと思います。
「あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地上のものに思いを寄せてはなりません。あなたがたはすでに死んで、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているからです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」
現在、このキリストは上におられる。天の父なる神さまの右に座しておられる。そのキリストのところにある私の真の命。そして、キリストが現れる時、すなわち再び来られる再臨の時に、私たちに与えられている「永遠の命」が私たちのものとなる。私たちが永遠の命に完全に与るというのです。
主イエスが復活なさった日、弟子たちはある家に集まっていました。しかし彼らは自分たちを迫害しようとするユダヤ教指導者たちを恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。ヨハネ福音書20章19節に描かれている場面です。
宗教改革者のカルヴァンは、その箇所を、「弟子たちが集まっていたことは彼らの信仰を表し、家の戸に鍵をかけていたことは、彼らの不信仰と恐れを表している」と解釈します。そして復活の主イエスは、信仰と不信仰、勇気と恐れが入り混じった複雑な心境の只中にいた弟子たちの真ん中に立たれ、「あなたがたに平和があるように」と言われたと聖書は伝えるのです。
確かに、目に見える現実は怖れに満ち溢れていたことでしょう。しかし、そこにいた弟子たち、そして私たちには、復活なさった主イエスはもう一つの現実があること、いや真の現実があることを伝える。「あなたの目があなたに言うことを信じないでください。それらは、限界を示すだけなのです。あなたの信仰を通して世界を見てください」と神さまは、聖書を通して語りかけておられるのです。

Ⅳ.「永遠の命」を信じます

もう一度、「永遠の命」のテーマに戻りたいと思います。実は、主イエスご自身が永遠の命の正体を語った言葉があります。ヨハネ福音書17章の「大祭司の祈り」と呼ばれる祈りの中で主は、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ること」だと語られました。
「知ること」、その御方との関係において生きること、私たち自身の人生に神さまとの関係という縦軸をいただく時、その縦軸との関係で、自分を見、他者を見、この世界を見ていく目が開かれていきます。神さまとの関係で自分を知り、他者を知り、この世界を知る。もっと言えば、神さまに愛されている自分に気づかされる。神さまに受け入れられている他者を発見する。そして神さまの被造物としての、この世界へのかかわりも私たちの中で変化が起こって来る。それが永遠の命に与った者が経験する幸せであり、恵みです。
マックス・ルケードの『たいせつなきみ』という絵本をご存じでしょうか。彫刻家エリにつくられた木の人形たちが、互いに金の星シールや、「だめ」を表す灰色のシールを貼り合う中、灰色のシールをたくさんつけられた、「パンチネロ」という名の人形が、そんな暮らしが嫌になり、生みの親、彫刻家のエリに会いに行く話なのです。その時のエリとパンチネロの会話が癒されます。会話はエリの言葉から始まります。
「私は お前のことを とても大切だと 思っている」
「僕が 大切? どうして? だって 僕 歩くの遅いし、飛び跳ねたり出来ないよ。絵具だって剥げちゃってる。こんな僕のことが、どうして大切なの?」
考えてみれば私たちも平気で造り主なる神の御前で自己卑下する。パンチネロと同じです。そんな彼に対しエリは、「それはね お前が 私のものだからさ。だから 大切なんだよ」と答えるのです。二人の対話は、実は、私たちと神さまとのやり取りなのではないでしょうか。
私は神によって造られた。聖書はそう教えています。でもこのことを本当に信じているだろうか。もしそうなら神の作品であるはずの自分を自分勝手に評価することなどできません。社会や他人に「私が誰なのか」を決めさせる必要などない。この絵本を読むと、この後、パンチネロがエリの言葉を信じるようになった瞬間、体から灰色のシールがパラパラ剥がれ落ちるのです。
「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ること」だと言われます。これは何と幸いなことではないでしょうか。また様々な困難の中にあって、最後まで支えてくれる恵みではないでしょうか。
永遠の命、キリストの内に隠されている真の命、まことの私は、実は、造り主である神さまと、そのお方が遣わしてくださった主イエス・キリストを知ることにより、その御方に造られ、愛され、守られ、生かされている。そしていつか、キリストの内にある、私の命に甦る恵みが与えられる。今まさに、このお方との交わりの中で日々生かされている。「私は永遠の命を信じます」と心から告白し、告白したように生きる者でありたいと願います。
お祈りします。

カテゴリー
主日共同の礼拝説教

そして子になる

和田一郎副牧師
ハバクク書 3章17-19節
ローマの信徒への手紙8章18-25節
2021年8月22日

Ⅰ.父と子

今日の説教のテーマは「父と子」がテーマです。
今月うちの息子は4歳になりました。私がもし「どんな瞬間が一番うれしいですか?」と聞かれたら、息子に「パパ」と呼ばれる瞬間です。それは、私を育ててくれた父も、かつてそうだったのだろうと思うのです。私は思春期に入った中高生の頃から「大人になったら父のような人にはなるまい」と思っていました。父はいつもキャッチボールをしてくれて、子ども会のソフトボールの監督をしたり、人懐っこくて優しい人でした。しかし、仕事から帰って来るとお酒を飲んで不機嫌にしている人でした。母との喧嘩も絶えなかったので、母は幸せではない。それは父のせいだと思っていたので、そんな父のような人にはなるまいと、思いました。社会人になって家を出て数年後、母は癌で1年の闘病生活で天に召されました。その闘病生活の中で父と喧嘩になりました。母は一旦退院しても再発する可能性が高いと言われていたので、その苛立ちから言い争い取っ組み合いになってしまった。その時、父が真っすぐに私を見て言いました。「俺は世界中の誰よりもお母さんのことを愛しているんだ」いつも不機嫌だった父の口から「愛している」という言葉がでてくるとは驚きでした。父の本来の優しさを見た思いでした。母が死んで一人暮らしになった父と私は、見違えるように仲良くなったのです。その父も14年前に天に召されました。
数年前、私は家族三人で旅行で出かけることがありました。家族で楽しく過ごしたいと期待していました。しかし、出発の時間に遅れ、現地には遅刻するのが確実、途中で忘れ物に気が付き車の中でイライラして爆発しそうになりました。その時のことをある人に話しました。せっかく家族で楽しむはずの旅行で思い通りにならずイライラして楽しむどころじゃなかったと。そして、自分の正直な思いや、これまでの思いを次々と話していった時、ふっと自分の口から出た言葉に驚きました。「自分は良き夫、良きお父さんになりたいんだ」という自分の言葉でした。平凡な言葉ですが、そのようなことを意識したことはありませんでした。「良き夫、良き父になりたい」誰だってそう思う当たり前のこと。しかし子どもの頃から刷り込まれた「父のような大人にはなりたくない」というかつての思い。現実はあの頃の父に似ているのではないか。私の死んだ父も「良き夫、良きお父さん」になろうとしていたのではないか? 思ってはいるけど、その通りになっていない現実。私の苛立ちと父の不機嫌な姿が重なる思いがしました。

Ⅱ.「将来の栄光」

今日の聖書箇所18節には「将来の栄光」という見出しがあります。これは将来キリストが来られる再臨の時に、私たちが完全に神の子とさせていただく栄光という意味です。
18節「今この時の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光と比べれば、取るに足りません」とあり「今この時の苦しみ」というのは、私たちの地上の生涯は苦しみがともなうと言っているのです。それに対する「将来・・現されるはずの栄光」の時というのは、今は隠されていますが、将来再臨の時に完全なる神の子とされる喜びの時、栄光を受ける時です。今もクリスチャンは神の子とされていますが栄光にあずかるのは将来です。しかし、それまでのこの地上の人生には忍耐がともないます。再臨の希望があるといっても、私たちの人生にある悲しみや苦難に忍耐して、再臨の時を待ち望む必要があります。これが今日の聖書箇所の大筋です。

Ⅲ. 養子にしていただくこと

将来の栄光とは、完全なる神様の子とされることだと言いました。23節には「子にしていただくこと」とあります。神様の子とされることは、私たちにとっても喜びですが、神様の側からしても、私たちをご自分の子とすることは、心から願っている最終的な目的です。
エフェソの手紙1:4-5に次の言葉があります。「(神は)天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。私たちが愛の内に御前で聖なる、傷のない者となるためです。御心の良しとされるままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、前もってお定めになったのです」
神様は天地創造の時からすでに、私たちを、ご自分の子にしようと定めておられました。しかも、ただ自分の子にするのではなく、愛する者に対して愛をもって子にしてくださるというのが、神様の御心の根源であり最終目的です。ところで、イエス様も神様の子です。イエス様と同じ私たちも神の子でしょうか。
23節「子にしていただくこと」と、日本語で「子」とありますが、原語のギリシャ語では「養子」と書かれています。英語では”adoption”。ですからパウロは、神の「養子にしていただく」と書きました。当時の社会でも養子は親の財産を受け継ぐことができる権利があったからです。つまりアブラハムの子孫に与えられるという祝福を相続する権利が養子にもあるのです。神の独り子イエス様を長男として、私たちは養子とされました。余すことなく神様の祝福に与ります。長男のイエス様が復活されたように、やがて私たちも復活の体を得ることができます。それが将来の栄光です。
日本は養子縁組や里親の引き取り手が少ない養子後進国ですが、私たちクリスチャンは霊的に神様の養子にされました。霊的な孤児であった者が養子にされたことで、神の家族という温かい交わりの中で生きています。自分が養子として恵まれたのだから、私も親のいない子どもを養子に迎える。これがキリスト教世界観によって培われた欧米社会にあるようです。
「子にしていただくこと」は私たちの祝福でありますが、神様の御心も「私の子になって欲しい」「一人でも多くの人が、私の子となって神の家族を築いていきたい」。それが神様の御心だと覚えたいと思います

Ⅳ.心に記された神の律法

今日の箇所では、神の子とされる将来の喜ばしい栄光だけではなくて、それまでの地上の生涯における「忍耐」が必要だと書かれています。18節「今この時の苦しみ」、22節「共に呻き、共に産みの苦しみを味わ」いながら、25節「忍耐している」とあるのです。ここに書かれている、「今この時の苦しみ」と、「忍耐」とはいったいどんな事なのか、考えたいと思います。
ここで一つの問いがあります。人はみな罪人だと言われます。クリスチャンであってもそうでなくても罪の性質があります。罪人なのに善い行いをしている人はたくさんいます。それはなぜでしょうか。
人間は天地創造の業の中で、神のかたちに創造されました。神様に似たものとして、神様の性質である愛という特性を与えられて造られました。しかし、その後アダムとエバの罪による堕落によって、人間に罪の性質が入ったわけです。ですから人間には「原罪」という、生まれながらにしてもっている罪があります。この原罪によって人を傷つけ、神を中心としない自己中心という性質を持ち続けています。しかし、もともと神のかたちに造られた私たちの心の中には、神のかたちの性質も残っているのです。
「こういう人々(異邦人)は、律法の命じる行いがその心に記されていることを示しています。彼らの良心がこれを証ししています。また、互いに告発したり弁護したりする彼らの議論も、証ししています」(ローマ書2章15節)
「律法の命じていることが、心に記されている」とあります。律法とは神様の律法です。クリスチャンではない異教徒が正しい行いをするのは、心の中に神の律法が記されているからだとパウロはいっているのです。神のかたちに造られた、私たち人間の心の中には、造り主である神の律法が記されています。神の律法というのは、神の性質を反映した愛の律法です。神を愛し、隣人を自分のように愛することが心に刻み込まれているのです。これはアダムとエバが罪を犯した後も同じ状態です。原罪がありながらも、人間の中には善悪をわきまえて、善を行い悪をよしとしない分別は残っています。確かに罪によって神を中心とする性質ではなくなり、人間本来の姿を失っていますが、造り主である神の愛の律法が、人間の心に記されていることに変わりはありません。ですから、ローマ書2章15節後半に「互いに告発したり弁護したりする」というのは、人間の心の中で原罪という罪の性質と、神のかたちに造られた神の愛の律法が互いに争っているのです。「罪」と「愛の律法」とが心の中で葛藤するということが起こってしまうのです。ですから人間は矛盾した生き物なのです。
この「罪」と「神の律法」とのせめぎ合いが、今日の聖書箇所に記されている「今この時の苦しみ」であり、「呻き」であり、25節にある「忍耐」の意味です。
苦しみと忍耐を繰り返しながら、私たちはイエス・キリストに似たものへと変えられていき、やがて完全なる神の子としての栄光に与ることができるのです。

Ⅴ. そして子になる

今日私は父との証しを話しました。父も私も、家族を前にして本来自分はこうありたいと願うことと、自己中心という自分の至らなさの狭間で悩みを抱えます。「よい夫、良い父でありたい」と願いながら、自分中心のよい夫であり、自分中心の良い父なのかも知れません。まさに神の愛の律法を心に記されていながら、自己中心という罪の性質との狭間で悩みを抱え続けます。
それでも、私たちの歩むべき道は心に記されている神の律法に従って、天の父なる神様の御心を求め続けるということです。私の一番うれしい瞬間が息子に「パパ」と呼ばれる瞬間であるように、天の父に向かって「アッバ父よ」と親愛を込めて呼びかける関係は、神様の御心にかなったことです。天の父と、子とされた私たちが良い関係であることが人間の本来の姿です。
この地上の生涯においては忍耐が必要ですが、将来の栄光を希望として、子とされたことを共に喜びましょう。神が与えてくださった希望は失望に終わりません。
この一週間が、神の子として相応しい歩みとなりますように。お祈りいたします。