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アドベント 主日共同の礼拝説教

沈黙を通して見えたもの

松本雅弘牧師
詩編77編1-21節
ルカによる福音書1章5-25節
2020年11月29日

Ⅰ. ザカリアに起こった出来事

ザカリアは「神に覚えられている人」という意味の名を持つ祭司でした。その名前の通りに、神さまはザカリアを御心に留め、その祈りを覚えておられ、そしてそのザカリアの祈りに応え、天使を通し彼とその妻エリサベトに念願の子どもをお与えになるという出来事が成就した、と今日の御言葉は伝えています。

Ⅱ.沈黙の恵み

およそ10か月間余りザカリアは沈黙を強いられました。祭司という仕事柄、大変なことでした。経験したこともないような不自由さが続く。でもこれはザカリアだけではなく、私たちも同様の経験をすることがあるのではないかと思います。失敗や過ち、病気など思いがけない状況に出あう時、モノを言う元気すらなくなってしまう。それまで自信を持って語って来たのに。ところが一転、厳しい現実に直面し沈黙するしかないのです。
妻のエリサベトも同じでした。「妻エリサベトは身ごもって、5か月の間身を隠していた」(24)とあります。「身を隠す」を口語訳は「引きこもる」と訳しています。彼女も夫と共に沈黙し引きこもったのです。ゆっくりとした時間の中で二人とも黙っている。すると不思議と自らの魂との対話が始まり、神さまとの対話も始まっていったのです。
私は、この夫婦がこの沈黙の期間、どんなに深く神さまの恵みを味わったことかと思います。その証拠に10カ月にわたる黙想の日々の後、ザカリアの口から飛び出した第一声、それは、「ほめたたえよ」という言葉でした。ザカリアはこの沈黙の期間、天使の言葉の一字一句を味わったに違いない。妻と共にその恵みの時を共有した。ある牧師が、「教会の礼拝は、私たちの知恵が黙る時であり、教会とは私たちが沈黙を学ぶところだ」と語ったそうです。なるほど、と思いました。彼らの息子ヨハネが成人し、洗礼者ヨハネとして世に出た後、それに続くようにイエスさまも公生涯を始めます。イエスさまは多くの教えをお語りになったわけですが、その教えを一言で言えば、「神の御心がなるように」ということです。自分の願うところではなく、神さまの願うことが成就するということでした。

Ⅲ.礼拝を守っているのに、礼拝のリアルな恵みを期待していない?

この時代、ユダヤには1万8千人から2万人の祭司がいたと言われています。その中からたった一人が当番に選ばれるのは物凄く低い確率でしょう。それがザカリアに起こりました。そしてこの務めはとても重要で、なおかつ光栄なものでした。だからこそ緊張する務めでもありました。「間違いのないよう、一つひとつが順序正しく滞ることなく執り行うことができるように」というところから来る緊張です。私は牧師をしていますので少し分かるような気がします。このように考えますと、ある意味で祭司という務めは決まったことを決まった通りに行う仕事です。それゆえ保守的にならざるを得ません。ですから当時、祭司は型通りのやり方しかできない人というレッテルを貼られ批判されることもあったようです。
そうした祭司ザカリアが緊張感をもって儀式を進めていた時、天使が現れたのです。それを見た彼は不安になり恐怖の念に襲われました。考えてみれば、これは皮肉な話です。この時ザカリアは、目に見ることは出来ませんが、生ける神の御前に出ていたはずです。その祭司たるザカリア先生が、生ける神さまの臨在に触れた時に、不安になったのですから。
ある人は、この場面のザカリアの様子を「ザカリアの手順が狂った。神が邪魔をされた」と語ったそうです。神さまに邪魔されたので慌ててしまった。順序正しく滞ることなくやろうとしていた。ところが間違いをしでかしたので慌てたのではありません。誰かに邪魔されたからです。他でもない神さまが入り込んで来られたからなのです。ここでザカリアは慌て戸惑っています。何十年と神に仕えてきたベテラン祭司のザカリアが、神のリアルな働きに触れ、おじ惑っている。本当に滑稽です。でも私たちは、こうしたザカリアを笑えるでしょうか。これは私たち一人ひとりに関わる問題だと思うのです。
私たちは今日も礼拝に招かれてきました。今はコロナ禍で、40分前後で全てが終わります。1つひとつの式順に従って礼拝は進みます。でも、そうした礼拝、日々のディボーションの時でも結構です。私たちは礼拝を守り、日々の御言葉と祈りの時を大切にしているかもしれませんが、もしかしたらただそれだけ、ザカリアのように外から介入されたくない、それによって不安にさせられたら困るという思いが、私たちにないだろうか、と思わされるのです。でもよくよく考えるならば、私たちが礼拝に集い、日々、ディボーションの時を守っているのは、その礼拝で、そのディボーションの時に、神さまに触れていただきたい、神さまに、今の私の人生に介入していただきたいからなのではないだろうか。それが私たちの本当の願いなのではないだろうか。この時、神さまは、ザカリアのその願いに応えるように、彼の人生に介入なさった。ところが、そうした神の直接介入は、ザカリアにとっては驚きであり、不安であり、恐怖でもあったのだ、ということなのです。

Ⅳ.沈黙を通して見えたもの

このことは裏を返したら、私たちの生活が神さまに介入されたら困るような生活になっていないだろうか、と考えさせる出来事のように思います。
私たちは自分で自分の人生を設計したいと思います。学生の頃、一般企業に就職する時も困らないようにと、一応、それなりの成績だけは残しておこうと努力しました。でもその頃、神学校に行くことが分かっていたら、もっと別の時間の使い方をしていたのではないかと思います。神学校で学んでいた頃、もっと勉強を続けたいという希望がありました。でも神さまは、卒業後にすぐに教会に仕えるようにという別の計画を用意しておられました。
私たちは自分の人生を自由に設計しようとするわけです。でも信仰を持ち神さまとの交わりが深まる中、心の中に一つの不安のようなものが生じることです。それは「私の願い、私の計画が、果たして神さまが願われることなのかどうか。私のために立てた計画と同じかどうか」という問いが起こるからです。そうした問いがあるのに気づいたならば、一度立ち止まり、神さまの語りかけに耳を傾ける必要があります。手順通り物事が進むようにという思い、いやその手順それ自体を、もう一度神さまの御前に差し出し吟味することが必要になります。この時、神さまがザカリアになさったのは、そのことだったのではないでしょうか。
先日お話しました創世記のヨセフもそうでした。ヨセフは計画を思い描きました。牢屋にいた給仕役の長の夢の解き明かしをし、その通りに牢屋から解放された時に、その給仕役の長がヨセフの身の潔白を証明することで、ヨセフが牢屋から解放されるという計画を思い描いていました。ところが神のご計画はもっと壮大だった。仮に彼の計画通りに解放されたら、二年後にファラオの夢の解き明かしは実現しなかったかもしれない。そして、ファラオとの出会いがなければ、彼が総理大臣になることも、そしてもっと大事なことですが、ヤコブの家をはじめ、エジプト全土、その周辺諸国の人々の救済も難しかったでしょう。もう絶妙なタイミング。これが神さまのご計画でした。
神さまは、私たちが握りしめている宝より、もっと素晴らしい計画を用意しておられる。預言者エレミヤは「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(エレミヤ29:11)と語りましたが、そのことを受け止めるために、一度、動きを止める、ザカリアのような10か月が必要かもしれません。箴言に「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である。」(箴言16:9、口語)とあります。私たちの側に神さまの介入を受け入れる余地が必要なのです。
カール・バルトは、「われわれ人間の自然の営みが、神によって妨害されない限り、それは癒されることはない」と語りました。神に妨害され、神のご介入が起こった時はじめて、私たちに本来の恵みの生活が始まる。実はすでに始まっている。沈黙し立ち止まり、神が用意しておられる新たな計画をしっかりと受けとめることができますように。お祈りします。

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聖書と生きる

和田一郎副牧師
申命記6章1-9節 テサロニケの信徒への手紙二2章1-2節
2020年11月22日

Ⅰ. 動揺の原因

パウロは、テサロニケの町に行った時に、再臨の時がくると説明していました。町を離れてからも手紙で再臨について教えていました。テサロニケの人々は、その時がいつ来るのかということが気がかりでした。多くの人がその日は近いと思い、中にはもう再臨の日が来るのだから働く必要はないという人までいました。一方で、再臨はもうすでに起こったと言う者さえ現れたとあります。パウロは動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしいと、噂話に扇動されて驚かないようにと、この手紙で伝えています。
確かにパウロはローマ書や、フィリピの手紙で「主の日が近い」といったことを伝えています。しかし、それは現実の時間的な近さというよりも、その日が必ず来ること、そして、その日が来るまでに今やるべきことを強調していたのです。しかし、それでもそのことを正しく理解しない人がいました。再臨の時が「すぐ来る、すぐ来る」と言いながら、いつまでたっても来ないとなれば、それはやがて失望となるでしょう。ですから、正しい聖書の読み方、解釈の仕方というものはとても大切なことです。
信仰生活は、聖書の言葉を正しく理解して、理解した教えに従って生きていくということです。しかし、そもそも聖書の解釈に誤解や間違いがあるならば、それはとんでもないことになってしまいます。テサロニケの人々の中には、そのように聖書の正しい理解が足りなくて、動揺したり分別を無くす人があったのです。

Ⅱ. 聖書の読み方【聖書は神の言葉】

聖書をどのように読むのか、どのように解釈するのか、キリスト教会はそのことを2千年のあいだ、ずっと取り組んできました。聖書を正しく理解するうえで大切にしたいことの中で、今日は二つのことを考えたいと思います。
1つ目は「聖書は神の言葉である」ということです。聖書には聖書が神の言葉であると書いてあります。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(テモテへの手紙3章16節)。聖書は神の言葉だと言っても書いたのは人間です。しかし、その著者一人一人は神の霊に導かれて、神の知恵によって書かれた書物だということです。これはイエス様も、おっしゃっていました、最後の晩餐の席で弟子達に、そうなると話していたのです。「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ福音書14章26)と弟子たちに言いましたが、その通りに弟子達は聖霊の力をかりて、イエス様がおこなったこと、言われたことを思い起こして書き残し、それが聖書になりました。
しかし、疑い深い人達はいつの時代でも存在します。聖書をただ神の言葉として鵜呑みにするのではなくて、もっと人間個人の独自性を尊重した読み方をしようとする人たちがいました。明治時代、日本にもそういった神学が入ってきました。例えば創世記や出エジプト記などモーセが書いたモーセ五書も、別々の資料を後の人たちがまとめたものだとして、聖書を分解して解釈しようとする研究があります。唯一の神の御言葉であるという、上からの啓示としての聖書観とは違うアプローチです。研究としてはとても大事な取組みですが、そういったことから派生して、聖書をここは神の言葉、ここは間違っているというように、聖書の読み方が研究者ごとに多様になってしまいます。宇田進先生という神学者は、そういった聖書批評について「知的な深まりと、エリート性が、それと引き換えに一般の人々との接点を失ったばかりでなく、宣教のスピリット、信仰のエネルギーを喪失させてしまった」と評していました。つまり、聖書を研究資料にしてしまって、わたしたちの救いや日常生活とは関係ないものにしてしまうのです。パウロも主張しています、「あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです・・・事実それは神の言葉であり、信じているあなたがたの中に現に働いている」(テサロニケの信徒への手紙一2章13節)。聖書の言葉は神の言葉として受入れて、はじめて心や体の中で生き生きと働き始めるのです。

Ⅲ.聖書の読み方【聖書は文脈で読む】

もう一つ聖書の読み方で大切にしたいのは、「聖書は文脈で読む」ということです。文脈というのは、前後の文章の流れのことです。つまり、どこか一部の言葉をつまみ出して理解してはいけないということです。もっと言うならば、その書を書いた著者の意図や著者がその書全体で言わんとしていること、そして当時の時代背景などから理解するということを、文脈から理解するといいます。その書を書いた著者の立場に立って、その場所や時代の背景や文章の前後で語られている内容から解釈しないと、間違った理解をすることになります。そうでなければ、人は自分が感じたままに理解しようとします。それも実は大切なのですが、しかし、人は大抵自分の経験に引き込んで理解しようとします。そして、何よりも文脈から理解しようとしなければ、聖書のある部分の言葉を、自分勝手に利用しようとします。
パウロは今日の聖書箇所で、どのような背景から何を言わんとしたのでしょうか。2節を読んでみましょう、再臨についてです。「主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい」。つまり、再臨がいつ来るのか、ということで動揺している人たちに向けた、パウロのメッセージです。それは、第一のテサロニケの手紙にその背景があります。テサロニケの手紙一5章1節でパウロは再臨について言いました。「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。・・・(6節)従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」というメッセージをパウロは手紙で送っていました。イエス様もマルコによる福音書13章の最後の晩餐の席上で、再臨について語った教えがあります。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。・・・(35)だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」(マルコによる福音書13章32-37節)。
いかがでしょうか、どちらもここで言わんとしているメッセージは、「目を覚ましていなさい」ということです。再臨の日がいつ来るのかではなく、目を覚まして、今を生きることがメッセージのポイントです。イエス様は、ご自分がまた来られる、その再臨までの間、わたしたちの生活の在り方を教えてくださいました。パウロのメッセージも同じです。実はマルコによる福音書を書いたマルコとパウロは、一緒に第一次宣教旅行に行きましたから、イエス様が伝えた再臨についての教えも、パウロは聞いていたのではないかと思いました。

Ⅳ.「ウィズバイブル ウィズコロナ」

そして、この「目を覚ましていなさい」というパウロのメッセージは、テサロニケの人々を越えて、今を生きる私たちにも向けられているメッセージです。今日の聖書箇所の2節後半にあるように、動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないで欲しい、とありますが、コロナ渦にあっても動揺しないで聖書からのメッセージを正しく受け取って生活していきたいと思うのです。
今日のパウロのメッセージを受けて、ぜひ皆さんにお勧めしたいのが聖書を通読することです。通読は自分の意思とは関係なく、上から降りてくる啓示が、その日その日で与えられると思います。このコロナ渦にあって是非チャレンジしてみてはいかがでしょうか。
「聖書と生きる」ということは「目を覚まして生きる」ということの大きな土台になります。そして、目を覚まして生きるキリスト者には、このパンデミックを収束につなげる役割も期待されているのではないでしょうか。大切な人を失う悲しみに世界が覆われている中で、信仰による心の救いは、今このとき、いつにも増して重要です。
「ウィズバイブル、ウィズコロナ」ウィズバイブルがあってこそ、ウィズコロナという新しいスタイルの生活にも光が灯ります。聖書の力に確信をもって生活の場で目を覚まして生きていきましょう。お祈りをいたします。

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神の御前に自分を低くする―高座教会の歩みを祈り求める

松本雅弘牧師
ペトロの手紙一5章6節
使徒言行録24章22-27節
2020年11月15日

Ⅰ.コロナ禍がもたらした諸活動の停止

2020年がスタートして間もなく世界的なパンデミックに襲われました。緊急事態宣言が発出され社会生活は広範囲で停止、もしくは動いていてもペースダウンを余儀なくされました。教会も例外ではありません。全ての活動はいったんストップし、急遽、主日共同の礼拝、教会学校の礼拝は動画配信となり、現在も礼拝は限定的で動画礼拝が中心です。以前のような日常を取り戻せてはいませんし今後も難しいのではないかと思われます。
今日は、来年の主題と主題聖句の説教ということですが、主題は説教のタイトル「神の御前に自分を低くする」、そして主題聖句は第Ⅰペトロ5章6節です。
2021年は、コロナ禍が続く中にあって、一度立ち止まって神さまのみ前に心を静め、神さまというお方がどのようなお方なのか、私たちの教会、私たち自身のあるべき姿はどのようなものなのかを、思い巡らす1年とさせていただきたいと考えております。
今日は使徒言行録24章の御言葉から、宣教活動のストップを強いられ、神さまの前に静まる時を持つように導かれた、パウロの姿からご一緒に教えられたいと願っています。

Ⅱ.カイサリアでの2年間の意味

今日の聖書箇所には、パウロは宣教活動の最中、カイサリアで2年間足止めされ無意味な「足止め」を食わされているような印象を受けますが、使徒言行録を記したルカは、全く異なる視点、すなわち神さまの視点に立ってこの出来事を見るように励ましています。
そうした視点に立つとき、カイサリアでの2年間は、実はこの後、恵みの実りにつながっていく上で、なくてはならない特別な時であったことを教えられます。神さまがパウロを通して宣教の働きを進めるために、1つひとつの出来事を周到に準備してくださり、そうした神さまが備えられた特別な環境のもとパウロを訓練し、この後続く宣教活動の新しいステージを導く働き人として特別な備えをさせておられたことに気づかされるからです。
ところで、残念なことに、私たちは、後になって気が付くことが多い。そのため神さまが準備をなさっている、そうした意味で働いておられるにもかかわらず、「何で神さまは働いてくださらないのか」「神さまはなぜ沈黙なさるのか」と思ってしまう。祈っても祈りが聞かれず不安になり、祈りが聞かれないので不満が募り、神に対する信頼が試されるようなことが起こります。この時のパウロもそうでした。しかし、実際には、そうした中にあっても、神さまは、決して働いておられないのではありません。ご支配しておられないのでもないのです。ただ、私たちの視界に、神さまのお働きが見えていないだけなのではないでしょうか。
改めて私は、聖書が教える神さまの働かれるパターンのことを考えました。神さまの働かれ方、一言でいえば「人」です。聖霊は人に宿るのであって、物に取り付くのではありません。人を通して働かれる。ですから大事なことは私たちが神の器とされていくことです。
今年、2020年を振り返って、私たちの歩みはどうだったでしょうか。私たちは、Ⅰヨハネ4章19節の主題聖句を掲げ、「神の愛を実感する交わりづくり」をテーマに歩み始めようとした矢先に、コロナ禍に襲われました。交わりはおろか、礼拝堂での礼拝は中止となり、急きょ無会衆で慣れない動画の収録を始めました。計画したことが全くできなかった1年であり、あと1か月余りで終わろうとしています。そしてこれは教会の活動だけではありません。全世界を巻き込むパンデミックですから、コロナ禍のために目の前に見える風景が一変してしまいました。職を失う人、人間関係で行き詰まりを経験する人、人生設計が全くと言っていいほど変わってしまった人。そのような意味では予期せぬ出来事が多く起こった年ともいえるでしょう。仮に今年の高座教会の歩みを成果主義的な物差しで評価していくとすれば、今年は空白の1年、無駄であり無益としか思えないかもしれません。しかし、見方を変えて神さまの視点に立つならば、全く違った景色が見えてくるように思うのです。
パウロの生涯におけるカイサリアでのこの2年間、あるいは初代教会の宣教活動という広い視野に立って見た時の、カイサリアでの2年間は、まさにパウロにとっては霊性が研ぎ澄まされる2年間であり、このあと展開する宣教の新たなステージに向けての構想を練り、そのための祈りの備えが出来た実に重要な期間だったのではなかったでしょうか。パウロは家庭を持っていないがゆえに何の制約もなく当時のローマ社会を行き来できました。そうしたパウロに神はカイサリアの牢屋での2年間を与え、比較的自由に人々が行き来でき、なおかつ神のみ前に静まる時が与えられた。正に神さまのくださった特別な恵みの時だったと言えるのです。そしてこの後、カイサリアでの2年間があったからこそ、宣教の次のステージ、すなわちローマ帝国における下準備がなされていったのではないかと思うのです。
歴代誌に有名な御言葉があります。「主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。」(歴代誌下16:9)神さまは神の器を探しておられます。そして見つけたらその人を力づけたいと願っておられる。ですから私たちの責任は、神の御心を求めることでしょう。パウロにとってのカイサリアでの2年間は、実にそのような恵みの時だったのです。

Ⅲ.フェリクスへの伝道を通して教えられること

もう1つ、ここで注目したいのはパウロの伝道に対するフェリクスの反応です。フェリクスはパウロの個人伝道により、ある程度のところまで導かれていきました。ところが、最後のところで心を開かなかったのです。このことを通して信仰について大切なことを教えられるように思うのです。それは信仰とは1つ示されたことを大切にし、その示された1つのことに、きちっと応答していくということです。ところがここでフェリクスは、「今回は、これで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする」と語ったのです。
信仰において危険なことは、この先延ばしをすることです。神さまに示されているにもかかわらず、それを先延ばしにする結果、何が起こるか。霊的に鈍感になっていくのです。神さまの導きを受けることが難しくなってくる。礼拝のことよりも会社から持ち帰った仕事を済ませる方が重要に思えてくる。御前に静まることよりも、何かをするために動き回ることの方が大事に思えてくる。先週もお話しましたが、その結果、睡眠が削られ、心に不安や思い煩いが増すばかりです。
神さまの働きによって、1つのことを示された時に、それに誠実に応答し、そしてその1つの御言葉を本当に大事にし、自分のものとしていく人を、神さまは求めておられる。私たちの神さまは、「主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる」お方だからです。

Ⅳ.まとめ

以上、この短い個所からご一緒に学んでまいりました。パウロは2年間、カイサリアで過ごしました。それを神が備えてくださった大切な時として受けとめることも出来ますし逆に無駄で実りのない時、神も沈黙しておられると結論付けることも可能でしょう。しかし、来年の主題聖句にありますが、まず「神の力強い御手の下で自分を低く」する。私たちが神の前に静まる時に、神は実は沈黙されているのではなく、今も確実に生きて働いておられる。
説教の準備をしながら「ドミノ倒し」の風景が心に浮かびました。ドミノ倒しは何人もの人が長い時間かけ、ドミノを1つひとつ並べる必要があります。そして時が来た時に、たった1つのドミノを倒す。するとあっという間に、全てのドミノが関係しあって波紋が広がり、次々と素晴らしい絵柄を描いていく。そして、一つの素晴らしい思いもかけなかった絵柄が完成するのです。
神さまが私たちを整える時、遅々として時間が進まないような経験をします。ある問題が解決し、実を結ぶまでに何年もかかるように思います。でも神さまが私たちにとって最善であると定めた「その時/神の時/カイロス」に、見事な恵みの風景を、私たちの社会に、教会に描いでくださるのではないでしょうか。そのために、私たち自身が神さまのみ前に信仰を深め、神のみ前に自らを低くし、御心を求める年とさせていただきたいと願います。
お祈りいたします。

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主日共同の礼拝説教

生ける神のみ前で

松本雅弘牧師
イザヤ書5章7-17節
マタイによる福音書26章57-68節
2020年11月8日

Ⅰ. ユダの裏切り

12弟子の1人であるユダが先頭になって、祭司長、長老たちから送られてきた群衆を引き連れてやってきたのです。やって来た人々はその手に剣や棒がありました。そうした中、ユダは主イエスに近寄り、「先生、こんばんは」と接吻したのです。それを合図に人々はイエスを捕らえようとしました。ところがペトロが剣を抜いて主イエスを守ろうとする。主は「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」と語られ、自分の力や知恵でどうにかしようようとする誘惑から弟子たちを守ろうとなさる、その霊の戦いの最中です。弟子たちは皆、主イエスを見捨て逃げてしまったのです。

Ⅱ.裁かれる神の子

そのようにして人々は主イエスを捕らえ大祭司カイアファの屋敷に連行すると、そこには最高法院全員が集結していたのです。この時、主イエスを裁いた人々は、神によって選ばれ、立てられたと自他ともに認め、一生懸命に聖書を学んでいた人々です。
ところで11月第5週から待降節が始まります。今年はルカ福音書を御一緒に読みながらクリスマスに向けての備えをしますが、そのルカ福音書には、誕生したイエスさまを両親が宮詣に連れて行ったとき、そこにシメオンという名の老人が登場する出来事を次のように伝えています。「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」(ルカ2:25-26)すなわちシメオンの正しさと信仰の厚さを、救い主メシアの到来への待望の思いと重ねるようにして伝えています。だとするならば、今まさに主イエスを裁くために集まった最高法院のメンバーである大祭司をはじめとする民の指導者たちは、シメオン同様、当然、メシアの到来を待ち望み、日々、祈りを捧げていた人たちであるはずです。そのメシアが今自分たちの目の前に現れている。だとすればシメオンのように、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」(ルカ2:29-30)と賛美してもよかったはず。いや賛美すべきでしょう。でも、そうしません。いや、そうできなかった。それどころか不利な偽証をする偽りの証人まで立てて、救い主を死刑にしようとたくらんでいたのです。

Ⅲ.最高法院による裁判

ところで、大祭司カイアファによる裁判には少なくとも2つの注目すべき点があるように思います。その一つ、主イエスの神殿に関する発言を巡ってのやり取りです。ユダヤの裁判では証人は必ず2人立ち、彼らの証言が一致しなければ、証言は無効とされます。マタイによれば、「偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった」とあり、さらに「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた」と伝えるように、真夜中のこの時間に証言するために集められた人々は皆、大祭司たちによって金を握らされた、いわゆる雇われ証人だったのです。そうした中、最後に登場した2人は一致した証言をしたのです。それは、「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」という証言でした。これを聴いた大祭司は、鬼の首でも取ったような興奮を覚えたのでしょうか。思わず立ち上がってしまった。そして主イエスに向かって、「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか」と責め立てたのです。
そう言えば、数日前、確かに主イエスは「この神殿は崩れる。神の手によって崩される。三日の後に建てる」と言われたことを覚えています。神殿は崩れる。最高の収入源であった神殿が壊され、「三日後に建てる」という新しい神殿の出現の予告は彼ら大祭司たちからしてみれば決して許容できない出来事でした。
2つ目は、「神の子、メシア」に関わるやり取りです。「お前は神の子、メシアなのか」と。そしてそう質問できたということは、イエスをメシアだと認めていないことの証拠でした。むしろそう問うことで、主イエスの口から、彼らが思う神への冒涜罪に当たる決定的な証言を引き出そうとしていた。しかも、恐ろしいことに、「生ける神に誓って我々に答えよ」とまで言っています。ここで今まで黙秘していた主イエスが、初めて口を開かれておっしゃったのです。「それは、あなたが言ったことです」。ちょっと分かりにくい日本語ですが、分かり易く言えば、「あなたの言ったとおりです」という意味です。それはまさに、ここでは「証し」、真実を明らかにする「証言」が求められていたからなのではないでしょうか。自分は「生ける神の子であること」と生ける神のみ前で証言されたのです。

Ⅳ.ねたみの裁判

このように、裁判の風景を見てまいりますと、実に滅茶苦茶な裁判です。マタイによれば真夜中に、日本で言うところの国会議員全員が招集されたのです。よくこれだけ偉い人たちが夜中にかかわらず集まることが出来たと思います。そしてこの時彼らが、何が何でもやりたかったこと、それは主イエスを殺すことだったのです。福音書記者マタイはそのことを見抜いていました。マタイ27章18節を見ますと、「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである」とはっきりと語られているのです。
「ねたみ」とは何でしょう?それは人のことを羨ましく思う思いです。それだけではなく、もっと積極的に、その人が失敗すること、その人の身に災いが起こることを積極的に願う思いで、しばしば競争心や争いの種になる思いです。福音書はこの「ねたみ」が原因となって主イエスを十字架につけたのだと教える。そして、そのことを思い巡らす時、実は「ねたむ思い」が彼らだけの問題ではなく、私たちにとっても大きな問題であることに気づかされるのではないでしょうか。正しいと分かっていてもねたみがあると、私たちはそれを実行できない。ねたみのゆえに、そうしたくないからです。終いには争いが始まる。パウロはそうした私たちに向かって、「以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」(5:21)とはっきりと語ります。
ある牧師が、この時の大祭司が心に抱いたねたみについてこう分析していました。「大祭司もまた宗教家だった。…神について語ることが多く、聖書について語ること多かった時に、自分よりも、もっと激しい、しかも魅力ある言葉をもって、人々に神の道を説くイエスが現れた。そこで妬みを抱いたということは明らかであります。恐ろしいことです。そこでひとりでも多くの人が、自分の手では及ばなかった人々が、ひとりでも多く救われるのを見て、神に賛美を捧げるよりも、その人の口を封じ、その人の手を縛り上げることに、この人の心、そしてその仲間の心が動いたということは、恐ろしいことであり、悲しいことであります。」
主イエスがこの時、有罪と判断された一つの理由、それは「神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる」と真実を語ったからです。そう言えば、つい数日前、弟子たちに対しても神殿を指さして、「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」とおっしゃったことを思い出します(マタイ24:2)。「この神殿は崩される。神が住まわれる神殿は、もはやこのような建物として造られることはない。神殿に神さまが閉じ込められ、その神殿を我が物として私利私欲のために利用されるようなことはなくなる」とおっしゃった。でも、「三日後に」ご自身の血と復活の命とをもって新たな神殿をお建てになると宣言されたのです。その神殿こそ、私たち教会、聖霊を宿す私たち自身のことだったのです。私たちは本当に悲しいことに、本当に残念なことに心の内側に、このねたむ思いがあることを認めざるを得ない。しかしそこから解放される恵みが既に与えられている。それは主イエスがご自身の血と命とをもって打ち立ててくださった、新しい神殿、すなわち私たちが聖霊を宿す神殿になったこと、私たちのうちにキリストの命がある。ですからパウロは、「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」(ガラテヤ5:25-26)と語る。主イエスはこの恵みを実現するために、ここで裁判にかけられ十字架へと進んでいかれたのです。
お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

誘惑との戦い

松本雅弘牧師
創世記9章1-7節
マタイによる福音書26章47-56節
2020年11月1日

Ⅰ.はじめに

主イエスは無力にもユダの手引きによってやってきた人々に逮捕されていかれます。今日はこの箇所から「誘惑」ということを切り口に、御一緒に読み進めていきたいと思います。

Ⅱ.イスカリオテのユダによる裏切り

主イエスが直面した誘惑の1つ目は、信頼していた者による裏切りによって引き起こされたものと言えるでしょう。この時、主イエスは3人の弟子と共にゲッセマネの園におられました。そこに現れたのが「十二人の一人であるユダ」で、彼に導かれるように大勢の群衆がやってきたのです。彼らの手には剣や棒という武器が握られていました。
ここで注目すべきはユダです。彼は十二弟子の一人で、ヨハネ福音書によれば仲間の財布を預かる財務担当の弟子だったと伝えています。ユダが財務担当だったということは、とりもなおさず彼が信頼される人物、みんなが信頼を寄せていたからでしょう。
この時、主イエスや弟子たちを襲った誘惑は、信頼を寄せていた人間に裏切られるという誘惑。自分の財布までも預けていた仲間、同じ釜の飯を食って来た仲間に裏切られる経験。そのようにしてサタンは主イエスと弟子たちに襲い掛かったのだと思います。

Ⅲ.自分の力でどうにかしようとさせる誘惑

さらに続けて、もう一つの誘惑が襲い掛かりました。神を信頼せず自分の力でどうにかしようとさせる誘惑です。ユダの接吻を合図に一部の者たちが主イエスに襲い掛かろうとしました。「イエスと一緒にいた者の一人」とありますが、同じ出来事を記録したヨハネは、その人はペトロだと伝えています。この時、ペトロは「剣を取る」という誘惑にさらされた。神のみ力により頼むのではなく、剣を抜いてでも自分でどうにかしなければという誘惑です。
私たちの身近に「剣」はありません。それでも、自分の力で、あるいは権力に訴えて思い通りにしようとさせる誘惑を経験することがあるのではないでしょうか。
全知全能の愛の神さまがおられ、そのお方は今も生きて働いておられる。にもかかわらず、その神さまに頼り切れていない。頼っていないわけですから、祈る気持ちも起きません。逆に、することと言えば、自分の頭で一生懸命考え、自分でどうにかしようと思い煩うのです。
ところで詩編127編2節に、「主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。」とありますが、この詩篇が伝えているのは、人間が日中の仕事を中断し眠っている夜において、神さまにあって、本質的な事柄は何もストップしていない、というメッセージです。神さまは働いておられる、ということです。
今日の聖書でペトロは、主を守ろうとして剣を抜きました。それに対して主は「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」とお語りになったのです。
主イエスというお方は、私たちに守ってもらわなければならないほど、弱くはないのです。必要があれば十二軍団以上の天使を呼ぶことだってお出来になる。しかし敢えてそうなさらない。それは十字架こそが、神の御心であると確信しておられたからです。ですから私たちは、ここにこそ自分の力でどうにかしようとさせる誘惑、力や権力に訴えても思い通りにしようとする誘惑から自由に生きる秘訣があるのではないでしょうか。

Ⅳ.「神の沈黙」の中で

さて、最後の誘惑ですが、十二軍団以上の天使を呼ぶことの出来るお方が、敢えてそうなさらないことから来る「神の沈黙」という誘惑です。
今日から11月、今年も残すところ2か月となりました。去年の今頃は、2020年がやって来るのを心待ちにしていたことを覚えています。中会を例にとれば、宣教70周年記念行事が予定されていましたし、カンボジアではアジア・ユース・ギャザリングが計画されていました。巷ではオリンピックもあり、海外から大勢の旅行者で賑わうだろうと考えていました。ところが、コロナが襲ってきました。
私たちの教会も「神の愛を実感する交わりづくり」という主題を掲げましたが、交わりどころではない。礼拝ですら限定的、未だに動画礼拝が中心です。今までの当たり前が取り戻せない状況です。心のどこかにいつもストレスを感じながら生活しています。
そうした中、ふと思うことがあります。「そもそも神さまは、どうしてこのコロナ禍において、決定的な御力をお示しにならないのか」「なぜ、沈黙しておられるのか」ということです。そのようにして、今日の箇所に登場する主イエスを見ますと、実に無力なのです。無抵抗に逮捕されてしまう。
先ほど、「主イエスは、私たちに守ってもらわなければならないほど、弱くはない。必要があれば、主はおできになる」とお話しました。だとしたら、何故、その御力を今、お示しにならないのだろうか。正直、このことの答えは私には分かりませんでした。ただ、このことを考える上でヒントがあるように思ったのです。
実は、今年になって教会員の方から頂いた、『われ反抗す、ゆえにわれ在り―カミュ「ペスト」を読む』という、東北大の宮田光雄先生のブックレットが手元にありました。これは9年前の東日本大震災を経験した私たちが、それとどう向き合うか、という問題意識で書かれたものです。
その中で興味深かったのは、そこに引用されている、ナチス・ドイツによって殉教したボンヘッファーの次のような言葉でした。
「われわれは―《たとえ神がいなくとも》―この世の中で生きなければならない。このことを認識することなしに誠実であることはできない。そして、まさにこのことを、われわれは神の御前で認識する!神ご自身が、われわれを強いて、この認識にいたらせたもう。…神は、われわれが神なしで生活と折り合うことのできる者として生きなければならないということを、われわれに知らせたもう。われわれと共にいたもう神とは、われわれをお見捨てになる神なのだ(マルコ15:34〔わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか〕)。神という作業仮説なしに、この世で生きるようにさせたもう神こそ、われわれが絶えずその御前に立っているところの神なのだ。」
神さまのことを考える時、もしかしたら私たちは、そのお方は「私たちが願う恵みやご利益を与えてくださる」という前提をもっていないだろうか。さらにそうでない神ならば、信じるに値しないと考えていないだろうか。ボンヘッファーは、私たちが都合よく利用できてしまうような神に、「神という作業仮説」、「機械仕掛けの神」と名付け、それは真の神ではないと語っています。
むしろ聖書が示す、まことの神は、主イエスをして、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばせた神です。人格を持ち、私たちが願いや思いを持つように、神ご自身も聖なる願い、聖なる御心を持って生きて働かれるお方です。
ですから、ボンヘッファーは、そうした神を信じるということについて次のように続けています。「神の前で、神と共に、神なしに生きる。神はご自分をこの世から十字架へ追いやられるにまかせる。神はこの世においては無力で弱い。そしてまさにそのようにして、ただそのようにしてのみ、彼はわれわれのもとにおり、またわれわれを助けるのである。」
神の沈黙、神の無力さを感じる時、実は私たちの思いをはるかに超えたご自身の御心がある。時にそれは、私たちの眼に沈黙であり、無力さとしか映らず、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばせるような思いになることだってあるかもしれない。しかし、たとえそうだとしても、善き御力、善き御心をお持ちの愛なるお方が、イエス・キリストの神であると信じ、そのお方から引き離そうとする誘惑からお守りください、と祈りの手を挙げ続けていきたいと願います。お祈りします。