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主日共同の礼拝説教

天から来られる方

松本雅弘牧師 説教要約
イザヤ書9章1-6節
ヨハネによる福音書3章31-36節
2023年2月12日

Ⅰ.「上から来られる方」とは?

今日の箇所を見ますと、このヨハネ福音書の「書き出しの言葉」同様、主イエスご自身が、どのようなお方であるのかが語られています。
ただ一つ、確認しておかなければならないことがあります。新共同訳聖書ではこの箇所が全部カギ括弧でくくられ、洗礼者ヨハネが語った言葉の続きになっています。
何故、こんなことが起こるかと言いますと、元々のギリシャ語の新約聖書には章や節の区切りもありませんし、まして、会話文を示すカギ括弧もありません。専門家たちが前後関係を考えながら、カギ括弧を添えるのです。実は、これこそがヨハネ福音書の特徴なのですが、洗礼者ヨハネの発言であるのを超えて、いつの間にかヨハネ福音書記者自身の言葉になってしまう。もっと言えば、当時のこの福音書を書いたヨハネが属していた教会の信仰の告白が、ここに示されていると専門家たちは考えるのです。
こうしたことを踏まえて、今日の箇所を読んでいきたいと思うのですが、今日の箇所は、イエスというお方がどのようなお方なのかを語っている箇所と言えるでしょう。

Ⅱ.神の言葉

ところで、この福音書は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ1:1)と語り始め、主イエス・キリストが神の言葉そのもののお方であると語ります。そのことを受け止めるように34節で「神がお遣わしになった方は、神の言葉を語られる」と記しています。つまり「上から来られる方」、すなわち主イエスというお方は、父なる神がお遣わしになった方であるがゆえに、神の言葉をお語りになる方なのだというのです。
ところで、教会ではよく「神の言葉」という表現を耳にします。例えば、私たちは聖書を「神の言葉」と信じています。また主イエスご自身が「神の言葉」であり、「神の言葉」を語るお方なのだとヨハネ福音書は伝えています。さらに、テサロニケへの信徒への手紙を読みますと、礼拝で語られる説教そのものを「神の言葉」と理解していることが分かります(Ⅰテサロニケ2:3)。
ある神学者は様々な意味合いを持つ「神の言葉」について三つの側面から整理します。一つは「肉体を取られた神の言葉としての主イエス・キリスト」、二つ目に「書かれた神の言葉」としての聖書、そして三つ目は「語られた神の言葉」としての説教です。
この後、5章に次のような主イエスの言葉が出て来ます。「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ。それなのに、あなたがたは、命を得るために私のもとに来ようとしない。」(ヨハネ5:39-40)「書かれた神の言葉」としての聖書も、「語られた神の言葉」としての説教も、主イエスが誰であるかを明らかにする。イエスさまによれば、聖書は主イエスを証しする書、主イエスにあって命をいただくために、主イエスへと導くのが神の言葉なのです。

Ⅲ.神の言葉と私たち

ある時、主イエスは都エルサレム、それも神殿の境内で教えておられたことがありました。そこに祭司長や長老たちも居て、教えている主イエスを問いたださずにはいられなくなったことがありました。そして主イエスから返って来る答えが正しいかどうかを、権威者である自分たちが判断しようとしたというエピソードが福音書に出て来ます。
ところが、主イエスは祭司長、長老たちの質問に答えようとしない。逆に主イエスの方が「私も一つ尋ねる」と、権威者である彼らに問い返しました。その結果、彼らの間に議論が始まり、その末に彼らが用意したのは「分からない」という答えでした。
神殿の境内で、主イエスが対峙された祭司長や長老たちにとって、自分たちが基準、権威なのです。そのようにして彼らは判断し、そして最終的に主イエスの問いかけに対する答えは、「分からない」。これが彼らの答えだったことを伝えています。神の言葉ご自身である主イエスがお語りになっているにもかかわらず、それを真正面から受けて立たずにスルーしてしまう。「分からない」、もっと言えば「分かりたくない」、「知りたくない」という姿勢でしょう。これは私たち自身も気を付けなければならないと思うのです。

Ⅳ.「神の言葉」に聴く

高校の時、初めて教会の礼拝に出席しました。今でもその時のことを鮮明に思い出します。案内された席が最前列の真ん中から二つ目の席、その教会では牧師の席が講壇の上にありましたから、牧師と真向かいなのです。ですから初めから終わりまで緊張し通しだったことを覚えています。
その日の午後に高校生会主催の伝道集会があり、同じ高校生なのにどこか違う。ギターの伴奏で共に歌ったゴスペルソングの歌詞にある世界観にとても心惹かれました。それがきっかけで求道生活が始まりました。
〈同じ高校生なのにどこか違う〉と感じた、その違いはどこにあるのだろう、というのが求道のきっかけですが、今から考えますと、礼拝に出席し始め、また聖書の言葉に触れることで、私の心の中に次々と浮かんできた様々な問いがあったので、礼拝に続けて出席できたのではないかと思います。
ただ次第に不思議な経験をしていきました。それは、問いをもって出席し続けている私が、今度、聖書の言葉によって問われてくるのです。「床を担いで歩きなさい」「あなたは私を誰と言うか」。ある牧師が語っていました。「問われていることを知らないと、信仰はよく分からない」と。私の小さな経験からもそうだと思います。問われていることを知って、初めて信仰の世界が開かれてくる。
先週、洗礼者ヨハネの来ていた服装から、創世記の中で、神さまがアダムとエバの為に皮の衣を作って着せてくださったことに触れました。そのことが語られた同じ創世記3章に、とっても大切な神さまからの「問いかけの言葉」が出てきます。「どこにいるのか」、新共同訳聖書では「あなたはどこにいるのか」と問いかける神の言葉です。
カンバーランド長老教会の神学者、ヒューバート・マロウ先生は、この問いかけこそ、旧新約聖書全巻を貫く神からの問いかけである、と語っています。「あなたはどこにいるのか」。私たちが、この問いかけに気づき、振り返った時、そこに両手を広げて私たちを迎え立つ神が待っておられる。そのような意味で、神の言葉は私たちに応答を求める、問いかける言葉だということでしょう。
ある時、主イエスは「蒔かれた種の譬え」を御語りになりました。蒔かれる御言葉の種はみな同じです。一つひとつの種には命が宿っています。では違いはどこにあるのか。それを受け止める者の心の姿勢という「土壌」に違いがあると教えられました。
道端、石だらけの地、茨の中。そこにいくら種が蒔かれても実を結ぶまでに成長しない。言い換えれば、御言葉を自分のこととして聞く姿勢がない時、聖書の知識は増えますが、現実の生活には何の変化も起こらないのです。
主イエスはおっしゃいます。「ほかの種は、良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍になった。」そして、『聞く耳のある者は聞きなさい』と言われた。」(マルコ4:8-9)
「聞く耳のある者は聞きなさい」。自分に語られたこととして聞くことです。「この御言葉、あの人に聞かせてやりたい」と思って聞くことはないでしょうか?「息子に聞かせてやりたい」と感じることはないでしょうか?でも、主イエスは、あの人や息子に聞かせる前に、あなたに語っておられる。ですから私自身が自分に語られた神の言葉としてきくことこそ、「聞く耳をもって聞く」ということでしょう。
使徒ヨハネは語ります。「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。…神がお遣わしになった方は、神の言葉を語られる。神が霊を限りなくお与えになるからである。御父は御子を愛して、その手にすべてを委ねられた。御子を信じる人は永遠の命を得る。しかし、御子に従わない者は、命を見ることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」
聖書に登場する信仰の先輩たちの誰もが、「上から来られた方」、すなわち主イエスの御言葉に耳を傾けました。しかも、常に自分に語られたこととして御言葉を聞く習慣を持っていました。それが基本です。その基本に立ち返る必要があります。
そのようにして私たちが、聖書を、また聖書の説き明しである説教を神の言葉として聞く時、いや、神の言葉そのものであるお方の許で、その語りかけに耳を傾ける時、時に罪が示されることがあります。また十字架の意味がよく分かり、赦しの実感が与えられる経験をするでしょう。本当に心から信仰が成長することを求め、神さまの愛に応え、御言葉に従って生きていきたいという思いが起こされていくでしょう。あるいは神の言葉が示されても、その御言葉に応答できない自分と直面し、そのことのために悲しみ、悔い改めに導かれていくこともあるかもしれません。こうした一つひとつのことが全て、神の言葉なる主イエス・キリストと向き合い、そのお方の語りかけを真剣に受けとめる時に起こることなのです。
私たちは、神が与えてくださる命を豊かに受け取るために、神の言葉そのものであられる主イエスの許に行き、聖書を通し、また説教を通して語りかけてくださる神の御言葉を大事に大事にしていきたいと願います。
お祈りします。

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この人を見よ、と指し示す人生

松本雅弘牧師 説教要約
歴代誌上29章10-20節
ヨハネによる福音書3章22-30節
2023年2月5日

Ⅰ. 「生きる」

神さまの/大きな御手の中で/かたつむりは/かたつむりらしく歩み/蛍草は/蛍草らしく咲き/アマガエルは/アマガエルらしく鳴き/神さまの大きな御手の中で/わたしは/わたしらしく生きる
小学校4年生の時に、赤痢にかかって、口を利くことも、また体を動かすこともできなくなってしまい、「あいうえお」の表を見ながら瞬きで一つひとつの言葉を紡いだ「瞬きの詩人」と呼ばれ愛された水野源三さんの「生きる」という詩です。私は、洗礼者ヨハネのことを思いながら、この詩を思い出したことであります。
そこには自分以上でもない、自分以下でもない、ありのままの自分として、しっかりと生きる水野源三さんの姿が、今日の箇所に出てくる主イエスを証言する洗礼者ヨハネと重なるからです。

Ⅱ. 洗礼者ヨハネの弟子たちの不満

主イエスは弟子たちを連れて「ユダヤ地方」に移動しながら洗礼を授けておられたとヨハネ福音書は伝えています。一方、洗礼者ヨハネはガリラヤ湖と死海の間で、ヨルダン川の西側の地で活動していました。
「イエス」という名の教師が登場するまでは、人々はヨハネ先生に注目し、先生から洗礼を受けることを願い、先生の教えに喜んで耳を傾けていたのです。ところが今や情勢は一変し、「イエスは上り坂、そしてヨハネは下り坂」となった。ヨハネ1章にも出て来ました、アンデレやシモンも先生よりも後からやって来たイエスの方についてしまった。そんな中、ヨハネの弟子たちはしびれを切らしたのだと思うのです。
「ヨハネ先生、あのイエスと言う人は、あなたから洗礼を受けた人でしょう。それが今、みんなあの人の方に行っていますよ。放っておいてよいのですか」。そう言いたかったのではないかと思います。

Ⅲ. 洗礼者ヨハネの生き方

こうした弟子たちの投げかけに対する洗礼者ヨハネの応答がとても冷静かつ謙虚なのです。「私はメシアではなく、あの方の前に遣わされた者だ」(28節)。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人は立って耳を傾け、花婿の声を聞いて大いに喜ぶ。だから、私は喜びで満たされている」(29節)。「あの方は必ず栄え、私は衰える」(30節)。洗礼者ヨハネはこのように答えたのです。
特に、30節に記されている最後の言葉は、直前の29節との関連で読むべき言葉だと思います。つまり諦めとかひがみや悔しさからの言葉では決してなかったと思います。むしろ、ヨハネ自身が「私は喜びで満たされている」と告白するように、そのことを喜んでいる、という証言の言葉でしょう。
このヨハネの証言から、イエスをキリストと信じて歩んでいた信仰の大先輩、洗礼者ヨハネの生き様から三つのことを学びたいと思うのです。
 一つは、洗礼者ヨハネは「自分が何者であるかを知っていた」ということ。もっと言えば、「自分は誰であって、誰でないかをはっきりとわきまえていた」という点です。
 私たちは自分が見えない時、人の言葉に揺れ動くことがあります。アンテナを張り巡らすように周囲に気を遣って生活していますと、確かに様々な情報をキャッチできますが、反面、必要以上に人の意見や評価に踊らされ、自分を見失ってしまうことが起こります。人の顔色を伺(うかが)い、行動に一貫性を欠いてしまいます。でも洗礼者ヨハネはその逆の生き方だったと思います。ヨハネは自らを「あの方の前に遣わされた者」、つまり「あくまでも自分は主イエスの先駆けとして遣わされた者」と告白し、自分以上でもない、また以下でもない等身大の自分を受け入れ生きていました。
 私たちは神さまを見失うと、必ず「横との関係」が気になってしまいます。「人と比べて生活していても、何の良きこともない」。誰もが頭で分かっていることでしょう。でも、そうしたことが身についてしまっている。いつもそうしてしまう。なんで人と比べたがるのでしょう?人の目が気になるのでしょう?聖書は語ります。それは、本当に気にすべきお方の眼差しを気にしていないから。それが聖書の答えなのです。
 神さまは私たちを人間として造ってくださった。聖書によれば人間とは「上を向く者」、「神を礼拝する者」です。上を見上げて神を礼拝する時に始めて、私は私として生きることができる。ある方は、それは人生に縦軸をいただくことだ、と語っていました。
 「主を畏れることは知識の初めである」という有名な御言葉があります。「畏れる」という漢字は「恐怖」の「おそれる」を当てるのではなく、「畏敬の念」の「おそれる」という漢字です。畏れ敬う、尊敬する。言い換えれば、「神さまを神とする」ことです。
真の神さまを神として敬(うやま)わない時に、不思議ですが私にとって「別の何か」が必ず「カミ/私を救い、私を支え生かすもの」になる。例えば、お金だったり、持ち物だったり、友人からの評価であったり…。洗礼者ヨハネは、「神さまと自分との関係」、人生に「縦軸」をいただいていましたので、「横の人間関係における比較の世界から自由だった」のです。
 二つ目は何でしょうか。それは自分をお造りになった神さまとの関係において自分が誰であるのかを知っていた、ということです。
 ヨハネは「花婿イエスさまの介添え人だ」と語っています。当時、ユダヤの結婚式での「介添え人」とは「結婚を成功させる仲人」のことです。ここでヨハネは結婚を譬えに語っていますが、花婿イエスさまに紹介される花嫁が、実は、「私たち」です。花婿なるイエスさまと結婚するために、私たちは様々な意味で準備を必要とします。
ご存知のように洗礼者ヨハネは「悔い改め」を説きました。身を清めて待つために、「罪のゆるしの洗礼」を施しました。ですから、晴れて結婚が成立したならば、当然、「介添え人」の役目も終わり近くなります。ですから「あの方は必ず栄え、私は衰える」と語ったのはそうした意味です。そのように自分はどのような者かをわきまえていましたから、結婚の成立を見た時に、介添え人としてのヨハネは大いに喜んだのです。何故なら、自分が誰であり、自らのなすべき務めを受け止めて生きていたからでしょう。
最後、三つ目ですが、「人は、天から与えられなければ、何も受けることはできない」と語る洗礼者ヨハネに「信仰の確信」を見る思いがします。
ご存知のように、洗礼者ヨハネの活動の現場は「ユダヤの荒野」がメインでした。ヨハネが活動した「荒野」、それはユダヤの人々にとって特別な思いを抱かせる場所でした。ユダヤ人はそこで何を経験したか。それは自らの罪です。自らの罪を嫌というほど知らされた場所が荒野だったのです。そして「荒野」にはもう一つの側面があります。それは、そのような自分たちを見捨てず、愛と忍耐とをもった導きを体験した場所こそが荒野だった。つまり、「人は、天から与えられなければ、何も受けることができない」ということをイスラエルの民は繰り返し繰り返し体験した。それが荒野だったのです。
人間がとうてい生きていくことのできない場所、神の助けなくしてはどうにもならないような場所が荒野です。人間の罪が深ければ深いだけ、神さまの愛をその場所で体験していった。それがイスラエルの民による「荒野の体験」でした。
神さまの他、誰も頼ることのできない荒野の経験により、ヨハネの口から確信の言葉が語られた。27節「人は、天から与えられなければ、何も受けることができない。」これはヨハネ一人の確信ではなく、私たち一人ひとりが神さまに真剣に求めるべき、大切な信仰の確信なのではないかと思います。

Ⅳ. 「人は、天から与えられなれなければ、何も受けることができない」

冒頭で、水野源三さんの詩を紹介しましたが、最後にもう一つご紹介して終わりにしたいと思います。
たくさんの星の中の一つなる地球/たくさんの国の中の一つなる日本
たくさんの町の中の一つなるこの町/たくさんの人間の中のひとりなる我を
御神が愛し救い/悲しみから喜びへと移したもう
水野源三さんはどうにもならない「自らの小ささ」を実感しつつ、そのような小さな者を愛し、救い、悲しみから喜びへと方向転換させる神さまの御手の働きに驚き、感動しています。これはまさに洗礼者ヨハネが語る、「人は天から与えられなれなければ、何も受けることができない」という信仰の確信に通じる告白なのではないでしょうか。
「人は、天から与えられなれなければ、何も受けることができない」。言いかえれば、上手くいってもいかなくても、失うものなどない。全ての良きものは、天から、すなわち神さまから与えられるもので、私たちが自分の力や努力で生み出すものではない。必要なものは必ず神さまが与えてくださる、失うものなど何もないのだ、と言う本当に力強い確信の言葉です。
洗礼者ヨハネはこの確信に生きることで、主イエスがキリストであることを喜びをもって証しすることが出来た。私たちもこのヨハネに続く者でありたいと願います。
お祈りします。

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神様からの目で

和田一郎副牧師 説教要約
詩編9編2-11節
ルカによる福音書21章1‐4節
2023年1月29日

Ⅰ. やもめの献金

イエス様は、エルサレムの神殿で毎日神について語っていたのです。そこで、貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を神殿の献金箱に投げ入れたのをイエス様は御覧になっていました。レプトン銅貨二枚というのは今の価値では百円ほどだそうです。一方で「あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金した」とあるので、裕福な人たちが多くのお金を献げている様子も見ておられたのです。現代のように女性が働いてお金を得る事は難しい時代でしたから、やもめの生活は厳しかったでしょう。彼女にとっては貴重で、ありったけのお金だったのです。裕福な者が「有り余る中から」献金したのに対して、やもめは「生活費を全部入れた」と。ここでは金額を比べている訳ではありませんが、たくさん献金することが神様に喜ばれることだと示しています。献金の目的は祭司たちの生活であったり、 神殿の維持管理ではないのです。もしそうであったら、会員制クラブの会費や、税金と同じになってしまいます。しかし献金は信仰によって自主的に払うものですし、何よりも神様に感謝して捧げるものです。

Ⅱ.旧約と新約にみられる献金

献金の源流は、創世記からはじまります。カインとアベルという兄弟がいました。兄のカインは土地の実りを供え物として、神様に捧げ、弟のアベルは「羊の初子、その中でも肥えた羊を持って来た」(創 4:4)とあるのです。これが神様への捧げもの、献金の源流です。二人の捧げもののうち、神様はアベルの羊の初子、その中でも肥えた羊に目を留められたのですが、カインの土地の実りの供え物は喜ばなかったのです。アベルの捧げた羊は初子の羊、最初の羊の子ですから、自分より先に神様に捧げたのです。しかも肥え太った高価な羊でした。自分にとって精いっぱいの捧げものだったのに対して、カインの捧げものはそうではなかった。捧げものは神様への感謝と信頼を現わしているのです。
新約聖書では、使徒パウロが経済的に困窮していたエルサレム教会のために献金を集める活動が記されていました。(コリントの手紙二8章4-5節)そこでマケドニアの教会はすすんで協力したのです。エルサレム教会に献金することは恵みにあずかることだと、喜んで捧げたのです。しかも、自ら奉仕をしたいと申し出たのです。献金も奉仕も神様に捧げるものです。それを彼らは恵みにあずかるのだと言いましたし、パウロは「恵みの業」といったのです。献金、奉仕は、神様に捧げることができる「恵みの業」なのです。
やもめの献金は、アベルが初子の肥えた羊を捧げたように、マケドニアの教会が「恵にあずかりたい」と言って捧げたように、やもめにとって精いっぱいの捧げものを献金箱に入れた。それをイエス様は見ていて、弟子たちに教えたのです。

Ⅲ. 「やもめ」と「律法学者」

ところで、このやもめの女性の神様に対する姿勢と正反対にあるのが、一つ前の箇所ルカ20章45-47節にでてくる「律法学者」です。
イエス様は、彼らは立派な服を着て町を歩いて、人々にうやうやしく挨拶されること、周りの目を気にして人に見えるように祈りをしていた。そんな心を見て、弟子たちに注意するようにと教えたのです。確かに彼らは礼拝を守り、祈りも熱心にしていたでしょう。それらは決して悪いことではありません。しかし、自分を良く見せたいという欲が潜んでいるのです。20章47節の「見せかけ」という言葉が示しています。自分は正しいと見せかける、信仰深いと見せかける、他人の評価を気にして見せかける心の姿勢です。イエス様は「人の前で善行をしないように注意しなさい」(マタイ6:1)と山上の説教で言われました。そしてイエス様は目を上げて金持ちと、やもめが献金している姿を見たのです。見せかけの律法学者とやもめは正反対です。やもめは、周りの目など気にしていませんでした。神様だけを見てレプトン銅貨二枚をささげました。その心の様子をイエス様は御覧になっていたのです。

Ⅳ. 「見せかけ」の生き方

この話を聞いて、素直にやもめを見習いたいと思える人は少ないかも知れません。私も、やもめの女性より、律法学者の方に近いところがあります。中学の時、私は新設校で新しく作った野球部のキャプテンになったのです。キャプテンになると全校生徒の前で挨拶をしたり、目立っていたのでしょう、いろんな人から「野球部のキャプテン」と声を掛けられるようになりました。大会が終わって野球部を引退した時、ふと「ああ、ただの人になった・・」と感じてしまったのを覚えています。勿論、もともと、ただの人なのですが、キャプテンというアイデンティティが強くて夢中になっていましたから、役割が終わったとたんに気が抜けてしまったのです。振り返ると自分がキャプテンとしてどう見られているのだろうか?他の部活のキャプテンと比べてどうだろう。同級生から、下級生から、先生方から見てどう映っているのかと意識していて、いつも気を張っていたように思います。その頃は教会にも行っておりませんでしたから、信仰もなかったのです。人の目を気にしてばかりいた、それは社会人になってからも同じでした。やがて教会に来るようになった時、東日本大震災のボランティアで気仙沼に行きました。現地で奉仕する牧師や宣教師たち。がっしりとした体格で泥かきをする牧師もいれば、アメリカから、はるばるやって来た宣教師は、体力がなくて腰を痛めて泥かきを眺めていました。それでも彼は、みんなを和ます賜物を持っていた。誰が一番泥かきができたかではなくて、それぞれの賜物で奉仕をしていた、それでみんなが喜んでいた。神の国がここにあるのだと思いました。信仰は、私の目線を人の評価から、少しづつ神様の御心を求めるように変えていきました。

Ⅴ.  誰よりもたくさん

本当の自分らしさは他人の顔を見ることからは見つかりません。あなたは高価で貴いとおっしゃる神様を見ることで、自分の価値を認識できるのです。私のように罪深く、人の目を気にしている、自己中心的な人間でも神様は愛してくださっている。神の愛は決して変わることがありません。やもめの女は、その神様への信頼がしっかりとしていたのでしょう。惜しげもなく、周りの目を意識せずに献金していたのです。イエス様は「この貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れた」と言ってますが、誰よりもたくさんとは、金額ではなくて、誰よりも喜んで入れたということなのです。誰よりも恵みにあずかっているのだという信仰です。「持っている生活費を全部」というのも、生活費をすべて使い果たして献金したから良いのではなくて、彼女の生活のすべてにおいて、神様を信頼した生活であって時間や賜物においても捧げていたのです。生活全部が奉仕であって、恵です。ですから、本当の意味で自分を神様に献げていた。だから彼女は、他の人と自分を比較することから解放されていました。見せかける必要はまったくない、自由でいられるのです。本当の自由が与えられているのです。自分の第一のものを、第一の方へ、それを承認してもらうために、他人の目を必要としません。神様からの目で喜ばれているだろうか、それだけで十分なのです。
今日は、やもめが献金する姿から、献金、献身、奉仕、それら全てにおいて大切な心を考えてきました。第一のものを、第一の方へ、神様から喜ばれるものを、この一週間捧げていきましょう。
お祈りをいたします。

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個のちから

和田一郎副牧師 説教要約
ダニエル書7章13-14節
ルカによる福音書4章16-30節
2023年1月22日

Ⅰ. ふるさとの山はありがたきかな

最近、叔母の家に行くことがよくあります。そこから見る富士山と大山が見事なので、いつも立ち止まって眺めています。石川啄木の歌に「ふるさとの山に向かひて言うことなし ふるさとの山はありがたきかな」というものがあります。叔母を訪ねるのはふるさとに帰るような懐かしさを覚えて、そこで、ふるさとの山、富士山と大山の景色を眺めて「ありがたきかな」と思えるのですね。今年の目標の一つとして、その大山に家族で登ろうと思っています。

Ⅱ. 故郷ナザレの反応

イエス様も、生まれ育ったふるさとの町に帰ってきました。しかも、一人で行かれたようなのです。イエス様の公生涯は、弟子たちと一緒にいるようなイメージがありましたが、今日の箇所では、一人ナザレの町の会堂へと入っていったのです。そこで17節「預言者イザヤの巻物が手渡されたので、それを開いて、こう書いてある箇所を見つけられた」とあります。当時の聖書というのは、手書きで書かれた巻き物です。今のように六十六巻が一冊の本になっているというものではなくて、イザヤ書であれば、イザヤ書だけの巻き物なのです。
朗読をされたあと、説教をされました。21節「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言されました。イザヤ書の内容は、主の霊が私に臨んだ、主が私に油を注がれた、主が私を遣わされたというのです。「私」というのはイエス様ご自身のことを言うのですから、イザヤの預言が、この私に実現したと語られたのです。
最初は説教を聞いて素晴らしいと褒めたのです。ところが22節「この人はヨセフの子ではないか」と言う人がいました。ナザレは小さな町で人々は、イエス様の両親であるヨセフとマリアのこともよく知っていました。その会衆の反応を見てイエス様は言われました。イザヤ書に書かれている救い主が現れるという預言が自分のことだと言うのなら、奇跡を行って見せてみろというに違いないと、先を見通して言われたのです。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだからです。イエス様が神から遣わされたという証拠を見せてもらいたいと、彼らは思っているのです。そもそも預言者というのは、神様の御言葉を預かって語る特別な人です。ところが小さな頃から知っているイエス様の言葉は、あの大工の息子の言葉としか聞くことができなかったのです。
そこで、譬えに出されたのが、預言者のエリヤとエリシャの話です。エリヤはイスラエルに3年6カ月にわたる大飢饉が起こった時、イスラエルではなく外国のシドンのやもめの所に行き、彼女の家族を救ったのです。エリシャもイスラエルに皮膚病で苦しんでいる人がいるにもかかわらず、外国人のナアマンの皮膚病を癒された。エリヤとエリシャの話は、ユダヤ人たちが、自分たちこそ神に選ばれた特別な民で、自国優先意識をもっている人は救いに与れなかった。むしろ外国人に救いがもたらされた話なのです。それは、ナザレの人達よ、あなた達と同じだろうとイエス様は言われたのです。
イエス様の話しを聞いたナザレの人々は怒りました。彼らは総立ちになってイエスを町の外に追い出し、それだけではなく崖から突き落として殺そうとしたのです。その殺意の背景にあったのは、イエス様が預言者だというのなら、奇跡を起こしてみろ、私たちが見てやる、神の言葉を扱う者かどうかは、自分達で判断するという思いがあったのです。ところが、救いに与るのはあなた達のような者ではない、とイエス様に言われたことが殺意になっていった。要するに正しいことを判断するのは自分である。いや正しいとか悪いとかを超えて、この町で偉いのはこの自分だという自己中心的な考えです。

Ⅲ. 人々の殺意

ナザレの人々の殺意は今の世界と重なるところがあるのではないでしょうか。ロシアのジャーナリストが、ウクライナとの戦争で戦死した母親に取材を申し込んだそうです。しかし、戦争に批判的なジャーナリストの取材に応じると、国から戦死した遺族に支給されるお金がもらえなくなるから拒否したと。その母親は、そのお金を娘の家を建てるのに使うのだそうです。つまり息子の命を悼むよりお金を優先しているのです。かつて、ソ連がアフガニスタンに侵攻して、戦死したロシア人の母親たちに取材をした時は、息子たちの命を惜しんで、戦争をはじめた国の指導者たちを批判していたといいます。ロシアだけではなく世界中で命の尊厳が薄らいでいる、自国優先主義が広がっています。イエス様を殺そうとしたナザレの人々は、自分たちの判断を第一として聞く耳をもちませんでした。それは、私たちも含めて他人事ではないと言えるのではないでしょうか。

Ⅳ. 故郷で受け入れられない

今日の聖書箇所の最初のところで、イエス様はご自分の育ったナザレに行き、お一人で会堂に入っていかれました。そして、終わりに30節「イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」と書かれているのが印象的でした。一人、会堂に入って行き、一人立ち去って行かれた。人々の殺意の中を、受け入れてもらえない、という虚しさを覚えて去っていくイエス様の背中が思い浮かぶのです。イエス様は、救いをもたらす救い主でありながら、一人の人として会堂に入られ、一人去って行きました。私たちが生きている、この世の生活においても孤独があります。多くの人の中に住んでいても、周囲からは見えない孤独が広がっています。殺意を感じながら生活している人がいます。イエス様はそのような淋しさや、孤独や、殺意の中を歩まれていました。私たちと同じ、一人でいる孤独な淋しさ、虚しさ、殺意の恐ろしさを分かってくださる方です。そういうことは誰にでもある、なんて扱わないのです。人にはまったく理解してもらえない虚しさを味わったイエス様だから、私たちの痛みに寄り添ってくださるのですね。
わたしの家族は、5歳の息子が夜寝る前に布団の上で絵本を読んだりして過ごすのですが、妻が「最近、年をとったかな?」と言ったら、息子が「ママもいつか天国に行っちゃうの?」と言うのです「それはそうだよ、いつか天国に行くのだよ」と答えると、息子は「ワー」と大泣きしました。人はいつか死を迎えるということが、自分の親もいつの日か・・・と感じていたようです。それから「パパとママが天国行っちゃうと、ボク一人になっちゃうよ」「ボクご飯作れないよ」と一気に言いました。イエス様も、死というものを意識して祈りました、「できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください」と。
わたしたちは一人では、どんなに力を尽くしても打ち勝つことができない弱さがあります。その私たちと同じ弱さを、イエス様は身に受けてくださいました。イエス様が歩まれた淋しさや恐れは、私たちの淋しさや恐れと同じです。しかし、この方はイザヤ書にあるように、主の霊が望んだ方、主が油を注がれた方です。完全に人であり、完全に神であられる唯一の力を持っている方です。
世のすべての罪を一人背負って十字架に架かってくださり、孤独を味わってくださいましたが、この方は孤独で終わる方ではありません。死に打ち勝ち、神の家族という、ふるさとを作ってくださったのです。ご自身は故郷で受け入れられませんでしたが、私たちのために、永遠のふるさとを天に備えて下さったのです。「私たちの国籍は天にあります。」唯一の方の後ろ姿に、従っていれば、小さな私たちであっても倒れることはありません。  
お祈りいたしましょう。

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主日共同の礼拝説教

神様がくれる参加賞

金山達成神学生  奨励要約
エレミヤ書9章22-24節
フィリピの信徒への手紙3章10節-4章1節
2023年1月15日

Ⅰ.新年の目標

 年が明けて、早くも半月が過ぎようとしています。皆さんは、2023年、どのような目標を立てたでしょうか。
 本日お読みしたフィリピの信徒への手紙の3章では、手紙の著者パウロが、フィリピという町の教会に対して、ある目標を指し示しています。この手紙から、この1年私たちはどのように進むべきか、思いを巡らせてみたいと思います。

Ⅱ.パウロが目指している目標とは?

 10-11節を見ると、パウロは、自分の人生とイエス様の人生が重なる、そんな生き方をしていきたいと願っていることが分かります。つまり、イエス様のように生きること、それが人生の目標だ、と語っているのです。
ただ、イエス様のように生きる、というのは簡単なことではありません。12-13節を見ると、パウロ自身もまだその状態に到達したわけでもないし、何とかして捕らえようと努めている、と語っています。
 でも、私たちはこの地上生涯を歩む中で、少しづつではあるかもしれませんが、イエス様に似た者へと変えられていくことができます。そのカギは何か。自分の人生とイエス様の人生が重なっていくためのカギ、それは、イエス様にあって喜ぶことだ、とパウロは語ります。このフィリピの信徒への手紙の、大きなテーマになっている言葉は「喜び」なんです。

Ⅲ.喜びつつ目標達成を目指す

 フィリピの信徒への手紙は、パウロのフィリピ教会に対する献金の感謝をきっかけに書かれ、「喜びなさい!」という励ましのメッセージが込められています。
 「喜びなさい!」と言われると、「そんないつも喜んでいられるときばかりじゃないよ…」と思われるかもしれません。この手紙での「喜びなさい」という勧めは、決して無理にポジティブでいなさいとか、空元気(からげんき)で頑張りなさい、という意味ではありません。
ここでの「喜び」とは、イエス様のことを知り、そしてイエス様の見方でこの世界を見られるようになっていくときに、今この瞬間から生き方が変えられていく、そしてその変化はやがて完成する、という期待感から来る喜びです。感情や環境に左右されるものではなく、神様が十分信頼できるお方であるからこそ生じるものです。
イエス様のように生きるという目標は、私たちが目指し続けるべき目標です。

Ⅳ.目標を達成するためのポイントは?

 パウロは他の手紙でも、信仰生活をマラソンのような競技に例えて話していますが、このマラソンを走るうえでの大事なポイントは、13節にあるように、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向ける」という、前進しようという姿勢です。少しづつでもいいから、前に進もうとする。現状に満足しない。上昇志向とも言えるような姿勢が大切になってきます。すべての人は追求者であれ、ということです。
 ここで1つ引っかかるのは、「後ろのものを忘れ」という表現です。これは、過去の記憶を無くせ、とか、過去を無かったことにしろ、ということではありません。今までに体験した神様の恵みと祝福を思い起こすことや、神様がこれまでに自分の人生をどのように導いてくださったかを思い返すことは、とても大切です。それは、マラソンを走るためのモチベーションになります。なぜなら、「これから先、神様は私の人生にどんなことをなしてくださるのだろう」と期待することができるからです。
「後ろのものを忘れる」とは、「過去に囚われてはいけない・縛られてはいけない」ということです。パウロも、以前の罪や弱さを忘れてしまったのではありません。その状態から神様によって変えられた、という恵みを喜んでいるからこそ、大胆にイエス様のことを語ることができました。
 過去の恵みを定期的に思い出し、忘れないようにすることは大切ですが、「自分は過去にこんな失敗をしてしまった…」と歩みを止めてしまうべきではありません。私たちは、この2023年、そしてその先の人生に、神様がなしてくださるみわざに期待したいと思います。

Ⅴ.目標達成の先にあるものは?

信仰生活というマラソンを走り終え、イエス様に似た者へと変えられていくその先には、一体何が待っているのでしょうか。14節には、「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得る」と書かれています。この地上での信仰生活というマラソンを終えたときには、神様が全員に賞を与えてくださる、というのです。神様がくれる参加賞、です。
 この参加賞は、形式的なものではありません。信仰生活というマラソンは、人によってスタート地点も違いますし、走るペースも違います。時には倒れてしまうことや、逆走してしまうことがあるかもしれません。それでも、最後まで走り切った一人一人の存在を心から喜んでくれて、イエス様と顔と顔を合わせた交わりをもつことができる。パウロは、そのようなゴールがあるということにワクワクしながら、信仰生活というマラソンを、それぞれのペースでいいから、走り続けなさい、と勧めているわけです。

Ⅵ.おわりに

信仰生活のマラソンは、1人で走れるものではありません。パウロはこの手紙の中でずっと、「きょうだいたち」とか「あなたがた」というように、教会全体に語りかけています。17節には、「きょうだいたち、皆一緒に私に倣う者となりなさい」と、パウロ自身の目標をシェアしています。
私は2021年の4月から高座教会で研修をさせていただいて、もうすぐ2年が経とうとしています。この2年間、本当に充実した研修をさせていただけたことを感謝しています。私が研修を通して高座教会に対して抱いたイメージは、「信仰生活というマラソンをみなで一緒に走っているキリストのからだ」です。多くの方々が集っていて、1人1人、歩んできた道のりや考え方も違うけれど、お互いのことを尊重し合いながら、一致して、同じ方向へ向かおうとしている。お互いの長所と短所を組み合わせながら、教会が、まるで1つの生き物のようにして機能している。これは本当に素晴らしいことだと思います。
高座教会での研修を通して、ありのままで神様の前に進み出て礼拝することの大切さや、隣人愛を実践する中で成長していく教会の素晴らしさなど、数えきれないほど多くのことを体験でき、感謝の気持ちでいっぱいです。
私の高座教会での研修は、3月で終わりになります。その後は、皆さんと仕える教会は変わりますが、同じ主にある兄弟姉妹として、ともに励まし支え合いながら、信仰生活というマラソンを走り続け、やがて地上生涯を終えたときに、神様から最高の参加賞を受け取って皆さんとともに喜ぶことを、待ち望みたいと願います。
お祈りいたします。