2016年9月11日 敬老感謝礼拝
松本雅弘牧師
詩編90編1~12節
コリントの信徒への手紙二 3章18節
Ⅰ.お誕生日カードを書きながら思うこと
高座教会の牧師の務めの1つに、教会員の皆さまにお誕生日カードを書くというものがあります。1歳になった赤ちゃんから、ご高齢の方に至るまで、たぶん、毎月100枚ほどのカードを書かせていただいていると思います。そのカードには「お誕生日、おめでとうございます」と初めから印刷されているのですが、ふと私は、自分のことと重ねあわせながら考えることがあります。「お誕生日、おめでとうございます」と他人から言われることは嬉しいのですが、でも歳を重ねることがおめでたいことと思えない自分を発見し、カードを書きながら少し複雑な思いになることがあります。それは歳を重ねるということは、一体どういう意味なのだろうかと最近思うからです。
今日は敬老感謝礼拝です。聖書から「歳をとることの意味」について、ご一緒に考えてみたいと思います。
Ⅱ.聖書における子ども・若者と年長者
聖書全体を眺めてみるとき、そこにはたくさんの若者が登場します。例えば、モーセは若くして神さまの召しを感じました。その後継者のヨシュアもそうです。ダビデについては言うまでもありません。若き日の彼らの活躍が聖書に記録されています。新約の時代に入っても、12人の弟子たちも若い時代に召された者たちばかりですし、パウロもテモテも若い時にイエスとの出会いを経験した者たちばかりです。
しかし一方でまた聖書は実に多くの重要な場所で老人を描いていることも否定できません。洪水の直前に選ばれたのは既に年老いたノアでした。アブラハムとサラが祝福を受け、約束の子イサクを授かったのは夫婦ともに老人になってからです。
少年ダビデを見いだし、将来必ずイスラエルの王になるべき器として油を注いだのは、既に年老いた預言者サムエルです。新約の時代に至っては、幼子イエスの誕生を喜ぶ輪の中にはザカリアとエリサベトの老夫婦がおり、年を重ねたシメオンやアンナもイエスの誕生を祝福している姿が出て来ます。
私たちカンバーランド長老教会は長老派の教会ですが、私たちの教会における「長老」の職務は、特に初代教会の時代から尊ばれ、その職務に就く人を敬うという伝統がありました。「長老」とはギリシャ語で「プレスビテロス」という言葉ですが、それは単に「歳を重ねた者」というだけではなく、信仰の年輪を刻み、信仰の経験を深めている者を呼ぶ呼び名であったことは間違いないようなのです。
さらにこの「長老」という言葉が出てくる箇所を調べれば、「町ごとに長老たちを立ててもらうためです」(テトス1:5)とか「弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し」(使徒14:23)などの聖句があり、こうした聖句を通して教えられることとは、牧師や伝道者の主なる務めが、実に町々に長老を立て、そのようにして教会という信仰共同体を形成することにあったことが分かるのです。
教会は、「天国は幼子のような者の国だ」と、幼児性の大切さを教えられつつ、同時にもう一方で、教会とは長老を敬うことによって成り立つ共同体であるということを、聖書は明確に説いているように思います。パウロもコリントに宛てた手紙で、「悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。」(Ⅰコリント14:20)と勧めています。さらに「信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります」(Ⅰコリント2:6)と言って、歳を重ねるということは「信仰に成熟」していく道を進むことなのだと教えるのです。
このような聖書の教えの中に、私たち信仰者が歳を重ねていくことの意味や目的が教えられているように思うのです。
Ⅲ.聖書における歳をとることの意味
ところで、ここで1つ考えてみたいことがあります。それは、歳を重ねることが、信仰に成熟していく道だとしても、それがなぜ一足飛びに実現するのでなく、1年1年というプロセスを経ながら起こって来ることなのかという点です。
この問いかけに対する結論から言うならば、それは私たちの主イエスさまご自身が、この地上において1年1年と歳を加えて歩んでいかれたから。それがイエスさまの歩まれ方だったからだ、というのが聖書の答えです。
例えばヘブライ人への手紙5章8節に、イエスさまが地上での年月を歩まれたことの意義を示す御言葉が出て来ます。「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」。こうした聖句を読む時に、そこにはイエスさまが一瞬に、あるいは一足飛びにではなく、日々、あるいは1年1年というプロセスを経ながらその歩みを深めて行かれた様子が出て来ているように思います。
つまり、イエスさまは年齢を増しつつ、「多くの苦しみによって従順を学ばれ」た。それも十字架に至るまで従順を学び通されたわけです。ですから、ある人が語っていましたが、イエスさまのご生涯、イエスさまの人生は、クリスマスから一気に十字架に飛躍するのではなく、そこには1日1日、1月1月、1年1年という、年月を刻みつつ深まっていくご生涯があったのです。そして、イエスさまにあってもそうだったとすれば、私たちの人生も、このプロセスを経ての成熟ということが当てはまるのではないか、ということなのです。
Ⅳ.「今」と「そのとき」の間をキリストに倣って生きる
そのようにしてイエスさまに倣う私たちの歳の取り方について、いや、歳を重ねていく意味について、ある人の表現、「1年1年と年月をかけながら一生を通してする仕事」を借りるならば、それについて、使徒パウロは、次のように言い表わしているのです。それが今日お読みしました、コリントの信徒への手紙第2の3章18節に出てくる教えです。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:18)
ここでパウロは、「1年1年と年月をかけながら一生を通してする仕事、神さまから与えられている仕事・務め」とは、「主と同じ姿に造りかえられていくこと」だ、と語っているのです。
そうです! 年月をかけて、キリストに似た私へと変えられていくこと、それが歳を重ねていくことの意味であり、私たち1人ひとりに神さまから与えられている、一生を通して取り組むべき仕事なのです。
繰り返しますが、信仰は一度に完成するのではなく、1日1日、1年1年、イエスさまと共に歩む歩みを通しながら、イエスさまに学び、イエスさまに支えられて取り組んでいくのです。
有名なイザヤ書46章4節に「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」とありますように、場合によっては、イエスさまにおんぶしていただきながら、キリストに似た者へと成長させていただく、それが、私たちが1年ごとに歳を重ねていくことの目標なのです。使徒パウロは、そのプロセスを次のように教えています。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」(Ⅰコリント13:12)。
パウロは、ここで「今」と「そのとき」と2つの時を表わす言葉を使っています。パウロによれば、まさに私たちは、この「今」と「そのとき」の間の一瞬一瞬、1日1日、1年1年を生きているのです。そして、「今」私たちは神さまに愛され、神さまに知られていて、そこには喜びや成功や勝利もあるかもしれませんが、それと同じくらい失敗や恐れや悩み、不安もあります。そうしたときは、例えてみれば、絨毯の裏側から眺めているようで、1つひとつの出来事の意味も分からず、それがどこにつながるかも分からずに、不安や心配の心が募ります。
しかしパウロが言う「そのとき」が来ると、それまでは鏡におぼろに映ったようなもの、一部しか分からないようなものも、その時には、はっきりと知るようになるというのです。
神さまの用意されたご計画、神さまが書いてくださった「シナリオ」の素晴らしさ、豊かさに震えるような感激、感動をもって感謝する時が必ず来る。
まさに、そのようなプロセスを経て、私たちは、神さまの愛の中で、キリストに似た私たちへと造りかえられているのです。このことこそ、私たち、信仰を持つ者たちに与えられている、歳をとることの意味、歳を重ねることの目標なのです。
そのような意味で、クリスチャンは、召されるその時まで、生涯現役なのです。今日も明日もキリストに従い、キリストに倣って歩んで行きたい。そのようにして、キリストに似た私へと、日々、導いていただきたいと願います。お祈りいたします。