2017年9月17日
敬老感謝礼拝
松本雅弘牧師
イザヤ書43章1~5節前半
フィリピの信徒への手紙1章3~11節
Ⅰ.敬老感謝礼拝の意義
高座教会では、75歳以上の、信仰の先輩、人生の先輩の方々を守り、導き、祝してくださる神さまを礼拝し、また、これからもお一人ひとりに祝福があるようにと願って敬老感謝礼拝を行なっています。今日はその敬老感謝礼拝です。
ある時、イエスの母マリアと兄弟たちが、主イエスを呼びにやって来ました。大勢の人たちが集まっていましたので、すぐに会うことができません。そのために近くにいた人に呼びに行ってもらいました。頼まれた人はイエスさまにそのことを伝えます。するとイエスさまは「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか。・・見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と言われたのです。「神の御心」とは、人がイエスさまを信じ従うようになることです。そうした「神の御心を行う人」が、自分にとってお母さんであり兄弟なのだと、イエスさまは大切な真理をお話しされました。
ですから、イエスさまの教えによるならば、キリストを信じる者同士は、血縁の家族を超えて、霊で結ばれた神の家族の一員になったということです。今日の週報にお名前が掲載されている方々は、私たちにとってのお父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃん、ということになるでしょう。そして、こうしてお祝いできますことを、本当に嬉しく思うのです。
私は牧師をしていますので、色々な機会に教会員の方たちの「家族の物語」を聞く機会に恵まれています。そして「家族の物語」は、主にある物語でもあるわけですから、必ず「神の家族の物語」につながり「聖書の物語」と響き合うのです。
聖書には、年を重ねることに関する示唆深い言葉がたくさんあります。その1つが、箴言16章31節です。「白髪は輝く冠、神に従う道に見出される」。またレビ記19章32節には、「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である」とあり、聖書は、高齢者に対する固有の美しさや価値を語っています。
聖書が教えていることで、特に心に留めたいこと、それは、人生には四季があり、四季にふさわしい生き方があるという教えです。
Ⅱ.賛美することは、私の生きる力
さて、今日も私たちは、キリストの復活を記念する「主の日」に集い、神さまをあがめ、「私たちが信じ従う神さまは、このようなお方なのだ」と確信して、新しい1週間の歩みを始めます。このようにして、健康が守られ、ゆるされて主の日の礼拝に集うことが出来る、これは、どんなに豊かな恵みかと思います。
聖書の詩編には、「神をほめたたえなさい!」とか、「神さまを礼拝しなさい!」という勧めの言葉が多くあります。それは、神さまが礼拝されるにふさわしいお方であると同時に、「主をあがめ、賛美することが、私たちの生きる力になる」からです。
イエスさまと3年間寝食を共にしたペトロは、「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけてくださるからです」と勧めています。
私たちは、1週間の最初の日に、こうして神さまの御前に礼拝をささげるために集うこと、そして、日々の生活のどこかで、神さまの前に静まって、神さまはいったいどのようなお方で、今、自分が抱えている問題、直面している困難や課題にどう関わってくださるお方なのかを思い巡らすこと、そして、神さまをあがめ、賛美をささげることを大切にしていきます。
それがペトロの教える、「神の力強い御手の下に自分を低くし、思い煩いを何もかも神さまにお任せする」ということです。何故、お任せできるのでしょう。それは、私たちの神さまが、私たちのことを心にかけてくださるお方だからです。
Ⅲ.神はどのようなお方? その神にとって私はどのような存在?
2つ目のことに移りたいと思います。聖書は、神さまがどのようなお方なのか、神さまにとって私たち一人ひとりはどのような存在なのかについて教えています。
今日、お読みしたイザヤ書は、神さまのことを「あなたを創造された主」、「あなたを造られた主」と呼んでいます。そして、そのお方は、私たちの名前を呼んでくださり、また「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる」、だから、「大河の中を通っても、あなたは押し流されない」し、また、そのお方が共にいてくださるが故に、「火の中を歩いても、焼かれ」ることはなく、「炎はあなたに燃えつかない」とあります。このようなお方が、私たちの主なる神さまです。
今日は敬老感謝礼拝ですから、75歳以上の兄弟姉妹が多く集まっておられます。今年の名簿には新たに22名の方たちが加わりました。
人生の先輩のお一人ひとりが、これまでの歩みを振り返る時に、水の中を通るような経験、また火の中を通るような経験を味わってきたという方もおられることでしょう。いや、先輩だけでなく、どの年齢の人にとっても、日々の生活の中で、私たちは、水の中や火の中を通るような出来事に遭遇ことがあるかもしれません。そうした難しい出来事に遭遇すると、当然、恐れをなし、尻込みしてしまうのが私たちです。そして、その季節にふさわしい生き方をするようにと言われても、そうできない。あるいはできてこなかったかもしれません。しかし神さまは、そうした私たちに対して「恐れるな。恐れることはない。私はあなたを離れることなく、いつも共にいるのだから。そして救い出すのだから」と言われるのです。
今日のイザヤ書の御言葉は、そのような意味で、とても励ましに満ちた聖書の箇所ではないでしょうか。イザヤ書43章のこの御言葉は、神さまがどのようなお方なのか、また神さまにとって私たち一人ひとりはどのような存在なのかについて教えています。そのことが4節によく表現されています。この個所を、新改訳聖書は次のように訳しています。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
神さまはこの私をご覧になり、「あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言われます。どれほど愛しているかと言えば、「だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ」。それほど愛しているというのです。
もし、この事実を私たちの心の深いところで悟り、常に受け止めることができたら、どんなに心安らかでしょう。
そして、どうでしょう。事柄に着手されるお方は、事柄を完成されるお方でもある、と聖書は教えています。創造者なる神は、被造物を完成へと導かれる御意思と御力を持ったお方なのです。ですから、私たちは、このお方に、安心して私の今を、これからのこと、私の家族のこと、仕事のこと、子どもたちのこと、1つひとつを委ねることができるのです。
Ⅳ.人生を完成へと導かれる神
聖書は、私たちに「人生の諸段階」、もしくは「時期」にあった生き方があるのだと教えているということをお話させていただきました。
今、自らの歩みを振り返ってみる時、私たちは、「春」になすべきことが出来ずにいたために、その「しわ寄せ」が「夏」に持ち越され、そして「秋」へと引き継がれ、今がある。まさに「蒔いた種の刈り入れ」をすることがたくさんあるのではないでしょうか。
しかし、どうでしょう。私たちの神さまは創造主なるお方です。事を始めると共に、事を完成へと導いてくださる意思と力をお持ちのお方である、ということです。
私たちは不完全で、種まきも、刈り入れも、その働きそのものが人生の諸段階で十分には出来ていないという負い目を持っております。しかし、創造主なるそのお方は私たちを造り、そして完成へと導いておられるお方であります。
フィリピの信徒への手紙1章6節に次のような言葉がありました。
「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」
時として、私たちは、自分の人生に納得いかないこと、あるいは、現実の年齢を受け入れることに困難さを覚えることなどがあるのではないでしょうか。
しかし、私たちは主にあっていつしか完成される、「工事中」、「プロセス途中」のものであるということ。そして、完成してくださる、創造者なる神さまが、共におられることを信じたいと思うのです。
この恵みの中に生かされていることを覚えつつ、一つの区切りとして、75歳を迎えられた方々の上に、主からの祝福を祈り求めたいと思います。
お祈りします。